「――あなたが、布束さんなのね」
「Exactly(その通りよ)、暁美ほむら……」
「伝聞じゃどんな化物じみたヒトかと思ったけど……、安心したわ」

 穴持たず748~751曰く、彼ら4頭を得体の知れない能力で昏倒させた。
 ビショップヒグマ曰く、一行を苦戦させたピースガーディアンすら全員一撃で倒した。
 デビルヒグマ曰く、暁美ほむら並みに心情を読めない。
 そんな女性だと聞き及んでいた人物が、暁美ほむらの目の前にいた。

 ウェーブのかかった髪に、眠たげな半眼をしている。
 制服のブラウスとスカート、そして研究者然とした白衣をまとう彼女の姿は、海に落ちてきたように全体的に湿っている。
 その雰囲気こそ常人とはズレている面もあるのだろう。
 しかし彼女もまた、ほむらたちと同じくこの異常な環境下で懸命に生き延びてきた人物なのだろうと、容易に推察はされた。


「……良く生きて辿り着いてくれたわ、参加者の皆さん。
 私は布束砥信。STUDYコーポレーションで特任部長を務めていた……、この実験の主催者の一人。
 そして、この実験を転覆させようと試行し続けていた者よ」


 そして彼女は、診療所にいる全員に向けて隠すこともなく素性を明かす。
 多くの者が息を飲んだ。
 薄々察せてはいても、その場の大半の参加者には、ここで主催者――正確には元・主催者側の人間に出会うことは率直に驚きだった。
 そして更に、『この実験を転覆させようと試行し続けていた者』という彼女の自己紹介が、その驚きと疑問を深める。
 即座に口を開いたのは、訝しげな視線を送る纏流子だ。

「おい……、どういうことだそりゃ。お前は主催者一味だったが、最初から裏切るつもりだったってことか?」
「正確には、ヒグマ側にも人間側にも被害が出ないよう収めようとしていた……。
 困難だったし大部分失敗だったけれど、その試みは少なくとも一部、成功したわ。こうしてあなたたちが来てくれたのだから。
 あなたたちも、私の書面を見てここへ来れたのでしょう? 纏流子」

 しかし布束の予想に反して、地上から来た参加者の一行は、一様に眉を顰めて顔を見合わせる。


「……書面って……。何のことだクマ?」
「布束……、お前、参加者に何かしら手引きをしていたのか? それは知らなかったな……」

 逆に問い返された言葉に、布束はうろたえる。

「え……、心当たりが無いの? 球磨、デビル……。それじゃああなたたちはどうやってここに……。
 ……まさか、首輪に電波の遮蔽もしてない……!?」

 暁美ほむらたち一行は、布束が密かに地上に配置していた地図や文書のことを一切知らない。
 グリズリーマザーの屋台前にいたオーバーボディの面々が一行にいるだろうと布束は見当をつけていたのだが、その予想も外れている。
 さらに、彼女たちに取りつけられている首輪は、よくよく見れば剥き出しだ。
 アルミホイルなどで覆って爆破信号を遮断できるようにはなっていない。
 大変なことだった。

『ああ……、首輪は僕が「劣化大嘘吐き」で通信機能をなかったことにしたんで、大丈夫です』
「あと……、地上からは、戦闘のどさくさで大穴が開いて、たまたま落ちて来ちゃったんですよね」
「そうなの……!? ……それは凄まじい運と機転だったわね」

 肩掛け鞄から慌ててドライバーを取り出していた布束に、球磨川禊碇シンジが答える。
 そこへ即座に暁美ほむらが口を挟んだ。

「あ、待って。この首輪はドライバーで外せるのね? それなら後で教えて」
「Sure, of course、外してあげるわ。遠隔爆破されないでも、信管に直接衝撃が来れば簡単に首が飛ぶから」
「やっぱり……。さっきの戦いで誰も首元をやられないでラッキーだった。感謝するわ、ビショップさん」
「え、私デスか……!?」
「本当に、私たちが無事に地上に戻れるよう気を遣ってくれたのね。ありがとう、ビショップさん」
「ん、ン……? ン、まぁ……、ハイ、ソウデスネ、ドウイタシマシタ」

 布束とのやりとりから唐突にほむらと巴マミに感謝の言葉を掛けられ、ビショップヒグマは困惑した。
 ピースガーディアンの面々は全体的に殺す気で向かって行っていたし、実際にルークは人一人を重体にまで追い込んでいるので感謝される謂れは全くない。
 のだが、確かに唯一ビショップだけは交渉主体ではいたので、敢えてツッコむこともなく彼女は言葉を呑んだ。


「……ねぇ布束さん。実におめでたいけど、こいつもう落としていい?」
「ああ、why not? さっさと輸液してもらいましょう」
「わかった、わかったもう自分で降りるから……!」
「間桐さん足元気を付けてくださいね……」


 布束が診療所の面々とやりとりをしている間に、その後ろにいた者たちも動き始めた。
 即席の担架から下ろされたのは、血色の悪い痩せた白髪の男性だ。
 顔や体の左半分が麻痺したように引き攣れており、その歩みも非常におぼつかず危なっかしい。
 痩せさらばえているその体重も、少女2人が担架で運べてしまうほどだということだ。
 その姿に、医療班のジブリールとベージュ老が慌てて駆け寄る。

「だ、大丈夫ですか!? すぐ診察致します!!」
「確か魔術師の間桐さんじゃったな、症状はどんな具合じゃ!?」
「あ、はい、一応これシーナー先生から紹介状で……。ってかやっぱり医者全員ヒグマなんだ……」

 服の地に刻印虫の体液で記された情報提供書を彼らに見せながら、診察室に運ばれる間桐雁夜は嘆息した。


「あ、あの……皆さん、料理人の田所恵です……。私は研究所のごはん作ってただけで実験のことは良く知らなかったんですけど……。本当にご迷惑おかけして、すみません……」
「示現エンジンの管理部長やってた四宮ひまわり。私は『ヒグマと人間を交流させてみる至ってほのぼのとした実験』としか有冨さんから聞いてなかったから。
 そのほのぼのがサツバツの間違いだったのは、私にとってもいい迷惑。ほんと」
「お、おう……。蓋開けて見りゃ主催者ってこんなんばっかだったのか……」
「……もう既に、主犯格はヒグマたち自身が処刑していたってことなんでしょうね」

 その間、担架を運んでいた二人の少女、田所恵と四宮ひまわりが一堂に向けて頭を下げる。
 纏流子と暁美ほむらを始め一行は、布束を含む彼女たち元主催者の生き残りに、余りに責めるような罪状が窺えず唸るばかりだった。


    ††††††††††


「――see? とりあえずこの手順で首輪は外せるわ。あと爆破条件の詳細設定がここでできる」

 布束砥信は、一行の来歴を軽く伺った後、ビショップヒグマやベージュ老たちを労い、意識を失っている星空凛のもとにやってきていた。
 その診察室の手前側では、間桐雁夜が点滴のラインを取られるのに四苦八苦している。
 それでも今度はジブリールも、二回の刺し間違いで静脈を探り当てたので若干はマシだ。

 田所恵と四宮ひまわりは取り敢えず自身の腹ごしらえと全員の昼食を用意するべく、診療所の薬品棚の奥を探っている。
 その他女性陣は診察室の中で布束らの様子を窺い、男性陣は待合室で屯していた。

「なるほど、予想通り、内部に配置した成型炸薬輪のモンロー効果で殺傷力を持たせてるのね。
 内径調節はここ……、と。良い武器だわ。設計者はあなた?」
「……いいえ、手は加えてあるでしょうけど外部の製品よ。どこかの共和国が作ったものだとか」

 ドライバー一本で簡単に外されたそれを観察し、暁美ほむらはその構造を完全に理解して満足げに頷く。
 布束砥信の手には、眠る星空凛の首から外された爆弾首輪があった。

「……球磨、いいかしら」
「ふっふーん、もちろんだクマ」

 そしてほむらは、布束からドライバーと首輪を受けとり、傍にいた球磨を呼び寄せた。
 球磨は微笑んで胸を張り、その白い首筋をほむらの前に晒す。
 取り外しに失敗すれば、爆死する。
 その事実がはっきりしていてなお、その秘書艦は全幅の信頼をおいて、自身の首を彼女に差し出した。

 その艦を抱きしめるように暁美ほむらは指先を繰る。
 戒めの外れる軽い音が立つまで、そこから5秒もかからなかった。


「ありがとう、球磨……。ようやく、交換の約束を果たせるわ。これは良い装備よ」
「なーに言ってるクマ。礼には及ばんし、それの良い活用法が球磨には解らんクマ。
 そんな細かいこと気にせず、ほむらはどーんと構えていてくれればいいクマ」
「そう……。ただ本当に……、ありがとう」


 球磨から外した首輪を強く握りしめながら、ほむらは目を伏せ、噛み締めるようにして感謝の言葉を述べる。
 憂いの見えぬ朗らかな球磨の信頼が、余りにほむらには、面映ゆかった。

 そうして布束の行なった首輪の解除法に嘘偽りがなかったことまで確認して、作業の間布束の後ろから動かなかった纏流子が、ようやく口を開く。


「……なるほど、確かにこいつは信用して良さそうだ」
「……纏さん。星空さんの処置の引き継ぎもしてくれていたのに、さっきからやはり失礼ではなくて?」


 そして巴マミが、即座に彼女に釘を刺した。
 纏流子はじろりとマミを睨む。
 構え直された片太刀バサミは、今の今まで、布束砥信の背中に突き付けられていたものだ。


「……おい。何だかんだ言って、この布束って女は主催の人間だったんだぜ?
 そいつが首輪いじりに怪我人のとこに来たってなれば、まず警戒してなくちゃ話にならねぇだろう?
 礼を気にして命を捨てる気か? さっきからご立派だよなぁお前は」
「巴マミ。気持ちはありがたいけれど纏流子が正しいわ。むしろ生き残るためには警戒していなくては」

 当の布束砥信は、脅されていたに等しい先程までの自分の状況にも、さも当然というように平気な顔をしている。
 纏流子にはマミの言葉が逐一カンに障るのか、ともすれば構えたその刃が巴マミに向けて奔りそうだった。
 流子の視線は、同じく診察室の中にいるジブリールやベージュ老、その膝のビショップヒグマなどにも注がれている。
 ほむらや球磨は、その殺気を伴った緊迫に身構える。
 同じく標的にされているらしいヒグマたちにも緊張が走る中、巴マミは残念そうに眉を下げる。


「……纏さん。あなたの言っていることは確かに正しいわ。いつも」
「じゃあなんで――」
「でもいつも、あなたは他の人の気持ちを理解していないわ。たぶん」


 巴マミは何気ない動作で、自分の左腕を正面に上げた。纏流子に向けて握手でも求めるかのような動きだった。
 不可解なその振りに続いて、マミはその魔法少女衣装の袖をたくし上げ始める。

 ――中から出て来たのは、一丁の懐中マスケットだった。

「なっ――!?」
「……警戒なら、さっきから私も、暁美さんも、球磨さんもしてるのよ。でも、それが相手に判ってしまったら何の意味もないわ。こういうのは隠してやっておかなくちゃ。
 あからさまに敵意を見せていたら、面従腹背。その場だけやり過ごされて後からブスリ、よ。
 ……もし敵に脅されたらそうするでしょう? あなたも」

 巴マミは、その小型のフリントロック懐中銃を、診療所の突入時から油断なく隠し持っていた。
 いつの間にか突き付けられていた形になる、冷たい古式銃の銃口を目の前にしながら、纏流子は常日頃感じたことのない寒気を背筋に覚えて震えた。
 普段と変わらぬ口調のまま朗々と語る巴マミの姿から、その時纏流子には、自身が目の敵としていた鬼龍院皐月にも並ぶほどの威圧感が出ているように感じられた。

「……あたしなら。脅している敵ごと、そのままぶった切ってやる……!!」
「そう。みんなそれで勝てると思っているなら、ご立派な甘ちゃんね。昔の私みたいだわ」

 今にも飛び掛かりそうな猛犬じみた形相で唸る流子に対し、巴マミは柔和だった。
 嘲笑と言うよりは、純粋に懐かしさを感じているかのような苦笑で、彼女は流子の睥睨に応じる。

「……みんな貴女みたいに、甘くて強い者ばかりじゃないし、みんな貴女みたいに、甘くて強がってる者ばかりなのよ。まずはそう思ってみましょう?」
「何言ってやがる……ッ!! さっきまで泣き喚いてた女が、いきなり先輩みてぇなツラしやがってよォ!!」
「ふふ、ほんとね。本当にありがとう、纏さん」
「わっけわかんねぇ――!!」

 流子は苛立ちと共に、眼前に構えられていた巴マミの腕を叩き落とした。

「――外、見て回るッ」

 そして吐き捨てるように叫ぶやいなや、彼女はどすどすと大股で診察室を後にし、大音声を立てて診療所のドアを蹴り開けて出て行ってしまった。


「ありゃりゃ、行っちゃったクマ」
「……あれで良かったの、巴マミ?」
「良くはないけど……、もうちょっと私も言い方に気を遣うべきだったかしら」
「いいえ、あれこそマミさんよ。何の問題もないわ」

 球磨や布束が、決裂したような彼女とマミとのやりとりに言葉を濁す。
 しかし暁美ほむらだけはそこで、感慨深げに頷いた。

「……暁美さんの知っている私って、そんなだったのかしら?」
「いいえ、もっと視野が狭かったし視点は遠すぎたし、先輩らし過ぎて絶対に見習いたくない先輩だったし。より良くなっていると思うわ」
「そう……、それなら良かったわ」


 カマを掛けた巴マミは、含みしかない暁美ほむらの言葉を、自嘲で受けざるを得なかった。


    ††††††††††


「……女の子って、怖いんだな」

 間桐雁夜が、ぼそりとそう言う。

「そ……うですね……。うん……怖い女の人、いるよなぁ……」
「うむ。女……、もとい、雌は強いな。ルカもメロン熊もそうだった」

 待合の隅に肩を寄せ合うようにして、雁夜の隣で碇シンジとデビルヒグマもそう言った。
 間桐雁夜は布束やジブリールに治療してもらったあと、診察室の内の空気に耐えきれず、輸液のパックをガードル台に吊るしてこっそりと待合にまで出てきていたのである。
 肩を怒らせて診療所を出て行ってしまった纏流子の剣幕には、みな少しく肝の冷える思いだった。

『……ねぇ、ジャンくんはどう思うんだい?』
「もういいから……。オレのことは暫く放っておいてくれ……」

 同じくその片隅に甘んじて追いやられているような球磨川禊が、膝を抱えて蹲るジャンを見下ろして問う。
 その声掛けにも、依然としてジャンは自己嫌悪の色で嘆いた。

『……そうか。僕としてはジャンくんが羨ましいくらいなんだけどね』
「……そうか。それなら代わりに女子勢から袋叩きにされてくれ」
『冗談じゃないんだけどなぁ』

 つっけんどんなジャンの返答に、球磨川は苦笑で応じる。
 どういう意味か、と問いた気に顔を上げたジャンに向け、球磨川は言葉を繋いだ。


『ある意味、キミは僕なんかには真似できないくらい真っ直ぐで誠実なんだ。わかってたけど。
 だからさ、僕はキミを真似したく無いくらい尊敬してるし、本当に羨ましいんだよ』
「……何言ってやがる、テメェ」
『そう言いつつ、ジャンくんはわかってるんだろう? ほむらちゃんも優しかったしね?』
「くっ……」

 球磨川の軽妙な言葉に、ジャンは顔を赤らめながら目を逸らした。
 停電前の暁美ほむらの行動の真意を、この二人だけは、わかっていた。


「球磨川さん……、今のジャンさんの立場のどこが羨ましいんですか……?」
「球磨川……、お前も言動が解り辛い輩の一人か……」
『まぁまぁ、そこまで僕みたいなマイナスの人間の言うこと真面目に捉えないで良いよ』

 シンジとデビルからの言葉に球磨川はへらへらと笑う。
 ただ、そのまま彼は碇シンジに目を向けて言葉を繋げた。


『……でもシンジくんは、少し彼を羨ましく思っても良いんじゃない?』
「え!? ど、どこらへんでです、か……?」
『いや、良いんだよ思わなくても? シンジくんが女の子に対して、彼以上の誠実さを持てるならば』
「誠、実……?」


 球磨川の言葉は、依然として不可解だった。
 しかしその言葉は、まるでシンジの心の底まで見透かしているような、得体の知れぬ重みを持って碇シンジの耳に刺さる。
 その理由に思い至らずとも、何故かシンジの脳裏には、その言葉で不快なささくれができた。


「ジャンくん……って言ったか?」
「ああ、なんだよおっさん」
「おっさ……!? ……まぁいいか」

 その時、間桐雁夜はジャンに親近感を覚えていた。
 年長者として、自身と類似した境遇に悩んでいるらしい少年を励ましてやろうと、彼は出来る限り力強い声で語り掛ける。

「訊いた限りじゃ他人事に思えないが……。大丈夫、君はたぶん間違ってない。そのまま正直で居ればいい」
「ありがとうございます、おかげさまで大きく不安になりました」
「あれぇ!? 良いアドバイスだと思ったんだけど!?」
「……あんたから大丈夫と言われて不安にならない方がおかしいぜ」

 話をロクに聞いてもいない初対面の男性から励まされたところで嬉しくない。
 しかもよりによって、その男は少女3人から変態として扱われていた者である。
 その彼から同類と認められて安堵できるはずはないだろう。


『あはは、いや、でも、間違ってない』

 しかしそこで、球磨川禊だけは、間桐雁夜の言葉を肯定した。


『人間……、「正直」に生きるのが一番良いんだよ。正直者は馬鹿を見て、馬鹿と鋏は使いようだ……。
 まぁ、「大嘘吐き」の僕には……、天地がひっくり返っても、そんなの真似できないんだろうけどね』

 彼が独り言のように宙に吐き出した言葉は、どこか諦観の混じったような、哀しげな色を帯びていた。


「そうね、間違い過ぎてて正しい馬鹿だったわね、ジャン・キルシュタイン

 その時、ホモシュタインとかクソミソクンではなく、正しい名前で、暁美ほむらがジャンの名を呼ぶ。
 顔を上げた男性陣の前には、指先に首輪とドライバーを携えた眼鏡の少女、暁美ほむらが立っていた。

「首輪、外させてもらうわよ」
「あ、あのよ……。なんで、あの時、俺を、撃たなかった……?」

 彼女は躊躇することもなく、まずジャン・キルシュタインの元に屈み込み、彼に鼻先が接するような距離で首輪にドライバーを差し込み始める。
 ジャンは顔を真っ赤にしながら、焦ったように問いを掛けた。

 彼女の真意において、ジャンが思い至る可能性は一つしかなかった。
 だがそうであっても、彼には暁美ほむらがそこまでする理由が、思いつかなかった。


「……あの小銃は三重の意味で撃てなかった。あなたなら気付いてると思ってたけど」
「は……?」
「……まぁ、たぶん場数が違うのね。私と巴マミと球磨は、あなたとも、纏流子とも。
 いいわよ、あなたは正直でも。……隠すのが疲れるのは、私が一番よく知ってる」


 謎めいた言葉と共にジャンの頬には、重い憂いの溜息がかかった。
 かちりと首輪が、外れた。


    ††††††††††


「なんなんだよ……、なんなんだよあいつらは……!」
(流子……、少し落ち着いた方がいい)
「あたしは落ち着いてるよ鮮血! 混乱させてくるのは向こうだ!」
(頭に血がのぼって……いや、貧血気味でイライラしてるのと違うか?)
「おかげでチョベリグだよ、お世話様」
(流子……)

 診療所の外に出た纏流子は、その近辺を腹立たしげに蹴り回りながら練り歩いていた。
 セーラー服からの忠言を流し、苛立ちに任せて蹴り上げる爪先の地面は、苔に湿った暗がりだ。

 明りのついているのは背後の診療所のみで、そこから暫く距離をおけば、途端に光度は落ちて真っ暗闇になってしまう。
 診療所に突入する前までは明かりのついていた研究所跡があるはずの道の先も、ヒカリゴケのような薄ぼんやりとした光を放っているはずの壁面も、診療所の明るさに慣れた目にはただの暗黒にしか見えなかった。


「纏さんって……、服と喋ることができる魔法少女なの?」


 その時、流子の背後の光が強まり、影が伸びてきた後、再び光が元に戻る。
 巴マミが、診療所の扉を開けて流子の元に歩み寄ってきていた。


「……あたしは魔法少女じゃねぇ。この鮮血って服も片太刀バサミも、父さんが遺してくれたモンだ。
 ……魔女とも幽霊船とも関係ねぇよ」
「それでも、あなたはその鮮血さんすら、『何がなんだか、分からねえ』んでしょ?」


 背を向けたままの纏流子に、巴マミの足音が近づく。
 牽制したつもりで投げた流子の言葉は、巴マミに投げ返され、流子自身の胸に突き立った。
 背筋に汗が流れたのを、纏流子は感じた。

 その瞬間、流子の動けぬ隙を突くようにして、背後から何かが差し出される。


「――……!?」
「これ、一緒に食べましょう?
 病院にあった低タンパク食のプリンに、田所さんが注射用の50%糖液でカラメルソースを作ってくれたそうよ」


 振り向けば、差し出されていたのはカスタードプリンのような色合いの洋菓子だった。
 しかしそれは三角形のチーズケーキのように切り分けられ、上にかかったカラメルソースもパリパリの板状になっている。
 プリンであったらしい本体は、切り分けられても崩れるような柔らかさを見せず、むしろ良く冷えたアイスクリームのように断面から冷気を漂わせていた。


「『クレマカタラーナ』……。イタリアにもある、スペイン発祥のお菓子よ。
 まさにドルチェ・アル・クッキアーヨ(スプーン菓子)の王道。こんなところで食べられるなんて夢見たい」
「な、なんか、またえらいハイソなモンが出て来たな……」


 その見た目の芳しさは、流子の警戒と緊張を解いてその皿を受け取らせるには十分すぎた。

 巴マミから差し出されたスプーンでそのケーキのようなプリンの角を切ってみれば、みっしりとした手応えと共に断面はほどけ、バニラの香りが漂ってくる。
 舌の上に踊るのは、カラメルの軽快な苦みと香り。冷たいアイスクリームの舌触り。
 歯触りも軽やかに焦がしカラメルの細片が弾ければ、その奥から、柔らかなプリン自体の甘みが、温もりの戻るにつれてじんわりとやってくる。

 連戦に火照った体を愛撫してくれるような妙味。
 芳醇で甘美なその風味の連奏は、元が出来合いの栄養調整食や注射液だとは思えないほどだった。

「なんだこれ……、うみゃい……!? うぅ、もう無くなっちまったし……」
「私の分も良かったら半分いる?」
「もらう!」

 纏流子は瞬く間にそのお菓子を、貪るようにして完食してしまう。
 彼女にとって、そして一行全員にとって、それは深夜から通して初めてのまともな食事だ。
 枯渇しかけていた糖分を喘ぎ求めるように、彼女は眼を輝かせてスプーンを口に運んだ。
 その無邪気な様子に、巴マミは微笑む。

「ふふ、纏さん可愛い……」
「ん~♪ ……ん?」
「いや、纏さんが可愛くて」
「……さっきからアレなんだが。お前中学生だろ? 年下からそんなこと言われても……」
「……年上趣味?」
「いや、いや、いや! 違う! そもそもあたしを可愛いと思うなんざどうかしてる!」

 流子はスプーンを打ち振って、マミの笑みを必死に否定した。
 その彼女に対し、巴マミはふと目を下に落として、言葉を濁す。


「……でも、これがもしテンシさんの作ったものだったらどうするつもりだったの?
 毒が入ってるかもしれないって断った?」
「むぐっ……!?」


 最後の一口を頬張っていた纏流子は、思わずその言葉に口内のモノを吐き戻しそうになる。
 堪えて飲み下した彼女は、緩んでいた表情を一転して殺気に満たし、巴マミを睨みつける。

「……お前は冗談でも嘘は言わんと思っていたし、あの料理人は人間だ」
「田所さんだって元主催者よ。私たちを殺し合いに巻き込んだ。
 私だって、あなたたちに吐露したとおり、情けない見栄っ張りだわ」

 鍔迫り合いをするかのように、二人の視線は真っ向からかち合った。


「……蒸し返す気かよ。プリンは蒸しすぎると『ス』が入るぞ」
「……多分この話題は、プリンほど甘くないわ」


 クレマカタラーナのまろやかな後味は、霧消した。

 纏流子が口を引き結んで、完食した皿を突き返す。
 なぜ流子が、そこまでヒグマを敵視するのか――。
 その理由を吐露してもらうことが、巴マミの言外の要求だった。


 ――暁美ほむらの盾の中で語られた構図の鏡写し。


 巴マミが皿を受け取ると、流子は拳を握り、口を開く。


「……あたしはここに来て、お前と同じく早々からヒグマに襲われた。
 お前の言った白目のヤツとは違って、すっとぼけたゆるキャラみたいなナリのヒグマだった。
 だが、そんな格好をしときながら、あのヒグマは黒木智子とあたしに向かってきやがった……!!」
「……その子って、放送で呼ばれた……」
「そうだよ。その場は、支給品に入ってたピ○ポ君らしきヤツが、『市民の平和はボクが守る、君たちは逃げたまえ!』って言ったから、相手してもらってるうちに逃げた。
 だが智子とは、それから暫くしてはぐれちまって、終いにはこのザマだ!!」
「そう……、なの……」

 マミは息巻く流子の語りを受けて、沈痛に面持ちを曇らせた。
 その話に出て来た女の子は、先程の放送で呼ばれた人物だ。
 マミたちのように首輪を外しただけの可能性も無くはないとはいえ、死んでしまっている確率の方がはるかに高い。
 握り拳を震わせる流子の自責は、マミにも容易く窺い知れた。

 守りたいものを守れなかった、口惜しさの痛み――。
 流子は顔を上げて叫んだ。


「だからあたしは……、ヒグマを許せねぇ!! ゆるキャラの姿をしていても、それはヒトを油断させるための上っ面なんだよ!!
 そんなヤツらを信用するなんて、出来るもんか!!」


 流子はその赤の混じった黒髪を振り立たせ、巴マミの胸元に指を突き付ける。

 彼女が思い悩んでいた理由。
 ヒグマは敵であり、決して心を許してはならない――。
 そう語る理由を、確かに巴マミは理解していた。

 そして同時に、そう考える正当性は彼女に存在しない――。とも、巴マミは思っていた。


「……ピ○ポ君だって、ゆるキャラでしょ……!?」


 マミは流子の瞳を見つめ返し、静かに言う。

「それが立って喋ってって……、条件は一緒じゃない。そのゆるキャラのヒグマと何が違ったの?」

 流子は言葉に窮した。
 確かに、人間大の喋るピ○ポ君は、不気味さで言えばあのゆるキャラのヒグマとどっこいどっこいだったからだ。
 たまたまデイパックの中に入っていたから、そして第一声がそんな言葉だったから――。
 それだけで流子は、緊急の場で、ピ○ポ君を全面的に信用した。


「はぐれた末に亡くなってしまったのなら、その黒木さんが本当にヒグマに殺されたのかもわからないじゃない。
 実はあなたと話したのはピ○ポ君の姿をした変質者で、こっそり黒木さんを誘拐して殺してたとしても、わからないんでしょ?」
「そ、んな、こと……」
「……私たちは本当のことを知らなきゃいけないんだわ、纏さん。あなたが言ってくれた通り。
 あなたはあなた、私は私。決して自分の思い込みやルールで相手を捉えてはいけないのよ」

 巴マミは、胸に突き付けられた流子の指を、両手で包み込んだ。


「それが辛いことであっても、今度はきっと私たちが支えてあげられるから……」
「~~ッ!! 何様だテメェは!! どうしてこうまでしてあたしに絡む!!」
「私たちだって纏さんが必要なのよ!! あなただって正義の人でしょう!?」
「あたしは父さんの仇を探してるだけだ!! 正義なんて大層なモンに興味はねぇ!!」
「大衆のための正義も一人のための正義も同じことよ!! 自分一人すら救えなかった私を掬ってくれたのは、纏さんたちじゃない!!」


 マミの手を振り切ろうと叫んだ流子は、その手をさらに強く握りしめられていた。
 流子は驚愕した。

 自分の言葉は、巴マミには届いていなかったのだとばかり、纏流子は思っていた。
 幽霊船と魔女とヒグマと自分自身を同一視する者と。
 服と主催者とヒグマと自分自身を完全に斬り分ける者と。
 両者は水と油。決して交わりはしないのだろうと、纏流子は割り切っていた。

 だが今ここで流子の手を握っている巴マミの両腕は、流子自身が彼女に掬い上げてきたものだった。
 巴マミは、この期に及んで自身と纏流子すら、未だ同一視していた。

 全てを同一視して対応するからこそ、巴マミの思考は周囲の誰からも切り離されていた。
 全てを斬り分けて対応するからこそ、纏流子の思考は周囲を自分の規に詰め込んでいた。
 それらはきっと全て、視点の違いに過ぎなかった。


「……私にも、支えさせて。お願い」


 顔を伏せた巴マミの声は、震えていた。
 魔法少女のような衣装を着てその細い身を守っている、ただの女子中学生がそこにいた。

 虚勢と大義という神の衣を斬り裂かれた彼女が、守るもののない裸の上に、その遺灰を精一杯縫い合わせて着ている服。
 それが彼女の言葉なのだと、セーラー服のような神の衣を纏っている不良女子高生にはわかった。
 ただ切り裂かれた今までの生活を着たかっただけの小市民と、何が違うのか。わからなかった。


 纏流子は、肩の力を抜いた。
 そんな姿を見てしまってはもう、彼女には、きるものがなかった。


「……ハッ、分不相応な思想抱えて潰れてたお前にかよ。どうせ料理くらいしかできないんだろ?」

 鼻で笑った。
 顔を上げた巴マミに向けて、言葉はきらず、続けた。


「……なあ、水と油は、混ざると思うか?」
「……プリンの中では、水と油は、乳化してるわ」
「引火した天ぷら油に水を注ぐと、爆発するんだけどな?」


 そう重ねられた問いを聞いて、巴マミの眉が上がる。
 その襲ねの色目に透ける真意の色合いは、彼女の目にも、見えた。

「……ごめんなさい。その場合は、火元を断つのが一番だったわ」
「いや、あたしこそ。あたしはあんまり……、火力の調節が上手くねぇからな」

 返ってきた巴マミの言葉に、纏流子は嘆息する。
 言葉をきらず、きせた。


「……じゃあすまねぇが、その時は代わりに火を、斬ってくれ」
「……わかったわ。フリットゥーラ(揚げ物)は、得意だから」


 ――料理の話だからな?
 泣き笑う巴マミの背を叩いて、纏流子は口元を歪ませた。


    ††††††††††


 ぱくり。
 と、スプーンが口に運ばれる。
 診療所の奥、従業員控室のキッチンに、四宮ひまわりと田所恵がいた。

 なぜかその床には、掘り返されたような大穴が開いていたのだが、幸いキッチンのある壁際とは反対の隅だったため、調理する分には支障なかった。

 田所恵が、診療所にあった資材のみで作り上げた『クレマカタラーナ』。
 その出来立ての逸品を、ひまわりが今まさに頬張ったところだった。


「どうかな? ひまわりちゃん」
「うん……、ヘキソースが上手い具合に芳香化して、異性化の程度も良好みたい。まるで恒温槽でも使ったみたいな精密な温度管理の賜物……。
 通常使う高純度スクロースじゃなくグルコースを使っているのに、美味しさはなお上……」
「え……、何言ってるの……? それカラメルだべ……?」

 褒められているのかどうかすらわからない四宮ひまわりの反応に、思わず田所恵は地元訛りが出てしまう。

「キャラメル化反応はまだ研究途上にある分野……。案外奥深いんだよね」
「へ、へぇ~……、そうなんだ……」
「恵ちゃん、研究者としても一流」

 汗を垂らしながら曖昧に笑った彼女へ、ひまわりは満足げに頷く。
 どうやら賞賛されたことだけは確かなようだ。


「クレマカタラーナにしては邪道も邪道の作り方だったんだけど……」
「美味しくないケミカルプリンを液体窒素で再調理して、糖液カラメルを炙りつけて仕立て上げる発想は褒められるべき。
 本来煩雑な工程をたった数分で仕上げたことになるんだし。その上美味しいし言うことなし!」
「あ、ありがとう……! それなら良かったべ……」

 当然製作者の田所恵も味見はしているのでそのクオリティを把握してはいるのだが、実際に食べてもらった者から感想を聞くのはまた別格だ。
 特に今回は、料理人としてやってはいけないと思われるギリギリのラインに抵触していたため、その評価を耳にするまで恵の内心は液体窒素と同様にヒヤヒヤであった。

「……よし。それじゃあ他の人にも配ってこようか」
「……え、ひまわりちゃん、そのまま配りに行くの?」

 その冷たいクリーム菓子をたっぷり3切れ平らげてから、四宮ひまわりは器を持って、診療所の待ち合いに出てゆこうとする。
 そこへ急に、田所恵が意外そうに声をかけていた。


「その根っこ邪魔だし、もう放しておいたら?」
「……え?」


 田所恵に指さされ、ひまわりは何気なく、自分の左手に目を落とした。
 皿をつまむ左手は何故か、折れた木の枝のようなものを、握り込んでいた。
 ちょうど短刀のような長さになっているそれは、斜めに裂けた鋭い割面を先端に見せている。

「……なんで私、こんなもの持ってんの……!?」
「え……? 間桐さんを降ろした後、わざわざ担架から折り取ってたから、護身用か何かなのかと思ってたんだけど……。
 私の料理を見てる時も、食べてる時もずっと持ってたし……」
「折り取っ……て? 私が、この、木の枝を……!?」

 四宮ひまわりは、聞かされる事実に驚くばかりだった。
 田所恵はむしろ、それを聞いて驚くひまわりに驚いた。
 瞬きを繰り返し、恵は彼女へ恐る恐る問いかける。


「ひまわりちゃん……、大丈夫なの……!?」


 ひまわりは、木刀のようなその枝を握り込んだ自身の左手を見つめ、歯を噛んでいた。

「……ごめん恵ちゃん、配って来て。あと、誰も呼ばないで」
「ひまわりちゃん……!?」
「私は大丈夫だから、行って」
「う、うん……!」

 有無を言わさぬ四宮ひまわりの強い口調に、田所恵はお盆に皿を乗せ、足早に控室を立ち去ってゆく。
 後にはひまわり一人が、その空間に取り残される。
 こじ開けた左の拳の内側を見て、四宮ひまわりは苦々しく舌打ちをした。


「……植物学者でもないのに、下手なことするんじゃなかったかな……」


 その掌には、何十本もの細かな木の根が、折られた木刀の幹から伸びて突き刺さっていた。
 既に四宮ひまわりの血管に這うようにしてその枝は、彼女の手首のあたりまで侵食している。

 ――自分の無意識を早くも奪われかけた。

 四宮ひまわりは『二代目鬼斬り』に寄生されたという事実を、重く受け止めていた。


    ††††††††††


「とりあえず、布束さんはこれからどう行動を考えてるクマ?」
「ある程度の方針は、ピースガーディアンの彼女、ビショップが話した通りなのよね?
 それで合意しているなら、大筋それでいいわ」

 キッチンから運ばれてきた冷たいデザートに、診療所の雰囲気はにわかに明るくなった感があった。
 巴マミは、暁美ほむらに言外にたしなめられたのを受け、纏流子の分まで皿を持って外に出ている。
 そのほむらと、彼女に首輪を外されている男性陣の方にも田所恵が皿を運んでいる間、診察室の布束砥信には球磨たちが同席していた。

 星空凛の寝息を横に、糖分補給しながらの方針のすり合わせだ。
 布束の意見を受け、球磨はベージュ老の膝のビショップに顔を向ける。
 スプーンを口に運びながら、申し訳なさそうに眉を寄せた。

「ビショップさん、すまんクマ。一応まだ捕虜でいてもらいたいから、この洋菓子はおあずけだクマ」
「……気にしナイで構いマセん。別に甘いものが好きな訳ではナイでスので」
「お、じゃあビショップさんは辛党クマ? 球磨焼酎とか呑むクマ?」
「……いや、アルコールは細胞に直にクるので、むしろ苦手でス」
「なんだ、じゃあやっぱり甘党じゃねーかクマ。鎮守府に帰ったら土産に朝鮮飴買ってきてやるクマ」
「ハァ、ドウモアリガトウゴザイマス……。先のことを言うと死亡フラグが笑いまスよ……」
「馬鹿言え。生存フラグだクマ」

 甘味に舌鼓を打つ球磨は軽口を叩く余裕も出て来て、その意気はキラキラと輝いているようだった。
 ビショップヒグマはそんな球磨の様子に、ガラス玉の中で辟易と舌を打つ。


「マァそこは良いとシて……、あとどのくらいで出立するんでスか?
 こうしてる間にも艦これ勢の侵攻は続いているでショう。ここにもいつ彼らが来るか……」
「や、やっぱりここ襲われちゃうんですか!? ぼ、防空壕増やしておく必要が……!?」
「テンシちゃん落ち着きなさいって……」
「いえ……、quite unlikely to be so。それは私も考えたわ。
 でも、それなら、私たちがここに辿り着く前にあのロボットたちが攻め込んでておかしくなかった。
 私たちやシーナーは既に示現エンジン前で、その『彼の者』に襲撃されていたのだから」


 ヒグマたちのざわつきに、布束は顎に手をやって考え込む。
 既に、侵攻はされているはずなのだ。
 先程診療所を襲った停電も、その攻撃への布束たちの応戦が関与している。
 それでも、球磨の対空電探にも、マンハッタン・トランスファーの気流探知能力にも、近隣に一切の敵影は確認されていない。

「……そこに居たメンバーから、シーナー、灰色熊、ヤイコが敵本拠地を叩きに。
 ツルシイン、龍田が、司波深雪司波達也とキングのいるらしい北のカフェを掩護しに行った。
 もう各方面にあのスポンサーの部隊は展開されているはずなのに。ここだけ無事だったことは奇妙に過ぎる」
「……そうなんじゃよな。本来ならこの施設は真っ先に狙われてもおかしくなかったのじゃが」
「……つまり、ここは中立地として攻撃目標から外されているクマ?」
「今ある情報から推測すると……、それしか考えられない」
「や、やっぱりここ見逃されるんですね!? よ、よかった安心だぁ~……」
「テンシちゃん早計すぎじゃって……」


 論理的に考えても、この診療所が襲われていない理由がわからない。
 放置しておくメリットが、先方の艦これ勢およびモノクマロボットたちには存在しないからだ。
 しかし実際の現象からの推測では、今までもこれからもここは襲われないという、あまりに楽天的すぎて不安になる結論しか得られなかった。


「というか龍田って娘も艦これ勢製のシロモノでスよね……? 大丈夫なんでスか?」
「アイツは佐世保の女だクマ。球磨と同じく、配属鎮守府の違いくらいではブレんクマ」
「私の知っている限りでは、艦これ勢の作った艦は島風、ビスマルク、龍田よ……」
「わしが見逃してしもうたオスは、銀髪に吹き流しをつけた小さな子と、巨大な砲塔4つ背負った茶髪で巫女のような服の背の高い子を連れておったな」

 見かけた艦娘の姿を思い出そうとしていたベージュ老の言葉に、球磨はあからさまに顔をしかめる。

「おうおうおう……、そりゃ天津風と金剛じゃねーか。あいつらもビスマルクも何考えてんだクマ。
 ヒグマに作られてそのまま同伴して地上に行くとか、疑問の一つも覚えねぇのかクマ……?」
「やっぱり艦娘とかアブねぇやつばっかじゃねぇか……!!」
「艦これ勢の美的センスは狂ってるとしか思えねぇよな……」
「いや、あの尻軽女どもがたぶらかしたんじゃ……!?」
「バカガキがミサイル担いでるようなもんだし、ひでぇ話だ……」
「……てめーら、脳ミソ挽肉にされたいクマ?」
「ひぃ、すいません――!! 球磨姐さんは誠実で聡明で麗しいお方ですぅう!!」

 布束を見たことによる気絶からようやく復帰した4頭も、診察室の片隅で唸っていた。
 内緒話になっていない大声の囁き合いに球磨が声を掛ければ、彼らは途端に慄いてしまう。
 球磨は溜息を吐いた。


「……おべっか使ってんじゃねぇクマ。どこか危険で狂ってて、怪しくて頭がおかしいのは確実だクマ。
 てめぇらの感覚は正しい。言葉に気をつけて言えば良いクマ」
「あ、ありがとうございます! 了解しやした……!」
「やっぱり『ほとんどの』艦娘は危険なやつばかりなんだな……」
「白昼から堂々と公然猥褻をして憚らないクレイジーサイコレズがいるらしいからな……」
「うわ、それは狂ってる……。やはりそうなんですね球磨姐さん!?」
「……なんかすげぇ妹への風評被害が聞こえた気がしたが、聞かなかったことにしてやるクマ……。
 大井と北上のアレは姉妹愛。姉妹愛姉妹愛……」

 思い当るフシの多すぎるその風聞に、球磨は頭痛がしてくる。
 念仏のように姉妹愛と唱えながら、艦娘たちの奇行に、球磨は頭を抱えた。
 ベージュ老の膝の上から、ビショップがそこでポツリと声を漏らす。


「……きっと、オゾマシい真相がありまス。狂ってるのはきっと、娘ではなく私タチ、ヒグマ……」


 顔を上げる球磨と目を合わせて、彼女は自身の直感を吐露する。


「馬鹿な男どもの妄想というのは、いつでも想像を絶した狂気に満ちていまスから……」
「薬品投与で艦娘を洗脳してる……、とかクマ?」
「さぁ……? そんなすぐに思いつく顛末なんテ、まだ甘い方だと思いまスよ……?」


 透明なガラス玉の中で、ビショップは半透明の首を、傾げた。


    ††††††††††


「星空凛、球磨、ジャン・キルシュタイン、碇シンジ、球磨川禊……、使える首輪はしめて5つ。
 まあ、武装の補充としてはまずまずといったところかしら」

 暁美ほむらは、待ち合いにいた男性陣から爆弾入りの首輪を外し終わり、空いている右腕に適当な内径として装着してゆく。
 途中で洋菓子による小休止を挟んだものの、その首輪の解除作業は恙なく遂行された。
 参加者の男子たちはすっきりと戒めの取れた首筋に、大きく呼吸をする。

 その時、何気なく暁美ほむらの腕を見上げていた間桐雁夜が突如声を上げてソファーから立ち上がった。


「そ、それ、令呪だな!? もしかして君、キャスターかアサシンのマスターなのか!?」
「……魔術師の間桐さん、だったかしら。令呪を知っているの?」
「知ってるも何も……! 君はここで新たに聖杯戦争のマスターに選ばれた人なんじゃないのか?」
「いいえ。私は、その聖杯だかエンジンだかの繋がる地脈から魔力を掠め取っただけよ」

 暁美ほむらが首輪を通す右手の甲には、砂時計のような形をした黒い文様が描かれている。

「掠め取った……!? 令呪は確かに使い捨ての魔力じゃあるが……。
 良く見れば、君のは普通のと違って黒いし……。そんなことができるのか?」
「ええ……。ここ、衛宮切嗣という魔術師の遺してくれた手帳に、その方法が記されていたわ」
「セイバーのマスターか……! 見せてくれ。令呪が戻れば、刻印虫の死滅した俺でもいくらか戦力になれるかも知れない……」
「構わないわ。私やマミさんも、今のうちに補充しておいた方が良いかも知れないわね……」


 間桐雁夜が見せてくる彼の手の甲には、掠れて消えかけた赤い渦巻のような文様がある。
 既に3画を使用した後だということらしい。
 まだ詳しい話は伺い合えてはいないが、衛宮切嗣の記述からすれば彼もまた相応の艱難を乗り越えて生き延びた人物に違いないだろう。
 引き攣れて肌色の濁った痛々しい彼の顔面も、そのための傷跡なのかもしれなかった。


「――あ、クソこれ遠坂の同調呪文じゃねぇか。ぬぅ、これ唱えるのなんか悔しいなぁ」
「……内容がわかるのね。流石に本職だけあって詳しいわ」
「ちょっとここの親父とは因縁があったんでね。研究は人並み以上にしてる」
「それで、あとはここの結界の魔力の糸を、この衛宮さんの歯で切って取ってくれば……」


 衛宮切嗣の記した手順を、雁夜と二人で確認し直していたほむらは、その時ふと違和感を覚えた。
 切嗣の犬歯をつまんだまま、ほむらは眼鏡を上げてキョロキョロと辺りを見回す。
 間桐雁夜が、訝しげに声を絞った。

「結界の魔力……、なんて、ないぞ? どこから取ったんだ?」
「おかしい……! さっきまで、ついさっきまでは確かにここまであったのに……!?」

 先程、巴マミはまさにこの場所で魔力を引き上げていたのだ。
 保護室に織られていた結界ほどの強さは無かったとはいえ、全島に張り巡らされていた魔力の一部が、確かにそこには残っていたはずだ。
 しかし今はこの一帯に、その魔力は存在しない。
 差異が微かにすぎて、暁美ほむらは意識するまでその消失に気付けないでいた。

 うろたえる彼女に、ソファーの上で考え込みながら、球磨川禊が口を開く。


『……魔力も結界も、電力もなにもかも、この島からは全部消えちゃってるみたいだね』
「……エンジンが止まったせいか! となると、地上に出てもカードの具現化はできんな……」


 真っ先に反応したデビルヒグマに続き、一行は明らかになった事実にざわめく。

「……そうだ。布束さんたちが暴走を危惧してエンジンを止めたんだよ。
 今、全島が停電してるから、送電と同時に結界に魔力を送っていたポンプが、止まったことになる。
 ひまわりちゃんに聞けばもうちょっと詳しくわかるのかも知れないが……」
「しまった……。もしかして、これ……。この状況は……!!」
「そうか……、僕もカードを使えなくなっちゃったんだな……」
『キミは万全の力をだせるよなジャンくん。手本となるよう、頑張ってくれよな』
「な、何言ってんだ……?」

 暁美ほむらや碇シンジが唸る中、球磨川は何か決意を秘めたような表情で、ジャン・キルシュタインの肩を叩いていた。


「……ごめん間桐さん、ちょっと私、ここでみんなと別れるわ」


 その時突如、奥の控室から待ち合いの一同に向け声がかかった。
 そこに立っていたのは、淡い亜麻色の長髪を振り乱した小柄な少女、四宮ひまわりである。
 歩み寄ってくる彼女の左腕からは、何故か鮮血が滴り落ちている。

「え、ちょ……!? どうしたんだよひまわりちゃん!?」
「ま、間桐さん、ひまわりちゃんを止めてあげて下さい!!」

 控室からは四宮ひまわりに続いて、田所恵が慌てて駆け出してくる。
 その手に握られているのは、血塗れのヒグマの爪牙包丁だ。
 現状を理解できない一同に向けて、ひまわりは血の滴っている自身の左腕を掲げ見せた。

 そこには、短刀ほどの長さの木刀が握られている。
 そしてその木刀を握り締める手の周辺には、何度も刃物を突き立てたかのような生々しい傷跡が幾条も刻まれていた。
 しかしその傷口は、一同が眼を見張っている間にも、握られた木刀からひこばえのようにして伸びた細い枝に塞がれ、肉を縫い合わされ、血を止められてゆく。
 既にその木刀と彼女の腕は、がっちりと結合してしまっているようだった。


「……示現エンジンを襲ったあの根に、寄生されてた。摘出できなさそうだし。
 このままじゃあの鎧騎士みたいに暴れ回りかねないんで、暫く一人になる」
「ちょっと待てちょっと待てよおい! ひまわりちゃん、そんなん余計危ないって!
 今各地で暴れてるらしいヒグマに襲われたらどうするつもりだよ!?」
「これで返り討ちに出来ればもうけものだし……。そもそもこの辺りに襲ってくるヤツ、誰も来てないんでしょ?
 爆弾抱えた人間は室内に置いとけない。そこまで遠くには行かないから、私の処遇が決まったら呼んで。
 ……私自身が、みんなを危険に晒す裏切り者になるなんて、まっぴら」

 四宮ひまわりは、雁夜の制止や田所恵の心配を振り切って、壁際に干されていた自分の半纏を取り外し、外行き用に着こみ始めてしまう。
 担架の布として一緒に干されていた龍田のワンピースと布束の制服と恵の割烹着もついでに取り、彼女はそれをテーブルの端に置いて、出てゆこうとしていた。


「――STOP、四宮ひまわり!! 逸らないで!!」
「布束さん……」

 だが、彼女が診療所のドアに向かう直前で、診察室から聞きつけた布束たちが走り出てきていた。


「Why don't you leave it to me!? ちょっと診せて見なさい。
 何かしら手があるかも知れないし、そもそも襲撃者が来ないと思うのも早計よ!」
「そう言うと思ったから巻き込みたくなかったのに……」
「……ええ。出ては駄目。『そもそもこの辺りに襲ってくるヤツ』は、来てないわけじゃ、ない……!!」


 布束とひまわりの会話を、暁美ほむらが緊張の強い声で割った。
 待ち合いに出て来た全員が彼女の方を見やる。
 額に指をやり思考を廻らせていた暁美ほむらのこめかみには、冷や汗が流れていた。


「ど、どうしたクマ……、ほむら……?」
「球磨、あなた、ビショップさんに接敵された時、電探でも気流探知でも発見できなかったわよね?」
「え……、そりゃ、水だったし……。でも……、ビショップさん、相手方に同じ能力者は居るクマ!?」
「私の知る限りでは、いマセンよ。それに、カスタムヒグマはだいたいが何らかの役職に就いていまス。
 無職である艦これ勢の中に能力持ちなんて、そうそういるハズないでス。いても2、3体止まりかと」

 球磨とビショップが、ほむらからの問い掛けに応えた。
 ビショップの指摘に加え、島の示現エンジンは先程から布束が止めているのだ。
 そのためヒグマの培養槽も止まっているはずであり、新規のヒグマを敵方が作れる確率はほとんどない。


「……あれ、そうなんですか……? 本当に『無職』?」


 しかし、そのビショップの答えに、ジブリールが首を傾げていた。
 ほむらは緊張を緩めず、続けざまに入り口前の布束砥信へと言葉を投げる。


「……布束さん、あなた、『私の書面を見てここへ来れた』とさっき言ってたわね。あなたの想定する地下への正規ルートは、どこだったの……!?」
「……マンホールから続く、地下の下水道網よ。でも今は、どこも津波の水で溢れかえっているはずだわ。
 それこそ、彼女のような水と同化する能力でもない限り、今は通れないでしょう」

 布束砥信は、診療所の壁に触れながら、ほむらの疑念を先読みするようにして答えた。
 その津波による通行制限もあったため、布束はほむらたちの一行を、朝方から地下にやって来ていたオーバーボディの面々だろうと思い込んでいたのである。

 しかし彼女のジェスチャーを見て、ほむらは胸を押さえてすらいた。
 息が荒くなり、目が見開かれる。
 恐怖が彼女の心臓に負荷をかけ、動悸を起こしていた。


「球磨……! ビショップさん!! 相手は『艦これ勢』なのね……!?
 『第二次世界大戦中に使用されていた艦艇のミニチュアを兵器または兵員として使う部隊』なのよね……!?」
「え、ええ、そのハズでス……」
「お、大筋その認識で良いと思うクマ……。でもなんでそんなことを訊くクマ……!?」


 一帯には、切迫した空気が満ちてきていた。
 暁美ほむら以外の者たちはみな、『艦これ勢』という名称に、何かしらの嫌悪感か軽薄さ以上のものは、抱いていなかった。

 アイドルオタクと争って潰し合う程度のどうしようもないゴクツブシ――。
 その程度の認識しかしていなかった。

 しかし、暁美ほむらだけは違った。
 常に兵器の研究を続けてきていた彼女にだけは、『艦隊これくしょん』という気安そうな名称の奥に隠された強大な力を、認識できていた。

 第二次世界大戦中に使用されていた艦艇を兵器または兵員として使う部隊。
 それが『艦これ勢』であるならば――。
 暁美ほむらには、カスタムヒグマ2,3体どころではない、大量の敵が索敵網を抜けてしまう可能性に、思い当ってしまっていた。


「……ねぇ球磨。あなたたちの仲間は、本当に誰も、『彼女のような水と同化する能力でもない限り、今は通れない』……?」
「え……?」


 球磨はその問いを耳にして視線を足元に落とすと、途端にぶるぶると震えはじめた。
 即座に暁美ほむらは、荒い息のまま天井を見上げる。
 その上にはさらに2階分のフロアが続き、そこから上は地上の総合病院に繋がっているはずだった。


「ベージュさん……、ここの自家発電の電気は、真上の総合病院から来てるのよね!?」
「あ、ああ……、そうじゃが、それで何か、問題があるのかね……?」
「……つまりね。この診療所を攻めるには、この診療所から攻めないでも、良くなるのよ……!!」
「な――ッ!?」


 食いしばった歯の間から吐き捨てられたほむらの言葉で、一帯に電流のような衝撃が走った。
 一行は、気づいてしまった。

「球磨――、あなた――!!」

 気づいてしまったのだ。


「……『壁の中』と、『土の上』は、……観えるの?」

 ――敵は既に、この診療所を、攻めていた。

「~~……ッ、索敵、範囲外……!!」


 傾くほむらの振り向きは、恐怖に染まっていた。
 球磨はありったけの声を絞り、一帯に叫びかけた。


「――総員、負傷者を掩護しつつ直ちに撤収!! 敵は、『潜水艦』クマァ!!」


 診療所に巨大な爆音と、地震にも紛う強烈な振動が襲ったのは、その次の瞬間だった。 


    ††††††††††


 あの夢を潰し 裏を掻く弁理を飲みに
 Hai yai yai yai yo ナース・カフェへ


    ††††††††††


「……相手はどんなやつだったの、翔鶴姉……!?」
「……見ればわかるわ。……言いたくない……」
「えぇ?」

 直掩機を旋回させながら警戒する瑞鶴は、そんな姉の姿からの返答に驚く。
 総合病院の屋上。
 既に階下からは、襲撃してきたという深海棲艦と思しき物音が聞こえてきている。
 緊急事態にも関わらず相手の情報を『言いたくない』とはどういうことなのか。

「ちょっと、翔鶴姉、今そんな言い渋ってる場合じゃ……」
「――く、来るわ瑞鶴!! 気を付けて!!」


 姉の姿に向けて瑞鶴が不平を垂れようとした瞬間、階下で金属を引き摺るような音がたっていたあたりから、ふと何か異質な音が聞こえる。
 魚雷の発射音――。
 そして直後、瑞鶴の足元から強い振動が立ち昇り、階段付近の足場が崩落を始めていた。

「きゃぁ――!?」
「瑞鶴――!?」

 屋上に張り出していた階段の建屋ごと崩壊した足場から、瑞鶴は真っ逆さまに階下に落ちる。
 彼女の目の前に見えた光景は、信じられないものだった。


 ――階段が最下階まで、完全に破壊されている。


 総合病院は、8階建てだった。
 それが1階まで、各フロアの区切りが眼に見えてしまう。
 あったはずの階段は壊れ、吹き抜けとなった1階部分に瓦礫となって溜まっていた。
 地上30メートル近い高度から建屋の残骸とともに自由落下する瑞鶴も、1階に落ちればその瓦礫の仲間入りは確実だ。


「うおぉおぉぉおぉぉ――!!」


 瑞鶴は咄嗟に、携えていた偵察機の矢を、身を捻りながら上方に向けて射ち出していた。
 射出の直前、その矢筈には自分の係留用の錨を絡み付けている。

 この非常時に於いても精密な狙いで放たれたその矢は、8階の崩落を免れた天井のコンクリートに突き立つ。
 ちょうど、屋上から身を乗り出す翔鶴の姿の真下だった。

 錨と鎖でその矢に繋がっている瑞鶴は、振り子のようにそのまま吹き抜けの壁面に激突する。
 瑞鶴の落下は止まったものの、上からはなおも落下を続けていた屋上建屋の破片が豪雨のように降り注いだ。

「――っくぁ……!」

 全身を打つ痛みに呻きが漏れる。
 それでもまだ、このまま1階に自由落下してしまうよりははるかにマシだったろう。
 下に落ちた建屋の瓦礫は、大きな衝突音を立てて砕け散る。
 その振動は地震のようにして、宙吊りとなった瑞鶴の元にもビリビリと届いていた。


「しょ、翔鶴姉……! 引き上げてくれる……?」
「わかったわ瑞鶴……! 大丈夫!?」

 瑞鶴は窮地を逃れ、姉の姿が慌てて自分の矢の元に手を伸ばしてくれているのを見て、安堵に胸を撫で下ろした。

「……翔鶴姉、一体どんな深海棲艦が、こんな……」

 そして瑞鶴は、上方の彼女に向けて問いかけようとする。
 姉の姿は、瑞鶴の矢を天井から取り外し、その錨を引っ張り上げようとしていた。
 しかしその瞬間、突如彼女は何かに振り向き、そのまま背後に倒れ、屋上の先に消える。


「う、わ、いやぁあぁあぁ――!?」
「――え? うそ――」

 何かに背後から襲撃された――。
 姉の姿は、そのようにしか見えない動き方をした。
 そして直後、屋上からは係留点を失った錨と鎖が、そのまま落下してくる。


「――くっ、チェアァッ!!」


 階段だった吹き抜けの壁を再び自由落下で直滑降し始めた瑞鶴は、背のうつぼから両手で矢を取り出し、その壁に叩き付ける。
 ぶらぶらと両脚を宙に遊ばせ、壁に突き立った金属の矢に懸垂でぶら下がり、なんとか彼女はそのまま自分の位置を確保した。

「しょ、翔鶴姉――ェ!!」

 屋上に向けて姉の名を叫ぶも、返事は無い。
 一体何に、どのようにして襲われたのか。
 得体の知れない恐怖だけを残して、その姿は消えてしまった。
 体重を支える両手は汗に滑り、呼吸は不安で荒くなる。

 瑞鶴は自身の思考と恐怖を振り切り、自身の腕力だけを頼りに、何とか近くの階のフロアの出入口の方へ、矢の突き刺す位置を変えながら壁を渡り始めた。

 止まった階は、地上5階だ。
 まだ下には15メートル以上の距離がある。
 足元を所在なく吹き抜ける風は、落下すれば依然として瑞鶴が即死するだろうことを明確に示している。
 5機あった直掩機も崩落に2機が巻き込まれ、3機だけになってしまっている。

「……くっ、うっ……!」

 刻々と痺れ、握力の薄れていく腕を酷使し、それでもなんとか、瑞鶴は壁を伝って出入口の方へ近づいてゆく。
 その時、瑞鶴の耳にあの、金属を引き摺るような物音が届いた。
 ズリ、ズリ、という、不気味で不快な音が、次第に背後へ近づいてくる。
 身を捻り、瑞鶴はその物の正体を見た。


「――『甲標的』……!?」


 黒光りする、小型の円筒形の艦艇が、そこにあった。
 敵艦に肉薄し至近距離で魚雷を発射するために開発されたその特殊潜航艇は、茶色い泥状の物体によって、何故か吹き抜けの壁に張り付いている。
 ズリ、ズリ、と音を立てて、泥に引きずられながら甲標的は、なおも瑞鶴に接近する。
 そして程なく、その艦首からボン、と、魚雷が投射されていた。

「くおぁっ――!?」

 瑞鶴が5階の出入口に脚を掛けたのは、僅かにその投射よりも早かった。
 矢を引き抜いて転がるようにフロアへ身を投げ出した直後、瑞鶴の背後から魚雷の爆発が吹き抜けていく。

 爆発が収まると瑞鶴は、自身の直掩機を呼び戻しつつ、痛むその身を床に起こした。
 息を荒げ、その矢を弓につがえるが、早くもその体は満身創痍だった。


「何なのあれは……! あれが、翔鶴姉の、やられた敵……!?」
「本当に五航戦の妹は面倒くさいわね。無駄にしぶといんだから」


 階段だった吹き抜けに向けて矢を構えていた瑞鶴にその時、背後から声がかかった。
 驚愕に振り向いたその眼に映ったのは、白い胴着に胸当て、青い袴の少女。
 その前垂れには、一航戦、赤城型二番艦・加賀を示す識別文字が『カ』と白くしっかりと記されている。
 突然のその出現に、瑞鶴は驚愕した。


「な、な……!? なんでアンタまでここに!?」
「あなたたちを沈めるためよ」


 うろたえる瑞鶴に答えるや否や、彼女はその手を瑞鶴に向けて掲げる。
 その手には、本来空母の持っている弓矢ではなく、甲標的・甲――。
 先程瑞鶴を襲った潜航艇が持たれていた。
 次から次へとやってくる奇妙な異常事態の連続に、瑞鶴の混乱は極致に達した。

「加賀!? アンタ、何を――!?」

 だが瑞鶴の問いに答えることなく、加賀の両手の甲標的から4本の魚雷が一斉に発射される。
 咄嗟に転がった瑞鶴の真横で、空中から直接壁に着弾した魚雷が爆発を起こす。
 爆風で病院の廊下に、瑞鶴は数メートル吹き飛ばされた。

「……ぐげっ……!? ごほっ……!」

 煤塗れとなって咳き込む瑞鶴に、加賀の姿は冷たい無表情のままで近寄ってくる。


「……妾の子。七面鳥。誰もあなたの無事なんか願っちゃいない。早く沈みなさい、瑞鶴」
「な、何よ……! 私は知ってんのよ!? あんたなんか、甲板に『クソ』された焼き鳥器でしょうが、このクソアマ!! 人糞女!!」


 そのまま見下したように中傷してくる彼女に向け、瑞鶴は彼女のとっておきの罵倒ネタをぶつけていた。

 一航戦の加賀と、五航戦の瑞鶴は、事あるごとに反目し合うような関係だった。
 そんな仲であっても、流石にこのネタだけは、彼女の名誉のために言うまいと、瑞鶴は思っていた。
 しかし理不尽な攻撃と誹謗、異常事態の連続についに、瑞鶴の倫理観は引き千切れていた。

 加賀の姿は、その言葉と同時に、立ち止まった。


「……フン、どうよ、ぐうの音も出ない? あんたら一航戦こそ、その評判はクソに堕ちてるのよ!!」
「だったら何? あなたもクソされてみたい?」


 だがその直後、ふんぞり返っていた瑞鶴の目の前で、加賀の姿は信じられない行動をとった。
 彼女は、スカートをたくし上げていた。
 しかも、腰元まで上げられたその着衣の下に、彼女は下着を穿いていなかった。

「……う、ェ……!?」

 唖然とする瑞鶴の目の前で、その加賀の股間からは、茶色い泥状物が溢れ出していた。
 それに伴いヌルリと股間の穴を押し広げて、加賀の体内から次々と黒光りする金属塊が排出されてくる。

 ――甲標的・甲だ。

 床にべちゃべちゃと粘性の高い音を立てて落ちたそれらは、続けて意志を持つかのように蠢動する。
 スライム様に盛り上がった泥が甲標的を載せ、加賀の股間と繋がったまま、直掩機を配備するように周囲に広がっていた。


 瑞鶴は慄きと共に叫ぶ。


「……あ、あ、あ、あんたがッ……!! あんたが、深海棲艦かァ――ッ!!」
「やっぱりあなた、頭が悪いわね、瑞鶴」


 加賀の姿の体内に潜んでいる、『泥』。
 それこそが真の敵だったのだと、瑞鶴は歯を噛んで唸った。


    ††††††††††


 轟音が響くと共に、地下の診療所は揺れた。
 そして室内の電灯は明滅し、程なくして、消える。

 ――予備電源が、落とされたのだ。

「ひぇぇええぇえぇぇ――!?」
「うわぁぁああぁ――!? また布束さんかぁア――!?」
「やめてくれぇ――!!」
「いやだぁぁ――!!」
「『寿命中断』だけはぁ――!!」
「くぅ……、何もしてないわよ私は……!!」

 ジブリールのほか、穴持たず748~751が再び半狂乱になった。
 地震のような衝撃は、一同の足元と精神を揺るがせる。

 振動に倒れかける暁美ほむらを、球磨が気流で察知して支えた。
 動悸の激しいほむらと、手を握りあう。


「だ、大丈夫クマ、ほむら!?」
「う、上を……、襲撃されたんだわ……。このままじゃ地上への退路を塞がれる……! 球磨、お願い……!!」
「ようそろォ!!」


 託された思いを握り返し、診療所内の人員で唯一無視界で行動できる球磨は、即座に動いた。
 狼狽する穴持たず4頭を張り飛ばし、即座に階段の方へと誘導する。


「梨屋、千代久、名護丸、稚鯉!! テメェらすぐに、球磨と上あがって索敵掃海!!
 手ぇ空いてる無事なヤツも後から手伝いに来いクマ!!」
「へ、へいッ!!」


 ばたばたと4頭のヒグマと球磨が上階に登っていく音が響く中、暗闇に人々がもがく。
 布束砥信は四宮ひまわりと共に転倒している。
 ソファーの前では間桐雁夜が点滴のガードル台を倒してしまい、引き攣れた静脈ラインの痛みに呻いている他、激突したガードル台のおかげで碇シンジ、球磨川禊、ジャン・キルシュタインがもみくちゃになっている。
 その奥の隅にいたデビルヒグマも、目の前のスペースを彼ら男子勢に塞がれ、動くに動けない。
 田所恵と暁美ほむらは体勢を立て直しているが、暗闇ではまともに周囲を感知できぬ彼女たちの動きはままならない。

 暁美ほむらの歯噛みが耳に届く中、ビショップはそれらの周辺環境に焦りつつ、ジブリールに問うた。


「ジブリールさん……、さっきアナタ、艦これ勢が『無職』というのに疑問を持ってまシタネ!?
 まさか、艦これ勢に強力なカスタムヒグマがイルとでも!?」
「レムちゃん……ゴーレムちゃんですよぉ! 患者さんの世話に疲れてやめちゃったレムちゃん!!」

 その泣き叫ぶような返答は、ビショップとベージュ老に多大な驚愕をもたらした。


「エ!? ゴーレムさん、見ないと思ったラ医療班やめてたんデスカ!? あのお洒落な彼女が!?」
「レムちゃんじゃと……!? 彼女は艦これ勢になってしもうたのか!?」
「患者さんの下の世話が汚すぎるって。皮がよごれるから嫌になったって……。
 でも糸と包帯の納入だけは続けてくれてて、この前の受け渡しの時に、『面白い遊びに出会って、仲間内じゃ結構活躍してる』とだけ話してたんです……!
 もしかするとそれが『艦これ』だったり……。今考えたらそれくらいしか思い当るものがなくて……!」
「――誰なの『ゴーレムさん』って!!」

 診察室の前で声を上げているヒグマたちに、暁美ほむらが叫びかける。
 ビショップとベージュ老が、苦々しい声で答えた。


「医療ファッションとメイクのエキスパートナースにして、水と土の二重属性を持つヒグマでス……」
「レムちゃんが敵方だというなら……、この診療所の地の利は完全に、奪われておるな……」
「――おい、屋内は大丈夫か!? 今の地震はなんだ!?」

 その時、診療所の外からドアを蹴破って、纏流子が駆けこんで来た。
 同時に、わずかに室内に明度が戻る。
 流子の背後の巴マミが、微かに発光しているのだ。


「……やっぱり使ってて良かったわね。『ラ・ルーチェ・チアラ(明るい光)』」


 マミが自身のベレー帽を脱ぐと、その中には、あの眩い光を放つ球体が入っていた。
 衣装の中に仕舞われたまま、ずっとその光球は残っていたのである。
 マミがそれを照明として診療所の天井付近に投げ上げると、コントラストの強い陰影で室内の様子が眼に見えるようになる。

 倒れていた布束や雁夜たちが、それでようやく立ち上がれるようになった。

「……助かったわ、巴マミ……!」
「――マミさん、外には『まだ』異常がないの!?」

 四宮ひまわりを助け起こした布束の声を割り、暁美ほむらは息巻いて巴マミに詰め寄った。
 マミは呼吸の荒い彼女を宥めるように肩をさする。


「ええ、大丈夫よ暁美さん。焦らなくていいわ……」
「大丈夫じゃないわ!! やられた……ッ!!」

 しかし、ほむらの恐慌は止まらなかった。
 彼女は眼鏡が吹き飛びそうな勢いで出入口の先の真っ暗闇に指を差し、叫んだ。


「――すぐにそこを閉めて!! タイミングを『聴かれてる』!! 攻撃の第二波が来る!!」


 その声が終わるよりも先に、遠くで重い地響きが鳴った。

 ざ、ざ、ざ、ざ、ざ、ざ。
 ざ、ざ、ざ、ざ。
 ざざざざざざざざざ――。

 その音響は急激に速度と音量を上げ、空間に逆巻きながら診療所へ迫る。
 『ラ・ルーチェ・チアラ』のコントラストに踊るその奔流の影は、少女たちの腰元の高さだった。
 振り向いた巴マミと纏流子は、その光に透ける波頭を見るや、反射的にドアへ駆け出した。

 しかしその短距離走の軍配は、少女たちではなく、その重い影に上がった。


「――逃げてッ!! 『津波』よ――!!」


 暁美ほむらの叫び声を掻き消すように、下水道から溢れた冷たい海水の重圧が、診療所の内部に殺到していた。


    ††††††††††


「……まったく。直掩機ごとさっさと沈んでくれれば、私も早く下に行けたのに……。
 ゴーヤイムヤたちに任せっぱなしじゃジブリール先輩やベージュさんまで皆殺しにされる……。
 ……あの子たちが死んだらあなたの所為だからね瑞鶴。怨むわよ」
「何、わけのわかんないことを……!! 沈むのはアンタよ、深海棲艦――!!」
「……鎧袖一触よ。心配いらないわ」


 加賀の姿をした泥に向けて、瑞鶴は3機の直掩機から一斉に機銃を放ちつつ、番えた矢を射ち出した。
 だがそれを迎撃するように、同様に宙へ掲げられた甲標的から、一斉に数十発の魚雷が放たれる。

「きゃぁあぁ――!?」

 弾幕の大きさ、密度共に、甲標的の魚雷は瑞鶴の機銃を遥かに上回っていた。
 矢は戦闘機となる前に魚雷と接触して爆発し、機銃の弾丸も魚雷の弾頭に当たって中空で連発花火のような爆発の嵐を産むのみだ。
 身を守るように半身を向いた瑞鶴の横で、直掩機の零戦が1機、魚雷の爆発に巻き込まれて墜落した。

 爆風と火薬の煙に巻かれて、瑞鶴の姿は悲鳴と共に見えなくなる。
 加賀の姿の泥はその光景に瞑目し、展開していた泥と甲標的を、スカートの下から体内に戻し始めた。


「ふぅ……。まぁ、みんな優秀な子たちですから。ってところね……」
「――はぁあぁあぁ――ッ!!」


 しかしその瞬間、立ち込める煙を割るようにして、瑞鶴が一気に加賀の姿へ向けて飛びかかっていた。
 驚きに目を見開くその姿に向けて、瑞鶴は上空から両手を突き出す。
 その腕には、先程まであった甲板はなく、代わりに、2機の零戦が掴まれていた。
 瑞鶴は飛行甲板を盾として完全に使い捨て、残った直掩機を守り抜き、耐えていた。


「なっ――!?」
「喰らえぇ――!!」


 上空から俯角をつけて乱射される機銃が、加賀の姿を撃ちぬき、その顔に、衣服に、手足に、いくつもの銃痕を開けてゆく。
 防御することもできず蜂の巣となった彼女は、撃たれるがままに後方へよろめき、廊下の奥に吹き飛んだ。


「瑞、鶴……、許、さ、な――」
「やったー! ざまあみろォ!! これが五航戦の本当の力よ!!
 瑞鶴には幸運の女神がついていてくれるんだから――!!」


 吐血のように泥を吹き出して、真っ暗な病室の内部に、その相手は転げ倒れた。
 確かな手応えに、瑞鶴は息を荒げながらも握り拳を作って快哉を上げる。
 それでも彼女は油断せず、残る2機の直掩機を再び周回軌道上に戻し、弓に次なる矢を番えて、敵の転がり込んだ病室ににじり寄った。


「……相手は加賀のマネができるような深海棲艦。まだ轟沈してないかもしれない……。
 トドメを刺して、はやく翔鶴姉を探しに行かないと……」


 病室の入り口に踏み込んだ瑞鶴は、電灯のスイッチを入れた。
 しかし、停電に陥っているその電気は、当然つくことはなかった。

「……ん? んん……?」

 仕方がないので目を凝らしてその内部を窺うが、その病室の中には、ベッドが4つ鎮座している以外、加賀の姿は影も形も無かった。


「……ベッドの下に隠れたか……!?」
「ず、瑞鶴……、無事だった……!?」
「ひょぃ!?」

 相手がどのベッドに潜んでいるのかと、固唾を飲んで探ろうとしていた瑞鶴に、後ろから声がかかった。
 跳び上がるほど驚いて振り向いた瑞鶴が見たのは、苦しげに微笑む姉の翔鶴の姿だった。


「しょ、翔鶴姉!! 良かった! 翔鶴姉こそ無事だったのね!?」
「心配してくれてありがとう、瑞鶴……」
「見た!? さっきの泥みたいなやつ。翔鶴姉もアイツにやられたんでしょう!?」
「ええ、まぁ、そうね……」
「まだこの部屋のどこかに潜んでるみたいなの! 気を付けて!!」

 姉の姿で無事を確認し、喜色を取り戻した瑞鶴は、彼女を自分の背に隠すようにしながら、再び病室内に警戒の視線を向けた。
 その背後から、翔鶴の声は恐る恐る尋ねてくる。


「いけるの瑞鶴……? 直掩機はあと、何機残ってる……?」
「まだ2機ある! 大丈夫、あんな深海棲艦、すぐトドメ刺してあげるから!!」
「そう、良かった……」


 親指を立て、瑞鶴は姉の姿に向け、安心させるようにその旋回する直掩機を見せる。
 ほっとしたような表情で、翔鶴の手がその内の1機を掴んだ。


「……じゃあこれで、あと1機ね?」
「え……?」


 にこやかな表情で、翔鶴の姿はその零戦に、金属の矢を突き刺していた。
 屋上の崩落時、瑞鶴が射っていた、あの矢だった。
 驚きに固まる瑞鶴に向け、翔鶴の顔は笑みを絶やさぬまま、突き刺した零戦を矢ごと踏み砕き上の方を指さす。


「あと、あなたこそさっきの泥みたいなやつ、見たわよね。あれは泥だから、下に潜るだけじゃなく、こんな隙間からでも、外に出れるのよ?
 もうちょっと視野を広く持たなきゃね瑞鶴。ホント私も、なんでこんな妹に手こずってるんだか……」


 瑞鶴が呆然と天井近くを見上げれば、病室のドアの上には、換気用の小さな窓が開け放たれている。
 瑞鶴は、事態を整理できなかった。
 混乱した思考のまま瞬きを数度繰り返し、姉の笑顔に向けて首を傾げた。


「え……っと、何、を、言ってるのかな、翔鶴姉……?」
「うふふ、本当に頭が悪いわね瑞鶴。私もいつも言ってるでしょ?」


 翔鶴の姿は、笑いながら自分のスカートの下に手をやり、そこから何かを取り出してくる。
 瑞鶴の目の前に掲げられたそれは――、甲標的・甲だった。


「……『潜水艦には気を付けてね?』って」
「くあっ――!?」


 瑞鶴は反射的に、上半身を捻った。
 傾いた耳の真上を、魚雷が掠めた。
 そのまま瑞鶴は、姉の姿の腹部へ、スカートを蹴り上げるようにして踵を捻じ込み、同時に、放つ前だった金属の矢で、その顔面を切り裂いていた。


「あぐぉ――!?」
「な、な、な、な、なんでっ……! なんでっ――!!」


 翔鶴の姿は、スカートの下からびちゃびちゃと茶色い泥状物を撒き散らしながら、廊下の奥に転げた。
 恐れおののく瑞鶴の目の前で、零れ落ちたその泥は蠢動し、倒れた翔鶴のスカートの下に戻っていく。
 同時に、倒れていた姉の姿は、変わらずにこやかな声を放ちながら、ゆっくりと起き上がる。


「……もぉ~、瑞鶴ったら。スカートはあまり触らないで……って言ってるでしょ? 顔もだけど」
「うあっ……、うあっ……。姉、さん……じゃ、翔鶴、姉、じゃ……、ない……?」
「一応、私は一回も自分が翔鶴だとは言ってないわよ? 瑞鶴?」

 微笑んで立ち上がった姉の姿を目の当たりにして、瑞鶴は涙を零していた。

 その姉の顔面は、めくれ返っている。
 鏃で切り裂かれた顔面の皮が、右眼から側頭部まで、べろりと横に零れてしまっている。
 裏返った皮の奥には、骨や脳などではなく、ただ茶色い、泥のようなものが詰まっていた。
 彼女は、泣き震える瑞鶴を指さし、翔鶴の声で語る。


「……あなたは私をクソクソ言うけど。むしろあなたたちの方が、みんなクソ袋なのよ。
 私は糞尿の処理なんか、嫌になるほどし尽したわ。あなたたちみんな、薄汚い内臓を綺麗な皮で覆い隠しているだけ。
 そんな物事を直視できない瑞鶴、あなたこそクソ邪魔なクソアマよ」
「なっ、なにっ、言ってんの……ッ!! 翔鶴姉の皮を被った、深海棲艦――!!」

 泣き叫ぶ瑞鶴の声に、翔鶴の姿は、お腹を抱えて笑う。


「ふふふ、そうよ? 皮は偉大なのよ? 何にでもなれるし。
 私やムラクモが培養装置から、小物資で皮や衣装だけ作れる方法を編み出したからこそ、コスプレ勢が満足できるんだもの……。
 ……聞こえてるかしら瑞鶴提督。少しは感謝して欲しいわねぇ、私に」
「しずっ……! 沈めぇぇええぇ――!!」
「瑞鶴、新しい艦載機を射るの? あら、いいわね♪ とても可愛いわ♪」

 瑞鶴は、心の乱れを反映するようにもたつきながら、姉の姿に向けて矢を射ようとした。
 相手は、翔鶴の言葉をもじりながら、悠然とその下腹部から甲標的を展開した。


「あなたが私の皮を傷つけるなんて、もう許さないけれど……」


 放たれた矢は、やはり艦載機に分裂する間もなく、発射された魚雷に迎撃され、爆発した。
 瑞鶴は、腰の力が抜けたように、床にへたり込む。


「な、んで、こんな、ことに……」
「――そういえば、自己紹介がまだだったわね、瑞鶴」

 翔鶴の姿は、切り裂かれた自分の顔を丁寧に目元に寄せてくっつけていた。
 そして同時に、彼女はスカートの下から、ペラペラとした薄い布のような物を引きずり出してくる。

 ――それは零戦に撃たれて穴だらけとなった、赤城型二番艦・加賀の生皮だった。


「……『第十かんこ連隊』隊員、皮に潜るヒトガタ、穴持たず506・ゴーレム提督よ。
 昔は変幻自在の癒し看護師、レムちゃんとも呼ばれていたわ。短い間だけどよろしくね?」

 姉の声と顔でにこやかに笑うその異形のヒグマの言葉に、瑞鶴は最早、何の反応もできずに震えるだけだった。

「光栄に思ってね瑞鶴……。ただ沈めようと思ってたけど、加賀さんの皮がボロボロになっちゃったから、考えが変わったわ。
 あなたのナカに入って、その薄汚い内臓を隈なく溶かし尽し……。あなたを私の、507枚目の皮にしてあげる……」


 翔鶴の姿をしたゴーレム提督は、そのスカートをたくし上げて加賀の生皮を詰め戻し、代わりに股間から茶色い泥状物を掬い上げて見せる。
 姉の両手の間に広げられて粘つき、糸を引く泥を見つめ、瑞鶴は、吐き気を堪えるので精いっぱいだった。


【C-6 総合病院5階フロア 午後】


【瑞鶴改二@艦隊これくしょん】
状態:疲労(大)、小破、左大腿に銃創、右耳を噛み千切られている、右眉に擦過射創、甲板破損、幸運の空母、スカートと下着がびしょびしょ
装備:夜間迷彩塗装、12cm30連装噴進砲
   コロポックルヒグマ&艦載機(彗星、彩雲、零式艦戦52型、他多数)×135
道具:ヒグマ提督の写真、瑞鶴提督の写真、連絡用無線機、零式艦戦52型(直掩機)×1
[思考・状況]
基本思考:艦これ勢が地上へ進出した時に危険な『多数の』深海棲艦を始末する
0:うあっ、うあぅ……、翔鶴姉……! 翔鶴姉っ……!!
1:危険な深海棲艦が多すぎる……、何なのよこの深海棲艦たちは……ッ!! 
2:偵察機を放って島内を観測し、ヒグマ提督を見つける
3:ヒグマ提督を捜し出して保護し、帝国へ連れ帰る
4:ヒグマとか知らないわよ。任務はするけど。ただのマヌケの集まりと違うの?
5:クロスレンジでも殴り合ってやるけど、できればアウトレンジで決めたい(願望)。
[備考]
※元第四かんこ連隊の瑞鶴提督と彼の仲間計20匹が色々あって転生した艦むすです。
※ヒグマ住民を10匹解体して造られた搭載機残り155体を装備しています。
 矢を発射する時にコロポックルヒグマが乗る搭載機の種類を任意で変更出来ます。
※艦載機の視界を共有できるようになりました。
※艦載機に搭乗するコロポックルヒグマの自我を押さえ込みました。
※モノクマから、『多数の』深海棲艦の『噂』を吹き込まれてしまっているようです。


【穴持たず506・ゴーレム提督@ヒグマ帝国】
状態:『第十かんこ連隊』隊員(潜水勢)、元医療班、翔鶴の皮着用
装備:甲標的・甲(多数)
道具:泥状の肉体、506枚の皮
[思考・状況]
基本思考:艦これ勢に潜伏しつつ、知り合いだけは逃がす。
0:ゴーヤイムヤ提督の下で、皮に潜る。
1:艦これの装備と仲間を利用しつつ、取り敢えず知り合い以外の者は皮だけにする。
2:邪魔なヒグマや人間や艦娘は、内側から喰って皮だけにする。
3:暫くの間はモノクマや艦これ勢に同調したフリと潜伏を続ける。
4:潜りすぎててシーナーさんにもヤスミンさんにも会えなかったわ……。さっさと瑞鶴を殺さないと。
※泥状の不定形の肉体を持っており、これにより方々の物に体を伸ばして操作したり、皮の中に入って別人のように振る舞ったりすることができます。
※ヒグマ帝国の紡績業や服飾関係の充実は、だいたい彼女のおかげです。
※艦娘の皮ほか、様々なヒグマ、STUDY研究員の皮などを所持しています。


    ††††††††††


 あの歌を捻り ナカを裂く教理を飲みに
 Hai yai yai yai yo ナース・カフェへ


【――『Nurse Cafe(Self Cover)』に続く】

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最終更新:2015年07月17日 15:41