第十五巻 大名と百姓(佐々木潤之介 著) 後篇

+ 慶安触書
慶安触書
十七世紀中頃、農民にとって最大の事件は寛永の大飢饉であった。特に寛永十八年、十九年とつづく飢饉は激しく、小百姓たちは食を求めてさまよった。浮浪人化した小百姓は江戸に集まり、幕府はこれに人返しと粥の施しで対処していた。
この飢饉の荒状は、天候不順だけの理由によるものではなかった。それは言わば従来型の年貢搾取の限界性を露呈したものであった。飢饉により激化する財政の窮迫に曝されて、名田地主、小百姓ら農民からのあくなき搾取の強化が、もはやまったく問題を解決しないことを痛切に理解したのである。
幕府はいよいよ農民の労働力や用水の事情にまで関心を示さざるを得なくなった。1642年、これまでの法令を遵守せよという決まり文句は消え、百姓統制のための細々とした法令が矢継ぎ早に出された。所領支配を確実なものにするため譜代大名の参勤交代を詳しく制定し、検地条目や検地など一連の規則を整え、幕府は新たな農政に踏み切ったのである。
その中でもっとも重要なものは、1643年に出された土地永代売買禁止令である。これは身上のよい百姓が身上の悪い百姓から土地を買い上げて、さらに農民を困窮させることのないように発令されたものであった。現実にはこの法令ですぐに永代売買がなくなることはなかったが、代官の機能を官僚的なものに変えて行く、その後の政策の基調をなすものであった。
つづいて慶安触書が出された。先述した1642年、43年の諸法令の集大成である。その内容は、年貢の納入を長く円滑にするためには、生産の不安定な小百姓を助けるため名田地主にある程度の剰余部分を残さなくてはならないという配慮を示しており、明らかに小百姓維持の政策を打ち出したものである。
これら農政の転換に伴って、用水・溜池・新田工事の件数も急速に増加した。特にそれまでの大規模な工事が減少した代わりに、小規模な工事の数が激増している。年貢の増大という領主の必要を受けて、また土木事業を背景とした数学の発展も手伝い、新田開発が各所で頻繁に行われたのである。新たに開かれた耕作地は、あるいはその一部を知行地として与えられたり、年貢を免除されたりした。
こうして寛永期を堺に水利・新田工事は大きく変わった。それまでの家父長制的な年貢増大政策から、小百姓の生産にふさわしい効率経営の形へと姿を変えていったのである。
(Shiraha)
+ 加賀百万石
加賀百万石
 寛永十六年、加賀藩主・前田利常は隠居し、光高が後を継いだ。この際、富山・大聖寺・小松の各支藩が分知された。しかし、これよりすぐ、光高は病没して幼い綱紀が後を継ぎ、利常が後見を務めることとなった。それとともに、前田貞里が重用されるようになる。これは本多政重らの重臣の死去後、新たな政治路線が形成されつつ合った事を示す。しかし、貞里は間もなく失脚して閉門を命ぜられた。これは給人が藩から銀を借り、担保として知行を返上。給人が銀を返せぬために知行が返上されたままになる、という状況の責を負わされたからである。
 この貞里失脚によって利常は独裁体制を敷くことに成功し、この体制下で改作法へと邁進していくことになる。これは給人の窮乏とそれに伴う搾取強化、そして農村の荒廃という状況に即したものである。このころ既に代官は様々な形で農村立て直しを図っていたが、それは対症療法的なものであるといえ、大きな体制変革を行わなかった点で限界があった。
 改作は慶安年間より行われ、それに抵抗する者は徹底的に弾圧された。その内容は年貢率の公定・作食米の貸与などから始められた。また肝煎らの農民掌握が強化されている。農民に城銀を貸すことも行われ、それによって農村経営の立て直しがはかられたのである。このように改作が進むと、年貢率の引き上げと給人処置が行われ、地方知行の機能を奪っていった。
 給人に関する最も重要な令は、明暦元年に出されたもので、この時に給人知行が大幅に入れ替えられ、結果として地方知行は殆ど形骸化した。また百姓の借銀は必ず城銀から行うべしとも定め、農民の掌握を強化している。
 この改作法によって前田藩の体制は大きく固まった一方、小農中心とは言えない点で未だ安定したとは言えない。しかし藩という行政単位を幕府と相対的に自立させた点では評価される。
 これとほぼ同時に、給人の米売買を藩の許可制とし、給人の財政を藩は取り込んで著しく肥大化した。こうして藩は直属の完了によって農村を直接把握したのである。この体制の下、新田開発などを行わせているが、それに必要な夫役(用水工事など)は困難となっており、特定の役家のみに賦課する体制から、持高に応じて賦課する体制となる。さらに、役夫自体は他から雇うようになり、農民からは夫役銀のみを賦課するように変貌していく。
 このような状況のなかでも、既に小百姓の成長が進んでいる。藩もそれを次第にみのがすわけにはゆかなくなり、元禄年間に至って切高仕法が行われる。これは、農民の家族労働を越える高を奪い、他に配る政策である。この政策によって加賀藩の農政は確立されたと言えるのである。
(Spheniscidae)
+ 藩政の展開
藩政の展開
 この当時、民政をきちんと行わなければ改易される、という考えが広まっており、それゆえ各地の藩では改革が行われた。この時代、小百姓の自立が強まっていて家父長的地主経営は崩壊の一途をたどり、その一方で無主地が手余りとして少なからず展開していた。
 これに対して、岡山藩が取った対策は、借金の抵当となった土地を元の主に返せ、という徳政令であった。この時期岡山藩は著しい財政窮乏に襲われており、このような緊急的政策も取らざるを得なかったのだ。しかしこれでも財政は好転せず、それゆえ無主地を農民たちに分け与え、小農として自立させる政策を取っている。
 また諏訪藩はこのころ、農民統制を強化して夫役を農民に課することをやめている。また小農自立のための余剰を認めるようになった。また地方知行召し上げが行われ、領内を一括して蔵入としたのである。これに対して給人は反抗を示したが、結局抑圧されている。これは小農の農業を基礎としている。
 藤堂藩でも地方知行を辞め、全ての土地を蔵入として藩に一度年貢を収公し、そこから家臣へコメを与える制度へと変更している。また年貢率を一定にする定免法を導入した。また、小百姓を把握するように制度を変えている。藤堂藩の農業回復策は、質地小作を否定し、また先述の地方知行廃止であった。これによって年貢搾取の維持を図ろうとしたのである。
 このような動きと並行して、藩はその財政の一本化を図り、また全国的な市場と繋がることで財政基礎を強化したのである。
 この結果、小農自立を基礎とする農業が確立し、またそれに基づく藩体制が確立した。同時に藩が一つの財政単位として機能するようになっていく。
 高松藩では、春免に関する訴訟において、農民の余剰を認めている。これを認めねば説得できないということであり、それはつまり小農たちの一般的な展開を示す。そしてこの17世紀後半、小農の展開と維持を目的として政策が転換されていった時期といえる。
(Spheniscidae)
+ 城下町
城下町
この章では藩経済領域の中心となっていく城下町の形成、藩の商業政策について述べられている。
17C中ごろの金沢には、前田藩3国の領民51万余名のうち、1割ほどが在住していた。
ここで例に挙げられている前田藩の「町」は当然金沢以外にも、高岡、小松、今石動、氷見など多々ある。しかし、これらの町の形成はみな一様ではない。古くから門前町・港町であったり、江戸期に城下町として栄えた町のほかにも、改作法施工前後から新町として新たに建てられたものが多くある。これら新町は「村」として扱われて十村の管理下に置かれ、互いに同日にならないよう配慮して市を開く日を定め、商いを行っていた。
これらの新町が作られた理由として、1つには農民支配を十村の手に委ねる為、給人が農民支配の基礎としていた町との結びつきを断つ為であった。もう一つは非農業人口を増やして米の需要を作り出し、年貢米の売り先を求めた為であった。
藩財政は年貢米の販売に大きく依存している。そこで藩は米の売買を円滑に行うため、他国米の買い入れを禁じ、米を求める者には年貢米の購入を優先させ、米問屋は藩の許可を必要とする事とした。
この様な市場統制は米以外の物資にも及び、毎年若干の変動はあるが移入・移出の制限をかける津留政策が敷かれ、塩・綿などの諸産物・必需品は藩の許可を得た問屋が売買を行うことになり、イレギュラーな財の流れを生み出す可能性のある農民は、商業から疎外された。
この時、重要物資の問屋は金沢の商人に限られ、ここに他の町々が持つ商業上の勢力を排除し、経済的優位性を持って、前田藩の城下町として相応しい地位を得た。
金沢はこうして津留政策・商業政策の結果、藩領域経済の中心として確固たる地位を占め、寛文~元禄年間に大いに発展することとなった。
では何故藩は城下町金沢を熱心に育てていったのか。一つは改作法によって藩内の農民一人一人の肥料や農具の面倒を見なくてはならなくなり、其の為に藩内の商業を掌握する必要があったこと、もう一つは大阪商業を中心とした三都での出費に備える必要があったことである。
これに対して藩はその経済規模を拡大し、三都で多くの年貢米を売って藩財政を確実なものにし、封鎖的な藩経済にして、藩財政に結び付いた城下町商業だけを全国商業に結びつける必要があった。
つまり、藩は出来るだけその経済領域を拡大し、その経済領域内の商業を一手に掌握し、藩の意思によってのみ全国に対して商業を行うことで、藩財政を確立させていったのである。
次に、伊勢・伊賀2国の藤堂藩が行った領域市場の形成について取り上げられている。寛文年間の飢饉に際し、藤堂藩は領域経済の確定に乗り出した。先ず穀類の津留政策があった。時間が空くが天和年間に問屋に対して物資買占めや、職人が申し合わせて手間賃を吊り上げるなどの行為を禁じた。しかし藤堂藩では未だ大半の問屋は成長しておらず、貞享3年、津の町に初めてのまとまった町方の法令を出して米商売の重要性を説き、領域経済の形成は米問屋を中心に展開することとなった。同年には藩内米問屋に対し、売買内容の報告を義務付け、問屋以外の米商売を禁じた。同9年には江戸・大阪の米価格を基準にした藩内の米公定価格が設定された。これは、三都の経済に藩経済が大きく影響を受けていることを表しているものである。また、公定価格の設定はつまり、問屋・仲買が扱う米が、主に年貢米であるということも示唆している。他に農民達の余剰米販売を禁じ、領内米市場から締め出して農民による米市場の発生を事前に防いでいる。こうして米売買が藩に掌握されることになり、城下町商業が領域内の米売買を掌握することになった。
また藤堂藩では米以外にも煙草・塩・綿などに於いても決まった問屋が売買を取り扱う事を定めた。
こうして17C末には殆どの藩で、主要物資は藩内の主要な町の問屋が握ることになり、藩がそれらの問屋を支配することで、藩市場を形成して行った。

(hanaze)
+ 山・水・村
山・水・村

この章では村の形成、百姓らの水利・山の利用について述べられている。
本宿村の七右衛門に再びフォーカスする。
延宝2年、本宿村にも箱根用水から用水路が引かれることになり、日々七右衛門達はせっせと用水路を整備し、これを農業に用いることになった。其れまで本宿村を含めた近所の村々は度々水不足に悩まされていたので、畠成田(畠に転作した田)も多かったが、用水を使用するようになってからは水不足の心配も大いに減ったので田成畠が急激に増えた。
こうして貞享元年に地借百姓になった七右衛門の小さな耕地も生産が安定、向上して来た。
さて、この用水路は本宿以外の村との共同利用である。そこで同じ用水路を使う村々は井組という組合を作った。
この頃には全国でこの箱根用水のような事例が見られる。
元々戦国期頃から河川水等の農業用水は土豪的な井奉行が権利を持っていた事が多かったが、時代が下るにつれて村々の役人達が井頭となってこの権利の一端を握るようになり、相対的に井奉行の権力は低下した。水利を一手に握る権力が無くなった結果、井組間の分水についての争いになっていった。
続いて17Cも半ばに入ると井組間の分水は大体確定した。過去からの井奉行の特権が新しい幕藩領主によって否定され、其の隙を有力百姓が井頭として突いたのである。次に17C後半~末頃には井組内の村々の間での分水が問題となった。これは小農制の確定によって名田名主の村に対する支配力が弱まった結果である。最後に、大半は18Cになるが、小農性の確定によって今度は村内での分水が問題となった。
井組間・井組内・村内のこういった水利の問題は時に番水で解決された。つまり時間による分水である。
さて、生産の安定した七右衛門だが、貸主の与惣左衛門は借主の七右衛門らに、山の使用量である山手料を払うように命じた。
七右衛門にとってこれは大切なことで有った。僅か1斗ほどでは有るが、米を納入する代わりに与惣左衛門の持つ山で自由に刈敷の肥料にする草を刈る事が出来るようになったのである。多肥投入を欠かせない農民にとってこれは重要なである。
全国でも七右衛門と同じような事が起きていた。名田地主の所有物である地付山の解体、そして村々入会・村中入会である。
場所によっては地付山を小農百姓らが自由に使う代わりに、僅かの銀を名田地主に納入する事を実力で勝ち取った村中入会も有れば、前々から一山を複数の村が慣例で共同利用していた所を、他の村々に使用料を払わせて使わせる、2重の村々入会の形を取っているところもあった。これらの入会山は領主が江戸初期に、入会地を設定するなどの為、土豪的農民から取り上げて藩の所有する山(御立山・御林)となっていた。そして17Cになると藩が村々にこの山林を開放するという事が出てきた。
さて、これまで用水や山林が小百姓の利用が容易になるように変化してきた。その際注意すべきは、その利用の単位が村であることが多かった。
中世では庄・郷といった単位であったが、徐々に村切りとして、庄・郷が複数の村々に分かれて来ていたのである。
村切りは何故行われたか。その大きな理由は、領主が庄・郷内に存在する多数の名田地主らの連携を断ち、彼らが団結して反抗するのを防ぐ為であった。ここで領主らが名田地主を完全に解体・否定できなかったのは、依然として夫役を確保する必要があったからである。こうして農業用水利用・山野利用で小さな纏まりになっていた地域ごとに村として分け、また、名田地主らの連携を断つために出入作地の整理が行われ、地主らが他村に持っていた出作地をその村の地主に与え、出作地を失った地主は、自身の村で手放された入作地を入手したのである。
さて、農業用水の利用に戻るが、河川の水を農業用水としていた関東などより、一つのため池を農業用水としていた関西の方が生産力が高い。これは用水確保についてお互いに苦労を共有する村々、或いは人々の連携が密接である為である。
例えば水不足の時は平等に水が不足するように分水する。しかし分水には順番があるのでどうしても不公平になる。分水の順番が回ってこなかった小百姓は他の百姓の手伝いをし、協力を仰ぐ。これをお互いに強制することで共生していた。
村に生きるものは誰でも村内の人たちとの関係を強制された。この村のありかたを村落共同体、という。
こうして確定していった「村」は、不公平を孕みつつも、小農百姓達の要求により変革していきている、小農生産の為の場となっていったのである。

(hanaze)
+ 農戒書
農戒書
 直江兼続が記したとも言われる農戒書には、年貢を確実に収めることと勤勉に働くべきことがつらつらと述べられている。またこれを読めば、百姓は基本的に自給自足の生活を行っていたことが伺える。米沢藩では半石半永制とよばれる、年貢の半分を米納しもう半分を銭納する形態がとられた。東北地方に於いては依然名主が年貢賦課対象であり、中世制度を崩すには至らなかった事、また米を売買する大坂からは遠すぎたことも要因の一つだろう。
 この農戒書は小農の農業生活を基本に描くため、兼続より後のものとも考えられるが、兼続のころより小農が独立し始めていたことを見ると、兼続が書いたと考えても差し支えはない。
 貞享二年(1685年)にもなると、伊豆国本宿村は小農の村となっていることがわかる。この段階では、有力名田地主・一般名田地主・自作農・散田作の四階層に分けられる。散田作とは名主の耕地を耕し、一定の小作料を払っている農民のことである。これまで譜代下人として使われていた状況から考えれば非常に独立性を高めているわけであり、小農自立への一歩であったといえる。この状況では、名主は耕作人の剰余を許さざるを得ず、その中で没落を余儀なくされる。
 一方、小農自立の結果、個々が家族を養うことになるために生産効率は低下する。それは年貢の減少を招き、領主はこれを防ごうと年貢を収奪する。この中で質地小作制が成立するが、猶剰余を求める百姓たちは盛んに戦うことになる。また地主たちはこの過程で質地小作を行わせる一方、自らが年貢を払うために季節ごとに労働力を雇って自らの耕作地を耕すことになっていく。
(Spheniscidae)
+ 地主と小作
地主と小作
 17世紀、日本の商業と経済の中心は大坂だった。商業の多くは大坂と結びつき、発展してきたのだ。
 この時代、地主をしている上層農民たちが問屋と結び、小百姓たちの生活必需品を掌握していたのは、日本各地で見られたことらしい。
 小百姓たちは商業と関係がないようで、農具や肥料の購入という点で、じつは商業と密接だった。
 小百姓たちは圧倒的に成長に不利だが、中には完全に小農生産をを確立する小百姓もいたようだ。

 実力をつけてきた小百姓たちを押さえつけるために、地主たちは様々な政策をとった。
 小百姓たちに独立されると、生産量が減るからである。 

 また、この時代には宛米高(契約小作料)が基準になっていた。これは、名主たちが定めた米の生産量の表示である。領主の石高や農民たちの状況の変化によって、あたらしい基準が必要になったことから生まれた。
 しかしこの基準は、農民の調査による。農民の手で土地の調査、生産力が把握されたことになる。
 これは、農民が成長した――土地を所有できるようになったことを表している。農民の手元に納める必要のない米が残るようになったようだ。
 しかし、苦しい状況下に立たされた小農民がいないわけではない。彼らは土地を取り上げられたり、規模を縮小されたりと、非常に不安定な生活を送っていた。
 このような小農民の中には他の小農民と土地を交換することもあったようだ。

 地主たちは小農民たちが名田小作をするのが当然のことだと考えていた。しかし、事実上展開されたのは質に入れた田を小作するという質地小作だった。
 それでも地主たちは旧来の方式を譲ろうとせず、搾取を図った。
 地主たちは旧来の経営を、先ほど出てきた小百姓たちを用いて行っていた。この小百姓たちは個々では確実に困窮する小農民であると考えられる。
 地主たちは彼らを集め、譜代の下人として名田小作を守り続けようとしたのだ。

 こうした当時もっとも生産力の高かった経営によって、元禄時代は発達してきた。では、この経営方式で繁栄した元禄時代とは、いかなるものだったのか。
 もう一度、われわれは考える必要がありそうだ。

(ほたるゆき)
+ 嘉助騒動
嘉助騒動
 寛文・延宝(1661-1681)ころに話を戻そう。
 この時期、またもや検地が行われた。ここから、家父長制的地主が克服されつつあったことなどがわかったが、百姓の区分を「百姓」と「水呑」だけにして、面積を水増ししていたこともわかった。
 また、自立したに過ぎない下人を名請人(土地の所有者)として分家扱いするケースもあったようだ。

 このような見地を行わざるを得なくなった理由として、このようなものがあげられる。

 年貢の取り立てが減ったため、その理由をとらえなくてはならなかったから。

 この検地は場所によって相違があったものの、つぎの点においては共通していた。

 1、小農民を年貢負担者として登録すること。
 2、耕作地を再確認すること。

 年貢量を減らすために、幕府はこのような政策を行った。この検地が、江戸時代最後の全国的見地になった。

 ところで、先ほど「百姓」と「水呑」の単語を記した。水呑とは田を持たない農民のことであるが、百姓というのはその逆。
 彼らを本百姓と呼ぶ。彼らはもともと小農民であり、自立に成功し、別の小農民を支配するための人間である。
 検地によって小農民の数が確認されるようになると、彼らを統括する役目を持つ本百姓が急増した。
 彼らはみな生産余剰物の獲得を目指し、村は階級闘争の地となった。
 このような状況下で、嘉助騒動が勃発したのだった。

 嘉助騒動は、1686年に信濃松本藩で勃発した百姓一揆である。松本藩はこの年、不作であるにもかかわらず税を上げようとした。
 苦しんだ農民たちは訴えを起こし、藩に要求をのませた。しかし首謀者であった多田嘉助らは処刑され、要求は反故にされた。
 しかし、結果として要求は完全にはのまれなかったものの、ある程度の減免には成功した。

 このような代表越訴型一揆は、生活に必要な余剰物を搾取されることに対する、小農民たちの抵抗がほとんどであることが多い。
 取られては生きていけないからこそ、彼らは必死だったのだ。

(ほたるゆき)
最終更新:2010年06月19日 18:37
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。