オゾノ・コブラノスキーはおじいちゃんの臨終を見ました

おじいちゃんは「無し」になりました

神父さんは空を指さしました

神父さんのさす指の先には膨大なサイズがありました

サイズがあまり膨大なのでオゾノ・コブラノスキーは悲しくなりました

ご臨終は目の事件でした

ご臨終は言葉の事件でした ご→り→ん→じゅ→う

サイズの終着点は「知らん」でした

オゾノ・コブラノスキーは終着点から見た「知ってる」の「有り」でした

オゾノ・コブラノスキーは大きく大きくおーーーーーーきく時計のネジをまきました

するとオゾノ・コブラノスキーの目から銀の棒がにょきにょきとのびました

オゾノ・コブラノスキーの口から銀の棒がにょきにょきとのびました

あっという間におりになりました

オゾノ・コブラノスキーはかごのカナリアになりました

カナリア・コブラノスキーはかごから逃げる計画をたてました

かごの構造を知るために展開図を描きました

展開図のかごから逃げるにはカナリア自身も展開図になる必要がありました

首尾よくカナリア・コブラノスキーはかごから逃げました

ところがどっこいしてカナリア・コブラノスキーは死んでしまいました

飼い主とえさの展開図を描き忘れていたからでした

そこで今度はかごとカナリアと飼い主とえさの展開図を描いて首尾よく逃げました

ところがどっこいしてカナリア・コブラノスキーは死んでしまいました

何度も死ぬなんてこれは夢にちがいないと思いました

ほんとうに首尾よく逃げるにはかごとカナリアと飼い主とえさと夢の展開図が必要でした

カナリア・コブラノスキーは夢の展開図を描こうとしましたが不可能でした

カナリア・コブラノスキー=オゾノ・コブラノスキー

カナリア・コブラノスキーの空間≠夢を見ているオゾノ・コブラノスキーの空間


悪夢にうなされているオゾノ・コブラノスキーに死んだおじいちゃんから手紙がとどきました

書き出しはこうです
「日付:本日ただ今この瞬間 おじいちゃんへ
 オゾノ・コブラノスキーより」


空間がぶりゅむける瞬間wへ_√レvv ̄─


(平沢進 『カナリアの籠展開図ぐるりと回る360度期待は記憶気のどくだねオゾノコブラノスキーpart3(Canary)』より「BLUMCALE 3“カナリア”」)
(Blumは独語で“花”の意)


    ∈∈∈∈∈∈∈∈∈∈


 これをよむのは、この施設の研究者だろうか。
 それとも首尾よく潜入に成功した、実験とやらの参加者か。
 少なくともそれは、魔術の心得がある者だ。
 誰だっていい。

 ぼくの名は衛宮切嗣という。魔術師だ。
 第四次聖杯戦争のマスターとしてよばれ、
 そして「聖杯」を起動させる魔力を集めるため、この研究所にラチされた。
 同じくラチされたのは、ぼくを含め5名。

 ヒグマが反乱を始めたらしい。
 できるかぎり抵抗してみるが、おそらくムダだ。
 礼装もない。
 武器は全てとられた。
 今、言峰がおりをこわして逃げた。
 時間がない。

 ただヒトの生存を祈って、ぼくが知るかぎりの有用な情報を記す。


①ここには万能の願望機である「聖杯」がある
②聖杯降臨の術式を施設全体に布いたのは「シバ ミユキ」という魔術師


 この術は、地脈の大魔力(マナ)を、ぼくら魔術師を経由して施設と聖杯に供給するものだった。
 「実験の安全を図る制限結界の術式」とは彼女の言だが。まず間違いなく建前だ。

 敷設あとのぼくらは、いわば並列電源の一部となった。
 ぼくらがいなくても術式は動き続けるだろう。
 だが。


 ――その術式には、時計塔のロード・エルメロイが気づいた欠陥がある。


    ∈∈∈∈∈∈∈∈∈∈


「……おい、聞こえているかね。アインツベルンの犬」
「……今までこの檻越しに、何回喋ってきたと思っているんだ」


 くしゃくしゃになった小さな手帳にペンを走らせる手を止めず、男は聞こえてくる声に返答した。
 男が背を預けるのは、薄暗い保護室のコンクリート造りの壁だ。
 その隣の部屋から、正面廊下に面したドアの切り欠き越しに、嘲りを含んだ囁きが届いてくる。


「フン、魔術師の風上にも置けんヤツが生意気な口を利きおって」
「……だが、役にはたったろう?」
「……ああ、この私に、ロード・エルメロイとしての矜持を取り戻させてくれる役にはな」


 隣から、キィキィと車椅子の車輪を軋ませる音が聞こえた。
 その声は嘲りの中にも微かに、感謝の念を含んでいるようだった。

「……あのバカ弟子と教会の男は逃げてしまったようだが、貴様は行かないで良かったのか?
 奴らは気づかなかったようだが、ヒグマごとき、もはや私一人で十分誅伐を下せるぞ。貴様のおかげでな。
 後で奴らの驚く顔を見るのが楽しみだ」
「はは……、それはすごい自信だ……。悪あがき出来れば、言峰とベルベットが逃げる時間稼ぎにはなるかもな」

 嘲りを返すのは、今度は男の方だった。
 彼の握る手帳には、既に自分の死を予期した文面が記されている。
 隣の声は、その言葉に、怪訝な色を含んで言葉を投げてくる。


「……何だその口振りは? 貴様も、魔術の心得ある身だろうが。
 不条理の結果とは言え、私をこうして再起不能寸前にまで追い込み、そして再起させた貴様が……。
 ――我々が『死ぬ』と思っているのか!?」


 隣の保護室の声は、ガラス障子を叩いたようだった。
 その先には、ちょうど男の部屋とは斜向かいの位置に、前後不覚のままげろげろとバケツに吐瀉物を垂れ流している青年がいた。


「――死ぬとすれば、あの自衛もできぬ、間桐の小倅だけだろう! 何を言っている!」
「……いや、彼は殺されないよ。僕らとは違い、彼はまだ魔術師として機能している、『参加者』のマスターだからな」
「なにッ……」

 隣の声は、暫し逡巡していた。
 男の発言は、まるで自身が『魔術師として機能していない』と言っているかのようだった。
 そしてまた、まるでヒグマが『襲う対象を区別する』と言っているかのようでもある。

 隣の人物は再び声を落とし、男に向けて、低く囁きかける。


「……私との戦いの後、何か、あったのか」
「実を言うとだね、ケイネス・エルメロイ。僕は、君の死を確認しているんだ。そして、言峰綺礼もこの手で殺している」
「――なんだと!?」
「……聖杯も、間近で見たさ。それから溢れる、汚濁にまみれた泥もかぶった――」


 男――、衛宮切嗣は、隣の部屋にいる死んだはずの人物に、そう呟いていた。
 衛宮切嗣の体は既に、魔術師としてはおろか、人間としての生命の存在を揺らがせている。
 その黒髪は色褪せて乱れ、やつれた顔には、『魔術師殺し』と呼ばれていた当時の精彩は全くない。
 汚染された聖杯の泥に8割がた魔術回路を破壊されていた彼は、既にただ衰弱死を待つだけの身と化していた。

 そして更に彼は、拉致され、幽閉されていたこの環境下で、自らその寿命を削るような行いを重ねてきている。
 田所恵が甲斐甲斐しく世話していた食事も、その呪いにも似た衰えを回復させることはできなかった。

 保護室のドアを破り、ウェイバー・ベルベットを救出した言峰綺礼は、切嗣のこの状態を見て、連れていくことを断念していたのである。
 そしてまた、切嗣の礼装を以って全身の魔術回路と神経を悉く破壊されている状態のケイネスも、言峰は連れては行かなかった。


「……僕らは、恐らく全員、違う時間軸から連れて来られている。言峰は、僕との戦闘前。君は、キャスター討伐直後の時間からだ。
 そして僕は……、第四次聖杯戦争が終わって、五年も経った後から……」


 衛宮切嗣の送る日々は、他のマスターたちのそのちぐはぐな状態を知った瞬間から、すべて最終地点からの回想となった。
 この時間軸の矛盾に気付いたのは、聖杯戦争の全てと、その後に起きた惨劇を経験している彼だけだった。

 彼にとっては現在も未来も回想の過去であった。
 彼の見る物聞く物はすべて回想になった。
 回想はのこりの道のりの計量だった。

 隣の魔術師――、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの歯噛みが聞こえる。
 アーチボルト家9代目当主であり、時計塔筆頭の魔術教師を務める彼は、その不可解な現象を引き起こす原因を、一瞬で察知していた。


「並行世界への干渉――、『第二魔法』か……!」
「恐らくね……」
「だとしても……! ヒグマが『魔法』を使うとでもいうのか!? 馬鹿らしい。
 あの不遜にも自分を『魔法使い』だと言って憚らなかった小娘の魔術結界も、このロード・エルメロイから見れば穴だらけだったというのに……。
 ここで作られた『穴持たず』とかいう笑えるネーミングのケダモノなど、たかが知れていよう!」
「だがそのケダモノに……、既に人間は出し抜かれているんだぜ……?」

 遠くに聞こえていた獣の唸り声が、次第に近くなってきていた。
 時折、研究所職員のものと思われる悲鳴。銃声。そして断末魔。

 切嗣は、もう介助なしではほとんど動けなくなってきているその体を億劫に起こし、書き終わった手帳を閉じる。
 ウレタンの床に置かれたペンは、食事に出た手羽先の骨を割ったもの。
 そしてインクは、彼自身の血だった。


「……脱出のための青写真は、何度も描いてみた……。引き出した情報で、この研究所の構造も描いた。
 製作されたヒグマたちとの戦闘も、『君の導いてくれた対抗手段』込みでシュミレーションしてみた。
 だがやはり……、僕らの脱出は不可能だろう」
「……何故だ――!?」
「どう考えても……、研究員に全く把握されていないヒグマが、僕らが誘拐された当初から4体以上いたんだ。
 この、科学的にも魔術的にも、完璧と思われた防衛手段を講じている研究所でね」


 衛宮切嗣の呟きに、隣の部屋のケイネスは、完全に押し黙っていた。

 ――まるで、あの魔術工房が陥落した時のようだ。

 と、両者は共にそう思考する。


 ケイネス・エルメロイは、第四次聖杯戦争の折、ホテルの1フロアを丸々借り切って、完璧な防衛機構を有した魔術工房を敷設していた。
 しかしそれを衛宮切嗣は、ホテルのビルごと爆破するという、魔術師には予想もつかぬ荒業で完全に破壊してのけた。

 50体以上製作されていたヒグマたちの情報を、切嗣は、日々やってくる田所恵や布束砥信から、少しずつ聞き出している。
 『穴持たず○○』という通し番号で呼ばれる彼らの情報を整理していくと、混沌とした情報群の中にどうしても、明らかにデータが欠落しているヒグマが出てくる。
 製作途中だった二期ヒグマの『脱走事件』なるものが発生し、その時に、データが混乱し散逸したという話は聞いた。
 しかしその後も、時間をかけて日々のサーベイランスを洗うと、不自然なほど曖昧で、情報の少ないヒグマの存在が浮き彫りになってくる。
 実測値がどうこうという話ではない。そんな情報は田所は知らなかったし、布束は固く守秘していた。

 今日はどこそこの何番の食欲が旺盛だった。
 固有能力に成長の兆しが見えた。
 似たようなヒグマはこんな仕草で区別できる。
 蜂蜜壺に名前をつけたヤツがいる。
 あそこのヒグマは綺麗好きで檻の整理が上手い――。

 そんな日々の他愛もない会話を集約して初めて、『まったく彼女たちの印象に残っていない』ヒグマがかなりの頭数存在していることが、把握できたのだ。


 ヒグマの中には、人語を解する者もいるという。
 その上、『シバ ミユキ』という魔術師は研究所の職員であり、かつ『二期ヒグマ』の一員としてもその名を連ねている。
 この研究所の魔術的管理を一手に引き受ける彼女は、ただでさえ島内の術式の真相をその他職員に明かしていなかったきらいがある。
 既にヒグマたちは、人間の予想もつかぬ能力や計画を有しているのではないか――。
 衛宮切嗣はその予感を、ほとんど確実なものとして考えていた。


「……キリツグ。そんな悲観的にならないで下さい」
「……そうですマスター。我々サーヴァントが、必ずやお守りします」


 押し黙る男たちの前にふと、そんな凛とした声が響く。
 衛宮切嗣の前にいつの間にか、青と銀の甲冑を身に纏った凛々しい女騎士が現れていた。
 そしてケイネスの元にも、毅然とした青年の声が響いている。

 ――セイバーと、ランサー。

 第四次聖杯戦争における彼らのサーヴァントであり、そして、既に令呪とマスター権を失って久しい彼らの元には、現れるはずのない者たちであった。
 更にここは、聖杯へ送る魔力の経路を一部流用し、魔術的に入退出不可能な結界が張られた保護室の中である。
 しかしケイネスと切嗣は、彼らの出現を奇異に思う様子など微塵もない。


 ――これこそ、ロード・エルメロイが発見・解析し、魔術師殺しが拡張・利用した術式の欠陥。


「フン、ようやくお出ましか。そんな遅参でこのロード・エルメロイのサーヴァントが務まると思っているのか」
「失礼を致しました。ですが熊ごとき、『小なる激情(ベガ・ルタ)』無しでも見事討ち果たしてご覧に入れましょう」
「当たり前だランサー。――やれ」
「はっ」


 ケイネス・エルメロイの保護室の戸が、破られる音がした。
 拳法家でもある言峰や、今のランサーが行なったように、物理的な力でドアを破壊することは十分可能だった。
 切嗣に向けて、隣からケイネスの嘲笑が届く。

「どうだねアインツベルンの犬。他のマスター連中に隠れ、私と貴様とで夜な夜な練り上げてきたこの対抗手段だぞ。
 再び我らと合いまみえた高ランクの英霊2体。これで脱出できんはずがあるまい」
「ランサーのマスターが仰る通りですキリツグ。弱気にならないで。
 あなたが何故あの時私に聖杯を破壊させたのか、その理由も、わかりましたから」
「セイバーのマスター。私と我が主の仲を再び結び付けて下さり、感謝の至りです。あなたの思い、無駄には致しません」

 保護室の戸を、セイバーは切嗣に微笑みを向けたまま『押し開ける』。
 結界の仕組み上、内側からは開かなくなっているはずのドアを。だ。
 その向こうの廊下から、緑色の軽装備に身を包んだ優男、ランサーも笑いかている。

 衛宮切嗣はその笑顔たちに目をやることなく、ただ静かに、床の一部を剥がして、掴んでいた自らの手帳を隠した。
 結界の張られているはずの、硬質ウレタン塗床の、保護室の床に――、である。
 セイバーはそんな自らのマスターに慈しむような視線を投げ、そして廊下の外へと出ていく。


「……帰りましょうマスター。アイリスフィールがいなくとも、あなたにはイリヤスフィールが。
 そして、息子さんも――。あなたを待っているはずですから」


 それだけ残して、徐々に近づいてくる唸り声の方へと、セイバーの姿は歩み去っていた。

 その姿を見届けた後、衛宮切嗣は背をもたせ掛けていた壁から、ずるずると横に倒れる。
 振り絞っていた気力は、とうに底を突いていた。
 もう呼吸も、心拍も、自分でもほとんど聞き取れない程に微弱だ。
 張り詰めさせていた交感神経が切れた彼にはもう、死という終着点が待っているだけだった。


「なっ……!? グラニア!? フィン!? お、俺を、許してくれるのか――!?」


 朦朧とする切嗣の意識にその時響いてきたのは、ランサーの歓喜に満ちた叫び声だった。
 そして続けざまに、人間が地に倒れる重い音。

「ソ、ソラウか……! こんなところまで、わ、私を、迎えに来てくれたのか!!
 あ、ありがとう……、ありがとう……! やはり私たちの愛は、本物だった……!!」

 そして、勢いよく軋む車輪の音と、ケイネス・エルメロイの快哉。
 華やいだ彼の声は廊下をしばらく進み、そして絞られるようにフェードアウトする。

 その後に聞こえたのは、何度も空を切る、セイバーの剣捌きが成す轟音。


「ひっ――!! 蛮族がッ――!! ヒグマの中から、蛮族がぁっ――!!」


 悲痛な声を上げるサーヴァントの言葉に切嗣は、霞む目を開く。
 彼の部屋の前の廊下を、セイバーはじりじりと後退しながら、何者かに応戦していた。

 その何者かは――。
 存在していなかった。

 切嗣の視界で、セイバーは、何もない空間に剣戟を受け止め、何もない空間に向けてそのエクスカリバーを突き出して戦っている。
 彼女はただ一人で、存在しない敵に追い詰められていた。

「た、助けて――! 誰か、助けてくれ――!!」

 そして彼女は遂に、居もしない誰かに、仰向けに押し倒されていた。
 しかしその直後、彼女の表情は喜びに変わる。


「あ、あ――! ランスロット!! あなたなのだな、サー・ランスロット!!
 やはりあなたは、忠節の騎士だ……! 私の、最高の、騎士だ……!!」


 何者かに助けられたようにセイバーは身を起こし、ここには居ないはずのバーサーカーの真名を叫んでいた。
 彼女は感涙と共に空中に手を差し伸べ――。
 そして、その眼にこの上ない感激を湛えたまま、地面に倒れていた。

 彼女の姿は次第に、空中に溶けるようにして消えてゆく。
 ――死んでいた。


 一連の様子を瞠目して見つめていた切嗣の元に、ヒタヒタと歩み寄ってくる足音がある。

「――ここにいたのね。もう、死んでしまったのかと思ったわ、切嗣……」

 その足音の主の姿を見て、いよいよ切嗣の驚きは極点に達した。
 無意識のうちに、彼は乾いた笑いを漏らしていた。


「ハハ……。ハハハ……」


 これは夢にちがいない。と、切嗣はその時思った。
 そしてやっぱり、僕らがここから逃げるなんて不可能だったんだ。とも、切嗣はその時思った。

 瀕死の彼の目に映ったのは、雪のように白い長髪をなびかせ、女神のように微笑む女性の姿。
 彼の妻であり、そして聖杯の器となって死亡したはずの、アイリスフィール・フォン・アインツベルンの姿であった。


 檻の構造を知るために展開図を描いた。
 展開図の檻から逃げるには切嗣自身も展開図になる必要があった。
 切嗣は『檻』と『自分』と『研究所』と『ヒグマ』の展開図を手帳に描いた。
 しかし本当に首尾よく逃げるには、『檻』と『自分』と『研究所』と『ヒグマ』と『夢』の展開図が必要だった。


 切嗣は夢の展開図を描こうとしたが不可能だった。


「……切嗣。今まで良く頑張ったわね……。もう、大丈夫よ……」
「――来るんじゃない。ニセモノのアイリに抱かれたところで、何の慰めにもならない」

 微笑みを湛えて室内に歩み寄ってくる妻の夢に対し、瀕死とは思えぬ張りのある声で、彼は言い放っていた。
 床に倒れたまま爛々とした眼光を浴びせてくる切嗣に、アイリスフィールはびくりと身を竦ませる。
 切嗣は、断固とした意志で、彼女の接近を拒んでいた。


 ――こいつは、幻覚を使う魔術師なのだ。しかも、セイバーやランサーの対魔力を突破するほどに、強力な。
 ――絶対に。絶対に、僕の背後を、覗かせては、ならない……。


 既に彼女の正体を察知しているらしい彼に向け、それでもその映像はおずおずと声を絞る。


「……これは、あなたが望んでいる夢でもあるのよ? 私が、痛みもなく、あなたを安らかに眠らせてあげるから……」
「……行けよ。介錯なんていらない。どうせ僕はすぐに死ぬ。大人しくヒグマに喰われるさ」
「そう……。わかったわ」


 アイリスフィールは静かに彼の元を離れ、壊れた扉から再び廊下へと歩んでいく。
 彼女の姿は最後に切嗣へと振り向き、慈愛を湛えて彼に笑いかけていた。


「安心して、切嗣……。あなたの正義は、私たちが、きっちり受け継ぐわ……」
「そう、か……。あぁ……、安心した……」


 彼女の映像が立ち去ったことを確認した後、力尽きた切嗣の眼は、閉じられた。

 その耳にはすぐに、何頭ものヒグマの唸り声が戻ってくる。
 廊下の向こうから、人間の肉に齧りつく音、車椅子を蹴飛ばす音。
 そして、獰猛な獣が自分の保護室になだれ込んでくる音。
 自分の首が折れる音。


 もう、痛みは無かった。

 ただ、安堵だけがあった。


 僕の正義は確かに受け継がれる。
 僕の死という出来事に隠されて。


 悪夢にうなされる誰かの元に、死んだ僕からの手紙が、きっと届く――。
 僕の描けなかった最後の展開図を、描ける者が、きっと来る――。


    ∈∈∈∈∈∈∈∈∈∈


巴マミは交通事故でりょうしんと共に瀕死になりました。

瀕死の巴マミは魔法少女になって自分だけ生き返る契約をしました。

生き続けるために魔女をすくいました。

りょうしんの死から逃げるには使い魔もすくう必要がありました。

首尾よく巴マミは死から逃げました。

ところがどっこいして巴マミは死んでしまいました。

人間とヒグマの関係をすくい忘れていたからでした。

そこで今度は魔女と使い魔と人間とヒグマをすくって首尾よく逃げました。

ところがどっこいして巴マミは死んでしまいました。

ソウルジェムが魔女を生むならみんな死ぬしかないじゃないと思いました。

ほんとうに首尾よく逃げるには『魔女』と『使い魔』と『人間』と『ヒグマ』と『りょうしん』をすくうことが必要でした。

巴マミは死んだ『りょうしん』をすくおうとしましたが不可能でした。


    ∈∈∈∈∈∈∈∈∈∈


 巴マミは、切々と語った。
 纏流子に突かれて切り出された彼女の言葉は、次第に溢れ、堤防を破るように流れ出していた。

 巴マミが魔法少女となった理由。
 主義主張のすれ違い。
 強迫観念のように遂行してきた魔法少女の務め。
 破綻した師弟関係。
 この島で体験したヒグマとの関係。
 そして自分と、自分の存在理由の、死。


 彼女の良心を保ってきた、『正義の味方』としての自分の姿は、暁美ほむらから魔法少女の真実を伝え聞いた時、根底から否定されていた。
 その墓を掘り返すようにして、巴マミは自らを語った。
 墓標に建っていた『正義の味方』の像は、粉々になっていた。


「……私の倒してきた魔女はみんな、絶望した後の魔法少女自身だった。
 仲間を救おうとして、人々を救おうとして。正義だと思ってやってきた私の行為は、むしろ、裁かれるべき、罪だったのよ……」


 暁美ほむらの盾の中。
 距離感のない闇の中に浮いているかのようなその空間で、彼女の紡ぐ自分の歴史は、ほどけた糸玉のようにその場にうず高く積もるだけだった。

 流子を始め、球磨川禊、碇シンジ、ジャン・キルシュタイン、球磨は、彼女の語る言葉を静かに聞いていた。
 彼女が思い悩んでいた理由。
 魔女とも、ヒグマとも、もう自分は戦えない――。
 そう語る理由は、確かにその場の全員が理解していた。

 そして同時に、そう悩む理由は彼女に存在しない――。とも、その場の全員が考えていた。


 片太刀バサミを携えてどっかりと腰を下ろす纏流子に向けて、巴マミは大粒の涙を零しながら顔を振りあげる。


「……滑稽じゃない? こんなドキュメンタリー。はたから見てたキュゥべぇには、さぞ面白い駒に映ってたんでしょうね私は……」
「……あたしに言えることはだな。人は人、お前はお前。お前の所業は誰にも咎められるようなことじゃねぇってことだよ」

 周囲の者から、流子の言葉に頷きが重なる。
 眼を見開いていたマミは、その返答に瞑目し、僅かに体を震わせた。

「……ふふ、結局そうなのね。なんだか、興奮して話し過ぎてしまったけれど。付き合わせちゃってごめんなさいね」


 マミは静かに笑いながらその身を引く。
 解ってくれたのか。と、流子は微かにその口元を緩ませる。
 ほとんど半狂乱のように思いの丈を溢れさせていたのが嘘のように、巴マミの表情は、纏流子の一言で柔らかな笑顔になっている。

 巴マミはゆっくりと立ち上がり、顔を伏せたまま、魔法少女衣装の帽子と髪飾りを取った。
 そして手を離すと、それらはひらひらと彼女の脚元の漆黒に落ちる。
 マミは笑いながら、その右脚を、振り上げていた。


「誰にも裁けない罪なら――、自分で死ぬしかないのよね――!!」
「――!?」


 その場のほぼ全員が驚愕した。
 彼女の踵が落ちる先には、髪飾り――、彼女のソウルジェムがあった。
 自殺だ――。
 と、流子やジャン、シンジや球磨川が気づいた時には既に遅かった。


「――沈んでは、いかんクマ」
「なっ……」


 マミの鉄槌が自分の魂に下される寸前、軽巡洋艦の航路が床面を削るように彼女の足元へ斬り込む。
 艤装から蒸気を吹きながら、マミの踵落としよりも一瞬早く、艦娘の球磨がソウルジェムを蹴り飛ばしていた。
 水面蹴りに煽られて宙に舞い飛んだその羽飾りと帽子を、球磨はすぐさまキャッチして、自分の頭に被せてしまう。

「く、球磨さん……!? 返して、返してよぉ!! 私はもう、生きていられないのよぉ!!」
「おい! 自棄になるんじゃねぇよマミ!! お前が襲われてる奴らを助けて、守ってきたのは、確かなんだろうが!!」
「あ、あなたには、解らないわよ、私の気持ちなんて――!!」

 自分のソウルジェムを奪った球磨に即座に追いすがろうとしたマミの体は、背後からすぐさま流子に羽交い締めにされる。
 星空凛の看護に当たっている球磨川を除いた、ジャンとシンジも、興奮するマミをなだめようと慌てて駆け寄っていた。
 彼女たちから数歩引いて佇む球磨の姿を、巴マミはもがきながら睨みつけていた。


「……球磨には、マミちゃんの気持ちが、よーく、解るクマ」
「なんですって……!?」
「今のマミちゃんはまるで、初めての出撃から帰ってきた後の、駆逐艦連中みたいだクマ」


 魔法少女としての自分のアイデンティティにすがって来た自分の気持ちは、他の者には決してわからない――。
 そう思っていた巴マミに返ってきたのは、意外過ぎる球磨の言葉だった。
 余りにも落ち着いた、母親のような微笑みを湛えている球磨に向けて、マミ以外の人員から口々に疑問が噴出する。

『そう言えば、球磨さん。僕たちはあなたのことも良く知りませんでしたね』
「……お前もどっかで、トモエのような経験をしたのか!? しかもまるで、軍全体が関与してるみたいな言い方……」
「そもそもお前の、その不思議な重装備はあたしも気になってたんだ。まるで船みたいな……」
「エヴァみたいな技術が使われているのかと思っていましたが……」

 球磨川、ジャン、流子、シンジから投げられた言葉に、球磨はその小さな胸を張って仁王立ちする。
 アンバランスに巨大な背部艤装が、その長い茶髪の裏でギシギシと軋んだ。


「何を隠そう、球磨は『艦娘』。大日本帝国海軍所属の軽巡洋艦・球磨の生まれ変わりだクマ!
 前世から数えれば堂々の卒寿越えクマ。お年寄りは敬うクマー
「!?」
「ほむらの話も合わせて聞けば、何のことはないクマ。魔法少女も艦娘も、その根本は大差なかったクマ」


 球磨が語るには、艦娘は、第二次世界対戦期の日本や独逸の軍艦の魂を有した少女なのだという。
 魔法少女の概念に落としてみれば、軍艦一隻一隻のソウルジェムを、少女の肉体という外付けハードウェアで稼働させている状態になる。
 肉体を再び『建造』さえすれば、また自分自身を取り戻すことができる。というのも、魔法少女と同様の点だった。

「そして……、球磨たち艦娘が日夜戦っている相手、『深海棲艦』は、轟沈した艦娘の成れの果てだクマ」 
「……本当なの!?」
「確かめたヤツがいるわけじゃないクマ。でもそれは、新造の艦娘へ訓練初日に伝えられることクマ。
 『敵は過去に沈んでいった艦の怨念が実体化したもの』、だと」
「……」

 巴マミを始め、一斉に言葉を飲んでしまう皆へ向け、球磨は朗らかにウィンクをした。


「ま、襲ってくる敵は確かに『おんねん』ってことクマ!!」


 球磨の渾身のギャグは、その空間全体に広がって、消えた。
 鎮座する巨大な砂時計以外は広大な闇が微かな星屑の間を埋めているかのような暁美ほむらの盾の中は、暫く、その砂時計の砂が落ちる音しか聞こえなかった。
 凍り付いたかのような人々の反応に、球磨はあてが外れたように頭を掻く。

「あれ……。案外ウケんクマ。伊勢の受け売りはやめた方が良いみたいクマ……」

 とにかく。
 と、前置きをして、球磨は何事もなかったかのように話を続けた。


「魔女だって、かつて共に戦った魔法少女の僚艦だクマ? なら、マミが今までやってきた行為には、何の非の打ちどころもないクマ。
 みんなのため、彼女たちを救ってきた、賞賛されるべき行為だクマ」
「――えぇ!?」


 そうして発された球磨の言葉は、巴マミには理解不能だった。
 自分が今まで悩み、吐露してきた心とは、真逆の答えがそこに提示されていたのだから。


 ――魔女を、救う。


 そんな行為をしたことは、私にとって一度も無かった。
 救ったつもりでいたのは、魔女に襲われていた人間。
 そのために、魔女も、魔女の使い魔も、掬い洩らし無くこの手で打ち倒してきた。

 それはみな、両親をむざむざ死なせてしまったという罪悪感からの逃走。
 一人でも多くの人々を助ければ、それだけ自分の良心は生きながらえた。
 だが、魔法少女の仕組みがわかってしまえば、使い魔まで刈り取ってきた自分の行為は、魔法少女全体にとって、明らかに罪だ。
 将来的にグリーフシードを孕んだはずの使い魔まで倒してしまえば、それで生き延びられたはずの魔法少女の未来を、私は刈り取ってしまっていたことになるからだ。

 そうして魔女になった魔法少女を倒して、私は正義の味方を気取って来た。
 でもその敵は、かつて共に戦った魔法少女の仲間たち。
 私がしてきたのは、仲間を殺す人殺し。

 これが罪じゃなくてなんだというのか。


 倒すのも罪。
 倒さないのも罪。
 それなら。
 魔女になって絶望を産む前に、みんな死ぬしかないじゃない――!


「なんで……! なんであなたたち艦娘は、そんな事実を知って、平然と戦いを続けられるの!? 敵は、仲間だったのよ!?
 それなら、絶望する前に。そんな怪物になって人を襲う前に、死ぬべきじゃない!!」
「そうして死ぬことこそ、真の絶望クマ!! そうした考えこそが、魔女と深海棲艦を産むクマ!!
 かつての仲間だったからこそ、その絶望を晴らし、成仏させてやることが情けだと、なぜ思えんクマ!?」
「――!!」


 驚くマミの前に、球磨はその頭からマミの帽子を取って、そのオレンジ色のソウルジェムを見せる。
 その宝玉の中に渦巻く色彩は、『ピースガーディアン』との戦いの前よりも、さらにその明度を落としてきているようだった。


「……マミちゃんがここで死ねば、マミちゃん本人は魔女にならずに済むのかも知れんクマ。
 でも、それまでに積もったマミちゃんの絶望は? マミちゃんの周りの仲間たちの心は? どうなるクマ?
 その負の心は、きっと魔女の怨念を深めるだけクマ。マミちゃんの後悔と絶望は、深い意識の底で船幽霊の仲間入りを果たすだけクマ」

 船幽霊は、哀しい亡霊だ。
 水難事故で他界した人の成れの果ては、自分たちの仲間に人々を引き込もうと、手招きをする。
 汲めども尽きぬその妄念は、渇望にも似て留まるところを知らない。
 彼らに情を移し、その手に柄杓を握らせてやることは、一見、彼らの望みを叶えてやることのように思えるだろう。
 しかし、その柄杓で水を汲み、また新たな船を沈没させても、彼らの絶望は決して晴れない。
 その暗黒の淵に、新たな船幽霊の手が一本増えるだけだ。

 何万の、声なき亡霊の呼ぶ声。
 怒号の、深海棲艦の撃つ砲雷。
 異形の、魔女の引き込む結界。

 それは沈んできた、絶望してきた、少女たちの声だ。

 仲間を求め、消えぬことのない寂しさに身を捩っている彼女たちの嗚咽だ。


「……真に彼女たちのことを思うのなら、寂寥という絶望に苦しみ続けている彼女たちを解放してやることしか、無いクマ。
 彼女たちの無念を背負い、雷撃処分することこそ、真の恩情クマ。それ以外に、彼女たちに寄り添える手段はない。
 だから球磨たちは、彼女たちをも救うために、戦ってきたんだクマ」


 割り切れ。
 と、球磨はとどのつまり、巴マミにそう語り掛けているのだった。

 死んだ者は、魔女になった者は、戻ってこない。
 少なくとも、自分たちの知る限りにおいて、そんな例は存在しない。
 ヒグマとも、人間とも、違うものなのだ。と。

「……そうなの。……そうだったの」

 巴マミは、呆然とそう呟いていた。
 その次に彼女に訪れたのは、涙と鼻水だった。


「じゃあ……、そんなことで悩んでた私は、正義の味方失格よね……。本当に、情けない……」
「!?」


 鼻水を啜り上げながら、巴マミは自分のりょうしんが死んだ墓穴を掘り返していた。
 掘れば掘るほど、弛んだ地盤からは水が溢れてくるだけだった。

 彼女が本当に必要だったのは、その仮初のりょうしんを保っていた自分の姿だった。
 もしくは、本当に死んでしまったりょうしんをすくうことだった。
 りょうしんの墓標に建てた凛々しい姿は、粉々に打ち壊されていた。
 りょうしんの埋まった場所は、もうわからなくなっていた。


 球磨が修繕してくれたのは、その像の土台だけだった。
 水の漏る穴を塞ぐだけなら、それで十分だったのかもしれない。

 ――しかしそれなら。
 そんなことにも思い至らず、臆面もなく騒ぎ立てた私はなんだ。
 そんなことで思い悩んで、凛さんを守れなかった私はなんだ。
 そんなことも察しきれず、自分の命のみを願った私はなんだ――。

 巴マミは、りょうしんをすくうまで、墓穴を掘るしかなかった。
 りょうしんの墓穴から溢れる水に流されて、砕かれたマミの姿はどんどん散逸していく。
 修繕したマミの良心の一部を掴んだまま、球磨はその水流の中で困惑するしかなかった。


「恥ずかしがる必要はねぇ。気に病む必要もねぇ。当然のことなんだからよ」
「……え?」

 流されてゆく像の肩を、その時、しっかりと掴んだ者がいる。
 ジャン・キルシュタインが巴マミに力強く頷きかけていた。


「女の子はな――、守られていいんだ!! いくら強くても完璧な奴なんていねぇ!!」


 ジャンは、向こうで倒れている星空凛へ視線を移しつつ、力説する。


「その点、リンは男らしかった。女が無理して男らしくしないでもいい。
 アケミだってそうだ。いつでも頼って、いいんだぜ――!!」


 凛の隣にいる球磨川禊が、眼の端を引き攣らせて半笑いになっている。
 巴マミとしても、ジャンが何を言っているのか、一瞬よくわからなかったし、よく考えてもよくわからなかった。
 ただ伝わる、その熱意のような何かに思考が奪われて、涙が止まる。
 水流の中に大量の土嚢が投下されて無理矢理堰き止められたような、そんな感じだった。


「……あのな。そんなことで誰もお前を蔑んだりしねぇし、情けなくもねぇよ。あたしたちはお前が必要なんだから」
「マミちゃん。前線に立つだけが艦船の務めじゃないクマ。輸送や護衛や休息も必要な仕事。立派な正義クマ」
「……というか、今までそんな辛い目にあってもめげずに一人頑張って来たというだけで憧れちゃいますよ。
 その憧れの人が、自分たちなんかに色々と吐露してくれたっていうのは、むしろ嬉しいです」


 ジャンの言葉を皮切りに、次々と水流を漕いで人が集う。
 流子がマミの両腕を見つけていた。
 球磨は墓穴からマミを引っ張り上げ、代わりにその涙の水源へ像の土台を投げ込んだ。
 散り散りになっていた彼女の胴部は、その下流で全てシンジが掬い上げていた。

 その奥で微笑みながら事態を見守っていた球磨川へ、ジャンが歩み寄ってその脇を小突く。

『え、いや、ダメでしょこんなシリアスな場面で僕が言葉かけちゃったら』
「知らねーよ、とにかく何か思ってるなら言ってやれって」

 何やら軽く揉み合った末に、パンツ一丁の球磨川禊は、出来る限り真面目な顔を作って、マミに声をかけていた。


『うん……。正義……。正義(ジャスティス)と言えばね。こうして泣いているマミちゃんの姿こそ正義なんだよ』
「……へ?」
『いや、だからね。何を言いたいかと言うと。今のマミちゃんは、すごく。すっごく、カワイイ。ってこと』


 盾の中は再び、砂時計の音しか聞こえない静寂に包まれた。
 数秒間、真顔を保っていた球磨川は、暫くして、硬直した周囲の人員の様子を見回し始める。
 マミの顔は、それにつれて次第に赤みを増していった。

『あ、あのさ。みんなギャップ萌えって知ってる? こう優等生がふと自分の弱い面を曝け出したその瞬間。
 そういう時こそむしろ人気が高まるんだよ。みんなが言ってたことだってそうだろ? ねぇ黙らないでよ』
「……もういい。もういいんだ。口を閉じろクマガワ」
『え、嘘。そこまで本気に聞こえたわけ!? いやいやいやマミちゃん。
 確かに僕本気で言ったけど、そういう意味の本気でも……と、言い切れるわけでもないけど。とにかくそうじゃないからね!?』
「返事は後で二人っきりでもらえ。な?」
『うわー、なかったことにしたい。この空気感』

 ジャンに肩を叩かれた球磨川には、周囲からの憐れむような視線が向けられていた。
 球磨は一つ咳払いをして、真っ赤になった顔で視線を泳がせているマミへ向き直る。


「……聞いたクマ? マミちゃんは皆に必要とされてるクマ。特に、純朴な男子の片想いを無下にして散るわけにいかんことは、わかるクマ?」
「そ、そうよね……。ま、まさか球磨川さんが、私のことをそんな風に思っていたなんて……」
『もしもーし……。話が膨れ上がってませんかねー……』
「……それにつけて。球磨はお前にちょっと物申すことがあるクマ」


 球磨は直後、巴マミの帽子を被ったまま、つかつかと球磨川の元に歩み寄っていた。
 彼女は先程の球磨川の発言から、マミの心を取り戻す、ダメ押しの一手を見出していた。

 『僕は重い話を軽く笑い飛ばすのが大好きなキャラだ』と、彼自身が評するその性質こそ、今のマミに必要なものだった。


『これ以上なんだって言うんだい僕に……』

 辟易とした表情を見せる彼に向け、球磨はビシッとその指を突き付ける。


「球磨川というからには、川下りの一つくらいしたことがあるクマ!?」
『ん!?』


 突如彼女からは、その他の人物にはさっぱり理解不能な詰問が飛び出していた。

『いや……、ないけど。何だっていうの一体……?』
「それなら球磨川5大瀬は? 流域の温泉地は? 言えるクマ!?」
『いや知らないよ!!』
「一つくらい知っとけクマ!!」

 先程の母親のような表情とは一変して、小学生のように地団太を踏んで球磨は荒れた。
 その豹変振りは、周囲の者の理解を逸していた。

 球磨はそして思いつめたように唇を噛み、その眉を怒らせて叫ぶ。


「――お前に、『球磨川』を名乗る資格はないクマ!! あと球磨とも被ってるクマ!! 今すぐその名前を捨て去るクマ!!」
『何だよそれ!? 勝手に僕の名前の4分の3を持っていかないでくれよ!!』
「球磨なんか、球磨川をとったら名前の2分の3が消えて虚無を超越するクマ!! これでも恩情をかけてやってるクマ!!」
『意味わかんないんだよなぁ!!』
「……もしお前が本当に球磨川の化身なら……。球磨は今ここで自沈して、お前にこの名を明け渡そうと思っていたクマ……」
『そんなアイデンティティの根幹に関わる問題だったの!?』
「それなのに……。この有様は酷過ぎるクマ!! マミちゃんとくっつくのは、自分の名を取り戻してからにするクマね!!」
『だぁから違うってそこは!!』


 ――何かの演技なの?

 と、巴マミは彼女の取り乱した姿を見ながら思う。
 何かしら思う所が球磨にあったのは確かだろう。しかし、涙を浮かべて心情を吐露するその姿は、どう見ても彼女の本心だ。

 名前一つで、自殺まで思い詰めるような乱心ぶり。

 先程までのマミ自身と重なるようなその姿は、どう贔屓目に見ても、評価されるような正義ではない。
 しかしそれでもマミは、球磨を貶めたり、蔑んだりしたくはならなかった。


 ――的確な采配や戦闘や配慮のできる憧れの人にも、こんな一面があったんだ……。


 他人から見れば些細かも知れないことに必死になるその姿は、決して、彼女への尊敬や憧憬を減らすものではなかった。
 むしろそれは、彼女への親近感を増させ、仲間としての心を、深めるようなものだった。
 そう。
 この感情を言い表すならば。


 ――『カワイイ』。という言葉になるんだ。


「今からお前は――!」


 マミが、今までにすくわれてきた自身の姿を球磨に見た時、球磨は握りこぶしで涙を拭い去っていた。
 そして激しい怒りと哀しみを顕わにし、彼女は戛然と言い放った。
 その指先が、風を切って球磨川へ突き付けられる。


「今からお前は、『みそくん』と名乗るクマ!!」
『みそくん――!?』


 球磨川禊-球磨川=禊。
 禊=みそぎ。
 みそぎ×愛称=みそくん。

 よって球磨川禊は、今後みそくんと呼称されることが適している。
 証明終わり。


「みそくん……!!」


 両者のやり取りを見つめていた一同は、総員息を飲んだ。
 その愛称の持つ響きに、彼らは身を震わせる。


「すごい……! ちょっとよそよそしい雰囲気のあった球磨川さんが一気に親しみやすく……!」
「ウォール・シーナの坊ちゃんから、ウォール・マリアの農家になりました。って感じだな……」
「田楽にするとうまそう」
『誰か否定して!!』


 シンジ、ジャン、流子から口々に伝えられる感想に、みそくんは悶絶した。

「そう嫌がるなよ。言い易くていいじゃねぇか。なぁ、裸パンツみそくん」
『その言い方だけはやめろぉ!!』

 男子高校生としての尊厳に関わるジャンからの呼びかけを、みそくんはありったけの意志で拒絶する。
 肩を叩いてくるジャンの腕を振りほどいて、彼は必死に巴マミへ呼びかけていた。


『ねぇ、マミちゃん!! 何とか言ってくれよマミちゃん!!』


 呼ばれたマミは、一瞬きょとんとして、背後の纏流子と顔を見合わせた。
 今まで羽交い締めにされていた両腕が放される。

 マミは彼の元まで歩いて行って、その視線の高さに跪いた。
 口許には、自然に、綻ぶような笑みが浮かんでいた。


「そうね……。カワイイんじゃないかしら? みそくん……」
『マ、ミ、ちゃ、ん……』
「カワイイのは、正義なんでしょう?」


 誰からともなくクスクスと笑い声が漏れてくるその空間で、呆然とするその男子の姿を見ながら巴マミは、崩れて灰に還った自分の像を見つめていた。
 最後に残ったりょうしんの顔は、『みそくん』が、捕まえていてくれた。

 赤面し、泣き笑い、ぐちゃぐちゃに崩れた表情だったけれど。
 崩れたままでも、それはそれで、良いものだった。

 粉々に展開された自分の姿を他人の中に見て、マミは自分の辿って来た道筋の正義を確かめられた。
 死んだりょうしんから逃げて、りょうしんの遺灰に還ったその道は、その正しさを担保された。
 他人の中にだけある、マミ自身だけの道は、今ようやく、その灰で描かれた、一枚の地図を得ていた。

 可愛い、愛すべき、愛されるべきものは、ここにある。

 球磨から恭しく載せ返された帽子の羽飾りは、甲になり切らないまま、乙な色彩を放っていた。


 ガラス玉に入ったままのビショップヒグマがそんなやり取りを見つめる中、ふと盾の外から、その空間に喧騒が響いて来ていた。


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最終更新:2015年01月25日 19:02