我々にはなんの奇異もなく見える事柄も、悟空の眼から見ると、ことごとくすばらしい冒険の端緒だったり、彼の壮烈な活動を促す機縁だったりする。
 もともと意味を有(も)った外の世界が彼の注意を惹くというよりは、むしろ、彼のほうで外の世界に一つ一つ意味を与えていくように思われる。
 彼の内なる火が、外の世界に空しく冷えたまま眠っている火薬に、いちいち点火していくのである。
 探偵の眼をもってそれらを探し出すのではなく、詩人の心をもって(恐ろしく荒っぽい詩人だが)彼に触れるすべてを温め、(ときに焦がす惧れもないではない。)そこから種々な思いがけない芽を出させ、実を結ばせるのだ。
 だから、渠(かれ)・悟空の眼にとって平凡陳腐なものは何一つない。


(中島敦 『悟浄歎異』より)


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


 辺りに、風が吹き抜けた。
 それは涼やかな北海道の風でも、いわんや決闘の合図でもなかった。
 ウェカピポの妹の夫とメルセレラ――、性別も生物種も武器さえも異なる両者の決闘は、その時既に始まっていたのだ。

 場所はE-5の山岳西部。
 時は午後4時を回って暫し。
 立会人2名の心の準備もままならぬ間に、既に彼らの想像もつかぬ攻防が、その場では起こっている。

 その熱風は、早くも攻撃を放っていた『煌めく風(メルセレラ)』の霊力だった。

 ――『心撃つ風(サンペアクレラ)』。
 彼女がそう呼称し絶対の自信を持つこの技法は、カズマの肺臓を一撃で爆裂させその胸部を一度は完全破壊せしめた霊力(ヌプル)である。
 特定座標の空気のみを急速加熱・膨張させることで小爆発を起こす超精密狙撃。
 肺、胃、腸の中など、そこに気体がありさえすれば、外面の防御力が一切通用しない内部臓器を直接狙って破壊できる必殺の攻撃であった。

「義弟さん――!?」
「妹夫(メイフゥ)!?」

 轟く爆音と風に、立会人たちの驚愕の声がかかる。
 そこに残っていたのは、無惨に爆散した義弟の姿――、ではなかった。


「回転には――、こういう使い方もある……ッ」


 投球姿勢のように構えていたウェカピポの妹の夫の手元には、鉄球が回っていた。
 回転は彼の皮膚を捻じり、複雑な皺の波紋を描いて全身に広がっている。
 その皮膚のうねりに導き出されるように、彼の口からは空気の渦が吐き出され、肩口を超えて左腕の方へと流れていた。
 スーツの左袖が二の腕で破れ、血を滴らせていた。

 立会人のひとり、隴西の李徴が息をのむ。
 その技術は、数多の書物において武術の知識を得て、ヒグマと化してからも幾多の戦闘を見てきた李徴子にとってしても、初めて目の当たりにするものだった。


「爆発の発生部位を、回転で移動させた――!?」


 信じがたいことだ。
 だが、彼が己の目で見たその事実に偽りはない。
 ウェカピポの妹の夫は、自分の肺腑において急速加熱されるはずだった空気を、回転によって瞬時に上皮表面を伝わらせ体外へと流し、メルセレラの必殺の奇襲を退けていたのだ。

「あ、あ……」

 その様子に感嘆を漏らしたのは、当のメルセレラだった。
 彼女の表情に浮かんでいたのは怒りでも当惑でもなく、予想をいい意味で裏切られた、とでもいうような喜びだった。

「……防げる、のね? 受け止めたのよね、私の風を……、アンタは……」

 メルセレラはヒグマだ。
 その霊力による攻撃は、当然、義弟を仕止める気で放った一撃だった。
 彼女の攻撃は、躱されたことこそあれど、食らわせてなお相手が立ち上がっていることなど、今までになかった。

 それは彼女の初体験だった。
 ウェカピポの妹の夫は、メルセレラの全力の思いを受け止めてなお立っていた、初めての生物だった。

 知らず、少女の頬を涙が伝っていた。
 魔法少女の契約を結び、アイヌ(人間)の少女の姿となっているメルセレラは、風を放った姿勢のまま、華奢なその足を震わせていた。
 なぜこれほどまでに嬉しいのか、彼女は自分でもわからなかった。


「呆けている暇はないぞッ!」
「――はっ」

 だがその時、ウェカピポの妹の夫は既に動き始めていた。
 ステップを踏んで急速に間合いを詰めつつ、無事な彼の右手が振りかぶられる。


「『壊れゆく鉄球(レッキング・ボール)』!!」
「エヤイコスネクル・プンパ(風で体が浮き上がる)……!」


 高速で擲たれた鉄球の上に、メルセレラの体が翻った。
 魔法少女衣装の裾がはためく。
 紺地に白の切伏と、炎のような橙色の染布が宙に舞う。
 彼女の総身は一瞬にして手も届かぬ高空に浮かび上がり、吹き上がる気流にオレンジ色の髪を靡かせていた。

 そして彼女は慌てて自分の目元を拭い、不敵な笑みを作って眼下の義弟を見下ろすのだ。


「アンタは、レサク(名無し)じゃないわ……! 認めてあげる!
 やっと出会えた……! アンタは、『プンキネ・イレ(己の名を守る)』に至っているアイヌよ!」
「届かないとでも思っているのか?」


 だが、余裕と賞賛を以て投げられたメルセレラのその言葉は、彼女の油断と慢心以外の、何物でもなかった。

 ――義弟は左腕を深く抉られた形になる。もはやまともに使い物にはならないだろう。
 ――鉄の球を使いこなすそんな技術を持っていたのだとしても、銃弾より遅いそんなものに当たるはずがない。
 ――ならばこれ以上やっても、最終的に自分が勝つ結果は見えている。
 ――彼が一度でも攻撃を受け止めた、その成果だけで彼を認めるのには十分。生かしてやろう……。

 常に捕食者であった生物種として、染み着いたキムンカムイの心理として、メルセレラの頭を占めていたのは、そんな高慢な考えだった。
 だが彼女の油断は、義弟に万全の攻撃を許す。

 この戦いは、決闘だ。
 メルセレラが満足感を得るだけの、そんな場では断じてない。
 己の主張と流儀を通すために命を懸ける、正当で神聖なる勝負の場だ。

 メルセレラに躱された鉄球が戻ってくるのに合わせ、義弟は空中高くへともう一つの鉄球を投げ上げていた。

「ネアポリス護衛式鉄球、『迎撃衛星』!」

 空中で衝突した二つの鉄球が、その時炸裂したかのように見えた。

「なっ!?」

 衝突の衝撃を受けて、金平糖のような独特の形状をした彼の鉄球は、その表面に埋まる14個ずつの小鉄球を猛烈な回転とともに周囲へ弾き出す。
 花火のように、咲き誇る菊花のように、砕けゆく流星のように、質量が減った分だけさらに高速化し高回転速度を得た28の『衛星』が、中空に身を晒すメルセレラへと襲いかかっていた。


「ソスケピラレラ……!」

 その現象に面食らいながらも、ヒグマにして魔法少女たるメルセレラの反応は早かった。
 手を翳すようにして正面の空気を膨張させたメルセレラは、その反動で飛びすさる。
 空気の壁を作りながら宙で体を移動させる彼女の動きは、飛び来る衛星の弾丸をかつ避け、かつ落とし、一球たりともその身に触れさせることがない。

「なかなか見所のある力を持っているようだけど、それだけじゃ――」

 そうして、義弟の攻撃になんとか対処できたと安心したメルセレラは、空中に佇んだまま息を整え、彼に声をかけようとした。
 だがそうして下に目を落とした彼女の視界には、左半分がなかった。
 視界だけではなく、あらゆる感覚が、なかった。

「え――?」

 その現象に気づいた瞬間、彼女の体は、空中でバランスを崩した。
 左半分だけ、上昇気流の加減が、わからなくなった――。
 そう理解した時には既に、メルセレラは錐揉みして上空から山の斜面へと落下していた。

 咄嗟に目の前の空気を膨張させ、彼女は墜落の衝撃を緩衝しようとする。
 だが右半分しかない錐揉み落下する空間では、その狙いが半分も成功しないことは明らかであり、大きく地面から逸れた緩衝用の風は、彼女の体を大きく横に流して斜面にすりおろさせた。

「うぎゃっ!? ぎゃっ! がうぅ――!?」

 山の斜面にバウンドし、無様にうつ伏せとなって倒れたメルセレラの視界は、遠くの方に義弟のブーツを見上げていた。


「『左半身失調』……! 果たしてどう対処する……?」


 剣の柄に手をかける音だけを残して、その男の脚は、存在しない左半分の空間へと消え去った。


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


 その頃、立会人のひとりである宮本明は、立会人としての役目を果たせないでいた。
 彼は斜面の上で義弟とメルセレラが開戦してしまってからも、未だ地下に繋がるエレベーターシャフト内に引っかかったまま、独り悪戦苦闘しているのだ。


「くそっ、なんで抜けねぇんだよ! 義弟さんがやばいってのに!」


 シャフト内の鉄骨の間に嵌り転落を防いでいた丸太を、彼は何とか一緒に地上へ引き上げようとしている。
 だがびくともしないその長大な棒切れに彼がかかずらっている間にも、上からは戦闘音が響き渡ってくる。


「どうすればいい……!? 回転、回転だッ……!
 義弟さんはなんて言ってたっけ!? 『LESSON』を、レッスンを思い出せ……!!」

 流石の宮本明も、こうまで力技で抜けなければ技巧を使う方に頭が働く。
 彼はそうして、ウェカピポの妹の夫に教わってきた回転のためのレッスンを反芻した。

 LESSON1は――『妙な期待をオレにするな』。
 彼が左半身失調の中でも、義弟の行動に未来予知を被せた際の教えだ。

 またLESSON2――『筋肉に悟られるな』。
 怒りを抑えられぬ明を、義弟が諌めた時の教えだ。

 そしてLESSON3――『回転を信じろ』。
 ジャック・ブローニンソンたちを襲撃していた戦艦のようなヒグマに、義弟と二人で丸太の槍を投げた時の教えだ。


「……そうだよ。あの時俺は、義弟さんと二人でとはいえ、確かに丸太を回転させたんだ……!
 捻じれ……! 捻り抜け……! おい、回れよ……! スルッと抜けてくれよぉ!!」


 明がそうして吠えても、丸太はびくともしない。
 むしろ力を込めれば込めるほど、丸太は余計に壁に突き刺さってしまうようだった。
 ここまでのLESSONを、彼は確かに一度は実行し、習得していたはずだ。
 ではなぜ、この丸太は回らないのか。
 彼に思い至るのは、一つしかなかった。

 それはLESSON4――『敬意を払え』だ。
 「必須ではない」と言われたことを真に受けて聞き流してしまった、その教え。
 明がその教えを受け入れたくなかったのは、単にそれが不必要なものだったからではない。
 義弟の言う『敬意を払う』対象が、自然の中にあるという回転のみならず、ヒグマを含むあらゆる存在にまで拡大されていたからだ。
 ヒグマは宮本明にとって、倒さなければならないと思っている、明確な敵だった。

 明は俯く。
 呟きが、震えた。


「ヒグマなんかに、敬意を払うなんて……」


 できるわけがない。

 そう、言いたかった。
 それでも、彼はその言葉を口には出せなかった。
 言ってしまえば、もう彼はこの先に進めないのだと、はっきりわかってしまったからだった。


 思えば、ヒグマと人間とは、この島でどうしてこんなにも違うモノになってしまったのか。
 そもそも一体どう違うモノなのか。

 明は今まで、その違いを彼岸島の吸血鬼と人間のようなものだと思っていた。
 だがその違いだって、最初は微々たるもののはずだっただろう。
 人間にだって、眼に一滴血液が入っただけで感染してしまった友もいれば、血の池に腰までずぶ濡れに浸かっていても感染していない明のような者もいる。
 吸血鬼にだって、朗らかな隊長のような者もいれば、信頼のおける師匠のような者もいる。

 違いとは何か。
 それはただの、立場だったり、巡り合わせだったり、ほんのちょっとの運勢の差異だけに過ぎないのではないか。
 ヒグマだって、本来こんな島に集められて繁殖させられていなければ、少なくとも今ここで明に理不尽に怨まれるようなことは有り得なかったはずだろう。

 そう、明自身にもわかっている。
 彼が抱き、思い込んでいる怒りは、理不尽な八つ当たりなのだと。


『迷ったら、撃つな』

 義弟の声が脳裏に響く。
 それは鉄球を扱う上での心構えとして、義弟が語っていた言葉だった。

 明は、自分が信念だと思っていた言葉の上に立って、迷っている。
 撃てない。
 動けない。
 自分の感情と思考と肉体とが各々何を目指しているのか。
 それがぐちゃぐちゃになってしまい、身動きが取れないのだ。

 ぐちゃぐちゃに混ざり合い、捻くれて、自分でも何が何だかわからない混沌を、明はそのまま自分の脳裏で叩き潰す。
 潰して、食べる。
 背骨を走り抜ける薄蒼い心に任せて、そんな末節の精神の悉くを、宮本明は喰らい尽していた。

 エレベーターシャフトの中から、上を仰ぎ見る。
 四角く切り抜かれた空は、晴れ渡っていた。
 凪いだ心で、明の口は静かに呟く。


「ありのままに……、動こう」


 笑いたければ、笑う。
 怒りたければ、怒る。
 泣きたければ、泣く。
 殴りたければ、殴る。

 そうだ。明は今までも、そうして戦ってきたはずだ。
 本当に殺したいと思うほど、その身に怒りが湧き上がるのなら、明の体はそれを思うよりも早く、敵を殺しにかかっていたはずだ。
 それは思考よりも現実よりも速い、あのほろほろと薄蒼い神知の領域の行動だ。

 メルセレラ、李徴、隻眼2――。

 彼らと今一度相見えた時、明が何を思うのか、それは明自身にもわからない。
 だがもう、彼は自分の思いと行動を、自分の意識で縛ることをやめた。

 復讐も、やつあたりも、つまらぬことだ。
 敬意も、流儀も、そんな言葉はただの文字だ。
 『しなければならない』なんて強迫観念は、己の筋肉をこわばらせるだけの邪念に違いない。

 本当にしなければならないことは、宮本明という人間の感覚が、自ずから捉えるはず。
 払わなければならない本当の敬意は、もう彼自身の皮膚が、自然と覚えていたはずだった。


 眼を閉じた明の指先に、丸太の皮が触れている。
 荒々しくも柔らかな樹皮のその感触は、筋肉に力を込めてしまえばすぐにわからなくなってしまう。
 明の閉じた視界は、その指先に小さな渦を見た。
 成長し、木目を成し、一年一年、一日一日を描いてきた年輪の波紋。
 寄せては返す年月の長さが、その円環の内に一定の比を成して均整を持つ。

 その美しさを、明は己の手で感じた。
 丸太の経てきた歴史が、壮大な渦を成して触れる。
 美しいと、思わざるを得ない。

 アーサー王ならばエクスカリバー。
 ギリシャならばパルテノン神殿に匹敵する――。
 そんな、自然と頭を下げざるを得ない美しさだった。


 そうして明の手が表面をそっと撫でた時、丸太はシャフトに橋渡しされたまま、ずるりと回り始めていた。


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


 自身の左半分の感覚が消失する――。
 この現象を即座に、メルセレラはウェカピポの妹の夫のヌプル(霊力)なのだと理解した。
 鉄の球に伝わった回転の振動を、風や水を経てでもその身に受けてしまえば、ラマト(魂)の対応部分が共鳴してしまい、『イコンヌプコアン(魔に狙われる)』状態になってしまうのだと。

 左半分には、メルセレラの気温感知能力すら働かない。
 まるで初めからそこの空間など存在しなかったかのようだ。

 ――でも、私の左半身は、ある。
 そして、あのアイヌ(人間)は、この消え去った左側の死角を伝い、アタシの元に迫っている――。

 そこまで理解できれば、メルセレラには十分だった。


「マウマウェ・コ・セセッカ!!」
「ぬうっ!?」


 メルセレラは自身の周囲の広範囲の空気を、一気に加熱する。
 爆発するほどの勢いこそなけれど、北海道の夕刻へ一瞬にして灼熱の砂漠が訪れたかのごとき熱風に、煽られた義弟の呻きが漏れる。
 空気中を伝わったその音を聞き、メルセレラは一気に跳ね起きながら自分の身を右回りに半転させた。

「ソスケ・ピラ・レラ!」
「ちいっ」

 義弟のおよその位置を推測しながら、右回転しつつその手の空気を膨張させる。
 視界に捉えた義弟は、すぐ傍でその剣を振り被っていたところだった。
 メルセレラの風が両者の体を叩き、再び彼らの距離を離す。
 ギリギリのタイミングで彼女の対処は間に合った形となる。

 そしてほぼ同時に、彼女に左側半分の感覚が返ってくる。
 左半身失調からの回復時間をも把握し、メルセレラは体勢を立て直しつつ笑う。


「……このくらいの時間がたてば、アンタのヌプルの効果は消えるのね?
 すごいわ……。すごい力だけれど。それじゃあアタシを討つには今一歩足りない」
「その擦り傷と埃をどうにかしてからでないと、説得力がないな」


 同じく体勢を立て直した義弟は、左腕の痛みにも関わらず、無事な右手で既に一拍の隙も置かず鉄球を投擲していた。
 メルセレラも落下した時に全身を血と埃にまみれさせているものの、同じくそんな浅手を気にしてはいなかった。


「『壊れゆく鉄球(レッキング・ボール)』!!」
「『ソスケ・ピラ・レラ(崖剥がす風)』!!」


 そうしてその場では、鉄球と風の熾烈な撃ち合いが繰り広げられることとなった。
 投擲のたびに弾ける衛星の弾幕を以てしても、右半身になって相対してくるメルセレラが操る風の前に、死角を突いて撃ち込める位置までウェカピポの妹の夫はその弾を届かせることができない。
 またメルセレラは、襲い来る衛星の全てを高圧の風を飛ばして撃ち落すことはできても、常時左半身失調の弾幕が飛んでくる状態では対処に手一杯で、『サンペ・アク・レラ(心撃つ風)』での狙撃に転じる余裕はない。
 ギリギリのラインで均衡を保ち、互いが一瞬でも隙を見せれば、互いの狙撃が命を貫くだろう攻防。
 李徴がそんな光景に固唾を飲んでいたその時だった。


「義弟さん!! 今助ける!」


 辺りに、そんな青年の叫びが響き渡る。
 その声に李徴は振り向き、義弟とメルセレラが驚愕の眼差しを送った。
 開いたエレベーターシャフトの縁に立ち、ハァハァと息を荒げたまま丸太を抱えているその男。
 それは誰もが存在を忘れていた、宮本明だった。

「これが義弟さんから受け継いだ『壊れゆく丸太(レッキング・マルタ)』だっ!!」

 明は叫ぶや否や、丸太を勢いよく地面に叩きつける。
 するとドリルのように猛烈な回転のかかったその丸太は、自らも砕け散り木片をまき散らしながら、山の地面を抉り高速の礫と成して、一同の元へと襲いかからせていた。

「なんだと!?」
「はぁ!?」
「明――!?」

 標的となった三者は三者とも驚愕し、突然のことにめいめい回避行動を取るしかなかった。
 砕けた丸太の破片が掠めた直後、李徴の視界から左半分が欠落した。

「左半身失調……!?」

 肉体の感覚も半分だけ存在しない。
 実際に体感するのは初めてのことだったが、これは宮本明が間違いなく、義弟の教えた回転の技術を習得したのだということを李徴は察していた。
 つまり、彼は鉄球ではなく丸太を用いて、義弟が用いる『壊れゆく鉄球』と同様の、本体・衛星・衝撃波の連携を実践してみせたということだ。

 その間にも宮本明は、同じく左半身失調しているメルセレラと義弟の元に駆け寄ってゆく。


「よし! 義弟さん、今助け――」
「お前の行為は、逆に逆鱗に触れたぞ!!」
「邪魔よエパタイ(馬鹿者)!!」


 だが両者は瞬時に右回りに視線を動かして明の姿を捉え、怒声と共に攻撃を仕掛けていた。

「うおあっ!?」

 義弟の鉄球が地面に着弾し、明の目の前で衛星を撒き散らす。
 衛星を避けようとたたらを踏んで下がった宮本明は、さらに目前で爆発した空気の煽りを食らい、体勢を崩して、口を開けているエレベーターシャフトの中へ再び落下して行ってしまった。


「うおぁぁぁぁ――!?」
「妹夫が怒るのはもっともだぞ明……! 丸太は英語で『ログ』だ……! レッキング・ログ……!
 オマージュして名付けるにしても、せめて使用言語くらい揃わせねば逆鱗必至だッ……!」


 今度は丸太無しで落ちてゆく明の姿へ、李徴は苦い口調で叫びかける。
 だが宮本明ならば例え地下に落ちても無事だろうという根拠のない信用があるため、李徴はそれ以上彼に関わることなく、水入りとなった決闘の方へと再び向き直っていた。


「よし、感覚戻った!!」
「余計なことを……!!」

 そうして明がもたらし、痛み分けとなっていた左半身失調が戻るのは、メルセレラも義弟も同時だ。
 そこからの初動は、より野生の力を持ち風を味方につけるメルセレラの方が、早かった。
 空中に浮かび上がったメルセレラの動きに、義弟が苦し紛れに鉄球を投げ上げる。

 しかし今度のメルセレラは、その球を風で打ち落としはしなかった。


「クアアアアァッ!!」

 彼女は後方へ風を放ち、鉄球の間をすり抜け、空を薙ぐように義弟へ襲いかかる。
 それは今までの攻防のリズムを狂わせる奇襲だ。
 彼女は鎌鼬のごとく宙から高速接近し、その爪を義弟の上に振り降ろさんとしていた。


「ネアポリス王族護衛術――」


 だがその時メルセレラの眼は、自分のスーツの襟元を掴み上げる、義弟の奇妙な動作を捉えていた。
 その手元には、回転する鉄球が握り込まれている。
 キピッ、とした嫌な予感が、彼女の背筋を撫でた。


「『払暁(ブレイクアウト)』!!」
「セセッカセスケ(気焔塞閉)ッ……!」


 直後、振るわれようとしたメルセレラの爪のさらに上から、巻き上がった義弟の上着が落ちてくる。
 紫色の暗幕のように視界を覆わんとするその渦巻くスーツに絡み取られなかったのは、ひとえに彼女のカンと機転によるものだった。
 メルセレラは体表から放散させるように空気を急速膨張させて、絡みついてくるかのような義弟のスーツをかろうじて弾く。

 後方に跳び退り、信じられない動きをした彼の衣服を見つめたまま、メルセレラは得体の知れぬ恐怖に息を荒げていた。


「……ふむ、初見でこれを躱すか。ネアポリス国外の者にこの技を躱されたのは初めてだぞ。
 常人ならば予測できない動きのはずだ。流石ヒグマ――、山の神の先見といったところか」
「あら……、イヤイライケレ(ありがとう)。もう、わくわくに震えが止まらないの……。
 すごい……、すごいヌプル(霊力)だわ。これなら、私も、全力でいける……!」


 脱がれたまま右手に持たれていた彼のスーツは、呟く義弟の手元で一瞬にして逆回転し、彼の身に羽織られた。
 あのままメルセレラが義弟へ突っ込んでいれば、その動きは空中でスーツに絡め取られ、完全に捕えられてしまっていたはずだ。
 もう、メルセレラは義弟に近接戦闘を挑むことはできないだろう。

 今の見せ技で、空中からの接近は選択肢として封じられた。
 地上での白兵戦闘は、まだ人間の肉体に慣れぬメルセレラにとっては圧倒的に不利。
 そうなればまた戦いは、先程と同じ遠距離攻撃の撃ち合いにならざるを得ないだろう――。
 そう考える李徴が緊張感に身じろぎもできぬ前で、義弟はメルセレラの言葉に苦笑を返す。

「フッ……、そんな大言壮語できる実力か……?」

 そして彼は声色を変え、左腕の傷から人差し指に血を取っていた。
 義弟はそのまま見せつけるように、赤く染まった指で額をなぞる。

 ――何をする気だ、妹夫!?

 李徴が息を呑んだ時、ウェカピポの妹の夫は、メルセレラに不敵な笑みを見せていた。


「よく狙えよ……。一撃で脳を壊さねば、オレは殺せんぞ」


 そして彼の額には、血で描かれた真っ赤な円が。
 ――『的』が、描かれていた。

 一瞬の後に、メルセレラはその所作が意味することを理解して、激昂した。


「このっ……!? エパタイ(馬鹿者)エパタイエパタイィィッ!!」


 それは義弟の挑発だった。
 メルセレラの叫びと同時に、義弟の元で幾度も空気が爆発する。
 しかし、ステップを踏む義弟に、その小爆発が当たることはない。

 それは先の義弟との決闘で宮本明が見せたような、精密な未来予知による回避ではない。
 だが傍で見守る李徴は、彼の行動に含まれた技巧の機微に圧倒されていた。

「銃と同じだ……。10メートル以上離れた相手は、視線で追うと狙いがブレるッ……!
 妹夫は、わざと視線を誘導することで自分の位置取りと爆破地点をずらしている……!」

 メルセレラの持つ空間認識力と狙いの精度は、本来ならば常人とは比較にならないほど高い。
 それは李徴や義弟にとっても、数十メートル先から正確にエレベーターシャフトの蓋を内側から爆裂させた一件を見て理解できている。
 同時に今までの攻防で彼らには、彼女の空気を熱することのできる能力とその攻撃手法と範囲もある程度見当をつけられている。
 義弟はその能力と正確さを逆手に取って、彼女の狙いを乱したのだ。

 小さな一点に目立つ的を描くことで、逆に彼女は、それ以外の場所を狙いづらくなってしまった。

 メルセレラが得手とする狙撃個所は、本来胸か腹だ。
 空気がない頭蓋内は、彼女は直接狙うことができない。狙えるとすれば副鼻腔の一部という、非常に限定された空間だけだ。
 しかし否が応にも、額に赤く描かれたその一点はメルセレラの視線を奪う。
 その上『よく狙えよ』などと煽られれば、彼女の性格上、それ以外の場所を狙って見下げられることなどできない。
 メルセレラの認識の手順上、彼女はまず一度義弟の額に狙いをつけてから、さらに彼の頭を吹き飛ばせる位置の、近隣の空気に狙撃座標を設定しなくてはならなくなる。
 前頭洞や篩骨洞というわずかな空間座標を狙っても、その一瞬のタイムラグのうちに、ステップを踏む義弟は既に別の場所に移動してしまっている。

 呼吸が一つ乱れれば、タイミングが一つ狂えば、義弟は吹き飛ぶはずなのに。
 あと一瞬だけ早ければ、あと数センチだけ合えば、その顔を吹き飛ばせるはずなのに。
 焦れば焦るほど、避ければ避けるほど、メルセレラの狙いは逸れ、義弟の回避は精度を増した。
 義弟の視線は、反攻に転じる隙を窺うようにどんどんと鋭くなる。

「このっ……、エパタイ(馬鹿者)! エパタイ(馬鹿者)ッ……!!」
「どうした? そんなことでオレを倒せると思っているのか?」

 攻めているのはメルセレラのはずなのに、彼女の息はあがり、脂汗が流れる。
 そして軽快なリズムを刻んでいた爆音が乱れ、爆風の間隙が開き、彼女の能力が途切れる――。
 そう見えた瞬間、バックステップしていた義弟の背中は、壁にぶつかっていた。


「……!?」
「――ほら! もう下がれないわよエパタイ(馬鹿者)!
 そこそこにしとけば良かったものを! アンタは初めから終わっていたのよ!!」


 メルセレラが、勝ち誇ったように叫んだ。

 それは、吹き飛ばされ、斜面に突き刺さっていたエレベーターシャフトの天板だった。
 攻撃を避けられながらもメルセレラは、少しずつ義弟をその壁際へと追いつめていた形になる。

 絶対的な手数でいえば、視線と意志だけで攻撃を行えるメルセレラの方が圧倒的に上回っているのだ。
 事実、義弟は彼女に本気で攻められてから一度も、鉄球を投擲する時間を与えてもらえていない。
 背後にもはや逃げ場はない。
 そうして一度後手に回ってしまえば、遠方から義弟がなぶり殺しにされるのはほとんど確実だと思えた。

 ――妹夫は、戦略を誤ったのか……!?

 李徴はそんな恐怖の予感に、息を呑んだ。


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


「妹夫が怒るのはもっともだぞ明……! 丸太は英語で『ログ』だ……! レッキング・ログ……!
 オマージュして名付けるにしても、せめて使用言語くらい揃わせねば逆鱗必至だッ……!」
「丸太は世界共通でマルタでいいじゃねぇか!! 津波は万国でツナミのくせによぉ――!!」

 宮本明はエレベーターシャフトを落下しながら、上から降り注いでくる李徴の声に噛みついていた。
 落ちるさながら、彼はなんとか壁の鉄骨の梁を掴み停止しようとする。
 だが、落下の勢いは激しく、指先は梁を掴むごとに滑る。
 数メートルごとに全力で鉄骨を掴みながら、ようやく彼が止まったのは、結局エレベーターシャフトの一番下だった。
 足元ではエレベーターボックスがひしゃげて半ば潰れており、明が上を歩く度に鉄板がべこべこと音を立てた。

「ハァ、ハァ……。くそっ、丸太はッ!! 丸太だろッ……!!
 それにここ、もうエレベーターホールの底じゃねえか!!」

 何度も鉄骨を掴んでは滑ってきたおかげで、明の両手は皮が剥けて血みどろになっていた。
 指先を襲う激痛に耐えながら、宮本明は上を振り仰ぐ。
 切り取られた空は遥か上だ。
 急いで戻らなければならない。

 今度は丸太を持ってはいない分、楽なはずだ。
 そう思ってシャフトの鉄骨に飛びついた手が、血で滑った。

「うお!? いけねぇ、焦るな、焦るんじゃねぇ……!」

 高い位置でまた滑ってしまえば、もう明に命の保証はない。
 明はゴクリと唾を飲んで、再び鉄骨をよじ登っていく。

 だがその時、彼の首輪が、冷徹に警告音を発し始めていた。
 初めて聞く音だったが、その意味するところは、はっきりと理解できた。

 会場外に設定されている地下へ入ってきてしまったことで、首輪が爆発しようとしている。

 思い出されるのは、明け方まで同行していたあの機械の少女。
 そして、死んでしまったあとのフォックス
 彼らの首が、容赦ない爆発によって吹き飛ばされる光景が、明の脳裏によぎった。


「――やべぇ!!」


 明が独り叫ぶ間にも、ピー、ピー、と刻まれる警告音のリズムはどんどんと早くなる。
 辺りを見回しても、何も助けになりそうなものはない。
 急かされるようなその騒音に、思考がまとまらない。
 とにかく彼にできることは、首輪が爆発する前にこのエレベーターシャフトを上へと昇り切ることだけだ。

 だが、焦って動かす感覚の無い指先が招く結末は、わかりきっていたことだった。

「あ――」

 明の手は、滴り落ちる血に、滑った。
 そうして彼は再びシャフトの奥底へ、今度は背中から思いっきり落下した。

「おごふぅ――!? げあっ、げあぁ……」

 エレベーターボックスの蓋がたわむ。
 強く背を打ち付けて、一瞬息ができなくなる。
 首輪の警告音は、ついに途切れなくなった。

 もう、その首輪が爆発するまで、あと2秒――。

 そんな理不尽な光景が、薄蒼い視界の中で、明の脳裏にははっきりと思い描かれた。
 来なくていい未来だった。
 そんな未来、予知できなくていい。
 ふざけるな。
 ふざけるな……。
 ふざけるな――!!


「ピーピーピーピー……、うるせぇんだよ!!」


 そう叫んだその時、明の腕は、彼が思うより速く、動いていた。
 彼の激情が、意識を介すことなく、彼の腕を自然と動かす。
 うなりをつけて、肩関節から捻るようにして、宮本明は自分の首輪を殴った。

 首輪が砕ける。
 そして同時に、それはしっかりと、彼の首元で爆発を起こしていた。


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


「『ルスカルヤンペ』ェェ!!」

 義弟のいた空間に、何度も連続して爆発が起こっていた。
 爆風の衝撃で、壁となっていたエレベーターシャフトの天板にはいくつもの陥没ができ、そのまま紙屑のように山の斜面を吹き飛ばされてゆく。
 そこに、ウェカピポの妹の夫の姿はない。

 ――まさか、今の爆発で粉微塵に!?

 李徴がそう思ってメルセレラを見やる。
 だが彼女の視線は未だ険しく、遥か上空を仰いでいた。
 そうして見やった空には、沈みかけた太陽を背にして、義弟のシルエットが跳んでいた。


「『壊れゆく鉄球(レッキング・ボール)』!!」
「チィッ!?」

 これも回転のなせる業なのか――。
 義弟の跳躍は、常人の跳び上がれる高さを遥かに上回り、宙に退避した先のメルセレラの動きにも迫っていた。
 そうして空中から投げ落とされる高速の鉄球を避けて、メルセレラは大きく後方へ跳び退る。
 飛んでくるだろう衛星の弾幕を警戒しつつ、義弟の着地を攻めようと彼女が体勢を整えるその前に、既に義弟は左腰に何かを掴んでいた。

「二投目――ッ!?」

 彼の左腕は、メルセレラの最初の攻撃で使い物にならなくなっていたはずだ。
 ここで全力の投擲をしてしまえば、もはやその腕が再起不能になるだろうことは義弟自身が一番分かっていることに違いない。
 しかし、片手の投擲だけでも、メルセレラが鉄球の弾幕の勢いを凌ぐのは至難の業だったのだ。
 例え左腕が千切れようと、一瞬でも彼女の風の防御を突破して狙撃できれば、義弟の勝利はほとんど確実になる。

 ――まさかこのアイヌ、左腕を失う覚悟さえできているの!?

 メルセレラは、そんな予感に、思わず身構えた。
 そして彼の動作に、注目してしまった。


「『伝統の投擲(ホーダウン・スローダウン)』ッ!」
「えっ!?」

 しかし踏み込んだ腰の力と手首のスナップだけで投げられたそれは、彼の持つ中剣(バスタードソード)だった。
 鉄球ではなく、剣。
 それも鞘つきのままで、それはまっすぐにメルセレラへ向けて飛んでくる。

 今までに見たことのない攻撃手法だ。
 一体、どんな力がそこに隠されているのかわからない。

 避けていいのか――!?
 無視していいのか――!?
 やはり弾くべきか――!?

 メルセレラの思考は、一瞬で疑問に埋め尽くされた。


「ソスケピラレラ!」

 そして彼女は、その剣を弾いて防ぐことを選んだ。
 剣はなんということもなく簡単に弾き返され、空中にくるくると舞い飛ぶ。


「――捕らえた」
「――!?」


 だがその時、義弟が、メルセレラの目の前にいた。
 メルセレラの視線が剣に誘導されている間、彼はその投擲とほとんど同時に全力で走り出し、彼女に接近している。
 それは鉄球と鉄球の間に、異質な物体の投擲を混ぜることで攻防のリズムを崩す、ネアポリス王国独特の奇襲の技術だった。

「フンッ!」
「セ、セセッカセスケェ!!」

 跳ね返ってきた剣を空中で掴み、抜き放ちながら、義弟はそれを振り下ろす。
 その首筋に刃が触れるか否かのタイミングで、メルセレラは自分の体表の空気を膨張させた。
 空気の壁が、すんでのところで義弟の凶刃を弾き、彼との距離を離す。

 彼女がホッと安堵した、その瞬間だった。

「はぅ――」

 後に下がろうとした脚に、突如猛烈な回転がかかり、メルセレラの体はきりもみ回転して地面に転げる。
 受け身も取れずに、地面に後頭部をぶつけて目の前に火花が散った。

 設置されていた鉄球に足を取られたのだと彼女が気づいたのは、一瞬後だった。

 思えば義弟が空中より投げていた鉄球は、地面に落ちても衛星を散らすことはなかった。
 その代わりに鉄球は回転を続けたままメルセレラの背後に移動し、剣の攻撃を防御された後の布石として機能していたのだ。
 これもまた、繰り返してきたやり取りを崩す、義弟の戦法の一つだった。

 視界がくらむ。
 きりもみ回転の余波に地面が揺れる。
 メルセレラがそんな状態のままに何とか立ち上がった時には、再び義弟の姿は目前だった。
 もう、互いの手が届く距離だった。


「ぁあッ!」

 至近距離から、腕に風を纏わせて振るう。
 しかし彼女の腕よりも、義弟の拳の方が何倍も早かった。

「殴りながらッ――!!」

 めぎっ。
 とメルセレラは、自分の顔面の骨が音を立てて軋むのを聞いた。
 鼻の頭が熱湯のように熱くなり、口の中に血の味が溢れる。
 頭が揺れて、意識が遠のく。
 そのまま彼女の体からは力が抜け、後ろへ傾いてゆく。

 だがその瞬間、義弟は倒れそうになる彼女に追いすがり、その体を支えていた。

「あ……」

 メルセレラの目の前に、ウェカピポの妹の夫の鋭い眼差しがあった。
 睫毛の一本一本までわかるほどの近くで両者が見つめ合ったのは、ほんの一瞬だった。
 それはとても、真っ直ぐな眼差しだった。

「――ヤりまくるッ!!」
「お、おげえぇ――!?」

 メルセレラの意識を引き戻したのは、その次の瞬間に腹部に叩き込まれた強烈な痛みだった。
 彼女の体を引き戻したウェカピポの妹の夫は、彼女の首を押さえつけ、至近距離から何度も何度も執拗な腹パンを見舞っていく。
 鳩尾を抉るえげつない連打に、メルセレラは悶えた。

 そうして義弟がメルセレラを離した時、もはや彼女は呼吸さえままならず、地面に崩れ落ちて痙攣とともに吐瀉物を溢れさせることしかできなかった。


「……李徴、どうした。立会人の目からは、これでもまだ決闘の決着がついていないと思えるのか?」
「はっ――」

 居住まいを正した義弟がそう言いながら振り向くまで、李徴はあまりの光景に茫然自失としたままだった。
 それは主に、義弟の最後に見せた執拗な拳打が、一見してあまりにも野蛮で非人道的な攻撃に見えたからだ。
 少女の顔面を容赦なく殴り、そしてその大事な腹部を裂けんばかりに叩きのめす――。
 李徴にならばとてもできない行為だ。

 だが、倒れたまま動けないメルセレラの様子を眺めて、李徴はその考えを改める。
 彼女は、ヒグマだ。
 そしてここは、決闘の場だ。
 中途半端に甘さを見せてしまえば、最後の最後で反攻した相手に殺されてしまうのは、こちらの方かもしれないのだ。

 完膚なきまでに叩きのめしながらも、殺しはしない――。
 義弟はそんな絶妙な攻撃手段をもって、メルセレラの命を救いながら、この決闘に終止符を打っていたのだった。


「確かに……見事! 決闘の結果は見届けた……! 妹夫、貴公の勝利だッ!」


 ダウンして10秒。メルセレラは起き上がれない。
 文句のつけようがない。
 李徴はゆっくりと、ウェカピポの妹の夫に向けて前脚を掲げていた。


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


「――今度こそォ!!」

 その時、誰も気にしていなかったエレベーターシャフトの方から、またもや青年の声が聞こえた。
 義弟と李徴が見やれば、シャフトをよじ登って来たらしい宮本明が、血みどろの拳を振り被りながらこちらへ駆け寄ってくるところだった。


「これが義弟さんから受け継いだ、『壊れゆく拳(レッキング・パンチ)』だっ!!」
「おい! 正当に負けた者をこれ以上打ち据えてどうなる!?
 武田観柳や他の仲間に、お前はなんて言われると思うんだ!!」


 彼がメルセレラを殴りに行くと考えた義弟は、彼の行く手を遮るように立ちはだかり、怒声をかける。
 しかし明は彼の予想に反し、義弟の前で興奮しながら語るのみだった。

「違げぇよ! 義弟さん勝ったんだろ!? 見りゃわかるって!!」
「……そう言えば忘れていた。お前大丈夫だったのか。
 完全に地下に落ちれば首輪が爆発するものと思っていたが」

 その様子を怪訝に眺めやり、義弟は明の異変に気づく。
 彼の首からは、首輪がなくなっている。
 かといって、一度首が切れてくっついたなどというような化体な跡は見当たらない。

 明は義弟の言葉を聞き、待ってましたと言わんばかりに強く言い放った。


「そうだ、でもこの拳で殴ったら壊れたんだよ……。首輪が……!!
 そして爆発は、俺の左手に移った……!!」

 突き出した彼の血塗れの腕には、爆発で抉れた跡が生々しく残っている。
 それでも彼は、力強くその拳を握った。


「これが義弟さんの回転……、『壊れゆく拳(レッキング・パンチ)』だ!!」


 李徴も義弟も、彼の言動に眼を見開く。
 明はつい先ほど義弟がやってのけた、爆発の発生地点をずらす回転の技を、見てもいないのに自分で思いつき、習得してしまったということになる。
 それも鉄球を用いずに、己の肉体一つで、だ。
 これにはウェカピポの妹の夫も、苦笑を漏らすしかなかった。

「それにしても、どうやったらお前はそんな奇天烈な発想に辿り着くんだ」

 賛嘆と呆れを綯い交ぜにして、義弟は明を労う。


「護衛式の回転をものにしたことは確かなのだろうが……。
 不思議とお前の流儀には溜息しか出てこない。
 宮本明、お前はすごいぞ。
 ここまで賞賛と逆鱗が紙一重だと思ったことは今まで一度もない」
「そうだろ? ……ようやく、義弟さんに褒めてもらえたぜ」
(それは褒めてるのか……?)

 微妙に噛み合っていない会話に李徴は首を傾げるも、明の表情は晴れやかだった。
 倒れていたメルセレラがようやく痛みに耐えて身を起こせるようになったのも、そんな頃合いだった。


「ふふ……、痛い……。ほんとアイヌ(人間)って、こんな華奢で弱い体で、よくやるわ……。
 牙も爪も毛皮もないのに、自分の持つ力をこんなにも駆使して戦うんだもの」

 顔は鼻血とゲロまみれになっているが、それでも彼女は、嬉しそうに笑っている。
 この決闘は彼女にとって、初めて対等だと思える相手と全力を出し切ってやりあった戦いだった。
 心に満ちる晴れやかな爽快感と充足感は、傷の痛みなど吹き飛ばして余りあるものだった。


「大丈夫か? 目が見えなくなっていたりはしないか?
 水だ。魔法少女というのは、傷も治せるものだとは聞いたが」

 義弟が彼女に、支給品の水を差し出しながら歩み寄る。
 メルセレラは軽く頷いてボトルを受け取り、口を漱ぎながら鼻骨の位置を戻して回復魔法をかけていた。


「……イヤイライケレ(ありがとう)。アタシはアンタを、尊敬する」
「グラッツェ(ありがとう)と言うのはこちらだ。ヒグマの流儀で戦われていたならば、オレは死んでいたかもしれぬ。
 決闘に臨む者として、正々堂々たるお前の戦いには敬意を表してやまない。シニョリーナ」


 水を返しながら起き上がったメルセレラは、自分の霊力で弾けさせてしまった義弟の左腕にも手を添えて回復魔法をかける。
 そんな彼らの様子や口振りに、宮本明は理解が追いつかない。


「何言ってるんだ義弟さん!? 最初からこいつが理不尽に吹っかけてきたんだろこれ!?」
「考えてみろ。彼女はヒグマなのだ。彼女はいつだって、このような少女の姿でなく、元のヒグマの体となって戦えたはずだ」

 駆け寄ってくる明の言葉へ、ウェカピポの妹の夫は静かに振り向く。
 彼の真っ直ぐな眼差しに、明は映った自分の姿を見た。
 そして明は、義弟に理不尽に戦いを吹っかけたのは、自分も同じだったということに気づく。


「……そうなれば、オレの拳など効くわけもなく、剣や鉄球での攻撃も有効打を与えられたか怪しい。
 そうした行いをせず、同じ肉体の条件で決闘に臨んだこのシニョリーナ・メルセレラこそ、オレたちが尊敬すべき女性だ。
 むしろ彼女の性格と性質に付け込んで利点を潰してゆく護衛官の流儀で勝ちを拾いに行ってしまったオレこそ、よほど未熟者だった」


 義弟は明にそう語り聞かせ、隣のメルセレラへ手を振り向ける。
 『尊敬すべき女性』という言葉を聞き、メルセレラの頬は赤く染まった。
 見つめてくる明から視線を逸らしつつ、彼女は頬を掻く。

「……ま、そうなんだけど。
 アタシは、アタシのことを、認めてもらいたかっただけだから」

 そう言って彼女は、照れたように笑った。
 釣り目に見えるようにアイシャドーが引かれているメルセレラの目尻は、何の力みもなく下がっている。
 屈託なくそう語るその仕草に、宮本明の背筋には一瞬にして後悔と申し訳なさがのしかかった。


『……人間相手ならいざ知らず、人殺しのヒグマなんか、尊敬できるわけないだろ。根底から壁があるんだ。
 ……まず同じ土俵に立たなきゃ、尊敬どころか理解し合うことすらできねぇよ』


 メルセレラに向けてそう言ったのは、ほかでもない宮本明だ。

 ――キムンカムイ(ヒグマ)じゃアイヌ(人間)の気持ちが分からないっていうのなら、アイヌになって考えるべき。

 彼女は明の敵意剥き出しの言葉をアドバイスとして受け取り、律儀にそれを守っていたのだ。
 互いの命がかかった決闘の場においても、彼女はそれを貫いた。
 そうしなければ、義弟はまだしも、立会人である宮本明に彼女が認められることは、絶対になかったからだ。

 同じ決闘でも、何度も致命傷を喰らっておきながら意地を張ってごね、結局両方とも瀕死の引き分けという泥仕合に持ち込んでしまった明とは大違いの振る舞いだ。
 宮本明は声もなく、ひとり大きく恥じ入った。


「アンタの度胸、すごいわね。わざわざ額に的を描いて挑発するとか、信じられなかったわ」
「いや、オレの場合むしろ、もう一度肺を狙われた方がヤバかった。最初にお前の狙撃をいなせたのは、あの遠隔爆破能力が使われるだろうと思っていたただのカンだ。
 全身の表皮を回転させるのには時間がかかるし、その間身動きは取れん。
 対するお前の狙撃はあれほど速く正確だ。オレに二度目はなかったのさ」
「……そう、じゃあ結局、アンタはアタシに全部読み勝ったってことじゃない。やっぱすごいわ」


 決闘の後のウェカピポの妹の夫とメルセレラは、先程まで命のやりとりをしていた者同士とは思えない程に、早くも朗らかだ。
 それはまるで、スポーツの試合終了後に、お互いの健闘を讃え合う選手たちのようにも見えた。

 明はそんな様子を見て、もしかするとネアポリス王国では、それこそ決闘はスポーツのように一般的な流儀なのかも知れない。と思った。
 今の日本人の感覚では理解しがたいが、恨みつらみもしがらみも、全部その戦いに置いてきて清算し、後に何の禍根も残さない、そんな対戦ができるのなら、きっとそれはある種理想的な流儀の一つなのかも知れない。とさえ思われる。
 勝っても負けても、互いに残るのは全力を出し尽した開放感と、心地よい疲労だけ。
 どんな相手ともそんな境地に至れるのなら、本当にそれは、素晴らしいことなのだろう。
 互いが互いを褒め、認め合い、自然と敬意を払う境地。
 宮本明はそんな二人に、少し羨ましさのようなものを感じていた。

 それが彼の、縛られぬ自然の気持ち。
 脳に刷り込まれた思考を介す前の、薄蒼い感情だった。


「……ん? 何よ、アンタ」
「さっき、してやれなかったからよ……。握手」


 明は自然と、メルセレラの元へ歩み寄っていた。
 差し出された彼の手に、メルセレラは微笑む。
 先程までは、決して明から差し出されることの無かった手だった。

「アンタも、アタシのことを認めてくれたわけ?」
「……ああ、そうだな」

 明はメルセレラと、握手をした。
 先ほどは繋がることのなかったその手と手が、そうして一つに結ばれる。
 メルセレラの手から、治癒魔法が掛かっていることがわかる。
 傷の周りが温まり、細胞の一つ一つにキラキラと活気が戻っていくような、そんな感覚だ。

 明は笑っていた。

 そして彼は笑顔のまま、唐突にメルセレラの頬を殴った。
 ごすん。
 と、鈍い音を立てて、メルセレラの唇が切れて血飛沫が飛ぶ。
 それは誰の思考よりも速い、予測できない挙動の殴打だった。

 しばらく、彼女は何が起きたのかわからないような様子で、幾度か瞬きをした。


「……ほら。これで認めてやるよ、お前のことを」


 宮本明は、彼女の手を握ったまま、静かにそう言う。
 彼の様子に、メルセレラは頬を腫らしたまま震え始める。

「ふふ、あはははは……」
「ははははははは」

 二人は笑っていた。

「あはははははははッ!」
「はっはっはっはっは!」

 そして二人とも、手をきつく握りあったまま、腹の底から笑い声をあげる。
 その時唐突に動いたのは、今度はメルセレラの方だった。


「アペフチテクンペ!!」
「ぼぐぁ――」


 握り合った手を引き込み、逆の腕に熱風の唸りをつけて、メルセレラは宮本明の頬を殴る。
 容赦のない全力の拳は明の顔面を真っ向から捉え、3メートルほど彼の体を吹き飛ばして地に転げさせていた。


「一応イヤイライケレ(ありがとう)。これがアタシの感謝の気持ちだから。
 早く耳と耳の間に座れるといいわね、アイヌ」
「けっ……、どういたしまして、だ! ヤンデレヒグマ!」


 居住まいを正す二人は、そうして互いに毒づく。
 しかし、その声には以前と違って、もう何の憎しみも込められてはいなかった。


「……打ち解けたな」
「そう……なのだろうか」


 両者の様子を遠巻きにし、義弟と李徴が呟く。
 宮本明はその気になれば、女性の首の骨などたやすくへし折る威力で、彼女を殴れたはずだ。
 メルセレラはその気になれば、一瞬でヒグマに戻って彼の首を叩き折れていたはずだ。

 だが二人は、そうしなかった。
 そのことを、彼らは二人ともよくわかっていた。


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


「さて、じゃあお前らの仲が睦まじくなったところで……」
「こんなヒグマと仲睦まじいわけないだろ」
「こんなアイヌもう触れたくもないんだけど」

 殴り合った二人に義弟が歩み寄ると、明とメルセレラは揃って互いを指さしながらその言葉に異議を唱える。
 そんな仲の良さそうな動作を完全に無視して、義弟は明に語り掛けた。


「宮本明、お前にはオレからも礼を言おう」
「へ? どうしてだ義弟さん」
「お前のやってくれたことは、どうしても首輪の解除方法がわからなかった時に、俺が自分でやろうとしていたことだった。
 首輪を砕きながら爆発の位置を体表に移動させ、首が飛ぶのを防ぐ……。
 うまくいくかわからなかったから辞めておいたんだが、お前が成功したのなら大丈夫だろう」

 言うが早いか、義弟は回転させた鉄球を首輪に押し当ててそれを砕く。
 首元に発生した小爆発は、彼の肩から腕を伝って、その二の腕のあたりを抉った。


「シニョリーナ・メルセレラ。また手当を頼めるか?」
「ひぇ……!? いきなり無茶するわね……。本当、なんてラマト(魂)の据わり方してんだか」


 メルセレラの回復魔法というアテがあるにしても、あまりに思い切った行動だった。
 それだけ自分の回転の技術に自信があるのか何なのか、いずれにせよ、やはりウェカピポの妹の夫は一目置かねばならない実力者であろうことは確かだ。


「元はと言えば、オレたちはここのリフトと地下への入り口を調査しに来たのだ。
 これで御誂え向きの状態になった。下の階層はどうなっていた?」
「エレベーターホールの下は……、まぁ、落ちたエレベーターのボックスがひしゃげてただけだよ。
 天井の蓋を開けて、内側からドアをこじ開ければ下に出れると思う」

 メルセレラに腕を手当てしてもらいながら、義弟は明に問う。
 明としても、シャフトの中にただ落ちていたわけではなく、ちゃんと見るべきものは見てきている。
 大エレベーターのボックス自体は壊れているとはいえ、こじ開けるのに明やメルセレラの力があれば、地下の研究所とやらに向かうのはそう難しいことではないように思えた。

「行くんでしょ、研究所。アタシたちだってそのために来たんだから」
「ああ、遅れずに行こう。善は急げだ。異論はないな?」
「まぁ、無いといえば、ない」
「我も特に……、あ」

 日が暮れる前に早速地下の探索に乗り出そうと話が纏まりかけたところで、李徴は今まで失念していた重要な事項を思い出した。


「武田先生に一応連絡を入れておいた方がいいのではないか!?
 というか、我らが早くそうしていれば決闘など止められたものを……」
「あぁ!? そうだったぁ!! しまった、義弟さんを助けるならその手があったぁ!!」

 衝撃を以て思い出された、武田観柳謹製のテレパシーブローチの存在に、明は頭を抱える。
 これで連絡を入れておけば、彼と操真晴人に、義弟とメルセレラを引き剥がしてもらうことなど簡単なことだったのだ。

「なんだ。忘れてたの。普通に戦いを認めてくれたものだと思ってたわ」
「なに、もう済んだことだ。連絡を入れよう。こちら妹の夫だ。武田……、武田?」

 過ぎたことをとやかく言っても始まらないので、義弟は胸元のブローチを持って武田観柳に呼びかけだした。
 だが、意識を集中させても、砂嵐のようなノイズが微かに耳の奥に響くだけで、武田観柳からの返事がない。


「どうした……? 何か忙しいのか?
 まぁいい。一方通信だ。こちら宮本妹の夫・李徴メルセレラ組だ。
 首輪の解除方法がわかったから、このままのメンバーで地下の探索に出向く。
 また何かわかり次第連絡する」


 ただならぬ義弟の通信の様子に、明が色めき立つ。

「返事がないのか……!? まさか観柳さんたちに何かあったんじゃ!?」
「かもしれん。だが向こうに何か異変があろうがなかろうが、オレたちが研究所とやらを調査しないかぎり何も進展せんだろう。
 むしろこちらの助けが必要ならば、向こうから呼び戻してくるはずだ。それがない以上、オレたちが心配するだけ無駄だ。さっさと降りてから連絡を待とう」

 だが義弟はそう手を打ち振って踵を返した。
 もし仮に助けを求める間もなく殺されてしまったのならば、なおのこと彼らの元に向かってはならない。勝ち目がないだろうからだ。
 ウェカピポの妹の夫は、その両方の可能性を考えた上で迷いなくそう決断していた。


「うむ……。ノイズが聞こえては来る以上、機能が生きていることは確かなようだが。
 ……テレパシーにも圏外とかあるのか?」
「アタシに聞かれても知らないわよそんなこと」
「ふむ……、戻ってからあの九兵衛という白き獣に問うてみるしかないのか」


 李徴とメルセレラも首を傾げるが、通信ができない理由はわからない。
 だが理由がどうであれ、ただでさえ余計な決闘に時間が取られている以上、ここで立ち止まっていていい余裕はない。

「……わかった、じゃあ俺はもうここ、二回落ちてるから。
 先に降りて掴みやすいところ先導するよ。ついてきてくれ」
「そうか? シニョリーナを先に行かせた方がいいのではないか?」
「なんだよ義弟さん。まさかこいつにレディーファーストとか言うつもりか?」

 率先して先導を務めようとシャフトの大穴の縁に手をかけた明に、義弟が声をかけた。
 彼の意図を推測して、明はその無精髭に乱れた顔を渋く歪める。
 明確な敵意は無いとはいえ、やはりメルセレラを丁重に扱うような言葉が義弟の口から出てくるのは、なんだか面白くないのだ。

 だが義弟は明の意図に反して、軽い溜息で首を横に振った。


「いや、お前がそうまでしてシニョリーナ・メルセレラのスカートの中を見上げたいというのなら、もう止めん。好きにしろ」
「は……?」


 肩をすくめた義弟の言葉が理解できるまで、明には数秒かかった。

「なっ、バッ、バカなこと言ってんじゃねぇよ義弟さん!! ふざけるなよ!!」
「良いから降りるならさっさとしろ」
「言われなくとも降り――、うおぁぁぁぁ――!?」

 そして気が動転したままシャフトを降り始めた宮本明は、たちまち脚を滑らせ、みたびシャフトの中に落ちていった。
 下からなんやかんや騒いでいる音が聞こえるので恐らく無事なのは確かだ。

 その間、硬直していた李徴に、メルセレラが首を傾げながら問う。

「何、スカアトの中って。『スク・アトゥ(料理を吐き戻す)』? さっきアタシが吐いてたから?」
「あ、知らぬのか美色楽(メイスェラ)女士……。いい、全然知らなくて良いことだ」
「ふぅん……、アイヌもなんか色々と大変ねぇ」

 研究所の檻以外の世界をほとんど知らないメルセレラの知識は、学習装置(テスタメント)からの情報があるとはいえだいぶ偏っている。
 李徴はそうでありながらも端然とありのままの世界を受け入れようと努めている彼女を見つめながら、何とも言えぬ、胸が締め付けられるような感情を覚えていた。

 そして宮本明だけが落ちたエレベーターの穴から踵を返し、義弟が彼らふたりのもとに一度戻ってくる。


「……李徴、メルセレラ。よく見ておけよ。あいつは壁を越えた」


 彼は後ろのエレベーターシャフトを指さし、真剣な表情でそう言った。
 その心をはかりかねて、メルセレラたちは首を傾げる。

「どういうこと? あのエパタイ(馬鹿者)が何か成し遂げたってわけ?」
「変化や進歩というものは、考え続け求め続けた者にのみもたらされるものだ。
 培われた流儀とそれに注がれ続けた力が、ある瞬間に昇華される。
 ヤツがこの一瞬で身につけた力を、お前たちも見ただろう? それをよく覚えておくといい」

 それだけ言って、彼は再びエレベーターシャフトの方へと歩み出す。


「冷えていった水がある時点で氷と変わるように……。
 熱されていった水がたちまち蒸気と化すように……。
 あいつはさらに様変わりするはずだ。その変化は、一瞬にして訪れる」


 それは、今はまだ間の抜けたような側面ばかりが目立つ宮本明に対する、予言だった。
 そしてそれはまた、未だ目指すところへ至れずにもがく者たちへの、『プンキネ・イレ(己の名を守る)』の助言だった。


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


 ――ああ。
 妹夫も、美色楽(メイスェラ)女士も、宮本明も、なんと闊達で・独特で・無謬の自己を持っていることだろうか。
 彼らはみな己の行いに誇りを持ち、その誇りを意識的にしろ無意識的にしろ、必ず貫き通すべく動いている。
 これほどまでに違いながら・そして決して道義的に褒められるばかりでない行いを繰り返しながら、なぜ彼らは皆、これほどまでに清々しい感覚を我に抱かせるのだろうか。

 学びたくとも、どうすれば学べるのかがわからない。
 我を見失い、人間と畜生の間を行き来する我が自己に、それが学び取れる時は果たして来るのだろうか。


『聞かせてくれ。お前の流儀は、何だ――?』

 妹夫はそう問うて我に、初めからある忘れていた道を示してくれた。

『本当のアタシは、どうなろうと自ずからアタシなんだから』

 美色楽女士はそう宣言して、初めからない知り尽くした殻を、打ち破る様を見せつけた。

『つくかどうかじゃない。身につけてみせるさ』

 宮本明はそう豪語して、何度か見て体験しただけに過ぎないネアポリス護衛式の回転というものを、ついに実際に身につけてしまった。


 考えていれば、思い続けていれば、果たして自分でも、そうして自然と彼らのような誇りと流儀を、身につけられるのだろうか。

 冷えていった水がある一瞬で氷と変わるように。
 熱されていった水がたちまち蒸気と化すように。
 自然に敬意を払い、自然と敬意を払っていれば、ある時、そんなきっかけが訪れるのだろうか。

 孫悟空に学ぼう、学ぼうと思いながらも、彼の桁違いに大きな雰囲気と肌合いの粗さに、恐れをなして近づけない沙悟浄のように。
 ああ、俺はまだ、彼らから一歩引いて己を眺めているだけだ。

 それでも、俺の脚は、自然と一歩踏み出すのだ。
 ついていけるところまで、彼らについていきたい――。
 そんな憧れは、きっと敬意の第一歩なのだ。


 踏み出した我々の脚は、ついにエレベーターシャフトの下へと、辿り着いていた。


【E-5の地下 エレベーターシャフト/夕方】


【ウェカピポの妹の夫@スティール・ボール・ラン(ジョジョの奇妙な冒険)】
状態:疲労(中)
装備:『壊れゆく鉄球』×2@SBR、王族護衛官の剣@SBR、テレパシーブローチ
道具:基本支給品、食うに堪えなかった血と臓物味のクッキー、研究所への経路を記載した便箋、HIGUMA特異的吸収性麻酔針×3本、マリナーラピッツァ(Sサイズ)×7枚、詳細地図
基本思考:流儀に則って主催者を殴りながら殺りまくって帰る
0:さて……、宮本の伸びしろが活きてきたかも知れんぞ……?
1:武田、早く連絡を寄こせ。宮本がいるからどうにかなるだろうが、こちらとてこれから何があるかわからんのだ。
2:メルセレラの能力は、戦法で化けるぞ……。彼女が清廉な女性だったから、オレは命拾いしたようなものだ。
3:敵の勢力は大部分、機械仕掛けのオートマータ、ということなのか?
4:李徴は人殺しのノベリストの流儀か。面白いじゃないか。歴史上そういうやつもいるぞ。
5:シャオジーもそろそろ、自分の流儀を見出してきたようだな……。
6:『脳を操作する能力』のヒグマは、当座のところ最大の障害になりそうだな……。
7:『自然』の流儀を学ぶように心がけていこう。
※首輪は外れました。


【宮本明@彼岸島】
状態:ハァハァ
装備:操真晴人のジャケット、テレパシーブローチ
道具:基本支給品、ランダム支給品×0~1、先端を尖らせた丸太×7、手斧、チェーンソー、槍鉋、詳細地図、テレパシーブローチ
基本思考:西山の仇を取り、主催者を滅ぼして脱出する。ヒグマ全滅は……?
0:痛ぇんだよエレベーターホールゥゥ!!
1:観柳さんたちは大丈夫なのか……?
2:信念や意志で自分を縛るのではなく、ありのまま、感じたままに動こう。
3:西山、ふがちゃん、ブロニーさん……、俺に力をくれ……!!
4:兄貴達の面目にかけて絶対に生き残る
※未来予知の能力が強化されたようです。
※ネアポリス護衛式鉄球の回転を身に着けたようです。
※ブロニーになるようです。
※『壊れゆく拳』、『壊れゆく丸太』というような技術を編み出したようです。
※首輪は外れました。


ヒグマになった李徴子山月記?】
状態:健康
装備:テレパシーブローチ
道具:なし
基本思考:人人人人人人人人人人
0:我はどうすれば、求め続けている自分に、至れるのだろうか……。
1:美色楽女士のような有り様こそ、我の憧れるものではあるのだろうが……。
2:小隻の才と作品を、もっと見たい。
3:フォックスには、まだまだ作品を記録していってもらいたい。
4:俺は狂人だった。羆じゃなかった。
5:小賢しくて嫉妬深い人殺しの小説家の流儀。それでいいなら、見せるよ。
6:克葡娜(ケァプーナ)小姐の方もあれはあれで、大丈夫なのだろうか……。
[備考]
※かつては人間で、今でも僅かな時間だけ人間の心が戻ります
※人間だった頃はロワ書き手で社畜でした


【メルセレラ@二期ヒグマ】
状態:魔法少女化、疲労(中)
装備:『メルセレラ・ヌプル(煌めく風の霊力)』のソウルジェム(濁り:小)、アイヌ風の魔法少女衣装
道具:テレパシーブローチ
基本思考:メルセレラというアタシを、認めて欲しい。
0:イヤイライケレ(ありがとう)、レサク(名無し)さん……。
1:見た目が人間だろうがヒグマだろうが関係ないわ。アタシの魂は、アタシのものだもの。
2:今はきっと、ケレプノエは他の者に見ていてもらった方が、いいんだわ……。
3:アイヌって、アタシたちが思っているより、ずっとすごい生き物なんじゃない?
4:態度のでかい馬鹿者は、むしろアタシのことだったのかもね……。
5:あのモシリシンナイサムのヒグマは……、大丈夫なのかしら、色々と。
[備考]
※場の空気を温める能力を持っています。
※島内に充満する地脈の魔力を吸収することで、その加温速度は、急激な空気の膨張で爆発を起こせるまでになっています。
※魔法少女になりました。
※願いは『アイヌになりたい』です。
※固有武器・魔法は後続の方にお任せします。
※ソウルジェムはオレンジ色の球体。タマサイ(ネックレス)のシトキ(飾り玉)になって、着ている丈の短いチカルカルペ(刺繍衣)の前にさがっています。
※その他、マタンプシ(鉢巻き)、マンタリ(前掛け)などを身に着けています。

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最終更新:2016年07月08日 12:05