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Alice Magic > イカサマライフゲイム

◇ ◆


狼が迫ってくる。
威嚇と言うよりは自らを鼓舞するためのそれに近いだろう咆哮をあげながら、迫ってくる。
速度で勝負しても一般人と体力は変わらないカインツの勝ち目は薄い。
格闘戦など最早論外だ。あの鋭い爪と牙はいとも容易くカインツの身体を切り裂くことだろう。
ここですべきことは、とにかく逃げることだ。
速度で勝てないなら知略を巡らせ、縦横無尽に障害物を利用して逃げればいいだけのこと。
衣服の山を薙ぎ倒しながら進んでくる狼――香坂幹葦を嘲笑うように、ひたすら逃げる。
体力が尽きるのではないかと思われるかもしれないが、幸いその心配は無用のようだった。
速度ではなく場所を利用して逃げているのだから、消費する体力は最小限のそれで済ませられる。


(一フロアに複数の店舗が入っているとは都合が良いですね……逃げ場には事欠かなそうだ)


背後から聞こえる狼の咆哮に、明らかな苛立ちの色が混じり始めたのが分かる。
カインツの翻弄は早くも効果を表しているようで、香坂は何度も立ちはだかる障害物に苛立っていた。
肉体的なダメージは皆無に等しいだろうし、スタミナを切らすことも考えてはいない。
いくら素人相手とはいえど、知らない相手のステータスを決めつけるのは早計が過ぎる。
むしろ相手は全ての分野においてずば抜けていると想定した方が余程良い筈だ。
だからカインツは、相手の精神を攻撃、即ちストレスを蓄積させることにした。
何度も繰り返し似たり寄ったりの障害物に阻まれる――意外ときつい精神攻撃なのだ。
単純作業を繰り返し続けると精神を病むだとか、そういう話がある。
そこまで極端ではないにしろ、同じことを幾度も繰り返す行為自体は本当に人の精神を摩耗させる。
それが命の奪い合いとなれば尚のこと、背負うストレスの量は増加するだろう。


(しばらくはこれで苦しんで貰いましょうか……おっと、正人くんにも気を使わないといけません)


試着室をあくまで自然に避けた方向に逃げる。
しかしここでも頭を使い、「試着室の方には逃げていないと分かるが、何処にいるのか分かり辛い」逃げ方をすることで、更に疲労を蓄積させていく寸法だった。
カインツが隠れたのは旅行用のバッグ売り場、そこに這いつくばっているだけだ。
一見子供騙しの一手に見えるが、だからこそそれに騙されたと気付いた時の効果が期待できる。
こんなものに騙されていたのかという拍子抜け、次に訪れるのは激しい怒り。
さすがにこれは極端な話で、実際は苛立ちに拍車をかけるくらいが関の山だろうが、それでもカインツの執る戦い方には十分合致した戦法の一つだ。

どうしてこんな嫌らしい手段を使いこなしているのか疑問があがるだろう。
しかし、医者とは患者の精神にも精通している職業。
それを少し応用した戦い方をしているだけに過ぎない。
実際の時間はまだ戦闘開始から二分も経過してはいないのだが、相手の体感時間はそれよりも多く、時間を相当かけたような錯覚を覚える筈だ。
隠れつつもいくつかのパターンを想定し、精神攻撃の方法を頭の中に組み上げていく。
だが逃げるばかりではない。ディパックから取り出したある物を見て、カインツ・アルフォードは会心の笑みを溢した。それは、武器ではなかった。


一方の香坂幹葦は、カインツの目論見の通りに苛立ちを隠せずにいた。
自分は殺し合いを挑んでいる筈だ。
相手はどう見ても殺し慣れているようには見えなかったし、油断も少しはあったのは認めよう。
が、だ。
一手の反撃もせずにただ馬鹿の一つ覚えのように逃げ続けるだけで、これでは一方的な鬼ごっこ。
鬼ごっこが成立しているならまだいい。しかし相手はまるで追跡する香坂にわざと幾つもの障害物をぶつけ、まともな追跡をさせてくれない。
おちょくっているとしか思えない相手の戦い方に、香坂は焦燥と苛立ちが入り雑じったどうしようもない感情を沸々と沸き立たせ、あの喉笛を噛み千切ってやりたくて仕方なくなる。
小生意気に走り回る猪口才な羊を、爪で引き裂き、牙で食い千切りたい。
ギラギラと相貌を殺意の色に光らせ、見失った標的を捜すように周囲を見渡した。


「……こっちではないな」


障害物を退けながらではあるが、絶対に違うと断言できる一方があった。
それ以外の全てが怪しいというのも範囲的には大して変わっていないが、一刻を急ぐこの状況では僅かでも捜さなければならない範囲が狭まってくれたのは有り難い。
虱潰しに怪しい場所を捜していけば見付かるだろうし、もし移動しようものならそこを突く。
獣性活性薬の効力はあまり大きいものではないが、それでも香坂を強化してくれるものだ。
心強い味方となって、香坂の溜まった鬱憤を晴らすことに尽力してくれるだろう。
余裕綽々で逃げる獲物の喉笛を噛み千切る感覚を想像して、香坂はその口許を邪悪に歪めた。

悪いことをしたかったが、殺す決心がつかなかった青年。
そのリミッターは皮肉にも、ここで破壊された。
二度もの反転を経て、その在り方をことごとく変えられて、大崎年光の嘘に振り回されて。
終いには獲物に翻弄され、遂に彼の中の人として大切な何かが弾けた。
リミッターを解き放たれた彼の姿は、もう自らの在り方に苦悩する青年などではない。
一匹の、檻から解き放たれた猛獣そのものだった。

怒りで荒くなった呼吸を抑えながら、逃げた獲物を追う。
しかし闇雲に捜している訳ではなく、ちゃんとした根拠を以て着々と距離を詰めていた。
彼の使った手段は単純にして明快、自らの記憶を辿ったのだ。
獣性活性薬の効力が彼にもたらしたのは、風貌の変化と身体能力の向上だけではない。
五感の向上。
化け物レベルという訳ではないが、少なくとも人間のそれよりは格段に上のものとなっているのだ。
思い出すのは、逃げるばかりのあの忌々しい獲物が立てていた足音とその方向。
感覚的な記憶であっても、それを茫然と辿っていき、やがて辿り着いた場所は。


「ここか………」


スーツケースの見本などが置いてある場所、つまり旅行用のバッグ販売店だった。
つい十数分前までとは一転した殺人者の雰囲気を漂わせて、彼はゆっくりとその場に足を踏み入れる。
香坂幹葦の記憶は正しかった。
執念だったのかは本人にも分からないが、確かにそれはカインツ・アルフォードの潜む場所だ。
しかし―――事態はまたも、彼の望んだようにはならなかった。
ひとつのスーツケースに歩み寄った瞬間、突然に伸びた一本の腕と、それに握られた何かの缶。
それが何かを確認する前に、香坂の視界はあっさりと閉ざされる。


「がぁぁぁああああっ!?」


カインツ・アルフォードの攻撃であることは明白。
スーツケースの陰に潜んでいたカインツは、上手くタイミングを見計らってある物を使用した。
対暴漢用の護身具――俗に言われる催涙スプレーである。
至近距離で顔面にそれを浴びた香坂に、微塵の容赦もなく激しい痛みが押し寄せる!
鼻水と涙が止まらなくなり、咳まで出始めてまともに戦える状態ではない、その隙を狙ったカインツの不恰好な蹴りがその側頭部を捉え、彼を床に転がらせた。
決して強い威力ではなかった。
だが、香坂幹葦の理性をまた少し削る。


「待てッ! 舐めやがってェ……!! ……がはっ、げほっ」


催涙効果を含んだ霧の噴射は未だ香坂を激痛で苛み続けている。
目と鼻を責め立てる痛みにどうしようもなく苛立ち、辺り構わず全て壊したい気分になる。
しかし幸いだったのは、あくまで護身具に過ぎない程度の威力だったことか。
これが本場の戦場で使われるような代物だったなら、香坂はもうしばらく行動不能になっていたろう。
目から溢れ出す涙を拭い、鋭利な牙をその口元から覗かせ、まだ不自由な視界を凝らす。
今度は直線コースで逃げたようで、何とか曲がるその瞬間を捉えることには成功した。
邪魔な棚は踏み越えろ。
己の矜持だろうが何だろうが無視して、あの苛つく獲物をちゃんと狩ってやる。


「ゥゥオオオオオオ!!!」


一際大きな雄叫びを合図として、香坂は文字通りの全速力で駆け出した。
獣となっていることで普通の人間よりも持久力は勝るが、それでも一時の感情に任せて悪戯に体力を消費してしまうのは愚策と言う他ない一手である。
ただ、香坂幹葦にもいい加減この追いかけっこを打破する為の手段は思い付いていた。
無論それはカインツ・アルフォードを殺害するものだけに限られるが、気付きは確かにあったのだ。
いや、手掛かりは散りばめられていたというべきだろうか。


(……敵は逃げてばかりで、不意打ち以外じゃまともに攻撃さえしてこない)


障害物を壁にして逃げたり、道をとにかく縦横無尽に駆け回ってみたり。
明らかに舐めているとしか思えない戦法をとってくる忌まわしい敵だが、それが最大のヒントだった。
相手には、香坂を真正面から撃退するだけの力が無いのだ。
銃器や爆発物、刃物でも殺し合い慣れしていない香坂には少なからず有効打となる。
流石に近接戦では獣の部品を持つ彼が有利だろうが、それでもないよりは随分とマシの筈。
―――つまり結論を言えば、ちょこまかと逃げる獲物にはそれしか戦い方がない。


(さっきの蹴りは少し痛かったけど……それでもそんなに高い威力じゃなかった)


あんな体勢の状態で側頭部を捉えられたにしては、少々小さい痛みだ。
これらの事項が意味することは、カインツの勝機が相当に薄いものであるということ。
催涙スプレーは確かに面倒な物ではあるが、殺傷能力は皆無。
有効打を持たないカインツが何を目論んでいるのかは知らないし別に興味もない。
が、決定打がない以上彼の小癪な策は何度重ねたところで、香坂の心臓を止めるには到らないのだ。
逆に奴の万策が尽き、次第にじり貧になっていくのが落ち、といったところだろうか。
あれに追い付いた時が、あの腹立たしい鼠の最期の時。


(位置は見失ったが、隠れるには時間が足りないだろっ!?)


いや、わざわざ相手の無意味な抵抗に甘んじてやる必要すらない。
この疾走で追い付き、終わらせる。
大崎の話の真偽がどうであったにしろ、これで心配は一切なくなるのだ。
無駄に手こずらされはしたが子供騙しの鬼ごっこもそろそろ付き合いきれない。
ここで終わらせる―――催涙の激痛さえ忘れて、最早見る影もない殺人狂の面で、香坂は疾走する。
憎き獲物の死を瞼の裏に描いて愉悦に浸り、やがて訪れるだろうその時へと近付いていく。
今の彼を形容するならば、「狂っている」と言う他なかった。


(……く、少し侮り過ぎていましたね)


相手が人ならざる身である以上、暴漢撃退用のスプレーが効くとはあまり期待していなかった。
予想以上の効き目を実際には見せてくれたが、それでもあれで慢心してしまったのは戴けない。
少なくとも後数十秒は足止めがきき、その隙に次の策を講じる暇があると思っていた。
これまではある意味一方的な戦況だったが、それゆえ相手の本質を見誤っていたようだ。
……過ぎたことをいつまでも語っていたって何も始まらない。
はっきり言って今の状況は芳しくない、寧ろかなり不味い状況といってもいいだろう。
カインツはまだ支給品を持っているが、それらはあの狼を一撃で撃退できるような品ではない。
距離を詰められない限りは大丈夫だった――しかし、ただ一度の判断ミスがそれを狂わせたのだ。
思い通りにいかない戦場に歯噛みし、カインツは迫る足音を確かに聞く。
エンカウントまでは最早秒読み段階。
さあ、どうするか。


(……予定を変更しましょうか。本来なら『締め』に使うつもりだったのですが)


本来の予定では後数段階の『攻撃』を経た後、駄目押しの一手として使う筈だった切り札。
切り札といっても決して香坂幹葦を昏倒させるような上等なものではない。
あくまで一対一の殺し合いを終わらせるための一手であり、攻撃手段かどうかも怪しいところだ。


(相手は速攻でこちらを殺しに来るでしょう―――正真正銘の追いかけっこですね)


ここから先はカインツにとっても賭けに近い、確実ではない段階に入ってくる。
こんな綱渡りのような真似は生涯御免だと言いたかったが、今は生き抜くことだけを考える。
既に仕込みは終わっているため、後はどうにかして『そこ』に誘導してやるのみだ。
そこに行き着くまでに食らい付かれたらお終い。
首尾よく誘導したとして、目的を感知されたらそれで万策は尽きる。
不確かなものにすがりつく不安を乗り越えて、カインツは初めて安全策のない道を走り出した。
頼れるのは催涙スプレーのみ。
随分と頼りない相棒だが、一吹きすれば数秒でも動きを止められる。
片手にスプレー缶を持ったままという何とも不格好な容姿で、カインツは走る。


「ガァァァアアアアア!!!!」


香坂の思惑通り、カインツはまだ隠れてはいなかった。
無様にスプレー缶片手に走っている、やはり武器はないようだ。
内心では銃でも持っていたらどうしようかと心配してはいたものの、どうやら杞憂のようである。
確かに催涙の効果は強烈で、今でもまだ痛みは残っている。
が、ここで止まったなら二度とあれを狩ることは出来ないーー香坂は執念めいた情さえ懐いていた。
最初の邂逅。
一度目の反転。
助けた相手からの裏切り。
二度目の反転。
変貌を遂げた大崎年光との契約。
たった数時間の間に与えられるストレスとしては、許容出来るキャパシティを超過している。
それが結果として殺せなかった青年のリミッターを破壊した。
大崎年光も予想しなかっただろう域の変貌。
ただ、その身体は憎き獲物を食い千切るその為だけに!


「……くっ、速いですね!」


片手だけを後ろに突き出して、スプレーを狙いも定めずに噴射するカインツ。
直撃でなくても、飛沫が目に入れば一瞬だろうと歩みを止めるかもしれない。
両の瞳を閉じ、狼となって上昇した聴力でカインツを追い続ける。
前方のカインツの驚いた様子が伝わってきた。
視界を自ら閉ざして追跡してくるというのは、いくらなんでも予想の範疇を超えている。

香坂は極めて特殊な人種である。
図らずもその恩恵で獣性活性薬の催淫を無力化したように、ここでも彼に味方をした。


(……やっぱり、聞き取れる範囲が広くなっている……?)


活性薬と香坂の細胞が合致したように、その聴力を強化しているのだ。
奇しくも彼が気付いたその瞬間、丁度彼の耳に起こっていた強化は終了した。
本来の強化の限度を上回り、今や獲物の逃げた方角など手に取るように分かる。
たとえば、こうして視界を切り捨てていたとしても問題なく追跡が可能になっている。
予想してはいなかった展開だが、願ってもない幸運だった。
催涙スプレーは無効化した。
鼻から直に噴射されでもしたらそりゃあひとたまりもないだろうが、その前に香坂の爪が奴の身体をいともあっさりと切り裂き勝負を決めるだろう。


(これで、実質の丸腰……!)


しゅうううう、というスプレーの噴射音が聞こえたが、そんなものは無視する。
カインツの動揺が手に取るように分かり、鬱憤を晴らせていることがどうしようもなく愉快だった。
目を開いてその動揺を嘲笑ってやりたい衝動に駆られ、それを何とか抑える。
悪足掻きにも等しいスプレーの攻撃は無駄でこそあれど、視界を開けば相変わらずの脅威。
ここまで敷き詰めた優位をみすみす譲るような真似だけは絶対にしたくない。
理性を回復しながらも、しかし致命的にどこか違えたまま、香坂は口元を歪めた。


「………っ!」


その時、カインツの動揺が明らかな驚愕へと変わった。
薄目を開けると、彼の視線が一瞬、遠くに見える試着室に向いていた。
ここだけは不味い、そんな言葉が聞こえてきそうなほどあからさまな態度に香坂は失笑を禁じ得ない。
あれだけ手こずらされた野郎も所詮こんな小物かと、笑い飛ばしたくもあった。
しかしその瞬間、香坂の頭の中にあるアイデアが閃いたのだ。

"あの中にある物を壊せば、それはとてもいい「悪いこと」ではないのか?"

殺人に一直線だった彼の思考は、ここで一度原点に回帰する。
たとえ中身が高価な物でも無価値なものでも、はたまた人間なんかでも、あれはカインツの大切な物。
これだけ散々な目に遭わされた落とし前がてら、壊してみるのも悪くない。
あまりにも身近に迫った悪行に、初い迷いなど死滅した香坂の心は躍る。
思い描く。
あの中身をなるだけ無惨にぶちまけ、引き裂いたら、カインツはどんな表情を浮かべるだろうか?
舐めた態度で次々と作戦を展開してきた輩の嘆きを見ることは、何れ程の愉悦だろうか?
そして――その悪行は、自分の目指すものへ迫る最初の一歩になるのではないか?
思うが早いか、香坂幹葦はカインツの追跡を放り出して試着室へと方向を変えた。


「止めろ! それだけは、どうか!」
「ハハハハハハ!! 僕はやっと悪いことが出来るんじゃないかァ!!!」


ようやく―――ようやく、ようやくようやくようやく!
紆余曲折こそあったが、こうして悪を犯せるのだ。
見ていろ名も知らない獲物、と香坂は心の中で嘲笑った。
ドアを勢いよく開け、その瞬間に外側からドアが閉められる。
香坂を止めようと走ってきていたカインツの仕業としか考えられない。
しかし、彼の頭はもうそんなところのことなど見てはいなかった。
ただ、目の前にある光景を見て、目を見開いて絶句する。


「何も………無い………?」
「ええ、その通りですよ。ただのトラップですからね」


そこにあったのは、何ら変わったところのない姿見。
外から聞こえるカインツの声が、自分は騙されたのだということに気付かせる。
直後、沸き起こる怒り。
一時は鎮まった筈の激情が再び溢れ出し、力任せにドアを押し開けようとする。
カインツ程度が押さえているとしたなら押し切れる自信はあったのに、まるでドアは動かない。
まるでそう、何かに固定されているかのように!
そしてようやくそこで香坂は、この試着室の外側がどうなっているのか、思い出すのだ。
何の意味があったのかはまるで分からないが、ここは二つの試着室が向かい合うようになっている。
つまり、その間のスペースは狭く――丁度、棚一個分くらいだ。

カインツの作戦は単純にして明快なものだった。
どうにかして香坂を試着室に誘導したなら、予め空にしておいた棚を一つ、二つの試着室の間に詰まるように設置する。こうすれば、香坂は簡単には出られない。
とはいえぴったりではないので少しだけなら隙間を開けることも出来るのだが――――


しゅうううう。


「がぁぁぁあああああああ!?」


催涙スプレーの噴射を、直で浴びせてやった。
この距離でなら、どんな執念があろうと十全の効力を示すことだろう。
棚のつっかえはそう簡単にどうこう出来ないだろうし、苦痛は彼の苛立ちを更に募らせる。
こういった状況を災害時などでも脱するには、案外力ではなく冷静な判断こそが重要だ。


「では、ご苦労様でした」
「ま、待てェええ! ふざけるな、逃げるなよぉおおおおお!!!」


殺意に満ちた叫びに振り返ることもなく、カインツ・アルフォードは本命の試着室に向かう。
そこに勝利の余韻などはまるでない。
あるのは、置き去りにしてしまっている古川正人への心配だけだった。
こうして正しき医者は、悪いことをしたいと願った青年に勝利を収めた。


◇ ◇


試着室のドアを急いで開け放つ。
正人の姿は変わらずそこにあり、カインツはまずその時点で大きな安堵を覚えた。
だがそこで終わらないようにしっかりと観察する。嘔吐や吐血の痕跡は特に残されていないし、どうやら本当にカインツ達は幸運の女神に愛されているらしかった。
正人なりの義理だったのか、体調が悪化している筈にも関わらずその意識ははっきりとしている。
カインツからすれば眠っていてくれた方が良かったのだが、その義理堅さには強く言い出せなかった。


「……よう。お帰り、カインツ」
「体調はどうですか? 寝ていてくれても良かったんですけど……」
「まぁ、いいとは言えないな。頭ががんがんする」


戦い自体はなるべく迅速に終わらせたつもりだ。
しかし急性アルコール中毒症状が悪化しているのは非常に不味い。
タイムロスの分も急いで病院を目指さなければならないだろう。
走るのも危険だし、かといってのんびりしている訳にはいかない、何とも面倒なことになっている。
大事には至っていないだけ良しとすべき、とカインツは心の中で割り切ることにした。


「殺してはいませんけれど、しばらくは動けないようにしてきました……今の内に逃げますよ」


動けないようにしてきた、なんて言い回しをすると誤解を招きそうだが、カインツは香坂に怪我をさせてはいないし、流血だって一滴も流させてはいない。
戦略と知識、ほんの少しの運だけで殺人者を事実上撃退してみせたのである。
その武勇を意気込んで正人に語るような真似はしなかったが、自分はよくやったと自分でも思えた。
実は先の戦いで最も苦労したことは、正人の居る試着室に近付かせないことだった。
フロアの構造のイメージを大まかに描き、それを再生しながら逃げるというなかなかに難しい所行。
余裕綽々の態度の裏では、実はかなりビクビクしていたりするのだ。
人命が懸かった戦いの重みがどれほどのものか、カインツは改めてひしひしと実感していた。


(相手が冷静さを欠いてくれたから良かったものの……)


香坂幹葦という青年が簡単に冷静さを失ったからこそ、あの戦法で事足りたのだ。
もしも相手が香坂ではなく、冷酷非道かつ頭の切れる人物だったなら、今頃カインツは正人諸共屍となっていたっておかしくはないだろう。
案外勝利の要因として最も大きかったのは「運」だったのかもしれない。
数多く想定できるIFの可能性ビジョンを脳裏に描くと、それだけで背筋に寒いものが走る思いだった。


(バトルロワイアル……想像していたよりも、恐ろしいゲームだ……)


冗談抜きで殺しにかかってきたあの狼との交戦で、それがよく分かった。
楽観視していたつもりはないが、やはりカインツは心のどこかでバトルロワイアルを甘く見ていたのだ。
そんな弛んだ心にとって、一連の戦いはいい薬となってくれたようだ。
時に経験は情報を上回る良薬となる。
良薬は口に苦し。そんなどこかの諺の意味を改めて実感した気分だった。
これからはもっと慎重になり、決してどんな場合でも満身だけはしないようにしようと、カインツ・アルフォードは新たな教訓を己の胸にしっかりと刻む。


「………」
「……正人くん? ……眠っているだけですか。良かった」


体調不良に耐えかねたのか、正人はついにその意識を闇へと落としていた。
その身体を慣れた手つきで起こし、再び彼の身体を背負う。
目指すは病院。その為にもまずはこのデパートを出る必要が当然ながら、ある。
それも出来る限り早急にだ。
下手な屋外よりよっぽど危険地帯と化している、それが今のデパート内の状況だ。
香坂が脱出する前にというのもあるが、何より危惧すべきは再度あの三人組と出会ってしまうこと。
あの悪人トリオにはあんな子供騙しは通用しないだろうし、自らが逆に策に嵌められてしまい、無様に策に溺れて沈んでいく様が優に想像できた。
これ以上の面倒が起きないことを切に祈りながら十字を切って、カインツは正人を背負ったまま階段を降り始めた。残されたのは、敗北者の狼だけだった。


【C-2/デパート 階段/一日目/午前】


【カインツ・アルフォード@オリキャラで俺得バトルロワイアル】
[状態]:疲労(中)、背中に古川正人を背負っている
[服装]:特筆事項無し
[装備]:催涙スプレー
[道具]:基本支給品一式、ランダム支給品(1)
[思考]
基本:なるべく多くの人間と脱出
1:病院へ向かう。
2:正人君と行動、多くの人間と同盟を組む。
3:「取引」は守る。
4:危険にさらされたら、刺し違えてでも危険人物を止める。
[備考]
※俺得オリロワ参加前からの参戦です。
※古川正人と「取引」しました。
白崎ミュートン、酒々楽々、愛崎一美の名前と容姿を記憶しました。


【古川正人@DOLバトルロワイアル2nd】
[状態]:急性アルコール中毒による意識喪失(応急処置済)
[服装]:特筆事項無し
[装備]:黒作大刀@俺得ロワ3rd
[道具]:基本支給品一式、ランダム支給品(1~2、刀剣類は無い模様)
[思考]
基本:今度こそ笑子を守る。
1:…………。
2:カインツと行動する。
3:笑子を探す。
[備考]
※DOL2nd死亡後からの参戦です。
※カインツ・アルフォードと「取引」しました。
※白崎ミュートン、酒々楽々、愛崎一美の名前と容姿を記憶しました。


※カインツと古川の取引は、
1:カインツが古川に武器を貸す。
2:その代わり古川がカインツを守る。
3:怪我をした場合は医者としての力をカインツが古川に貸す。
以上です。

◆ ◆


「さて、あいつは上手くやってるかねえ」


デパート二階のエレベーターで、大崎年光はこれからの行動方針を纏めていた。
エレベーターとは一見危険な場所ではあるものの、何も知らない相手にはむしろ効果抜群だ。
エレベーターを暢気に呼びつけた馬鹿を、ドアが開いた瞬間に銃撃して仕留める。
誰も使わなければ静かに考えさせてくれる良い休憩場所にもなる。
正直なところ思いつきで選んだ場所だったのだが、予想していたよりはずっと落ち着く。
手には勿論銃をしっかり持って、考えに浸りつつも微塵の油断も懐いてはいない。
エレベーターごと爆破されでもしたなら流石にどうしようもないが、まさかそんな大胆を働く輩がいるとも思えない―――故に、そんじょそこらよりずっと安全な場所であった。


「それにしても「紆余曲折」くんねぇ……また四字熟語か」


自らのディパックに収まっている摩訶不思議な力を宿す「腕」。
その持ち主の名前も、本名ではないだろうが四字熟語・「心機一転」だった。
心機一転の腕は相手の胸元に触れた瞬間、触れられた相手のスタンスを反転させるというもの。
所持者が死亡してもなお効力を働く事からも、その出鱈目さが窺える。
そして先程襲撃し、追いはしなかったが一度視認した「紆余曲折」の力。
その名称を知っているし、詳細名簿でしっかりとどういう効力をもたらすのかも知っている。
迂回の能力、ただし不意打ちには対応できないとか、色々と穴はある。
……知っていながらも、実際に使用の瞬間を見た時には驚かされた。
ここまでの不可思議を前に無表情でいられる程、彼は人間離れしていないのだ。


「ま、科学で解明しようと思う方が馬鹿馬鹿しいんだろうな」


止めだ止め。
そう言って大崎は何の未練もなく、その「テーマ」を自分の中から排除した。
ファンタジー映画の原理を考察するようなもの。即ち無意味でただ時間を浪費するだけ。
もっと有意義なことに頭を使う方が、よっぽど生き残る為に役立ってくれる。
たとえば、会いたくない参加者について考えてみるとか。


「……しっかし、分からねえな。主催はどうしてこんな奴等を参加させたんだよ。
敵に応じて強くなる? 返り血を浴びて強化? ……出来レースにも程があるぜ、ったく」


行木団平、またの名を「無双劇場」。
ジャック・ザ・リッパー、またの名を「暴食の精霊」。
このバトルロワイアル屈指の反則的な強さを持つ猛者たちのことを考えて、大崎は溜め息をついた。
とはいえ生きている以上どこかに穴がある筈……殺せないということはないのだろう。
だとすれば十分だ、殺せる存在が相手なら容赦なく殺してやるだけのことなのだから。
確かに大崎一人では非力だが、戦略を以て戦えば格上の相手にだって一矢を報いられる。
およそ反転前の彼には想像できないような邪悪な笑顔を、その顔面は形作っていた。
彼もまた己が利用している心機一転のルール能力に踊らされているのだとは露知らず。
ならば彼もまた、道化と呼ばれるべき存在だったのかもしれない。


「……んじゃ、俺もそろそろ戦線に戻りますか」


シグプロSP2340を見つつ、そう言うと大崎はドアの開閉ボタンを押した。
もしも人の姿が見えたなら、騙し討つもよし、その場で射撃するもよし。
恵まれた支給品とルール能力の宿った腕を持つ自分ならば勝てると、彼は慢心していた。
その行為がどれほど危険なものかは分かっていたつもりだったのに、彼は無意識下に忌避されるべき悪徳、慢心してしまっていたのだ。
適当にボタンを押して行き着いた階で止まっていたから、どこの階かもうろ覚えだった。
だが、ドアが開くとどうやらここはフードコートらしい。
ちょうどいいと大崎は笑う。


(暢気に食事している馬鹿を叩くにはもってこいだ……良いねぇ)


如何にこれがバトルロワイアルとはいえ、参加者の大半は一般人だろう。
四字熟語のルール能力者達だって、常日頃から血生臭い世界で生きている者ばかりとは思えない。
ならばどうしてよいか分からず、食事という欲求を満たしに走る愚か者だって居てもおかしくはない。
警戒心を抱かず食事に没頭する馬鹿共の無防備な背中に躊躇なく鉛弾を撃ち込んでやる。
快楽殺人者にも等しい発想を胸に、その異常性にも気付かぬまま大崎はエレベーターを出た。
広がる光景。
フードコートにしてもかなりのレパートリーがあり、客を満足させるいい施設のようだ。
こんな状況でなければ是非来てみたい、と大崎は素直に感嘆の息を漏らした。
希望としてはハンバーガーでも食べたい気分だったが、ここは生きるために我慢することにする。
順繰りにそれぞれの場所を巡っていく手間を考えると憂鬱になるが、そこは仕方ない。
そんな手間、一人でも参加者を減らせる幸運に比べたらどれほどしょうもないことか。


「……ん」


探索を開始してまだ一分も経っていないというのに、大崎は声を漏らした。
話し声が聞こえる。
距離は近くでこそないが、このフロアのどこかから発せられているのはどうやら間違いないようだ。
何と幸先の良いことか。自分の幸運を、悦ばずにはいられない。
シグプロSP2340を握る力を強めて、足音を殺しながら慎重に、声の出所に向かっていく。
何度か分からなくなったが、声の主達はどれほど馬鹿なのか、話すことを一向に止めようとしない。
それゆえか。根気強くフロアを練り歩けば、程なくして遂に出所を突き止められた。
そこは、喫茶店風の店。
近付いてみるとやはり間違いなく、この店から声は発せられている。
にやぁ、と笑うと大崎は、銃を構えたまま何の躊躇いもなく店内に突入した。


「……………ぅ、あ、あぁ……………!?」


―――しかし。彼の出鼻は挫かれた。
突入し、ターゲットを視認したところまでは順調だった。
銃の引き金に指をかけたその瞬間、強烈な倦怠感と目眩が彼を襲ったのだ。
微かに漂うアルコールの香り……その時、彼の脳内に一人の参加者のデータが甦る!
別に全員のデータを暗記している訳ではないが、「四字熟語」のデータには念入りに目を通していた。
その中でも、相手にするとなればかなり、恐らくは紆余曲折より厄介な難敵。
酒々楽々―――酒と落下を司る四字熟語。
この感覚が泥酔のそれであると気付いた時にはもう、遅かった。

がんっ、と胸元に鈍い衝撃が走る。
タレント風の顔立ちをした一人の青年が、大崎の胸を躊躇なく蹴り飛ばしたのだ。
銃を取り落とすまいと思う間もない攻撃に、頼みの綱は彼の手を離れていく。
不味い、不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い!
この体調でグラディウスを振るえばまともに戦える筈がないのは明らかだし、闇雲な射撃でも望みが僅かにでもある銃撃に頼る以外術はないのに、それを失うのは不味い!
取りに行こうにも、そんな隙を見せたならターゲットの三人組が自分を殺すだろう。
みすみす銃を取らせてくれるような馬鹿はそれこそいない。


(万事休すか……? ……いや、ある。まだ、あれがあるじゃねえか!)


ディパックに今も収まっている、スタンス反転の右手。
それをどうにかして眼前の三人の誰か一人にでも触れさせれば、それで勝てる。
文字通り対象を心機一転させ、見違えるような善人になって甦ることだろう。
中毒にまでは至らないが深刻な泥酔状態。
しかし渾身の力を振り絞って、ディパックから取り出した右手を持って――駆け出した!


「おっ、根性あるねぇ」


からからと自分を蹴り飛ばした青年が笑う。
走っていけば丁度直線上に居る奴を狙えば、まぐれであっても触れるかもしれない。
見た限りあれは相当な邪悪を秘めた存在。
ならば反転させればとんでもない熱血正義漢として生まれ変わる筈だ。
その隙を突いて、至近距離からグラディウスを振り回して肉の塊にしてやろう。
距離は接近しおよそ一メートル。
右手を右手で掴む、なんともアブノーマルな光景を広がらせながらも、大崎は「右腕」を突き出す。


それは、確かに胸に触れた。
発動条件は無情にも満たされ、スタンス反転の力が働く。
かつての大崎が受けたように、一瞬にして自らの価値観をごっそりと改革していく。
時間にすれば一秒にも満たない時間で、彼女の中身は反転した。



そう―――"彼女"の中身は、反転した。



「あれ、あたしはなにをしてたんだ」



青年は、笑いながら傍らの少女を引き寄せると、彼女を何の躊躇いもなく盾とした。
大崎が驚く間もなく腕は彼女に触れ、そのスタンスを反転させた。
……しかし、今回ばかりは相性が悪かったと言わざるを得ないだろう。
心機一転のスタンス変更は確かに強烈な威力をもたらす。
だとしても、彼女には明確な在り方というものがまるで存在していないのだ。
面白い、興味のあるものにどんどん染まっていく少女を、どう反転させろというのか。
彼女の場合は厳密にはスタンスではなく、その在り方自体を改革する。
大崎には知るよしもないことだが、二人の悪人が最も手を焼いていたとある事情。
彼女のいわば「移り気」をどうにかすること。
何の前情報もなくしての行動が功を奏し、結果としてその欠点は改善される。


「なんであんなにころころと影響を受けてたんだ! あたしはひとつのことをやり通す人間だろっ!!」


彼女が何を言っているのか、分からないまま大崎年光の意識は、突然の衝撃を受け暗転する。
彼がしたことといえば、結果的に二人の悪人へプレゼントを贈ったくらいのものだ。
何も知らないまま――彼は舞台を降りる。




【C-2/デパート最上階フードコート/一日目/午前】


【大崎年光@俺のオリキャラでバトルロワイアル】
[状態]:身体的疲労(中)、精神的疲労(中)、スタンス反転、泥酔、気絶
[服装]:返り血(中)
[装備]:シグプロSP2340(14/15)
[道具]:基本支給品一式、シグプロSP2340弾倉(3)、詳細名簿、グラディウス、
インベルM911(7/7)、インベルM911弾倉(3)、ランダム支給品(1)、心機一転の右腕 、ノートパソコン
[思考]
基本:殺し合いに乗る。
1:………
2:山本? 知らん。
3:須牙襲禅新藤真紀は最大級の注意及び警戒
[備考]
※俺オリロワ死亡後からの参戦です。
※香坂幹葦、野村和也の名前を詳細名簿にて確認しました。
※心機一転の能力でスタンスが反転している最中です。


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062:Alice Magic/サイコロジカル 大崎年光 062:Alice Magic/ぼくだけのふぁんたじあ
062:Alice Magic/サイコロジカル 古川正人 062:Alice Magic/ぼくだけのふぁんたじあ
062:Alice Magic/サイコロジカル カインツ・アルフォード 062:Alice Magic/ぼくだけのふぁんたじあ
062:Alice Magic/サイコロジカル 白崎ミュートン 062:Alice Magic/ぼくだけのふぁんたじあ
062:Alice Magic/サイコロジカル 酒々楽々 062:Alice Magic/ぼくだけのふぁんたじあ
062:Alice Magic/サイコロジカル 愛崎一美 062:Alice Magic/ぼくだけのふぁんたじあ
062:Alice Magic/サイコロジカル 香坂幹葦 062:Alice Magic/ぼくだけのふぁんたじあ
062:Alice Magic/サイコロジカル 紆余曲折 062:Alice Magic/ぼくだけのふぁんたじあ

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最終更新:2012年10月11日 03:08