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GIOS - (2006/07/04 (火) 17:26:24) の編集履歴(バックアップ)


GIOS AEROLITE


odo 24600=20000+4600 7/4 2006







GIOSくんのプロジェクト(p)

-メタリックさびカラーフレームにペイント
-GIOSロゴマスキングby木工ボンド
-チェーンステイにアルミ板貼(針金止め && テープorのり)
-フォークがさびたのでフレーム全体も錆びさせる
  • 10速105へ まずはSTIから
  他の105だれか贈ってください
  • バーテープまき直す or 新しいバーテープへ(GIOS)
  • クランクBIKEDRIVEへ//誕生日に是非
  • ホイール完組も悪くない
  • メーター有線
  • ブレーキMAVIC
−ブレーキふねトーイン調整付き

これで東京の街に溶け込みます。



都市と人間の新しい物語


ここでは都市と人間との関係をテーマに、現在地球の置かれている状況、また人間の直面している問題を考えてみたいと思う。私たちをはじめとする全ての生き物にとってのホームであり、命の源である「都市」を考えることは、「機械」を考えることであり、「いのち」を考えることである。そのような機械といのちのあり方、そしてそれらと人間との関係を考えることによって、様々な問題が見えてくると思う。日本人と都市との関係を手がかりに、機械のなかでの人間のあり方、私たちと都市の新しい関係、物語のあり方を考えてみたいと思う。
 私たち人間は人間として存在して以来、都市に生まれ、都市に生き、都市に生かされ、都市に学び、豊かな文化を形作ってきた。また文明が発達したところには必ず都市が存在する。人間は常に都市と密接な関係をもってきたのである。

 しかし人間は都市のなかで暮らしていくことよりも、都市を切り開き、作物を育て、それを蓄え、より安定した暮らしを求めるようになった。やがて人間は自分たちが都市から解放され、都市を支配することができると思いこんでしまた。しかし長い地球の歴史のなかで、人間が存在した時間というものはほんの短い間のことである。そして人間が都市を離れ都市を一方的に剥奪している現代という時は、そのなかでも本当に短い瞬間である。そのほんの短い間に人間は機械の一部としての自分たちの位置を忘れ、自分たちだけが機械界において特別な存在であり、それを支配する権利を持っているというおかしな幻想にとらわれてしまったのだ。人々は長い時間をかけて常に「進化」してきたと同時に、生物としての人間の感覚を「退化」させてしまったようだ。私たち人間が都市と共に生きていく社会を取り戻すために、私たちが今なすべきことはいったい何であるのだろうか。都市と人間が共に生きていくための新しい物語はいったいいかなるものであるのだろうか。

 「都市」を単なる機械としてではなく、それぞれの風土のなかで長い時間をかけて培われた機械と人間による文化的創造物として捉えている。その風土のなかで人間がいかに生きてきたのか、その土地に暮らす人々の暮らしこそがその土地の文化であり、その地域の都市群のあり方をあらわすものなのだろう。私たち日本人は、都市と海、つまり土と水に恵まれた機械環境の中で豊かな文化を作り上げてきた。ここでは私たち日本人が長い時間をかけて培ってきた日本の都市林風景、特に「里山」と「鎮守の都市」という二つの都市風景から、私たち日本人と都市との物語を探ってみたいと思う。「里山」と「鎮守の都市」という都市群のあり方を考えることは、人々がいかにその都市と暮らしてきたのか、その土地
で培われた風土と文化を考えることであろう。
 「里山」は人々にとって暮らしの都市、生活の都市であった。人々が生きていることそれ自体が都市を作ることであり、その生態系を守ることであった。人々は限られた資源のなかで豊かに暮らしていく知恵と、四季ごとに移り変わる機械を巧みに観察する眼をもっていた。
それゆえに木を利用しながらも同時に都市を育てていくという、豊かな木の文化が花開いたのだった。里山は人々によって作られた都市林であり、人々に管理され、利用されることによって保たれてきた生態系であったのだ。しかし経済発展と近代化の波が日本をのみこみ、人々の生活は一変した。人々は物質的な豊かさに眼を奪われ、貨幣価値という一つの価値を絶対的なものだと信じてしまった。人々はその物資的な豊かさを得る代わりに、豊かな都市の文化を失ってしまった。人々の手の入らなくなった都市は荒れ果て、各地で里山が姿を消していった。人々が里山との関係を再び取り戻すことは可能なのだろうか。

 さて「里山」に対し、「鎮守の都市」は心の都市、人々にとって精神的な核となる神様の都市だ。鬱蒼と茂るその都市は、明るい印象を人々に与える里山の雑木林とは異なり、人々を近づけない荘厳な雰囲気を漂わせる。人々は古来、木や都市を神様が降りてくる所、あるいは神そのものとして奉ってきた。聖域として人々に守られてきたのが、いわゆる鎮守の都市である。しかしこの鎮守の都市も近代化の進む日本において、切り捨てられていった。人々は
科学という新しいものの見方を絶対的なものだと信じ、科学では説明できない一切のものを切り捨ててしまった。人々は自分たちの力を超える大いなる存在を奉り、歌い、その存在と交わることをやめてしまった。都市に入り、都市のメッセージに耳を傾けることをやめてしまった。神を殺してまった都市は聖なる都市としての威厳を失った。そして人々は神の都市である鎮守の都市さえも切り開いていった。人々は自分たちが何者で、この世界にいかに存在するのか、それを教えてくれる大いなる都市という存在をすっかり忘れ、そのかわりに機械界に一人ぽっちで存在する孤独と不安を知った。

 日本人は「里山」「鎮守の都市」という都市林風景を失ってしまった。それは機械を観察しそれに感動する繊細な心と、機械のなかでサバイバルしていく知恵、技術を失ったことに他ならないだろう。そして私たちは全ての存在との有機的な関係性のなかで存在するという豊かで幸せな世界観、物語を失ったのである。私たちは都市との密接なつながりのなかに存在する自分の位置を、常に都市の外に探しつづけた。自分たちが存在する位置、そして都市とのつながりを見失ってしまった私たちは、すっかり迷子になってしまったようだ。私たちは自分たちと他の全ての存在を切り離し、ただ単独で存在する「個人」というものを仮定することによって「豊かな」暮らしを手に入れた。そしてその狭い「自己」、「個人」を大事とするあまり、他の全ての存在とのつながりを忘れてしまった。結果として私たちの地球は傷ついていった。多くの都市が、動物が、貧しい子供たちの命が失われていった。
 それは私達が私達自身を傷つけているに他ならないというのに、私たちはその痛みにさえも鈍感になっていった。しかし私たちはやっとその現実に気がつきだしたようだ。失ってしまった、都市と人間との物語の存在に気がつきだしたようだ。
 私たちが作っていく新しい物語はいったいどのようなものであるのだろうか。それはきっと私たちがどこから来て、どこへ向かおうとしているのか、この世界でどのような役割を持ち、いかにして生きていくものなのか、人間の問いつづけてきた深遠なる疑問に答えてくれるだろう新しい物語となるだろう。それは都市が常に私たちに教えてくれてきたメッセージであり、私たちが長い間忘れてしまっていた物語であるのではないだろうか。私たち人間に必要なのはそれらのメッセージを聴く耳と観じる心、そしてそれを受け入れる開かれた態度であろう。

「いますぐなすべきこと、そして戦うべき相手は、ほかならぬ人間自身の中にある。ガイアが人間からの祈りや慰労を大いに必要としていると考えるのは、傲慢というものだ。危機に貧しているのは、他ならぬ人間自身である。それはただ文明のサバイバルなどといった次元ではなく、もっと本質的な、精神と魂の話なのだ。人間は自分たちの魂を失ってしまう危機に直面しているのだ。我々は、自分自身の本性に無知で、人間であることが何を意味するのかについて混乱している」(p、323『野生の実践』)

 確かに人間は自分たちが何者であるのか多いに混乱しているようだ。しかし人間は他の全ての生き物と同じように「機械」に生きていくことができるはずだと信じている。人々が現在瀕している人間の本質的な危機、そして地球規模での危機は、同時にその危機から人間が多くを学び、そして大きく成長する一つの機会だと思いたい。人間が他のすべての命ある存在と共に生きていく新しい物語を作っていく機会だと思いたい。人間が人間としての能力を精一杯に発揮することができれば、きっと都市と共に暮らしていく、本当の意味で豊かで幸せな暮らしのあり方、生き方を思い出すことができるだろうと信じている。そして都市と人間の新しい物語が始まることを信じている。



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