その日、アバロンの宮殿内はいつもの厳格な空気はどこへやら、にわかに慌しい様相を呈していた。
 あちらこちらへと忙しなく駆け回る給仕家臣らを横目に見ながら、いつも通り城下町にでも繰り出そうかと思っていたバレンヌ帝国軍傭兵隊隊長のヘクターは眉間に皺を寄せる。
 泣く子も黙る傭兵隊を率いる豪傑ヘクターは己の信条を曲げない不器用な男だが、戦のない時は城下町で一杯やるのが日課であり、隊員のみならず城下町の住人にも慕うものが多い快男児でもある。
 というわけで日夜宮殿と城下町を行き来するのが常な彼は、斯様に普段らしからぬ宮殿内の様相に対し、分かりやすく疑問符を頭の上に浮かべたのだった。

「なぁ、なんで今日こんな騒がしいんだ?」

 浮かんだ疑問をそのまま、隣を歩く兵士に向ける。
 兵士の名はジェイムズ。帝国軍の軽装歩兵部隊に所属する男で、若くして皇帝の外遊時には身辺警護を任されるほどの実力を持つ、腕利きの戦士だ。
 帝国兵の見本のように規律正しく真面目な性格なのでヘクターとは少々折り合いが悪い所もあるが、年が同じということもあってか何だかんだつるんでいることが多い二人組である。

「あぁ、明日は収穫祭初日だからな。その準備だろう」

 いつもならば宮廷内を駆け回るなと注意しそうなジェイムズだが、この時ばかりは慌ただしい家臣たちを咎めることもしないようだ。

「あぁー、そう言えば飲み屋の連中もそんなこと言ってたな。じゃあ明日は、がっつり酒が飲めるな!」
「お前はいつも飲んでいるだろう。たまにはアンドロマケーを見習って出店の手伝いでもしたらどうだ」

 ヘクターの同僚にして傭兵部隊副隊長である女傑の名を出しながら、ジェイムズがヘクターの素行を咎める。しかし、ヘクターはどこ吹く風だ。

「はっ、あいつは手伝いじゃなくて小遣い稼ぎのためにやってるだけだぜ。あと、下手に酒飲んでめんどくせーナンパくらうよりよっぽど店やってる方がいいんだとよ」

 傭兵部隊では珍しい女性隊員でもあるアンドロマケーは、荒くれで有名な傭兵団を束ねるだけあって気風のさっぱりした姉御肌の美女である。
 ヘクターと同じく酒は人並み以上に好きな方だが、外で飲むとどこでも大抵面倒なナンパにあって相手を叩きのめすことになるので、イベント事の時はどこかで出店をやっていることが多いようだ。

「・・・む」

 他愛のない会話を続けながら宮殿内を城下町へ向かい歩いていると、前方から自分たちとすれ違うコースで歩いてくる人物に目を止め、ジェイムズが眉間に皺を寄せた。
 その反応に気付いたヘクターが進行方向へ視線を向けると、向こう側から歩いてきたのは宮殿家臣とは明らかに異なる様相をした、小柄な少女。

「あれ、キャットじゃん。珍しいな」
「全く、あのような格好で気安く宮殿内を歩くとは・・・」

 キャットは、アバロンシーフギルドの顔役を若干17歳にして務めている少女だった。
 その諜報における実力はバレンヌ帝国第31代皇帝ジェラールも大いに認めるところで、先のヴィクトール運河要塞攻略において、彼女の功績なしに攻略成功はなかったとすら言われている。
 元はアバロン内で金持ちの屋敷から金銭を盗む泥棒だったそうだが、どういう経緯なのか皇帝ジェラールにその身を助けられたとのことで以後皇帝への忠誠を誓い、ジェラールも彼女とシーフギルドを正式に帝国軍の一員として加えたのであった。
 ヘクターは自分も軍人らしからぬ服装をしているので気にしないが、ジェイムズとしてはキャットのラフな服装は帝国軍人として度し難いらしい。

「ようキャット、宮殿に出向くなんて、珍しいじゃん。どうしたんだよ」

 ヘクターが手を上げながら声をかけると、キャットはその名の通り猫のような大きな目をぱちくりと瞬かせながら、ヘクターとジェイムズを見上げるようにして止まった。

「うん、ちょっとジェラール様に用がね。ヘクターは飲み行くとこ?」
「おう」

 軽い調子で親しげに会話をする二人と、それを不機嫌そうな表情のまま見つめるジェイムズ。

「ジェラール様は明日の祭典に備えてお忙しい身だ。お前などとお会いしているような暇はないぞ」
「別にジェイムズに聞いてないし」

 咎めるジェイムズと、気にしないキャット。二人の関係性の常は、この応酬に凝縮されているのであった。

「ジェラール様なら、確か訓練所にいたはずだぜ」
「おっけ、ありがとヘクター」
「おいヘクター!」

 ヘクターに礼を言うと、キャットは喚くジェイムズを無視しつつ小走りで宮殿の奥に向かっていった。




「ジェラール様!」

 アバロン宮殿の奥まったところにある訓練場にはいると、すぐにジェラールの姿は目に入った。
 公的な場では黄金の鎧を身に纏った威厳ある姿をしている若き皇帝ジェラールだが、普段は純白のシルクで仕上げられた動きやすい格好をしている。
 キャットはその姿を、密かにパジャマと呼んでいた。

「やぁ、キャット。どうしたんだい」

 訓練所内の的に向かって弓を構えていたジェラールは、キャットに手を挙げて応えながら微笑んだ。
 その柔らかな微笑みの表情に、キャットは自分の顔が微かに紅潮し鼓動が早まるのが分かる。
 自分で、その理由はちゃんとわかっていた。
 キャットは、ジェラールという青年に並々ならぬ好意を抱いているのだ。あの夜、彼に危ないところを助けられたその時から、この気持ちはずっと高まり続けている。

「あら、キャットじゃない。どうかしたの?」

 そしてせっかく跳ね上がっていた心拍数が、冷水を浴びせられたように急激に冷め、一気に萎んでいくのが分かる。
 それもそのはず。ジェラールの横には、最もアバロンでいけ好かない女がいたからであった。

「・・・なんだ、おばさんもいたんだ」
「おば!!?・・・随分なご挨拶ね。今日はジェラール様の弓の訓練なのだから、私がいるのは当たり前よ」

 明らかに不機嫌そうな声色のキャットに応えたのは、長く美しい金髪をポニーテールに結んだ軽装備の帝国兵と思しき女。
 彼女の名は、テレーズ。帝国軍猟兵部隊に所属する彼女だが、その弓の腕前は帝国軍随一と噂されていた。短弓長弓を自在に使いこなし、さらには短剣による接近戦もかなりの腕前を誇る。
 その実力を買われ、若くしてジェイムズと同じく皇帝外遊時の身辺警護に抜擢された、帝国の誇る文句なしの才媛であった。
 身辺警護だか何だか知らないが、何かとジェラールの側にいることが多いテレーズのことが、キャットは大いに気に入らなかったのである。

「あっそ。まぁいいや・・・ねぇジェラール様、明日の収穫祭、ご挨拶の公務が終わったら一緒に街を回らない?」

 テレーズには一切目を合わせずにジェラールの元まで距離を詰めながら少し彼を見上げるようにして、キャットが尋ねる。

「え、そうだな・・・別に私は構」
「ダメです」

 ジェラールが言い切る前に、テレーズが強弓の一矢の如き声で遮ってきた。

「は?おばさんには聞いてないんだけど」
「おば!!?・・・ジェラール様は明日、帝都民へ向けた祝辞の後、新たに帝国臣民となった南バレンヌのミラマー自治代表団と会食のご予定があるの。それに翌日も予定が詰まっているから、街を回る余裕はないわ」

 そう言いながらさり気なくジェラールとキャットの間に立ち位置を移したテレーズは、表面上にっこりと微笑みながらキャットを見下ろす。
 頭ひとつ分近く背丈に差がある二人が、互いに睨み合うようにしながら火花を散らす様に、訓練場内にただならぬ緊張感が走った。

「いや、あの、別に私なら・・・」
「さ、ジェラール様、訓練の続きです。本日はあと十本、しっかり的の中央に当てるまで上がれませんよ!」

 そう言いながらジェラールの視線を弓矢の的に向けさせたテレーズは、しっしっと手を振りキャットにも帰るように促すと、彼女に背を向けてジェラールへの指導を再開した。

「・・・・・・っとに邪魔なおばさん・・・」

 一段と低い声色で毒吐きながらキャットがその場を後にするのを、テレーズはしっかりと視界の端に捉えていた。





「・・・・・・ほんっと私って最悪・・・」

 宮殿内の兵士詰め所には専用の大食堂があり、その一画には兵士らの憩いの場として酒類の提供をしているカウンターも存在する。
 そのカウンターで葡萄酒をちびちびと飲みながら、テレーズは深いため息と共にそう呟いた。

「え、いきなり何よ」

 テレーズの隣でチーズを摘みながら、同じく葡萄酒の入ったマグカップを傾けていた女が、唐突なテレーズの懺悔に怪訝な顔をする。
 女の名は、ライーザ。ジェイムズと同じ軽装歩兵部隊に所属する女戦士で、テレーズとは帝国正規兵になる前からの古い付き合いである。

「ねぇ・・・私ってやっぱ、もうおばさんかしら」
「え、ちょっとやめてよ、それ認めたら私もそういうことになるじゃないの」

 ライーザがあからさまに眉間に皺を寄せながら言うと、テレーズは唇を尖らせながら俯いた。

「そりゃあさ、私なんてもう25だし、ジェラール様より全然年上だし、キャットとなんか8つくらい離れているし、そのくせ同レベルであの子といがみ合っちゃってるし・・・」
「・・・あー、そう言う感じのアレね」

 もはや独り言のように呟き続けるテレーズの言葉から凡その状況を察したライーザは、手にしていたマグカップをカウンターに置くと、腕を組んでうーんと唸りながら考え込む仕草を見せた。

「しかしジェラール様ねぇ・・・。こういっちゃ何だけど、あんた男の趣味変わったわよね」
「・・・自分でもそう思うわ」

 カウンターにへたり込むようにしながらテレーズが応える。彼女自身、何故今こうもジェラールに惹かれているのか、不思議ではあった。

「ジェラール様、普段のご様子は御即位以前と何も変わらないのよ。それはそれでなんか守ってあげたくなる感じは前からあったけど・・・でも御即位なされてからは、ご公務や戦装束に身を包んでおられる時なんて、まるで亡きレオン様やヴィクトール様がそこにいるかのように急に凛々しくていらっしゃって・・・。以前はいつも私の後ろに居たのに、この間なんて私がちょっとゴブリン相手に間合いミスった時なんか、むしろスマートに助けてくれちゃったりなんかしてさ・・・あとソーモンの時なんて」
「あーわかったわかった、はいはいはーい」

 このままだと延々喋り続けそうな勢いだったので、それを制止するように手を振ってライーザが声をあげる。

「つまり、ギャップにやられたってことね」
「・・・そう、なるのかしら・・・」

 特定の相手へ向ける好意を自分で認めることほど、気恥ずかしいことはない。テレーズはカウンター上に組んだ腕の上に頭を乗せながら、ライーザの出した結論に対して控えめに肯定した。
 ライーザは思案する。どうやら友人は己の中に芽生えたその好意を自覚しつつ、若く可愛いキャットが恋のライバルだということで思い悩み、結果この調子なのだろう。
 そう推論した彼女は、再び腕を組んで唸った。

「まぁ・・・なんていうかキャットちゃんみたいな若さはもうさ、私らにはないわよね。そりゃ認めざるを得ない」
「そうよね・・・」

 ライーザの告げた非情なる現実に、テレーズの声は更に沈んでいく。

「でも、若さでは出せない魅力が私らにはちゃんとあるはずよ」
「・・・魅力?」

 テレーズが恨めしそうな目で見上げると、ライーザは皿の上のチーズを一気に口の中に放り込み、マグカップの中身を勢いよく飲み干した。

「どうせあれでしょ。キャットちゃんが明日の午後ジェラール様を出店回りに誘いにきたとかでグダってんでしょ?」
「・・・偶にライーザって鋭すぎてキモい」
「っさいわね。で、ジェラール様は明日キャットちゃんと街回るって?」

 ライーザが椅子から立ち上がりながら聞くと、テレーズは僅かに首を横に振った。

「・・・いえ、その時は訓練中だったから会話邪魔して遮っちゃった」
「それでいいわ。恋は弱肉強食、チャンスは奪い取るもの。つまり今度は、あんたのターンってわけね」
「私のターン・・・?」

 言っている意味が良くわからないという顔のテレーズだったが、そんな彼女を見下ろすライーザは、不敵な笑みを浮かべていた。




 帝都臣民の大歓声を背に、眩い黄金の鎧を身に纏ったジェラールはバルコニーから宮殿内へと戻る。
 秋の収穫祭で皇帝による臣民への祝辞は毎年恒例のことだが、今年はバレンヌ帝国としての領土全盛期であった南バレンヌ地方までを領地として復活させたことで、過去に類を見ないほどの凄まじい盛り上がりを見せている。
 要するに、皇帝ジェラールの名声と人気は嘗てないほどに高まっていたのだ。
 宮殿の中に引っ込んでも全く鳴り止む様子のない広場の臣民による大歓声に、ジェラールは誇らしいやら気恥ずかしいやら、なんとも言えない表情をしながら自室まで戻り、ようやく一心地つけるといった様子で黄金の鎧を脱いでいく。
 こうした身支度も本来は召使が行うものなのだが、そういった扱いだけはどうにも慣れないジェラールは、自分でやるのが習慣になっている。
 そそくさといつものシルクの上下に着替えると、やっと一息つくように自室のベッドに腰掛ける。

コンコンッ

 ドアをノックする音が聞こえ、さらに『お飲み物をお持ちしました』という声が聞こえてくる。
 丁度演説後で喉が渇いていたジェラールが感謝の言葉と共に入室を許可すると、間もなくドアが開き果実水の入った瓶とグラスをトレイに乗せた女が中に入ってきた。
 その姿をみて、ジェラールは驚愕の表情を浮かべる。

「・・・って、テレーズ!?」
「・・・お疲れ様です、ジェラール様」

 飲み物を持ってきたのは普段彼の身の回りの世話をする給仕ではなく、なんとテレーズであったのだ。
 しかもその格好は普段の軽装防具ではなく、深めのスリットから脚線美の映えるスカートに首周りから肩まで大胆に露出されたブラウスという、最近帝都内で流行りの南バレンヌファッションに身を包んでいる。

「・・・どうぞ」
「あ、ありがとう・・・」

 テレーズからグラスに注がれた果実水を手渡されると、ジェラールは思わず彼女から目を逸らしつつ受け取る。
 テレーズは女性の中では、背が高い方だ。その彼女が今の服装で座った自分に合わせて屈むと、しっかり角度がつくためか色々と視線の置きどころに困ることになるのである。

「その・・・どうしたんだい、テレーズ」

 兵装以外の彼女を見ることがなかったジェラールは、自分でも意外なほど動揺しながら問いかける。

「その・・・実は、本日この後会食を予定しているミラマー自治代表団の方の到着が遅れているようでして、会食のご予定を明日にずらすとのことで」
「そ、そうか」

 言いながら何故かテレーズが少しずつ近づいてくることにジェラールは内心で焦りつつも、あくまで平静を装う。先帝から引き継いだ強靭なる魂がなかったら、あやうく今頃は赤面して倒れていたかもしれない。

「それで・・・ですね。この後もしジェラール様がよろしければ、城下町への軽い視察に予定変更など如何かと思いまして。臣民はジェラール様のお姿を拝見できることを、何よりの喜びとしておりますので」
「・・・確かに、あれほど喜びの声を上げてもらえるなんて、私も思わなかったよ。この後の予定が無くなったなら、確かに民の顔を見にいくのは良いかもしれないな」

 そう言いながらジェラールが微笑むと、テレーズはそれに応えるように艶やかな笑みを浮かべた。
 その表情は護衛中にはまず見ることがないような華やかなもので、それにもジェラールは一々どきりとしてしまう。

「はい。城下町とはいえ不埒な輩がいないとは限りませんから、もちろん私もお供いたします。民に余計な不安を抱かせぬよう格好はこの様相で参りますが、一応万が一の時の武具も仕込んでありますので」

 そう言いながらテレーズは、徐にスカートのスリットを大胆に捲り上げる。するとそこには、大腿部に巻きつけられた小さな剣帯に、小型剣が納められていた。

「ッ!!?・・・そ、そうか。それなら安心だな・・・!」

 再び、目を逸らしながらジェラールが言う。武器の有無を確認しただけだと言うのはわかるのだが、如何せんそれ以外に視界に飛び込んでくる景色の方が、ジェラールにとっては殺傷力が高い。

「で、では参ろうか!」
「はい・・・!」

 いそいそと立ち上がったジェラールの脇にテレーズも控え、どうもぎこちない様子で歩く二人はそのまま城下町へと向かっていった。





「・・・・・・」

 遠くでは未だ賑やかに臣民が歌い踊り、広場の中央では煌々と火が焚かれ続け、無事に迎えられた収穫祭の喜びが今も続いている。
 その様子を自室の窓から眺め、ジェラールはうっすらと微笑む。
 帝都の繁栄をこうして見ることができるのは、彼にとってなにものにも代え難い喜びだ。

「・・・皆も喜んでくれていたな・・・」

 そう呟きながら、ゆっくりとベッドに向かい、腰掛ける。
 先刻までテレーズと共に城下町を巡り、多くの民と話し、彼らの喜ぶ様を間近で見てきた。
 途中、出店を出していたアンドロマケーから大量の串焼き肉を貰ったり、飲み屋の外席ですっかり出来上がり肩を組みながら歌っていたヘクター&ジェイムズに挨拶したりと、いつもは戦いの連続で休まる暇のない帝国兵の皆も、其々にこの祭りを楽しんでくれているようだった。

「テレーズには流れで城下町回りの護衛をお願いしてしまったが・・・彼女も少しは気が休まっただろうか・・・」

 護衛といっても、特になにか危険が起こったということはなかった。
 あったことといえば、酔った民にぶつかられたテレーズが自分に抱きつく格好になってしまったりとか、人混みに逸れそうになったので彼女と手を繋いで突破したりとか、そういったことくらいだ。
 側から見ている限りでは、彼女も常に緊張感に包まれているというよりは、どこか楽しんでいるような、そんな眩い笑顔も時折見られた。
 それならばそれで良かったのかもしれないな、とジェラールは思う。

コツンッ

「・・・?」

 窓辺に、何か小さなものがぶつかったような音がする。
 ジェラールがすぐに気づいて、何事かと思い窓辺に近づく。
 すると窓の外に設置された小さなバルコニーの縁に立つ、小柄な人影があった。

「あぁ、やはりキャットか」

 そこにいたのは、キャットだった。彼女は屋根の上でも木の上でも自在に駆け回るので、たまにこうしてバルコニーから彼の元に顔を出すことがある。
 衛兵たちはいい顔をしないが、ジェラールはあまり気に留めることはなかった。
 しかしこんな時間にどうしたのかと思いながら窓を開け、自身もバルコニーに出る。するとキャットは縁の上にしゃがみ込み、すっとジェラールに向かって手を伸ばした。

「こんばんは、ジェラール様。今から、少し屋根上の散歩をしましょう」
「え・・・?」

 唐突な誘いにジェラールが即座に反応できずにいると、キャットはみるみるうちに小さな可愛い顔を膨らませた。

「ネタは上がってるんです。ジェラール様、今日テレーズと城下町回ってたでしょ」
「あ、あぁ・・・どうも会食の予定が変更になったらしくてね」
「変更させたのは、ライーザですよ。ミラマー代表団に帝都入り口で接触して、今日は城下町の収穫祭案内にさせたんです。全部裏はとったので間違いないです」

 そう言いながらキャットはジェラールの腕を掴み、ひっぱるように自分の方に引き寄せる。
 無理に抗わずにバルコニーの縁へと引き寄せられたジェラールは、キャットが盛大に拗ねた様子であることを流石に察した。

「・・・ずるいです。あたしだって、ジェラール様とデートしたかったのに」
「いや、あれはデートとかではなく公務というか・・・」
「誰がどう見たってデートでしょ」

 ぴしゃりとジェラールの言葉を遮りながら、キャットは彼の腕を手に取ったまま縁の上に立ち上がる。
 街に出ていたギルド仲間伝いにジェラールとテレーズがいい感じの雰囲気で並び歩いていたという報告を聞いた時には、お湯が沸かせるほど顔を真っ赤にして怒り狂ったものだ。
 だが、それで単に地団駄を踏んでいても仕方ない。相手がそのつもりならば、こちらも徹底的に戦うまでなのである。
 引き寄せられるに任せてジェラールもバルコニーの縁に登ると、キャットは慣れた様子ですぐ下の屋根伝いに歩き出した。

「昼間はあの女にしてやられたけれど、夜の帝都はあたしのテリトリーよ。賑やかな街の明かりを頼りに、屋根の上のランデブーをしましょう」
「・・・了解、付き合うよ」

 収穫祭の雰囲気で開放的になっていたジェラールは、キャットの我儘に付き合ってあげるのも今日は悪くないだろうと思い、彼女について屋根に飛び移る。

「ふふ、あの夜から思ってましたけど、ジェラール様って屋根上なのに身のこなしが軽いですよね。シティシーフ、向いてるんじゃないですか?」
「おいおい、私に泥棒になれというのかい?」
「いいえ、違うわ。もうあたしたちはチンケな泥棒じゃない。帝都の平和を守るための諜報部隊だもの」

 屋根から屋根へ伝い、宮殿の外壁を進み、外壁詰め所の屋根から近くの民家へは大きな木が一本ある。それを伝えば、あっという間に城下町の屋根上世界へ辿り着く。

「でも、盗みをやめたわけじゃないわ」
「こらこら、私の前でそんなことを言うものじゃない。流石に看過できないよ」

 屋根を伝って歩いていけば、賑やかなアバロンの中央広場が近づいてくる。きっとこうして臣民が喜びに歌い踊る様は、夜が更けるまで続くのだろう。

「ご心配なく。盗む対象は一つだけだし、そもそも盗まれるかどうかは、その人自身が決めることだから」
「人・・・?」
「・・・ジェラール様って、ほんと、にぶちんですよね」

 広場の様子を見下ろせる大きな屋根の上にたどり着いた二人は、その場に腰を下ろして賑やかな様子を特等席から見下ろす。

「でも、次はあたしが先手を取るわ。絶対負けない」
「・・・?」

 ジェラールの肩に寄りかかるようにしながらそう呟くキャットに対し、ジェラールはその言葉の真意を測りかねながら支えるに徹する。
 ジェラールとしても彼女のことは可愛い妹のように思っているが、しかしこうして体を密着されるのはどうなのだろうか、とは流石に思う。年頃の娘だし、もう少しこういうのには気を遣った方がいいのではないだろうか。
 その時、ふわりと風に乗ってキャットの髪のいい香りが鼻腔をくすぐった。
 それに釣られて思わず髪の匂いを嗅ぐようにジェラールがキャットに顔を寄せると、今度はキャットが慌てる番である。

「え、ちょ、ジェラール様・・・!」
「いや、なんだかいい香りがしたから」

 ジェラールの中ではそのまんま猫吸いのような気持ちであるのだが、キャットからしたらこれはひとたまりもない。
 慌てふためきながらも当然身動きなんて取れるはずもなく、そのままジェラールが一頻り満足するのを固まりながら待つ。
 やがてむふぅと満足げにジェラールが顔を離すと、キャットは居た堪れなくなってすっと立ち上がった。ジェラールからは見えない角度だが、顔の紅潮具合が凄まじいことは言うまでもない。

「・・・ち、ちょっとお腹すいちゃったので、串焼きと飲み物調達してきます。ここで待っててください・・・!」
「ん、わかった。気をつけて」

 言うが早いか、猫のようにしなやかに屋根を飛び移り、まだまだ人混みで賑やかな地上へと降りていくキャットを見送る。
 そうしてふと一人になったジェラールは火の粉が舞い昇る夜空を見上げ、戦いの最中にある一時の平和を享受するように目を細め、物思いに耽るのであった。

「・・・にぶちんって、どういう意味なんだろうか・・・」

 にぶちんを巡る二人の戦いは、長期戦になりそうであった。





最終更新:2023年11月18日 14:49