巴マミの手の甲には、先程まで存在しなかった、赤い文様が描かれていた。
平たい楕円を横たえて、さらにその端から下に半円を描いたような一画。
その隣で耳のように慎ましくCの字を描く一画。
それらの元を下支えするように広く弧を開いて受ける一画。
あたかも、斜めから見下ろしたティーカップのように見える図案だった。
「……こんな簡単な詠唱で、本当に魔力を獲れるのね」
巴マミはその手に実際にティーカップを持ちながら、充溢する魔力の感触に嘆息する。
「何か、痛みや不調は感じる?」
「いいえ? 暁美さんの話だと危険もあるようだったから切り上げたけど。
太陽のようなイメージとか激痛とか……、そんなのは全く感じなかったわ」
「そう……。個人差かしら。何もないならそれに越したことはないけれど」
堅いソファーに腰かける彼女へ、向かいの席から暁美ほむらが話しかける。
二人はそうしてゆっくりとカップに口をつけ、芳醇なハーブティーの香りを鼻腔に遊ばせた。
「……美味しい。レモンバームとペパーミントね。魔力と一緒に、勇気まで満たしてくれそう」
「ええ……。背中を支えてくれるような……。気のせいでもソウルジェムの濁りが薄れる気がするわ」
「それはもう、あたしたちの独自ブレンドですから! おかわりもありますので、どうぞ!」
感嘆する二人の言葉へ嬉しそうに答えたのは、ナース服を纏った一頭のヒグマだった。
穴持たず104・ジブリールと呼ばれる医療班のヒグマは、フロア内のあちこちへ給仕をするように忙しく歩き回っていた。
「う~ん、これは乙だクマ。紅茶なみなみ注ぎも素晴らしいクマが、これはゆとりと溌剌さを感じる味クマ」
「ええ、疲れてても元気が出ますねこれ。レシピ貰ってミサトさんたちに淹れてあげようかな」
『そうだね』『甘くて爽やかな青春の味で』『苦いものが欲しくなるな』
「……まぁ。毒じゃねぇみたいだな」
球磨、碇シンジ、球磨川禊、纏流子が口々に感想を語る。
診療所の方々に腰かけるその彼らの脇で、巨体を部屋の隅に窮屈そうに押し込めながら、その爪にはあまりに小さいティーカップを器用に持ってデビルヒグマが佇んでいる。
目の前の4頭のヒグマたちから話を聞いていた彼は、いかんとも表現しづらい苦笑をその口元に浮かべていた。
「……それで、研究所……というか、ヒグマ帝国というか。半日の間に、そんな事態になっていたとは。さすがに私でも反応に困る」
「いやマジで大変だったんですよ! 北居住区の艦これ勢のイキオイったら!」
「安静中にヤスミン先生のとこに入ってきた情報だけでもただごとじゃ無かったですから。やつら艦娘を使って一帯を焦土にしたとかしないとか」
「別に俺らもそのゲームとか自体は好印象だったんですけど、あれは無い」
「でもあの名高い穴持たず1のデビルさんが帰って来て下さったなら心強いっす!! これで艦娘とやらもぶっ倒せます!!」
布束砥信に昏倒させられ、診療所に運ばれていた4頭・穴持たず748~751は、音に聞く初期ヒグマの姿を目の前にして快哉を上げている。
直後、彼らの横からは微笑みと共に7門の14cm単装砲が突き付けられた。
「おうコラ、それは球磨にケンカ売ってるクマ?」
「ひぃい! すいませんでしたぁ!! 球磨の姐さんを貶めるつもりはこれっぽっちも!!」
「悪いのは後ろで指揮してる艦これ勢の奴っすから!!」
「あ、あの、艦娘とは言いましたがそれは言葉のアヤで!!」
「ほら! 艦娘(を操ってる悪辣な連中)をぶっ倒せます!! の略ですから!!」
「おう。梨屋(ナシヤ)、千代久(チヨク)、名護丸(ナゴマル)、稚鯉(チゴイ)。これからは言葉に気をつけろクマ」
「へへぇ……!! 名付け親たる球磨さんのお言葉、しかと心に留め置きます……!!」
優雅に指先にティーカップを遊ばせるゴッドマザー、球磨の微笑に、ヒグマたちは即座に平身低頭となる。
軽んじていた人間に後れをとったことを自覚して以来、彼ら4頭の自尊心は完全なる三下根性に変質していた。
「……見ていテ安心感すら感じさせル鮮やかサでスね……。これで上手く行けば良いのでスが……」
「……うむ。まぁ、思ったより穏便な対応をしてもらって良かったよ」
その光景を見ながら、車椅子に乗る老ヒグマ――ベージュ老と、その膝元でガラス球に封じられた液状のヒグマ・ビショップが嘆息する。
「あら、それはこちらの言葉よ、ベージュさん、ビショップさん」
「ええ、マミさんの言う通り。どんな抵抗をされても対応できるよう考えていただけだから。
拍子抜けするくらい好意的に接してもらって、感謝しかないわ」
「まぁ、医療者としては敵も味方もないからのぉ」
――確かに、シーナーが居ったとしても要求を呑ませられたろう機動じゃった。
ソファーから投げられた巴マミと暁美ほむらの言葉に、ベージュ老は今に至る状況を思い返す。
††††††††††
穴持たず104・ジブリールと穴持たず88・ベージュの反応を超える勢いで瞬く間に診療所を占拠した暁美ほむらの一行に、彼らが何かできるはずもなかった。
上階で休息していた4頭のヒグマは、昏睡から覚めて既に動けるようになっていたが、降りて来てみればこのザマである。
球磨が突入していた間にどうやって親分子分のような契りが交わされたのかは、彼らしか知ることはない。
そこに、ビショップヒグマからの申し出があり、ナイトヒグマまで人質に取られており、穴持たず1であるデビルヒグマまでその味方に付いているのだとなれば、無下に扱うことなどできようはずもない。
敵意の無いことの表明、一行へのもてなし、ビショップヒグマらとの情報のやり取り。
そして何はともあれ、意識不明の重体だった星空凛の治療――。
医療に携わる者としても、要求に応えるにしても、ベージュ老とジブリールが行なったのはまずそれだった。
人質交換のように、気絶していたナイトヒグマを引き渡してもらう代わりに彼女を治療するということは、彼ら医療班にとっては願ってもないことだった。
――ルークヒグマの放電によりもたらされたという電撃傷。
雷などによる感電の死因の大半を占めるのは、受傷直後の心室細動である。
即死を免れ、球磨川禊の『劣化却本作り』によって状態を維持されながらただちに搬送されてきた彼女の状態は、比較的良好と言えた。
この場合必要になったのは、シダ状の電紋を見せている胸部の熱傷治療のみで、後は意識を取り戻すまで輸液を欠かさず様子を見ておけば良かった。
その結果を受けて一番安堵した表情を見せていたのは、午前中から同行していたという球磨、暁美ほむら、そして中でもジャン・キルシュタインという少年だった。
『ほらどうしたのジャンくん』『きみもお茶飲みなよ』『美味しいぜ?』
「……うるせぇ、来んな裸パンツみそくん」
『その言い方はやめろって!! それに僕はもう裸パンツじゃないし!!』
「じゃあ帰れ。……お仕着せ病衣みそ野郎」
『それもひどいな!?』
その少年は、今、一人診察室の前に蹲って頭を抱えていた。
茶化すような笑みを浮かべて近寄っていった球磨川禊を、顔も上げぬままぶっきらぼうに振り払っている。
その彼の様子にも、暁美ほむらを始めとした女性陣は見向きもせず、あえて眼を背けてすらいた。
「……みそくん、ジャンくんは放っとけクマ。本当なら暫く磔刑にしても良いくらいだクマ」
『あー……そうですか。球磨さんがそう言うならそうしますけどね』
「ええ、みそくんの好意には申し訳ないけれど、彼は少しそこで頭を冷やすべきだと思うわ」
球磨と巴マミから放たれる冷たい言葉に、ジブリールから渡された緑色の病室着を纏った球磨川禊は、立場に困るように逡巡しながら、待合の碇シンジの隣に戻った。
シンジもデビルヒグマも、ジャンという少年に痛ましい視線を送っている。
「くくっ……、くくくくくくっ……!」
その時突然、ソファーで暁美ほむらが肩を震わせ始めた。
手に持つティーカップとソーサーが震えてカチカチと音を立てる。
テーブルにそれを置くと、屈み込んだ拍子に彼女の長い黒髪がばさりと前に落ちて、一層その仕草に不気味さが増す。
向かいの巴マミが、その只ならぬ様子に目を見張った。
「あ、暁美さん……!?」
「くはっ……! あーっはっはっはっはっは――っ!! お、おっかしぃ、ひひっ……!」
彼女は、笑っていた。
反動で背もたれに大きく反り返った彼女は、腹を抱えてけたけたと笑い転げていた。
眼鏡を外して零れた涙をも吹きながら、暁美ほむらは笑い続ける。
先程までの怜悧に過ぎた彼女の立ち居振る舞いからは想像もできないその姿に、場の一同は硬直するしかなかった。
「み、『みそくん』とか……!! くまがわ、みそぎ、だから『みそくん』!? お、面白すぎ……!」
『あ、それ!? そこにウケてたの!? そんなにツボなんだそれ!?』
「誰それ考えたの、天才でしょ……! くふっ、ふふっ、ふははははっ――、げほっ、げほっ!!」
「おう、球磨だクマ。ほむら、球磨は天才だクマけど、笑いすぎは心臓に毒だクマ! ほら、お薬お薬……!!」
「あぁ――、私のハートに直撃弾だったわほんと、ふふっ……」
球磨川禊の狼狽をよそに、球磨やジブリールから差し出された薬と水を飲んで、ようやく暁美ほむらは人心地を取り戻した。
別人のように笑い転げていた姿から一転して、再び彼女は背筋を伸ばし、淑やかな姿勢で眼鏡を上げてハーブティーに口をつけている。
向かいでその知己の豹変ぶりに唖然としていた巴マミは、そこでようやく言葉を絞り出した。
失礼だとは頭の片隅で思いつつも、彼女は思わずその言葉を発さずにはいられなかった。
「……暁美さん、笑うこと、あったのね……」
「ええ。あまりに球磨が天才だったから」
ほむらはその言葉にさらりと返しつつ、飲み干したティーカップを置き、天井を見上げて嘆息した。
「……この分だとあの彼も、『ポルノ・クソミソクン』とかに改名した方が良いんじゃないかしらね」
「……おい。それで『みそくん』のとばっちりがオレに来るのかよ」
ほむらの呟きに、診察室の前からジャンが虚ろな目を上げた。
だが彼の言葉にほむらは眼を閉じ、冷たく言い放つのみだ。
「あら、誰も『ヤオイジャンル・ホモシュタイン』のことなんて一言も言ってないけど」
「オレは、ホモじゃねぇ……。ホモじゃねぇんだよ、アケミ……」
「あなたがホモだったとしても、ホモじゃなかったとしても、最低の変質者であることには変わりない。
半日の信用が一瞬で消し飛んだわ。やはりあの場で銃殺しておくべきだったかしらね」
「ホモでも変質者でもねぇんだよぉ……」
ジャンはその眼を潤ませながら、抱えた膝に顔を埋めてしまった。
彼のいる診察室の中には、星空凛が安置されているベッドがある。
意識を絞め落とされただけのナイトヒグマは既に三階の病室に搬送されているが、彼女はまだ間近で観察できるよう診察室に安置されている。
病衣に着替えさせられ、毛布の下で落ち着いた寝息を立てている彼女には、輸液のラインや各種のモニターが取り付けられていた。
彼女の治療は、滞りなく上手くいったのだ。
――その初めに、ジャン・キルシュタインがやらかした大失態を除けば、だが。
††††††††††
「――本当か!? リンは助かるんだな!?」
「は、はい……! 受傷直後の処置が良かったみたいですし、お話を聞く限り、私でもなんとか……」
「良かったぁ……!! おいありがとよみそくん、感謝してやるぜオイ!!」
『うん、わかったからその呼び方は……』
「みそくん、おかげで助かったクマ」
『あ、うん、だからそれは……』
「それでほむらは!? 心臓発作とかになってないクマよね!?」
『無視か……』
診療所が占拠された直後、事情を聞いたジブリールが星空凛を診察した際、ジャン・キルシュタインたちはそうして喜びの声を上げていた。
世の無情を一身に受けたような表情で佇む裸パンツの球磨川禊をその辺に放っておいて、彼らは慌ただしく治療のために奔走し始める。
「ええ、暁美さんならなんとか大丈夫みたい……」
「……心臓喘息かのぉ。お嬢さん、以前、胸を患っていたのと違うか? あまり無理してはいかんぞ」
「はぁ……っ、はぁ……ぁ、の、この、薬……、ある……?」
「おうおう、あったはずじゃて。無理しなさんな。意識がはっきりして落ち着くまでそうしておれよ」
その時暁美ほむらは、診療所到着直後の呼吸困難をそのままに卒倒し、待合所のソファーに起座位で寝かされていた。
彼女の胸にクッションを抱えさせて、ベージュ老や巴マミが介抱にあたった。
その隣では片太刀バサミを構えながら、未だ警戒を解かず纏流子が立っていた。
「……安心しろよ暁美ほむら。ヒグマどもが下手な動きしたら、あたしが叩っ切ってやる」
「……あぁ、失礼なヒグマさん、だものね」
「何がだ?」
「げほっ……、『胸を患って』とか、『無理してはいかん』とか……。私の胸は、これから、だもの……。げほっ、げほっ」
「元気じゃねぇか」
「元気みたいね」
「元気そうで安心したクマ」
暁美ほむらは、朦朧とした意識と呼吸で顔を青くさせたまま、口許を緩ませる。
その様子に、纏流子と巴マミと球磨は彼女の迅速な回復を確信し、そして実際、薬を服用した後は何事もなかったかのように彼女は復調していた。
「……ええと、それじゃあ、今から電撃傷の状態を見ますから、服を切りますね」
その頃、診察室の中でも、輸液を繋いだ星空凛の本格的な治療が始まろうとしていた。
ジブリールの処置はここまでなんとか上手く行っていたが、周りで手伝いに回る球磨や碇シンジの眼にも、多少どころでなくその手つきは覚束ないように見えた。
静脈に輸液のルートを取るだけでも、彼女は実に3回は針を刺し損ねている。
医学的知識が乏しくとも、明らかにジブリールが不器用だということは周りの者にも容易く察せられた。
凛の左肘は刺し間違えられた注射針の後で青く内出血が出来てしまっている。
見ていられない。
見守る球磨やシンジや巴マミはその一刺しごとに背筋の冷えるような思いがしていた。
緑色の病衣を貰って浴衣のように着付けていた球磨川禊の脇を通ってついにその時、見守る人垣の中からジャン・キルシュタインが踏み出していた。
「……よし、それじゃあ、その作業はオレがやるぜ」
「なっ……!?」
一瞬、周りの者はその言葉の意味を理解し損ねた。
唯一反応できたのは、球磨川禊ただ一人だった。
『やめろ!! 気持ちは分かるが、それは駄目だ!!』
「なんでだよ。むしろこんな作業は女じゃなくて男がやるべきだろ、男なんだからよ」
『うわぁ――!?』
禊は顔を背けて眼を覆った。
ジャンはその時既に、トレーから雑剪を取り出して、ジブリールとは対照的に実に危なげない手つきで、ジョキジョキと星空凛の着衣を切り裂いてしまっていた。
Tシャツをスポーツブラごと両断し、てきぱきと彼は星空凛の上半身を裸にしてしまう。
彼が背筋に悪寒を感じたのは、星空凛のズボンと下着にまで手をつけ始めていたその瞬間だった。
「あれ……、こ、れ……は……!?」
「……ただちにその両手を上げて頭の後ろに組みなさいジャン・キルシュタイン。
さもなくばお望み通り、その助平な腕ごと5.56mm弾であなたをぐちょぬるのタタキにしてあげるわ」
星空凛の下半身には、ジャンの想定していたモノが、触れなかった。
代わりに彼のこめかみには、呼吸困難から復帰した暁美ほむらの、89式小銃の冷たい銃口が触れていた。
乾いた笑みと震えが、暫くジャンの体を支配した。
彼の身には、周囲からの困惑と軽蔑の視線が、痛いほど突き刺さっていた。
††††††††††
「……夜中からずっと一緒にいて、今まで彼女のことを男だと思い込んでいたなんて。
嘘でももう少しまともな言い訳を思いつかないのかしら」
「凛ちゃんの声とか仕草とか体つきを見て男だと思える方がどうかしてるクマ」
「そもそもあいつ、ボーイッシュってほどの見た目でもねぇし」
「ちょっと……ね。流石にいただけないわよね、ビショップさん」
「え、私デスか……?」
暁美ほむら、球磨、纏流子、巴マミという女子勢は一様に、思い出されるジャンの奇行に苦言を呈した。
話を振られたビショップヒグマはガラス球の中で逡巡する。
ぶっちゃけ彼女としては、人間の男女が互いをどう思っていようが知ったこっちゃない。
だが、デビルヒグマを含めて身につまされるように意気消沈する男子勢と、怒りを隠してもいない女子勢の双方の様子を鑑みるに不用意な発言は絶対にできないと彼女は確信した。
「アー……、テンシさん。医療者の見地からは、どうなんデスかネ?」
「まぁ……、男の人でも女の人でも、誰が誰を診ても結局切るものは切るんですけど……」
救急の診察・治療上、全身に傷の見落としがあってはいけないので、取り敢えず患者の着衣は切るなり脱がすなりしてしまうものである。
だがそれは、医療行為としての正当なる必然性に基づいたものであり、そこに一切の性的概念は関与しない。
「……エッチなのは、いけないと思います」
「エッチでもねぇんだって……」
ジブリールからのダメ押しに、ジャンは力ない呟きを零すだけだ。
傍から見ている男子たちも、可哀想なものを見るような憐れんだ眼差しは向けるが、やはり依然として誰も、彼のその主張を認めてはいない。
容疑者ジャン・キルシュタインは、公然わいせつの罪により現行犯逮捕された。
被害にあったのはアイドルグループμ’sで活躍するスクールアイドル星空凛さんであり、容疑者は星空さんが電撃傷を受けて意識不明となっている状況を利用して、着衣を切断する・下着の中に手を差し込む等のみだらな行為に及んだ疑い。
容疑者は逮捕直後から「リンは男だと思っていた。他意はない」などと意味不明な供述を繰り返しており、今後暁美ほむらは容疑者の精神鑑定や処刑をも視野に入れて対処していく見込み。
「……だってよぉ、見てらんねぇじゃねぇかよあんな処置……。手伝うべきだと思ったんだよ……」
「だからといって、あのタイミングは無いクマ。どう見ても凛ちゃんの裸を見たかっただけとしか思えんクマ」
「何度も言ってるがよぉ、男だと思ってたんだよリンを!! むしろ女に見せるべきじゃねぇと思って……!!」
「いやぁ~……無いクマ。じゃあジャンくんには球磨やほむらも男に見えてたのかクマ。おお怖い怖い」
「ちげぇ、ちげぇよ……。ちげぇんだってば……!!」
声を震わせるジャンの嘆きにも、球磨の言葉は依然として冷たい。
その場のあらゆる者にとって、彼の主張は完全に理解の外だった。
なるほど、星空凛を男だと思い続けていたという主張が正しければ、確かに彼の挙動に一応の筋は通る。
しかしこの場に、星空凛を男だと思える要素は他の者にとってほとんど存在しない。
良いところ、彼女はせいぜい、ボーイッシュな可愛い少女という以外の何でもない。
彼の主張は、緊急時に便乗してわいせつ行為を働こうとしたのを咎められ、苦し紛れに言い訳したようにしか聞こえないのだ。
よしんば彼の主張が正しかったとしても、彼の目は人間の9割方が男に見えるような節穴であるか、さもなくば彼の頭がノンケでも食っちまうようなホモ思考に染まっているか何かにしか思えない。
どう転んだとしても、彼の団体内での位は地に落ち、タンカスと共に吐き捨てられて埋められてもおかしくないような扱いに没落するしかなかったのである。
「綺麗な声の男だっているし、鍛えられてて無駄な肉がなかったから……。ほら、胸筋も、男顔負けで……」
「ほう、それは喘息によって鍛え抜かれた筋肉を持つ私に殺されたいという意思表示ね?
……胸が男のようだと。まぁ素晴らしい辞世の句だわ。反吐が出る」
「うわぁ――!? やめろ、やめてくれ!! 頼む!! 違うんだってアケミィ!!」
さらに墓穴掘削を重ねたジャン・キルシュタインには、即座に暁美ほむらの小銃の銃口が突き付けられる。
ほむらはなだらかなその胸を精一杯張って背筋を伸ばし、慌てふためく彼に迫った。
「今まで一緒に戦ってくれたお礼に、お祈りの時間だけはくれてやるわ。はい、10、9……」
「マジか!? なぁマジなのかアケミ!? おいちょっと待て落ち着け!?」
「87654321――!!」
「加速したァ――!?」
「あなたに祈る神はいないようね。お別れよ」
球磨川禊や纏流子などは、さすがに彼女の脅しが冗談だろうと思っていた。
だが冗談では、なかった。
暁美ほむらの目には一切の躊躇や容赦の色はなく、小銃の安全装置ももちろん外されてフルオートになっている。
そもそも暁美ほむらは、冗談を言うような人間ではない。
その指は既に、引き鉄を握り込もうとしていた。
巴マミや球磨、碇シンジらが咄嗟に駆け寄ろうとしたが、間に合わなかった。
「――オレはッ! オレは、リンのことを、思ってただけなんだ――ッ!!」
ただ間に合ったのは、ジャン・キルシュタインが、そう声を振り絞って叫ぶことだけだった。
がうん、という重い音が響いたのは、その瞬間だった。
そしてそのまま全てが、真っ暗な闇の中に、消えた。
††††††††††
あの窓を破り スキが熟む生理を飲みに
Yay yay yay yay ye ナース・カフェへ
††††††††††
「――停電!?」
「オイ、どういう事だよッ!! てめぇらの謀略かヒグマども!!」
「ち、違いますぅ!!」
暗闇に落ちた診療所に、慌てふためく声が飛び交った。
碇シンジ、纏流子の叫びに、ジブリールの悲痛な声が答える。
重い轟音は、小銃の発砲音ではなく、電化製品が一斉に停止した音に他ならない。
ヒカリゴケのようなものは周囲にうっすらと存在しているが、唐突な暗転にその場の全員の視力が奪われる。
「電源――、というとまさか、示現エンジンか?」
『え、これ、凛ちゃんのとこの機械まずいんじゃ……?』
「いや、しばし待てば、ここには総合病院からの自家発電が――」
「ぎゃぁあああ――!?」
「おばけぇ――!?」
「布束さんか!? また布束さんなのか!?」
「うひょぉおぉゆ、許してくださいなんでもしまむらァ!!」
デビル、球磨川の呟きにベージュ老が答えようとするが、その声はヒグマの叫び声に掻き消された。
突然の暗転という事態にトラウマじみた記憶を刺激された穴持たず748~751の面々が、めいめい奇声を上げている。
じたばたと闇の中で逃げ回り始めた彼らはわけもわからず方々の壁にぶつかって騒音を立てる。
何も見えぬ中での迷走は、一帯に恐怖を蔓延させた。
「――球磨!! 敵襲なの!?」
「い、いや、いや!! 敵じゃないクマ!! ただの停電!! とにかく灯火管制と思って落ち着けクマ!!」
即座に暁美ほむらが球磨に索敵情報を問うが、球磨のマンハッタン・トランスファーの気流感知には敵影などは一切かかっていない。
混乱を収めるべく球磨がめいいっぱい声を張り上げるが、何も見えぬ闇に喧騒と恐怖は止まない。
その瞬間だった。
「――『ラ・ルーチェ・チアラ(明るい光)』!」
豁然とした一声と共に、あたりに光が戻ってきた。
その光源となっているのは、一人の魔法少女が凛々しく掲げ上げる指先だ。
巴マミの右手に描かれていた令呪が一画かすれ、その代わりに彼女の手のひらには、柔らかく眩い光の球が浮いていた。
その光でぴたりと静まった周囲へ、彼女は直ちに眼を配る。
「……良いわね皆さん。球磨さんの言う通り、大したことじゃないんだから落ち着いて。ね?」
「は、はい……」
「良かった……ク、『寿命中断(クリティカル)』じゃなかった……」
「布束さんなんていなかったんや……」
「闇の中にあの靴底が見えた気がした……」
「お前らいい加減にしろクマ!! 居もしない敵にびびってんじゃねークマ!!」
748~751の面々をしっとりと諭せば、壁にぶち当たったり薬品棚を倒したり待合の椅子の列に埋もれてたりしていた彼らは、力が抜けたように全身の緊張を解いた。
すぐさま彼らには球磨が駆け寄り、バシバシと教育的指導を加えていく。
ちょうどそのあたりで、室内の電灯やモニターに、自家発電からの電気が戻ってくる。
暁美ほむらは、ジャン・キルシュタインに突きつけたままだった小銃を降ろしながら、彼女に問うた。
「――マミさん。何故明かりなんかに令呪を使ったの……!?」
「必要だったからよ」
ベージュ老の言う通り、病院ならば停電時にも自家発電の予備電源が起動するものだ。
巴マミが貴重な魔力を使ってまで明かりを灯さずとも、こうしてほどなく電気は復旧される。
患者のヒグマたちが見当違いの場所へ迷走していたくらいで、彼女が寸秒を惜しむように明かりをつける意味は、無いように思えた。
「――ね、纏さん。……彼女は私たちを陥れようとなんてしてないわよ」
「……今のところは、そうみたい、だな」
巴マミはほむらの問いに答えながら、その視線を、纏流子に向けていた。
つられて眼をやった周りの者は、彼女の様子に驚愕する。
纏流子はその時、横倒しにしたジブリールの胸元を踏みつけ、その頭部に片太刀バサミを突きつけていた。
闇の中で彼女は過たず穴持たず104に突撃し、仕留めようと攻勢に出ていたのである。
光がつくのが数秒遅ければ、その時既に片太刀バサミはヒグマの脳漿に濡れていたかもしれない。
ジブリールは目の前に光るハサミの刃に、声も出ぬ恐怖で体を震わせていた。
「……纏さん、ちょっとさっきから警戒し過ぎではないかしら? 折角私たちに敵意なく接してくれているのに、失礼よ」
「星空凛に3回針を刺し間違え、4回塗る薬を間違え、2回包帯を巻き違えたこいつに敵意がないなら、あたしの心臓をぶち抜いたあの狂女だって好意の塊だったぜ?」
静かに諌めようとする巴マミの言葉に、纏流子は片太刀バサミをジブリールから外さぬまま、低い声で答えた。
目を伏せた巴マミの口調は、苦みを帯びる。
「その女の子のことはよく知らないけど……、テンシさんは違うわ。……確かにあの処置には背筋が冷えたけど」
「……だろ? こいつは医者にしちゃいけないヤブのモグリか、もしくは敵か、あたしにはどっちかにしか思えねぇ」
あんな状況でなければ、確かにジブリールの処置を誰か別の医者に替わってもらった方がいくらか早く治療は済んだだろうとは、その場の多くの者が思うことだ。
纏流子の指摘に付け加えるならば、ジブリールはさらにハーブティーを入れる際にもカップをひとつ落としてお釈迦にしてしまっている。
彼女が医療者として恥ずかしくない器用さを持っていると彼女の名誉のために考えるならば、これらの間違いは意図的に害意を持ってやっていたか、人間たちを謀殺するための緊張もしくは演技の為す業と捉えられても仕方のないことだった。
「ご、ごめんなさいぃ……。ぶ、ぶきっちょで、ごめんなさいぃ……」
「……その涙は演技か? あたしらに茶ぁしばかせてたのも、油断させるためじゃねぇのか?」
「……纏さん、言い過ぎよ――!!」
しゃくり上げるジブリールの言葉にも一切表情を崩さず、纏流子はその手足に込める力を緩ませない。
巴マミはついに彼女に歩み寄り、声を張り上げながらその肩を掴んだ。
「……彼女に謝って、離れなさい……!」
「おう、大層ヒグマと仲良しみたいじゃねぇか巴マミ。忘れてんじゃねぇだろうな。
こいつらはあたしら人間を殺して食ってた動物だぞ。言い過ぎ、歩み寄りすぎなのは、どっちだ?」
流子はジブリールの上から身を外すも、マミの手を振り払い、彼女と睨み合う形になる。
暁美ほむらの盾の空間の中ですれ違った二人の亀裂が、さらにこじ開けられた――。そんな冷ややかな感覚を、巴マミは纏流子の視線から感じていた。
空気が緊迫する。
ヒグマは人間を、人間はヒグマを見た。
誰もが口を開くのをためらったその空間を、静かな声が割った。
「……船頭多ければ、船も診療所で座礁するわ。この船団の連隊長は、誰?」
暁美ほむらが、いつの間にか小銃を仕舞ってソファーに戻り、ハーブティーのおかわりをカップに注いでいた。
唇を湿して、ほむらは眼鏡に掛かる髪を掻き上げながら言葉を続ける。
「歩み寄ってもらってるのは、明らかに私たち。そろそろお茶会がお開きなのは、確かでしょうけどね」
「暁美ほむら……、お前、どっちの味方だ?」
「私は冷静な者の味方で、無駄な争いをするバカの敵。あなたはどっちなの? 纏流子」
苦々しい顔を向けて問う流子の語気を流して、ほむらは問い返す。
流子は肩で笑いながら、診察室の前で尻餅をついた格好のままのジャン・キルシュタインを指さした。
「ハッ……、さっきあの男に機関銃突き付けてた女がよく言うな。おい、あの続きはどうしたんだよ」
「ああ、彼のお祈りなら届いたんじゃない?」
「……はぁ? お祈りなんてしてなかっただろ」
「あなたには聞こえなかった? 私には聞こえたわ」
理解できぬその返答に、纏流子は舌を打つ。
その場の大多数の人間に、彼女の言葉の意味は理解不能だった。
暁美ほむらは、涼しい顔でハーブティーを飲むのみだった。
ただその中で、午前中から彼女と共にいたジャン・キルシュタインと球磨だけが、その会話から思い至る。
そしてジャンは、彼女の真意まで察知して、見る間に顔を赤くした。
「……ほむら、また言外に何か言ってるんだクマ? 頼むからみんなにわかるように言って欲しいクマ」
「ならビショップさん。もう一度言って。さっき話してくれた『協力体制』の内容を」
「……え!? 私デスか!?」
球磨は、ほむらがジャンに果し合いを吹っかけた時のように、先程のジャンとのやり取りにも何かしらの意味があったのだと言うことまでは察した。
だが彼女の促しは、唐突にビショップヒグマの方に振られる。
早く言い合いが終わらないかとしか考えていなかった彼女は、突然の意識外からのパスに慌てた。
「……あの、先程お話しタ条件の再確認、ということで良いんデスか?」
「その通りよ。もう一度言って」
先程のやり取りから、その協力の件にまで、どうやれば文脈が繋がるのか全く分からなかった。
ベージュ老の膝の上でガラス球に浮かぶビショップヒグマは、困惑しながらも口を開く。
そのやり取りを端で見ながらデビルヒグマは、暁美ほむらの心の解りづらさは、布束以上なのではないか、と認識を改めた。
††††††††††
≪新規メッセージ(ダイレクトメール)≫
「テキキカイトネットツカウモノニヘンス゛、テキシロクロ、カラタ゛アマタアリ。
キョウリョクシムカエウテ。ソシテ、コチラノショウリシ゛ョウケンヲ、アカス――」
ビショップヒグマの責任は、重かった。
星空凛と暁美ほむらの処置に周辺の人間が気を取られていた時、ベージュ老は受け取ったガラス玉の彼女に、シーナーから送信されてきたメッセージを伝えていた。
今現在、少しでもまともに動けるピースガーディアンは、彼女しかいなかったからだ。
「……これをどうするかは、ビショップさんに任せるよ。わしがどうこう言えるものでもない」
ベージュ老は、思わせぶりにそれだけ言って、全ての判断をビショップヒグマに委ねた。
イソマの提示した――、もとい、シーナーの考えるヒグマと人間の勝利条件。
そして何れにしても万人の障害となる『彼の者』――、モノクマという数多のロボット。
(えええェええ――!? シーナーさん、これを私タチでやれト!?)
読み進むごとにビショップの狼狽と悶絶は増した。
『彼の者』への対処が必要なのは解る。ルークヒグマを始めとして、ピースガーディアンも通常業務の傍ら、常にそれらの内情を探ろうとしていた。
だが驚くべきなのは、もしかするとそれらが、二期ヒグマ脱走の際から島外へヒグマの情報を漏らす暗躍をしていたかも知れないというところだ。
艦これ勢を煽っているのも、それらだ。
シーナーが大いなる期待を寄せていたシバは、なぜかその艦これ勢への対応策にアイドルを打ち出していたが、彼はものの見事に放送で叩き殺されていた。
この分ではクックロビンが建てに行ったというテーマパークも今頃潰滅しているだろう。
とにかく、『彼の者』と自分たちとでは、後ろ盾と根回しの年季が違いすぎた。
シーナーは何とかして『参加者を全滅させつつヒグマを生かす』ことをヒグマ側の勝利条件にしようと苦心していることが文面から読み取れるが、もはや事態はそんな悠長なことを言っている場合ではないのは明白だった。
『この島の全ての魂を絶望させること』を勝利条件、もとい目標にしている相手に対してそれは難しい。
よりによってその相手がここまで強大だったと明らかになればなおさらだ。
実験環境の維持など言っている暇はない。
電気機器に対して強力な攻撃性能を持っており、シーナーがモノクマに対して切り札と言及していたルークは、既に死体だ。
ネット上に広がり、どこに居るか、いくつ居るか、何を考えているかすらわからない相手に対処するなど、どうやればいいのか見当もつかない。
(こんなもの、私タチだけで、どうこうできるモノじゃアリマセンよネ!?)
ガラスを透かして見渡す周囲にいるヒグマは、老衰も近い穴持たず88・ベージュ。
ちょうど今、針を刺す静脈を間違えていたことに気付き、周囲に大変な緊張を撒き散らしながら半笑いになっている穴持たず104・ジブリール。
三階から降りてきたら艦娘の舎弟になっていた穴持たず748~751の4頭。
そして彼らからの話を聞いている穴持たず1・デビル。
唯一まともな戦力になってくれそうなヒグマは、そのデビルのみだといえた。
その彼も、戦力となるのは所詮決闘ないし直接格闘の場のみだ。電子戦・浸透戦を展開している相手と戦えるわけが無い。
(1000を擁するヒグマ帝国の臣民の大半も、既に艦隊これくしょんによって先方に駒とされテいル。
先手を打たれて既に残存兵力は分散ないし潰滅。シバさんが一度殺されル程。
シロクマさん、ツルシインさん、シーナーさんらとすぐに連携を取れるカは微妙。むしろここで下手に救援依頼などを出すト、各方面で既に対処に当たっている所を混乱させル可能性が高イ……。
キングさんとクイーンさんは恐らく畑に撤退して陣を引いているでしょうかラ一番近いデスが、だからといって、数頭で何ができるか……)
この場で見える絶望は、遥かなる敵の姿が、一個大隊ないし連合部隊規模に匹敵すると思われるにも関わらず、対する自分たちが連携をとれるのは、一小隊ないし、最悪一個人にしか過ぎないという圧倒的な物量差に他ならなかった。
確かにイソマの力があれば、ルークヒグマや自分たちのような能力持ちのヒグマをまた生産することは容易いだろうが、だからといってこの場ですぐポンと数百頭の手練れの兵が連れて来れる訳では無い。
再生産している間に全島を制圧されるのがオチだ。
ビショップには見えた。
見えてしまった。
自分の手駒をどんなに動かしても、自分たちに勝利などない未来が。
長い長い、一日がかりの詰め将棋。
チェス・プロブレムだ。
自分たちがどう応じても、その手はツークツワンク(自ら状況が悪化する手を指さざるを得ない)になるだろう。
パスの許されぬこの局面で、動かせる駒は全て、きっと相手の掌の上だ。
飛んでガラス玉の中に入った水の塊の、小さな抵抗。
その抵抗に許された指し手は、一体どこにあるのか――。
悲痛な思いで辺りを見回すビショップヒグマの目には、彼女をガラスに封じた巴マミの姿が映った。
『水面に倒れるデビルの顔は、泣きじゃくった後の子供のようだった。
傷だらけの体で、それでも生きようと、温もりを求めてそこまで這ってきたのでしょう。
私たちとヒグマは、殺し合う、ということになっている。
でもそれは、魔法少女のルールでもなければ、ヒグマたちの総意でもないでしょう。
生を求める心に、どれほどの違いがあるの?
真っ赤な水鏡に、裸の私が映ったわ。
それは、かつての交通事故で、轢き潰された私の姿だった。
あの時の私の前には、キュゥべえがいた。
そしてその時、デビルの前には、私がいた。
鏡映しの私と彼らを、どうして分ける必要があるの?』
魔女とヒグマと自分自身という、全く違うモノたちを綯い交ぜに、同一視して涙を零していた彼女の声が、思い返されていた。
盾の中の空間で、聞く気もなく聞き流していた吐露のはずだった。
(人間側の勝利条件は、“実験に参加したヒグマをすべて殲滅すること”。
“イソマの管理する培養層を破壊すること”。
“この島にいるすべての生命が殲滅されること”。
“参加者以外のヒグマ、あるいは参加を許されていないヒグマを以って、島外や地下に行く、首輪を外すなどの禁を破っていない、まっとうな参加者を殺害してしまうこと”……。
本当ですかネ、シーナーさん……。
確かに人間や、イソマ様がそんなことを勝利として見ているなら、ヒグマと相容れないのは確実でショう。
本当に、そうでしたラ……)
ビショップヒグマは、ベージュ老の膝の上から転がり落ちた。
そのまま、ソファーで暁美ほむらの介抱に当たっていた巴マミの元まで、ガラス球を転がしてゆく。
「巴マミさん……、あなたは、一体何を、勝利条件として考えていマスか?」
「……どうしたのビショップさん、急に」
呼吸の落ち着いた暁美ほむらと共に、巴マミが足元のビショップを見た。
じろりと、その隣から纏流子が睨みつけてくる。
「アナタがたが……、イヤ、私タチが、いくら奮闘をしても……。
ヒに入った夏の虫の、小さな抵抗でしかナイとして……。
……ゆえに抵抗はムダ……それを……分かってしまった時、アナタなら、どうしマスか?」
「てめぇ……、何考えてやがる?」
「この質問の回答は、纏さんからシカ頂いていマセんでシたのデ」
その問いに対して、『お前にお膳立てしてもらわなくてもなァ、脱出くらいしてやるってんだ!』と、少女は答えていた。
警戒を緩ませず口を引き結ぶ纏流子に代わり、巴マミが、その首を傾げた。
「……そうね。その時はきっと、この隊長さんが、名案を思い付いてくれるわ」
「……私?」
「そして、私は全力で、偉大なる後輩を支えたい」
巴マミは、顔色の戻ってきた暁美ほむらの肩をさすりながら、そう答えた。
彼女はビショップヒグマを抱え上げ、そこに微笑む。
「もちろん纏さんの力もあってのことだけど、あなたをこうして捕まえたのは、暁美さんよ。
ここでこうして治療を受けさせてもらっているのも、暁美さんのおかげ。
暁美さんはそんなすごいことを、ずっと一人でやり遂げてきたんでしょうから」
「……ああ。リーダーってことなら、暁美が適任だろうな」
「ハードル上げないでくれると助かるんだけど……」
纏流子も、暁美ほむらへの賛辞に応じる。
水を口に含みつつ、当のほむらはクッションの上に溜息をついた。
「……ではアナタにお聞きしまス。アナタがた人間の勝利条件は、何なのでショウか」
「勝利なんて要らないし、知ったことじゃないわ。さっきから的外れよ、あなた」
ビショップの問いに、彼女は辟易とした表情で即答した。
「……私たちは全員生きて島の外に帰れれば良いだけであって、実験だかゲームだか知らないけれど、そんなもの元から参加するつもりもないわ。ただ迷惑なだけ。
ヒグマさんがこの島で艦隊これくしょんなりアイドルなりに興じたければ好きにすればいい。
私たちは脱出法を模索しながら降りかかるヒのこを払ってるだけで、そこに勝利も引き分けも敗北も何もないわ。
ただ言うなら、帰らせろ。それだけ」
暁美ほむらの言葉に、ビショップは息を飲んだ。
「……それでは、私タチヒグマを殲滅したり、培養槽を破壊しようと思っていたりするわけでは、無いのですね?」
「……なんでそこまで面倒なことをしなきゃいけないの? あなたたちがそうして欲しいなら別だろうけど。
私たちは応戦してるだけ。こうして普通に接してくれるなら何もしないわよ。
建国して生きたいんだったらさっさと纏めて日本国に独立交渉でもしなさい。できるならだけど」
纏流子が何か言いたげな顔をしたが、概ね暁美ほむらの言葉は、周囲の流子やマミの考えとも同じようだった。
「私タチを……、敵だとは思わないのデスカ?」
「くどいわね。私個人としては羨ましいくらいよ、『穴持たず』のあなたたちが。
私は『穴だらけ』の人間だから。その有り様を拝見できたことにだけは、感謝してる」
暁美ほむらは、率直に言った。
一度は体の大半を失うことになったステルスヒグマとの一戦を通して、得た感想だった。
「……一つ、交渉させて頂キたい」
「何かしら」
その言葉を受けてビショップヒグマは、意を決していた。
ガラス玉の中に姿勢を正し、彼女は、その場の全員に対して、声を張った。
「アナタ方に、島外への脱出のための協力をシて差し上げまス……。
代わりに共に彼の者を……、モノクマというロボットを操る黒幕を、ヘルプメイトにかけさせてくだサイ……!!」
††††††††††
ヘルプメイト――。
チェスにおける詰将棋、チェス・プロブレムのフェアリールール(本来なら有り得ない変則ルール)の一つだ。
通常のチェス・プロブレムとは違い黒が初手を指し、黒白が協力して黒のキングを(最短で)詰ませるもの。
黒の身中に巣食う巨大なバグを、黒自身から動くことにより、白にチェックメイトさせる――。
どんな最善手を打っても自分たちヒグマがツークツワンクになる状況で、ビショップヒグマが足掻いた小さな抵抗が、それだった。
その時ビショップが提示した条件は、こうだ。
- ビショップはヒグマ帝国の指導者(実効支配者)4名の能力を伝え、連絡が取れ次第協力できるよう交渉する。その他有力なヒグマと出会った際にも協力を取り付ける。
- ビショップは海食洞のクルーザーの使用法を教え、人間の島外脱出に最大限助力する。
- 暁美ほむらの一行は、地底湖周辺を根城とする艦これ勢の鎮圧に協力する。
- 暁美ほむらの一行は、さらにそのヒグマたちを手引きしているモノクマという黒幕を破壊する。
もし実効支配者の一人にでも反発されれば、比喩でなくその場でビショップヒグマの首が飛びかねない、余りに大胆な交換条件。
実質的な、協力体制の構築だった。
今一度その文言を繰り返しながら、ビショップは大きすぎるその重責と決断に、液化した胃をキリキリと痛ませた。
「……もう一度聞いたら解ったかしら、纏流子。あなたも了承したでしょう? 彼女たちは今、敵ではないわ」
暁美ほむらは、ビショップが再提示した条件を受けて纏流子に語り掛ける。
流子を始めとして、一同は確かにその条件を飲んだ。
元から、主催者を打倒して脱出の手筈を取り付けさせようとは思っていたのだ。
その主催者がそっくりすげ替わっていただけのことであり、やることとしてはほむらたちの行動は変わらない。
むしろ地下での行動がほぼ保障されるというのならば、願ってもないことだ。
「……かといって、こいつらが腹に一物持ってないとは限らねぇだろ。みそくんを裸パンツにしたのはこいつじゃねぇか。
警戒を緩ませたら終わりだ。なぁ、どうなんだよそこらへんは」
「……」
流子はほむらの言葉にも表情を変えず、ビショップヒグマのガラス玉に向けて顎をしゃくる。
最後の呼びかけは明らかに、彼女がビショップをも疑っているということに他ならない。
ビショップは、球磨川禊の服を切ったのはお前じゃないかとどうしても指摘したい欲求に駆られたが、努力に努力を重ね、その言葉は腹の中に呑み込んだ。
確かに、ビショップは暁美ほむらたちに隠していることがある。
ミズクマの存在だ。
シロクマ、シーナー、シバ、ツルシインという4頭は、既にシーナー以外の存在が露呈しており、能力を明かしたところで大した違いではない。
そもそも明かしたところで、特にシーナーやシバの能力は暁美ほむらたちでは対処のしようがない。
それよりも、彼女たちがビショップを裏切り勝手に島外に出られないよう、ビショップは島外に犇めく脱出への最大の障害の存在と対処法を隠していた。
シーナーを納得させ、有冨の命令としてミズクマを退かせることが、ビショップの考える唯一の対処法である。
かといって、これはあくまで、暁美ほむらたちが裏切らないようにするための牽制にすぎず、デビルヒグマあたりが指摘してしまえばそれまでだ。
決してビショップに、暁美ほむらたちの一行を陥れようとするような意志はない。
人間が裏切れば、島の外に出た瞬間に食い殺される。
ヒグマが裏切れば、結局モノクマたちに蹂躙される。
双方とも、裏切れば死ぬ関係なのだ。
「警戒なら、当然してるわよ、纏流子。
彼女をガラス玉から出していないのもそうだし、今だって球磨に常時索敵を継続してもらっているわ。
休めるうちに休まなきゃ、これから続かないわよ。良かれと思ってやってくれてるのは有り難いけど、緊張を解きなさい」
「……そうか。ならいい。どう見てもお前の方が修羅場潜ってそうだし……ホトケに説教だった。
……すまねぇ」
ほむらは流子に対して、あくまで冷静に答えた。
既に自分の考えの先に事態が進んでいたことをようやく悟り、流子は気まずそうにその黒髪を掻いた。
目を伏せて頭を下げた彼女に、緊迫していた診療所の空気がようやく弛む。
『誰か怪我するんじゃないかとヒヤヒヤしたよ……。僕の「劣化大嘘憑き」に期待されても困るよ……、……?』
「と、とにかく良かったです……。あ、ジャンさん、立てますか……?」
「お、おう……、すまねぇ、イカリ……」
球磨川は病衣の胸を撫で下ろし、微かに首を傾げた。
同じく碇シンジはホッとした表情で、先程ほむらから銃を突き付けられた時のまま尻餅をついているジャンを助け起こす。
「……まぁ、ヒグマと人間だ。この大人数で完全に信用し合えというのもな。互いに匕首を呑んでおくことも必要だろう」
「……テンシちゃん、それはそうと、もう少し注射と包交の練習はするんじゃぞ……」
「は、はぃい……、ずびばぜぇん……、おぐずりも覚えまずぅ……」
鼻を啜るジブリールをベージュ老がなだめている間、デビルヒグマは少し寂しそうな、達観したような表情を見せていた。
「……そんな話をしている間に、お客さんみたいだクマ。通路から4人……。こっちに歩いてくるクマ」
その中、フロアの気流を読んでしっかりと索敵の任を果たしていた球磨が、壁際から声を上げる。
巴マミと暁美ほむらが、即座にその報告に聞き返す。
「ヒグマさんなの?」
「――敵ではない?」
「うんにゃ、ヒグマじゃないクマ。全員人間。体格からして3人女性、1人男で、この男の人が担架で運ばれてきてるクマ。
……敵かどうかは定かじゃないクマ。けど、これは怪我人だろうとは思うクマ」
近づいてくる相手が人間だと知り、三人の少女の表情はむしろ訝しげなものになった。
「……逆に怪しいのよね」
「確かに怪しいわね」
「球磨も理解に苦しむクマ」
その場の多くの者は、人間であれば怪しいことなどないのでは……。と、一瞬考えた。
しかしその直後にハッと思い至る。
このヒグマ帝国、しかも艦これ勢による内乱や原因不明の停電が発生している中で、4人もの人間が自由に動けていること自体が、おかしい。
地上からほむらたちのように侵入してきた人間ということはあり得るかも知れないが、それならば明らかにここを診療所と知って目指しているようなこの状況に至ることは考えづらい。
かといって、元から地下にいた――、つまり元々の主催者側の人間で、今まで生き残っていた者で、なおかつヒグマ帝国とも親密な関係と情報共有をしている人間4人など、誰も思いつかない。
ビショップヒグマなどは、シロクマさんの中の人か、布束特任部長か、田所恵か、くらいはすぐに思いつくが、それでもその程度だ。
「球磨の姐さん、それなら俺らがまず様子を見て来ます……ッ!!」
「おう、名護丸、それは助かるクマ。でも大丈夫かお前たち……。聞いた話じゃ女研究員一人にやられたらしいじゃねーかクマ」
「大丈夫ですって姐さん! 布束さんなんていなかったんですし、もう俺らバリバリ全快ですから!!」
「むしろもう布束さんでもへっちゃら!!」
「ふーん、なら後ろでしっかり見といてやるクマ。あ、攻撃すんじゃねーぞクマ。球磨たちの仲間かも知れんからクマ」
「へっへっへ、そっすよね。やっぱ姐さん以外の人間はビビりやすいみたいだし、丁重にもてなしてやらにゃなぁ?」
その時穴持たず748~751の面々が、良いところを見せようと率先して名乗りを上げた。
球磨は彼らの申し出を横柄に肯い、そそくさと周囲の人員を診療所の奥に下がらせながら正面入り口付近を彼らに任せる。
停電によって診療所外の明度はさらに落ち、窓からも外の様子は杳として窺えない。
その中で、4頭のヒグマたちは入り口に張り付き、どんな相手が来ても良いように、固唾を飲んでその時を待つ。
「……おい稚鯉……、ドアはお前が丁重にもてなしに開けるんだよな?」
「え、俺……? いや、バリバリ全快って言ってた千代久だろ」
「俺かよ!? いや、言い出しっぺの名護丸だろ!?」
「梨屋ァ!! てめぇ布束さんでもへっちゃらなんだろが、てめぇだろてめぇ!!」
球磨が見守る前で4頭はしかし、その場で先頭の押し付け合いを始めた。
「もう来てるクマ……」と頭を掻きつつ、球磨はそのアテにならなそうな4頭を捨て置いて、念のため14cm単装砲を壁際で構えた。
4頭はなおもドアの前でもみくちゃになる。
「布束さん関係ないだろドア開けはよぉ!!」
「そんなこと言って本当は布束さん怖いんじゃねぇか!!」
「闇の中に布束さんの靴底見たヤツが言うんじゃねぇよ!!」
「布束なんてなーいさ、布束なんてうーそさ、寝ぼけたヤツが、見間違えたのさ……」
「……Anyone called me(誰か、私を呼んだ)?」
そして診療所のドアは、外から開けられた。
同時に響いた凛麗な声に、4頭は硬直し、そしてゆっくりと、そこに立っている人物の顔を見た。
「……ああ、あなたたちね。Nice to see you again(お久しぶり)」
そこで彼らを見ていたのは、蛇のような、細い四白眼の瞳孔だった。
「うぎゃぁあああぁぁああぁ――!!」
「出たァアァアァアアァアァ――!!」
「ひんぎゅぅぅぅうぅううぅ――!!」
「たっばぁあぁぁああぁああ――!!」
その射竦められるような眼光を見た瞬間、彼らは絶叫と共に卒倒し、診療所の入り口に泡を吹いて倒れてしまった。
ドアを開けて入ろうとしていた少女は、そのヒグマたちの有様に却って驚き、暫しその彼らの様子を見つめて呟く。
「……まだ体調が悪かったのかしらね……」
「布束、か……。よく無事だったな」
デビルヒグマの呼びかけに、白衣姿の少女はウェーブのかかったその髪を振って顔を上げた。
針の孔のようだったその少女の瞳は、周囲の明るさに慣れて、眠そうな半眼の様相となる。
「Sure enough……、皆、よく無事だったわ……。その感謝は、私のセリフよ、デビル……」
その少女――布束砥信特任部長は、診療所に控えている一行の顔を見て目頭を押さえ、満足そうに微笑んだ。
「布束さん、もうこの変態降ろしていーい?」
「変態じゃない、変態じゃないってひまわりちゃん!!」
「そうですよ……、せめてお医者さんの第一印象くらいは良くしてあげないと可哀想です」
「ねぇ『第一印象くらい』ってどういうこと!?」
そして続く青年と少女たち――。
間桐雁夜、四宮ひまわり、田所恵という、主催者側の人間で、今まで生き残っていた者で、なおかつヒグマ帝国とも親密な関係と情報共有をしている者たちがまた、そこに辿り着いていた。
††††††††††
あのドアを叩き ヒトを知る倫理を飲みに
Yay yay yay yay ye ナース・カフェへ
††††††††††
「……さて、何事も、正しい索敵と状況把握がなきゃ始まらないのよ。
そうでもなきゃ、大量の深海棲艦相手にアウトレンジなんて保てないわ。
もう失敗しないからね、小沢っち、翔鶴姉……!!」
場面は診療所の、数十メートル上方に移る。
総合病院の、屋上。
その時そこにいたのは、瑞鶴という名のヒグマ製艦娘であった。
戦艦ヒ級との戦いから幸運にも生還した彼女は、その幸運を自覚することなく、ツインテールを振り立たせ、階下から聞こえた物音に身構えている。
ところどころ傷だらけになっている彼女は、引き絞った弓矢を上空に放ち、そこから5機の零式艦戦52型を発生させた。
そして彼女はそれを自身の身の回りに、絶妙な空間を確保して旋回させる。
搭載艦や飛行場の上空を周回し、敵航空機を即応・迎撃して味方艦船や飛行場を守る、戦闘空中哨戒護衛機。
――直掩機である。
一般に航空機は、滑走路の上で武装して駐機状態にあっても戦闘可能となるまでには一定の時間がかかる。
離陸までにも時間がかかるし、ただ離陸すれば戦闘可能というわけではなく、交戦に必要な高度や速度を得なければならないからだ。
空母艦娘である瑞鶴にしても、彼我数十メートルも離れていない至近距離では、弓に艦載機の矢を番えて放ち、変化させて攻撃する、というその長い隙が致命的になる。
これこそ、彼女たち空母艦娘が接近戦で戦えないと思われている主因であり、瑞鶴も先程、とっさに打根まがいの攻撃で難を逃れはしたものの、やはりこんな環境での戦闘には大いに不安が残る。
そこで彼女が自然と思いついた戦闘法が、あらかじめ身の回りを飛行させておくこの直掩機だ。
瑞鶴の意思とリンクして操縦されるその戦闘機は、彼女の周りを自在に機動しながら機銃と小型の爆弾で一撃離脱の攻撃を行なえる、遠隔操作型機動砲台となる。
要するに普段の彼女が遠隔地の上空でやっている行為を、至近距離の低空で行うだけであり、むしろその操作における精密動作性は高まるだろう。
近距離で全方位に弾幕を展開することができれば、ヒグマであろうとも攻めあぐねるだろうし、5機の機銃を一点に集束させれば、一瞬にして殺到する数百発の弾丸により、ヒグマであろうとも相当なダメージを受けるに違いない。
「小沢っち……、今なら直掩機、いくらでも出せるから……。
もう、あの時みたいな、無様な敗北は、喫さないからね……!」
瑞鶴が思い出すのは、1944年10月のレイテ沖海戦だ。
囮部隊の旗艦として彼女が沈んだその時、米海軍の空母11隻に対し、瑞鶴たち小沢艦隊が展開できた直掩機は、艦隊全てでわずか18機しかなかった。
既に戦いの前から、その絶望的な結果は、目に見えていたものだった。
瑞鶴は涙を堪えるように、唇を引き結んで上を向く。
「……っ、さぁ! 次は偵察機偵察機! 機動力を重視して、彩雲よりも二式艦上偵察機かなー……」
心を泥殺しそうな記憶を振り払い、つとめて明るく、瑞鶴が続く偵察機を取り出そうとしていたその時だった。
「……瑞鶴?」
「ひえっ……!? ……って、え……、翔鶴姉ぇ!?」
意識を外していた階段の方から、突然女性の声が聞こえていた。
屋上に階段を張り出す建屋の中からは、その声に続いて、長い銀髪の女性の姿が顔を覗かせる。
自分とほとんど同じ格好の、余りに見慣れたその姿。
彼女の胴着の胸当てには、瑞鶴の姉、翔鶴型一番艦・翔鶴を示す識別文字が『シ』と白くしっかりと記されている。
瑞鶴は驚愕した。
「え、え……、なんで、どうして!?」
「瑞鶴ったら、声が大きいんだもの。下まで聞こえてたからすぐわかっちゃったわ」
「し、しまった思わず……、ってか、そうじゃなくて、なんで翔鶴姉がここにいるの!?」
「当然、私も作られたからよ。……それにしても、ここで瑞鶴と会えてよかった……!」
瑞鶴は、予想もしていなかった相手との出会いに、緊張も解いて顔を緩ませてしまう。
だが彼女は、それに対して軽く微笑みはするものの、依然として鋭い口調のままだ。
切羽詰まったようなその口調を訝しんで、瑞鶴はその姉の姿をよく観察する。
そして瑞鶴は、さらなる驚愕に目を見開いた。
「……!? 翔鶴姉、怪我してるの!? それに、装備は!? 弓も、矢もないの!?」
「ええ……、ちょっとね。やられちゃった……」
微笑む姉の表情は、苦しげだった。
その衣服にはところどころ爆風を受けたような焦げ付きがあり、見たところ小破、といった様子だった。
えびらも背負わず、矢など一本もなく、弓さえも持っていない。
飛行甲板すらない、完全な丸腰だ。
その相手に奪われたか、破壊されたか、ということなのだろうか。
「だ、誰に……、いや、何にやられたの翔鶴姉!?」
「多分だけど、深海棲艦……。今ようやく、逃げて来られた所だったの……!」
「やっぱり……!! 安心して翔鶴姉、今から、私が護ったげるから!!」
瑞鶴は急いで姉の体を階段の前から外し、建屋の壁にぴったりと背を付けて階下を窺った。
すぐに攻撃に移れるよう直掩機を待機させ、瑞鶴はその弓に偵察機を番える。
その瑞鶴の様子を不安そうに見守りながら、彼女は呟く。
「気を付けてね瑞鶴……、恐ろしい相手だったわ……」
「大丈夫……、今までの私とは違う。何たって、改二なんだから私は!!」
「だといいけれど……。私が気づいたんだから……」
気焔を吐く瑞鶴の後ろに隠れつつ、彼女はゴクリと唾を呑んだ。
「……もう、あの深海棲艦も、あなたに気づいてるわ……!!」
階下からは、ズリ、ズリ、と金属を引き摺るような不気味な音が、次第に屋上へ近づいてきていた。
††††††††††
あの道を辿り 虚偽を秘す真理を飲みに
Yay yay yay yay ye ナース・カフェへ
最終更新:2015年07月17日 15:41