津波。
今朝早くにこの島を襲来したその津波は、島外に引くと共に、その地下に張り巡らされた下水道の配管内を大量の海水で埋め去っていった。
多くの人物もヒグマも、
布束砥信の想いの籠った封筒も。
その波浪で流された。
ヒグマ帝国建築班・穴持たずカーペンターズが総出で通路の補修にあたっていたのは、ひとえにその被害を地下に齎さぬようにするためである。
下水道に隣接し、そこへ出入りすることができるヒグマ帝国および研究所は、その構造全体を、巨大な水圧という外敵に包囲されているも同然だった。
そして今。
穴持たずカーペンターズは、蔵人改め、穴持たず96クックロビンを残して死に絶えている。
外敵の牙は、その機に突き立てられてしまった。
「――逃げてッ!! 『津波』よ――!!」
ざ、ざ、ざ、ざ、ざ、ざ。
ざ、ざ、ざ、ざ。
ざざざざざざざざざ――。
発破。
下水道と通路との隔壁が破壊された直後から、その水圧は奔流を成して、診療所を含むその地下空間へ一斉になだれ込んだ。
ドアノブに手をかけていた
巴マミは、その時、あたかもドアが外から蹴破られたように感じた。
吹き飛ばされたドアの板目が、水流と共に彼女の横っ面へ叩き付けられる。
腰元。
その水位はわずかに床上1メートル程度でしかない。
しかしそれでもその質量は、一帯の生物を薙ぎ払うには十分に過ぎた。
「マミィィイィィィィイイィ――!!」
コントラストに影が踊った。
怒号の水音が荒れる中で、擦過音を弾いて叫び上げたヒグマの猛りだった。
穴持たず1・デビルヒグマが、高速で侵入する水の中へ、敢えて突っ込むように飛び込んでいた。
肘から、膝から、錨のように骨棘が突き出る。
診療所の床に突き立った骨が、水流の中で彼の体を支える。
流される巴マミの肢体を受け止め、ドアを弾き飛ばし、彼は少女の肉体をその腕で確保していた。
「デビル――、ほ、他の人も――!!」
「案ずるな、マミ!!」
自分の巨体で水流から彼女の身を守るようにしながら、デビルヒグマは唸る。
巴マミが振り向けた視界で、彼女と共に流されていた暁美ほむらの腕が、水上から掴まれていた。
「ア、ケミ――!!」
「……ジャン!? あなた……、大丈夫なの――!?」
「おめぇ、よりは、な……!」
ジャン・キルシュタインが、診療所の天井付近に、宙吊りとなっていた。
その腰の左右からは、ワイヤーアンカーが射出され天井に突き刺さっている。
立体機動装置の機構を瞬時にフル活用していた彼は、片腕の筋力を振り絞って、水中から暁美ほむらを引き上げた。
瞠目するほむらの視線は、彼ではなく、その奥のもう二人の少年の姿に向けられている。
「すみませんジャンさん……!! 全然大丈夫じゃないですよね……!?」
『助かったよジャンくん。うん、やっぱりすごいや』
「るせぇ……!! なら、さっさと降りてくれ……ッ!!」
「ぼ、僕、上あがります……ッ!!」
左腕だけで天井のワイヤーを確保しながら、ジャンは自重以外に三人の体重を支え震えている。
彼の肋骨には、みしみしと嫌な痛みが走っている。
それでもなお、眼下には水流に揉まれ流されていく人影が映る。
布束砥信と四宮ひまわりだ。
デビルヒグマが片脚を伸ばしたが、彼女たちの腕は届かずにすり抜けてしまった。
「布束――!?」
「――大丈夫でスか、布束特任部長!?」
しかしその直後、二人の体は何かの綱のような物に当たり、水中に確保される。
慌てて体を預け息を吸った二人は、その綱の先の者を見止めた。
「Thanks a bunch、ベージュ……!!」
「ヒ、ヒグマの……、毛皮の包帯……!?」
「……なに、我が医療班の面子は皆、優秀じゃからのぉ……」
それは車椅子に乗った淡い色の体毛をしたヒグマ、ベージュ老の操る得物だった。
膝の上にビショップヒグマのガラス球を確保したまま、彼は痩せ細った腕で必死にその綱を引く。
海水の侵入の直前、薬品棚から彼が取っていた、ゴーレム提督が納入しているヒグマ体毛の包帯だ。
自分の車椅子からシーリングライト、梁、窓枠、壁際の柱へと投げ絡め張り巡らせた茶色い包帯が、まさに命綱となって急流の中に身体を支えていた。
「おいこいつも優秀だってのか冗談じゃないぞォ――!!」
「ひぃん、助けて下さい~!!」
「すみません~~!!」
しかし、そのベージュ老たちのさらに奥から悲痛な叫び声がこだまする。
間桐雁夜と、
田所恵、そしてジブリールだ。
溺れかけている。
間桐雁夜は、控室に向けて流れていく波にほとんど攫われていた。
彼は点滴のガードル台を、待ち合いからの出入口の脇につっかえ棒のように差し渡し、かろうじて流されていく体を保っている。
しかし、田所恵とジブリールの姿は、待ち合いにいる一同からは見えない。
「は、な、せぇぇ――!! あ、脚が、脚が抜けるぅ~~ッ!!」
「だってぇ~!! 放したら私が流されちゃいますぅ~~ッ!!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃぃいぃ~~ッ!!」
その彼女たちは、間桐雁夜の脚を掴んでいた。
控室側に完全に流されていたジブリールと恵は、咄嗟に彼にしか掴まることができなかった。
しかし掴まられている雁夜にとってはたまったものではない。
いくら浮力があるとはいえヒグマと少女の体重と体積が、津波の如き水流に曳かれて掛かるのだ。
苦悶に歪んだ表情は、参加者たちの背筋を容易に粟立たせる。
ベージュ老が車椅子の上でにじり、新たな包帯へ手を伸ばそうとする。
「テ、テンシちゃん!! 今、包帯投げるからッ、待っとるんじゃ!!」
「巴マミさん、私ならどうにかできまス!! 拘束を解除して下サイ!!」
「わ、わかったわビショップさん、そっちに行くわ――!!」
「――待って、纏――、
纏流子は!?」
その時、辺りを見回していた暁美ほむらが叫んだ。
『ラ・ルーチェ・チアラ』の光彩が輝く診療所内の水面に、纏流子の姿だけがない。
浸水する診察室の中の
星空凛も無事なことが窺えるというのに、彼女は、一体どこへ流されたのか――。
ハッ、と、巴マミが診療所の外へ叫んだ。
「纏さん――!? まさか――!?」
「おおぉおぉぉおぉぉぉォ――!!」
真っ暗な遠くの水面に、水飛沫が上がる。
叫びと共に空中に躍り上がった上半身は、力強い自由形で抜き手を切る、纏流子の姿だった。
「ただじゃおかねぇぇェ――ッ!!」
――纏流子。彼女だけは。
かつて襲ったこの極寒の津波を、生身で泳ぎ抜いていた――。
「直接襲撃者のところまで泳ぎ切る気なの!?」
「なんという膂力か――!?」
巴マミとデビルヒグマが驚愕に声を上げた。
潜水から浮上しつつ高速のクロールで水面を切る纏流子は、その足先に片太刀バサミを引っ掛け、ドルフィンキックを打って曳行する。
水塊さえ切り裂く刃のような流線を描き、彼女は瞬く間に、隔壁の破壊された通路の傍へと近づいてゆく。
しかしその遠くの影へ向けて、ほむらが悲痛な声で叫んでいた。
「――ダメっ!! 纏流子、『第三波』よ!!」
「なっ――!?」
シュー……。
と、微かに水中を裂くような物体の音を、纏流子は聞いた。
ほとんど脊髄反射のような速度で、流子は身を捻っていた。
その何かは、身を捩った彼女の胸元を掠め、高速で後方に通り過ぎる。
明らかに流子を狙って放たれた何かの攻撃――。
直後、振り向いた彼女は、自分の失策に気付いた。
彼女の脇を、先程と全く同じ異音と水流が、何発も何発も通り抜けてゆく。
「しまっ――!?」
「よりによって『酸素魚雷』……ッ!!」
暁美ほむらが歯を噛んだ。
水面に雷跡すら残さず潜行し、高速で水流を駆けてゆく獰猛な猟犬。
潜水艦から放たれた魚雷の群れが、診療所に向けて殺到していた。
「――『時間降頻(クロックダウン)』」
ほむらは息もつかず、ジャンの腕に抱えられたまま呪文を唱える。
その手の甲から、令呪の一画が光と共に消え去る。
「『三重停滞(トリプルスタグネイト)』!!」
宙に彼女の右腕が振り抜かれると同時に、一帯の空気が凝結した。
急激に世界の粘性が増したかのように、水の動く速度も、優に3分の1ほどにまで落ちる。
味方を除く周囲全ての存在に対して展開された、遅鈍をもたらす彼女の固有結界。
それにより、襲来する魚雷の位置も、明瞭化した雷跡に辛うじて視認可能となった。
――その本数、優に47射線。
診療所の一同の背筋に、寒気が走った。
「今のうちに――、早くッ!!」
「はいぃいいぃいぃぃ――!!」
荒い息を吐くほむらが檄を飛ばすと同時に、先程からタイミングを窺っていたシンジが下へ振り降りた。
ジャンの脚から飛び、粘性の増した水面に脚を走らせ、バシャバシャと階段まで一気に走り抜く。
「皆さんも早く上へ!!」
『わかったシンジくん、今行く――』
「間に合わないわ――!?」
階段からのシンジの声に、球磨川禊が即座に応じようとする。
しかし、水中の巴マミからの返事はほとんど悲鳴だった。
『時間降頻』により低速となっていても、その魚雷の速さは地上での人の全力疾走に匹敵した。
水中での動きは地上より制限される。その上3分の1とはいえ津波の勢いは続いている。
波に飲まれている者は脱出できない――。
「おぉぉ――、速攻魔法発動ッ!!」
しかしその瞬間、巴マミを抱え上げながら、水中からデビルヒグマがその左腕を上げていた。
バシャリ、と音を立てて展開されたその左肘の骨には、以前から伏せられていた3枚のカードが、そのままになっている。
診療所への奇襲時、『マラトンの加速機略戦』にて予防線となり、未だ暁美ほむらの令呪によって有効化されていた伏せカード――。
その内の一枚が、返されると共に光を放った。
「【サイクロン】!!」
診療所の前に突風が吹き荒び、海水を巻き上げる。
その激しい颶風の中で、魚雷が揉まれ、爆裂する。
診療所に到達する遥か前に、魚雷は次々と誘爆して破壊されていった。
「――これで大丈夫だ、マミッ!!」
「あ、ありがとう、デビル――」
「いえ、まだっ……!?」
水中を伝う激しい爆発の振動に耐えながら、デビルヒグマとマミは声を交わす。
しかし、その爆発の下に潜り、暁美ほむらの視界で床のスレスレを何かが走り抜けた。
一番深い位置から放たれていた魚雷の1本が、誘爆を免れて診療所内に、入ってしまっていた。
「――!?」
多くの者は、反応すらできなかった。
球磨川禊が、動こうとした。
しかし、真っ先にそこに到達したのは、水面の車椅子から、腕だけで飛び跳ねたベージュ老だった。
「みんな、生きるんじゃぁ――!!」
水中に飛び込んだ彼は、自分の身でその魚雷を抱え込むように、受け止めた。
(がんばれよ、若人。別れの時じゃ)
過ぎる時の西にある未来を託して彼は、老いた日に身を投げた。
††††††††††
魚雷とは、遥かにその装甲や火力で劣る駆逐艦が、一撃で戦艦を撃沈しうる切り札である。
ベージュ老が身を挺してその威力を軽減してなお、その直下で炸裂した酸素魚雷は診療所に激震をもたらした。
「なっ――」
「きゃぁ――!?」
診療所1階のど真ん中でヒグマの血肉と共に水柱を上げたその爆発は、天井のジャン・キルシュタインを揺らし、水底に楔を刺すデビルヒグマに猛烈な水圧を叩き付けた。
そして最も影響を受けたのは、水上に包帯で泊められていたベージュ老の車椅子だった。
方々に投げられていた包帯はそれを固定する持ち手を失い、爆発の振動で容易に解けた。
そこに掴まる、布束砥信と四宮ひまわりと共に、である。
「うそ――」
彼女たちと車椅子が流れ着く先――。
海水を飲んで咳き込んでいた間桐雁夜が、絶句した。
津波の水と共に、流されてくる少女の体で彼の視界は埋まる。
「ふべぇ――!?」
「いやぁ――!?」
四宮ひまわりの柔らかな胸部が、雁夜の顔面に激突した。
同時に、ガードル台が、圧し折れた。
「ひえぇぇ~~!?」
「うわぁぁ~~!?」
「チィッ、なんテこと――!!」
「RUN、AWAY(逃げるのよ)、みんな――!!」
「布束さん――!?」
「おっさ――ん!?」
後にはジブリールと恵とビショップと布束の絶叫だけを残し、彼女らは一塊となって奥の暗がりへと消えていった。
天井に吊られて揺れるほむらとジャンが叫ぶも、その声に返事がくることは無い。
球磨川が壁際の薬品棚に飛び移り、階段のシンジに眼をやる。
暁美ほむらの『時間降頻』は、既に展開時間を逸していた。
水面はもはや常人に走り抜けられるほどの粘度を持たない。
『君だけでも行けシンジくん!! 逃げ道を確保してくれ!!』
「は、はいっ――!!」
水を被りまごついていた彼は、球磨川の指示で上階に走り出した。
水流はまた急速に嵩を増し始める。
「おぉ――いッ!! 無事かぁ――ッ!?」
通路の先で、背泳に切り替えていた纏流子が診療所に向けて叫ぶ。
再び彼女の近傍の水中を、高速の音が駆け抜ける。
「ぅれぁ――ッ!!」
その音に匹敵するかのような速度で、流子は体幹を捻っていた。
鮭狩りの熊の如く水中を切り裂いた彼女の腕が、3、4本ほどの魚雷を空中に跳ね上げ、天井に叩きつけ爆発させる。
しかし彼女を通り過ぎてゆく魚雷群はやはり推定で40本を越えた。
しかも発射点は、先程よりもさらに診療所へと近づいている。
「くっそ――、すまねぇ、頼む――ッ!!」
「もう一度『時間降頻』――!?」
「『絶対領域』――、いや、こんな範囲の物量は防ぎきれ――」
「【神の宣告】を使うしか――」
流子の叫びが届く中、瞬時にほむらとマミとデビルヒグマが視線を交わす。
だが、見交わされた対応のどれにも、完全な打開策となるものが、無かった。
どう対応しても、同じかそれより悪い状況に追い詰められることは必至――。
そんな思考が全員の脳裏を掠めた時、空間を豁然と声が割った。
『――It's All Fiction!!』
瞬間、まるで嘘のように、診療所へ着弾しようとしていた、数十発もの魚雷が、消滅していた。
刹那の無音が訪れた直後、診療所には、ヘラヘラとした少年の笑い声が高らかに響く。
『あは』『やっぱり』『思ったとおり』
『絶体絶命(マイナス)かける、過負荷(マイナス)イコール、起死回生(プラス)』
『撃たれた魚雷なんて』『なかった事にした』
『大嘘憑き、劣化完全復活――』
緑色の病衣を纏った球磨川禊が、薬品棚の上で酷薄な微笑を浮かべていた。
ジャンとほむらが、息を飲んだ。
「みそ野郎――! お前、力が戻ったのか!?」
「そうか……、結界が消えたから――!?」
『ご名答ほむらちゃん――!! さぁ皆さん、この球磨川禊にお任せあれ!!』
示現エンジンの停止に伴う停電――。
その直後、自身の能力を口に出した時から、球磨川禊はある違和感を覚えていた。
自分に掛かっていた『制限』。それが島の結界やなんやかやと共に跡形もなく消え去っていること。
能力の使用に伴って凄まじい疲労を受けてしまうその制約が撤廃されているように、彼はおぼろげながら感じていたのだ。
しかし、もしその感覚がただの勘違いであったならば、既に最大限に疲労困憊していた球磨川は、更なる『大嘘憑き』をしてしまった瞬間に、過労で頓死してしまっていたかも知れない。
そのために彼は今一歩、その能力の使用を決断できないでいた。
自家発電装置が破壊された際も。
診療所に海水がなだれ込んで来た時も。
ベージュ老が、その身を魚雷に投げた時も――。
――……ヒグマにできて、僕にできないわけが、あるかよ。
そう、つんざく良心の嗚咽を、漏らした。
「僕が皆を救う! この襲撃もなかったことにしてやる!
これで、僕は、敗者(ぼくたち)は、勝てる――」
心の底から、悔恨の雨音を消すように、球磨川は叫んだ。
一同を励ますように、自分を奮い立たせるようなその声と共に、彼の鼻からは、血が噴き出した。
††††††††††
あの笑みを砕き 嘘に帰す推理を飲みに
Hai yai yai yai yo ナース・カフェへ
††††††††††
……あれ?
鼻血?
なんで鼻血よ。
おいおい興奮しすぎだろう球磨川禊。
ふふ、落ち着け落ち着け自分。
もう、カッコをつけるつもりもない。
ただ自分の全力でこの状況に立ち向かい、勝ってやる。
今度こそ、僕は勝つ。
格好良くなくても強くなくても野生じゃなくても出来損ないでも才能に恵まれなくとも頭が悪くとも性格が悪くとも落ちこぼれでも役立たずでもはぐれ者でも友達がいなくとも努力が出来なくとも。
格好良くて強くて野性的で出来が良くて才能あふれて頭と性格の良い上り調子で機転が利いて友達とつるんでるような努力のできる連中に、勝ちたい。
憎まれっ子でも!
やられ役でも!
主役を張れるって証明するんだ――!!!
「ぼくは、か――」
球磨川禊は、薬品棚の上でそう宣言しようとした。
だがその宣言の代わりに彼の口から出て来たのは、大量の吐血だった。
「――は……?」
大口を開けたまま、彼は自分の腕や喉元に垂れてゆく赤色を見つめる。
するとすぐに、その見つめていた視界も、じわじわと真っ赤に染まった。
「あ」
自分の両眼球から出血したのだと彼が気づくのに、それほど時間はかからなかった。
ぶじゃ。
と音が聞こえた。
生暖かい血液が、自分の両眼と両耳から流れ出ているのだと、球磨川禊はわかった。
すぐに、全身にやってくるものがあった。
牙を剥いて、彼の全身の神経に突き立った激痛。
それは彼が今までについてきた、全ての『大嘘』だった。
「げ」
悶える声の代わりに彼の口からは、吐血だけが溢れた。
緑の衣に赤をてらてらと映えさせながら、球磨川の体は薬品棚から真っ逆さまに、津波へと転落していた。
「な……」
「え……?」
ジャン、ほむら、マミ、デビルヒグマ――、その場で一部始終を目撃していた人員は、一様に硬直した。
血で真っ赤に染まった球磨川禊の体は、待ち合いだった空間の隅の水面に揺られ、ぴくりとも動くことはなかった。
その場の誰にも、全くその現象は理解ができなかった。
††††††††††
衛宮切嗣という魔術師の『起源』は、『切断』と『結合』である。
それは彼が即席礼装としていた自身の犬歯でも明らかなことであり、その活用法を彼は手帳に詳細に記していた。
暁美ほむらたちはこの彼の先見の明によって、大いに救われていた。
しかしその衛宮切嗣も予見できなかったことがある。
彼の礼装は、その犬歯だけではない。
彼の肋骨から精製され、銃弾の形に成された概念武装『起源弾』――。
それこそが彼の真の礼装。
だがそんなものの存在は、希望を託そうとした今わの際の彼にとって、重要ではなかった。
その効果も、利用法も、衛宮切嗣にとっては記すに値しなかった。
……よもや死後、自分の肉体が再びその凶弾の――、そしてそれを上回る凶悪な武装の製造に使われてしまうとは、どうして予見できよう。
球磨川禊の被った損傷はまるっきり、その礼装『起源弾』に、魔術や異能を用いて干渉してしまった際の症状そのものだった。
「な、んで、彼だけ――」
その場の人間の中で暁美ほむらだけは、漠然とながら、その原因が『魚雷の迎撃』にあるものだとは察せた。
しかしそれならば球磨川禊の前に、ほむら自身も、デビルヒグマも、『魔術』を用いて魚雷を迎撃してしまっている。
何故、彼だけ――。
彼女の脳裏にはふと、間桐雁夜と交わした会話が過った。
『掠め取った……!? 令呪は確かに使い捨ての魔力じゃあるが……。
良く見れば、君のは普通のと違って黒いし……。そんなことができるのか?』
使い捨て。
ほむらの『時間降頻』も、デビルヒグマのカードに掛けた具現化魔術も、それらは全て令呪を魔力源とした使い捨ての魔術だった。
迎撃した魔力を逆に辿られ、その根本を破壊されたとしても、既に消滅している魔力源は、破壊されようがない。
そのために、この魚雷の真の危険性は、球磨川禊がその一歩を踏み出すまで、マスクされてしまっていた。
「私の、せい――」
暁美ほむらの咽喉が、引き攣った。
「こ、のぉおおおおぉおおおぉぁ――!!」
遠くの水面で、纏流子が吠えた。
やけに明るい診療所の中で、球磨川禊が水上へ転落する様子は、彼女の目にも見えた。
泳ぎ続けていた彼女の耳は既に、水中に近付く、呼吸音を捉えている。
間違いない。
それが診療所を襲い、数多の人畜を水底へ沈めてきた、襲撃者たちの気配だった。
「ぶった斬ってやらあああああぁ――!!」
その流子の気焔を察知したように、水中から急速に影が躍り上がってくる。
だが機先を制そうとしていたその敵の動作よりも、流子の挙動はさらに速かった。
「鮮けぇぇぇぇぇ――つッ!!」
(わかった、行くぞ流子!!)
腹筋で宙へ捻り上げた足先から、片太刀バサミが上空へ蹴り上げられる。
水面に手をつくようにして跳ね上がった流子が、自分の手甲の留め金を噛み千切った。
彼女のセーラー服――『鮮血』が血を吸い、その姿を変える。
服の繊維が解け、舞い、鮮烈な赤い竜のようになって流子へと食らいつく。
片太刀バサミと共に中空へ跳び上がった彼女の体は、戦闘形態となった『神衣鮮血』を纏っていた。
そして水面に浮上した巨大な影の姿を見止めた時、既にそのハサミは、常にはあらぬ長大な形相へと、変貌していた。
「『武滾流猛怒(ぶったぎるもーど)』」
たった一言。
会敵に対する牽制も様子見も何もなく、水中から現れたそのヒグマに対して、流子は上空から全力の一刀を見舞っていた。
アクララングをつけ、魚雷発射管を背負っていたそのヒグマは、一瞬驚愕に目を見開いたようだった。
しかしその刹那に、彼の首は胴体と泣き別れになる。
背部の艤装ごと凄惨な断面を晒して死んだ、その潜水艦のような様相をしたヒグマは、物も言わず再び水底へと沈んでいった。
「許さねぇ……。もう許さねぇぞ……!! 全員まとめてナマスに刻んでやる!! 出てきやがれぇッ!!」
「……これだから水上のヤツらは野蛮でいかんでち。突撃しか能のないイノシシ女郎でち」
鮮血疾風のジェット噴射をスカートの下から吹いて滞空している流子に、水中から声が上がった。
流子よりも年若い、少女のような声だった。
問答無用に敵へ斬りかかろうとしていた彼女の動きは、その相手の姿を見て、思わず止まった。
水上に顔を覗かせる上半身は、まるっきり人間の少女だった。
セーラー服の、なぜかその下にスクール水着を着ているという出で立ちだ。
奇妙なことに、その髪の毛は赤とピンクがまだらに混ざり合ったような模様を呈している。
その瞳も、左がピンク、右が赤のオッドアイになっている。
そんな少女が、水面に身長より長そうな乱れ髪を散らし、不敵な笑みを浮かべているのだ。
「お前、は、一体――」
「取り敢えず沈めでち」
流子が問おうとした言葉は、瞬間に捕食された。
水中から、少女の言葉と共に何かが勢いよく飛び出した。
――ヒグマの前脚。
少女の肉体とはあまりにも不釣合いなヒグマの巨大な脚と爪が、上空の流子に向けて振り上げられていた。
「ぬあ――!?」
「いや、イノシシですらない――、貴様はカトンボでち」
咄嗟に受けた片太刀バサミごと、流子は通路の壁面に勢いよく叩き付けられる。
その時既に、シニカルな笑みを絶やさぬその少女は、自身の両腕から下半身までを水上に露わとしていた。
少女の両下腕、そして両下腿は、異様に肥大したヒグマの四肢と化している。
胴部のスクール水着を纏う少女の体とは似ても似つかないその威容はしかし、確かに彼女の肉体の一部として混ざり合い、繋がっていた。
そもそもが二人の少女の混ざり合ったようなその顔貌と合わせ、彼女はある種の、キメラのような雰囲気さえ持っていた。
「……死、ね、やぁあぁぁぁぁァ――ッ!!」
だが、纏流子は、そんな異様な相手の姿に、一切の感情を抱かなかった。
叩きつけられた直後に彼女はただ、全力で壁を蹴り、その片太刀バサミを横薙ぎに振るっただけだった。
敵は敵。どんなヤツでも敵は敵。
ただそれだけ、と現実を断じた彼女の剣閃は、壁際の急速なその転身と合わせ、常人の反応できる速度を遥かに超えていた。
そして片太刀バサミは、目を丸くした少女のその口元から、深々とその喉まで斬り込んでいた。
「――ふぁ」
空気の漏れるような声が、少女の咽喉から漏れた。
流子はその様子に、相手の致命傷を確信した。
しかし、少女の首を断ち割り胸元まで喰い込んだ片太刀バサミは、抜けなかった。
「……『真剣皓歯取り(しんけんしらはどり)』」
そして流子はその少女が、胸まで牙を剥き出して笑うのを見た。
「ぷっ」
「おわ――!?」
そして流子は、少女の牙に挟まれたハサミごと振り回され、通路の壁に再び吹き飛ばされる。
少女の口は、セーラー服を纏うその胸元まで、ぱっくりと開いた。
下顎が首の前半分ごとべろりと裂けたようなその異様な形相の中には、人を丸呑みにして余るかのような巨大な口腔が広がっていた。
「ふふふ、悔しいか? 己も知らず敵も知らず場も知らず機も知らず、貴様はとことん愚かな女郎でち」
「るせぇ――!! 『戦維、喪し』――」
挑発してくる、潜水艦のようなヒグマのような深海魚のような奇妙な少女の言葉を無視し、流子は負けじとまた、片太刀バサミを揮わんとした。
「ばぁ~~か。船底に大穴が開いてるでち」
その流子に向けて、少女はせせら笑う。
ハッとした流子の足元には既に、微かな異音が駆け抜け、過ぎ去っていた。
雷跡も残さぬ、40本以上の酸素魚雷――。
水中には、興奮した水上の流子を相手にもせぬヒグマたちが、まだ何十体も、潜ったままだった。
少女はヒグマの腕を胸元で組み、余裕綽々といった表情で、瞠目する流子へ微笑む。
「……このゴーヤイムヤばっかり気にしてて良いんでち? 薄情なカトンボでち」
「こ、のっ……、クソ外道がぁぁああぁ――!!」
「いやいや、このゴーヤイムヤは、『サーカスティック・フリンジヘッド(皮肉な振り分け髪)』でち」
ギシャ。と少女は牙を剥いて笑う。
乱れたピンクと赤の髪を揺らして彼女が小首を傾げた時には、診療所に着弾した魚雷の群れが、あたりに凄まじい轟音を響かせていた。
††††††††††
「駄目、クマ……! 上から何かの瓦礫で完全に塞がれて、脱出できんクマ……!!」
診療所の3階。
別構造体となっている診療所自体の階段とは別に、病室の脇の廊下から屋根裏へのハッチのようにして切り欠かれている天井を開けて、球磨は絶句していた。
すぐに地上の病院の床に出られるはずのその跳ね上げ扉の先には、大量の瓦礫が詰まっていて、ほとんど光も差さなかった。
構造上、そこは直接ハッチから続く階段のはずだった。
つまり敵は、最初の攻撃の揺れと同時か、もしくはそれより遥かに早くから、出口を塞ぐためにあらかじめ階段を崩落させていたということである。
敵は、地下部隊と地上部隊に分かれ、球磨たちが診療所でのほほんとしている最中からも着々と侵攻を始めていたというわけだ。
「姐さん!! 俺たちがどかせねえかやってみます!!」
「おう、梨屋。頼むクマ!!」
同行していた4頭のヒグマたちが、天井のハッチから降りた球磨と入れ替わりに登り、そこを塞ぐ瓦礫
を突き上げてなんとかどかそうとした。
「……でも、たぶん無理だクマ」
その場をヒグマたちに任せて、球磨は天井を開くのに使った1.5メートルフック付きシャッター棒を片手に、急ぎ3階フロアを廻り始める。
呟く球磨の表情は苦い。
彼女は歩きながら、シャッター棒で軽く天井を突き上げてゆく。
反響する音は鈍い。
みっしりとその上部が詰まってしまっている証拠だ。
少なくとも階段部分は、上の病院が完全に崩されているのに違いない。
7階建てか8階建てか。
総合病院というからにはそれなりに大きかろう。
ヒグマ4頭如きでのけられる重量ではないに違いない。
どこか瓦礫の層の薄いところを探し、14cm単装砲を何発もぶち込んで無理矢理穴を開通させるくらいしか脱出法が思いつかなかった。
「魔術での結界……って線は流石に無いだろうクマ。いや、球磨にはわからんけど」
暁美ほむらから別れ際に握られた手に、球磨は一本の歯を手渡されていた。
魔術を切り、再結合させることができるという、衛宮切嗣という魔術師の歯だ。
物理的閉塞以外に魔術的封鎖が為されている可能性を予見して暁美ほむらが彼女に持たせていたものだが、取り敢えずその出番はなさそうだった。
その犬歯を見つめていると、なんとなく深海棲艦の剥き出しの歯が彷彿されてくる。
「それにしても……。深海……、もとい潜水している艦と、陸上の部隊がどうして連携できるクマ?
なんで球磨たちの動きは把握されて、球磨からは全く把握できないクマ……?」
「――あ、く、球磨さん!! 大変です!! 早くみんなを逃がさなきゃ――!!」
その時、階段を駆け上ってきた碇シンジが、慌てて球磨に呼びかけていた。
ほぼ同時に、下から何かの爆音と振動が伝わってくる。
「……一体なんだクマ!?」
「海水が流れ込んできて、そこに魚雷が!! ほむらさんたちが防いでくれてますけど、一発着弾したみたいですね……」
「開幕雷撃クマ……。敵艦の数は――!?」
「よ、良くわかりませんでしたけど、少なくとも数十……!」
「――数十!?」
それだけの雷撃射線にこの狭い海域なら、むしろ一発の着弾で済ませただけでも奇跡に近い。
――流石のほむらだクマ。咄嗟になんて凄まじい迎撃能力クマ。
しかし一刻の猶予もないことに変わりはない。
早急に脱出経路を確保して全員を上にあげなければ、ここは袋小路だ。
球磨は、まだ天井のハッチでうんうんと唸っている4頭に向け、声を張り上げた。
「てめぇら散れクマ!! 総員、天井裏の瓦礫の薄い箇所を反響音で探査!! そこに穴をホガすクマ!!」
「へ、へいっ、わかりやしたぁ!!」
シンジと球磨と共にヒグマたちもフロア方々に散り、手を伸ばして天井を叩いていく。
再び球磨たちの元に異音と振動とが訪れたのは、そんな最中だった。
しかも今度は、一発では、なかった。
††††††††††
「『第四波』……、直接攻撃……」
転落した球磨川の姿に涙を呑みながら、暁美ほむらは既にその思考を切り替えていた。
通路の先では、魔法少女か何かそれに類似したものに変身した纏流子が、襲撃者らしいヒグマと戦っている。
彼女が敵の気を完全に惹いてくれているのなら――。
「マミさん、動ける!? 今のうちに、早く生きている人を確保して上にあがるのよ!!
纏流子が相手を惹きつけてくれているうちに――!!」
「わ、わかったわ。デビル――、みそくんをお願い!!」
「ああ!!」
未だ刻々と水位を増している水を、魔法少女の増強された筋力を以て必死に掻きながら、巴マミは診療所の階段の方へ泳ぎ歩く。
デビルヒグマは、巴マミの保護をしていた体勢から、急いで足裏の楔を移動させつつ、かろうじてまだ息のある球磨川禊の方へ歩む。
「ジャン、あなたは星空凛を――!」
「勿論だ!!」
「――おっと、させんぞ?」
だがその時突如、診療所入り口付近の水中から、何の物音も立てず接近していたヒグマが姿を現していた。
ほとんどその目の前にいた巴マミに、ヒグマは口元からアクアラングのレギュレーターを吹き出し、即座にその爪を振り下ろしていた。
「『ティーロ』ッ!!」
巴マミはその奇襲に、即応した。
身を捻りながら斜め奥の水面に跳ね、彼女は後方に自身の左袖を振り抜く。
袖口の布を破って、彼女が先程から隠し持っていたマスケット銃が火を噴く。
しかしその弾丸は、ヒグマの横面に着弾する前に、見えない何かに不自然に干渉されたように『よれて』、天井に穴を穿った。
「五月蠅いぞ……。もうちょっと静かに攻めろ」
「あなた、一体……!?」
「静かにせんか! あと3、2、1……」
だがそのヒグマは、巴マミ含む一帯の人員の動きが止まったのを見るや否や、途端に口元に指を当てて目を瞑り、何かに耳を欹てるように沈黙を促す。
直後、水中を走る異音が、ほむらやマミたちにも聞こえていた。
「しまっ……!!」
「然らば。沈め」
そのヒグマの思わせぶりな奇襲は、ただの足止めに過ぎなかった。
彼女たちがみたび襲い来ている酸素魚雷の大群の存在に気付いた瞬間、奇襲をかけてきたヒグマは、何か見えないものに吊り上げられるかのように、潜水艦の艤装を背負ったまま、診療所の外壁へと振り上がって行ってしまう。
デビルヒグマが、身を翻してカードに手を掛けた。
「罠カード、【神の宣告】――!!」
瞬間、空中に浮かび上がった老人のビジョンが、なにやら手を打ち振って消える。
デビルヒグマは同時に、全身を貫いた猛烈な痛みと疲労にふらつく。
それでも胃液を戻しながら彼は、全員に向けて声を絞った。
「――これで『不発』に……、なったはず――」
その魚雷の発射を無効化するには、既に遅い。そもそも彼らはその発射の瞬間すら捉えていないのだ。
代りにデビルヒグマは咄嗟の機転で、数多襲い来る魚雷の中の共通の一項目、その爆発という現象の発動のみを、神の力を以て無効化し破壊した。
「『時間降頻(クロックダウン)』――、『三重停滞(トリプルスタグネイト)』!!」
同時にほむらが、二画目の令呪を切った。
既に魚雷群は、診療所の目前にまで迫っていた。
「避けてぇぇぇ――ッ!!」
間髪入れず叫ぶ。
例え爆発せずともその魚雷は、高速で突き出される40本以上の槍衾に他ならなかった。
診療所の正面の壁が貫かれる。
やけにスローモションで舞い散る壁の破片、窓の破片。
ドアの吹き飛んだ出入口から、直接高速の雷跡が潜入してくる。
衝突と破壊の轟音が、遅くなった低音となって耳に響く。
微かに視認できる雷跡から魚雷の位置を特定し、その突撃を躱し続ける死のダンス――。
「おおお――!!」
「くぁあ――!!」
球磨川禊の体を抱えたデビルヒグマと巴マミは、辛うじてその魚雷たちの進路を見切り、水中にステップを踏んでそれを躱す。
彼らの背後で、次々と診療所1階の壁に魚雷が突き刺さり、建物が揺れる。
「よし、いける――」
暁美ほむらは、眼下でステップを踏み切ったふたりの姿に拳を握る。
「いや――」
だがその時、診療所を襲う、今にも崩落しそうな振動に、ジャンが振り返った。
この場には、ただ一人、どうあってもその魚雷の襲撃を回避できない人物が、いた。
そこに目をやって、彼は悟る。
「これは――」
――この魚雷群が真に攻撃していたのは何なのか。
天井にワイヤーで直接留まっているジャンは、その嫌な振動と予感が示す未来を、最も克明に理解した。
彼は即座に身を捻り、渾身の力で暁美ほむらを斜め下の階段に放り投げた。
ジャンの肋骨がみしりと、嫌な音を立てた。
「アケミ、行け――!」
「きぁ――!?」
直後、ジャンの立体機動装置が留まっていた天井の板が、剥がれ落ちる。
階段に尻餅をついたほむらを横目に、急速にガスを吹いてジャンは飛んだ。
星空凛。
彼女の眠るベッドと、それが安置される診察室は、入り口から最も多くの魚雷を受ける位置にあった。
四方の壁、柱に穿たれた巨弾の穴が、ジャン・キルシュタインには、超大型巨人の蹴り開けた、絶望の穴に見えた。
『時間降頻』の効果時間が、切れた。
「リィィイィィィ――ィンッ!!」
絶叫しながらジャンが診察室の中に突入したのと、診察室の柱が折れ、天井が崩壊したのとは、ほとんど同時だった。
††††††††††
「ジャン――!? マミさん――!?」
階段から見ていたほむらには、3階建ての診療所の、2階から上の構造全体が、柱の崩れた1階を押し潰すように落ちてくる有様がはっきりと観察された。
呆然とする彼女の前で、そこに開けた空間は、先程までの診察室と待ち合いではなく、誰もいないガランドウの、2階にあったはずの治療室と手術室になってしまっている。
建物の端に別構造体として構成されていた階段部分のみを残して、まるでだるま落としか、脊椎の圧迫骨折のように、診療所の1階部分は床下に消え去っていた。
――魚雷は、その内部の人畜ではなく、その構造自体の倒壊を狙って放たれていた。
「そ、んな、まさ、か――」
「おお、なんとも悲しいことだな……。お前も後を追うか?」
じわじわと、その2階だった構造にも海水が侵入してくる。
その視界と同じように、見開いた目が湿り気を帯びてゆく暁美ほむらの背後から、朗々とした声がかかった。
階段の踊り場にいたのは、2階の窓から侵入していたらしい、先程巴マミに奇襲をかけたヒグマだ。
立ち尽くすほむらの元に降りてくるそのヒグマはボサボサと振り乱された体毛をしている。
何故か、体の周囲が半透明の靄か霞のようなものに包まれているように見えて、その毛皮の境が曖昧だった。
その雄ヒグマが背負っている艤装を一見して、ほむらは歯を噛んだ。
「……全部、聞こえるのね」
「ああそうだ。お前の悲しむ心もな」
ヒグマはほんの少し、二足歩行していた後ろ足の片方を前に振り上げた。
それだけで向かい合っていた暁美ほむらの、華奢な頭蓋骨は砕けた。
顎から蹴り上げられた黒髪の頭部は、彼岸花が咲いたかのように脳髄を吹き散らして割れ、グルンと勢いよく背中に回り、グレーの魔法少女衣装の上から背骨のど真ん中に激突する。
暁美ほむらは死にながら、ちょっと今のは痛いな、と思った。
「……お前が一番厄介そうだったからな。さっさと沈めておくに限る」
頭が砕け、首の折れた暁美ほむらの死体は、そのまま力なく背後に倒れ、顔面を水没させてぷかぷかと冷たい海水に浮いた。
死体は徐々に衣服を濡らし、脳から断ち切られた筋肉がぴくぴくと痙攣する。
その様子を確認して、ほむらを蹴り殺したヒグマはゆっくりとその場から姿を消した。
(……そうか。となると今のヒグマが、彼ら襲撃者の通信の要ね)
その様子を確認して、ヒグマに蹴り殺されたほむらの死体は、水上に浮かびながら思考を廻らせた。
魔法少女であるほむらの肉体は、とっくの昔に死んだも同然であり、つい数時間前までは左腕以外全部喰われていたこともあるのだ。
今更頭を砕かれて殺されたところで、その時多少痛くて、再生に多少魔力が必要となる以外に何の支障もない。
よく魔法少女のことを理解していない敵相手なら、ターゲットから外れたまま思案できるという選択肢を与えられていることに、ほむらは多少、
キュゥべえに感謝のかけらのような念を抱かなくもなかった。
(その気になれば体はすぐ再起動できるからいいとして、やはり敵の能力と生存者を確認しないと……。
本当にみんな、死んでしまうかも知れない……!!)
敵の戦略は余りにも巧妙で、その物量は余りにも膨大で凶悪だった。
蹂躙された診療所で、生き残っている者はあと何人か――?
上階で、下階で、今現在どんな戦況に至っているのか。
思い返せば、浮かぶのは人々の恐怖と絶望の顔、飛び散る血と肉の破片――。
掴みかけていたはずの希望の糸が、秒針が進むにつれてどんどんと指先から溶けて零れていってしまう。
(私……の、せい、で……)
自大。陰鬱。虚勢。冷酷。強欲。侮蔑。加えて愚鈍。
嫉妬。怠惰。慢心。軟弱。蒙昧。卑屈。おまけに狷介。
こんな頭のおかしい狂人が、浅ましくも人々を率いるなど、あってはならないことだったのでは――?
胸を痛ませるその思考をこれ以上続けると、もはや一切の余裕も無いソウルジェムから、濁りが溢れそうだった。
(考えろ……! 考えなさい、暁美ほむら……!! どうすればいい!? どうすれば道は続く!?)
それでも魂の中で歯噛みして、暁美ほむらは自身のソウルジェムの中をうろうろと練り歩く。
そこはつい先ほどまで、数多くの人々の活気でにぎわっていた、暗い砂時計の空間だった。
百年も閉ざされていたようなその闇の奥には、確かに今朝、東の威光の中に見た道が続いているはずだった。
(みんな、お願い……! 生き残って……!!)
老いた日から呼ぶ明日に耳を澄ませて、暁美ほむらの死体は、澱んだ海水を飲む。
【C-6 地下・ヒグマ診療所治療室/午後】
【暁美ほむら@魔法少女まどか☆マギカ】
状態:魔法少女でなかった当時の身体機能、労作時呼吸困難、頭の砕けた死体
装備:自分の眼鏡、ソウルジェム(濁り:極大) 、令呪(残り1画)
道具:89式5.56mm小銃(0/0、バイポッド付き)、MkII手榴弾×10、切嗣の手帳、球磨の首輪、星空凛の首輪、ジャン・キルシュタインの首輪、球磨川禊の首輪、碇シンジの首輪、纏流子の首輪、89式5.56mm小銃の弾倉(22/30)
基本思考:他者を利用して、速やかに会場からの脱出
0:どうすればいい……!? どうすれば生き残れる!?
1:敵は、潜水艦の艤装を得たヒグマ……! しかも複数の能力持ちがいる……!!
2:まどか……今度こそあなたを
3:お願い、お願いだから……、みんな、生きていて……!!
4:巴マミ……。一体あなたにどんな変化があったの?
5:ジャン、凛、球磨、デビルは信頼に値する。球磨川、シンジ、流子は保留ね。
6:魔力は、得られた。他にもっと、情報を有効活用できないか……?
7:巴マミと、もっと向き合う時間が欲しい。
[備考]
※ほぼ、時間遡行を行なった直後の日時からの参戦です。
※まだ砂時計の砂が落ちきる日時ではないため、時間遡行魔法は使用できません。
※時間停止にして連続5秒程度の魔力しか残っておらず、使い切ると魔女化します。
※島内に充満する地脈の魔力を、衛宮切嗣の情報から吸収することに成功しました。
※『時間超頻(クロックアップ)』・『時間降頻(クロックダウン)』@魔法少女まどか☆マギカポータブルを習得しました。
††††††††††
「マミ――、ほむら――!?」
流子の視界の先で、診療所が倒壊するのが見えた。
同時に、希望のように輝いていた『ラ・ルーチェ・チアラ』の光彩も、水面下に没して見えなくなる。
再び暗黒に落ちた水の上で、流子の背後からは嘲笑が響く。
「くくく……、いくら既にデーモンの手に堕ちているとはいえ、やはり救えぬ愚かさでち。カトンボ女」
「――死ぃぇゃッ!!」
獣のような声で、流子は振り向きざまにその怒りを薙ぎ払った。
だがその太刀筋は、やはり胸元まで裂ける少女の牙に受け止められる。
「本当に呆れるなまくらでち」
「この片太刀バサミは父さんの形見だッ――!! 馬鹿にすんじゃ、ねェェェ――!!」
力を込め、神衣の方々からジェットを噴射しても、その少女の咬合力に、がっちりと片太刀バサミは固定されてしまっている。
少女は憤怒の形相を隠しもせぬ纏流子を、口先で笑い捨てた。
「……くくっ。父親もゴミなら娘もゴミでち。やはりこのゴーヤイムヤが地球上から掃除しておいて良かったでち」
「な、んだ、とォ!? 何を、言ってやがる――!!」
「……貴様のゴミ親父を殺したのは、ゴーヤイムヤだと言っているでち。くくくくくっ」
笑いと共に、少女はその口の噛み締めを強める。
みしみしと片太刀バサミが軋む。折られかねない――。
流子は少女の肩口を強かに蹴り、その牙から片太刀バサミを引き抜く。
数歩空中を飛び退り、ハサミを構えて少女を見た。
そんな馬鹿な。と、流子は思う。
しかし、抑えられぬ怒りと共に、彼女は問わざるを得なかった。
「……父さんを殺したのは片太刀バサミの女だ。……まさかてめぇが、そうだって言うのか!?」
「わぉ! 証拠を見せなきゃ信じられないと言うんでち? ハイハイ、大サービスでち」
少女はにこにこと笑みを深め、そのヒグマの爪を、自分の口の奥底に突っ込んだ。
そして閉じられた口の隙間からは、ゴリゴリと牙に当たる音を立てて、何かが引きずり出されてくる。
「……さぁ、わかったか? 貴様のなまくらの片割れでち」
それは石のような灰色の、片太刀バサミ。
纏流子の持つものを、そっくり反転させたようなハサミが、少女の手には持たれていた。
「――て、めぇ、かぁ……っ!!」
(流子!? おい、血が熱くなってる!! 興奮しすぎだ――!!)
流子の体が震えた。
赤の混じった黒髪が、ざわざわと風に逆立った。
セーラー服からの声は、もう彼女には、聞こえなかった。
「答えろ――!! 何故父さんを殺したァ――!!」
「くけけけけ」
地下を震わせる流子の叫びに、ゴーヤイムヤと名乗る少女は、下卑た嘲笑を浮かべるだけだった。
††††††††††
間桐雁夜は、自分を呼ぶ声で目を覚ます。
「……桐さん、間桐さん、……あ、良かった、気が付きましたね!」
「め、恵ちゃん、か……? ここは、一体……?」
雁夜が身を起こした空間は、どこかとても狭い、土がむき出しの小部屋のような場所だった。
すぐ脇を、瓦礫から染み出した滝のような水がどんどんと流れて、下の方に落ちて見えなくなってゆく。
隣から、ヒグマの声がした。
「……私の掘っていた、防空壕です」
「どぅお!? テ、テンシさんだっけ……!? あ、あんたが掘った!?」
「キッチンの脇に穴があったから変だとは思ってたんですよね……」
この空間は、暁美ほむら一行の来襲前に、ジブリールがてんやわんやになりながら診療所の隅から地盤へと掘り進んでいた場所だった。
海水に流された雁夜たちは、奥の控室からここに落ち、下へとさらに流される前になんとか足場を確保できていたのである。
『……なに、我が医療班の面子は皆、優秀じゃからのぉ……』
そう言ったベージュ老の言葉は、あながち間違いではなかったのかも知れないと、雁夜は思い直した。
「……でも優秀、とまでは言い切れないよね。私がいなかったら、ここ、水分で崩れてたし」
その雁夜の思考に、ぼそぼそと少女の言葉が被った。
暗がりに振り向いたそこには、四宮ひまわりと、彼女の具合を心配そうに窺う布束砥信がいた。
雁夜は、そのひまわりの様子に気づき、驚愕する。
「ひ、ひまわりちゃん!? それ、大丈夫なのか!?」
「……まぁまぁ」
「So-soというよりは、Not goodよ」
布束の渋い声の先には、辺りに張り巡らされ、この防空壕を支えている木の根が見える。
それは四宮ひまわりの腕から伸びている、二代目鬼斬りだった。
既に彼女は、顔の半分ほどまで木の根に寄生されてしまっている。
「Sorry、四宮ひまわり……。ここまで来てしまっては、取り除く方法がわからないわ……」
「まぁいいよ。なんか気持ちいいから。……ふわぁ」
「ダメよ寝ては……! 意識を持っていかれたらどうなるか……!」
「……にゃむ。まぁ、まぁ……」
気を抜くとすぐに朦朧としてしまうらしいひまわりの頬を、布束は事あるごとにパシパシと叩いている。
田所恵も、必死に彼女へ声を掛けた。
「そうだよひまわりちゃん……! 根っこなんかに負けないで!!」
「……でも恵ちゃん。この根っこ張ってるとお腹いっぱいになってくるんだよ?」
「え!? そうなの!?」
「それにガサガサだったお肌にハリが戻ってくる」
「わ、ほんとだぷにぷに!!」
「さらに、流されていた割烹着やワンピースも、しっかり引っ掛けそのまま物干し竿になってくれる!」
「おお、すごい便利……!!」
ひまわりは半分寝ぼけながら、田所恵に木の根の良さをアピールした。
それを聞くや、ジブリールがワッと泣き出してしまう。
「でも……ッ! ベージュさんは死んじゃいましたぁ!! ううっ、ビショップさんもぉ……!!」
「え!? あの水ヒグマ死んじゃったの!? あいつがいれば、この状況どうにかなるかと思ったのに……!!」
狼狽する雁夜に、布束とひまわりが答えた。
「ビショップなら、下に落ちたわ。どうやらこの下は地下水脈になっているらしいの」
「……ガラス球に入ったままだったから……流石に引っ掛ける場所が無かった……」
「魔術の球のままってことは……、効果が切れれば中から出て来れはするよな……」
「あのヒグマさんが、泳いで戻ってきてくれるまで、待つしか、ない……?」
雁夜と恵の呟きに、一同は無言の肯定をした。
海水と瓦礫に塞がれている診療所側にも、地下深くに続く水脈側にも、安全に行ける確証も方法もない。
布束は、ようやく見えてきた希望が再び遠くなっていくことに、強く歯を噛む。
「敵は『潜水艦』と言ったわよね……。
艦これ勢の中で『潜水』に関わってたヤツは、ヒグマ提督なんてメじゃない、最古参よ……。
私が工廠の設計を引いた時に口出しして来たり、あの島風の進水時に、対戦相手として名乗りを上げたような筋金入りの輩ばかり……。
徹底的にえげつないやり口をとってもおかしくないことを、想定しておくべきだった……」
「うえぇ~……ん、レムちゃん、なんでぇ~……!?」
ベージュ老から託された、『生きる』という最低限の行為すら、難しいかも知れない。
ジブリールの嘆きが響く中、布束は攻め込んで来た敵の能力と性質に思い至り、冷や汗を流していた。
【穴持たず88(ベージュ老) 死亡】
【C-6 地下・ヒグマ診療所奥防空壕/午後】
【穴持たず104(ジブリール)】
状態:狼狽
装備:ナース服
道具:なし
[思考・状況]
基本思考:シーナーさん、どうか無事で……。
0:何が起きてるの!? 何が起きてるの!?
1:レムちゃん……、なんでぇ、ひどいよぉ……!!
2:ベージュさん、ベージュさぁん……!!
3:ビショップさんも落ちちゃったぁ~……!!
4:夢の闇の奥に、あったかいなにかが、隠れてる?
[備考]
※ちょっとおっちょこちょいです
【布束砥信@とある科学の超電磁砲】
状態:健康、ずぶ濡れ(上はブラウスと白衣のみ)
装備:HIGUMA特異的吸収性麻酔針(残り27本)、工具入りの肩掛け鞄、買い物用のお金
道具:HIGUMA特異的致死因子(残り1㍉㍑)、『寿命中断(クリティカル)のハッタリ』、白衣、Dr.ウルシェードのガブリボルバー、プレズオンの獣電池、バリキドリンクの空き瓶
[思考・状況]
基本思考:ヒグマの培養槽を発見・破壊し、ヒグマにも人間にも平穏をもたらす。
0:暁美ほむらたち、どうか生き残っていて……!!
1:キリカとのぞみは、やったのね。今後とも成功・無事を祈る。
2:『スポンサー』は、あのクマのロボットか……。
3:やってきた参加者達と接触を試みる。あの屋台にいた者たちは?
4:帝国内での優位性を保つため、あくまで自分が超能力者であるとの演出を怠らぬようにする。
5:帝国の『実効支配者』たちに自分の目論見が露呈しないよう、細心の注意を払いたい。が、このツルシインというヒグマはどうだ……?
6:駄目だ……。艦これ勢は一周回った危険な馬鹿が大半だった……。
7:ミズクマが完全に海上を支配した以上、外部からの介入は今後期待できないわね……。
[備考]
※麻酔針と致死因子は、HIGUMAに経皮・経静脈的に吸収され、それぞれ昏睡状態・致死に陥れる。
※麻酔針のED50とLD50は一般的なヒグマ1体につきそれぞれ0.3本、および3本。
※致死因子は細胞表面の受容体に結合するサイトカインであり、連鎖的に細胞から致死因子を分泌させ、個体全体をアポトーシスさせる。
【田所恵@食戟のソーマ】
状態:疲労(小)、ずぶ濡れ
装備:ヒグマの爪牙包丁
道具:なし
[思考・状況]
基本思考:料理人としてヒグマも人間も癒す。
0:もどかしいなぁ……。料理以外出来ない私が……。
1:ヒグマの皆さんも、人間の皆さんも、格好良かったです……!
2:研究所勤務時代から、ヒグマたちへのご飯は私にお任せです!
3:布束さんに、落ち着いたらもう一度きちんと謝って、話をします。
4:立ち上げたばかりの屋台を、
グリズリーマザーさんと
灰色熊さんと一緒に、盛り立てていこう。
【間桐雁夜】
[状態]:刻印虫死滅、それによる内臓機能低下・電解質異常、バリキとか色々な意味で興奮、ずぶ濡れ
[装備]:なし
[道具]:なし
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯を桜ちゃんの元に持ち帰る
0:くそ、打つ手なし……!? どうにかできないのか!?
1:俺の
バーサーカーは最強だったんだ……ッ!!(集中線)
2:俺はまだ、桜のために生きられる!!
3:桜ちゃんやバーサーカー、助けてくれた人のためにも、聖杯を勝ち取る。
[備考]
※参加者ではありません、主催陣営の一室に軟禁されていました。
※バーサーカーが消滅し、魔力の消費が止まっています。
※全身の刻印虫が死滅しました。
【四宮ひまわり@ビビッドレッド・オペレーション】
状態:疲労(小)、ずぶぬれ、寄生進行中
装備:半纏、帝国産二代目鬼斬り(2/3)
道具:オペレーションキー、龍田のワンピース、布束の制服、恵の割烹着
[思考・状況]
基本思考:この研究所跡で起こっていることの把握
0:……くそ眠い。
1:ネット上に常駐してるあのプログラムも、エンジンを止めた今無力化されてるか……?
2:龍田……、本当にありがとう。
3:れいちゃんは無事なんだろうか……!?
4:この根を張ってるとお腹が一杯になる。どうにかいい制御法があればいいんだけど。
5:間桐さんは変態。はっきりわかんだね。
[備考]
※鬼斬りに寄生されました。本人はまだ気づいていません。
※バーサーカーの『騎士は徒手にて死せず』を受けた上に分枝したので、鬼斬りの性質は本来のものから大きく変質している可能性があります。
††††††††††
「――ヨシ! やっと出られまシた!!」
巴マミの存在座標から直線距離で100メートル。
そんな距離にまで地下水脈を流されていたビショップヒグマが、魔力が切れて溶け落ちたガラス玉からようやく飛び出していた。
彼女は、上から流入する海水で水位の増している水脈の急流を、逆らうように跳ね泳いでゆく。
「待ってテ下さいジブリールさん、ナイト、皆さん……!! 私の名誉にかけて、きっと助けマス!!」
逆巻く波と同化して、トビウオのように、サメのように、ウミヘビのように、彼女は猛った。
「覚悟しテいなさい艦これ勢……ッ!!
ヒグマ帝国運営の荒波に揉まレ続ケたピースガーディアンの底力、見せてアゲマス――!!」
【C-6 地下の地下、地下水脈/午後】
【穴持たず203(ビショップヒグマ)】
状態:健康
装備:なし
道具:なし
基本思考:“キング”の意志に従う
0:スミマセンベージュさん……。アナタを救えなかった……!!
1:……どうか耐えていて下サイ、夏の虫たち!!
2:球磨さんとか、通信の龍田さんとか見る限り、艦娘が悪い訳ではナイんでスよね……。
3:ルーク、ポーン……。アナタ方の分まで、ピースガーディアンの名誉は挽回しまス。
4:シバさんとアイドルオタクは何やってるんデスかホント!! アーもう!!
[備考]
※キングヒグマ親衛隊「ピースガーディアン」の一体です。
※空気中や地下の水と繋がって、半径20mに限り、操ったり取り込んで再生することができます。
※メスです。
††††††††††
『――マミ!! 応答しろクマ、マミ!!』
巴マミの意識は、トランシーバーから微かに聞こえる球磨の声で眼を開けた。
数秒ほど、気を失っていたようだった。
「大丈夫か……、マミ……!?」
「デビル……」
体の周りには、温もりがあった。
デビルヒグマの毛皮が、彼女と、そして球磨川禊を柔らかく包んでいる。
それでも感じる重量感は、ここの天井が押し潰されたのだということを容易に思い出させた。
建物が倒壊したせいで波の勢いこそ収まってはいるが、押し潰され横倒しとなった体は、ほとんど海水中に没している。
デビルヒグマが咄嗟に自身の体で空間を確保しなければ、彼女たちはただちに圧死もしくは溺死していただろう。
……いや、溺死ならば、マミだけは大丈夫であろうが。
『マミ!! 下で何があったクマ!?』
「球磨さん……、魚雷で、壁と柱を倒されてしまったわ……」
『ほむらは!? 皆は!? 大丈夫クマ!?』
「私の他、今無事なのはみそくんとデビル。暁美さんたちは……、わからない。散り散りにされた……」
(――私なら殺されたわ)
「……暁美さん!?」
突入時から所持していたトランシーバーへなんとか口を近づけ応答していた巴マミに、暁美ほむらからのテレパシーが入る。
常人には意味不明な彼女の一言はつまり、ほむらはソウルジェムが無事なものの、その肉体は行動不能状態にされている、ということを意味していた。
ほむらの声はそのまま頭に響く。
(球磨に伝えて。さっき私たちを襲ったヒグマが上に行った。能力持ち。装備はソナーに見えた)
「――球磨さん! ソナーを持ったカスタムヒグマが上に行ったみたいよ!?」
『なっ――』
直後、トランシーバーの先はにわかに騒がしくなり、ノイズだらけになってしまう。
球磨や、上階にいるシンジやヒグマたちが、直ちに戦闘状態に入ってしまったのだろう。
(……球磨たちは地上にあがれなかったのね。完璧に塞がれているんだわ。
襲撃の手口からして、上の病院を発電機ごと倒壊させた……?)
「暁美さん……! 今、あなた、どこに……!?」
(診療所の2階だったフロアに、頭を砕かれたまま浮いてる。私はいいから、無事な人を早く集めて。
特に纏流子を早く……。一番動ける戦力なのに、このままじゃ、間違いなく殺される……!!)
平静を装おうとしているが、ほむらのテレパシーは震えていた。
どんどんと塞がれ、壊されてゆく希望の分岐の先を必死に手繰ろうとして足掻いている彼女の姿が、ありありと想像された。
巴マミは、固い唾を飲む。
「どうすればいい……!? どうすればあなたを支えられるの、暁美さん……!?」
先輩として。ヒトとして。正義の者として――。
いや、そんな題目など最早どうでも良かった。
巴マミはただその孤独なリーダーの背中に、寄り添っていきたかった。
(とにかく下から出て!! すぐにそこは水没するわ……!!)
「デビル……、みそくん……。外に、出られる……!?」
返ってきたのは自明の指示だ。
しかし、マミは首まで水没しながら、躊躇せざるをえなかった。
振り向いた先で血まみれの球磨川禊は、がたがたと震えていた。
薄い病衣一枚の状態で、大量出血した体を、冷たい北海道の海水につけているのだ。
デビルができる限り彼の体を上に持ち上げて水濡れする面積を少なくしているが、それでも限界はある。
このまま診療所の外まで、倒壊した瓦礫の下を潜水で抜けるなどという無理をさせれば、それだけで死んでしまいかねない。
だが球磨川は、血に濡れた虚ろな目を向けて、しゃがれた声で言う。
『……僕は、大丈夫だよ。流子ちゃん、止めに、行かないとね……』
しかしその声は、カッコをつけてるようにしか聞こえない。
「全く大丈夫に見えないわ……。まずあなたを、どこか安全なところに連れて行かないと」
『安全なとこなんて、ないだろ……? 馬鹿言わないで、くれ、マミちゃん……』
「マミ……、恐らく1ターンの猶予もない。まずお前から潜って抜けてくれ。
どちらにしろ私はこの体では抜けられん。瓦礫を退かしつつ球磨川と出るから……!!」
そのマミと球磨川の間に割って入ったのはデビルヒグマだった。
有無を言わさぬ、強い口調だった。
マミは一瞬、躊躇った。
「……任せてくれ。マミ」
「……わかった。あなたを信じてるわ。デビル」
デビルの瞳は、暗い水面でも力強く輝いて見えた。
巴マミはそっと彼の頬に触れて、水面下に潜って行った。
「……マミちゃん、行かせて、良かったの? 僕なんかより、マミちゃんに君は……、ついて行きたかったはずだ」
「……みそくん。お前たちには、感謝しなければならないからな」
巴マミの気配が去ってから、球磨川は微かな声で言った。
デビルヒグマはその巨体で、崩落した天井を押しのけ、ゆっくりと進んでゆく。
「マミの誇りを、取り戻してくれた。見違えるようだ」
『……なるほど。マミちゃんに惚れ直した、と』
軽口のようなその球磨川の言葉に、デビルヒグマは笑った。
「なるほど。そうかも知れん」
『あれ……? 今回は「黙れ」、って言わないの?』
「見ているだけで心が瑞々しくなり、声を聞くだけで意気が高まり、触れられるだけで力が漲るこの感情が。
……『愛』とか『好き』という言葉で定義されるなら、その通りだから、な」
デビルヒグマの穏やかな声に、球磨川は目を閉じる。
『ヒグマのデレ期……。これは、明日は雪だな……』
「……貴様。話を茶化さねば気が済まん病気か?」
「病気なのは、僕以上に、襲撃者さんの『好き』、だよ」
球磨川の語るのは、ここを襲った艦これ勢の力だ。
ヒグマ帝国とやらを蹂躙し、揃いかけていた自分たちの勢力までも、こうも見事に分断してのけた力。
擬人化された軍艦への歪んだ愛が、きっと彼らにそれだけの力をもたらしたのだろう。
純愛だろうが偏愛だろうが、善悪貴賤なくそれはきっと、大きな力の、源なのかも知れなかった。
「ジャンくんも……、ほむらちゃんも……、僕には及びもつかない『好き』を持ってた……。
ヒーローには……、そんな人しか、なれないんだ……、きっと……」
肩にかかる吐息は、澱んだ冷たさだった。
デビルヒグマが何度も対戦相手から嗅いだことのある、何もかもを諦めた、敗者の吐息だった。
その吐息にはあたかも、少年の人生が煮凝りになっているようだった。
「なんでかな……。また勝てなかった。いつも、勝とうと踏み出して、負けるんだ、僕は……。
きっと、僕にも……、もっと本気の……、『好き』があったら、良かったのにね……」
瓦礫を押すデビルヒグマの肩に、血とは違う、熱い水が流れていた。
彼は前を向いたまま、肩の少年に、静かに言った。
「……貴様も、『好き』なんだろう?」
『……何が?』
「……マミのことが」
言ってデビルは、自分の鼓動が早くなっているのを、感じた。
「ほら、マミが勇気を出して戦いに行ったぞ。もっと興奮しろ。
華麗で優美なマミの姿が見られるのだぞ? 貴様も応援したくなるだろ?」
少年は笑った。
「はは……。まるで家族愛だね」
「……家族、か。それは良いな」
「確かに僕も、マミちゃんのアイドル姿なら、ちょっと見たいけどね」
「なんだと? それは私も見たいぞ? 艦これ勢も根こそぎだろうなァ」
大きなヒグマと交わす言葉一つ一つで、流れ落ちた熱と意志を少しずつ取り戻しながら、少年は笑った。
自分の全身に太いネジくぎのように突き刺さった『大嘘』の咎の痛みが、気のせいでも、和らいでいくように思えた。
……ありがとう。皆さん。
恩を返したいんだけれど。残念ながらこの病衣は長袖じゃないし、腕に力が入らないので振れない。
散々吐いてきた嘘を自分に憑き返されてズタボロの僕は、マイナスもマイナス、不良債権(どマイナス)だ。
こんな僕なんて、放っておいてくれればいいのにさ。
なんで皆さん、そんなにカッコ良いんだよ。
ジャンくん。
マミちゃん。
ほむらちゃん。
球磨ちゃん。
凛ちゃん。
流子ちゃん。
デビルさん。
シンジくん。
ありえねえよ畜生。
格好いいんだよド畜生。
僕が一生かけてカッコ付け続けても真似できない程に――。
なぁ頼むよ。居るのか知らない嘘憑きの神様。マミちゃんの巨乳様。
もう僕は、僕みたいなマイナスでみんなに過負荷を掛けたくない。
僕はもう負けていい。
一生のルーザーでいい。
だから頼むよ。みんなだけは幸せ(プラス)にしてくれ。
最後に敗者(ぼくたち)だけは、勝たせてくれ。
嘘でもいいから。
敗者(ぼくたち)の勝利を、現実(まこと)にさせてくれ――。
【C-6 地下・倒壊したヒグマ診療所1階/午後】
【球磨川禊@めだかボックス】
状態:疲労(最大)、パンツ病衣先輩、みそくん、大量出血、低体温、ずぶ濡れ、起源弾で全身の機能が破壊されている
装備:パンツ、病衣、マミちゃんへの『好き』
道具:基本
支給品、ランダム支給品0~2(治療には使えないようだ)
基本思考:「もう僕は、僕みたいなマイナスでみんなに過負荷を掛けたくない」
0:「マミちゃんやみんなだけは、勝ってくれ」
1:「勝て」「勝つんだ」「僕は命がけで応援する」
2:「みんなの『好き』が負けるはずない」「負けていいはずがない」「マミちゃんも巨乳だしね」
3:「凪斗ちゃんとかもうどうでもいいから」
4:「アイドルとかゲームとかもうどうでもいいから」
5:「でもマミちゃんのアイドル姿なら大いに見たいよね!!」
[備考]
※所持している過負荷は『劣化大嘘憑き』と『劣化却本作り』の二つです。どちらの使用にも疲労を伴う制限を受けていましたが、そんな制限はなくなりました。
※また、『劣化大嘘憑き』で死亡をなかった事にはできません。
※首輪は取り外されました。
※起源魚雷に干渉してしまったことで過負荷ごと全身をメチャクチャにされてしまいました。
※それでも無理に『劣化大嘘憑き』や『劣化却本作り』を使用しようとすると、たった一つで負荷に耐えきれず死亡するでしょう。
【穴持たず1(デビル)】
状態:疲労極大、ずぶ濡れ
装備:伏せカード(【和睦の使者】)
道具:マミへの『好き』
基本思考:満足のいく戦いがしたい
0:マミが……、そして、彼女の愛する者たちが、心配だ。
1:ヒグマ帝国……、艦これ勢……、一体誰がこんなことを?
2:私は……マミに……、惚れているのだろうな。
3:そのマミへの好意が、私の新たな信念だ。
4:アイドルといい、艦娘といい、大丈夫かこの国は?
5:だがマミのアイドル姿なら大いに見たいよなぁ!!
[備考]
※デビルヒグマの称号を手に入れました。
※キング・オブ・デュエリストの称号を手に入れました。
※
武藤遊戯とのデュエルで使用したカード群は、体内のカードケースに入れて仕舞ってあります。
※脳裏の「おふくろ」を、マミと重ねています。
※暁美ほむらの令呪で、カードの具現化が一時的に有効化されています。
††††††††††
「父さんは言った!! このハサミを持っていれば、必ず自分を殺した相手にたどり着くと!!
……その通りだったよ!! あの時私の家にいたのはお前だなァ――!?」
「くけけけけ、そうでちそうでち」
巴マミが、息止めから水上に顔を出した時、水面の向こうでは激しい打ち合いの音が聞こえた。
神衣鮮血を纏った流子が、鬼神のようにその片太刀バサミを少女に打ち付けている。
対するスクール水着の少女は、流子と同じく灰色の片太刀バサミを持っていながら、それを使うことすらなく、空いている片手で流子の猛攻を難なくいなしている。
その腕は、不釣合いに巨大なヒグマの前脚だった。
「纏さん――!?」
その襲撃者の少女に対する流子の憤怒は、一見しただけでも常軌を逸していた。
巴マミは、暁美ほむらの盾の中で、流子の身の上のサワリも確かに聞いている。
父親の仇である『片太刀バサミの女』を彼女が探していることは、知っている。
だからこの現場を見ただけで、彼女がその襲撃者を、父親を殺した犯人だと思い込んでいることが、理解できた。
「――やめて纏さん!! その子があなたの親の仇なわけ、ないわ――!!」
そして、少し考えれば解る事だ。
このSTUDYとかいう会社の研究所で、隠れて建てられたヒグマ帝国で、さらに隠れて広まった艦これ勢のヒグマという存在が、わざわざ半年も前に彼女の父親を殺しにのこのこ本州までやってくることなど、有り得ない。
そんな可能性はケシ粒にも満たない。
仮にあったとしても、その仮説は、もう一つの事実によって即座に否定される。
――スクール水着の少女が持っている灰色の片太刀バサミだ。
「何故だ!? 何故父さんを殺した――!!」
「くく、貴様のゴミ親父でも、カケラくらいは我らヒグマの役に立つかと思われたからゴーヤイムヤ自ら出向いてやったでち。
ま、でもそれも期待はずれ。金魚のフンほどの価値もなかったから、始末しといただけでち」
「じゃあ、あの時私が見たのは、お前だったのか――!!」
「あは、一緒にカトンボも潰しておけば、五月蝿くなくて良かったでち?」
「ふざけたことを――!!」
「熱くならないで纏さん――!! 適当に言ってるだけよ――!!」
興奮した流子に、マミの声は全く届いていない。
マミは水の中を必死に走った。
――あれは流子の持つハサミの片割れでは、有り得ない。
美容や服飾に気を使っている者なら、解る事だ。
ハサミというものには、動刃と静刃がある。
特に理容や仕立てに使うハサミはその構造の違いが顕著であり、その構えも実態に即さねば有効に使えない。
その剪断の際、能動的に切断を行なう刃が動刃であり、それを受け止めるのが静刃だ。
実際には、静刃にも刃付けが為されているために、静刃だけでも切断を行なうことができ、一般人にその動静刃の判別を困難にさせている。
動静の区別がはっきりと一目でわかるのは、梳きバサミくらいだろう。
しかし、流子の持つ片太刀バサミの形状は、ラシャ切りバサミの静刃だ。
対応する片割れのハサミは、動刃でなくてはならない。
4本の指で支える方が静刃で、親指で力を込めるのが動刃だ。
直刃になっている流子の片太刀バサミに対し、片割れは程度の違いこそあれ曲刃になっていなければおかしい。
スクール水着の少女の持つハサミは、完全に流子の鋏をコピーしたようなものに過ぎなかった。
明らかに、流子を動揺させるために即席で作り上げられたものに違いない。
「そんなにゴミ親父の後始末をしたいでち? 無理無理、貴様は海の藻屑になるにも力不足でち」
「言、わ、せ、て、おけば――!!」
「ほれ、ゴミはゴミに還すでち。ぽきん」
スクール水着の少女は、流子の剣先から跳び退り、その手に掴んでいた灰色の片太刀バサミを、真っ二つに折っていた。
ヒグマの爪でばきばきと砕かれてゆく父親の形見の姿を見つめ、流子は眼を見開き、震えた。
「いつ捨ててやろうか悩んでたところだったでち。貴様もすぐ、親父と同じゴミにして捨ててやるでち」
「て、め、えぇぇぇぇええぇええぇぇぇえぇえぇェェェェ~~――!!!」
(やめろ流子!! その血の熱さは危険だ!! このままだと私は――)
その時、中空に震える流子の服の叫びが、巴マミにも聞こえたような気がした。
ソウルジェムに直接響いてくるような。
マミが夜の見滝原で、何度も感じたことのある、悲痛な響きだった。
(じぶ、んを、保、て、ない――!!)
流子の腕に沸騰していた血液が、水上に迸った。
彼女の全身から、暗闇にも映える大量の血液が吹き散る。
そのセーラー服が。
神衣鮮血が、啼いた。
「ヴ、お、オ、ォぉ、ヲ、を、お、ォオォォォォォ――ン……!!」
迸る血液を吸って肥大したそれは流子の体を一気に呑み込み、内部でぐしゃぐしゃと圧潰させてゆく。
「あ、ああ――……」
「くけけけけ。これでカトンボからヤンマくらいの歯ごたえにはなったでち?
ゴミ女のくせに多少は潜水艦の才能があったでち。それくらいは無いと喰いでが無いでち」
巴マミの視線の先で変貌した纏流子の姿は、一回りも二回りも巨大化していた。
その真っ黒なセーラー服は刺々しく角張り、全身からは血が滴り、その肌は気味の悪い緑色となっている。
高温の血液は熔岩のようになり、水面に滴るごとに音を立てて水蒸気をあげる。
彼女の首は左肩から生え、乱杭の牙が、振り乱された髪に届く程にまで伸びて口外に溢れている。
黄色く濁った不揃いな眼球は、怒りに歪み切っていた。
「ごオおォヲぉオおぉォォぉォオ――!!」
彼女はヒグマのものよりも巨大になった左腕をシオマネキのように振り上げ、吼えた。
「これが、魔女、化……、なの……?」
巴マミは、びりびりと自分の身を震わせる、瘴気のようなその威圧感に歯を鳴らした。
魔女化。
暁美ほむらから伝えられていたその事象が、今、目の前で起きてしまった。
希望を願ってそのソウルジェムを生み出した、魔法少女。
絶望に濁ったそのソウルジェムから生まれる、魔女。
纏流子は自分の存在を、魔法少女とは違うと、断じた。
だが巴マミには、やはり彼女が自分たちと違うとは、思えなかった。
『生命戦維の破壊衝動に飲まれる』というその現象は、確かに魔女化とは違うのかも知れない。
だが目の前で猛り狂う異形の存在は確かに、彼女の絶望の成れの果てであった。
「――纏さぁん!!」
巴マミは走った。
必死に水を掻き分け、纏流子を何とか正気に戻そうと、大きな音を立てて、近づいた。
「グるるルるルアァあぁァァ――!!」
「……やはり水上艦は馬鹿ばかりでち」
見滝原で魔女と出会った時にそんなことをしたら、自殺行為に違いなかった。
「――あ」
振り向いた纏流子の、濁った瞳と目が合った。
そう理解した瞬間、マミの体を赤い疾風が通り過ぎていた。
反応できないほどの超高速で、流子の右腕に同化した片太刀バサミが振るわれたのだとマミが気付いたのは、その次の瞬間だった。
纏流子の威容を透かしてその奥に、嘲笑を浮かべる少女の姿が見えた。
「……任務の成功を司る潜水艦に歯向かう者、死、あるのみ。
潜水艦は最も海の深淵に近付く者……。自ずと艦娘の深き力も強くなるでち。
山の神(キムンカムイ)の力に深き海神(わだつみ)の力を加えた我が第十かんこ連隊『潜水勢』こそ、最強でち!!」
巴マミの胴体は、その声を聞きながら、真っ二つになっていた。
くるくると宙に刎ね飛ばされた上半身は、輪切りにされた腰から血飛沫を吹く自分の下半身を水面に見た。
そんな自分の負傷など、どうでも良かった。
自分だけでなく、纏流子の体からもそんな真っ赤な血が溢れているのが見える。
それが流子の流す涙のように、巴マミには見えた。
水柱を立てて水面に落下したマミは、上半身を水没させながら、血の溢れる咽喉に声を絞った。
「纏、さ……!!」
「……この第十かんこ連隊連隊長ゴーヤイムヤのデザインで、欠片でもその深き力を得られたなら。
……感謝して沈むでち。ゴミ女」
異形に変じた纏流子の背後で、ゴーヤイムヤと名乗る少女が魚雷発射管を構える。
それが、マミの上半身が沈む前に見た、最後の映像だった。
《BURSTED RYŪKO(暴走流子)
ハサミトギの魔女。その性質は断定。追いかけたその先に憎しみしか見つけられなかった魔女。
彼女はハサミを研ごうとし続けたのだが、そのハサミは何故か鈍り続けた。
本当にきるべきものは目に入らず、彼女はそのハサミを闇雲に血塗らせることしかできない。
父親が本当に遺してくれたものはどこにあるのか、もう彼女には見つけられない。》
……待ってて纏さん。
私が、あなたをきっと元に戻す。
あの時あなたが私を掬ってくれた分。
今度は私があなたを救って見せる。
私も、あなたと、同じだから。
私と、あなたは、絶対に違うはずだから――。
かたみに別れた巴マミは、彼女のかたみを取り戻すべく、水底に拳を握る。
【C-6 地下・ヒグマ診療所前/午後】
【巴マミ@魔法少女まどか☆マギカ】
状態:胴体切断、出血
装備:ソウルジェム(魔力消費(大))、省電力トランシーバーの片割れ、令呪(残り2画)
道具:基本支給品(食料半分消費)、ランダム支給品0~1(治療に使える類の支給品はなし)
基本思考:正義を、信じる
0:纏さん……、あなたを絶望から、きっとすくい上げてみせる。
1:殺し、殺される以外の解決策を。
2:誰かと繋がっていたい。
3:みんな、私のためにありがとう。今度は、私が助ける番。
4:暁美さんにも、寄り添わせてもらいたい。
5:ごめんなさい凛さん……。次はもう、こんな轍は踏まないわ。
6:ヒグマのお母さん……ってのも、結構いいんじゃない?
※支給品の【キュウべえ@魔法少女まどか☆マギカ】はヒグマンに食われました。
※魔法少女の真実を知りました。
【暴走流子@キルラキル】
[状態]:生命戦維暴走、大量出血、脚部にデーモンの刺傷
[装備]:片太刀バサミ@キルラキル、鮮血@キルラキル
[道具]:基本支給品、ナイトヒグマの鎧、ヒグマサムネ
[思考・状況]
基本行動方針:縺カ縺」縺溘℃繧九縺カ縺」縺溘℃繧九縺カ縺」縺溘℃繧九縺カ縺」縺溘℃繧九
0:谿コ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎ョコ縺呎
1:縺ゥ繧薙↑繧ゅ�縺ァ繧ょ�繧後k繧医≧縲∝ソ�コォ繧偵∫�斐$縲�
2:繝峨Ν繧ェ繧ソ縺ィ縺玖襖縺薙l蜍「縺ィ縺狗衍繧峨�縺�h縲ゅヰ繧ォ縺ェ繝偵げ繝槭�縺ィ縺」縺ィ縺ィ貊�∋縲�
3:繝偵ヨ蜷悟」ォ縺ョ縲∵ョコ縺怜粋縺�↓蟇セ縺吶k謚オ謚励r窶ヲ窶ヲ縺吶k縺ッ縺壹□縺」縺溘∵ー励′窶ヲ窶ヲ
4:譎コ蟄舌ゅ&縺ィ繧翫ゅ⊇繧繧峨�繝溘∩縺昴¥繧凪ヲ窶ヲ縲ゅ☆縺セ縺ュ縺�縺吶∪縺ュ縺�縺吶∪縺ュ縺�
[備考]
※鬥冶シェ縺ッ蜿悶j螟悶&繧後∪縺励◆縲�
※蠖シ螂ウ縺ョ險闡峨r閨槭¥縺ォ縺ッ『utf-8→sjis』縺ォ繧ウ繝シ繝峨r螟画鋤縺吶k
【ゴーヤイムヤ提督@ヒグマ帝国】
状態:『第十かんこ連隊』連隊長(潜水勢)
装備:61cm四連装(起源)魚雷、水着、今までに喰い溜めた胃石
道具:潜水技術、デザイン力、胸まで開く口
[思考・状況]
基本思考:最強の技術力で艦これ勢に奉公し、ヒグマ帝国を乗っ取る
0:ロッチナの下で敵に密かに近づいて、確実に沈める。
1:潜水艦の力を、その強さを示すことで布教する。
2:邪魔なヒグマや人間や敵艦は指令通り沈める。
3:暫くの間は
モノクマに同調する。
※艦これ勢黎明期に自分の身を艦娘製造の実験台として使ったマッドエンジニアであり、実験段階だった建造により伊58と伊168の体半分ずつにヒグマの手足がついたような体になっています。が、満足しています。
※そのデザイン力で、改良型の艦娘製造機や、起源弾の効果を持たせた装備などを即座に開発しています。
※口が深海魚のように胸まで裂けており、咬合力の強い牙で様々な物を自在に噛み砕くことができるほか、細かい精密工作、口腔内圧を使った空気砲のような用途にも使用できます。
※潜水艦は最強だとしか思っていません。
※『第十かんこ連隊』の残り人員は、ゴーレム提督、デーモン提督含め48名です。
††††††††††
激しい振動の後、球磨たちが立っていた3階の床は一気に、3メートル近くは落下した。
ただでさえ塞がれていた天井は、壁だけ残して剥がれ離れ、6メートル以上も離れた手の届かない高みに行ってしまう。
急いでシンジやヒグマたちの体勢を立て直し、球磨が取り出したのは、トランシーバーだった。
その片割れは、階下の巴マミが持っている。
こんな異常時だ。
連絡と安否の確認を取らなければ、事態は致命的になりかねない。
そしてその向こうから返ってきた報せは、球磨の毛根を一気に逆立たせた。
『――球磨さん! ソナーを持ったカスタムヒグマが上に行ったみたいよ!?』
「なっ――」
「それは俺のことかな?」
信じられない程の近くから、ヒグマの声がした。
振り向いた球磨の、マンハッタン・トランスファーの視界に、ヒグマのような塊が既に階段を上り切っているのが見えた。
気づかなかった。
物音も、空気の動きも、何故かほとんど感じ取れなかった。
「てめぇかぁ、艦これ勢――ッ!!」
「死にさらせ、変態野郎――ッ!!」
階段の脇で、最もその敵ヒグマの近くにいた二頭、梨屋と稚鯉が、匂いを頼りに暗闇で一気に飛び掛かっていた。
球磨には、嫌な予感がした。
マンハッタン・トランスファーで捉えている彼らの周囲の気流の輪郭。
それが明らかに、敵ヒグマの周りだけ、曖昧だった。
輪郭が、ぼやけていた。
「……怖いなぁ。ああ、闇は怖い」
「うぇ――」
敵ヒグマは、左右から迫る二頭に対し、わずかに前進したように見えた。
その動作が、前脚の爪を振り抜いた稚鯉の腕をすり抜けたように、球磨には感じられた。
稚鯉は何かを踏んでしまったかのように、爪を振りながら唐突に滑った。
「――ひぎゃああぁぁあぁ――!?」
そしてつんのめったその爪は、反対側から向かっていた梨屋の顔面を、深々と抉っていた。
そのダメージは、彼の記憶の、深くに刷り込まれた恐怖を呼び起こすものだったらしい。
梨屋はそれだけで、一気に恐慌状態に陥る。
彼は叫びながら、不意に与えられた攻撃に、慄きと共に応戦した。
「ぬ、のたばぁァ~~――ッ!!」
そして彼は、自身の顔面に『ビンタを喰らわせた』相手に、破れかぶれの一撃を繰り出す。
恐慌に陥ったのはしかし、つんのめった稚鯉も同様だった。
彼は『自分を転ばせ、そして次に自分を踏みつけようとしているだろう』相手に、一気に跳ね起きながら攻撃していた。
「うぎゃぉおオォ――!!」
「しぎゃイぇァぁ――!!」
上下から、ヒグマが互いの渾身の力を込めて、爪を振り下ろし、振り上げる。
そしてそれは過たず、互いの相手の顔面にクロスカウンターとして決まり、その頭蓋を粉砕していた。
梨屋と稚鯉。
穴持たず748・布束さんにビンタされたヒグマと、穴持たず751・布束さんに踏まれたヒグマは、そうして共に、恐れ戦いたまま息絶えた。
「なぁっ――!? 布束さんだとぉ――!?」
「くそっ――、内通者だったのかァ――!!」
その恐怖は、少しフロア側の位置にいた、千代久と名護丸にも伝染していた。
まるで猫に相対した窮鼠のように、彼らは、敵が歩む匂いの、だいたいの位置に飛び掛かる。
「ガアッ――!!」
「シャァ――!!」
そして千代久のフライングドロップキックは、敵の曖昧な輪郭を、すり抜けた。
代わりに彼は、同時に突き出されていた名護丸の拳にカウンターでぶつかり、首を折られていた。
「――あぁ!? まさか、千代久――」
「おお、なんとも恐ろしいことだな……。よく聞こえるぞ。お前らの恐怖は」
名護丸はその異様な手応えに、同志を殴り殺してしまったことを悟る。
だが彼はその時、敵の曖昧な輪郭に、裏へ回り込まれてしまっていた。
「……然らば、後を追って沈もうか」
「ひぃ――!? やっ、ぬの――」
そして命乞いする間もなく、彼は、背後から組みついた敵に、ぐりん、と首を180度捻られてしまっていた。
千代久と名護丸。
穴持たず749・布束さんにフライングドロップキックしたヒグマと、穴持たず750・布束さんに命乞いしたヒグマも、そうして共に、恐れ戦いたまま息絶えた。
【穴持たず748(梨屋) 死亡】
【穴持たず749(千代久) 死亡】
【穴持たず750(名護丸) 死亡】
【穴持たず751(稚鯉) 死亡】
「な、あ……!?」
その一部始終に、碇シンジと球磨は瞠目していた。
4頭のヒグマたちが瞬く間に殺害されたその現象は、彼らの理解の外だった。
「心には下行く水の湧き返り……、言わで思うぞ、言うに勝れる」
敵のヒグマは曖昧な輪郭のまま、物音を立てぬ擦り足でゆっくりと近付いてくる。
そのヒグマの纏う気流が、いつの間にか、碇シンジの足元にまで伸びていることに、球磨は気づく。
「シンジくん危ない!!」
「くっ――!?」
シンジは咄嗟に、暗闇にほとんど視界を確保できないながら跳び退った。
何かが微かに、脚に触れたように感じた。
「大丈夫です――! ちょっと触られただけ……!」
「何だか知らねぇが撃ち抜いてやるクマぁ!!」
「いいのか? 下手な砲撃でこれ以上診療所が崩れても知らんぞ?」
曖昧な輪郭の敵は、14cm単装砲を構える球磨に向けて、牽制するようにそう言い放つ。
一瞬躊躇した球磨の前に、シンジが踏み出す。
「僕が、僕がやります、球磨さん――!!」
「ほう、聞こえるぞ少年。よく勇気を出した。逃げたら居場所が無くなるものなァ?」
「なっ、お前……!?」
そのシンジに向けて、ヒグマは何か、シンジの心を読むかのような発言をした。
それは曖昧な含意ではありながら、確かにシンジの行動の根底を見透かしているかのような言葉だった。
球磨は動きを止めたシンジに、発破をかけた。
「おい、耳を貸すなクマ!! 当て推量だ、気にすんじゃねぇクマ!!」
「おぉ――、行けっ!! あのヒグマを狙うんだ!! 狙えッ!!」
「……なるほど確かに、俺はお前の詳しい事情までは知らん」
球磨の声に、シンジは走り出しつつ、デイパックからエヴァンゲリオン初号機を取り出そうとした。
今度は、電気を使う相手だったり、人質を取られたりしている訳ではない。
エヴァの力であれば、このヒグマにも勝てる――。
シンジと球磨は、そう確信した。
そして確かに、それはそうかも知れなかった。
「――え」
だが、シンジがデイパックを開いた瞬間、彼の手は突然、途轍もない重量を感じて床に落ちた。
つんのめったシンジのデイパックからは、弾け出すように何か巨大なものが溢れ出してくる。
デイパックの下敷きになったシンジの両手が、べきべきと音を立てて砕けた。
「――い、ぎゃぁああぁぁあぁあぁあぁ~~――!?」
「……だが蛮勇は視野が狭い。結局のところ、自滅するのが、お前の心の果てよ」
「オォ……アァ……」
溢れ出てきたのは確かに、エヴァンゲリオン初号機だった。
それも、『上半身だけで、崩落した3階から病院の床の高さにまでつっかえる』ほど巨大な機体だ。
――示現エンジンの停止は、これらに掛かっていた大きさの制限までも、解除してしまっていた。
その巨大な威容はしかし、腕さえデイパックから出せず、かといって、ぎっちりと天井につっかえた頭と肩は易々とデイパックに戻ることもならず、身動きを封じる地下の空間に呻き声を上げていた。
シンジは歯噛みして叫ぶ。
「くそ――!! やれ!! 構わずに、壊すんだ――!!」
「シンジくん、馬鹿、やめろクマ!!」
「そうだ、やめておけ少年。ゴーレムの閉塞させた瓦礫が降って来て、お仲間もろとも圧死だぞ」
エヴァを完全に外に出してしまえば、崩れた天井から、上の崩落した総合病院が丸ごと降って来て、全員生き埋めになることはほとんど確実といえた。
シンジは腕を潰された痛みに耐える以外に、もはや何の行動も取れない状態になっていた。
「生き物の感覚は騙されやすい……。お前らはみな現実を騙し絵にして、その心が見たいものを見ているだけに過ぎない。
全ては心の赴く錯視であり、錯聴。オレは穴持たず666・デーモン提督……。潜る心を浮かばせるブループだ。
艦これ好きのよしみ。せめて目一杯、お前は心の欲するところを叶えてから沈めてやろう。球磨よ」
ヒグマは、歯噛みして身構える球磨に、静かに語り掛けた。
(くそ。一体こいつの能力は、何なんだクマ!?)
気流で探知しても輪郭の曖昧なそのヒグマは、確かにマミから通信されたとおり背部に、大きなソナーを背負っている。
(三式水中探信儀と九三式水中聴音機……。音の送受に特化してるクマ。
これだけ特化して装備してたら、水中と、そして地中に音を通して地上と連携が取れてもおかしくない)
身構えたまま、球磨は打開策を得るために、下層のマミへのトランシーバーを取ろうとする。
しかしそこに聞こえるのは、単なるノイズだけだった。
「……どこぞに通信するつもりか? もう無理だぞ?」
(ちぃ……、『ブループ(低周波音波)』って、クソ、近距離には妨害音まで出してるクマ!?)
間合いを維持したままじりじりと後退する球磨に、デーモンと名乗るそのヒグマは、その行動を見透かしたように語り掛けてくる。
このヒグマが足音を立てずに移動し、気づかれぬうちに接近してくるのも、恐らく、聞こえるか聞こえないかという音を周囲に流し、それによって自身の動作音をマスクしているからに違いなかった。
(だが、この妨害音は多分探針儀の応用……。こいつの謎は、輪郭と、そして間合いがぼやけ続けていることクマ……!!
何故クマ!? なんで曼哈頓水偵でも、こいつを捉えきれんクマ……!?)
碇シンジが行動不能にされた遠因は、このヒグマからいつの間にか『遠距離から触れられていた』というその不可解な現象にあると思われた。
梨屋を始めとする4頭が恐慌を起こして死に絶えたその発端も、同じ能力に起因するものに違いない。
ギリギリと歯を噛む球磨の前には、宙を揺蕩うクラゲのようなビジョンが、次第にはっきりと現れてくる。
現在の球磨が装備する水上偵察機。
それはディスクに封じられた、『スタンド』と呼ばれる精神エネルギーそのものだ。
球磨はふとそこに、『妖精さん』が乗っているのを見る。
偵察機を正確に操縦する、仕事人の魂が呼びかけてくる声を、感じた。
『――風の「動き」は、予測できないと博物学者は言う。一理ある。
だが、決して読めないわけではない――』
曼哈頓水偵(マンハッタン・トランスファー)の操縦士は厳かに、球磨の耳元に囁きかけていた。
『――この「風」は、気まぐれな動きで流れているのか? 違う。
周囲の気温だとか、物体の動きに追随して流動している……』
ヒグマの輪郭がぼやけているのは、そこの気流が、乱れているからである。
気流が乱れているのは、そこに何かが、蠢いているからである。
暗い視界の中で、意識の死角に潜り込むような、微かな何かが――。
『心を研ぎ澄ませろ……。風は……、「何」の動きだ――?』
その瞬間、括目した球磨の目は、その「何か」を捉えていた。
「くおっ――!!」
「ぬ……? 見切られた……? この暗がりで、音も紛れさせているというのにか……?」
球磨はその手のシャッター棒を打ち払いながら、一足飛びに後方へ跳び退った。
シャッター棒はその空中に、何か微かな繊維の束を振り払っている。
「これは……、毛!? しかも、なんて長さクマ!! 5メートルはある……!!」
「ふむ、初見で俺の触手が見切られたのは初めてだ。流石に優秀な球磨ちゃんだな……。水上艦とはいえ尊敬に値する」
デーモン提督の体から伸びている体毛は、細く、長く、そしてその大部分がまるでクラゲのように半透明になっていた。
よほど集中して認識の解像度を高めなければ、五感によらない気流探知でも周囲に溶け込んでしまうほど、その毛は微細であった。
その長さと本数は、球磨が気流の精査から概算した限りでも、半径5メートルの空間を埋め尽くしている。
彼は目で見えるよりも遥かに巨大な攻撃間合いを有しており、そしてそのぼやけた輪郭の中心にある肉体は、比較すれば非常に小さなものになってしまっているのだ。
細いその触手に触れられても、微かなその感触には、下手をすれば気づけないこともままあるだろう。
「クラゲは、海に漂える悪魔……。お前もその触手に、毒があるんだろクマ!?」
「その通りだが、俺の毒はそれほど強くも痛くもない。せいぜい多少、刺した相手を『興奮』させてやれる程度のものだ」
シャッター棒に打ち払われた細い毛を自身の方に戻しながら、デーモン提督は語る。
相手を、『錯覚』によって眩惑し、常軌を逸した『興奮』状態にして己を見失わせることによって裏をかく。それがこのヒグマの戦法だった。
しかし球磨に自身の能力を言い当てられても、その落ち着いた態度は崩れない。
体の周囲に密に集約されると、その触手の束はあたかも分厚いクッションのようだった。
かなりの口径の弾丸でも受け止めて弾いてしまうだろう、攻防一体の盾だと言える。
球磨には、打つ手がなかった。
デーモン提督は、一本一本では細く弱いその毛の触手を、ぐるぐると数十本の太めの束に纏めてゆく。
体からうねうねと生える多数の触腕はその透明性を失い、既に気流探査でなくともはっきりと見える。
そのイカのような姿は、もはや隠れる気のない、戦闘態勢だと言えた。
「さて……、本来ならば気付かれず心を浮かばせてやるのが趣深いのだが。致し方あるまい」
「くっそ、イカ臭ぇ野郎だクマ……。不知火海じゃねぇんだぞ……ッ!?」
球磨の叫びに合わせ、デーモンから触手が走った。
咄嗟に、球磨はその手のシャッター棒で再び迎撃を試みる。
「な――、――ぐはぁ!?」
だが、束ねられた触手の速度と威力は、細く軟弱だった先程とは段違いだった。
球磨は受けたシャッター棒ごと床に叩き付けられ、瞬く間に触手に絡め取られてしまう。
触れられている手足に、微かな痒みを感じた。
「球磨さん……ッ――!!」
「く、球磨をこんな姿にするなんて……! 屈辱だクマ……」
球磨は、呻くシンジが見上げる目の前で、両手両足を縛り上げられ、身動きの取れない状態にされてしまう。
デーモン提督は極めて落ち着いた声で言った。
「……さて、お前の心だが。いつも任務で奮戦しているお前のことだ。
提督には精一杯、ぬいぐるみのようになでなでしてもらい、癒されるのが望みなのだろう?」
「なっ……!? 何を言ってるクマ!? 全然真逆だクマ!! ぬいぐるみじゃねークマ!!」
「はっはっは。自分に正直になれ。まぁ、俺の毒で『興奮』すると、そういった心のタガも外れていく。安心しろ」
「安心できるかこの、だら(馬鹿者)がァ!!」
抵抗し、身もだえする球磨を無視して、デーモンの触手は容赦なく彼女をなでなでした。
頭も首筋もうなじも腕も脇の下も。
胸も脇腹も下腹部も太腿も膝の裏も。
服の下にまで入り込んで丹念に撫で回していく。
そのくすぐったい感触に、球磨は悶絶して身を捩る。
そして触手に撫でられた場所はどんどんと痒くなり、熱を帯びてくる。
球磨はその感触に、ハッと思い至るものがあった。
「……ひ、ひぃ……。こ、これ、『興奮』とか言って、お前、これ、は……!?」
「まあお前への効果はさしずめ、『いもの葉に、置く白露のたまらぬは、これや随喜の涙なるらん』だ」
「ひぃ――、『肥後ずいき』――!? 冗談じゃねぇクマァ!?」
球磨はその歌の意図するものに即座に思い至り、絶叫する。
ずいきとは、熊本名産の芋の茎のことで、保存の効く和食に使われる以外に、その成分を利用して、局所の血行を良くする道具としても用いられる。
デーモンはにっこりとした。
「なんだ、知っているんじゃないか。遠慮しなくていいぞ。減るものではない」
「ううっ……!! あふっ……、こんな人前で……ッ、くそ、やめろクマ――、あうっ……!?」
「え、ひ、肥後ずいきって……? え……!?」
熱を帯び、徐々に鼻に掛かってくる球磨の喘ぎに、シンジは両手を潰されたまま、困惑の表情を浮かべた。
どんどん痒くなる全身の皮膚表面を撫でられるたびに、球磨の背筋には言いようもない震えが走る。
球磨はありったけのプライドを振り絞って泣き叫んだ。
「やめろォ――!! シンジくんに熊本がそういう所だと思われるじゃねぇかクマァ!!」
「安心するがいい。どうせこの後二人とも沈めてやる」
「おい、ちょっと“貸せ”」
熊本の、そして自身の名誉の轟沈が球磨の脳裏によぎった刹那、その場に低く威圧感のある声が響く。
球磨が手に持っていた1.5mフック付シャッター棒が、何者かに奪い取られた。
「……“野老裂き”」
「ぐぬう――!?」
瞬間、辺りに幾つもの陣風が巻き起こる。
繰り返し振り抜かれたシャッター棒が、球磨に絡んでいた触手を高速で引き千切っていた。
自身の毛の優に3割ほどを、シャッター棒の勢いのまま根元から引き千切られたデーモンは、たたらを踏んで痛みに唸る。
「……お前、毛を引き千切るなど、地味に痛いことを……!!」
「地味に“痛々しい”のはオメェだ。ビショップでもしねーぞそんな“破廉恥行為”」
苛立ちを隠さない低い声でデーモンへ唸ったのは、高くなった天井にも届きそうな、巨体のヒグマだった。
ピースガーディアン、穴持たず202・ナイトヒグマ――。
この3階の病室で気絶した身を休ませていた彼は、ごきごきと首を回して辺りの様子を窺う。
抜けて高くなってしまった天井。
階段の脇で酸鼻な死体となっている4頭のヒグマ。
デイパックからはみ出たロボットに押さえつけられている碇シンジ。
つい今まで触手に絡みつかれ、全身を汗と毒液に濡らしてしまっている艦娘の球磨――。
ナイトヒグマは、取り敢えず球磨の肩を叩き、話を聞こうとした。
「おい、お前、一体何が……」
「はふにゃぁあ……!?」
だが微かに肩先を触れられただけで、床にへたり込んでいる球磨は痒みに痙攣して声を上げてしまう。
逆に面食らったナイトヒグマはびくりと前脚を引っ込める。
球磨は座り込んだままハーフパンツの真ん中をきつく押さえ、羞恥心に顔を真っ赤にさせて、物も言わずぼたぼたと大粒の涙を零していた。
ナイトヒグマは溜息を吐く。
概ね、どちらが斃すべき敵なのかだけは、理解できた。
彼はその爪のシャッター棒を、ゆっくりとデーモン提督に向けて構えていた。
「……おかげで“最悪”の寝覚めだ。俺は大層“イラついた”ぜ、おい」
「……そうだな。とても苛立っている心が聞こえる」
シンジの目には、ナイトヒグマの背から、あたかも悪魔を調伏する明王のような、激しい憤怒が立ち昇っているように見えた。
【C-6 地下・ヒグマ診療所3階フロア/午後】
【球磨@艦隊これくしょん】
状態:キラキラ、中破、上気、全身にデーモンの刺傷、全身の痒みと疼き、濡れた下着、腰砕け
装備:14cm単装砲(弾薬残り極少)、61cm四連装酸素魚雷(弾薬残り少)、13号対空電探(備品)、双眼鏡(備品)、マンハッタン・トランスファーのDISC@ジョジョの奇妙な冒険
道具:基本支給品、ほむらのゴルフクラブ@魔法少女まどか☆マギカ、超高輝度ウルトラサイリウム×27本、なんず省電力トランシーバー(アイセットマイク付)、衛宮切嗣の犬歯
基本思考:ほむらと一緒に会場から脱出する
0:このイカクラゲ野郎……ッ、絶対に許さんクマ……!!
1:ほむらの願いを、絶対に叶えてあげるクマ。
2:ジャンくんや凛ちゃん、マミちゃんたちも、本当に優秀な僚艦クマ。
3:これ以上仲間に、球磨やほむらのような辛い決断をさせはしないクマ。
4:また接近するヒグマを見落とすとか……!! 水だの潜水艦だの触手だのふざけんなクマ!!
5:天龍、島風……。本当に沈んでしまったのクマ?
6:何かに見られてる気がしたクマ……。
7:みそくん。球磨川の名を冠するなら、球磨川についてもう少し知っておくべきクマ。
[備考]
※首輪は取り外されました。
※四次元空間の奥から謎の視線を感じていました。でも実際にそっちにいっても何もありません。
【碇シンジ@新世紀エヴァンゲリオン】
状態:疲労大、両手圧潰、発奮、脚部にデーモンの刺傷
装備:デュエルディスク、武藤遊戯のデッキ
道具:基本支給品、中途半端にデイパックから飛び出してつっかえたエヴァンゲリオン初号機
基本思考:生き残りたい
0:くそッ……、球磨さん……!! また僕は役に立てないのか……!?
1:脱出の糸口を探す。
2:守るべきものを守る。絶対に。
3:……母さん……。
4:ところで誰もヒグマが喋ってるのに突っ込んでないんだけど
5:ところで誰もヒグマが刀操ってるのに突っ込んでないんだけど
6:ところでいよいよヒグマっていうかスライムじゃん
7:ところでアイドルオタクのヒグマってなんなんだよほんと
8:ところで肥後ずいきって……、何……?
[備考]
※新劇場版、あるいはそれに類する時系列からの出典です。
※エヴァ初号機は制限により2m強に縮んでいましたが、制限撤廃により十数メートル規模になってしまっています。
※基本的にシンジの命令を聞いて自律行動しますが、多大なダメージを受けると暴走状態に陥るかもしれません。
※首輪は取り外されました。
【穴持たず202(ナイトヒグマ)】
状態:“万全”、“苛立ち”
装備:“1.5mフック付シャッター棒”
道具:なし
基本思考:“キング”にもう一度認められる
0:テメェら……、“おフザケ”が過ぎるんだよ、“艦これ勢”……!!
1:“メシ”より大事なもんなんてねぇ。
2:俺の剣には“信念”が足りねえ……だと……。
3:ビショップは……? 他のやつらはどうしたんだ……?
[備考]
※キングヒグマ親衛隊「ピースガーディアン」の一体です。
※“アクロバティック・アーツ”でアクロバティックな動きを繰り出せます。
※オスです。
【穴持たず666・デーモン提督@ヒグマ帝国】
状態:『第十かんこ連隊』隊員(潜水勢)、毛を3割ほど引き千切られている
装備:三式水中探信儀、九三式水中聴音機
道具:体毛から続く半透明の長い触手
[思考・状況]
基本思考:潜水の星であるゴーヤイムヤ提督に従う。
0:ゴーヤイムヤ提督の下で、潜んだ心を暴く。
1:潜水艦の力と素晴らしさを布教する。
2:邪魔なヒグマや人間や敵艦の心を暴き、撃沈する。
3:暫くの間はモノクマに同調する。
※最長5mの半透明な細い触手を備えており、クラゲやヒトデのような弱い毒を持っています。痛みは僅かであり、相手には刺傷量に応じて興奮・錯感覚などの神経系の異常が出ます。
※艦これ勢黎明期に、周囲のヒグマに艦これを見せると共に毒の興奮を与え、その興奮を艦娘への恋だと錯覚させてその布教を下支えしていました。
††††††††††
前回の……、いや、初回からのジャン・キルシュタイン。
俺、ジャン・キルシュタインは第104期訓練兵団を第六位の成績で卒業し、念願の内地に行こうって時に。
ヒグマとかいう馬鹿でかい猫が蔓延する孤島に連れて来られ。
ヒグマとかいう馬鹿でかい猫に殺される前に全員を殺さなきゃいけないことになった。
明日になれば巨人の恐怖からも遠ざかるって日に今度はヒグマとかいうのの恐怖に直面することになった俺は。
とことんツイてなかったのかどうか、今となってはわからない。
俺より少し幼い、ここら辺じゃ見慣れない服装をしたこいつと遭遇したのは、その時だ。
……本当は、最初から薄々わかっていた。
綿菓子のような柔らかい表情。
鼻にかかって、体の奥底を滾らせるような、甘い声。
強靭でしなやかな筋肉と、丸みを帯びた体の輪郭を両立させるボディ。
少し考えりゃわかることだ。
どこの世に、こんな肉体を持った男がいるというんだ。
こんな可愛い女が、男のわけがない。
だからオレは、少しもそう考えないことにした。
――俺はただ、このリン・ホシゾラを、男だと思い込もうとしていた。
……何故かって?
もしリンが女だと意識してしまったら。オレはきっと、あのヒグマ型巨人から助かった後、間違いなく理性のタガが外れてたからだ。
恐怖で。
竦んで。
その現実から逃げようと。
無駄な我欲と本能に走るバカな敵になってた。
間違いなくこいつを押し倒して、傷つけて、滅茶苦茶にしていた。
ああそうさ。白状する。
オレはどうせ変質者だ。自分に正直なのはオレの悪いクセだ。
こうして二重三重に思考のプロテクトをかけなきゃ、こんな可愛い女ひとりにだって自制できない。
女を守るとか、お遊びで戦ってる暇などないとか、偉そうな高説を垂れられるような身分じゃない。
すまねぇな、アケミ。
お前には、何もかもお見通しだったみてぇだ。
お前はこんな時にまで、ありがてぇほど残念なんだな。
こんなオレにも、まだ発破かけてくれるんだもんな。
こんな浅はかな変質者を、認めてくれて、本当にありがとよ。
すまねぇな、クマ。
お前の経験と気性がなかったら、きっとオレたちはここまで来れなかった。
お前がいたからこそ、あらゆる道は瓦解せずに済んだ。
こんなオレを掬い上げて、曳っ張って行ってくれた優しさと厳しさ。
本当に、うちのクソババァより、感謝したくなる、お袋だった。
そしてすまねぇな、リン。
オレは馬鹿だ。お前を守りたかったのに。傷つけたくなかったのに。
憎らしげに突き放して、辛く当たってばかりだった。
どう転んでも、オレはお前を傷つけてばかりだった。
嗤え。殴れ。嫌ってくれ。お前だけは、オレのような変質者の毒牙に、絶対にかかるんじゃねぇ。
こんな自分の心に嘘を吐いたオレは、お前に向き合う資格がねぇ。
……なぁ、みそくん。
お前はきっと、こんな情けねぇ気持ちを、オレより何十倍も何百倍も味わって来たんだろうな。
正直になるのは、怖いことだった。
自分の心の巨人に、一人で立ち向かわなきゃならなかった。
けどよ、リン。
お前のために、今回だけは正直になれた。
正直になっても、お前を傷つけずに済んだ。
言葉でなんて言えない。
言葉なんて要らない。
ただお前に届けたかったのは、意気だ。
ほらな?
俺はずっと、この装置を使って、人類を救うための訓練をしてきたからよ。
アケミが、クマが、みそくんが後押ししてくれた。
気がついて、はやく。と、思いで寄せた。
天邪鬼だった俺をさかさまにして、行動で示す。
――オレの立体機動は、届いた。
††††††††††
なんだか、ふわふわしてた。
ただ真っ白な空間で、色んな人に、凛は守られているような気がした。
ほむほむの。
くまっちの。
ジャンさんの。
そして他の、色んな人の優しさが、凛に降り注いでいたと思う。
でも暫くして、その世界はぐらぐらと揺すぶられて、凛をどんどんと上に弾きあげる。
そして凛は、眼を開いていた。
「う……、ん……?」
そこは、真っ暗だった。
ただ周りに感じる空気は、とても狭い空間にしか広がっていない。
すぐ下で、水の音がする。舞い上がる風が、冷たい。
湖にボートで浮かんでいるようだ。
身を起こしについた手は、サラサラした布に触れる。
ベッドだ。
頭側と左側がすぐ壁になっていて、ひんやりとする。
上は、体を起こしたら髪の毛が擦れた。
右側には何か、ベッドのすぐ傍まで、積まれた石くれみたいなものがある。
胸が、ちょっとずきずきとして、熱い。
体は、浴衣のような服に包まれていた。
「……け、ひゅ……。け、ひゅ……」
「……え?」
その時、凛の足元に、誰かの気配があることに気付く。
か細い息のその人は、凛のベッドの、足側に倒れ込んでいるようだった。
その微かな声と、感じる体温の輪郭を、凛ははっきりと捉えていた。
「……、ジャンさん!?」
「ひゅ……、けッ……、リ、ン……!」
凛はベッドの上を、急いでにじった。
左腕が引き攣れた。
よく見ると、左の腕には、点滴の管が刺さっていて、頭側のボトルに繋がっている。
管を引っ張り調整し、もたつきながらも、凛は足元のジャンさんのところへ辿り着く。
「ジャンさん!? ジャンさん一体どうしたのにゃ!? これは一体……、何が、起こって……!?」
「良かっ……。け、け……、リン……。け、無事で、け、ひゅ……ッ……」
「ジャンさん、ねぇジャンさん!? どこか痛いの!? 苦しいの!?」
ジャンさんの呼吸は、おかしかった。
とても浅くて、痛くて、吸うことも吐くこともできていない。そんな感じだ。
真っ暗で顔は良く見えない。
それでも、ジャンさんの顔は苦痛で歪んでいるようだった。
「上に……! とにかくベッドの上にあがるにゃ……!!」
凛は、倒れているジャンさんの体を、なんとか上に引っ張りあげようとした。
両手で掴んだジャンさんの腕は、凛より冷たかった。
冷え切った水に浸かっているんだ。早く引き上げなきゃいけない――。
でもその時、気づいた。
冷たい水で埋め尽くされているこの空間がなんでこんなに狭いのか。
それは、ここが、崩れ落ちているから。
いつかニュースで見たような、津波に呑み込まれた家々の惨状のように。
ジャンさんの両手は、立体機動装置の操作剣を、しっかりと掴んだままだった。
水の中から引っ張り上げようとしたジャンさんの体は、凛の力ではびくともしなかった。
「あ、あ……、ジャン、さ……」
――ジャンさんの右脚は、崩れ落ちた壁や天井の、下敷きになっていた。
凛は察した。
地下で凛たちは、あのヒグマたちとの戦いを凌いで、たぶん、診療所とかいうところに来たのだ。
触るとひりひりするこの胸の傷。電気のヒグマから雷を打たれた傷だ。
きっとみんなは、凛の傷を手当てするために、ここに運んでくれた。
……でもそこは、また何者かに襲われて、崩れた。
そしてジャンさんが――。
凛をベッドごと、身を挺して、崩れなかった壁際まで、全力で守り、寄せてくれたのだ。
ジャンさんの上には、脚の上以外にも大小沢山の、瓦礫がぶつかっていた。
「ジャンさん――!! しっかりしてジャンさん!! きっと誰か――、ほむほむとか、くまっちとか……。
みんなが来てくれるにゃ!! それまで、それまで頑張るにゃ!!」
「……け、ひゅ……」
凛は震えながら、ジャンさんを励ますように、抱きしめた。
それでもジャンさんは、返事をすることもままならなかった。
ジャンさんの意識が、命が、だんだん遠く、薄くなっていくのがわかる。
ざり。ざり。
ざり。ざり。
ジャンさんの胸は、頬をつけた凛の耳に、不快な音を届かせた。
回した腕に、ジャンさんの肋骨の、奇妙な動きが触れる。
ざりざりとした音に合わせて、ジャンさんの右脇の肋骨が一部だけ、まるでシーソーの板のように出たり引っ込んだりしている。
胸が息を吸おうと膨らむときに、奥へ引っ込み。
息を吐こうと萎んだときに、手前へ出っ張ってくる。
ヒグマに叩かれ、瓦礫にぶつかり、折れてしまったジャンさんの骨。
その肋骨が、まるっきり振り付けと逆の方へステップしている。
息をするたびに肺が痛み、どこまで呼吸しても空気が出入りしない――。
そんな致命的な、呼吸困難だった。
「ジャン、さん――ッ……!!」
頭の中がぐちゃぐちゃになって、涙が溢れてきた。
どうすれば。
どうすれば、こんなジャンさんを助けられる?
冷えてゆく体は、このままでは凍えて死んでしまう。
押し潰された脚からは、きっと血が流れて死んでしまう。
砕けた胸なんかもうすぐに、ジャンさんの息を止めて殺してしまう。
ジャンさんの匂いは、あの時の、蕩けてしまいそうな男の人の匂い。
凛を守ってくれた時の匂い。
そしてたった今も、凛を守ってくれた匂いだ。
今度は凛が、ジャンさんを守らなくてはいけない。
どうすればいい――?
何ができる――?
努力以外のことで。
出来ること探せば。
祈るちから――?
それとも魔法――?
試す価値が、あるの?
ジャンさんに、女の子だと、まだ認めてもらってもいない凛は。
この人を、失いたく、ない――。
凛の体は、自然と動いていた。
自分に素直に、正直になることは、一番の答えへの近道だった。
言葉でなんて言えない。
言葉なんて要らない。
ただあなたに届けたいのは、息だ。
やさしく目を閉じて、キミの頬を撫でて。
気がついて、はやく。と、思いを寄せた。
天邪鬼だった自分をさかさまにして、行動で示す。
唇にのぼる、――る・て・し・キ・ス。
【C-6 地下・ヒグマ診療所の崩れた診察室/午後】
【星空凛@ラブライブ!】
状態:胸部に電撃傷(治療済み)
装備:病衣、輸液ルート、点滴、包帯、膀胱カテーテル、採尿バッグ
道具:基本支給品、メーヴェ@風の谷のナウシカ、手ぶら拡声器
基本思考:この試練から、高く飛び立つ
0:ジャンさんを、失いたく、ない――。
1:ほむほむは、みんなは、どうしたの――?
2:自分がこの試練においてできることを見つける。
3:ジャンさんに、凛が女の子なんだって認めてもらえるよう頑張るにゃ!
4:クマっちが言ってくれた伝令なら……、凛にもできるかにゃ?
[備考]
※首輪は取り外されました。
【ジャン・キルシュタイン@進撃の巨人】
状態:右第5,6,7,8肋骨骨折(フレイルチェスト、呼吸困難、激痛)、疲労、低体温、ずぶ濡れ、全身打撲、右下腿挫滅(瓦礫の下敷き)、出血
装備:ブラスターガン@スターウォーズ(80/100)、ほむらの立体機動装置(替え刃:3/4,3/4)
道具:基本支給品、超高輝度ウルトラサイリウム×27本、
永沢君男の首輪
基本思考:生きる
0:リン……。
1:許さねぇ。人間を襲うヤツは許さねぇ。
2:アケミ。戻って来た以上、二度と、逝かねえでやってくれ。
3:オレは弱い人間だ。こんな女一人守るのにも、手一杯だった……。
4:リンもクマもみそくんも、すごい奴らだったよ。ありがとな。
5:リンのステージ、誰も行く気ないのか? そうか……。
[備考]
※ほむらの魔法を見て、殺し合いに乗るのは馬鹿の所業だろうと思いました。
※凛のことを男だと勘違いするよう、必死に思い込んでいました。
※首輪は取り外されました。
††††††††††
ナース・カフェへ ナース・カフェへ
今日の日をまた閉めて
ナース・カフェへ ナース・カフェへ
隣人の愛を見に
最終更新:2015年07月19日 15:10