平行展望4:Alarm


 暁美ほむらは知っている。
 もう自分は絶望に堕ちるしかないのだということを。

 ほむらは頭を蹴り砕かれ、診療所2階だった水面に死んだ体を浮かばせている。
 もう令呪は1画しかない。
 自分の体を復元させれば終わりだ。
 何もできない。
 復元させたところで、もはや自分の体は小銃の反動にすら耐えられないのだ。
 一般人の力にも劣る。ヒグマなんかには太刀打ちできるわけがない。
 かといって、もう攻め手もない。
 魔力はわずかに、時間を5秒止められるかどうか。止めたとしても、魔女化と引き換えだ。
 そうして魂を振り絞って手榴弾を投げたとしても、ヒグマに避けられるか、戦っている仲間たちを巻き添えにするだけ。

 診療所を包囲しきっている数十頭のヒグマたちを捌ききれるのか。
 流され埋まってしまった仲間たちを助け出せるのか。
 敵首魁の追撃から地上へ逃れられるのか。

 考えても考えても、暁美ほむらは展望も見えぬ闇の中で死に続けることしかできなかった。

『――暁美さん』
『マミ……、さん?』

 その時、ほむらへテレパシーの声が届いていた。
 声の主は、倒壊した診療所1階から、水没する通路の方へ出ていったはずの巴マミだった。


『端的に状況を伝えるわ。纏さんが、魔女化したの。それで今、相手のリーダーらしいヒグマと打ち合ってる。
 ただの物理攻撃で魔女化した纏さんが押されてるくらい。相当な実力だと思うわ』
『は――!?』


 信じ難い言葉だった。
 絶望感をさらに深める、魂が冷えるような情報だった。

『あなたは……!? 今どうなっているの!?』
『胴を真っ二つにされたわ……。でも上半身はなんとか動く。死んだと思われてる間に、暁美さんと同じように対策を考えてみるわ。
 こっちに潜水してるヒグマたちは任せて。デビルも、すぐに追いついてきてくれるはずだから』

 かろうじて絞り出した返事に、巴マミは重傷を負っているらしいながらも気丈に応える。
 ほむらは状況を整理しようとしたが、戦慄に思考が纏まらない。
 単純な戦闘力では現状最も高いと思っていた纏流子が、味方でなくなったのだ。
 敵性存在とのパワーバランスが一気に崩壊して奈落へ墜ちたに等しかった。

『対策なんてあるわけないじゃない――!! 一体どうして任せられるというの!? 纏流子の魔女と、40体以上ものヒグマを!?』
『簡単な話よ。ヒグマ全員を足止めしてる間に、纏さんを、元に戻してみる』

 マミの言葉に、ほむらは驚愕を通り越して恐怖を覚えた。
 あまりにも楽観的すぎる。
 巴マミがいくらリボンによる束縛魔法に長けていたとしても、40頭ものヒグマの怪力を、今の少ない魔力で封じ続けられるわけがない。
 まして、魔女を魔法少女に戻すなどという前代未聞の現象を、都合良くここで実現させられる可能性など、暁美ほむらには考えられなかった。


『やめて! 魔女化した魔法少女を、元に戻せるわけなんてないわ!』
『やってみなければわからないでしょう!? それとも、暁美さんはしたことがあるの!?』
『……ッ。考えたこともなかったわよ……!!』
『じゃあ、できるかも知れないじゃない!!』

 マミは強い口調で、言い放っていた。
 だが、無謀だ。蛮勇だ。皮算用だ。
 彼女の言葉が、ほむらには脳内お花畑な少女のたわごとにしか聞こえない。
 事実、何の確証にも裏付けられていないその発言は、たわごと以外の何物でもない。
 だが一方で今の暁美ほむらには、巴マミが強く信じているその可能性に賭ける以外の選択肢がないことも、また事実だ。
 心中ほぞを噛むような、思いだった。

『……仮に魔女化が可逆的な現象だったとしても。どうやってそこの潜水ヒグマ全員と、暴れる纏流子を抑えておくつもり……?
 いくらあなたがリボンで縛っても、封じきれるとは到底思えないわ』
『暁美さん。あなたは私の魔法を知ってるようだけど。
 ……私の本質は、知らないんじゃない?』

 巴マミの口調は、揺るがない。
 それは確かに、この状況を打破できる自信と自覚が彼女を裏打ちしていることの証左だった。

『もっと私たちを頼って。何も言わず抱え込んだりしないで欲しいの。あなたの思いは、きっと私たちを導いてくれるから。
 ……あなたは、早く診療所の人たちを助けてあげて。球磨さんとの通信が妨害を受けてるの。
 あなたの言ってたヒグマの能力だと思うわ。そちらでも戦闘が続いているの』

 ほむらを慈しむように、諭すように、巴マミは語った。
 階下から、瓦礫を押しのけ押しのけ、水を漕ぐ声が響く。


「切り札は必ず、切るべき時がわかるはずだ。わからぬうちは切らんでいい。
 ……もしかするとその札は、マミの舞台の優先番号札かも知れんからな!」
『……そうだね。そうするよ』

 デビルヒグマと球磨川禊が、その決意を声に通路の軍勢へと向かっていく。
 蹂躙の師団に立ち向かう足音が、確かにそこにはあった。

 心を、落ち着ける。
 崩れ落ちてゆく道の分岐の先を、いつも舗装してくれていたのは、仲間だった。
 その仲間が、暁美ほむらに強く訴えかけてくれる。
 信じないわけにいくものか。

 胸を覆う翳りに、切れ間が見えたような気がした。


『――切り札が、あるのね?』
『ええ。私はね……。本当、独り善がりな子。わがままで、そのくせ寂しがり屋で、弱くて……。
 だからね、私の心は、リボンなんていう綺麗なものでは表し切れない――』


 決意で紡がれたその『鋭き糸』に、暁美ほむらは自分の望みを託した。


    ≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠


「……おかげで“最悪”の寝覚めだ。俺は大層“イラついた”ぜ、おい」
「……そうだな。とても苛立っている心が聞こえる」

 診療所の3階だった空間には、2頭のヒグマが、じりじりと距離を測るようにして対峙していた。
 片方は、吹き抜けてしまった天井へと頭が突出してしまうほどに大柄なヒグマだ。
 1.5メートルフック付きシャッター棒を手に取る彼は、ピースガーディアンの一頭、ヒグマ帝国警護班のナイトヒグマである。
 そしてもう一方には、低く身をかがめ、周囲に長い触手のような体毛をはびこらせているヒグマがいる。
 聴音機と探針儀を以て相手の隙を伺おうと息を潜めている彼は、艦これ勢、第十かんこ連隊隊員のデーモン提督であった。

 ナイトヒグマは、細かく周囲に視線を配りながら、低い声でデーモン提督を威圧する。

「“言い訳”があるなら聞いてやる。お前ら“艦これ勢”は何を考えてやがるんだ」
「悪いが時間は稼がせん」

 だが問いかけにデーモン提督は答えず、太くよった触手を勢い良くナイトヒグマに振るっていた。
 それは情報を与えぬままに機先を制するための奇襲だった。

 ナイトヒグマは、気絶していた状態から目覚めたばかりだ。
 ビショップヒグマたち他のピースガーディアンはどうなったのか。
 診療所が、なぜ崩れかけているのか。
 艦娘の球磨が、なぜ粘液まみれで怒りをたぎらせたままへたりこんでいるのか。
 碇シンジが、なぜ巨大なエヴァンゲリオンを半分デイパックから出したままその下敷きになっているのか。
 4体のヒグマが、なぜ死体になってフロアに転がっているのか。
 そして艦これ勢であるデーモン提督たちの戦力や状況、その全ては到底把握し切れていない。

 デーモン提督は、その一撃で勝負を決めるつもりだった。
 触手を絡め毒液を注入させてしまいさえすれば、相手の感覚を狂わせ戦闘不能に陥れることは簡単なのだ。


「翻ってェ――!! “三日月突き”!!」


 だが瞬間、闇の中に振るわれた触手の上に、ナイトヒグマの巨体が踊った。
 鎧を纏わぬそのしなやかな肢体は、あまりに軽やかな半弧を描いて宙を割る。
 触手にかすりもせず、デビルヒグマと対峙したときよりもさらに鋭さを増した突きが、デーモン提督の鼻先めがけて振り下ろされた。

「ぬっ――」
「“虎杖散らし”ィ!!」

 すんでのところで横に避けたデーモン提督を追い、ナイトヒグマは猛烈な勢いでシャッター棒を振るった。
 つむじ風を巻く剣戟に、いなそうとするデーモン提督の触手の叢が次々と斬り飛ばされてゆく。
 ナイトヒグマの苛烈な猛追は、瞬く間に彼を診療所の壁際へと追いやっていた。


「“大人しく”、しやがれ――!!」
「だから、聞こえると言っただろう――、相当な苛立ちだな」

 追いつめられたかと見えたその時、デーモン提督は不敵に笑うのみだった。
 壁に背をつけたデーモン提督が身を沈ませると、振り下ろされた剣先はただほんの少しの勢いの余りで、その背後の壁へと激突する。
 アルミ製の細いシャッター棒はその衝撃に耐えきれず、真っ二つにへし折れていた。
 デーモン提督はその隙に、クラゲのように壁際の位置からすり抜けていく。


「チッ――、“ヤワ”すぎるッ! おいお前ェ! 俺の“ヒグマサムネ”はどこだよッ!!」

 ナイトヒグマが吠えた。
 その言葉は、腰砕けになったままの球磨に向けて投げられたものだ。

「あ、う――」
「さぁぁて、いずこだろうなァ?」

 だが今の球磨は、口を開く動きさえも皮膚感覚に響く。
 彼女が答えられないでいる間に、デーモン提督は踏み込んで攻撃に転じた。

「ヒグマサムネは“変わる剣”だ! 使い手に感応してヒグマ細胞が機構を組み替える……!
 あれはどこにある!? 教えろ!! すぐにこの“クラゲ野郎”を叩きのめしてやる!!」

 八方桂に機敏なステップを踏みつつ、触手を避けてナイトヒグマは叫ぶ。
 デーモン提督の触手の危険性を、ナイトヒグマは完全に理解しているわけではない。
 だが戦場の勘が、それに触れてはならない、と彼の動きをより大きくさせている。
 視界のほとんどない闇の中で、嗅覚と風の動きだけに頼った回避動作だ。追い込まれるのは時間の問題だった。

 碇シンジが、潰された手の痛みに耐えながらも叫び返す。

「あ、あれは、纏さんが持ってます――!! 診療所の外です!!」
「外――!?」
「くくく、残念だったなァ――!?」

 返答した時には、今度はナイトヒグマの方が壁際に追いつめられるところだった。
 だが、確実に絡みつかせるはずだったデーモン提督の触手の一撃は空を切った。


「“塞馬脚”ッ、シァッ!!」


 触手が当たる寸前に、突然ナイトヒグマは後ろに大きく体をのけぞらせて回避したのだ。
 そして、前足を壁面に着けると同時に後ろ脚を大きく振り上げ、宙を断ち割るような挙動で足爪を放ち、デーモン提督の顔面を強かに跳ね上げていた。

「ぐごぉ――!?」

 装備の聴音器によりその反攻を寸前で察知しながらも、デーモン提督の回避は間に合い切らなかった。
 鼻先を切り裂かれ倒れたデーモン提督の背後に、ナイトヒグマは壁からそのまま三角跳びのように着地し、前脚の爪を突きつける。

「俺の“アクロバティック・アーツ”はシバさん直伝だ。
 ……俺に“ヒグマサムネ”しか切り札が無いとでも思ったか?
 そう簡単に“見切れる”と思うなよ!!」
「……な、なるほど……。そのようだ……」

 デーモン提督は、マズルを押さえながら地に伏せて咳込む。
 まともに受けていれば頭蓋が砕け散っていてもおかしくない。
 しかし潰れた鼻から血を滴らせながら、彼は依然として不敵に笑うのみだった。


「……だがもはや、切り札など意味がない。
 ただでさえ大柄なお前が、そこまで大仰に動き回ってくれたのだからな」
「……何“わけわかんねぇこと”言ってやがる!」

 ナイトヒグマは苛立ちに任せ、その前脚の爪をデーモン提督へと振り下ろそうとした。
 だがその動作は途中で膝砕けの格好となる。
 力が抜け、全身に恐ろしく甘い掻痒感が襲った。


「し、痺、れっ……!?」
「さあ、効いてきたようだなぁ……!」

 倒れ込んだナイトヒグマを、今度は立ち上がったデーモン提督が見下ろす番だった。


「『野老裂き』と、そう言ったなぁ……? まさにこれこそ。
 『なづきの田の、稲幹(いながら)に稲幹に、這ひ、廻(もとほ)ろふ、野老蔓(ところづら)』よ!!」


 倭建命の死に際して詠われたその歌を、勝ち誇ったようにデーモン提督は吟じた。
 ナイトヒグマの脚には至る所に、細く半透明の、ほとんど感触も存在感もない毛がまとわりついている。
 それは戦いの始めに、ナイトヒグマが引きちぎったデーモン提督の毛束であり、そして激しい剣戟によって斬り飛ばしていった数々の触手である。
 乱戦で巻き起こる風に、毛束はほどけ、暗闇の中に舞い散っていた。
 その表面に依然として毒液の成分を残したままに、である。
 既にこの診療所3階の空間は、舞い飛ぶ悪魔の毒毛で埋め尽くされていたのだ。

 ナイトヒグマは、フロアを余りにも機敏に動きすぎた。
 攻撃を回避していたその動きのために、彼は、余計にデーモン提督の毒を体表に吸収することとなっていた。


「あ、あ……」
「く、そ……」

 毒液によって身動きのとれなくなった球磨とナイトヒグマは、ままならぬ肉体で呻きを上げることしかできない。
 ただ碇シンジだけがギリギリと歯をかみしめて瞳を燃やす中、悠然と居住まいを正したデーモン提督が突如空中に言葉を投げた。


「ゴーレムか? 何をやってる。上は片付いたのか?
 逃げ道を塞ぎ、地上からの不測の干渉を防がねばならんのは解っているだろう?」


 彼は6メートルほど上方の天井を見上げながら声を張る。
 何か、他の者には聞こえることのない音を聞き取っているらしい。

「上から攻め込まれることなどあってはならんし……。
 ……何より、誰かが隠れて地下の輩を逃がそうとしたとしても、邪魔者は掃っておかねばならんのは同じだろうからな」

 もはやまともに動ける者がいないのをいいことに、彼は姿の見えぬ何者かとの会話に集中してしまっている。

「くくく、瑞鶴なんてものがいたから、隊を離れて掃討すると言ったのはお前じゃないか。
 ……俺に隠れて、ひっそりとどこぞに裏周りできるとでも思っていたのか?」
(――瑞鶴!?)


 その単語に、球磨はしっかりと反応する。
 体はのぼせたような甘い感覚に浸って動かせないながらも、彼女は微動だにしないことで毒の回りを遅くし、頭脳はしっかりと醒ましていた。


(地上に瑞鶴がいるクマ……!? それで連隊の一員が、逃げ道を塞ぐついでに掃討に行ったクマ……?
 でも瑞鶴の存在は、球磨たちにとってもこいつらにとっても完全に想定外のことだったみたいだクマ。
 口振りからして、別行動のゴーレムというヒグマの信用は元々薄かった……?
 まるで地下の人を逃がそうとしていたそいつを、厄介払いしていたかのようにすら聞こえるクマ。
 この索敵と防戦に特化したイカクラゲの存在は、そのヒグマへの予防線にもなっている……?)


 空母艦娘であり、紛れもなく仲間であるはずの瑞鶴の存在、そして味方になり得るかも知れないヒグマの存在。
 それがほんの6メートル上の、天井を隔てた空間にあるのだ。

 今この場にある手駒だけではどうしてもリザイン(投了)に追い込まれるチェック(王手)の嵐へ、『間駒』を打てる可能性がにわかに生じたのだ。


(地上に抜けれさえすれば……、勝機はあるクマ!!)


 球磨が閃きと共に送った視線へ、碇シンジが燃える瞳を重ねた。


    ≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠


 鋭利なる糸、『フィラーレ・アグッツォ』。
 巴マミの有するその魔法の存在を、暁美ほむらはテレパシー越しに初めて知ることとなった。

 彼女が知らなかったのも無理はない。
 それは巴マミが、己の本心と絶望に向き合いながらも、なおも進まんとした時にのみ練り上げることのできた強靭なる刃だったのだから。
 起源魚雷によってその糸が破壊されるまでにも、瞬く間に20頭近くのヒグマがこの魔力に切断されていくのを暁美ほむらは感じた。

 闇に紛れるほど細く洗練され、余剰と無駄を一切排した、普段の巴マミとは全く異質な機能美。
 彼女の根源を体現する、瞻望と希求の網は、残酷なほどの美しさを以て暁美ほむらの魂を震わせた。


『――纏さん……! お願い、眼を覚まして! このままではあなた、死んでしまうわ!!』


 続くのはリボン仕込みの弾丸という、彼女の十八番ながら確実な初見殺しとして機能する攻撃罠だ。
 的を絞らせず、常に次の展開の布石を打つ、実に巴マミらしい鮮やかな戦術だった。
 敵首魁の動きを封じ、彼女は纏流子に向けて息を振り絞る。
 ほむらもまた、魂の中で必死に祈った。

 纏流子が正気に戻ること。
 これだけが、今のほむらたちに残されたほとんど唯一の勝機だった。


『私とあなたは、同じよ。だからこそ、絶対に違う……!
 あなたは、こんなことで魔女になるような人じゃないわ……!』


 マミの言葉は、流子だけでなくほむらにも向けられているように思えた。

 どんなに可能性の少ない、絶望的な環境に直面しても、暁美ほむらはそれを乗り越えてきたのだろう――?
 どんなに行く手が見えず、解決策がわからなくても、暁美ほむらの作戦は先を拓いてきたのだろう――?
 そう言外に、問いかけられているような気がした。

 だが、纏流子からの応答は、ない。
 ただ怒りと狂気に満ちた重圧が、巴マミとのテレパシーにまで響いてくるだけだ。
 それはまさに、絶望の末に己を見失った、魔女の思念そのものだった。


『聞こえていないの!? 私の言葉が、聞こえないの、纏さ――!?』 


 その声もむなしく、巴マミの肉体は再びテレパシーごと両断された。
 意識の繋がりが引きちぎられる。
 命綱のように暁美ほむらの魂へ繋がっていた巴マミの思考が、暗闇の中に吹き飛んでゆく。
 ほむらの魔力は、届かない。

 暁美ほむらの意識はまた独り、どす黒く濁った砂時計の中に蹲ることしかできなかった。

 駄目だ。これでは皆、死んでしまう――。
 ほむらの目の前は、真っ暗だった。


    ≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠


 ――みぎはには、冬草いまだ青くして、朝の球磨川ゆ、霧たちのぼる……。

 この世界の歴史が書き換わったのは、まさにその瞬間だった。


    ≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠


 突然、碇シンジの体が立ち上がっていた。

「なっ――」
「行けェ!! エヴァ!!」

 有り得ないはずの挙動だった。
 彼は半分だけ飛び出したエヴァンゲリオンに腕を下敷きにされ、動けないはずだった。
 逸早く反響でそれを察知したデーモン提督ですら、一瞬その現象を信じることができなかった。

 ――碇シンジは、潰された自分の手首を『引きちぎって』いた。


「ガァァァアァァァァ――――!」
「出ろ、出るんだッ!! そのヒグマを、蹴り殺せ――!!」


 闇に血飛沫が飛ぶ。
 両手の先を引き千切ったシンジは、その痛みすら塗り込めるほどの怒りを込めて、叫ぶ。
 エヴァンゲリオン初号機が、その怒りに呼応するかのように雄たけびを上げ、身を乗り出した。

 診療所が揺れる。
 デイパックが潰れる。
 エヴァンゲリオンの頭部が、6メートル上の天井を突き破って地上へと飛び出る。
 その肩が、腕が、上半身が。
 腰が、脚が、そして全身が、この空間へとにじり出てくる。


「愚かな! そんなことをすれば天井が崩れるぞ!?」
「それがどうしたあぁぁぁぁぁぁ――!!」


 恐懼するデーモン提督の言葉に、碇シンジは気焔を返す。
 ATフィールドが展開される。
 崩落してくる総合病院の瓦礫を、全開となった力場が空中で堰き止める。


「僕は守られるだけじゃない――!! 絶対に助け出して見せる――!!
 レイを、アスカを、みんなを、母さんの分まで――!!」


 碇シンジは、唐突に思い出したのだ。

 ――自分が、ピースガーディアンとの戦いでなす術もなく無様に気絶し人質になっていたのだということを。

 それは情けなさを通り越し、自分自身に怒りすら覚えるほどの無力感だった。
 自分が許せなかった。
 そんな自分を打ち毀し、乗り越えられるのなら、手首の一本や二本、引き千切ったところで物の数では無かった。
 相手を興奮させ我を忘れさせるデーモン提督の毒液は、彼の怒りの火に、さらなる油を注ぐものにすぎなかった。


「頼むクマ……。シンジくん……!!」
「行けええええええええええ――!!」


 球磨が唇の端を上げる。
 降り注ぐ大小の瓦礫が、ATフィールドの隙から落ちて診療所を揺らす。
 それにも構わず、シンジは血飛沫と共にその腕を振り降ろした。
 エヴァンゲリオン初号機の巨大な足先が、唸りをたててデーモン提督へと振り抜かれた。

「くおおっ――!?」

 彼は全身に残った触毛を体表に纏め、分厚いクッションのようにして防御姿勢をとる。
 巴マミの射撃や球磨の砲撃すら弾きかねないその攻防一体の盾はしかし、エヴァンゲリオンの蹴りを完全にいなすには力不足だった。


「ぐはああぁ――!?」
「よし――!!」
「やったクマ……!」


 コンクリートが陥没するほどの勢いで、デーモン提督の肉体は診療所の壁面に叩き付けられ、地に落ちる。

「踏み潰せ! エヴァ――!!」

 快哉を上げたシンジは、止めを刺さんとその腕を振り上げた。
 倒れ伏したデーモン提督は、呻くのみで立ち上がることができない。
 エヴァンゲリオンの大きな足裏が、逃げることのできぬ彼へ、振り降ろされようとした。


「クシュゥ……ゥゥ……――」
「何!?」


 だが、途中でエヴァンゲリオンの動きは急停止した。
 デーモン提督に届く手前で、その脚が力なく床に落ちる。
 初号機はその後、いくらシンジがうろたえようと、ピクリとも動かなくなっていた。

「エネルギーが切れた……!? いや、違う……? どうしたんだ、エヴァ――!?」

 エヴァンゲリオンは、内蔵電源では5分間しか動くことができない。
 外部からの電源供給――それこそ示現エンジンによる『制限』のような――がなければ、活動限界を迎えた後はただのでくのぼうに成り果てる。
 先程デイパックからシンジが中途半端にエヴァンゲリオンを飛び出させてしまってから、一体何分が経過していただろうか。

 シンジは怒りのあまり、その電源の持続時間を、完全に失念していた。


「あ……、あ……」


 碇シンジは、震えた。
 腕からは血が噴き出し続けている。
 急激に、手を引き千切った激痛が戻ってくる。
 眼を上げれば、そこには既に、体勢を立て直したデーモン提督がいた。

「……小癪なァ!!」
「うぎゃああぁぁぁぁ――!?」

 シンジは、叩きつけられる拳を両腕で防ごうとした。
 ヒグマの圧倒的な筋力はしかし、彼の橈骨と尺骨を両方ともへし折り、千切れていたその腕をさらに引き裂いて地に叩き落とした。


「あぎゃああぁぁぁぁぁ――!? ぎいぃぃやぁぁぁぁぁぁ――!?」
「くくく、ゴーレムか……? フン、奴も腐っても潜水勢の端くれだったか……?
 まぁ、何にせよお前の心は、いくら浮かぼうとその程度だったということだ」


 激痛にのたうつ碇シンジを見下ろしながら、デーモン提督は不敵に笑った。
 エヴァンゲリオンが停止した原因は、デーモン提督にもわからない。
 だが結局、彼の絶対的優位が覆ったわけではなかったのだ。
 後は順次、再び動けなくなった相手にとどめを刺して行けばよいだけだ。


「『亡き母や、海見る度に、見る度に』……か。哀れな少年だ。
 深き力を得ることもならなかった、己の無力さを嘆き散るがいい!」
「うぐああぁぁぁ――……!!」
「くそ、ぉぉぉ――!!」


 碇シンジが、ナイトヒグマが、苦悶に呻く。
 球磨はただ、憂いと絶望に満ち満ちたこの空間に、震え続けることしかできなかった。
 そしてシンジの上に振り降ろされようとする拳に、強く眼を閉じる。

 彼女は、神に祈った。
 軍神に祈った。
 あの記憶から来た『軍神』広瀬武夫のように、窮地に希望を切り拓き続けてきた彼女の名を、念じた。


(助けて、ほむら――!!)
(了解。今行くわ)


 その時球磨の耳に、あのタイムラインの東から声が響いたような気がした。


    ≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠


 辺りに響き渡ったその声は、爆音だった。
 診療所3階の窓が、突然爆発したのだ。
 吹き散った窓ガラスや手榴弾の破片が、たちこめる粉塵と共に球磨たちの方にも飛んでくる。

 距離が開いていたために誰にも怪我は負わせなかったものの、その爆発はもう一人、動ける人間がこの場に出現したことを意味している。

「何――!?」
(手榴弾――!? ならこれは……)

 デーモン提督が、突然の事態に動きを止める。
 破壊された窓へと向き直り、彼は全身の触手を展開した。


「爆弾の類が俺の触手に効くと思っているのか……!?
 もう一度やってみろ。お前の仲間や診療所が爆死するだけだぞ!!」
「でしょうね」


 窓の外の敵に向けデーモン提督が声を張り上げた瞬間、閃光が辺りを埋める。
 そして次の瞬間、わずかな風切り音の後に、彼の右腕にボン、と小さな爆発が起きた。

「ぐおぉぉ――!?」
(陽動クマ!!)

 彼の右前脚の触手が、その小爆発で纏めて切断されていた。
 デーモン提督は正面の窓からではなく、フロア横の階段から狙撃を受けていたのだ。
 狙撃手は、階下から窓に手榴弾を投げ上げ、爆音でソナーの機能を乱しながら意識をそちらに向けさせていた。
 その隙に階段を駆け上がり、その者はデーモン提督の声の位置だけで狙撃を遂行したのだ。
 こんな芸当のできる人間を、球磨は一人しか知らない。

(ほむらクマ!! ほむらが、来てくれたクマ!!)

 そう。
 気散じの風が、暁美ほむらの目覚めを隠して吹いた。

 急襲の抜かりを突き、暗闇の診療所に、少女の足音が走る。
 手榴弾の爆音に、デーモン提督のソナーは未だ機能を害されている。
 彼は突如現れた狙撃手の正体を特定できなかった。


「おのれぇぇ――、何者だァ――!!」
「答える義務はないわ」


 閃光が放たれる。
 マズルフラッシュだ。
 目の眩む彼のもとに、わずかな風切り音だけを立てて、再び弾丸が着弾する。
 そして、密に編まれた触手に弾かれることもなく、それは小爆発と共に触手をごっそりと斬り落とす。

「完全に発射音を消すサイレンサーと、弾けぬ銃弾だと――!?」

 デーモン提督は戦慄した。
 闇に紛れてやってくる狙撃手の武装を、デーモン提督は防ぎきれない。
 そして彼は、発射音を聞けず、フラッシュに眩まされ、その相手を知覚することもできない。
 しかし相手は、光に照らされるデーモン提督の全身を過たず捉えているのだ。
 その間にも、再び別の場所からマズルフラッシュが発生し、弾丸の爆発がデーモン提督を抉った。

「ぐおおぉぉぉ――!?」

 その爆発は、銃身の先に立つ彼に、空想の夜を降ろす。
 正体不明の恐怖。対処不能の恐怖。
 恐怖という闇夜が、狙撃手の狙い通りに彼へと襲い掛かった。

(ほむら、どこにそんな魔力を隠してたんだクマ!? すごい、すごいクマ!!)

 そして球磨は、碇シンジは、人知れずその光景に興奮した。

 狙撃手、暁美ほむらが放っているその銃は、豊和工業の89式5.56mm小銃であるはずだった。
 その小銃にはしかし、デーモン提督の触手を貫けるほどの威力も、ましてや射撃位置を察知されない程のサイレンサーも、さらに言えば目の眩むほどのマズルフラッシュもなかったはずだ。
 そうなればつまり、彼女は魔力で小銃をこのように超強化しているのだとしか考えられない。

 球磨の記憶では、ほむらの魔力は底を突きかけていたはずだ。
 その上、その身体能力も、既に銃の反動に耐えられるレベルに無かったはずだ。
 新たに手に入れた令呪は、残りあと一画。その一画を用いて強化したにしては度を越している。
 何にしても球磨の思考にのぼるのは、勝利に向かう興奮だけだ。

 3回目の狙撃を側頭部に喰らっていたデーモン提督はその時、顔面に血を流しながら吠えた。


「おのれ――、『音に聞く高師の浜のはま松も、世のあだ波はのがれざりけり』!!」


 瞬間、巨大な太鼓かドラムを叩き付けたような、凄まじい音圧が空間を揺らす。
 手榴弾の爆音による妨害から回復していた探針儀が、最大出力の音波を放出したのだ。
 膨大な空気の波動が、彼の前方にいた狙撃手の全身を叩く。

 回避する場所はない。
 そしてその威力も、耳だけでなく、内臓すら破壊するほどに強烈な一撃だった。

「うぐ――!?」
「そこかぁァ――!!」

 突如襲った強い衝撃に、狙撃手が腰砕けとなる。
 その瞬間に敵の位置を反響定位したデーモン提督が、渾身の力を込めてその前脚を揮っていた。


「げあ――」
「ほ、ほむら――!?」
「ほむらさん――!?」

 少女の肉体が、くの字に折れて宙を舞った。
 壁面に叩き付けられた彼女の胴体からは臓物が溢れ、凄惨な血臭が地に撒き散らされる。
 だがほとんど間断もなく、その少女は黒髪を掻き上げて立ち上がった。


「……お前は先程殺していたはずだが……。どうやら殺し足りなかったようだな」
「……そうね。死に損なうのは、慣れてるから」


 少女の傷口がぶくぶくと蠢く。
 飛び出した臓物が千切れて朽ちる。
 代わりに腹腔に新たな臓器が生じ、皮膚が伸び、瞬く間に肉体が修復されてゆく。
 暁美ほむらは、血塗れの無表情に赤い眼鏡を掛け直し、再び小銃を構えていた。


    ≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠


『「一角獣の角より奪い取られ、われは光を失いぬ。
 わが名を唱えるものが わが光を甦らせるまで、われはこの扉を閉ざす」。
 私は、暁美さんやみんなに助けてもらえるまで、光を失っていたわ。でも、今は違う』

 巴マミが切断され、全ては絶望に墜ちたかと、そう思えた瞬間だった。
 彼女は私に、そんなテレパシーを送っていた。

 ――巴マミは、あの絶望的な状況を、自力で脱したのだ。


『「そのものに、われは百年の間明りとなり、ヨルのミンロウドの暗き地底において、よき導き手とならん」。
 ……わかるでしょ?』


 巴マミは私に向けて、謎めいた呪文のような言葉を語り掛けていた。
 わかるに決まってる。
 それは学校の推薦図書だもの。
 それは『はてしない物語』という小説の中にある、意味深な予言。


『一角獣の角より奪い取られ、われは光を失いぬ。
 わが名を唱えるものが わが光を甦らせるまで、 われはこの扉を閉ざす。
 そのものに われは百年の間明りとなり、
 ヨルのミンロウドの暗き地底において よき導き手とならん。
 されど そのものがわが名をいま一度 終りから始めへと唱えるならば、
 われは百年分の光を 一瞬のうちに放ちつくさん。』


 それは小説の中である種のキーアイテムとなっていた、『アル・ツァヒール』という、光を放つ石が収められていた箱の上に刻まれていた銘だ。
 この状況で、巴マミがこんな言葉を引用してきた理由が、私には確かに解った。

 ヨルのミンロウド――、忘れられた夢が堆積する暗黒の坑道。
 それは今の、何も展望の見えぬこの診療所と言う戦場に他ならない。

 そこに導き手となる光――、『アル・ツァヒール』に相当する物品。
 私にはそれが、ただ一つしか思い当らなかった。


『……私にも、できるというの?』
『ええ。もちろん。私もあなたの助けになれる。あなたも、きっと私たちを導いてくれる光になるわ』


 糜爛の眠りを敷いた蹂躙の師団の足音を聞きながら、そうして私も、思い出した。

 それはどこかに捨てられていたはずの分岐だった。
 忘れたものと引き換えに、ガラクタを積んだ『今』が消えた。

 何かが。誰かが確かに、展望も見えぬほどに道を埋めていた暁美ほむらの既知を、投げ捨てていた。

 時を経て過去から、固く今を縛る分岐。
 その道を踏み越え、誰かが私を、存在しなかった分岐の先へと導いている。

 ――暁美ほむらは、左腕のみの状態から自力で再生を果たした。

 そんな分岐を辿って来たのだという事実を、私は唐突に思い出していた。
 もう、行くべき道は、見えていた。


(助けて、ほむら――!!)
(了解。今行くわ)


 時は来る。と声が響いていた。


    ≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠


「『時間超頻(クロックアップ)』――」
「終わりだ――!!」

 血だまりの上から動き出そうとしたほむらに、踏み込んだデーモン提督の爪が振るわれる。
 横薙ぎに払われた爪はそのまま、ほむらの胴体を完全に両断し、その右腕までを斬り飛ばす。
 しかし彼女の上半身は、ステップを踏んだ時の勢いと無表情のままに言葉を繋いだ。


「――『周期発動(サイクルエンジン)』!!」


 瞬間、切り飛ばされたはずのほむらの右腕が、切断面から急速に生えた。
 引鉄が引かれ、小銃からマズルフラッシュが放たれる。
 風切り音と共に、弾丸がデーモン提督の肩口を爆砕した。

「ぐ、おおお――!?」
(そうクマ。ほむらにはこの魔法が、あったんだクマ!!)

 デーモン提督が衝撃で倒れる。
 そしてほむらの上半身が床に転げた時には、既にその胴部から新たな腹部としなやかな脚が生え、地面に立ち上がっていた。

 目の前で発生したその現象に、球磨はこの魔法を思い出した。
 『時間超頻・周期発動(クロックアップ・サイクルエンジン)』。
 全身の幹細胞の分化増殖と細胞周期を制御することで、失われた肉体を復元させる魔法だ。
 この魔法を編み出すことで、彼女は残った左腕から独りで復活を遂げていたのだ。


「行ける……、“倒せる”ぞ……!!」
「やって、やって下さい、ほむらさん――!!」
「ええ、終わりにさせてもらうわ」


 白い太腿も眩しく、暁美ほむらは倒れたデーモン提督の元へ大股で歩み寄る。
 ナイトヒグマや碇シンジも、勝利の確信に声を上げる。

「なるほど……。肉体を再生できるようだが、それでは防げぬものもある……」

 だがその時、デーモン提督はなおも不敵な笑みを浮かべて立ち上がっていた。
 同時に球磨が、大変なことに気づく。

「ほむらッ! 毒の毛が――!!」
「ハッ――」


 警戒して銃を構え直そうとしていたほむらの膝が、カクンと崩れ落ちる。
 床に倒れた彼女の脚には、半透明の毛が大量に絡みついていた。

「くくく、ようやく回ってきたか……。俺の前で開(つび)さえ顕わにするとは、浅はかな!!」

 それはほむらが弾丸で切り落とし続けていた、デーモン提督の毒の触手だった。
 床に散った大量の毛束の上を、ほむらは知らず知らずのうちに踏み歩き転げてしまっていた。
 ナイトヒグマと同じ手法で、彼女はデーモン提督の手の内に落ちていた。


「『河船に、乗りて心のゆくときは、沈める身とも思わざりけり』と来たなぁ!!
 己の撃ち落とした毛に絡められ、貴様の身は沈むのだ水上艦よ!!」
「う、あ、あ……!?」


 痙攣して倒れ伏す暁美ほむらを、デーモン提督は残り2割ほどの触手を総動員して掴み上げた。
 『時間超頻・周期発動』では、肉体は再生できても、再生できないものがある。
 それは衣服だ。

 胴体を両断された今の暁美ほむらは、魔法少女衣装も切断されたままで、下半身に一切の装束を纏えていない。
 そこに、毒液に塗れた大量の触手が直接絡みつくのだ。
 それは口や下腹部の粘膜にも蠢き、容赦ない刺激を与えながら毒液を浸透させてゆく。

 今まで味わったことのないそのえげつない行為に、ほむらは白目を剥いた。


「ひ――、ひぎぃぃぃぃ――!?」
「俺の最高濃度の毒液で幾十幾百倍となく過敏になった皮膚感覚……!
 止めることのできぬ興奮。喘ぎや身じろぎですら耐え難い刺激をもたらす……!
 今のこやつはもはや、絶え間なく襲い掛かる快感の津波に絶頂し続けるのみよ!!」
「ほ、ほむらあぁぁぁぁ――!?」

 全身を毒液に塗れさせ、暁美ほむらは全身を弓なりに反らせて痙攣する。
 デーモン提督はそのまま、あられもない彼女の姿態を、見せつけるように球磨たちの前に翳す。
 瞬間、碇シンジが悶絶した。


「うぎゃああぁぁぁぁ――!!」
「『玉の緒よ、絶えなば絶えね、ながらへば、忍ぶることの弱りもぞする』……ふふははは!!」


 罰当たりであり場違いであり、あってはならないことだとは頭ではわかっている。
 だがしかし、少女のそんな姿を見せつけられて興奮しない男子がいるものだろうか。
 ましてや、理性を奪うような毒液に体を侵された状態で、である。

 碇シンジは、欲情してしまったのだ。それを、誰が責められようか。

 だが彼の場違いな興奮は、そのままデーモン提督の策略であり、千切れた両腕の傷口をさらに開かせるものだった。
 両手の断面から血液が止まることなく噴き出し、同時に彼の顔面はどんどん蒼白になってゆく。
 球磨とナイトヒグマが絶望的に歯を噛む。
 失血死するのも時間の問題だった。


「シ、シンジくん……!!」
「さぁ、とどめを刺してやる……。やはりお前は一番厄介だった……!
 精神も肉体も、確実に侵し殺してくれるわ……!」

 デーモン提督はそうして、白目を剥いて喘ぐことしかできぬ暁美ほむらに向け、彼女が携えていた小銃を突き付けた。
 魔法で強化されていると思しきその銃ならば、何度も再生するこの少女を確実に殺すに足るだろうと、そう予測していたのだ。


「さて、この女はほむらというのだな? 優秀な球磨ちゃん、お前ならば、この女の弱点も知っているのだろう?」
「……な!?」


 そして彼は球磨の瞳を覗きながら、その銃の銃口を次々にほむらの様々な部位に突き付けてゆく。

「――ここか? ここか?」

 それは複数の情報を提示し、対象の反応を読み取るコールド・リーディングの技法だった。
 球磨は努めて、その銃口の行く手に反応するまいとした。
 だが、無理だった。
 彼女のわずかな重心の変化、筋肉のこわばりが、彼に暁美ほむらの魂の場所を察知させる。

「……ほぉ、ここかァ!!」

 89式小銃の銃口が、ぴったりと暁美ほむらの左手に、その手の甲に嵌るどす黒いソウルジェムへと突き付けられていた。


「確かに聞こえたぞ……。お前の動揺が……! ここがこの女の命の形代だな?
 この宝石が破壊されれば、もうこの女が蘇ることも無い……。その通りだな?」
「くっ……!!」

 デーモン提督は球磨の反応を読み、ほむらの致命的な弱点を完全に看破してしまっていた。

 球磨は強く奥歯を食いしばった。
 全身を浸す甘い掻痒感を振り払う。
 動けば動くほど意に反した興奮と快感とが襲う身に、鞭打つ。

 ――こんなもの、マラッカの荒海に比べれば何程のものぞ。
 ――沈んでいった僚艦と船員の遺志に比べれば何程のものぞ。
 ――こんなことで、ほむらの命を、奪わせはしないクマ――!!


「ほう――、立つか」
「ハア……、ハア……!」


 デーモン提督が、感嘆の息を漏らした。
 球磨は顔を真っ赤にし、眼に涙を浮かべ、全身を汗だくにしながらも、確かにそこに立ち上がっていた。
 構えられた艤装の砲門は、ぴったりとデーモン提督に狙いをつけている。

「させん……、させんクマ……!! 球磨はその前に、お前を、殺す――!!」
「いや、駄目だな。武装を下ろせ。さもなくばこの女を撃ち殺す……!」

 デーモン提督はしかし、気焔を吐く球磨の言葉にも不敵な笑みを崩さず、暁美ほむらの体を盾のように前方へ掲げた。
 小銃の銃口も、しっかりと彼女のソウルジェムに突き付けられたままだ。
 このまま砲撃をすれば、確実にほむらを巻き添えにしてしまう。
 その上、彼の身を守る触手の束を、貫通できるかどうかがわからない。

 あの森の中で、ほむらが食べられてしまっていた光景が、思い出される。

 だが今回はあの時と違い、撃ってしまえば彼女のソウルジェムまで破壊してしまいかねない。


「くっ……」
「……どうした、迷ってるヒマはないぞ。この女の精神が快感で狂い、その男が失血死するのも時間の問題だぞぉぉ……。
 くくく、それとも今のお前にはその方が良いか? 抑え切れぬ動悸が聞こえるぞ、くくく……」

 デーモン提督の視線は、心の底まで見透かしているようだった。
 暁美ほむらを慕う気持ちが、球磨の胸の中ではち切れそうだ。
 どうしても球磨には、砲の火蓋が切れなかった。

 デーモン提督はその球磨の様子に、さらに笑みを深める。


「撫でてもらいたいのだろう? 本当はこの女にくんずほぐれつ、なでなでしてもらいたいのだろう……?
 沈める前にそれぐらいの幸福は味わわせてやる……。さあ、武装を下ろせ……!!」
「うぎゃおおぉぉぉぉ……!!」

 離れたところの碇シンジが、さらに力なく悶えた。
 球磨とほむらの絡みを想像してしまい、興奮がさらに出血を強めたのである。
 もう寸分の余裕も無い。

「さあ下ろせぇぇぇ――!!」

 デーモン提督の声に、球磨は涙を振り払いながら、叫んでいた。


「うるさいぃぃ!! 球磨は、ほむらに、粉骨砕身するクマ!!
 お前の言うことなど聴かん――!! 球磨に命令して良いのは、ほむら、だけだクマ――!!」
「球磨……、その意気や、よし」


 その瞬間、暁美ほむらが、笑っていた。


「――今から私がする、攻撃のあと、このヒグマを、雷撃処分なさい」


 正気を失っていたかのように見えた彼女は、球磨の言葉に蓮の花のような笑みを浮かべ、応えていた。
 そしてその命令は、まさにあの森の戦いの、再現のようだった。


「まだ口が利けたのか、この女は――! 墜ちろ! 墜ちるがいい!!」
「ひ……、いっぎゅうぅぅぅぅうぅぅぅぅぅ――!?」

 だが即座に、デーモン提督はほむらの束縛を強めていた。
 容赦なくほむらの全身を触手が撫でまわし、その刺激に、ほむらは再び白目を剥く。
 顕わになった彼女の会陰部から、痙攣と共に勢い良く薄い色の液体が迸る。
 デーモン提督が高らかに笑った。


「ふふふはははは、悶え死ねぇぇぇぇぇぇぇ――!!」
「うああああああ――!! な、め、る、な、クマァァァー――!!」


 その光景に、球磨の感情が爆発した。
 嗚咽を零しながら、球磨は自分の魚雷発射管に手を掛ける。
 だが彼女よりも、デーモン提督の挙動の方が、早かった。


「『恋ひ死ねと、するわざならし、むばたまの、夜はすがらに夢に見えつつ』ッ!!」

 ――「恋い焦がれて死ね」と言うことに違いない。夜ごとに夢に、あなたが出てくるのだから。


 デーモン提督は小銃をほむらから離し、球磨に向けて放っていた。
 最初から、彼は球磨を殺すつもりでいたのだ。
 今まで生かしておいた恩情を反故にされるならば、撃ち殺すのもやむなし――。
 そんな割り切りがあった。
 暁美ほむらへの情を捨てきれなかった球磨が、その反応に間に合うわけなど、なかった。


    ≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠


 白いマズルフラッシュが、球磨の眼を焼いた。

 ――カシュン。

 そんな引鉄の音だけが、微かに辺りに響いた。
 そして暁美ほむらの89式5.56mm小銃は、それ以上なんの反応も示さなかった。
 デーモン提督の毛を切断したあの高威力の弾丸は、出て来なかった。


「え――」
「隙あり」


 その瞬間、暁美ほむらの全身が動く。
 意表を突いた彼女の挙動は、デーモン提督の触手が反応するよりも早かった。
 身を捻るようにして全身に絡む触手を一束に纏め、そこに細いリング状の『何か』を嵌める。
 それは彼の銃口と意識が球磨に向いた一瞬の、早業だった。

 そして、ボン。という聞き覚えのある爆発音が、デーモン提督の全ての触手を切断する。


「ぬぐあぁぁぁ――!?」
「……われは百年の間明りとなり、ヨルのミンロウドの暗き地底において、よき導き手とならん」


 それは『首輪』だった。
 全ての参加者の首に嵌っており、暁美ほむらが取り外し武器化した、首輪の爆発だ。
 モンロー・ノイマン効果により集約された爆轟の切断力は、デーモン提督の触手にも、弾かれることはなかった。

「今よ、球磨!」
「はっ――」

 触手の拘束を解かれ、床に転げたほむらが叫ぶ。
 銃身の先に立つ球磨は、重鎮の、裸を見た。

「お、の、りゃあああぁぁぁぁ――!!」

 デーモン提督が、小銃を放り捨てる。
 全ての触手を失った丸裸の彼が、それでも暁美ほむらに飛び掛かろうとした時、彼女は静かに息を合わせ、切り札の文言を唱えていた。


「『ラアチ・ェチール・ラ(光いる明)』!!」


 その時、辺りの空間を白い閃光が埋めた。
 それは宙に投げられた小銃の内部から発せられていた。
 広大な診療所の地下全てを照らし、網膜を焼き尽し、宇宙を透かすような強烈なフラッシュが、デーモン提督の視界を奪い、硬直させていた。

 ――されど そのものがわが名をいま一度 終りから始めへと唱えるならば、
 ――われは百年分の光を 一瞬のうちに放ちつくさん。

 それは巴マミの魔法、『ラ・ルーチェ・チアラ(明るい光)』に隠された、最後の機能だった。


「魚雷、発射クマァァァー――!!」


 白に埋め尽くされた世界で、球磨だけは、敵艦の姿をしっかりと捉えていた。
 『マンハッタン・トランスファー』は、視界を無くしながらも数々の狙撃をこなした、仕事人の機体である。

 時を超え陰りは、清く雷火に裂かれた。


    ≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠


「な……ぜ、動けるのだ……」
「……こっちが聞きたいくらいだわ。本当に大した防御力ね」

 数多の魚雷の爆轟を受けたデーモン提督は、腰から下を完全に吹き飛ばされ、両前脚も千切れ飛ばされた状態で、壁際の血だまりに倒れていた。
 だがむしろ、球磨の魚雷を全て喰らって、即死しないで済んでいることの方が驚くべきことだった。

 暁美ほむらが、吹き飛んでいた自分のスカートとタイツを回収しつつ、彼の元に歩み寄った。


「お前はもう、快感に呑まれていたはずなのに……」
「感覚神経なんて、元から復元してないわ。残念だったわね」
「な、に……!?」
「快感もへったくれも、何も感じない。そうじゃないと捨て身覚悟で『周期発動』なんてやってられないわ」

 暁美ほむらは、醒めた眼差しでメガネを拭う。
 驚きに目を見開くデーモン提督に向け、彼女はべとつく髪から毒液を払い落しつつ淡々と言った。

 彼女の自己再生魔法は、自分が負傷する前提の魔法だ。
 そんな時に痛覚や触覚を残していたら、骨や肉を伸ばす激痛と掻痒感で行動できない。
 だからそもそも今の彼女は感覚神経の再生を制限し、ほとんど触覚を放棄しているに等しかった。
 いくらデーモン提督の毒液を浴びたところで、僅かの痛痒も感じないのだ。

 ほむらの白い下半身は、液体でびしょびしょになっていたが、構わず彼女はタイツとスカートを履きなおす。
 元々衣服も海水でずぶぬれなのだ。大した違いではない。


「そ、それじゃ、さっきまでのは全部、演技クマ……!?」
「ええ、球磨が指摘してくれたから、不自然でないうちに演技できて良かった」

 そもそも球磨とデーモン提督が指摘するまで、ほむらは自分の脚に毛が絡まっていることに気づいていなかった。
 だが、フロアの人員の様子からその毛の効果を推測し、彼女はデーモン提督に隙が生まれるまで即座に演技を実行していたのだ。


「よ、よもや女子が……、演技で失禁すら厭わぬとは……」
「それで敵に勝てるならいくらでもするわ。生憎、そうでもしなきゃ今の私は戦えないから」


 デーモン提督の手から落ちた小銃を、ほむらは回収する。
 その薬室からは、僅かに灰色の砂がこぼれる。
 巴マミの生成した光る球体、『ラ・ルーチェ・チアラ(明るい光)』の残骸である。

 暁美ほむらはとっくの昔に、小銃のマガジンから弾薬を抜き取っていたのだ。
 魔力で肉体を強化できなくなっていることが明らかになった以上、弾を銃に詰めておく有用性が全くなかったからだ。
 ジャン・キルシュタインに銃口を突き付けた時も、既にその薬室は空だった。

 ほむらが既に反動に耐えられる体でなかったこと。
 弾薬が全てデイパックの中に仕舞われていたこと。
 そして何より、ジャン・キルシュタインの行動が、真摯で一途な想いの元になされていたとわかったことが、『あの小銃は三重の意味で撃てなかった』と彼女が言った理由だった。

 89式5.56mm小銃のチャージングハンドルに髪の毛を結び付け、発射時に噛み引くようにして射撃しているフリをする。
 階下の瓦礫を探って回収しイジェクションポートに詰めた『ラ・ルーチェ・チアラ』の小球が、そのたびに外界へマズルフラッシュのような光を投げるのだ。
 この時、本来引き金を引いているはずだった右手は完全にフリーとなっている。
 ここで同時に暁美ほむらは、展開した首輪を投擲することで、強力かつ無音の発砲を演出していたのである。

 残り一画だった彼女の令呪の魔力は、全て彼女の肉体を復元する『時間超頻・周期発動』に充てられている。
 あとの現象は、全て彼女の欺瞞と偽装。敵を欺くための巧妙な策略により演出されたものに過ぎなかった。

 デーモン提督の防御を担う毛を全て破壊し、唯一ヒグマにも大損傷を与え得た球磨の砲撃を確実に命中させる――。
 そんな目的を遂行するためだけの、豪胆かつ繊細な作戦だった。


「……何故だ。何故俺はお前の演技を見破れなかった……。
 お前の心を、俺は確かに聞いていたはずだったのに……」
「――ひとつ言わせてもらいたいんだけど。よりによって『恋ひ死ね』ですって?
 そもそも女心がわかってないし……。よくもまぁ、私に言えたものだわ」


 か細くなってゆく息で呆然と呟いたデーモン提督に、暁美ほむらは碇シンジの手を処置してやりながら返した。


「『いくたびや、闇夜も恋ひし、あらたまの、月はまどかにみちゆくものぞ』。
 ……本歌をなぞるだけしかできないあなたに、私の心なんてわかるわけなかったのよ」

 ――何度も通って来た闇夜だって、この旅では恋しく思って来た。
 ――見えなくなっても月がまた必ず満月になるように、私もこの闇を乗り越えて道を行くのだから。


 そんな意味の返歌を、ほむらは即座に語ってみせた。
 デーモン提督の眼に消えかけていた光が、その歌で急激に輝きを取り戻す。
 驚愕と感嘆が、彼の口から零れた。

「……『幾度』と『行く旅』の掛詞、その両面で『や』が係り結びと強調とで文意を変える……!
 この状況を即妙に取り入れ、『道行く』と『満ち行く』を掛けてその決意まで示すとは……」
「それだけじゃないわ。私は本当に、この『月』を幾度も『あらたま』にしてきたんだから」

 千切った衣服を包帯にして碇シンジの傷口をきつく縛りながら、暁美ほむらは語る。
 自分のことながら、今日はやたら饒舌だな。とほむらは思った。

 感覚神経はなくとも、やはりデーモン提督の毒が多少回っていたのかも知れない。
 言葉がとても素直に、ほむらの口を突いて、出て来た。


「『円(まどか)』。……それが私の、愛する人の名よ。
 まどかに辿り着くためなら、私は、何だってしてみせる――。
 ……それが私の、本当の心よ」


 その歌は、暁美ほむらの本当の人となりと、そして彼女の想い人の名を知って、初めて完成するものだった。

『いくたびや 闇夜も恋ひし あらたまの 月はまどかに みちゆくものぞ』

 ――私は幾たび闇夜を通って来たのだろうか。もうわからない。
 ――それでも私は、そんな行く先も見えぬ旅ですら恋をし続けてきた。
 ――新月となって改まっても、月はまた必ず満ちて円くなるのだから。
 ――何度も繰り返した私のこの一か月間だって、必ずまどかへ辿り着く道を行くのだ。


「完、敗、だ……」


 その歌を噛み締めるように反芻し、デーモン提督はもたげていた頭を床に落とす。
 策略においても歌の趣においても、彼は暁美ほむらに勝ることはなかった。
 心地よい、敗北感だった。

「そうだ……。それこそ俺が、ゴーヤイムヤが、求めた『深き力』だ……。
 沈めた本心を浮かばせたときに湧き上がる、魅力……。『艦これ』に覚えた、興奮……」

 全身を血だまりに沈めながら、それでもデーモン提督の表情は、満たされていた。
 最期にようやく、求めていたものを目の当たりにした。
 そんな感謝と恍惚が入り混じったような、表情だった。 


「歌人・焔君(ほむらのきみ)よ……。お前の道行きに、せめてこれだけは贈っておきたい……」

 暁美ほむらが見下ろす前で、デーモン提督は静かに呟いた。


「『あしひきの……、山橘の、色に出でよ……。語り継がれて、逢ふこともあらん……』」

 ――冬の雪の上で赤く色づく山橘の実のように、恋心はハッキリと表しなさい。
 ――人に語り継がれて、逢えるチャンスができるかも知れないのだから。


「……ありがとう、覚えておくわ」


 彼の死に顔は、安らかだった。


    ≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠


「……まず退路を確保するわ。地上の安全を確かめて、それからマミさんたちと合流。埋まってしまった人たちの捜索に乗り出しましょう!」

 デーモン提督の死を確認し、ほむらは即座に3階フロアの生存者に声をかけた。
 もはや快感に喘いでいた演技をしていたのが嘘のように、きびきびとした口調に切り替わっている。
 だがナイトヒグマも碇シンジも球磨も、毒液で過敏になってしまった皮膚感覚のおかげで、まだまともに動くこともままならない。


「ちょ、ちょっと待ってくださいほむらさん……。この上には、エヴァを止めた何かがいるかも知れないんです……」
「そう。なぜか、このエヴァは停止してしまったのよね……。上に何がいるのかわからないわ。
 襲われるかもしれないし、そちらの確認を先にすべきよ」
「マミちゃんやデビルヒグマは……!? あっちを助けなきゃいけないんじゃないかクマ!?」
「いえ、あっちもどうにかなったようだわ。そもそもあの『光る球』を使うのがマミさんのアイディアだったから」

 シンジや球磨の言葉へ端的に返しつつ、暁美ほむらが歩み寄ったのはナイトヒグマだった。


「ピースガーディアンのナイトさんね。既に、私たちはビショップさんと手を組んでいる。
 ヒグマ帝国の支援に協力してあげるから、あなたにも私たちの脱出に協力してほしい」
「……そう、か。そんなことだろうと思ったぜ。“嘘”をついてるようには見えねぇし。
 ついて“得”するようなものでもねぇしな……。で、ビショップたちは?」
「地下に流されてしまったわ。後で捜索に行きましょう」
「マジかよ、あいつが……!? とんだ“河童の川流れ”だな」

 いきなりの情報に目を白黒させながらも、ナイトヒグマはとりあえず協力の要請を呑む。
 ほむらはそのまま覚束ない足取りの彼を誘導し、球磨や碇シンジの身も急ぎ連れてくる。


「じゃあお願い。あなたの背なら天井にも届くでしょう? エヴァの開けた穴から天井を開削して。
 私たちはそこからエヴァをよじ登って上に行きましょう」
「ちょ、ちょっと、待ってほしいクマ……」

 ほむらに手を引かれる球磨は、天井を砕き始めたナイトヒグマから離れたところで、顔を真っ赤にさせたまま、声を震わせた。


「ほむら、すまないクマ。ちょっとお願いがあるんだクマ」
「……何かしら? 時間がかかることでなければ」

 突如、改まって切り出された秘書艦の言葉に、ほむらは首を傾げた。
 ほむらとしても、球磨は多大な感謝をしている相手だ。特に断るつもりはない。

「な……、なでなでして、ほしいクマ」
「ふふ、なんだ、そんなこと?」

 そして、他愛もないお願いに、ほむらは思わず笑みを零す。
 ぽふ。と球磨の頭に手を置き、良い子良い子をするように髪の毛を撫でてやる。
 天井が掘り抜かれるまでの間そうしてやろうと、ほむらは微笑んでいた。


「そ、そこじゃなくて、こ、ここ……」


 だが球磨は、赤面した表情に涙を浮かべ、声を震わせていた。
 球磨が指し示していたのは、白いショートパンツに覆われた、自身の会陰部だった。
 そこは毒液のせいか汗のせいか、しっとりと湿っていて、近づけば何か甘い、蒸れたような香りが漂っているようでさえあった。


「あのイカクラゲの前だから我慢してたけど……。
 どうしても、疼いて仕方ないクマ……。ほむら……。
 頼むクマ……。一緒に……、してほしいクマ……」
「なっ、あ……」


 暁美ほむらは、球磨の潤んだ瞳と見つめ合い、硬直した。
 ごくりと、自分が唾を飲む音が聞こえた。
 視線が、泳いだ。

 恐ろしいことに、確かにデーモン提督は、球磨の本心を見透かしていたのだ。
 暁美ほむらを慕う気持ちと、どうしても疼き続ける肉体は、そんな形でしか、欲求のはけ口を見つけられなかった。

 ほむらは、深く息を吸う。
 そして、そっと球磨の肩に、手を置いた。
 球磨はたったそれだけの刺激でも、ビクリと身を震わせた。


「あのね、球磨……。あなたの言わんとしていることはよくわかるわ。
 でも、今は時間がないの。本当に悪いんだけれど、今はまず、上の様子を確認しましょう?」
「あ、う……」


 ほむらは瞬きもせずに、一息で言い切った。
 全身の血が淀み、逆流するかのような気持ち悪さが、言い終わった直後にほむらの身を襲った。
 球磨は暫く、眼を見開いたまま固まっていた。

 そして突然、球磨は自分の頬を自分で殴りつける。


「球磨――!?」
「あっはははっはっは! いや~、何言っちゃってるクマ! 真面目に反応しないで欲しいクマ!
 これじゃあ球磨ちゃんが、冗談の面白くない艦娘って烙印を押されちゃうじゃないかクマ!!」

 彼女は、慌てて支えようとしたほむらの手を振り払い、頬を腫らしたままへらへらと笑った。


「あ、あの、違うの……! 決してあなたがどうとかじゃなくて、本当に時間が……!」
「あーもう、いいクマ! ほむらに冗談いった球磨が悪かったクマ! ほむらの言う通り、さっさと準備するクマ!」

 そうして、球磨はまだふらふらとした歩みのままで、体の毒液を極力落とそうと、海水の溜まる階段側へと歩いて行く。
 ほむらは、そちらへ手を伸ばしながらも、彼女を追うことができなかった。


 ――それが、まどかへの裏切りのように、感じたからだ。

 他の友人と親しくすることは、たぶんまだ裏切りではない。
 仲間。戦友。友人。
 そんな言葉で関係を表せるうちは、その人物を思う心の割合は、まどかと比べれば絶対に劣る。
 鹿目まどかは常に、暁美ほむらの心の第一義であり続けられた。

 だがもし、その友人が、まどかをも上回るほどにほむらの心に親しく踏み込んできてしまったなら――。
 それは、まどかを裏切ったことにならないだろうか。

 まどかのことを考えなくなること。
 まどかのことを忘れてしまうこと。

 それは暁美ほむらにとって、恐怖以外の何物でもなかった。
 だから、躊躇してしまった。

 球磨の願いを、ほむらは受け入れられなかった。
 これ以上彼女と親しくなるのが、怖かった。
 その恐怖は暁美ほむらに、一抹の不安と後悔を刻んだ。

 もし、デーモン提督の毒液が本当に効いていれば。
 ほむらはこの恐怖を乗り越えられたのだろうか――。


『あしひきの 山橘の 色に出でよ 語り継がれて 逢ふこともあらん』


 彼に贈られたばかりの歌が、思い返される。
 時を戻そうと思っても、もう、選んだ選択肢は変えられない。


    ≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠


「僕は見ない、僕は見ない。何も聞かない、何も聞かない……」
「何やってんだ……? “三大欲求”我慢したところで疲れるだけだろ」
「もう十分気持ち悪いんです。……パンツの中が」

 天井を切り拓くナイトヒグマの脇で、碇シンジは蒼褪めた顔のまま座り込み、両肘で両耳を押さえるという奇怪な行動をとっていた。
 それもこれも、背後で語られ始めた球磨の甘い声を耳に入れないようにするためだった。

 そもそも碇シンジは、球磨がデーモン提督に捉えられ毒液塗れになっていた辺りから、既にパンツの中を濡らし始めてしまっていた。
 これ以上雑念を思い浮かべてしまえば、千切れた両手からまた出血が始まるだろうことはほとんど確実だった。


「……“言いたいこと”があるならハッキリ言って、“やりたいこと”があるならちゃんとやった方がいいんじゃねぇか?
 ……あの“クラゲ野郎”の言葉じゃねぇけどよぉ」

 ナイトヒグマは他人事のように言う。
 そもそも彼は人間の濡れ場如きで欲情する気持ちがわからない。よって艦これ勢の気持ちも理解しがたい。
 人間が猫の交尾を見て欲情するだろうか。
 する者もいるかも知れないが、それはやはり特殊な性癖の部類に入るだろう。

「自分の本心に従うのが、いつも良いとは限らないですよ。やってしまってから後悔して、自己嫌悪するんです。
 ……『秘するが花』というじゃないですか」

 だが、碇シンジにとっては、これは同種の年頃の女子の濡れ場だった。
 こんな場面で、自分がその欲求を素直に発露させてしまうなど、そんな畏れ多いことはとてもできなかった。


「あ、あの、違うの……! 決してあなたがどうとかじゃなくて、本当に時間が……!」
「あーもう、いいクマ! ほむらに冗談いった球磨が悪かったクマ! ほむらの言う通り、さっさと準備するクマ!」


 シンジが耳を塞いでいる間、球磨は、自分の頬を殴っていた。
 暁美ほむらは、先程まで明るかった表情を、恐怖に染め上げていた。
 ナイトヒグマは、やはり他人事のようにその一連の様子を眺めながらも、諭すように、碇シンジに向けて嘆息した。


「……そういう思考に至るヤツはな。やらないでいても結局“自己嫌悪”するんだよ」

 その呟きに碇シンジは、震える視線だけを向ける。
 青くなった唇が、力なく言葉を紡ぐ。


「……僕は、我慢します」


 ナイトヒグマは、大きく息をついて視線を落とした。
 そこには焦げ臭い血だまりの中に、安らかな表情の『漂える悪魔』が死んでいる。

 ――“本心を浮かばせる”ってのは、なかなかどうして、難しいじゃねえか。艦これ勢……。

 切り拓かれた天井から、傾いてきた日差しが、地下へと差し込んできていた。


【穴持たず666・デーモン提督@ヒグマ帝国 死亡】


【C-6 地下・ヒグマ診療所3階フロア/午後】


【暁美ほむら@魔法少女まどか☆マギカ】
状態:魔法少女でなかった当時の身体機能、労作時呼吸困難、デーモン提督の毒液塗れ
装備:自分の眼鏡、ソウルジェム(濁り:極大) 、令呪(残りなし)
道具:89式5.56mm小銃(0/0、バイポッド付き)、MkII手榴弾×9、切嗣の手帳、89式5.56mm小銃の弾倉(22/30)
基本思考:他者を利用して、速やかに会場からの脱出
0:地上は……? そして流されてしまった人たちは……!?
1:球磨……、違うの……。
2:まどか……今度こそあなたを
3:お願い、お願いだから……、みんな、生きていて……!!
4:巴マミ……。一体あなたにどんな変化があったの?
5:ジャン、凛、球磨、デビルは信頼に値する。シンジ、流子は保留ね。
6:魔力は、得られた。他にもっと、情報を有効活用できないか……?
7:巴マミと、もっと向き合う時間が欲しい。
[備考]
※ほぼ、時間遡行を行なった直後の日時からの参戦です。
※まだ砂時計の砂が落ちきる日時ではないため、時間遡行魔法は使用できません。
※時間停止にして連続5秒程度の魔力しか残っておらず、使い切ると魔女化します。
※島内に充満する地脈の魔力を、衛宮切嗣の情報から吸収することに成功しました。
※『時間超頻(クロックアップ)』・『時間降頻(クロックダウン)』@魔法少女まどか☆マギカポータブルを習得しました。
※『時間超頻・周期発動(クロックアップ・サイクルエンジン)』で、自分の肉体を再生させる魔法を習得しました。


【球磨@艦隊これくしょん】
状態:キラキラ、中破、上気、デーモン提督の毒液塗れ、全身の痒みと疼き、濡れた下着
装備:14cm単装砲(弾薬残り極少)、61cm四連装酸素魚雷(弾薬なし)、13号対空電探(備品)、双眼鏡(備品)、マンハッタン・トランスファーのDISC@ジョジョの奇妙な冒険
道具:基本支給品、ほむらのゴルフクラブ@魔法少女まどか☆マギカ、超高輝度ウルトラサイリウム×27本、なんず省電力トランシーバー(アイセットマイク付)、衛宮切嗣の犬歯
基本思考:ほむらと一緒に会場から脱出する
0:ほむら……。
1:ほむらの願いを、絶対に叶えてあげるクマ。
2:ジャンくんや凛ちゃん、マミちゃんたちも、本当に優秀な僚艦クマ。
3:これ以上仲間に、球磨やほむらのような辛い決断をさせはしないクマ。
4:また接近するヒグマを見落とすとか……!! 水だの潜水艦だの触手だのふざけんなクマ!!
5:天龍、島風……。本当に沈んでしまったのクマ?
6:何かに見られてる気がしたクマ……。
[備考]
※首輪は取り外されました。
※四次元空間の奥から謎の視線を感じていました。でも実際にそっちにいっても何もありません。


【碇シンジ@新世紀エヴァンゲリオン】
状態:疲労大、大量出血、両手切断(止血済み)、発奮、脚部にデーモンの刺傷
装備:デュエルディスク、武藤遊戯のデッキ
道具:なし
基本思考:生き残りたい
0:くそッ……、球磨さん……、ほむらさん……!! 僕は最低だ……。
1:エヴァは一体、どうしたんだ……!?
2:守るべきものを守る。絶対に。
3:……母さん……。
4:ところで誰もヒグマが喋ってるのに突っ込んでないんだけど
5:ところで誰もヒグマが刀操ってるのに突っ込んでないんだけど
6:ところでいよいよヒグマっていうかスライムじゃん
7:ところでアイドルオタクのヒグマってなんなんだよほんと
8:ところで肥後ずいきって……、何……?
9:ところでさんざん出て来た和歌の意味全部わかった人、いる……?
[備考]
※新劇場版、あるいはそれに類する時系列からの出典です。
※首輪は取り外されました。


【穴持たず202(ナイトヒグマ)】
状態:“万全”、“苛立ち”、デーモン提督の刺傷
装備:なし
道具:なし
基本思考:“キング”にもう一度認められる
0:一体“艦これ勢”って何なんだよ……!?
1:“メシ”より大事なもんなんてねぇ。
2:俺の剣には“信念”が足りねえ……だと……。
3:ビショップは……? 他のやつらはどうしたんだ……?
[備考]
※キングヒグマ親衛隊「ピースガーディアン」の一体です。
※“アクロバティック・アーツ”でアクロバティックな動きを繰り出せます。
※オスです。

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最終更新:2016年11月05日 20:28