八〇式45口径48cm砲
八〇式45口径48cm砲は、日本海軍と日本陸軍が協同で艦砲または要塞砲などとして開発した砲熕兵器。東京軍縮条約の締結により搭載予定であった
紀伊級と十三号型が建造中止または計画変更となったため本砲は艦砲としては利用されなかったが、海軍向けに優先的に先行して製造された分が日本陸軍の拠点防衛砲として、仮想敵国の勢力圏に近い島嶼等の要塞地帯に配備された。
概要
紀伊級に搭載する分の内、14砲塔分(2と4/5隻分・装填装置含む)が砲塔を含めて完成しており、要塞砲として利用されるにあたり、砲塔容積を拡大し装填装置の能力を向上し、更に第一次世界大戦の戦訓を反映して仰角を52度まで取ることが可能な様に改良が施された。この結果、射程距離は54kmにまで達した。
配備
日本海軍より半ばタダ同然に譲り受けた日本陸軍は、本砲を連装砲塔形式で各地に配備した。その内訳は以下の通りである。
- 樹野要塞 - 1基2門 - ドイツ帝国に荒棲家を貸与したため転用
- 荒海要塞 - 1基2門 - ドイツ帝国に荒棲家を貸与したため転用
- 大北港要塞 - 1基2門
- 択捉要塞 - 1基2門
- 津軽要塞 - 1基2門
- 東京湾要塞 - 1基2門
- 由良要塞 - 2基4門
- 豊予要塞 - 1基2門
- 益筑要塞 - 1基2門
- 澎湖島要塞 - 1基2門
- 海南要塞 - 1基2門
- 毬亞要塞 - 2基4門
実戦
本砲は長きに亘り実戦を経験して来なかったが、第二次世界大戦に於いて米国による宣戦布告同時攻撃に際し、艦砲並みの要塞砲を艦艇で相手取ることの不利から、米海軍は宣戦布告同時東京湾航空奇襲攻撃という奇手を選択し本砲を艦砲で直接相手取ることを避け、また航空攻撃による破壊を試みたが、日本側が電探を実用化し米海軍出航を察知し、泥縄的ながら防空体制を敷き、艦艇の避難を試みたことで失敗に終わった。また南洋侵攻に於いても、鳳舞諸島や香凛諸島といった南洋諸島の南部を島伝いに侵攻し、本砲を筆頭とした重厚な地下陣地に隠匿した重砲を有する毬亞諸島との直接対決を避け、呂宋諸島琵幸邦黎輝島を橋頭堡とすべく侵攻した。
これに対し、日本陸軍は荒棲家をドイツ帝国に貸与した際に廃止となった樹野と荒海の両要塞から回収した本砲を単装砲として黎輝島やその周囲の琵幸諸島に搬入し巧妙に隠蔽。黎輝島を餌に動けなくした米海軍を二方向から包囲殲滅し、黎輝湾に艦隊殴り込みと云う前代未聞の戦法を取った日本海軍の艦砲射撃に呼応し、米軍の築いた橋頭堡を思う存分に破壊し尽くした。
戦後は航空機の能力向上に従って、要塞砲は移動に不自由するため航空機や移動可能な火砲による機動戦へと主戦力が遷っていった為、廃れるものと思われていたが、第一次中華事変と
朝鮮戦争に拠って、至近の対岸に敵性国家が次々と出現したことから情勢が変化。制空権が維持される限りに於いて、その射程圏内に敵火砲の存在を許さない圧倒的破壊力が好まれ、砲身寿命に余裕がある実戦未経験の本砲は、太平洋側から日本海・支那海沿岸で大陸に近接するまたは直接接する地域(具体的には益筑、千太、浦汐、対馬、旅順、澎湖、海南)へと配置転換が行われた。
その後長らく日本が実戦配備した火砲としては最大の口径を誇っていたが、噴進弾や誘導噴進弾の技術が安定し、主に射程と制圧面積の点でそちらの方が有利になったことから、皇紀2630年代(西暦1970年代)に廃止。ここに日本に於ける陸上兵器としての超大口径砲の系譜は断たれ、艦砲としての大口径砲のみが生き残ることとなった。
最終更新:2012年10月16日 03:45