それから幾日かがたつ間、カタリナはこれまた事務処理のお手伝いに終始していた。
 その日も同じく仕事をこなしていたカタリナは日も落ちたころに、ここ最近にはなかった静かな夜を求めて中庭に下りてきていた。
 ここ数日はなれない事務業務を中心に生活していたので、少し疲れたようにカタリナには感じられた。やはり自分は剣を振っているのが性に合っているらしい。
 頭だけはフル回転していたせいか、なかなか寝付けなかったカタリナは中庭にでて一人、池の淵に座りながら月見をしていた。
 遅れていた業務も大体は落ち着きを見せ、明日からは人事変更その他の、要はカタリナ自身にはなんの関係も無い業務が中心に行われる。
 ミカエルが謁見の間でハリードに対し言った言葉が、いまなら確かに彼女にも理解できた。最早ロアーヌ宮廷といえど、絶対に安全な場所ではない。今回は表向きこそ内部の反乱という形でこそあったが、その内情はアビスの力が根本に渦巻いたものであった。

(・・・つまり、いくら内政を整えようが、いつまた同じことが起こっても不思議ではないということ・・・)

 水面に映る月を見つめながら考える。
 この世界に伝わる伝説によれば、ロアーヌ南方の霊峰タフターンの山頂には、三百年以上の昔に世界を絶望の淵に彩っていたという四人の魔貴族の一人、魔龍公ビューネイの居城があるという。
 約三百年前に聖王によってアビスの奥底へと追い返され、今その主の姿は無いはずであるが、それでもアビスの力が渦巻くには格好の場所というわけだ。
 そして十六年前に起こった、観測された限りでは史上三度目の、死蝕。
 伝記によればそれは三百年に一度起こるという、死の星が太陽を覆い隠すという大自然が織り成す超常現象のことだ。
 その年のすべての新しい生命が失われるといわれ、その運命には人も獣も植物も、果ては魔物でさえも逃れることは出来ないという。
 実際にカタリナの周辺で齢十六となる人物は、ただのひとりとしていない。
 そしてそのころはまだ十にも満たぬ年齢であったカタリナだが、後になってこの死蝕というものがそれ以外にもこの世界にもたらした影響を、いくつも耳にした。
 そもそも今回ミカエルが行なった魔物討伐にしても、そうだ。
 死蝕以降、活性化し続ける魔物の存在。それによって崩れ始めた世界各地の生態系。それを危惧した上での討伐であった。
 そう。死蝕は、アビスの力の活性化をこの世界にもたらしたのだ。

(そしてそのアビスの危機がロアーヌを覆ったとき、ミカエル様がロアーヌを守り、私はモニカ様を守らなければならない・・・)

 いつ何時でも油断はならない。今回のように、いざ事件が起きた際にモニカに危険が及ぶケースは非常に多くなるだろう。

(・・・帰ろう。モニカ様の傍にいなければ・・・)

 そう思って立ち上がったカタリナが振り向くと、そこにはミカエルが一人で立っていた。

「・・・ミカエル様?」

 驚いたカタリナが声をかけると、ミカエルはゆっくりと歩み寄ってきた。

「この度はご苦労だったな、カタリナ」

 そういいながら近づいてくるミカエルに向かって姿勢を正して向き直ったカタリナは、ミカエルのねぎらいの言葉に恥ずかしそうに頭をたれながら口を開いた。

「いえ、私は自分の役目を果たしただけです。このような身にご心配は・・・」

 そこで、カタリナは言葉をなくした。
 歩み寄ってきたミカエルに抱きすくめられたカタリナは動くことも出来ず、ただただ何が起こったのかわからずに目を開かせるだけであった。

「私は、カタリナという一人の女性の心配をしているのだ」
「・・・ミ、ミカエル様・・・」

 顔は見えず、カタリナに見えるのはミカエルの長く透き通った金髪だけだ。
 さっきまで休ませていたはずの頭が再びフル回転する。予想だにしていなかったこの出来事をなんとか把握しようと、感じたこともないほどの熱を持って頭が働く。しかし、残念ながらカタリナの頭はこの場合にどうするべきかの答えを導き出してはくれない。あまりに突然のことに思考は結局のところさえぎられ、次第に押さえの利かぬ歓喜の涙が流れるのを感じながらカタリナは、動かずにただこういった。

「・・・うれしい」

 そういうのが彼女には精一杯で、あとはただ抱きすくめられるのみだった。
 そして抱擁から開放されたカタリナはそのままミカエルに手を引かれ、物陰へと移動した。
 そしてそこでもう一度愛を囁かれ、カタリナはただその恥ずかしさにうつむき、歓喜の涙は未だ収まることをしない。そしてカタリナはミカエルによって唇をふさがれ、再び抱きすくめられた。最早カタリナは自我を制御できず、為されるがままだ。

「・・・ところでカタリナよ。今マスカレイドはあるか・・・?」
「え・・・あ、はい。ここに・・・」

 言葉と共に抱擁を解かれたカタリナは、言われるがままに懐から愛用の小剣、マスカレイドを取り出した。
 このマスカレイドとは聖王遺物といわれる名の通り聖王所縁の伝説の武具の一であり、ロアーヌ誕生の頃より侯家に引き継がれてきた宝具でもある。その姿を装飾品のような小剣から真紅の大剣へと変える、奇跡の武具である。
 カタリナは十五歳のときにモニカの護衛を命じられた時より、この宝剣を先代侯爵フランツから預かっていた。いまやこの剣を使いこなすことが出来るのも、世界で彼女一人であろう。
 取り出されたマスカレイドを手に取ったミカエルは、一歩カタリナから離れてその小剣を見つめた。

「これが、ロアーヌ侯家に伝わる聖王遺物マスカレイド・・・」

 宝具を見つめるミカエルは、鞘に納められたその短剣を抜き放ち、その刀身をじっくりと観察した。華美な装飾のなされたその短剣は、そのままではとても武器として有用なものには見えない。だが、一度その力を解放すれば、世界に名だたる名剣となる。

「・・・俺が欲しかったのは、これなのだ」

 そういった瞬間、ミカエルは後ろに跳び退った。

「・・・・・・っ!!貴様、何者だっ!?」

 その一言で頭の中が霧掛かったような状態から一気に目覚めたカタリナは、身構えながら声を荒げた。しかし、ミカエルの姿をした者はにやりと笑い、その顔は月明かりに照らされると同時に、全くの別人へと表情を変えていた。

「かのカタリナといえど、俺の変化は見破れなかったようだな・・・?なかなか可愛かったぜ。マスカレイド、確かに貰い受けた」

 そういった男は、驚くべき速さでその場から逃げ去っていった。

「待てっ・・・・!!!」

 追いかけるカタリナ。しかし先ほど男が立っていた場所までいくと、そこから見える景色には既に男の姿は確認できなかった。
 周囲にはもうその気配の名残すらなく、夜の闇にまぎれて完全に男はこの場からいなくなってしまったようだ。

「・・・・・・なんてこと」

 地に膝を着き、服の袖で唇を拭いながら彼女はうなだれるしかなかった。









「・・・カタリナ!!どうしたの、その髪・・・!!」

 明くる日の午前、謁見の間でミカエルと共に居たモニカは、そこに入ってきたカタリナの姿を一見すると大そう驚きながら近づいてきた。
 彼女自身自慢だったはずの長い髪を完全に切り落としてベリーショートになったカタリナのその姿に、玉座に座るミカエルも流石に驚いたのか、目を細める。その姿も通常着ているような動きやすいドレス姿ではなく、今のカタリナはまるで今から遠征に出かけるかのように完全に武装していた。
 近づくモニカに首を振りながら、カタリナは控えめに距離をとってミカエルを見据え、そして跪いた。

「・・・ミカエル様、申し訳ありません。マスカレイドを奪われてしまいました。本来ならば今すぐに自害してお詫び差し上げるところですが・・・何卒、何卒奪還の機会をおあたえいただけませんでしょうか・・・!」

 跪きながら、そう口にするカタリナ。余りに突飛なカタリナの告白に驚きの表情を隠せぬままに立ち尽くすモニカを尻目に、ミカエルは微動だにせぬまま口を開いた。

「・・・その髪は決意の証か。・・・よかろう、自らの不始末、その手で清算してみせよ」
「・・・ありがとう御座います!」

 同じく動かぬままに、カタリナが答える。
 ミカエルはその言葉を聴くと立ち上がり、上段から降りながら言葉を続けた。

「・・・ただし、奪還を成すまでは決してこのロアーヌに足を踏み入れることは許さぬ。必ず奪還して、帰還せよ」
「・・・そんな、お兄様っ!!」

 今度はミカエルに振り返りながらモニカが声を上げる。兄の冷酷とも取れるその言葉にモニカは悲嘆の表情を隠せなかった。
 しかしその言葉を聴いたカタリナはゆっくりと立ち上がり、もう一度ミカエルに礼を述べて出口へと振り返った。

「カタリナ・・・!!」

 そんなカタリナの姿を見て今度こそ彼女に駆け寄ろうとするモニカをミカエルが制止させる。

「・・・カタリナよ、一つ聞きたい。お前ほどの者がマスカレイドを奪われるとは・・・何があったのだ?」

 その言葉に歩き出そうとしたカタリナは動きを止め、しかしミカエルには振り返らずに答えた。

「・・・それは・・・。・・・それだけは、申し上げることが出来ません」
「・・・そうか。ならば重ねて問うまい。いくがよい、カタリナよ」

 その言葉を背に、カタリナは謁見の間を後にした。





最終更新:2012年04月19日 21:28