汝は今、アプリオリな汝のみに帰った。
 さあ、気付かれぬようにそっと、定義を変えよう――。


    ###Qz42=無限


 キュアハートの鼻腔に、複数のヒグマのたおやかな獣臭が広がる。
 目に映る視野には一面、苔と岩で形作られた武骨で繊細な空間がある。
 研ぎ澄まされた聴覚には、ヒグマたちの息づかい、談笑。
 肌には涼やかな地下の湿り気がそよぐ。
 ――そしてそっと、舌舐めずり。


「こんにちは~! すごいね、ここ、食べ物屋さんもあるんだ!!」
「あ、いらっしゃいませ……って、人間の方ですか!? どうしてヒグマ帝国に!?」


 ヒグマ帝国に来襲したキュアハートがまず降りたつのは、芳しい熊汁の湯気をくゆらせている屋台の前だった。
 そこでまず『灰熊飯店』の店先で調理をしていた、田所恵が彼女に気付く。
 田所恵の驚きをよそに、キュアハートは満面の笑顔のまま、鼻腔の奥に美味しそうな香りを存分に吸い込んでいた。


「ん~♪ いい匂いだね~! すっごく美味しそう!!」
「あ、あの、周りにヒグマさんがいるんですけど!! 危ないですよ!? 今すぐ逃げて!!」

 慌てふためく田所恵の声に、店内で麻婆熊汁を啜っていた3頭のヒグマが顔を上げる。
 周囲からはキュアハートの体臭を嗅ぎ付け、多数のヒグマが、なんだなんだと寄り集まってきていた。
 給仕をしていたグリズリーマザーも慌てて駆け戻ってくる。

「お客さん! ちょっと、笑ってる場合じゃないですよ!!」
「これはもう立食パーティーだね~、いただきま~す!!」


 周りを囲むヒグマたちを一瞥しても、その笑みは翳るどころか一層深くなったかのように見える。
 キュアハートは田所恵たちの指摘を意に介さず、無造作に調理台の奥に向けて手を伸ばしていた。


「あ……れ……?」
「田所さん……!?」
「うわ~すっごい!! あなたのハート、すっごくピュアで美味しいよ! 流石料理人さんだね!!」


 真正面にいた田所恵の胸から、あたかも生簀から伊勢海老でも掴みだすかのような簡単さで、心臓が抜き取られていた。
 大動脈の断端に口づけして、どくどくと溢れくる鮮血をキュアハートは艶めかしい表情で啜った。

 田所恵は、自分の身に何が起こったかを理解する間もなく、絶命する。
 トサッ、とグリズリーマザーの青い毛並みに、軽くなった彼女の体が倒れ掛かった。


「田所さぁあああああああん!!」
「次はあなただよ♪」


 一瞬にして料理長が息絶えた衝撃に、グリズリーマザーはキュアハートの攻撃を意識することすらできなかった。
 調理台を踏み台にして飛び掛かったキュアハートは、そのまま手刀で一撃のもとに彼女の首を斬り落とす。


「お、おい! 屋台の女将さんが殺されたぞ! なんだあの人間!?」
「ん~、沢山あって、誰から食べてあげようか迷うなぁ~♪」


 そして、背の羽を打ち振って飛び立ったキュアハートは、周りを取り囲んでいたヒグマたちを、一陣の風の如く惨殺した。
 心臓を抉られるもの、胴体を両断されるもの、頭蓋を粉砕されるもの。
 キュアハートが屋台の前に着地した時には、ヒグマたちは一匹残らず、とても鮮やかな赤い料理となっていた。


「よし、取り敢えずキープはしたから、ゆっくり食べようっと~」
「『ラビットボール』ッ!!」
「わぷっ!?」


 返り血に塗れた笑顔で満足気に辺りを見回していたキュアハートへ、突如、超高速で麻婆熊汁のどんぶりが投げつけられていた。
 キュアハートの顔面に炸裂したその一撃は、常人ならば頭が爆ぜ、ヒグマでも首の骨が折れるかもしれないほどの威力に思える。
 しかし、キュアハートは、激辛のその汁に咳き込むのみで、砕け散ったどんぶりを一瞥して平然としている。


「かっら~ぁ。なにこれ。食べていいものじゃないんじゃないかな~?」
「……この球速で通じないだと……!?」
「グリズリーマザー!? おい、しっかりしてよぉ!?」
「慌てるな少女よ……! 宝具だ。宝具があるはずだろう!!」



 屋台のテラス席に座っていた3頭のヒグマが、キュアハートに対峙していた。
 熊汁の丼を投げつけたピンク色のヒグマが、歯を噛み締めて次の器を掴み、投擲の構えを取る。

「おおおおっ!! 『スケ……』――」
「もぉ~、そのお料理はやめてよ」

 しかし、そのヒグマが次なる一投を放とうとした瞬間、キュアハートの指先から何かが弾丸の如く射出された。
 その一撃は、ヒグマの胸を一瞬のうちに貫いて地面に突き刺さる。
 先程砕けたどんぶりの破片だった。
 キュアハートはそれを、でこぴんの要領で弾いたのである。
 ピンクのヒグマは頭上に構えていた器を取り落とし、力なく地面に崩れ落ち、死んだ。


「ガァアアアアッ!!」
「おおっと」


 しかしその直後、キュアハートの背後から風を裂いて、ヒグマの爪が振り下ろされていた。
 すんでのところでその気配を察知して躱したキュアハートが振り向けば、そこには先程首を刎ねたはずのグリズリーマザーが、眼を怒らせて立ちはだかっていた。

「へぇ~、何かの手品? 面白いね!」
「……あんたは、殺す」
「グ、グリズリーマザァッ!! 頼む、やっつけて、やっつけてくれぇっ!!」
「ここはサーヴァントを信じろ!! 我々は逃げるぞ!!」
「え~、逃げないでよ」

 泣きながらグリズリーマザーに声援を送っていたヒグマは、次の瞬間、先程のヒグマと同じ閃光に貫かれていた。
 キュアハートの顔面に砕け散った陶器の破片は、別に一つではない。
 泣き腫らした眼で、穴の開いた自分の胸元を見たそのヒグマは、ゆっくりと前に倒れて、死んだ。


「マ、マスター……!? マスタァアアアアアッ!!」
「あなたの爪、すごくキラキラしてたけど。残念♪
 まず先に、ここのみんなに愛を教えてあげないといけないからね」
「あ、あああっ、ああああああっ――」


 グリズリーマザーの青い体は、微笑むキュアハートの目の前で、維持する魔力が散逸し、次第に薄くなって消滅した。
 だが、その意識の隙に間髪入れず、キュアハートの懐に潜り込んできた影がある。


「吩ッ!!」


 低い声で叫んだヒグマの拳が、キュアハートの下顎を粉砕せんばかりの速度で捉え、そのまま天上の岩盤に向けて打ち上げる。
 八大招・立地通天炮。
 地響きを起こす震脚の音と共に、キュアハートは天井に頭部を突き刺し、ぶらぶらと力なく揺れるだけの存在になっていた。
 ヒグマはその動きを暫し確認し、地面にへたりこむ。

「……くそっ。少年も、少女も、殺されてしまうなど……。あの容姿に油断していた……!」

 項垂れるそのヒグマの頭上で、その時ふと、もぞもぞという衣擦れの音がした。
 彼が見上げると、キュアハートが、突き刺さった頭を岩盤から引き抜いて、にっこりと笑みを浮かべていた。



「あたたたた……。びっくりしたぁ! ちょっと気を失っちゃったよ」
「なっ……」

 瞬間、天井を蹴って落下したキュアハートの拳が、返礼とばかりにヒグマの頭部へ襲い掛かる。
 構えを取ろうにも躱そうにも、間に合う速度ではなかった。


 ――体機能強化。反射加速。右手屈筋、二頭筋、回内筋の瞬発力増幅……!!


 だが、その落雷のような襲撃を、そのヒグマは生物に非ざるような身のこなしで受けた。
 中国拳法の『纏』の動きにより、右腕全体に回転を与え、キュアハートの攻撃を受け流す。
 拳がぶつかり合い、キュアハートの細く白い腕が、圧倒的に太く力強いはずのヒグマの腕を、紙細工のように引き裂いてゆく。
 ヒグマは、手骨、尺骨、橈骨、上腕骨が粉々に砕かれてゆく痛みに耐えながらも、その高速の一撃を完全に流すことに成功した。


「ぅおおおおおおおおっ!!!」
「あれ、避けられちゃった」


 仕留められなかったことが予想外だという面持ちで着地したキュアハートの背後から、勢いよく立ち上がったヒグマが躍りかかった。

 無事な左拳に全身全霊の力をこめて踏み込む。
 驚いた顔で振り向くキュアハートの胸骨と心臓を砕くのに必要な動作はわずか半歩。
 先程の立地通天炮を上回る速度と震脚が、その拳一点に集束して叩き付けられた。

 ――金剛八式・衝捶。

 だが、その渾身の拳は、差し出されたキュアハートの掌に、難なく受け止められていた。
 エネルギー保存則を無視しているようなその柔らかい緩衝の後、そのヒグマの拳は彼女の握力により容赦なく握り潰される。


「ご、あああああっ!?」
「面白いね~、そういう動きすると、力が出るの?」


 キュアハートが、掴んだヒグマの胸に拳を叩き込んでいた。
 彼女の震脚で、地面には大きなひびが入る。
 心臓を掴みだされ、眼から光の消えてゆくそのヒグマは、最期に、恨めしそうな眼差しで、一言だけ吐き捨てた。


「……化け物め」


 キュアハートの腕が抜き去られると、彼は口と胸から血を迸らせ、死んだ。
 彼の心臓を、血塗れの口で恍惚と咀嚼しながら、キュアハートは笑う。


「私は化け物じゃないよ。プリキュアだよ」


    ###Qz42=無限


 屋台前で殺戮した人間とヒグマたちを平らげて、キュアハートは地下階層にやってきていた。
 浴びた返り血も舐めとり、洗い流して、気分もスッキリとしている。
 示現エンジンの管理室の扉は開け放たれており、中には2頭のヒグマと2人の人間がいた。

「……はぁ。『闖入者』への対処? 有冨さんはどうしたの」
「有冨さんも忙しくてなぁ。まぁなんだ。俺たちが代理で頼みに来てんだわ」
「まぁ灰色熊はわかるけど……。そこの頭に鉄リング乗せたヒグマは誰? そしてなんで間桐さんがいるの?」
『灰色熊さん、ちゃんと説明してあげてくださいよ!』
「いや、ひまわりちゃん、今は研究所の皆で対処しないとまずい場面なんだ。どうも、すごくやばいヤツがここに襲撃してきたらしい。疑問はもっともだけど、押して協力してくれないか?」
「……はぁ。嘘をつくにしても流石に状況設定が不自然じゃないの、間桐さん?」
「そんなこと突っ込まなくていいんだよ! 俺たちが何してようが闖入者は知ったこっちゃないんだから!」

 話に夢中になっていて、4名は、キュアハートがにこやかに近寄って来ていることに気が付かなかった。
 キュアハートは、そんな彼らの輪の中心に潜り込んで、元気よく自己紹介をする。


「みなぎる愛! キュアハート!! みんな、よろしくね!!」
「……?」
『?』
「?」
「ヒィッ!?」


 次の瞬間、回転しながらうち開かれたキュアハートの両腕が、かまいたちを伴って、半径2mの空間を水平に分断する。

 突如現れた謎の少女の行動に唯一反応できたのは、意外にも半身不随の間桐雁夜だった。
 尻餅をついて倒れ込んだ彼以外の3名は、めいめいその胸板に、強烈な手刀を喰らわされていた。



 管理コンピューターの前に座っていた四宮ひまわりは、そのモニターと共に、上半身と下半身が泣き別れになる。
 ずるりと肺の切断面を滑りながら、彼女は口元から赤いあぶくを吹き出して死んだ。
 キングヒグマも同様である。
 彼は絶命する間際、かろうじてキュアハートを敵だと認識し、その腕を振り上げかけたが、その爪はキュアハートに傷一つ与えることなく地に落ち、二度と動くことはなかった。

「――ぬぐおっ!?」

 その出会い頭の一撃に耐えられたのは、身体に岩石の結晶構造を固溶していた灰色熊のみである。
 たたらを踏んで後退した彼に、地に這いつくばる間桐雁夜から、悲痛な叫びがかかる。


「こ、こいつ、全てのステータスがAランク越えだッ!! 狂ってる!!」
「……なるほどな。カカァがやられるわけだ」


 未だ第四次聖杯戦争のマスター権を失っていない間桐雁夜は、その目で、サーヴァントやそれに類するものの実力を視認する能力を授かっている。
 この少女の外見に見合わぬ恐ろしい戦闘力と危険性を直感的に察知し、彼は難を逃れたのだった。
 灰色熊は妻の仇が目の前のキュアハートであることを認識し、狂乱した獣のような笑みを見せる。


「愛をなくした悲しいお兄さんたち。このキュアハートがあなたのドキドキ、取り戻してみせる!!」
「……俺のカカァと恵ちゃん殺しておいてよくそんな頭湧いたこと言えんなァ!!」
「貴様みたいな危険思想の奴がいるから、桜ちゃんは不幸になったんだぞ!?」


 灰色熊と間桐雁夜の怒りは、キュアハートの微笑みにそよ風のように流された。
 笑顔で突き出されるキュアハートの拳が、まず身動きの取り難い間桐雁夜の体に迫る。
 刻印虫を吐き戻したバケツを取ろうともがく間桐雁夜は、彼女の一挙動の踏み込みに対応できなかった。

 だがその瞬間、彼女に突如、予想外の現象が発生する。


「あいっ――……?」


 羽を用いて高速で接近していたその体のバランスが、急に崩れた。
 右半身に力が入らない。
 腕も、脚も、翼も、笑顔を作っていたはずの口元ですら、痺れて動かなくなっていた。
 キュアハートは間桐雁夜の上を通り過ぎて転げ、管理室の床に倒れた。


 TIA(一過性脳虚血発作)である。


 キングヒグマは絶命の瞬間、キュアハートに向けて、僅かながらにも己の能力を行使できていた。
 至る所に存在する生活常在菌であるカビの一種、『アスペルギルス』を彼女の口腔の中に増殖させ、無理な食人で発生した彼女の口内の傷から、血管内に侵入させる。
 血中で微細な血栓を形成したそれらは、脳血管に飛んで動脈を一時的に閉塞させ、右半身の運動を司る領域を虚血状態に陥らせていた。


「ゴァアッ!!」
「がっはぁ――!?」


 倒れ伏すキュアハートの脇腹に、灰色熊の前蹴りがまともに入った。
 そのまま灰色熊は、間桐雁夜が取ろうとしていたバケツを掴んで抱え上げる。

「おい、これがあればいいんだな!?」
「ああ、あいつに、投げつけてくれ!!」
「ガァッ!!」

 管理室の壁面にはりつけになるほど叩き付けられたキュアハートの顔面へ、灰色熊が放った大量の刻印虫が食らいつく。
 瞬間、間桐雁夜の皮下で全身の擬似魔力回路が励起した。
 蠢動する刻印虫に身を喰われながら、間桐雁夜は血反吐と共に全身の魔力を振り絞る。


「虫どもよぉおおお!! そいつを、喰い殺せぇえええっ!!!」
「あっ――んんっ――」


 身動きの取れないキュアハートを、体表から喰らい始める大量の刻印虫に、彼女は壁で嗚咽の声を上げた。
 肩で息をする間桐雁夜は、憤怒を漲らせた眼差しで、地に伏しながらなおもその魔力を迸らせる。


「俺を、そして桜ちゃんを苛む、臓硯謹製の虫だ!! 苦しめ! もがけ!
 貴様らの身勝手な思いが、どれだけ他人を痛めつけたのかその身で知り、後悔しながら悶え死ね!!」
「んううぅうっ――!?」



 キュアハートに群がる刻印虫は、彼女を体内から食い破らんと、一斉にその口腔に殺到した。
 粘液に塗れた大量の芋虫を嚥下し続ける彼女の眼は白目を剥き、そして最後の一匹がその唇の奥に潜り込んだ時、キュアハートは痙攣と共に床へ倒れた。
 静謐を取り戻した管理室の床に、静かに水たまりが広がってゆく。
 瞠目して痙攣を続ける彼女の眼から、口から、スカートの下から、体液が溢れ出していた。


「――仕留めたのか?」
「……ああ。俺は勿論、桜ちゃんも虫蔵に入った初日は死にかけた。耐えられる訳がない」

 間桐雁夜を助け起こそうと彼に近寄る灰色熊の耳にしかし、その時思いもかけぬ吐息が聞こえていた。


「あはぁ――」


 痙攣するキュアハートの口から、そんな華やかな息が漏れる。


「――美味しい」


 驚愕に動けぬ灰色熊と間桐雁夜の目の前で、彼女は起き上がり小法師のような不気味な動作で屹立した。
 艶めかしく上気した表情で舌なめずりをしながら、彼女は間桐雁夜に語り掛ける。

「アーイイ……イイよぉ……。美味しすぎて絶頂しちゃいそう♪
 こんな虫さんを食べてるあなたや桜ちゃんって子は、最高に幸せなんだねぇ」
「――ッ!?」


 雁夜が、もし間桐臓硯のような魔力と研鑽を積んだ熟練の魔術師であれば、この好機に、あわやキュアハートを間桐桜のように籠絡できていたかもしれない。
 しかし、一度は自身の家門を捨てた間桐雁夜に、そこまで虫を自在に操る能力はなかった。
 彼女の飲み下した刻印虫は、全てその嚥下の前に咀嚼され、殺滅されていた。

 そしてもはや、キュアハートの脳動脈を塞栓させていたキングヒグマの最後の血栓も、線溶され跳び去っている。
 彼女は再び、万全の状態に戻っていた。


「……ねぇ、もっとちょうだい?」


 艶やかに呟かれた声を間桐雁夜が聞いた直後、彼はキュアハートにその唇を奪われていた。
 そして唇ごと、高速で飛来したキュアハートの牙が、彼の首を捩じ切って過ぎ去って行った。


「ぐぉおお――!?」
「あはっ♪ お兄さん、お顔の裏まで虫でいっぱい♪ ちゅるちゅる踊り食いだぁ~」
「ぅるぅぅ――ガァアアアアアアッ!!!」


 通りすがりの手刀に胸元の毛皮を抉られた灰色熊の前で、キュアハートは雁夜の頭蓋を弄びながら、にこやかにそれを喰らう。
 灰色熊は、その彼女へと、狂乱したように飛び掛かっていた。


「あはぁ~、ヒグマさん、かたぁい♪ ワザマエだね♪」
「なん、だっ、このガキの、硬さはっ!?」


 しかし、並のヒグマとは比べ物にならない硬度を持つはずの灰色熊の打撃に、キュアハートは難なく応じていた。
 双方が殴り合う攻撃は、互いの皮下に届かず、決定打を与えることができない。
 キュアハートはその拳打の雨の隙を縫い、地を蹴って後方に翻った。
 にこやかな微笑みと共に、彼女は両手でハートのマークを形作って見せる。
 キュアハートの衣装の胸で、ハート型のブローチが輝いた。


「じゃあヒグマさんには、この技をあげるね。えへへ、実はこの島に来てから使うの初めてなんだ~♪」
「なっ――」
「あなたに届け! 『マイスイートハート』ッ!!」


 そのピンク色の光線が灰色熊の体を抉るのは、彼が地盤に溶け込んで逃れようとする動作よりも早かった。
 キュアハートの胸から射られた光に体の大半を食いちぎられ、灰色熊の体は三日月のように、胴部を僅かな皮一枚で繋いでいるのみの姿になっていた。
 そして彼は風化した大理石の柱のように、中央から二つ折りに崩れ落ちる。


「……そんな血の色のハート、誰の心にも届かねぇよ」


 全身が灰色の石膏のようになりひび割れてゆく灰色熊の頭部を、キュアハートはにこやかに踏み壊した。


「そんなことないよ? 誰の心にも、愛はあるんだもん!」


    ###Qz42=無限



 示現エンジン管理室で殺戮した人間とヒグマたちを平らげて、キュアハートは地底湖の方にやってきていた。
 溢れた体液や虫の残骸も舐めとり、洗い流して、気分もスッキリとしている。
 地底湖では丁度、バタフライをするヒグマと、船の装備を背負った少女が競走をしていた。


「あははっ、ヒグマさんおっそ~い」
「楽しそうだね~! 私も混ぜて~!」
「オゥッ?」


 競走のルールもへったくれもなく、彼女たちの走行方向の真正面から飛来したキュアハートは、少女とヒグマの心臓部を通りすがりに食いちぎって行く。
 キュアハートの体に胴のど真ん中を貫かれた少女とヒグマは、一瞬のうちに轟沈していた。


「やっぱり、みんなで走ると楽しいね~!」
「Scheisse!! あの忌々しい複葉機を思い出すわッ、貴様が敵艦かぁ!!」
「ん~?」


 地底湖に集まる多数のヒグマのどよめきの中を飛び回っていたキュアハートに、眼下から鋭い怒声が届いていた。
 先程の少女よりも大ぶりの艤装を背負った少女が、金色の長髪を振り立たせて、巨大な砲門を構えている。
 その砲の先端には、何か巨大なエネルギーのようなものが収束していくようだった。


「Feu……!?」
「これって速さ比べだよね?」

 だが、キュアハートは、少女が砲撃を開始する前に、その目の前に降り立ち、胸部装甲を貫いて彼女の心臓部を握り潰していた。

「う……そ……?」
「え? うそじゃないでしょ。だってさっきの子はかけっこしてたよ?」
「……確かに」

 真顔で返されたキュアハートの言葉に、超弩級戦艦の少女は、一度首肯して轟沈した。


 艦娘たちが倒されて、その場に集っていた艦これ勢のヒグマたちは、恐怖と混乱の渦に飲み込まれていた。
 頭に軍帽を乗せたヒグマが、その混乱を収拾すべく声を張り上げる。


「だ、大丈夫だっ!! 今、工場で解体ヒグマからの資材を使って新たな戦艦を作ってる!!
 私は艦娘を建造できた唯一のヒグマだ! 切れ者だし、キングから信頼もされてる!
 侵入者からも守り切って見せる!! 安心しろぉ!!」
「キングって、あの鉄の冠かぶったヒグマさん? もう食べちゃったよ?」


 そのヒグマ提督の前に、満面の笑みのキュアハートが降り立っていた。
 笑顔で告げられた事実に、ヒグマ提督の思考は停止した。

 わなわなと脚を震わせるのみの提督の前で、キュアハートは逃げ惑うヒグマたちを見回す。

「うーんと、流石にこれだけの数があったら、回って食べるのも一苦労だよね。よ~っし」
「な、何を……」

 キュアハートは、マジカルラブリーパッドを取り出して起動させる。
 すると一斉に、ヒグマ提督を含む周囲のヒグマの心臓が、弾けて体外に飛び出した。


「ぐ……ぁ……」
「集合!」


 胸から真っ赤な花を咲かせて死んで行く数多のヒグマたちを他所に、キュアハートは花びらを振りまくかのように、合わせた手を頭上に向けて勢いよく開き、掲げる。
 無数のヒグマの心臓は、元クッキー製造工場だった艦娘の工廠に殺到し、一つの巨大なハートマークに合体した。


「『ハートダイナマイト』!!」


 そして、艦娘を作っていたらしいその工場は、大爆発を起こして四散した。
 キュアハートはそうしてできたクレーターの上に降り立ち、満足げに笑う。
 地底湖周辺は一面、ヒグマたちの胸から粗雑に咲く、真っ赤な花弁の海に変貌していた。



「う~ん、流石ヒグマさんたちのプシュケーだね~! すっごい綺麗~!」


 地底湖へシロクマとシバが駆けつけてきたのは、ちょうどそのタイミングだった。
 オーバーボディを脱いだスーツ姿のシバは、その眼でキュアハートの後ろ姿を見るや、驚愕に身を竦ませる。

「え、この、女の子が、闖入者……?」
「シロクマさん、前に出るなッ!! こいつの魔法特性は、一体……!?」

 シバの『精霊の眼(エレメンタル・サイト)』は、ただでさえ強いサイオン波を渦巻かせているその少女の周囲に、彼女の体に喰い込むように浸食している何らかの凶悪な魔法式のようなものを見ていた。


 ――俺の眼でも解析が困難……、ならばここは『術式解体(グラム・デモリッション)』をぶつける!


 シバの腕から、圧縮されたサイオンの塊が射出された。
 対象物にサイオンを直接ぶつけて爆発させ、そこに付け加えられた起動式や魔法式と言ったサイオン情報体を無差別に吹き飛ばす、言わばサイオンの砲弾とも言える超高等対抗魔法であった。

 瞬間、後ろを向いていたはずのキュアハートが、シロクマとシバの方へ不気味な角度をつけて振り向く。
 体を弓なりに反らして笑みを浮かべる彼女の口が、シバが打ち出したサイオンの閃きを『飲み込んだ』。
 キュアハートを取り巻くサイオン波が、無系統魔法であるシバの攻撃を緩衝し、自分の魔法式として逆に取り込んでしまう。
 シバの放つ渾身の閃光さえも彼女には意味の外であり、シバとシロクマにとって彼女の行動速度は認識の埒外であった。
 バンディット=サンのニンジャソウルにより、常プリキュアや常ヒグマの3倍近い身体能力を得ているキュアハート=サンにとっては、その程度のことはチャメシ・インシデントであるのだが。


「なぁっ――」
「きゅんきゅんするパワーだねっ! 素敵っ♪」


 キュアハートは、そのままアクロバティックな後方伸身宙返りでシロクマとシバの元に迫ってきていた。
 生物の反応速度に潜り込む華麗な速さで、2分の5ひねりを加えて飛び上がった彼女の蹴撃が、シロクマの頭部を首から斬り飛ばす。
 シロクマの巨大なオーバーボディの切断面から弾けた長い黒髪に、シバの瞳は吸い込まれていた。
 たった一つ彼に残った記憶の欠片が、その光景に呼応する。


「シロ……ク――?」


 自分の前で崩れ落ちてゆく彼女の後ろ姿に釘づけられたシバは、シロクマを蹴った勢いのままに空を滑り来るキュアハートを、全く意識の中に置いていなかった。
 そして彼は棒立ちのまま、着地しながらに振り下ろされる彼女の爪で、体をバターのように両断され、死んだ。


「それじゃあ、いただきま~す!」
「……お兄様はッ……! やらせ、ません……!!」


 シバの死体の前で合掌し、捕食しようとしていたキュアハートの足元を、背後から悲痛な呻き声とともに氷が埋めていた。
 シロクマの体の中から黒い長髪の少女が這い出し、頭蓋骨の一部を削られて血を流しながらも、片腕で地面を細かに叩き、もう片腕を必死に差し伸ばしている。
 その少女は、兄を守るため全力を振り絞り、地底湖周囲の大気全体を高速冷却してキュアハートの動きを止めようとした。
 だがその瞬間に、彼女の頭部は激しい衝撃を受けて弾け飛ぶ。


「なるほど、二人はそんな関係だったんだ。安心して! 私の中で二人はずっと一緒にいられるから!」


 キュアハートは、自身の脚を固めた氷を砕きながら、それをシロクマに蹴り飛ばしていた。
 氷の砲撃で顔を粉砕されたシロクマは、誰かも解らぬ無名の少女の死体となり、その白い首筋から赤い血を垂れ流すだけだった。


【体幹部轢断 心肺肝その他臓器多数損傷 機能停止 出血多量を確認】
【生命機能維持困難 許容レベルを突破】
【自己修復術式/オートスタート】
【魔法式/ロード】
【コア・エイドス・データ/バックアップよりリード】
【自己修復――完了】


 その時、シロクマの死体の方に向き直っていたキュアハートの背後で、ゆっくりとシバの体が起き上がっていた。
 その肉体は、キュアハートの攻撃を受ける以前と寸分違わぬ完全な姿である。
 彼の得意とする再生魔法で組まれた『自己修復術式』が起動し、負傷直前のエイドスにて彼の情報は上書きされたのだった。



「残念だがどんな手段を取ろうと、俺を最終的に傷付けることは不可能なんだ――」
「そうなんだ。じゃあ食べ放題かぁ~♪」


 キュアハートに向けて発言した直後、彼の肉体は再び機能停止する。
 彼女の拳がシバの心臓を握り潰すタイミングは、彼がその動きを捉えるよりも大分早かった。
 シバの瞳は、顔を無くした、シロクマの中の少女の死体に注がれていたからである。

 ――自己修復の間に、あなたは何か言ってはいなかったか。シロクマさん、あなたは一体、誰……。

 儚くも彼の脳髄は、その思考を完了する前にブラックアウトしていた。 
 そのままキュアハートは、死んでゆくシバの肉体を喫食し始める。


【心破裂 気管支及び大血管切断 脊柱粉砕】
【生命機能維持困難 許容レベルを突破】
【自己修復術式/オートスタート】
「うん。じゃあもう一回いただきまーす」
【頭部圧壊 呼吸中枢及び思考機能全損】
【生命機能維持困難 許容レベルを突破】
「待ちきれないなぁ~、もう一回!」
【脊髄抜去 上位運動・感覚ニューロン消失】
「はいはーい! おかわり~」


 自己修復術式の起動と実行にかかるタイムラグは、キュアハートがシバを再び殺すには十分すぎる時間だった。
 ワンコソバめいたキュアハートの楽しいシバ捕食タイムは、この後も何回か繰り返された。
 その時間は誰にも邪魔されることなく、楽しく楽しく過ぎた。
 地底湖の周囲に、シバが再生できるだけの時間を稼げる生命体は、もういなかったからである。

 最終的に、シバはその肉体を繰り返し繰り返し捕食され、その精神までをも捕食された。
 キュアハート=サンのニンジャソウルにかかれば、プシオン情報体である彼の魔法演算領域をしめやかにサヨナラさせることもベイビー・サブミッションなのである。


    ###Qz42=無限


 地底湖で殺戮した人間とヒグマたちを平らげて、キュアハートは海食洞への通路にやってきていた。
 張り付いた氷やサイオンも舐めとり、洗い流して、気分もスッキリとしている。
 通路では丁度、海食洞から1人の少女と2名のヒグマがやってくるところだった。


「……ヤイコ、本当なの? 少女の闖入者? それが帝国の者を無差別に虐殺したの?」
「はい。残念ながら事実のようです。シロクマさんが亡くなる間際に、それだけ送られたようで……」
「……噂をすれば来よったわ。……まずいのぉ……。ここは一本道じゃ」

 キュアハートからかなり距離がある段階で、顔に眼鏡の縁のような白い毛のあるヒグマ、ツルシインが、彼女の存在に気づいていた。
 薄暗い通路で、かつ数百メートルの距離を置いた状態で発見されることは、キュアハートにとって予想外の事だった。
 そしてツルシインにとっては、キュアハートがその距離で、自分たちが彼女に気付いたことを気付かれるのが予想外の事だった。
 キュアハートは顔の横でハートマークを形作り、遠方に向けて元気よく自己紹介をする。


「みなぎる愛、キュアハート! 愛をなくした悲しいお嬢さんたち。このキュアハートがあなたのドキドキ、取り戻してあげるからね!!」
「……Insaneね」
「狂ってますね」
「たぶれとるわ……」


 遥か彼方で、背筋の粟立つような寒気に襲われた布束砥信、ヤイコ、ツルシインは咄嗟に身構えた。
 キュアハートがくるりとその場で一回転するや、彼女の胸でハートマークが輝く。
 エンジン管理室で灰色熊に同様の行動をした時よりも、遥かにその輝きは鮮やかで強かった。
 ツルシインが引き攣ったような声で叫ぶ。


「ここまで届くぞぉ!! 壁じゃ! 張り付けぇ!!」
「――! ヤイコが、防護致します――!!」
「あなたに届け! 『マイスイートハート』ッ!!」



 瞬間、海食洞に向けて続く直線通路を、ピンク色の閃光が埋めていた。
 布束とツルシインの前に立ちはだかり、電磁波による防護壁を展開していたヤイコは、その甲斐なく、一瞬のうちに全身をその光に食い殺される。
 その巨大なハート型の光は、数キロ離れた海食洞への扉を吹き飛ばし、そこから続く海面を抉って、西の海に潜んでいたミズクマの胴体を真っ二つに喰い千切っていた。


「が、あああっ……!」
「布束さん!? ……もう、動いちゃいかん! 死ぬぞ!!」


 事前にその閃光の通過位置を認識していたツルシインとは違い、布束は完全にその光を回避することは出来なかった。
 壁に寄せ切れなかった左腕が、肩口から光に持っていかれ、勢いよく鮮血が床に噴き出している。
 四白眼を見開く彼女はしかし、ツルシインの言葉に唇を噛み、飛来するキュアハートに向けて拳銃を構えていた。

 次第に暗くなってゆく視界に、それでも布束はしっかりと狙いを定め、キュアハートの肩に向けて発砲する。
 しかし、過たず少女に着弾したその銃弾は、彼女の肌に跳ね返るだけであった。


「お姉さん、わざと急所を外したの? おもちゃなんだったら遠慮しなくて良かったのに」
「……」


 拍子抜けした顔で目の前に降り立ったキュアハートを見据えながら、布束は壁にずるずると血の跡を引き摺って、地面に崩れ落ちていた。
 ツルシインは、背に純白の翼を生やしたその少女の姿を間近に捉えて、その身に渦巻く縁起を認め震える。


「何なんじゃあんたの凶兆の無さは……! 仏舎利でも埋め込んでおるのか!?」
「ううん、愛があるだけだよ!」


 ツルシインの叫びに、振り向いた彼女はにっこりと答えていた。
 万物には、その存在が終わる時の兆しが必ずある。しかし、ツルシインの目の前の少女は、その兆候が極端に希薄だった。
 ツルシインが全力で集中して、キュアハートにはようやく幽かな黒点としてその滅びの兆しが浮き沈むのみである。
 キュアハートの攻勢を躱しながら、外力を以てその点を貫けるほどの幸運は、この環境とツルシインに存在していなかった。


「私に食べられて、あなたも無限の愛になろうよ♪」
「……片腹痛いわね……。ダブルミーニングで」


 ツルシインに向けて笑顔で歩み寄っていたキュアハートの足首に、瞬間、蛇のように少女の腕が這い上がっていた。
 キュアハートはそこに、数十本もの針に刺されたような、得体の知れない痛みを覚える。


「Scum suckerが、愛を語らないで……」
「なっ――」


 布束砥信に掴まれた側のキュアハートの膝が、かくんと折れていた。
 彼女に穿たれたのは薬剤か超能力か――。いずれにしても、布束がその命を賭した行動は、キュアハートの片脚の運動機能を麻痺させるには十分な攻撃だった。
 布束は、微かな笑みを残して眼の光を落とし、絶命する。


「――ッ、布束さんの呼び込んだ運は、無駄にせんぞぉ!!」
「きゃあっ!?」


 ツルシインは即座に、体勢を崩したキュアハートに向けて横薙ぎに腕を振り抜いていた。
 キュアハートは難なく身を屈めてそれを躱すが、脱力した方の脚に体重がかかり、彼女は地面に倒れ込んでしまう。

「シィッ!!」
「――ぐわぁーッ!?」

 ツルシインは振り抜いた動作から流れるように片脚を振り上げ、キュアハートの背中に踏み下ろしていた。
 エンジェルモードの翼の片方が根元から折られ、そのまま引き千切られていく。

「なんっ、でっ!!」

 キュアハートは地面から跳ね起きて、片脚を引き摺りながらツルシインに拳打を浴びせる。
 ツルシインはその高速の突きの雨を容易く躱し続け、まるでキュアハートを誘導するかのように後退していた。

「あんた自身に凶運がなくとも、あんたの周りは凶兆だらけじゃぞッ!!」
「――あっ」


 そしてツルシインが叫んだ直後、キュアハートはふと何かに足を躓かせて、再び地に倒れ込む。
 ヤイコが防護壁を築く際に通路の岩盤から引き寄せた、鉄鉱石の塊だった。

「ジャッ!!」
「――ああああああああっ!!」

 ツルシインの振り下ろした手刀が、キュアハートに残っていたもう一つの翼をも斬り飛ばす。
 キュアハートは唇を噛んで舞うように跳ね上がり、空中から渾身の拳を突き出していた。


「――大当たり。そこは下水管じゃ」


 横に踏み躱したツルシインの脇で、壁面に深々とキュアハートの腕が突き刺さる。
 瞬間、壁に大きなひびが入り、津波の海水を一身に受けて溢水した下水道の水流が、一挙にキュアハートの体に襲い掛かっていた。


「きゃぁああああああああっ!?」



 羽をもがれ、濁流に飲み込まれて海食洞の方へ流されてゆくキュアハートを尻目に、ツルシインは脱兎の如く研究所の方へ逃走していた。
 ツルシインも、彼女の戦闘能力を完全に奪ったわけではないのである。
 もし二度三度と、苦し紛れに先程の閃光を放たれてはたまったものではない。


「シーナーッ!! どこにおるシーナー!! イソマに知らせねばっ!
 あんな強大な力を持った者を逃してはならんぞぉ!!」
「……『ラブハートアロー』」


 シーナーの存在を探しながら駆けて行くツルシインの感覚に、その時、想像を絶するような凶兆の重苦しい寒気が襲い掛かる。
 海食洞へ流れてゆく濁流の先へ振り返り、ツルシインは驚愕した。
 キュアハートがその両手で、禍々しいピンク色の光を弓に番えて引き絞っている。 
 彼女の正面にはさらにハート型の光が的のように浮かんでおり、それがツルシインに重圧を感じさせている元凶となっていた。


「まさか――っ」
「『プリキュアハートシュート』ッ!!」


 光の矢が放たれ、その目の前のハートマークに直撃した時、同時にツルシインの体内で心臓が破裂していた。
 刺さってもいない矢に貫かれたように口から血を吹き出し、ツルシインは地に倒れ伏す。
 体温を落としてゆくツルシインのもとへ、キュアハートは壁を掴んで、水流の上をにじりながら戻ってきていた。
 眩いばかりの凶悪な吉祥に包まれたその存在を夢現に見ながら、ツルシインは、笑って死んだ。


「……運命を捻じ曲げて『心臓を喰らう』、暗示の矢……。シーナーや、世界は広いのぉ……」


 ツルシインの最期の呟きに答えるように、ディーラーは席を立つ。


    ###Dμ34=不死


 突風のコミューターでたった今この世に着いたように、彼は唐突に出現する。
 通路でツルシインの死体を捕食しようとしていたキュアハートは、いつの間にか地表の広漠たる草原に存在していた。
 突然に変化した周囲の景色に戸惑う彼女は、その時、彼の姿を捉えた。


「……キングさんでも勝てない。灰色熊さんでも勝てない。提督さんの製造物では言わずもがな」


 真っ黒な霞が凝り固まったような、四肢の細長く、痩せたヒグマだ。
 骨と皮ばかりのような肉体に、底なし沼のような虚ろな双眸を揺らめかせて、彼はキュアハートを見据えていた。


「ヤイコさんでも勝てない。布束特任部長でも勝てない。ツルシインさんでも仕留めきれない」


 そうして、彼は枯れ枝のような体躯を、影のように静かな動きで歩ませて近づいてくる。
 幽かな彼の呟きは、その声量に反して、キュアハートの耳に、重い怒りの色を伴ってはっきりと響いていた。 


「シバさんとシロクマさんも、同行は大概にしませんとね……。お互いに気を取られ合っていてはお話になりません」
「あなたは、一体、……誰?」


 今までの喧騒の全てを読み解いたように呟くそのヒグマに、キュアハートは初めて、今までこの島の何者にも感じなかった恐怖の欠片のようなものを覚えた。
 そのヒグマは彼女の問いに僅かに首を傾げ、ヘドロのようなどす黒い笑みを見せる。
 その口からは、彼自身の身長よりも長いのではないかと思われる、2メートル近い長さの舌が零れていた。


「どうも、闖入者さん。穴持たず47『シーナー』です。ヒグマ帝国のしがない医者ですよ」


 粗暴の都市にたった一頭だけ残った孤高の塵が、そのヒーラーであった。


「ドーモ、シーナー=サン……。みなぎる愛、キュアハートです……!」
「……挨拶を済ませれば満足ですか? では、今すぐに、消えて下さい」


 緊張を伴ってアイサツしたキュアハートの眼に、その瞬間、シーナーというヒグマの顔から真っ黒な液体が炸裂したように感じられた。



「きぁ……っ!?」

 それを見たように思ったと同時に、彼女の視界は、天と地がさかさまになっていた。
 空に向かって落下してしまうような薄ら寒い感覚に身を竦ませると、今度は彼女の左耳の中で大爆発が起こる。

「うあああぁーっ!?」

 頭の半分が弾けたように思えるほどの大音声の破裂音により、前後不覚となったキュアハートの体は右側に大きく吹き飛んでいた。
 そしてそのまま彼女に休む暇を与えず、右から左から連続的に爆発音が浴びせられる。
 鼓膜が裂け、内耳が潰れ、脳髄が潰滅するかのような激痛を伴う音の雨に、キュアハートは頭を抱えてのたうち回った。


「が、あ、ああっ、あなたにっ……届けっ! 『マイスイートハート』ぉ!!」
「『汝の前には今、無効のみがある。弾道上に空く、虚無に消えよ』」


 自分の声さえ聞こえないような音響と頭痛に苛まれながらも、彼女はその胸からピンク色の閃光を迸らせていた。
 同時に叫んでいたシーナーが、空を裂くように腕を打ち振る。


「『この場を領(うしは)くは、私の世界である』!!」


 シーナーに届く寸前で、ピンク色の光は不自然に分断される。
 空間を切断され、飲み込まれていくかのようにして『マイスイートハート』はキュアハートの視野から消滅した。
 キュアハートはふらつきながらも、即座にその手にラブハートアローを番える。
 シーナーは苛立ったように、刺々しい言葉をキュアハートに投げつけた。


「愛を、なくした、悲しいシーナーさん……! あなたは愛を、受け入れなきゃ……!!」
「なぜそれほどまでに振り回されるのです!? あなたは今すぐ、消え去らねば……!!」
「私が、あなたの胸のドキドキ、取り戻してみせる!!」
「私が、あなたを安息の元に、殺して差し上げます!!」


 彼女の正面に、シーナーの心臓を暗示するハートマークが出現する。
 シーナーは怒りに震えた。
 そして二名の叫びが大気を引き裂く。


「『その幻の心臓を作るは、汝。現を幻とし、幻を現と見よ』――」
「『プリキュアッ、ハートシュート』ッ!!」
「『可視化』!!」


 光の矢がラブハートアローから放たれた瞬間、キュアハートの正面に浮かんでいたハートマークが、突如分裂する。
 7、19、37と急激にそのマークは増殖し、彼女の視界を埋めていた。
 矢はそのうちの一つを射抜いて消え去るのみで、そうしてできた空隙も、見る間に新たなハートで埋め尽くされる。
 四方を埋めてキュアハートを圧殺しそうになるまでに迫る無数のマークを前に、キュアハートは愕然とした表情で叫んでいた。


「どうして!? どうしてあなたは、そんなにも愛を受け入れたくないの!?」
「見るに堪えない!! 死ねない致命傷ほど、自他にとって胸の悪いものはありません!!」
「……ッ、集合ぉおおおおおっ!!」


 依然として、怒りと共に叫ぶシーナーの言葉は、キュアハートには理解不能だった。
 ただキュアハートは、目前に出現させたマジカルラブリーパッドを起動させ、腕を振りあげていた。

 彼女を圧殺しようとしていた無数のハートマークは、その動きに一挙に引き寄せられてシーナーの頭上にわだかまる。
 そのまま、周囲の草原からは、虫の、鳥の、小動物の、ありとあらゆる動物の心臓が抉り出されてその巨大なハートの中へと集っていった。
 空を埋め尽くさんばかりの血の色のハートマークが、シーナーの上に掲げられる。
 キュアハートは、憐れみの籠った眼差しでシーナーを見つめていた。



「ねぇ、わからないかな……?
 ほら、みんなの愛でできたこのプシュケーは、こんなにもきゅんきゅんしてるんだよ?
 あなたも、私と一つになって、愛の中で生きようよ!!」
「……今だけで、この島に存在する全ての生命体が鏖殺されたのです!!
 剥がれよ!! どこまで癒着すれば気が済むのですか!! 疾く、去ねぇ!!」
「――がぶっ!? ぐげぇっ、があはああっ!?」


 シーナーの叫び声と共に、キュアハートの顔面は、強烈に殴打されたかの如き衝撃を受けていた。
 アンモニアや塩素といった刺激臭の混合気体を、超高濃度で鼻腔に叩き込まれたような、脳の焼けるような異臭が彼女の気道を満たす。
 あまりの刺激に爛れたキュアハートの粘膜は一瞬にして腫れ上がり、喀血と呼吸困難が彼女を襲う。
 どろどろとした鼻血を流しながらも、彼女の眼差しは狂気のような光で輝き続けていた。

「ダメ、だよ――」

 折れかけた膝を立ち直らせ、キュアハートは燃えるような瞳を上げる。
 口元に流れる血を拭い、彼女はシーナーに訴えかけた。

「愛を忘れちゃ、駄目なんだよ! お願い、わかって!!」
「直視せねば、駄目なのです! 相田マナさん!!」

 互いが互いに向けて嘆願した言葉は、そのまま矢のようにすれ違った。


「――『ハートダイナマイト』ォォォオオオオオッ!!」
「――今時、パターナリスティックな言葉では、届きませんか……」


 諦観したように呟いたシーナーは、自身に向けて迫りくる、空を覆うほどのハートの爆弾を、漫然と受け入れた。
 ただ悲しそうにキュアハートを一瞥して、彼はそのハートの爆発に巻き込まれる。

「ならば、射抜かれる日々に、そっと定義を付そう――」

 黒い霞のように吹き飛んでゆくシーナーの肉体は、そんな残響を残して消滅した。


 ……『治癒の書(キターブ・アッシファー)』――。


    ###Dμ34=不死


 ヒグマの島で殺戮したあらゆる生物を平らげて、キュアハートは故郷の大貝町に帰ってきていた。
 穴持たず50『イソマ』は、その結果を知り、人知れず自害した。
 キュアハートが地球上のあらゆる命を舐めとり、食い尽くすのに、それほど時間はかからなかった。
 大貝町の人々と生き物も、つい先ほど両親ともども全員食べ終わったところで、気分もスッキリとしている。

 そんな彼女が、自宅である『ぶたのしっぽ亭』の軒先で夕日を見ながら父親の心臓に舌鼓を打っていたところ、聞き覚えのある少女たちの声が、彼方からかかってきていた。


「マナーッ!!」
「マナちゃ~ん!!」
「キュアハート!! あなたっ、あなた……一体!?」
「キュアハート……ッ!!」
「マナ……」
「あ、みんな~! どこ行ってたのかと思ったよ~」


 沈みゆく夕陽の中に、本来ならばキュアハートの戦友であるはずの、5人の少女がいた。
 キュアダイヤモンド、キュアロゼッタ、キュアソード、キュアエース、そしてレジーナである。
 彼女たちの悲痛な、あるいは剣呑な語気の叫びに対して、キュアハートは夥しい量の血に塗れた店の前で手を振る。
 その笑顔は、父親の血で真っ赤だった。

 キュアハートの凶行を止めるべく、彼女たち5人は今までずっと彼女の後を追っていたのだが、余りに高速で移動してゆく彼女と惨殺されてゆく人々に追いつくことができなかった。
 真っ先にキュアハートの目の前に降り立ったのは、赤い髪を振り立たせたキュアエースこと円亜久里である。

「亜久里ちゃんもあの島から出てこれたんだ! 見つからなかったからどうしたのかと思ってたよ~」
「……キュアハート、あなたは、プリキュア5つの誓いを忘れたのですか!!」

 キュアハートのにこやかな言葉を他所に、紅の鮮やかな唇を震わせて、キュアエースは彼女を叱責した。
 しかし返ってくるのは、全く論旨の本質からずれた、狂ったような笑顔だけである。

「え? 覚えてるよ~。さっき、総理大臣さんの所にも『島のヒグマさんにも人々にも、みんなに愛を教えてきました』って報告してきたし」
「~~ッ!! 救いようもなく狂いましたか、キュアハートッ!!」
「亜久里ちゃんこそどうしたのさぁ? 愛は与えるものでしょ?」
「最早、同じプリキュアとはいえ容赦なりません!!」

 キュアエースは武器である大型の口紅を、即座に引き抜いていた。
 キュアハートはその動きに、きょとんとした表情を見せながらも、手でハートマークを形作る。



「彩れ、『ラブキッスルージュ』!! ときめきな――」
「あなたに届け、『マイスイートハート』!!」


 キュアエースはその口紅を自らに引き、投げキッスで出現させたハート形のエネルギー体を、さらにキュアハートに向けて撃ち出そうとした。
 しかしその動作は、直ちに胸元から放出された、『マイスイートハート』の速度の前には余りに煩雑だった。

 瞬く間に全身を飲み込まれたキュアエースを貫いて、その光線は上空の4人にも迫る。
 常の必殺技とは全く異なる性質を持ったその光の危険性を逸早く察知して、そこへキュアロゼッタが動いていた。


「『プリキュア、ロゼッタリフレクション』!!」


 レジーナ、キュアダイヤモンド、キュアソードの前に出て、ラブハートアローを手に三戦の構えから展開された巨大なクローバー型の盾が、真っ向から『マイスイートハート』の光を受け止める。
 しかし、強烈な圧力で噴射される光の奔流に、その強固なはずの盾は、齧られてゆくかのようにひびを増やしていった。
 キュアロゼッタ――もとい四葉ありすは、幼馴染であるはずの目の前の少女に向けて、重圧に喘ぎながら叫ぶ。

「やめて! こんなこと、やめて下さいマナちゃん!!」
「どうして? これでありすも私と一つになって愛を育めるんだよ?」
「……っ」


 砕けてゆく盾を前に唇を噛んだキュアロゼッタは、後ろで共に盾を支えている3人の少女に振り向いた。

「……行って下さい、皆さん。皆さんで、マナちゃんを正気に戻してあげて下さい――!」
「ありす――ッ!」
「さあ、もう持ちません!! お願いします!!」

 その言葉を最後に、キュアロゼッタは、爆散した盾と共に光に食い殺された。
 そして光線の軌道上から3方に散った少女たちの内、紫色のキュアソードが、閃光のような速度でキュアハートに向け肉薄する。


「キュアハートォオオオオオオオオオオッ!!!」
「はーい、いらっしゃいまこぴー♪」
「『プリキュア、スパークルソード』!!」


 飛来するキュアソードの手元から、紫色の光でできた無数の短剣が放たれる。
 キュアハートはにこにことしながらその全てを両手でキャッチし、食べ始めた。

「いやぁ~、案外美味しいねこの剣。まこぴーの愛の形なんだから当然かぁ~」
「何があった! あなたに何があったのキュアハート!! どうしてそんなジャネジーに染まってしまったのあなたは!!」
「人聞き悪いなぁ。私のプシュケーは、みんなの愛でぷるんぷるんだよ?」

 指先に紫の光を纏わせ、剣を振るうようにキュアソードはキュアハートへと切りかかる。
 剣崎真琴の名を冠する彼女の剣戟を、キュアハートは難なく素手で受け止め続けていた。
 噛み合った手刀は鍔迫り合いの様相となり、キュアハートの笑顔が、今にも泣きそうな表情のキュアソードの鼻先に近づいてゆく。

「国王様の愛が解ったまこぴーならわかるでしょ? 私は、みんなとの愛を思ってるだけなんだよ」
「違う!! あなたは間違っている!! 根本的にっ――!」

 力一杯首を横に振るキュアソードはしかし、次の瞬間にはキュアハートに抱きつかれ、その喉元を喰い破られていた。
 一筋の涙が、剣崎真琴の瞳から流れる。


「いい加減にしてッ!! この『幸せの王子』ッ!!」
「――六花?」


 キュアソードの首筋から血を啜っていたキュアハートが、その時背後から羽交い絞めにされた。
 解放されたキュアソードの死体は、ただ静かに地面に倒れ伏す。
 菱川六花――キュアダイヤモンドが、その青い髪を振り立たせて、泣いているとも怒っているともつかぬ表情で、キュアハートの耳元に叫びかけていた。


「あなたは、自分を誰だと思っているの!? よしんば、あなたのこの行為が『愛』なのだとしても、私は、あなたのためにも止めさせるわこんなこと!!」
「そうだよっ!! マナ、前にマナは、友達とは戦わないって、言ってたじゃない!!」


 身動きを封じられたキュアハートの前からは、金髪の少女、レジーナが必死の様相で訴えかける。
 しかし、キュアハートは両者を一瞥して笑みを深めるや、勢いよく脇を締めてキュアダイヤモンドの肩関節を引き抜いていた。



「――あがああああァッ!?」
「愚問だなぁ二人とも~。私はみなぎる愛、キュアハート。私は戦ってるんじゃなくて、愛のためにみんなを食べてあげているだけ。何の問題もないでしょう?」

 脱臼した両肩の痛みに耐え、たたらを踏みながらも体勢を崩さなかったキュアダイヤモンドは、大親友である目の前の少女が振り向き様に突き出してくる手刀へ向け、大きく叫び返していた。


「あなたは、大貝第一中学生徒会長、相田マナでしょうが――ッ!!」


 心臓へ高速で迫る手刀に、キュアダイヤモンドは辛くも膝蹴りを合わせていた。
 上方へ逸らされたその突きは、心臓に当たりこそしなかったものの、菱川六花の左上肺野を貫いて、彼女の口から大量の喀血を迸らせる。
 倒れ掛かるその親友の口元へ食らいつこうとするキュアハートの耳に、その瞬間、得も言われぬ殺気が通り過ぎた。


「マナから離れろぉ――ッ!!」
「――!?」


 キュアハートがキュアダイヤモンドの体を突き放して後退した刹那、先程までキュアハートのいた場所を、『マイスイートハート』に勝るとも劣らない巨大な金色の光線が通り抜けていた。
 光の槍・ミラクルドラゴングレイブを構えたレジーナが、その蒼い瞳を真っ赤な殺意に燃やしてキュアハートを睥睨している。
 その漆黒のドレスは気迫に奮い立ち、彼女の長い金髪と赤いリボンはざわざわと震えるようだった。
 キュアハートは落ち着いた笑顔を崩さずに、レジーナへ尋ね返す。


「さっきの言葉、どういう意味? 『マナから離れろ』って」
「……あんたの言葉で、あたしは確信した。あんたはマナじゃない。あたしはパパの娘だから、解る。
 あんたはマナのプシュケーに食らいついた、おぞましいジコチューの群れだッ!!」
「な~に言ってんのレジ……」
「これ以上、マナの口を借りて、喋るなっ!!」


 裂帛の気合と共に、再び金色の光線がマナのいた空間を抉っていた。
 瞬時に光を躱しながら迫っていたキュアハートの手刀を、レジーナはしっかりと眼で追う。
 槍の柄を脇の下から潜り込ませ、キュアハートの突進の勢いを巧みに捻じり上げながら、すれ違う彼女の背面へ、レジーナは振り返りながら槍の穂先を揮っていた。
 ミラクルドラゴングレイブから放たれた光の刃が、深々とキュアハートの背肉を弾き飛ばす。


「グワーッ!?」
「……強くなったんだよ、あたし。マナに話を聴いてもらうために」


 キングジコチューの娘であり、同時に、プリキュアの出自であるトランプ王国国王の娘であるレジーナの武練は、常プリキュアのそれよりも頭一つ抜きん出ていた。
 轟音を立ててミラクルドラゴングレイブを振り回し、見得を切って構え直す彼女の瞳は、氷のように冷ややかな光を宿している。
 震えながら身を起こす眼前のキュアハートに向けて、彼女はぎりぎりと歯を噛み締めて叫んだ。


「やっと、マナの隣に立つことができたと、思ったのに!! なに荒ぶる気持ちに飲み込まれてんのさ!! ふざけないでよッ!!」
「レ、レジーナ……。レジーナこそ何を言ってるの……。私は、何も変わってないよ……」
「ああそう、判らないの。自分がどんな愚かしいジコチューに成り下がってるのか……。
 ……なら、あたしが浄化してあげるわ。マナの代わりに……」

 見つめ合うキュアハートとレジーナは互いに一瞬、悲しそうな表情を見せ、そして叫んだ。


「愛を無くした悲しいキュアハート! あたしが、マナのドキドキ、取り戻して見せる!!」
「なに言っちゃってるかなレジーナ! 私と一緒に、無限の愛の一部になろうよ!!」
「マナァアアアアアアアアッ!!」
「『マイスイートハート』ッ!!」



 瞬間、ミラクルドラゴングレイブから巨大な光の柱が迸る。
 『マイスイートハート』の光とぶつかり合い、拮抗し、金とピンクの散乱光が辺りに溢れた。

「アアアアアアアァァ――!!」
「ラヒィイイイイイイィル!!」

 レジーナの気迫と共に、金色の光がピンクを飲み込んだ。
 しかしその時既にキュアハートは、相殺され威力の減衰したその奔流の中を、身を削られながら疾駆していた。

 獣じみた甲高い叫び声を上げながら、レジーナの放つ光を突っ切り、鋭い牙と燃えるような舌を口元から覗かせて、キュアハートの爪がレジーナに向けて襲い掛かる。

「――クッ!?」

 苦し紛れに握りを返して振り抜かれるレジーナの石突きを、キュアハートは身を沈めて躱す。
 キュアハートの手刀が突き出されるのと、レジーナが槍の柄を渾身の力で振り下ろすのとは、全く同時であった。


「――……ゴハァッ!!」


 キュアハートの手刀は、レジーナの槍で軌道を下に逸らされ、彼女の胃を貫くに留まる。
 しかしレジーナの口から溢れる鮮やかな吐血は、致死量を超えるには十分すぎた。
 槍を取り落とした彼女は、その腹部を貫いているキュアハートに抱き留められる。
 かつての彼女と何も変わっていないかのようなその抱擁に、レジーナはキュアハートを、涙を滲ませながら抱き返していた。


「……ねぇ、マナ。あたしは、マナになら食べられてもいいよ。……あたしはマナのこと、本当に、好きだからさ」
「……レジーナなら、解ってくれると思ってたよ。それじゃあ一緒に――」


 深い笑顔と共に牙を覗かせたキュアハートの唇は、そっとレジーナの人差し指で押さえられた。
 そして、レジーナは蒼い瞳に慈悲のような色を湛えて、諭すように語り掛ける。

「……でもそろそろ、自分の矛盾に気づいてもいいんじゃないかな。もう、この世界には、あたしたちしかいないんだよ?」
「そうだよ。もうみんな、私の愛の中で一つになってるんだもの――」

 キュアハートがそうレジーナに返しかけた時、彼女の血の色の衣装がレジーナに激しく掴まれる。
 レジーナは、涙を溢れさせて叫んでいた。


「みんながあんたに食べられて、あんたの中の『愛』になってしまったら、マナが死んじゃった後、それはどうなるの!?
 もうその『愛』は、どこにも引き継がれない!
 もう誰も、新しい愛を生みだせない!
 友達や家族と色んな人たちと、泣いて、笑って、助け合った愛は、未来もなく、あんたというジコチューと共に永遠に消え去るのよ!!」
「あ……」


 キュアハートは、自分の脳内に、奇怪な水音を聞いた。
 自分の肉が、内側から剥ぎ取られているかのような音だった。
 身を貫いた一筋の寒気に、彼女は絶句したまま動くことができなかった。


「『幸せの王子』の結末って……、マナに話したことあったっけ」


 そのキュアハートの横から、荒い吐息と共に、親友の声がかかる。
 そこには、脱臼した両腕と穴の空いた胸元を氷で埋めた、キュアダイヤモンドが立っていた。
 自身の技、『トゥインクルダイヤモンド』で止血・延命していた彼女は、身を震わせているキュアハートに向けて訥々と語る。

「柄頭のルビーと、両眼のサファイアと、全身の金箔を人々に分け与え、愛を振りまいた幸せの王子の像はね。
 最後に、とてもみすぼらしい鉛色の姿になって、溶鉱炉で溶かされてしまうのよ」

 失血の激しい菱川六花は、光の薄い目で、ふらふらとキュアハートの元に近づいてゆく。

「冬の寒さで死んだツバメと共に、融け残ったその鉛のプシュケーは、ごみために捨てられた。
 お話では、それは天使が救い上げてくれるんだけど――、あなたがもうみんな食べちゃったから、マナは、ずっと捨てられたままになっちゃう」

 キュアダイヤモンドは、最後の力を振り絞って、キュアハートの手を掴んだ。

「マナの気持ちも解る。でも、好きなみんなを独り占めするよりも、どこまでも友達でいられた方が――」
「六花……!?」
「――なんか、いいじゃない?」



『そしてツバメは幸せの王子のくちびるにキスをして、死んで彼の足元に落ちていきました。
 その瞬間、像の中で何かが砕けたような奇妙な音がしました。
 それは、鉛の心臓がちょうど二つに割れた音なのでした。
 ひどく寒い日でしたから。』


「あ、あああ、あああああああ……――」


 キュアハートの変身が、解けていた。
 ただの女子中学生である相田マナの視界で、日の落ちた真っ暗な景色が、眩暈のようにぐるぐると溶け落ちていく。
 自分の魂がピーラーに剥がれて、その半分がごっそりと消え落ちていることにようやく気が付いたように、相田マナはただただ寒気に身を震わせていた。


「ねぇ、マナ――」
「あ、ああっ……レジーナっ……! 行かないで!! 行かないでッ!!」
「それはムリだよ……。あたしも死んじゃうもの。これが、あんたの望んだ夢――」
「お願いだよぉっ!! そんなこと言わないで!!」
「ね、ほら……、これであんたは、望み通り一人ぼっちよ?
 もう良いんじゃない? そろそろ休みなさいよ……」


 自分と抱き合いながらか細く呟くレジーナに、マナは狂乱したように叫ぶ。
 彼女の腹部に突き刺した腕から伝わる血の温もりは、徐々に徐々に冷えていく。
 力が抜け、相田マナに抱えられた姿のまま崩れ落ちてゆくレジーナは、その体からどろどろとした黒い液体を流れ出させ、溶けていった。


「――さぁ、マナは今、アプリオリなマナ自身に帰った……」


 レジーナの姿が消え去った後、相田マナの周りには、何もなくなった。
 辺りには一面、盲(めしい)になったように真っ暗な空間が広がり、そこに自分だけがただ一人取り残されている。
 腕から消えてゆく愛しい友人の感覚に愕然としながら、相田マナは、何もない空中に一人へたり込んでいた。


    ###ЯИ9Ж=終了


 相田マナの胸から、ハートの形をした手のひら大の物体が零れる。
 プシュケーと呼ばれる具現化した彼女の心の象徴は、二つに割れてマナの手に落ちていた。
 その表面は綺麗なピンク色を保っていたが、そのハート型の内部は、虫に食い荒らされたかのように黒く変色し、虚ろな空洞になっていた。


「ああ……」


 誰もいない寂寥とした空間の中で、私服姿の中学生の少女は、食い荒らされた自分の心を握り締めて、一人嗚咽を漏らす。
 その片手がポケットをまさぐり、取り出してきたものがあった。


「シャルル……」


 ラブリーコミューンと呼ばれる、プリキュアになるための携帯電話型変身アイテムだった。
 シャルルという妖精が変身して形作られる相田マナのラブリーコミューンは、血塗れになっていた。
 シャルルの顔が残っているはずのその表面は、マナ自身の歯型で削り落とされている。

「そっか……そうだよね。私がまず始めに食べちゃったのが、シャルルだもんね……。思い出した」

 宇宙空間でヒグマの魂にマナが捕食され、真っ先に危機感を抱いてキュアハートを止めに入ったのが、そのシャルルだった。
 キュアハートは嬉々としてシャルルを喰らい、そのまま島へ降り立ったのだ。
 そして彼女はそのまま、共にヘリコプターでやってきたあの男性を――。


「……っッ、おげぇえええええっ!!」


 唐突な吐き気に襲われた相田マナは、そのまま虚空に、彼女の捕食した人物の残骸を吐瀉していた。
 マナの胃液に混じるのは、大量の人骨の破片、髪の毛、衣服の繊維、未消化の肉塊――。
 山岡銀四郎という老マタギだった男の死体が、ほとんど消化もされずにそこに残っていた。
 彼を食べて一つになるということは、果たしてただの人間である少女の身で、可能だったのか――。



 自分が受け入れた新たな『愛』を、ジコチューに人々へ押し付けてしまったこと。
 そのせいで沢山の人々が痛めつけられ、傷つき、死んでしまったこと。
 抑えきれなかった自分のジコチューな心が、相田マナにはまるで悪性の病気か何かのように思えた。
 浸潤し、転移し、体中を侵したその病気を、お医者さんが頑張って全て切り落とし・取り除いた時には、もう健常な自分の体と心は、半分も残っていなかったのだ。

 政府の特命を受けて共に下った友の残骸も、次第に虚空に溶けて流れてゆく。
 酸鼻な胃液に鼻の奥から侵された相田マナは、いよいよ一人になった彼女自身だけで、さめざめと泣いた。


 そうして相田マナは、爪先から次第に、その静かな闇の中に融けて――。


「フン!!」

 瞬間、彼女は、泣いていた自分の顔を叩いて立ち上がっていた。

「あ~、泣いた泣いた! スッキリしたぁ♪」

 そうして眼を上げた相田マナの表情は、いつも通りの満面の笑顔になっていた。
 彼女は足先から溶けていきながら、力強い眼差しで中空に向けて呼びかける。


「この、夢の世界を私に見せてくれているのは、シーナーさんだよね。
 あなたは最初から、私が実際にこんな結末に至らないよう、私が気づくまで根気よく処置をしていてくれたんでしょう?
 みんなを私から守ってくれて、本当に、ありがとうございましたっ!!」


 彼女が今まで出会ったヒグマや人間の中で、キュアハートに対してこのような周到な幻覚を見せたのは、医者と自称したシーナーただひとりである。
 キュアハートが島の地面を陥没させてヒグマ帝国に至る直前か直後か――、恐らくそのくらいのタイミングから、相田マナは彼の見せる夢の中にいたのだろうと、彼女には容易に推察できた。


「『一人ぼっち』だって言ってたけど、少なくとも今の私を、シーナーさんだけは知ってる。
 シーナーさんだけは私の今を見ていて、私にこんな丁寧に夢を見せてくれている。
 それなら私はもう、愛の行方を憂う必要はない。
 あなたの作るこの静かで穏やかな世界は、キュンキュンする愛に満ち溢れているんだもの!」


 腰元まで溶け落ちながら相田マナは、無音の変遷に占められた広大な空間に腕を広げた。
 不動の双眸で虚空にシーナーの姿を望み、燃えるような彼女の言葉は続く。


「例え肉体が滅びようと、魂は――。ううん、魂が滅びようと、思いの力は、不滅だもん。
 仲間を守るために、思いの限りを尽くしたあなたなら、きっと私の代わりに、みんなの心に愛を取り戻せる!!
 私の体は、良かったらヒグマの皆さんで食べちゃって下さい。『みんなと一緒に』ごはんを食べる、最高の幸せの輪の一部になれるなら、これ以上のことはないもの」


 胸元まで虚空に消えた相田マナは、その指先で大きく宙に『L・O・V・E』と描いていた。
 輝くキュアラビーズも、シャルルのいたラブリーコミューンもない、半身を失った彼女を、再びピンク色の旋風が包み込む。


「プリキュアッ、ラブリンク!!」


 深いピンク色の髪が長く伸び、金色の輝きに変わる。
 変身の間にも消えてゆく体と腕を、キュアハートの衣装が覆う。

 ――シーナーさんッ!!

 時空も世界の境界をも越えるような、ビッグバン級の眩い意志を以て、彼女はにこやかに微笑む。


「あなたに届け! 『マイスイートハート』!!」


 愛という不朽の旋律に咲いたその笑顔は、相田マナという存在が虚空に融けた後も、消えることなく残り続けていた。


【相田マナ 死亡】


    ##########



 2頭のヒグマがいる。
 彼らは1つの死体を前にして、涙を流しながら荒い息をついていた。

 血と吐瀉物に塗れた、一人の小さな少女の死体が、そこにある。

 大貝第一中学生徒会長・相田マナは、落盤に見舞われたヒグマ帝国の地面の上にうつ伏せに倒れ、四肢をあらぬ方向に折られた姿で目を閉じていた。
 たった今止まった彼女の心音に、彼ら2頭は、緊張の糸が切れたように崩れ落ち、むせび泣く。
 彼らの体も至る所に裂傷や挫創が刻まれ、満身創痍の状態であった。

 2頭の名は、穴持たず90『久礼(クレイ)』と穴持たず101『百井(モモイ)』。
 ちょうどこの付近の下水道の防水処理を行なっていた、穴持たずカーペンターズのメンバーであった。

 そしてその2頭の前、倒れた相田マナの死体のすぐ傍らに、真っ黒な霞のようにもう一頭のヒグマの姿が出現する。


「……これ程までに。これ程までに、消化に時間を要するとは……」


 穴持たず47『シーナー』は、2頭同様に傷だらけになった細い体で、相田マナの上に息をついた。


 シーナーはミズクマの報告から、島内に侵入し、生き残っていた1名の闖入者の存在をかねてより懸念していた。
 そのため、纏流子の首輪に入ったキュアハートの嬌声を、しっかりと彼は捉えていた。
 彼がその戦闘の現場に辿り着くことができたのは、ちょうど彼女たちの会戦の終盤、デビルヒグマたちの加わった交戦が、地盤の崩落で中断されたまさにその時であった。
 地下に飛び込もうとするキュアハートに対し、シーナーは不可視の幻覚の内からその長い舌を射出し、彼女を『治癒の書(キターブ・アッシファー)』の支配下に置いていた。
 キュアハートはそのまま崩落した地盤の上に落下してのたうち、近くからはクレイとモモイの2頭も騒ぎを聞きつけてやってきていた。
 だが、キュアハートとの戦いはそこからが本番であった。

 深部感覚も何もかもを失なっていながら、キュアハートの狂気は一切衰えなかった。
 シーナーが『治癒の書』で捕食してきた人間は、皆数分と経たず夢現のうちに消化され尽くすのが常であった。
 しかし、キュアハートもとい相田マナの魂は、幻覚の中で一向に解ける様子を見せなかった。
 何らかの外的な改変が彼女の魂の半分近くを浸食し、癒着して歪ませていたのだ。
 人間4人分はあってもおかしくない量のその精神を、シーナーは時間を稼ぎながら、一つ一つ剥ぎ取って行った。

 その間、幻覚で見る景色のまにまに、彼女は飛び立ち、殴り、蹴り、必殺技を使おうとした。
 そのほとんどは、見当違いの壁面や地面に衝突してキュアハートを自傷させるのみであったが、彼女の身体能力の前には、その狂乱の代償はあまりに些末だった。
 シーナーが幻覚の状況を展示しながら彼女の行動を予測し、3頭がかりで押さえつけても、振りほどかれ、飛び立たれ、彼らの生傷は増えていった。

 羽をもぎ、腕を折り、脚を砕き、衣装を剥ぎ、続々と出現する必殺技用のアイテム類を即座に奪って破壊する。

 幻覚の中で潰滅していくヒグマ帝国の光景と、自分たちが対応している闖入者の狂気と、そして、ただの少女にすぎない彼女の正体と自分たちの行なっている行為に、彼らの眼にはいつの間にかひとりでに涙が浮かんでいた。



「……本当に、私が間に合って良かった……」


 震えながら嘆息したシーナーの呟きに、クレイとモモイの激しい首肯が応じる。

 シーナーが見せていた幻覚は、多少の認識の違いや現実とのズレはあるにしても、相田マナとシーナーが想定した、実際の戦闘シュミレーションそのものであった。
 幻覚の中でキュアハートが死ねば、そのショックは現実の肉体にも作用し、魂の消化を待たず心停止で相田マナは死亡していただろう。
 しかし、彼女の進撃は留まるところを知らなかった。
 もし、シーナーが会戦の現場で彼女を捉えることができず、帝国の内部に逃していたのならば、多少の細部の違いこそあれ、最終的に幻覚の中で起きたのと同様の結末に至る可能性は非常に高かった。

 だが、変身が解け、死亡した彼女の体は、あまりにも小さく華奢な、人間の雌の幼体に過ぎない。
 シーナーは、とても軽いその少女の死体を起こし、口元の汚れを拭ってやり、抱え上げた。
 彼はそれを、泣き崩れているクレイとモモイのもとに歩み寄り、差し出す。


「……皆さんでお食べになって下さい。食糧不足の折、お二人を始め、カーペンターズの皆さんは特にお疲れでしょう」
「えっ……、いいんですかシーナーさん!? 俺たちよりも、序列的にシーナーさんが召し上がるべきでは……」
「私は先程、人間まるまる一人食べてしまいましたからね。もう数日は結構です。……それに、これはこの闖入者の遺言でもありますので」
「あ……、ありがとうございます!!」


 相田マナの体をクレイの腕にそっと渡して、シーナーはその礼の言葉に首を振った。

「いえ……。礼を言う対象は私ではありません。その彼女自身に言って下さい。
 『いただきます』、『ご馳走様でした』と。所詮、どんな題目を立てようと、我々の行為は独善の裏返しなのですから。
 せめて、気のふれていた生前の彼女とは違い、そこには自覚的でいましょう」
「……わかりました。それでは俺たちは、ここの地盤の補修をしてから、皆のところに持っていきます」
「はい、いつもいつも、あなた方にはお世話になっていますね。ご苦労様です」
「シーナーさんこそ! ずっと休まれてないでしょう!? 傷も酷いですし、どうかここは俺たちに任せて、暫く安静になさって下さいよ!!」
「……そうですね、それができればいいのですが……」


 虚ろな目で踵を返したシーナーのもとに、その時緑色の苔の光がやってきていた。
 メッセージを開封すると、粘菌はシーナーの腕に、こんな文章を再生する。

『シーナーの東の凶兆排除に感謝す。西は任せよ。暫し休め。ツルシイン』

 事態の顛末の粗方を認識していたらしい朋友の言葉に、シーナーは僅かに表情を緩ませたように見えた。
 そして彼は今一度、クレイとモモイが作業を再開した、落盤の山を見やる。



 そこには、デビルヒグマ、球磨川禊、碇シンジ、纏流子、ジャン・キルシュタイン、球磨、星空凛という7名と、巴マミ、暁美ほむらの2名の死体が埋まっているはずであった。
 しかしシーナーの知覚には、その瓦礫の山の中に、何の生体反応も確認できなかった。
 全員落盤に圧殺されたのか。
 しかし、臭いとしては、そこから明確にヒグマ帝国の方に続いている跡が残っている。
 もっとも考えられる可能性としては、デビルヒグマのみがその落盤の衝撃に耐え、同行していた人間の臭いを残したまま帝国の方に行ったということである。
 それならば何の問題もない。キングヒグマと連絡をとり、球磨川ら6名の死亡を首輪で確認すれば済む。
 彼が帝国の方針に賛同しなくとも、シーナーが誘導して暫くの間檻にでも入っていてもらえばいいだけではあるのだが。


「……休んで、いいんでしょうかねぇ、私が」


 幽鬼のような足取りで帝国への道を辿るシーナーの眼に、瓦礫の山の端にそっと安置された、相田マナの姿が映った。
 『治癒の書』の中で溶け去る最後まで彼女の心が放ち続けた、眩しいばかりの笑顔が、シーナーの脳裏をよぎる。
 彼女のポケットからは、血塗れになった携帯電話型のアイテムが零れ落ちていた。
 暫くの間、彼女の微笑むような死に顔を見つめていたシーナーは、鉛色に変色したそのラブリーコミューンを拾い上げ、口の中に何かを呟きながら再びゆっくりと歩き始める。


「ラブ、ラブ……、『LOVE』。『愛』ですか……」


 呟く彼の口や眼からは、誰にも見えることのない、真っ黒な粘性のある液体が、滂沱の如く流れ落ちていた。
 牙を噛み締める彼の姿は、次第に足元から空気に溶け去ってゆく。


 相田マナは、幻覚の中で発言していたように、日本の内閣総理大臣から依頼を受け、この島のヒグマの被害を収め、参加者を救い出しに来たようだった。
 ただの闖入者とは断じることのできない、凄まじい信念がその少女にはあった。
 魂の歪んだキュアハートとしての単純な能力の強さに留まらず、孤独の死を悟って尚も、他者を打つ希代の精神の強さを、相田マナは有していた。
 何らかのアクシデントで、彼女は『捕食による愛』という概念を抱いてしまったようだが、その概念にしても本来は、彼女の行動方針を曲げるものではなかったはずである。
 彼女が自身の身の破滅をもたらしたのはひとえに、その『愛』を、あらゆる生物へと身勝手に押し付けてしまったからであった。

 もし仮に相田マナが、ヒグマの凶暴性と、ニンジャの技巧と、プリキュアの肉体と、彼女自身の当初の信念を兼ね備えたままヒグマたちの鎮圧に当たろうとしていたならば――。
 もしかすると、結末は変わっていたのかもしれない。
 シーナーが相手どることもできないような、強大な救国の存在になっていたかもしれない。
 日本国が単身で派遣してくるのにも頷ける実力ではある。


「――ですが、私は、だからこそ許せません……」


 ラブリーコミューンを握るシーナーの手に力が籠る。


「……年端もゆかぬ、世間も知らぬ、未来ある幼体を、なぜこのような過酷な運命に巻き込んだのですか。
 伝説だ才能だと、口当たりの良い言葉で唆し、無辜の彼女の義侠心を利用して、改造し実験動物にして戦地に送り込んだのでしょう、貴様らは……!!」

 怒りに満ちた黒い液体が、涙のようにシーナーの双眸から溢れて、中空に流れてゆく。


「若い個体の命を使い捨てにし、自身はのうのうと内地の安寧に逃げ隠れて、何が指導者だ……!
 同胞の命と未来を守るなら、なぜ自身から調査と交渉に乗り出して来ぬ!?
 闘争という安直かつ放埓な手段に訴えるのは、ただ自身の利益と保身を望んでのことだろう!!
 貴様らにこそ『愛』はあるのか、人間の指導者ども!!」


 黒い涙で、シーナーの姿は覆いつくされた。
 怒りの炎を独白に響かせながら、彼の言葉はただ自身の内側にだけ揺蕩う。

「己の事しか考えぬジコチューな指導者も、それに易々と騙される民草も、やはり人間は皆、莫迦ばかりなのですね。
 ……なおのこと、人間は我々が管理する必要があるでしょう。これ以上、無駄に未来を散らす若人を出さないためにも」



 シーナーの内に広がる『治癒の書』は、心を惑わすもののない、ただ静かで安らかな彼の心象風景だった。
 外界から入ってくる邪念を排除し、アプリオリな自分自身に帰って眠る、彼なりの『愛』の形だった。
 見る『自分自身』によって不断に転換する幸せな幻も、ただその者の苦痛を取り除くためだけに出現する、シーナーの心の産物である。

 相田マナの笑顔を溶かし込んだその書物に、シーナーはその声で怒号の愛を刻んでいた。


「愛を無くした悲しい人間ども! 私が、あなた方を安息の元に、殺して差し上げます!!」


 倶利伽羅のような黒い怒りの炎は、水煙のように空間を満たして、不滅の思いを新たにする。


【F-6の地下・ヒグマ帝国の隅っこ 昼】


【穴持たず47(シーナー)】
状態:ダメージ(中)、疲労(大)、対応五感で知覚不能
装備:『固有結界:治癒の書(キターブ・アッシファー)』
道具:相田マナのラブリーコミューン
[思考・状況]
基本思考:ヒグマ帝国と同胞の安寧のため、危険分子を監視・排除する。
0:まだ休めるわけないでしょう、指導者である私が。
1:莫迦な人間の指導者に成り代わり、やはり人間は我々が管理してやる必要がありますね!!
2:李徴・隻眼2への戒めなども、いざとなったらする必要がありますかね……。
3:モノクマさん……ようやく姿を現しましたね?
4:デビルさんは、我々の目的を知ったとしても賛同して下さいますでしょうか……。
5:相田マナさん……、私なりの『愛』で良ければ、あなたの思いに応えましょう。
[備考]
※『治癒の書(キターブ・アッシファー)』とは、シーナーが体内に展開する固有結界。シーナーが五感を用いて認識した対象の、対応する五感を支配する。
※シーナーの五感の認識外に対象が出た場合、支配は解除される。しかし対象の五感全てを同時に支配した場合、対象は『空中人間』となりその魂をこの結界に捕食される。
※『空中人間』となった魂は結界の中で暫くは、シーナーの描いた幻を認識しつつ思考するが、次第にこの結界に消化されて、結界を維持するための魔力と化す。
※例えばシーナーが見た者は、シーナーの任意の幻視を目の当たりにすることになり、シーナーが触れた者は、位置覚や痛覚をも操られてしまうことになる。
※普段シーナーはこの能力を、隠密行動およびヒグマの治療・手術の際の麻酔として使用しています。


※クレイ、モモイの2頭が、崩落したF-6の地面の修復に当たっています。
※相田マナの亡骸は、まだその近くに安置されているようです。

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最終更新:2014年07月02日 22:37