アピアヘ下り、街で馬車を雇って、ファニイ、ベル、ロイドと共に堂々と監獄へ乗りつけた。マターファ部下の囚人達にカヴァと煙草との贈物をする為に。
鍍金鉄格子に囲まれた中で、我々は、わが政治犯達及び刑務所長ウルムブラント氏と共にカヴァを飲んだ。
酋長の一人が、カヴァを飲む時、先ず腕を伸ばして盃の酒を徐々に地に灌ぎ、祈祷の調子でこう言った。
「神も此の宴に加わり給わんことを。この集りの美しさよ(ラ・タウマフア・エ・レ・アトウア・ウア・マタゴフイエ・レ・フェシラフアイガ・ネイ)!」
但し、我々の贈ったのは、スピット・アヴァ(カヴァ)と云われる下等品なのだが。
《KIMUN・KAMUY・YUKAR》
阿紫花英良は、動けなかった。
昼下がりの日差しが、阿紫花の黒い背中をじりじりと焼いた。
『おい、阿紫花!! 阿紫花、どうするつもりだよこれ、おい!!』
男の切羽詰まった叫びが頭に響き回る中、彼は口の中の粘っこい唾液を呑み込むことすらできない。
ビルの陰から窺う景色の先に、阿紫花の視線は吸い込まれている。
――二頭のヒグマが、ある一人の人間の死体に向けて、こうべを垂れていた。
『一体、なんだってんですかい、これは……』
『俺が聞きてえよ!! 早いとこどうにかしてくれ!! 李徴以上に気味が悪りぃ!!』
頭の中に響く声は、その死体――、
フォックスという男からのテレパシーだ。
阿紫花英良の木偶(デク)としてながら甦ったその男が横たわるアスファルト道路に、まるでその死を悼むようにして、ヒグマは深く、長く、黙祷を捧げている。
いや、それどころか実際に、彼女たちは、彼の死を悼んでいるのに違いない。
橙色を帯びた明るい毛並みのヒグマと、紫色の毛並みの小柄なヒグマだった。
彼女たち――李徴や小隻といった雄ヒグマとは違う繊細な所作からそう思っただけのことだが――の振る舞いは、ただひたすらに、阿紫花英良とフォックスの理解を、逸していた。
彼女たちもまた、知性を持つヒグマなのか?
知性を持つにしても、その獣性は如何にしたのか?
そしてなぜ彼女たちは、人間の死体を見てまず、黙祷のような行為に及んでいるのか?
十センチも離れていない傍らに鼻先を垂れられているフォックスは、死んだふりを続けたままピクリとも動けず、既に内心は恐怖と焦りで一杯だ。
この距離ならば、彼の跳刀地背拳は間違いなくどちらかのヒグマの背後をとることができるだろう。
しかし、よりによってここにいるのは二頭。
跳刀地背拳は大地という強固なガードを背負い、前面の敵に全能力を集中することができる拳法だが、後方は完全な盲点となる。
一頭の背後を取ったところでもう一頭に対しては隙だらけな上、その奇襲は二度同じ相手に見せられるような代物ではない。
それなのに、示し合わせたかのようにこのヒグマたちは、自分を見るやしずしずと絶妙な距離に歩み寄り、頭を下げ始めたのだ。
フォックスには意味も分からなければ、対処のしようも、思いつかなかった。
「……で、いつまであんたはそこで見てるの?」
ヒグマが、ゆっくりと阿紫花の方に顔を振り向けた。
ヒグマは、少女の声をしていた。
――気付かれた!?
阿紫花は驚愕した。
そのヒグマが人語を話したこと以上に、彼の隠密が見破られたことの方にだ。
先程風下を確かに選んで隠れたはずのビルの陰は、確かにまだ風下のはずだった。
小柄ではない方、橙色の毛のヒグマだ。
擦過音が多く、その体格に共鳴する音は低くはあれど、確かに少女だと思える声音。
哀切と、失望の入り混じったような声だった。
「……死体を餌に、あたしたちを罠にでも嵌めようとしてたってわけ? ……本当、ヤニ臭いアイヌね」
阿紫花は焼け付くようだった背筋に、氷を投げ込まれたかのような寒気を覚えた。
あの時彼がタバコを吸ってさえいなければ。
きっとこんな結末には、なっていなかったのだろう。
《ICOR・KAMUY・YUKAR》
以上のような場面に阿紫花英良とフォックスが至った経緯は、2時間近く前にまで遡る。
どことも知れぬビルディングの屋上の物陰に連れられた彼らの前にはその時、白と金の衣装を身に纏った商人が佇んでいた。
武田観柳である。
つい先ほどまで下半身が千切れてしまっていた彼だが、既にその腰元は金のキルトスカートに覆われて、五体満足で地に足をついている。
「兄さん、その脚、回復させたんですかい」
「ええ、とりあえず一度全魔力を換金した上で、『ぐりいふしいど』を使わせてもらいました。無駄にはしてませんよ?」
『阿紫花さん、テレパシーテレパシー。一応徹底しましょう』
『ああ、そうでした。すいやせん』
観柳の隣から声をかけたのは、バイクにまたがったまま魔法陣の中に腕を突っ込んでいる青年、
操真晴人だ。
彼が阿紫花たちをこの場に取り寄せた本人である。
彼の空間転移魔法によって、ここには順次仲間のメンバーが連れられてくる。
『…おめぇそのツラいい加減どうにかしろよ。オレたちビビらせても良いことねぇぞ?』
「すまないフォックスさん……。だが俺は、どうしてもあのヒグマが許せない……!!」
『宮本さんもテレパシー……』
たった今、般若のような形相のまま魔法陣から連れ出されて来たのが、
宮本明だ。
デイパックを確認しようとしていたフォックスが苦言を呈している。
そんな様子を漫然と眺めていた阿紫花に向け、愛くるしく、それでいて無機質なテレパシーが語りかけてくる。
『エイリョウ、何か気になっているようじゃないか、どうしたんだい?』
『……あ、いや、そのグリーフシードって稼ぎのアテ、あとどのくらいもつのかと思いやしてね』
武田観柳の肩に乗る、白いウサギのようなセールスマンの声は、相変わらず阿紫花の心の裏をも見透かしているかのように鋭かった。
この淫獣
キュゥべえの行動原理は、やはり一本芯が通り過ぎていて油断ならない。
『そうだね。もう2回使ってしまっているから、あと1回使ったらもう魔女が孵化するか否か、という所だろう。
本当なら安全のためにもう回収しておきたいところなんだけど……』
『私が却下しました。その魔女もヒグマに対抗する手段になる可能性がありますからね』
『さっき阿紫花さんたちが戦ってた奴とか、ファントムみたいな奴が魔女だっていうなら、無差別攻撃の矛先を相手に向けさせるって手は確かにあるのかも。
……すごく危険だと思うけどね』
『猫に小判は無意味であっても、私達商人には非常に有意義足り得ます』
生粋の魔法畑の者であるキュゥべえと晴人の心配をよそに、武田観柳は非常なる自信に満ちているようだった。
黒幕のロボットの監視網をかいくぐる作戦が成功し、調子づいているのかも知れない。
阿紫花は仕事人として、今一度確認をとる。
『……キュゥべえさん。今までその魔女が、あたしら人間の思惑通りに扱えた試しってあるんですかい?』
『さあ……。正直ボクの知る限りでは、ないね。ただ、魔女の行動方針は、皆一様に魔女化したときの絶望に依存する。
そこさえわかっていれば、ある程度魔女の行動は読めるだろうし、そういう意味では思惑通りに動かすことは不可能じゃないだろうさ』
「魔女とか……。そんなもん、どうせ配られた
支給品よりは思い通りになるんじゃねえのかよ!?」
キュゥべえが答えるや否や、脇からフォックスが投げやりな叫び声を上げた。
宮本明や操真晴人が驚いて見つめる中で、彼はデイパックから取り出した一冊の書物をビルの屋上に叩き付けていた。
その古びた表紙には、『南斗人間砲弾指南書』と、筆遣いも逞しく記されている。
『な……、なんなんですかい、それ……』
「……人間を大砲に詰めて遠くに撃ち出すとかいう、正気とは思えねえバカ拳法の教本だよ!!
本当に南斗108派なのかよこれ!? 期待してたってのに畜生……!!」
阿紫花の問いに、フォックスは頭を抱える。
彼が確保していたデイパックの片方に入っていたのは、そんな意味不明の拳法の本にすぎなかった。
支給品によっては今後の成り行きが好転するかも知れない、と淡い期待を抱いていたフォックスにとっては、凄まじい失望感を抱かせる物体であった。
まるでその本が穢れ多き異本であるかのように、フォックスは床に落ちたそれを恐る恐る摘み上げ、デイパックの奥底に仕舞い直す。
『フォックスさん、ま、まだ大丈夫だって! 操真さんみたいな支給品だってあるから!!』
『……もう二度と宮本さんのデイパックの中は御免なんだけど』
『って言ったってなぁ……、――!?』
宮本や操真たちがテレパシーを掛ける中、フォックスは2つあるデイパックのもう片方を開けた。
そして中に手を突っ込むや目を見開き、慌ててバッグを閉じる。
阿紫花は眉を顰めた。
『今度は何があったんですかい……?』
『あ、いや……、色々とスゲェもんを見ちまった……。ちょっと待て……、武田、ちょ、ちょっと見てみてくれ!!』
『はぁ、また用途不明の古本でしたら、流石の私でもちょっと取扱いに困るんですが……』
『違ぇ、違ぇよ……! こりゃああの、「ジョーカー・バルコム」だ!!』
早く人員が揃わないかと空を見上げていた武田観柳を、フォックスは息巻いて呼び寄せた。
彼の開くデイパックの中を覗き込んだ一同は、一様に目を見開く。
その内部に広がる空間には、全長数十メートルにも及ぶ巨大な列車と大砲――、一台の『列車砲』がその巨体を鎮座させていた。
「――れ、列車砲ですか!? かの米国が南北戦争で『十三吋列車臼砲』を用いたという話は知っていましたが……。
口径一尺五寸はありますよね!? 陸を走るのにこの大きさとは、バケモノにも程がある!!」
「ああそうだ。嘗て『ジョーカー・バルコム』と謳われた、伝説の『南斗列車砲』に間違いねぇ!!」
京都の方では大型甲鉄艦を目にしたこともある武田観柳であったが、この列車砲の威容を目にした衝撃は、その時の驚愕に勝るとも劣らなかった。
対人・対生物兵器として用いるには余りに強大なその威力を脳裏に思い描き、観柳は固唾を飲む。
思わず出してしまった声を落ち着けて、テレパシーに戻した。
『た、確かに凄まじいですが、こんな兵器、この島での私たちに扱い切れるか……。この大きさの列車砲なら、動かす人員は千人単位で必要でしょうし……』
『いや、こんな図体で、動かすのには20人位しか要らず、目視できる至近距離にまでぶち込めるらしい……。それが「南斗列車砲」が伝説になった主因だ』
『20人でも多いんですよねぇ……』
『魔力で動かすにしても、カンリュウやエイリョウの魔力では合わないだろうね!』
『ただの魔力の無駄遣いで終わる光景が見えやす……』
興奮気味に屋上の人員を数える観柳の指折りは、両手に足りない。
阿紫花が苦笑する通り、列車砲を使うほど遠距離かつ大規模かつ高威力な攻撃手段など現状全く不必要なのだ。
せめて野砲程度の大きさならば、先の
戦艦ヒ級などを相手取るに足る武装となっただろうが、如何せん大きすぎて人員が足りない。
そうして自分、阿紫花、操真、宮本、フォックスと数えていた観柳の前に、空中に浮かんだ魔法陣から、もう一人男が姿を現してくる。
フォックスが慄いた。
「……おい。また何か、拳法の定義自体に恥をかかせるような言葉が聞こえたんだが」
「ひぃ!?」
不気味に据わった眼差しでゆっくりと屋上に降り立った紫のスーツの人影は、
ウェカピポの妹の夫その人だった。
彼の流儀に掛ける異様な執着を知っているフォックスは、明らかに挙動不審となる。
ただちに首根っこを掴まれた彼の耳元には、義弟の低い声と唇が間近に迫っていた。
「『南斗列車砲』と言ったか? 大砲に頼って何が拳法だ。おい……フォックス、説明してもらおう。
南斗爆殺拳とやらと合わせて、伝承者全員殴りながら潰してやろうか……?」
「な、南斗はあくまで『軍団』なんだ!! だから南斗軍の使う列車砲で南斗列車砲!!
南斗爆殺拳はジャッカルの野郎が勝手に名乗ってるだけ!! ヤるならジャッカルだけヤれ!! 俺は関係ないィ!!」
「……なるほど。それなら至極真っ当だ」
フォックスの必死の弁明を聞き、義弟はようやく彼を放す。
へたへたと崩れ落ちるフォックスは、既に死んでいるにも関わらず心臓が張り裂けそうな緊張と疲弊を感じていた。
彼が『南斗人間砲弾指南書』を直ちにデイパックへ仕舞い直したのはこのためである。
ここでさらに南斗人間砲弾などという、誰が見ても正気を疑うような拳法を目にしてしまったなら、ブチ切れた義弟は何をしでかすかわかったものではなかった。
そんなフォックスをよそに、既に義弟は落ち着いた様子でデイパック内の南斗列車砲を眺めまわしている。
『こういった砲はドイツのくらいしか見ないが、それにしてもデカいな。流石にこの砲弾は手で投擲できるサイズでは……。
いや、ウェカピポ並みの手練れか、ツェペリ一族の流派ならいけるかもな……?』
『え、まず投げる発想になるの!?』
『と、兎に角、この列車砲は私がお預かりしておきますフォックスさん……。使えるかどうかはわかりませんが……』
全長数十メートルもの鋼鉄の塊である列車砲は、一度デイパックから出してしまえばもう二度と自力で仕舞うことなどできなくなるだろう。
何にしてもフォックスがこの場ですぐに使えるような便利のよい道具は、全くなかったことになる。
『あ、ああ……。俺が持ってても困るから……』
『あ、でもカンリュウ! 魔力が足りないってだけならなんとかなるよ!!』
『はぁ、それはどういった手段で?』
フォックスが辟易しながらデイパックを武田観柳に預けた時、キュゥべえが嬉しそうにテレパシーを発した。
受け取りながら怪訝な表情を見せた観柳へ、キュゥべえはにっこりと微笑む。
『この島の生存者全員、魔法少女にしてしまえばいいのさ!
とりあえず脱出するだけならきっと十分な戦力と魔力が得られるに違いない。なんならヒグマすら魔法少女にしてしまえばいい!!』
『なんだそれ……。もはや少女どころか人間ですらないぞ』
操真晴人が、いい加減ツッコミにも疲れたという顔で眉を寄せる。
キュゥべえの口調は変わらない。
『ボクは過去に人外の化け物や範馬勇二郎さえ魔法少女にしたことがある。それに比べれば大したことないさ。
知性や感情を持っているなら、十分対象範囲内だよ!!』
『それはすごいですね。すみません李徴さんお待たせしました』
喜色満面で宣言した彼の発言は、彼を肩に乗せる観柳に風の如く受け流された。
脱線を重ねたが、元々観柳が全員をここに呼び寄せたのは、奪還した李徴を再び迎え入れるために他ならない。
『話は……、ついた、のか?』
『そうみたい、ですね』
最後の魔法陣が消えた場所に転移させられていたのは、二頭のヒグマ、李徴と隻眼2であった。
体には観柳の作り出した拾圓券がべたべたと張り付けられ、その身に刻まれた多数の傷を回復させている。
『その気になればリチョウもシャオジーも魔法少女にできる! どうかな? ボクと契約して魔法少女になってよ!!』
「……すまなかった、フォックス。謝って済むことではないが、この通りだ……」
「……おう、確かに全然済まねぇけど、もうしょうがねぇわな」
李徴はキュゥべえのテレパシーを聞き流し、フォックスに向けて深々と頭を下げていた。
彼に致命傷を受けた腹の縫い痕を掻きながら答えたフォックスの眼にその時、上空から風を切って落ちてくる何かが映る。
――丸太だった。
「――明さん!?」
「宮本!?」
宮本明が、断頭台に首を下ろしているような李徴の首筋に向け、声も無く丸太を振り下ろしていた。
咄嗟に反応した阿紫花が、その先端に魔力の糸を絡める。
同じくウェカピポの妹の夫が、彼の足元に壊れゆく鉄球を投げつけた。
明の攻撃はそれらの干渉で僅かに逸れ、丸太は李徴の鼻先スレスレを掠めて屋上のコンクリートにひびを入れる。
「――ひぃいいぃぃ!?」
「くっ、邪魔しないでくれ――!!」
「おやめなせぇ明さ――、うおぁ!?」
慄いて飛び退った李徴に向け、明は左半身失調したまま無理矢理体勢を立て直し、糸を絡めている阿紫花ごと、無理矢理丸太を横薙ぎに揮おうとした。
全力で踏みとどまっていたはずの阿紫花の両脚が、いとも簡単に宙に浮きあがる。
そのまま彼ごと丸太が李徴の顔面に激突するかと思われたその時だった。
「――『雷撃槌(バンガーズ)』!!」
「――おぐぅ!?」
明の死角となっていた左側から回り込んでいた義弟が、彼の腹部に拳を叩き込んでいた。
それも鳩尾。
しかも、その拳には王族護衛官の剣の柄が握られている。
柄頭に据えられた稜打ち出しのナットが、深々と彼の胃へ捻じ込まれていた。
痙攣するかのように力を失い、宮本明は丸太を取り落として屋上の床に崩れ落ちた。
続けざまに彼の口からは、ピザ混じりの薄黄色い胃液が滴り落ちてくる。
「……一体どういう料簡だ宮本。返答次第では殴りながらヤりまくることも辞さん」
「ぐふっ……。みんなこそ、どういう料簡だか俺にはサッパリだ……!
こいつは実際にフォックスさんを殺したんだぞ!? 俺のトモダチを殺したのもやはりヒグマだった!!
ヒグマなんて、同行してるだけでもいつまた連携を崩されるか、わかったもんじゃないだろうが!!」
「うっ……、く……」
「お前は既に人間じゃないんだ李徴!! 元々人間だったからって、お前はそのヒグマの体になるべくしてなったんだろ!?
それこそお前の心の証明だ!! 物書きとしてのお前は、もう死んじまったんだよ!!」
李徴は、呻いて俯くことしかできなかった。
宮本明の一言一言は、鋭い刃物のように彼の体に突き刺さった。
それはまさに、李徴が恐れ、考えていた自己評価そのものだった。
運よく武田観柳にわずかばかりの期待をされ、フォックスが奇特すぎるほど割り切ってくれたからここにいられるだけで、本来李徴は、明の言う通りただちに死ぬべき者。
乃至、既に死に体の者に、過ぎなかった。
観柳が胸に留めた金のブローチを示しながら頬を掻く。
『あのですね宮本さん。それは確かにその通りかも知れませんが、李徴さんには別に同行してもらうわけじゃありません。
李徴さんの知識は有用ですし、先程みたいに、離れた場所で会話だけ続けますので、連携は取りながら皆さん安全に行動できるんですよ?』
「油断してるのか観柳さん……? それでもこうして、一時的にでも全員を集めて顔合わせするタイミングがあるじゃないか。
一度牙を向いたものを見逃せば、こちらが後ろから斬られる。例外を許してしまえば、悲劇が繰り返される……ッ!
こうした一瞬の隙に、暴走したヤツに殺されちまうかも知れないんだぞ!?」
『暴走したヤツがどうなるかは今宮本さんが身をもって体験しましたよね?』
「とにかくなぁ、李徴!! 人殺しなんだろヒグマの本質は!? こんな善良な人しかいないチームに混ざれると思っているのか!?」
観柳の指摘を完全に受け流して、明は口の端から胃液を吹きながら李徴を叱責する。
李徴はもはや言葉も無い。
明と李徴以外の全員は、お互いに怪訝な表情で顔を見合わせた。
『……善、良……?』
宮本明の中でこの男所帯がどういう集合に見えているのか定かではないが、まずもって武田観柳は死の商人である。
その他、殺し屋、強盗殺人常習犯、性的・身体的虐待者、クソ淫獣などより取り見取りだ。
一歩間違わなくても直ちに監獄の鉄格子にぶち込まれておかしくない面子のオンパレード。
比較的まともに思える操真晴人ですら、彼が日常的に討伐しているファントムという存在は元々人間だったわけで、そういう意味では広義の人殺しに分類されるだろう。
人殺しでなく、かつ善良である人物など、この場には宮本明含めて誰一人として存在しない。
いきり立つ明の肩に、観柳が手を置いた。
「宮本さん宮本さん、ちょっと。……するとあなたはご自分を、人殺しなんてしない善良な人間だとお考えなのですね?」
「ああそうだ!! 当たり前だろ!?」
だが明が勢いよくそう振り向いた瞬間、彼の首筋は凄まじい力で捻り上げられた。
「……人殺しもできねぇバカなんざ、いらねぇんだよクソたわけ……!!」
「――グゥッ!?」
魔法少女として強化された筋力をフルに使って、観柳は宮本明の怪力にほぼ拮抗するほどの力で彼の襟首を締め上げている。
一転してドスを効かせた低い声に口調を落とし、武田観柳は耳を抉るように言葉を吐き続けた。
「『善良』なだけの奴が『巨悪』に勝てるわけねぇだろ、無礼者め。
この観柳様が欲しいのは、『人斬り抜刀斎』であって『ゴクツブシの流浪人』じゃねぇ……!
大元の敵は『ヒグマ』じゃなくてそれを操ってる『人間』なんだよ。ここぞで人殺す覚悟がなかったらどうする!?
雑兵と撒き餌にいちいち釣られてんじゃねぇぞクソガキが。
どこの小島で戦ってきたのか知らねぇがテメェの世間は狭すぎだ。世界は今や大海を越えているんだぞ!?」
「ぐ、お……」
明が掴む観柳の腕には、袖口に大量の札束が仕込まれていた。明の握力でも折ることができない。
その大量の魔力によって、観柳は明と同等の腕力を得ているものらしい。
どうしても明にこの言葉を聞かせたいがための行為なのだと察するのは、容易だった。
「……青二才のトーシロの小僧が大した考えも無しに、一時の感情だけでこの大商人武田観柳様の商売戦略にケチつけんじゃねぇよ。
テメェが四半刻前に指導者だと認めたのはどこの誰だよ? この観柳様とテメェと、どっちの立場が上なんだ? あ?
一度指示を受諾したんならきちんと従いやがれ。身の程を弁えろ。
交わした約束を忘れないのが最低限の大人の条件だからな。わかったかァア!?」
「――は、はい……」
「よろしい♪」
震えながら絞り出した明の呻き声に、観柳はパッと表情を満面の笑みに変えた。
首を放された明が屋上にへたり込むと同時に、観柳はそのままにこやかに一同に向けて振り返る。
「はぁい、それでは宮本さんにもご理解いただけた所で、早速次の作戦に移りましょ~う!」
「……あ……、あ……、はい……」
武田観柳の豹変ぶりに、一同は震えながらそう声を絞るのが精一杯だった。
それは確かに、この魔法少女が大店の主なのだということを全員に実感させるに足る、威圧感だった。
《ANUTARI・UEPEKER》
『金!! これこそが力の証なのです!!』
『コネ『コネ『コネ『コネ『コネ『コネ『コネ『コネクト・プリーズ』』』』』』』』
『無駄なことだって知ってるくせに。懲りないんだなぁ、キミも』
『プルチネルラァッ!!』
『ひゅ~……。跳刀地背拳!!』
『――計算のうちだよ! それはな!』
『「払暁(ブレイクアウト)」』
『「書経」、「盤庚・上」――、「燎原乃火」!!』
『ガアァアアァアアア!!』
その後、
モノクマロボットたちはE-6エリアを中心とした方々で、札束にはたかれ、指輪でタコ殴りにされ、無様にせせら笑われ、棍棒に叩き潰され、カマで内部を抉られ、丸太の奥から突き出された槍鉋に貫かれ、眼潰しの上から鉄球で砕かれ、家ごと爆破され、鋭い爪で八つ裂きにされた。
『こちら阿紫花フォックス組です。東側の木偶さんはあらかたくず鉄にしやした』
『でもヒトっ子一人見かけねぇや。他の方角はどんな具合だ?』
E-6の東側の街並みをグリモルディで走破していた阿紫花英良とフォックスは、ようやく襲い掛かってくるロボットの群れがいなくなったのを受けて、懸糸傀儡二体を侍らせながら一息ついていた。
紫煙の向こう側に透ける道々には、轢き潰された機械の破片がオイルの海に溢れかえっている。
彼らは、ほぼ二人一組の4グループに分かれ、E-6から四方へと探索行に乗り出していた。
それが武田観柳がシームレスに打ち出した、次なる作戦である。
「どうですフォックスさんも一本?」
「要らん要らん、煙いから向こうで吸え。ただでさえ空気が埃っぽいんだから」
「……意外ですわ、嫌煙家なんですかい?」
「馬鹿言え、俺は『拳法家』だ。体が資本なのに胸壊しちゃ本末転倒よ。そんな馬鹿はジャッカルみたいな邪道だけで十分だ」
阿紫花が勧めた煙草は、フォックスににべもなく突っぱねられる。
粗暴そうな見た目に似合わずまともなその理由に、阿紫花は感心した。
「……そのジャッカルって人、何ですっけ、南斗爆殺拳とか」
「……そうそう、南斗爆殺拳の自称伝承者で、俺の所属してた軍団のリーダー。ほれ、これを使うんだ」
フォックスが開けたデイパックからは、大量のダイナマイトが顔を覗かせている。
阿紫花は面食らった。
「ハァ!? まともな支給品無かったんじゃないんですかい?」
「……あの義弟が来る直前だったんだぞ!? 南斗列車砲でアレだったんだから、あそこで南斗爆殺拳の武器の現物見せてたら俺たちは一巻の終わりだっただろ!?」
「ああ……、なるほど確かに。逆に義弟さんの逆鱗に触れそうですわ」
「本当やんなるぜ……。ジャッカルはどうせすぐ肺病でおっ死ぬだろうから、こんな島に連れて来られなければ、ゆくゆくは地道に鍛えていた俺が、華々しく軍団のリーダーになってたはずなのによ……」
「はは、それはまた気の長い人生計画でしたね……」
「なんだよ、文句あるか?」
「……いや、すいません。あたしはその日暮らしだったもんで、羨ましいんですわ」
「……その日暮らしっつうのは俺らも一緒だったがな。ようは気の持ちようよ」
フォックスと言う人物が、見かけによらない聡明さ、計画高さ、ないし用心深さを持っているということに、阿紫花は深く尊敬の念を抱かざるを得なかった。
日々の暮らしに何の展望も無く、退屈しか見つけられなかった自分とは大違いだと言えよう。
阿紫花は煙草を深く吸い、吐いた。
会話をテレパシーに切り替え、鋭い眼差しでフォックスを見つめる。
『……ところで、少々おかしいと思いやせんか?』
『お前の服装以外での話だよな?』
『……』
『冗談だよ気付いてるって。機械の襲撃が急に止み過ぎだ。ほとんど無尽蔵に思えたのによ』
『その通りです』
油断なく辺りを見回している二人の視界には、風の他に動くものは何も見当たらない。
転がっているモノクマの破片は、完全に破壊されたものばかりだった。
『……確かにおかしいな。こちらもついさっきの波を最後に、自動人形は一切出て来なくなった』
『宮本妹の夫組だ。E-5のハゲ山の……、ジャックさんの居た場所まで辿り着いた』
フォックスたちのテレパシーに言葉を繋いだのは、沈んだ声の宮本明だった。
山上で墓標のように屹立する丸太に手を置き、明は顔を俯けている。
地面に深々と突き刺さり、乾いた血液で赤黒く変色しているその丸太は、彼と義弟が投擲し、戦艦ヒ級を狙撃した丸太に他ならなかった。
そこにはもう、明の思い描く、あの逞しい男性の名残はない。
ジャック・ブローニンソンはもう、宮本明の心の中にいるのみだ。
その彼が最後に発見してくれた、地下への昇降機の位置までは、あと少し歩く必要がある。
「宮本……、少し水でも飲め」
「あ、す、すまない義弟さん……」
眼を潤ませる宮本明の肩を、義弟が叩いた。明のデイパックを開けて、義弟は水のボトルを差し出している。
自分の哀しみを察してくれたのかと、明の涙は深くなった。
「さっき吐き戻したままだろう。そのままにしていると食道が荒れる」
「……ああ、それもあった。詳しいんだな義弟さん」
「ああ。仕事もあるし、よく妻も殴っているからな」
「――ブフッ!? よく殴ってるの!? 奥さんの腹を!?」
「いや、むしろ顔の方がよく殴る」
「顔も!?」
「我が妻は、『右の頬を打たれたら左の頬を差し出す』ような女だからな」
「なっ、まっ……、マゾなのか!?」
「……何だそれは? 慈しみを持って接してくれるという意味だ。聖書の言葉だぞ?」
思わず水を吹いてしまうような義弟の性癖を耳にし、明は呆れた。
なるほど『善良』なヤツでは『巨悪』に敵うまい、と明は武田観柳の言葉に納得する。
ため息が出た。
「……一体どうすれば、観柳さんとか義弟さんみたいに割り切れるのか……。俺はどうしても感情を抑えられない……。そりゃガキに見えるよな……」
「オレのようになる意味は全く無いからやめておけ。お前はお前の流儀に従えばいい。
それがオレたちの流儀に侵食してくるようなら、また『雷撃槌(バンガーズ)』なり『一足叫喚(キッキング・アンド・スクリーミング)』なりぶち込んで突っ返すだけだ。
お前がいることでオレたちが纏まっていられる部分もある。常に新鮮な意見を述べてもらえることは、商店経営の流儀にとって重要なことだ」
「ありがとう……、そう言ってもらえるだけで……、――ッ!?」
「どうした」
義弟の言葉に答えようと顔を上げて、明は気を張り詰めさせた。
西の空を見上げ、明は耳を澄ませる。
「……何かが……、大量に飛んでる。……そしてこの音!!」
「……鳥? いや、それにしては、その下の土煙が……」
遅れて西空の異変に気付いた義弟と共に見た方角には、温泉地帯の湯煙が上がっていた。
そことこことのほぼ中間あたりの位置に、何か鳥のようなものが大量に群れを成して飛んでいる。
そしてその直下に舞い上がっている土埃の内に、明の眼は、その者の姿を捉えていた。
「――ヤツだッ!!」
ジャック・ブローニンソンの敵――、戦艦ヒ級である。
「うおおおおおぉぉぉぉぉおおぉぉぉぉおぉぉぉぉぉ!! 手を貸してくれ義弟さん!!
今度こそ、今度こそ、この丸太で息の根を止めてやるッ!!」
『待て宮本!! 武田への報告が先だ!! 宮本妹の夫組、先の戦艦のようなヒグマを発見した!!
距離は数百メートル西方、山の麓にいる。先方は正体不明の飛行物体の一群と交戦中のようでこちらに気づいてはいない。攻撃するなら先手で仕留められるかもしれないがどうだ!?』
『あー、そうですか。報告ありがとうございます。ではあの機械人形さんたちはそちら方面に向かったんですかねぇ。
逃げられる用意と、物資の無駄遣いをしないで済む計画があるなら攻めても構いませんよ~』
『ありがとう観柳さんッ!! 大丈夫だ!! 丸太3本は要らないッ!!』
義弟のテレパシーに即応した観柳の返答を受け、宮本明は即座に地に突き立っていた丸太の大槍を引き抜いた。
だがそれを構えて再び西の空を向いた時、麓の方で土埃を上げていた戦艦ヒ級の姿は、いつの間にか影も形もなくなってしまっていた。
「あァ!? どこだ!? どこに行った――!?」
『……目標が消失した。目を離した訳では無かったが、こんな開けた斜面だったのに、一瞬にしてどこかに消えた。
操真の使う魔法のようなものかも知れんが原因不明だ。飛行物体もどこかにいってしまった。
……鳥のような小さなものの群れだったから目で追い切れなかった。すまない……』
義弟は歯噛みした。彼は即座に、狼狽して辺りを見回している明を連れて下山を始める。
対処方法もわからぬ、得体の知れない敵に相対した時に、四方に開けているこの山は余りにも危険すぎた。
『……だそうですけど。一体何でしょうねぇ操真さん。あのヒグマ魔女と戦ってたっていうなら相手は参加者の可能性も高いですが』
『ちょっとわからないな。コネクトウィザードリングを使う魔法使いは何人か知っているけれど、眼にも止まらない程早くはないし……。キュゥべえちゃんは?』
『情報が少なすぎるね。瞬間移動というなら、そう見える現象を起こせる魔法少女は知っているけれど。
それよりも、その魔女の上空に飛んでいた鳥のような群れというものの方が気にならないかい?』
武田観柳と操真晴人、およびキュゥべえの三者は、マシンウィンガーに2ケツしているという状態でE-6南方の街道に佇んでいた。
こちらも早々にモノクマたちが引き上げてしまっていたので、逃げ回る脚も緩めて、町を駆ける様子は半ばツーリングのようになってしまっている。
ビルの陰で一旦停車し、後部座席の観柳が広げる地図に、肩のキュゥべえと運転席の晴人が眼を落した。
義弟から報告された位置を地図にプロットしながら、観柳はテレパシーを振る。
『李徴さん、そちらはいかがですか? 何だと思いますこの状況?』
『……ああ。こちらは、たった今、ようやく機械の一群が去った』
『李徴さんすごいですよ。もう何軒家を爆破したことか……。ケホッ』
E-6の西方で、煤だらけのヒグマ二頭がテレパシーを返した。李徴と隻眼2である。
逃走経路を残して一帯の家屋のほとんどは炎に包まれており、まさに星火燎原の趣がある。
相手取ったモノクマの数で言えば、この西側は、東側の阿紫花たちと同じくらい多かった。
プロパンガスのボンベや灯油缶を放り捨て、ようやく彼らは息を落ち着ける。
「……ところでこの火、本当に大丈夫なんですよね?」
「ああ、ちゃんと迎え火を計算に入れて着火している。燃えるのはここだけだ」
件の同時翻訳で隻眼2の唸り声と会話しながら、李徴は来た道を引き返し始める。
この達者な翻訳芸は、両名の間に幾ばくかの懐かしさと安堵感をもたらした。
そして安堵と責任感を胸に、李徴はテレパシーを投げる。
『妹夫、お前が見た未確認飛行物体とは、どんなものなんだ? できるだけ詳しく教えてくれ』
『オレよりも宮本の方がよく見えていた。ほら、お前が話せ。……目を逸らすな、露骨に嫌そうな顔をするな、話せ』
『……わかったよ。説明するから! ……よく聴けよ李徴さん』
『……ああ、手間をかけるが、頼む』
仏頂面が眼に浮かぶような刺々しい声でテレパシーが返ってくる。
李徴はその棘を胸に受けながら、言葉を絞った。
『……なんかミニチュアの、ラジコンの飛行機みたいだったよ。緑色で、日の丸がついてたから零戦なんじゃない?』
『零戦だとするなら22型以降だな。爆撃はせずに機銃掃射だけしかしてなかったのか?』
『ん……!? え、いや……、爆弾落としてた。それも沢山……』
『なら爆撃機の彗星か、爆戦の62型だろう。大穴でスツーカとかいう可能性もあるが。機体下部に浮舟は付いて無かったな?』
『んん……!? え、えと……、いや、無かったと思う。車輪だった……』
『なら水上爆撃机の晴嵐や瑞雲の12型は弾けるな。編隊の数は? 何机くらい飛んでいた?』
『んんん……!? いやもう、何十機も飛んでた……。7~80機は居たと思う……』
『おいおいおい、なんだその数は。常用でそんなに搭載できる旧日本海軍の空母なんて、加賀か翔鶴瑞鶴しかないぞ。本来その中でも爆撃機は一部なんだが……。多めに27機乗る翔鶴型かな……』
『そ、そう、なのか……』
テレパシーの先で、刺々しかった明の声は、どんどんと小さくしどろもどろになっていく。
やはり自分が何かまずかったのだろうかと、李徴は声を落とした。
『……すまない。この隴西の李徴にはその程度しかわからぬ。
何者かがその機体を操作していたのは確実なのだろうが、そもそも第二次世界大戦期の船がここにいるわけもなければ、ラジコンのような小ささでもあったのだろう?
それなのに実際の戦闘機のような機能性を有しているのは、それこそ魔法でもなければ説明がつかんだろうからな……』
テレパシーの向こう側では、その他のメンバー全てが絶句しているのがわかった。
李徴は意気消沈する。
『……すまなかった。俺の考察など、語るだけ時間の無駄だったな……』
『い、いや……。よく解りませんがすごいですよ李徴さん! 先程のヒグマ魔女の例もあります!
あの大型甲鉄艦のようなヒグマがいたんですから、この島にはそういった艦船を生物に変えるような魔法があるのに違いありません!!』
だが一転してその時、テレパシーからは、興奮気味の武田観柳の声が届いた。
『ええ、ええ、なんか聞いた事ありやす! なんか海軍の! 羽佐間のヤツが言ってたあれ! コンソメじゃなくて、カッポレじゃなくて、ああと……』
『「艦これ」のことかい、エイリョウ?』
『ああそれですそれ! なんかあるんですよそういう人間大の軍艦が出てくるなんかが!』
『「艦隊これくしょん」は、擬人化した軍艦である艦娘が出てくるゲームでね。ボクが勧誘した子たちにも何人かそのゲームの提督をやってる子がいたよ。
リチョウの話で腑に落ちた。そもそもあの艦娘たちが実在しているなら、あの魔女の正体にも思い当る。怨みで絶望した船の魂である深海棲艦だろう。彼女たちなら、アキラの説明ともボクらの戦闘とも符合する』
阿紫花英良とキュゥべえからも返ってくる上気した声に、李徴は困惑した。
隻眼2も目を瞬かせている。
「そ、そうなのか……? するとあの鎮遠なども女体化していたりするのだろうか……」
「……李徴さん、なんだかわかりませんけど凄いです。よくご存知ですね……」
「そうか? ただ書物を読んで得ただけだ。現にキュゥべえなどの方が正体を知っていたではないか。本職に比べれば一般常識の類に過ぎんさ……」
『するってえと李徴さんよ! 今、西の温泉には、そのなんかサイボーグ的な生娘が飛行機飛ばしながら風呂にでも入ってるってことか!?』
『ちょっと待てフォックス。そう考えるのは早計過ぎる』
何か違った意味合いで興奮しているフォックスの声をなだめて、李徴はテレパシーに戻る。
『わざわざ空母が、目視できるような隣接エリアで艦載機を飛ばすことなど有り得ん。艦砲の射程圏外から攻撃できることが強みであるのに、数百メートルしかない距離でタイマンを張ることなど自殺行為だ。
特に翔鶴型のうち瑞鶴は、アウトレンジ戦法を強く採用した艦だと聞く。むしろ島外の海上から発着させていると考えた方がまだ自然だ』
『……確かにその通りだな。あの戦艦のようなヒグマはおろか、オレと宮本ですら西の温泉は狙おうと思えば狙えなくもなかった位置だ。
飛行機が軍事的にどう利用されているのか詳しく知らんが、空を飛べる相手がわざわざ陸に上がった船に付き合うとは考えづらい。温泉水上にいたとしても、もっと離れているどこかか……、既にオレたちのように移動しているはずだ』
李徴の意見には、ウェカピポの妹の夫から全面的な支持が加えられた。
観柳が感心の唸りを上げて問いかけてくる。
『それでは李徴さん、総合すると現況はどうなっているのだとお考えですか!?』
『飛んでいた機種と機数からして、翔鶴型の空母の……その女体化した魔法少女か何かが戦闘を行なっていたのかも知れない。直接的な怨恨があるのなら、偵察から真っ先に件の戦艦ヒグマを狙ったとしてもおかしくない。ただし彼女は現在、D-5の温泉には少なくとも居ないはず。
だが時系列と位置を鑑みるに、あの熊型機械軍が退いた理由は間違いなくこれに関連しているはずだ。より西方ないし北方に、我々を上回る敵方にとっての脅威が出現したとみて間違いない。
件の戦艦ヒグマが消失した原因には用心する必要があるだろうが……。
……何にしても、捜索範囲を広げるのに、これ以上の良机は、無いのではなかろうか?』
『……流石です! 流石李徴さん、私が軍師に見込んだだけのことはあります!! 素晴らしい洞察をありがとうございます!!』
間髪を入れず、華やいだ讃辞が李徴の元には届いた。
そのたった一言で、疼いていた李徴の心は、どこか温かく、満たされたような気がした。
潤んでくる目元をこすり、李徴は洟をすする。
『多謝すべきなのはこちらだ……。先生のような貴重な指導者に出会えてよかった……!
「千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず」だ。観柳先生、先生はまさに、伯楽だ……!!』
『うふふ、それでは李徴さん、あなたはご自身を、「千里の馬」だとお考えなのですか?』
いかに才能のある者も、それを認めてくれる人がいなければ、力を発揮できない。
そんな貴重な目利きある人物への感謝を込めて、李徴は言葉を投げていた。
だがその朗らかな返事に、李徴は、自身を『千里を走る名馬』などと評したのは少々自意識が過剰だったかも知れない、と肩を落とす。
『あ……、いや、すまない。ただの人殺しに過ぎないこの隴西の李徴が千里の馬などとは……、到底申せぬことだったな』
『ええそうですとも。私は「どこにでも常に有るようなただの馬」に期待したつもりはありませんからね!!』
観柳の言葉の意図を理解するまでに、李徴は暫くの時間を要した。
そして理解してからも、李徴は納得ができなかった。
『お、おい、それは、一体……』
『皆さんも聞こえていますね? 前にもお話した通り、あなたがたはみな、一点モノの貴重な商品なのです!!
ああ、それ真に馬無きか? それ真に馬を知らざるか――……?
ご理解いただけましたら、皆様くれぐれも安全に留意して、探索範囲を拡大し、専念してください!!』
思わせぶりな微笑を纏ったその言葉で、武田観柳からのテレパシーは切れた。
呆然と炎の街に佇む李徴の目元を、隻眼2がそっと舐めた。
「李徴さん……。『物書き』って、人間じゃないとなれないものですか? 文字が書けないと、なれないものですか?
……僕には、そうは思えませんでしたよ?」
「小隻……」
大人しいそのヒグマの顔に浮かんでいたのは、穏やかな尊敬と慈しみの表情だった。
「『ロワにおいて一隻眼を持っている』のは……、やはり、李徴さんだったんですよ……」
李徴は思った。
人間や生活の評価の上にも、文明は或る特殊な標準(めやす)を作り上げ、それを絶対普遍のものと信じている。
そういう限られた評価法しか知らない奴に、土着の民の人格の美点や、他の人種・動物種の実態、その生活の良さなど、てんで解りっこないのだと。
野生の、四足歩行の、彼自身が今まで畏怖倦厭の情を抱いていた獣でも、このような表情を浮かべられることを、李徴は今、初めて知った。
彼はただ声も出せぬまま、この島における第一の『ファン』の毛皮に、深く顔を埋めていた。
『物書き』は、死んではいなかった。
乃至、たった今、蘇った。
「……武田さん。あんたやっぱり、すごい人なんだな。宮本さんに怒り狂ってた時はどうなることかと思ったけど」
ビルの陰で一段落ついた武田観柳に向け、操真晴人は感服した様子で語り掛けた。
金勘定ばかりで人の感情など読み取れない人物なのかと思いきや、あの狂人李徴が最も欲していただろう状況や言葉を的確に与え、全体を纏めている。
口振りに反して、実のところ武田観柳という人物はとても温かい心の持ち主なのだろうと思い、晴人はほっこりした気分だった。
「はい? 私ですか? あんなもの全然怒ったうちに入りませんよ?」
「え?」
「馬鹿と鋏は使いようって言うじゃありませんか。どう対応すれば道具がきちんと働いてくれるか考えてるだけです。
宮本さんに関して言えば、あの人は丁稚と同じだと思うことにしました。見習いの小僧に商品を壊されちゃ敵いません。
伸びしろがある分、今はちゃんと立場をわからせて先達が叩き上げて行かねばなりませんから。まぁ、あの恫喝は犬を躾けたようなものです」
「は……?」
『流石カンリュウだね! 近い考えを持っている者と心置きなく話せると、なかなかボクも参考になるよ!』
「うふふ、置くような心なんて元々持ってないんじゃありませんか?」
『確かにその通りだ。これは一本取られたね!』
「……は……?」
観柳からにこやかに返ってきた答えは、晴人にとって余りにも予想外のものだった。
どうしてそんな笑顔でそんな冷血なことを言えるのか、さっぱりわからない。
晴人は額に手をやって唸った。
「い、いや……。でも実際あれでみんなは纏まってるんだし……。無感情に見えて合理的……?
大元がどうあれ出てくるものが優しければそれは思いやりと同じ……、なの……、か?」
「どうしました操真さん。頭痛ですか?」
「あ、いや、なんだか……。『希望』って何なのかわからなくなってきたよ……」
『もう一度契約をしてみるかい? 改めて魔法少女になると見えてくるものがあるかも知れないよ?』
「うん。そんな女装の境地みたいなものは見たくないんだキュゥべえちゃん」
『大丈夫! 願いによってはきちんと性転換することだってたやす……』
「くどいと眉間を撃ち抜くよ?」
操真晴人はそうして、再びマシンウィンガーのエンジンをかける。
とても善良とは言えぬむさ苦しいこの者たちの集いは、それでも確かに、美しく思えたから。
玉石混交する露店の商品の中で、ひと際輝く光となるべく、再び一同は、島の四方へ向けて奔って行った。
《KAMOYE・KAMUY・YUKAR》
そうして、生存者探索の範囲が拡大されることになっても、阿紫花英良とフォックスの行動は慎重だった。
なぜならば、ここ東側で阿紫花たちが相手取ったロボットの数は、西側と同じく多かったからである。
なるほど李徴の考察の通り、西側の異変に向かってロボットが引き上げていった可能性は高い。
だが逆に、東側から、何か近寄りがたいものがやってきている――、という可能性はないのだろうか。
東側のロボットの機体数。これに明確な意味は無いのかもしれない。
だが、無理矢理意味を考えるならば、F-6エリアにはあのロボットの大軍ですら太刀打ちできない何かがいたために、E-6の東端でロボットが足止めを喰らっていたと思うこともできる。
阿紫花のこの不安は、同行するフォックスからも肯定された。
フォックスは草原で李徴に正面から出くわしてしまった経験がある。
強力なヒグマに先に発見され攻撃を受けてしまえば、助けを呼ぶ前にも殺されかねない。
そのため彼らは、F-6に西進する危険な生物がいることを前提に行動した。
――街並みのそれなりに目立つところに、呼吸と心拍を止めたフォックスを放り出しておくのだ。
もしヒグマや危険生物が、フォックスの死体に引き寄せられ、無警戒に捕食しに来るのならば、その瞬間にフォックスがその背後を取って相手を締め上げることができる。
その隙に阿紫花が飛び出して共に討ち果たすなり、観柳たちに連絡して援護を呼ぶ。
そういう作戦だった。
そういう作戦の、はずだった。
確かに東からは、ヒグマがやってきた。
だが彼女たちは、フォックスを捕食は、しなかった。
そして阿紫花を、先に発見してしまった。
休憩中のタバコが原因で作戦が破綻するなど、本末転倒だ。
なるほどフォックスさんの言う通りでした。と、阿紫花は思った。
ここまでが、先述のような場面に阿紫花英良とフォックスが至った、その経緯である。
『た、武田を呼ぶぞ!! 殺される!! 殺されちまう!!』
『あ、は、はい――』
「……返事もできないってわけ。……もう、最悪のアイヌね」
ビルの陰で、阿紫花は震えながら、金のブローチを手にした。
だがその瞬間、彼は自身の胸のど真ん中に、ビルの壁面を貫通して強烈な殺気を浴びせられているのを感じる。
まるで至近距離で心臓へ銃口を突きつけられているような、絶体絶命の感覚。
殺し屋稼業の中でさえ数えるほどしか経験していないその感覚を、阿紫花は信じられない位置状況で知覚していた。
相手は、なぜか阿紫花の立っている正確な位置とその身長まで把握しているのだ。
そしてさらにあのヒグマは、数十メートルも離れた位置の壁越しの相手を、一瞬で、一撃で、確実に仕留めるような攻撃を行うことができるのだ――。
逃げることも、反撃することも、できない。
阿紫花は明確に、その事実を、認識した。
ヒグマは空を仰ぎ、溜め息をついていた。
身じろぎもできぬ阿紫花がいるビルの先へ、真っ直ぐにその前脚を、上げていた。
「……そう。わかった。もういい。なら、耳と耳との間に、座ってしまえばいいわ……」
「――うおぉ!! 跳刀地背拳ッ!!」
「ほえ?」
だがその瞬間、地面からコメツキムシのようにフォックスが跳ね上がっていた。
心肺停止していた体が一瞬で跳ね起きるその動作は、二頭のヒグマの虚を突くには十分すぎた。
フォックスはそのまま、紫色の小柄なヒグマの背面を取り、両手両脚でがっちりと彼女の体を固定する。
首筋からそのヒグマを捩じ上げるようにしながらカマを突きつけ、隣の橙色のヒグマの注意を最大限に逸らせようとした。
「やれ!! 今だ阿紫花!! やれぇぇぇ!!」
フォックスは決死の覚悟で叫んだ。
間違いなく次の瞬間、阿紫花を狙っていたヒグマの攻撃が自分に向けられるだろうことを、覚悟しての行動だった。
だが橙色のヒグマは、呆然としていた。
跳刀地背拳の意表突きが完全に決まったにしても、長すぎる絶句だった。
「え――?」
橙色のヒグマは、フォックスと眼を合わせて、怪訝な表情で首を傾げただけだった。
そしてフォックスが抱きついている紫色のヒグマも、抵抗することなく、キョトンとしていた。
阿紫花英良がその時、人形も持たず、ビルの陰から走って路上に飛び出してくる。
フォックスは慌てふためいた。
「おまっ、バカ、何やってんだお前――!?」
だがその瞬間、向き直った橙色のヒグマの目の前で、阿紫花は股を割って中腰に落とし、右手のひらを見せるように前へ突き出した。
会釈をするように頭を垂れ、まさに『下手に出る』その様で、阿紫花は大きく声を放つ。
「お姐ェさん方には御免下すって!! あたしぁ御賢察の通りしがなき者にございやすが、縁持ちまして黒賀村は人形舞いの阿紫花一家にて養われましたる若い者。名を英良と発しまして、稼業未熟の駆け出し者にございやす――!!」
阿紫花は総身の誠意を声に込めて、朗々と、丁寧に名乗った。
その横鬢からは未だ、緊張と恐怖の汗がだらだらと垂れている。
フォックスは呻いた。
それは彼ですら知識としてしか耳にしたことのない形式の、挨拶の一種だった。
それはかつて渡世人たちの間での手形代わりとなっていた、最も敬意ある礼式。
『……ヒ、ヒグマ相手に「仁義」切るのかよォ――!?』
「粗忽者ゆえ、先からの不躾な振る舞いまっぴらご容赦!! 行く末お見知りおかれまして、以後万事万端、よろしくお願い申し上げやす――!!」
阿紫花は畏怖に震えながら、彼にできる最大限の陳謝を述べきった。
それは阿紫花英良にとって一世一代の賭けだった。
逃げることも、反撃することもできない。
武田観柳を呼んだところで、皆が辿り着く前に殺されることは眼に見えている。
――それならばもう、謝るしかない。
きちんと自分の素性を明かし、無礼を謝罪し、相手を立てて、むしろ助けを乞う。
その手段が、阿紫花自身久しく切ったことのない、『仁義』という礼であった。
このヒグマたちに殺気を当てられた感覚は、それこそ、組合の大親分に対面した時の、そんな威圧感に近かった。
畏れ敬われる対象としての親分と、山の神。
生物の種さえ違えど、その根底には、近しいものがあるに違いない――。
阿紫花はそんな直感に賭けた。
このヒグマたちが、フォックスに対し、牙ではなく黙祷を向けていたその所作に賭けた。
きっと自分の誠意も通じるはずだ――、と。身命を賭した長台詞だった。
「え、えっと……」
ヒグマは、腰を下げたまま動かない阿紫花へ、困惑の表情を向けた。
硬直したままのフォックスと阿紫花を、彼女は交互に見た。
――駄目か……!?
二人の頬を、汗が伝う。
ヒグマは、困惑しながら、声を絞り出した。
「……ア、アタシこそ、ヤィ、アパプ(ごめん、なさい)……。え、えっと……、あ、頭を上げてくれて、いいわ……。
アタシには、そんな丁寧に名乗れるほどのものなんて、無い、けど……。穴持たず45番、二期ヒグマ。『煌めく風』の、メルセレラ、よ……」
――通じた!?
阿紫花とフォックスは、揃ってその返答に驚愕した。
メルセレラと名乗ったそのヒグマは、慌てていた。
彼女にとっても、阿紫花の行動は予想外のことだったらしい。
何か彼女の表情は、上気しているようにすら見て取れる。
「それとこの子は……、『触れた者を捻じる(トリカブト)』のケレプノエ。……なんで、生きてるのかしら、あんた」
「あ、あ、こちらは、拳法家のフォックスさんでして……。あの、死んだフリの、得意な方で、いらっしゃいます……」
互いにしどろもどろになりながら、異種間の紹介が、微妙な距離感を隔てて進行する。
その時紫色の、ケレプノエと紹介されたヒグマが、フォックスを背に乗せたまま、ぴょんぴょんと小躍りするように跳ねた。
「メルセレラ様ー。初めてメルセレラ様以外の方に、だっこしていただきましたー!」
「う、うお!? な、なんだおめぇ!?」
「フォックス様とおっしゃるのですねー? フォックス様! フォックス様フォックス様!」
「なんだなんだ、おい!?」
そのヒグマは、明らかに喜んでいた。
フォックスが全力で締め上げているはずの背中は、彼女のようなヒグマにとって、ぎゅっと抱きしめられているようにしか、感じられないようだった。
メルセレラは、あたりをはしゃいで跳び回るケレプノエの姿を、呆然と眼で追っていた。
「……そう。死なないのね……。あの子に触れても、死なないのね……」
「あ、ああと……。正確には一度死んでると言いますか……。あの、何か、あるんですかい?」
「ケレプノエは、トリカブトの毒を全身から出し続けてるのよ。だから、熱分解せずに触れると、大抵の生き物は、死んでしまうわ……」
阿紫花の問い掛けに、ほとんど上の空で彼女は答えた。
その内容を耳にして、阿紫花は再び寒気を覚える。
一歩間違えれば、やはり自分たちはこのヒグマたちに殺されていたに違いない、と再認識した。
そんな危険な毒を帯びたヒグマ以上の異常性を、姉貴分であろうメルセレラというヒグマは有しているのだろう。
仮に助けを呼べたとしても戦いになれば、助けに来た義弟や武田観柳もろとも、全滅させられていたに違いない。
そして今ですら、なぜこのメルセレラとケレプノエが、自分たちに攻撃を加えていないのかの真意は、わからなかった。
「ええと、ですね……。メ、メルセレラの、姐さん……」
「……『アネサン』? それは、どういう意味かしら」
問いかけようとした阿紫花の言葉尻が、メルセレラに唐突に喰われた。
今まで呆然としていたとは思えない反応速度で、かつ、今までに無い険しい表情で、彼女は問うた。
再び阿紫花は、胸に銃口を突きつけられるあの殺気を感じる。
噴き出す汗を堪え、彼はできる限り誠実に答えた。
「『姐さん』というのは、あたしらその道の者にとって、女性に対する最大限の敬称でありやす……!
とても実力のある目上の女性だとお見受けしやしたので……! お、お気に障るようでしたら、申し訳ありやせん!!」
再び深く頭を下げた阿紫花の頭上で、微かに笑い声が聞こえた。
眼を上げると、なにやらメルセレラは、興奮した様子で、独り言を言っていた。
「……あねさん……。最大限の敬称……。うふ……、め、目上……」
「あ、あの……、い、いかがしやしたか……?」
阿紫花の声に、メルセレラはハッと気を取り直し、一転して雰囲気を変え、泰然とした様子で胸を張る。
「……オホン。いえ、何でもないわ。英良と言ったわねアイヌ。良いでしょう。私を『メルセレラの姐さん』と呼ぶことを許すわ。
もっと姐さんと呼んで崇め敬いなさい。アイヌにしてはあなたなかなか分かってるじゃない。気に入ったわ。ヤニ臭いけど」
「あ、姐さん……?」
「うん、うんうん。良いのよ、もっと呼んでも」
困惑する阿紫花に、メルセレラは満足げに頷く。
その様子で、阿紫花はようやく察した。
――この姉さん方、義弟さんや李徴さんに似てる……!
礼節や自己の規律をこじらせ、誰にも受け入れ難いままに過ごしてきてしまった末の姿。
李徴や隻眼2の話に聞く研究所の様子では、なるほど下手に自我を強く持ってしまったヒグマが認められることなど、そうなかっただろう。
少しでもその
ルールから外れてしまえば、途端に逆鱗に触れて大爆発してしまうだろう危険な生命体。
とても常人には対応しきれないだろう危うさの塊だ。
だがそこで、阿紫花は微かに、口の端を上げた。
「……もし宜しければ、メルセレラの姐さん」
「うんうん、何かしら英良」
「あたしらに、お力添え下さりやせんか?」
「――お、おい、何言ってやがる阿紫花ぁ!?」
はしゃぐケレプノエの背に必死で跨っているフォックスが、驚愕の声を上げる。
阿紫花はそれに構わず、まっすぐ、メルセレラの瞳を見つめ返した。
「……ご存知のことかもございやせんが、この島には、人獣の区別無くあたしらを絶望に落とそうとたくらんでる機械がいくつも潜んでいやした。
先程フォックスさんと一緒に待ち伏せをしていたのも、それに対抗するためです」
「……ああ、なんだ。そういうことだったの。アタシたちもそいつらは、何体も壊してきたわ」
メルセレラからは、願っても無い答えが返ってくる。
阿紫花はさらに股割を深くし、平に頭を下げた。
「この通りお願いいたしやす、メルセレラの姐さん。そのお力で、あたしらと一緒に、この島に希望をもたらして下せぇ!!」
「ええ、良いわよ。何、あんたたち他にも仲間がいるわけ?」
「おい阿紫花!? 連れて行くのか!? 連れて行くのかこいつらを!?」
「フォックス様とー、メルセレラ様とー、一緒で嬉しいですー!」
二つ返事だった。
阿紫花は顔を伏せたまま震えた。
奇跡のような機運の連続だった。
「……ええ、あたし以上に、礼節を弁えた、できたモンばかりでさ。きっとメルセレラの姐さんにも、失礼のないおもてなしができるかと存じやす」
自分一人では敵わぬような強大な相手に向かい合ってしまった時、どうするべきなのか。
その一つの答えは、相手を味方につけることだ。
かつての任侠たちは、常にそうして、大樹の陰に力を借りていた。
ここにいたのが、阿紫花でなかったなら。フォックスでなかったなら。
もしあの時、彼がタバコを吸っていなかったなら。
きっとこんな結末には、なっていなかったのだろう。
『……こちら阿紫花フォックス組です。F-6エリアで生存者を発見いたしやした。
名前はアイヌ語で、「煌めく風」のメルセレラさんと、「触れた者を捻じる」ケレプノエさん。
あのロボットの存在は既にご存知で、喜んであたしらに協力してくださるとのことでした。
お二方とも女性ですので、くれぐれも失礼のないように、ご対応下せえ――』
阿紫花英良は、そうして自信を持って、彼女達の紹介状をしたためた。
元から、自分達の仲間にはとても常人には対応しきれないだろう危険な生命体しかいないのだ。
とても善良とは言えぬむさ苦しいその者たちの集いは、それでも確かに、美しく見えるだろうから。
奥ゆかしい礼節に満ち溢れたテレパシーは、そうして風のように、島の四方へ向けて奔って行った。
最終更新:2015年10月13日 08:43