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昭和戦後期①


皇紀2607(昭和22/西暦1947)年
 相次ぐ大規模災害と、戦争終結に伴う動員解除を受けた大規模復員を軟着陸させるため、日本連合帝國は主な外敵脅威(同盟国の敵対国や自国の敵対国)が少なくとも向こう5年程は足腰立たない状況になったため、対外的な反応に乏しく、特に中東情勢に対して鈍化(南海地震のことを思えばある意味致し方無い側面もある。そしてこの事をして、この時期に日本が中東に関わっていれば、日本が有色人種の国であるということを以って、中東情勢は軟着陸させられたのではないかと言われている)する。
  • 1月
 グレートブリテンは国連から委任されていたパレスチナ地域の統治を、新編成った国連に依頼することを発表。
  • 2月12日
「塩足隕石落下」発生。大日本帝國領沿海州の塩足(シホテアリニ)山脈に隕石が落下。宇宙からの脅威に対し、超高空を侵空してくる爆撃機(後に弾道弾)を念頭に置いた日本軍は、核兵器の空からの投射を念頭に、超高空目標への迎撃兵器開発を慌てて立ち上げ始める。国土の広大さの割に極めて脆弱な国力の著しい列島集中状態を原因として、国土全てを完全防空することを目指した兵器開発は、後に技術陣の暴走により対空兵器の過剰武装へと発展する。
  • 2月23日
 国際標準化機構設立。
  • 3月22日
 大日本帝國、国鳥をトキに決定。
  • 5月20日
 国際連盟、改善を見せないパレスチナ情勢に際し、パレスチナ調停官としてスウェーデン王室成員・ベルナドッテ伯フォルケ・ベルナドッテを任命。
  • 6月5日
 アメリカ合衆国、フランス援助法(マーシャル・プラン)を発表。タフト政権に於いて唯一モンロー主義を覆すフランスとの同盟的な政策だったが、実態としては戦前からの不況と戦費償還に喘ぐフランスを、完全に経済的に取り込んだ。
  • 7月16日
 アメリカ合衆国、ネバダ州に於いて核実験(トリニティ実験)を実施。核兵器を実用化。尚、史実に於いてトリニティ実験が行われたのはニューメキシコ州であったが、メキシコ帝国に近接しているため、アメリカはより内陸に位置するネバダ州の砂漠地帯を実験場に選んだ。
  • 11月29日
 常設国連軍がパレスチナ地域に進駐。ベルナドッテ伯を首班としたパレスチナ暫定政庁を立ち上げ。アラブ人とユダヤ人の双方から代表者を出させた上で秩序の回復に務めるも、アラブ人に比して僅かな人口のユダヤ人が、政庁内に於いて同格とされることへの反発が強く、一旦は減少した双方のテロ合戦は再び右肩上がりに増加する。

皇紀2608(昭和23/西暦1948)年
  • 1月
 事実上パレスチナの治安維持能力を喪失したグレートブリテンは、5月15日までにパレスチナから撤退することを発表。
  • 4月3日
 アメリカ、フランス援助法が成立。併せて西海岸復興計画も採択され、パナマ運河の再建設と大陸横断鉄道網の強化を中心とした「改造計画」が開始。
  • 4月9日
 デイル・ヤシーン事件。ユダヤ人テロ組織によるアラブ人大量虐殺。
  • 4月13日
 ハダサー医療従事者虐殺事件。アラブ人非正規軍が非武装のユダヤ人医療従事者らを虐殺した。
  • 5月14日
 ダヴィド・ベン=グリオンがテルアビブでイスラエルの独立を宣言。アラブ連盟が即座に宣戦布告を行い、第一次中東戦争が勃発。ベルナドッテ伯を首班とするパレスチナ暫定政庁や国連を無視し、和平調停に泥を塗って蹴り飛ばす形での宣言であり、特に中東和平に力を入れていた北・東欧諸国では俄にユダヤ人への風当たりが強まる。
  • 6月1日
 第一次中東戦争、第一次休戦。
  • 6月28日
 福井地震。死者3800名余りを出す。
  • 7月9日
 第一次中東戦争、停戦終了。
  • 7月18日
 第一次中東戦争、第二次休戦。しかし小競り合いを切っ掛けに各地で全面的に再開。
  • 9月17日
 パレスチナの和平調停の交渉に当っていたフォルケ・ベルナドッテ、ユダヤ人テロ組織に暗殺される。これにより、ドイツ三年戦争に於いてナチス・ドイツに執拗に狙われたユダヤ人を保護しつつ戦ってきた北・東欧諸国は恩を仇で返される形となり激昂。大日本帝國も開催を目前に控えた東京五輪を前にした不幸を前に重い腰を上げ、同盟国支援のため中東介入を決意。パレスチナを追い出される形となったグレートブリテンも便乗する形で報復へと動き、常設国連軍へ一時的に指揮権を委ねる形で戦力を拠出する。
  • 10月
 大日本帝國、第一次中東戦争への本格的武力介入が始まる中、東京五輪開催。
  • 10月3日
 グレートブリテン、ハリケーン作戦をチャゴス諸島・アッズ環礁沖で実施。どの国も公式発表していないものの、三番目の核保有国になる。
  • 11月
 オリンピック終了と共に諸国の第一次中東戦争の本格的武力介入が強まる(一説には、オリンピックのラジオ中継を断ってしまうと兵士達の士気が下がるので、オリンピック終了を待っていたというものがあるが、実際には本格的動員準備にそれだけの時間が掛かったというのが真相である)。特に日府は戦艦と空母を派遣するなど、圧倒的な攻撃力を有していた。
  • 12月
 イスラエル軍、ネゲブ砂漠で攻勢に出、シナイ半島に侵攻。スエズ運河を保持するグレートブリテンとの間に戦端を開く。

皇紀2609(昭和24/西暦1949)年
  • 1月
 ネゲブ会戦。常設国連軍の旗を掲げたグレートブリテン中東軍、イスラエル軍を撃破。更にテルアビブのイスラエル政府を日府の戦艦部隊で艦砲射撃し、スウェーデン軍を中心とした各国の連合軍による空襲が行われ、アラブ人だけでなく国際社会からも敵視されていることを見せつける。また『より画期的な兵器』による攻撃をもグレートブリテン軍が示唆し、そこで初めて日米がグレートブリテンの核保有を悟るという一幕も。これを端緒に、イスラエルは停戦交渉を開始するも、各国の理解を待たずに手前勝手に戦争を始めて秩序を乱した(上に一国の王室成員を暗殺した)ユダヤ人国家に対する目は厳しかった。特に北欧ではドイツ三年戦争中のユダヤ人保護にも拘らず牙を剥かれたと見られたことから殊に風当たりが強く、却ってイスラエルは現地国家の一人種として溶け込む同じユダヤ人からも恨まれ、国外からの同じユダヤ系の誼からの支援を減らすことになる。
  • 3月
 北・東欧諸国から成る旧連合国、装備の共通化と予算共有から成る軍備負担の軽減を骨子とした予備交渉に入る。
  • 5月3日
 大日本帝國に琉球王国が参加。
  • 7月
 中東和平成立。エルサレムはその全域が国連統治下の自由都市とされ、イスラエル軍、アラブ軍の双方は実力を以ってエルサレム全域から退去させられた。それ以外の国境線は概ね現時点での占領状態が追認され、双方で住民の交換が行われた。
 またこの裏で、人口の面で明らかに劣勢なイスラエルに対し、ソ連は上層部の意向とは全く無関係の末端組織が、国内ユダヤ人のイスラエル移住を支援することでイスラエルへの影響力を保持し中東権益に手を掛けると共に、ユダヤ人問題を物理的に解決することを試みる様になる。また他方、ヨーロッパで孤立している(何しろスターリン時代のソ連の影響が強い人民戦線内閣が未だ存続しているにも拘らず、スターリンは失脚し、大戦中の経緯から欧州各国からは不信の目で見られ、エルザス=ロートリンゲン地域の住民からは強く怨まれ、同盟国とは言いつつも経済的にも軍事的にも日本に散々に打ち負かされたアメリカの、そのまた更に下の従属的立場に追い遣られ、国際社会での立場の沈下すること甚だしい)誼からか、それともアメリカが直接やると角が立つ故か、フランスがイスラエルを擁護する立場に立ち、フランスを経由したアメリカによる有形無形の支援が行われることで、イスラエルとフランスはある程度態勢を持ち直す。
  • 7月4日
 大日本帝國、相次ぐ大規模災害を受け、戦時・災害時に備えた緊急財政金庫を設立。国家予算が余剰した場合は緊急財政金庫へ保管し、戦時・災害時の緊急時に緊急財政金庫の資金を使用することで国民へ還元する制度が確立される。資金管理そのものは日本銀行へ付託された。
  • 10月1日
 成都に於いて毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言。但し同国が有するとされた領土を事実上の植民地としているソ連以外は誰もその成立を承認せず。
  • 12月
 グレートブリテンが行使を示唆した核兵器の存在が日米を動かしたことで、未知の画期的な大威力破壊兵器である核兵器の開発を政治的な地盤沈下の著しいイスラエルとフランスは決意。水面下で共同開発を開始する。

皇紀2610(昭和25/西暦1950)年
  • 3月1日
 北京に於いて華北の軍閥を束ねた支那連邦が、山西省・河北省・河南省を領土として建国を宣言。仕掛け人はソ連による傀儡国家である共産中華に対し、列強の利権に応じて沿岸部から分割する形で傀儡国家群を形成し、共産中華との緩衝国家を租界や資源地帯との間に樹立することを策定した日本。
  • 4月3日
 広東省・福建省・江西省から成る華南連邦を、広州湾租借地に利権を持つフランスの妨害を排除しながらグレートブリテンが樹立。更に浙江省、江蘇省、安徽省から成る上海連邦を上海に租界を持つ各国が擁立する。
  • 11月
 北・東欧諸国、ワルシャワに於いてワルシャワ条約を締結しワルシャワ条約機構を結成。欧州中東部を南北に縦断する巨大な政治的・軍事的・経済的な事実上の国家連合が成立。加盟国を一括した防衛対象とし、その装備調達から編成・配置に至るまでを全て共同保有し一元化。更にオブザーバー(という名の殆ど参加国に等しい後見人)として大日本帝國も参加。
  • 12月
 ソ連は核実験を中華人民共和国と『共同管理』するタクラマカン砂漠に於いて実施し成功。世界で四番目の核保有国に。更に新五カ年計画に基づいた成長計画を策定し、従来の重工業偏重経済から脱却を図る等の国威発揚政策を策定。これに乗っかる形で、日本との戦争で破壊された西海岸やパナマ運河、商船団の回復に巨額の政府予算を編成し、民間投資を募って戦後復興に取り組んではいたものの、国際市場から『資本主義の化け物』として嫌われたアメリカが、国内に余剰する(しかも恐ろしいことに世界恐慌以前からの実質20~30年近い使い古しながら現在でもそれなりに通用する程度の)工場群から農産物までをソ連へ輸出し、米ソ双方を潤すことになる。

皇紀2611(昭和26/西暦1951)年
  • 4月
 大日本帝國、国軍組織改組。陸海近の3軍に加えて空軍を編成。陸海空の3軍を実質的に練兵と装備調達のみを負わせる軍政組織と成し、装備開発や生産を実際に請け負う軍需省と共に兵部省の隷下へと置き、実際の作戦行動については、従来の各軍の管区を統合して編成した方面軍に戦術的作戦行動を負わせ、それらの上位に位置して全体の戦略的作戦行動の指揮を執る大本営を、軍令組織として兵部省直下の各3軍省と同格に位置付けた。但し首都圏の防衛と有事即応を兼ねる部隊とした近衛軍に関しては兵部省直轄の戦力とし、戦略兵器(核兵器)の運用部隊に関しては兵部省の直接指揮下にある運用士官を指揮官として置くものとした。
  • 6月25日
 中国共産党人民解放軍(日本政府はこの時点ではまだ中華人民共和国を国家として承認していなかったので、単なるテロリスト扱いだった)が突如東進・侵攻を開始。第二次支那事変が始まる。
  • 6月26日
 日本軍は急遽動員を開始。
 大日本帝國政府は国際連盟へ提訴し、中華人民共和国を名乗る勢力に対する討伐を決定させる。ソ連は決議を棄権した。
  • 6月27日
 日本軍は新設されたばかりの空軍による限定的戦略爆撃を敢行。
 国連安全保障理事会は加盟国に対し支那連邦、華南連邦、上海連邦への支援を勧告し、日本軍を中心とした国連軍の結成を決議。共産圏諸国は棄権した。
  • 7月5日
 日本軍、先遣部隊が本格的武力介入開始するも各地で敗退。遅滞防御に移行。
  • 7月7日
 大日本帝國、嘉手納基地開設に合意を得る。また主に海上を長距離遠征してくる外国軍(国連軍)の後方策源地とするため、大韓王国と基地開設に合意。
  • 8月30日
 支那連邦、天津まで撤退。華南連邦も広州に押し込まれ風前の灯に。満洲国軍が越境布陣。
 大日本帝國、空母機動部隊及び爆撃機部隊、台湾各地及び南支那海からの航空攻撃を開始。1000機単位での猛爆で人民解放軍を南寧~広州~福州戦線で押し留める。
  • 9月2日
 アメリカを出発したアメリカ国連軍第一陣、釜山に到着。しかし上陸した米兵のマナーの悪さ(他、アメリカに続いた他国の兵も)と、日本に寄港し朝鮮半島をスキップして中華大陸へ上陸していく船の方が圧倒的に多く、外国兵の持つ外貨の殆どは日本に落とされていくことから、朝鮮半島では負の感情が静かに広がっていくことに。
  • 9月15日
 日満府米を中心とした国連軍部隊、広州上陸作戦である醒一号作戦、天津上陸作戦である覇二号作戦を同時発動。近衛軍初出兵。
  • 10月9日
 国連軍、中華大陸沿岸部一帯を奪還。華南と華北の連絡に成功する。ソ連、国連軍が東経110度線を越えた場合は中華人民共和国側に立っての武力介入を行うと警告。
  • 10月20日
 国連軍先鋒部隊、西安に達したところでソ連義勇軍部隊に遭遇。兵力差から撤退開始。
 ソ連義勇軍、本格的武力介入開始。「宣戦布告無き大国間戦争」開始。
  • 12月5日
 武漢を中ソ連合軍が奪回。

皇紀2612(昭和27/西暦1952)年
  • 2月4日
 南京が中ソ軍に占領される。兵站の限界に到達した中ソ軍の進攻、著しく鈍化。
  • 3月14日
 大日本帝國海空軍、新型爆弾(先進型燃料電池の失敗作を転用した初期型の燃料気化爆弾)を大量投入。旧式機も含め3月24日まで連日大小2000機超の攻撃機・爆撃機を投入し中ソ軍前線部隊を大なり小なりこの世から抹消し、大機甲部隊を投入して反攻に転じる。
 戦線は以後東経110度線を中心に膠着状態となり、この頃からスイスで何度も休戦会談が持たれるが、利害関係から意見が合わず決裂を続ける。
  • 11月4日
 大日本帝國、神威嘉地震発生。有史以来度々発生してきた超巨大地震に対する備えとして、防潮堤の修復や道の拡幅等々が再注目される契機の一つとなる。

皇紀2613(昭和28/西暦1953)年
  • 2月27日
 日本軍、世界初の水爆を完成。但し実験には持ち込まず。
  • 3月30日
 小康状態だった戦線各地で中ソ軍が活発化。国連軍と中ソ軍との間で昼夜を問わない大航空戦勃発。特に北部戦線には大量の人民解放軍が投入され、兵站を省みない強引な突破により戦線がこじ開けられ始め、華北で前線域がジリジリと東進し始める。
  • 6月25日
 大韓王国北部で突如として金日成を指導者として朝鮮人民軍を名乗る武装集団が外国人(特に日本人)の排斥を謳い一斉蜂起、朝鮮事変が勃発する。それまで飽くまで投入される国連兵の中継点としての価値しかなかった(日本に寄港してから直接中華大陸に投入する方が圧倒的に多い)朝鮮半島が戦場に。
 急遽日本軍を主軸とした国連軍が対応に当たるが、2線級装備しか配備されていなかったはずの朝鮮半島にはいつの間にか中ソ製の最新自動小銃が広まっており、また国連軍の装備を多数奪われ制空権を喪失した他、基本的にはゲリラ戦に徹され敵の規模の小ささに比して各地で甚大な被害を被る。
 ソ連が最新鋭戦略爆撃機(Tu-95)の開発に成功し、前線に投入してくるという情報を掴んでいた国連軍総司令部は、長距離爆撃機による日本列島ないし満州国への攻撃を企図していることは明らかと断じたが、京城に迫る朝鮮共産ゲリラ兵と黄海上での航空殲滅戦の対応に兵力を拘束された上、中ソ軍に対して量的資源に劣る国連軍は数に押され兵力を消耗。北京前面にまで中ソ軍が迫る。
  • 7月15日
 華北戦線、満州国国境をかすめつつ渤海に到達。
 中ソ軍は3000機とも言われる航空機と60万人もの陸兵を投入。支配域を南北に広げる。
 黄海上に展開した国連軍艦隊に対し、大量の噴進弾による電波妨害箔の散布が行われ、超低空からの自爆機が多数突入。特に電探照準に依存していた艦艇の被害が甚大に。この時使われた「艦隊ハ自爆ト思シキ特別ノ攻撃ヲ受ク」という通信により、自爆攻撃は後々「特攻」「特別攻撃」と呼ばれるようになる。
  • 8月6日
 黄海での航空戦に紛れ日本軍の哨戒網を突破した、日本軍や国連軍の仕様に塗装された中ソ軍の爆撃機隊(中には鹵獲機その塗装のまま改造して運用したものもあった)が、朝鮮半島北部の朝鮮人民軍支配域から日本海を南下するなどの様々な迂回路を使う撹乱を行いながら、日本列島上空に侵入。それらに紛れ込んだ原爆搭載機が、(当時の)超高高度から廣島へ午前8時15分に原爆を投下。ほぼ正確に廣島市街上空で炸裂させる。しかし日本軍は直前に飛来する機体に原爆搭載の可能性があることと、その際の爆撃目標を正確に掴み、急遽空襲警報を発令し軍民を問わず市郊外への疎開命令を出していたお陰で、死者行方不明者は1万人、重軽傷者1万3000人に。またその後の放射線による二次被害も徹底的に押さえ込むことに成功した。
 各国は大日本帝國に対する核攻撃に遺憾の意を示すが、当事者(であろう)日ソは双方不気味な沈黙を保ち、空気の読めない中華人民共和国だけが自軍の戦果を大々的に報道。なお大日本帝國政府は核攻撃を受けたという事実と、防空に失敗した結果出てしまった多数の犠牲者・被災者に対する謝罪以外の言及を差し控えるほどの徹底振りだった。
  • 8月9日
 2日間の沈黙を破り、日本軍は太平洋戦争以来疎開状態が続いていた鳳舞諸島北方の彈爾(ビキニ)環礁西方1100キロの海上に世界中の報道関係者を例外なく(ソ連からの人間も含めて)集め、世界初にして最大級の爆発を伴った水爆実験を8月15日まで敢行。8月9日の最初にして最大級の実験において25メガトンにもなる水爆による爆発が、疎開が済んでいた各島嶼部に被害をもたらし、再び核攻撃が行われた際には帝國は複数の新型爆弾(つまり水爆)の全面使用に踏み切るというメッセージをこれ以上ない形で示唆。
 大日本帝國政府はさらに直接的に、「我が国はこれ以上の軍事力の使用を望まないが、国民にこれ以上直接被害が出れば、報復措置に訴えざるを得ない」と表明。
  • 8月15日
 日府米ソは国連本部にて即時停戦に合意したと声明を発表。北・東欧諸国も日本が停戦を決意したことでこれに追随。即時停戦が発効し、休戦交渉が始まる(実質的に終戦)。しかし朝鮮半島では停戦宣言後もゲリラによる戦闘が止まらず、北緯38度線を境目に戦線が膠着してしまう。
  • 10月10日
 軍需産業企業法を強化した大型産業企業法提出。賛成多数で可決される。大企業による政治干渉に大幅な規制が設けられ、監視機関として完全民選の政府外郭組織、公共企業活動監視機構設立。
  • 12月31日
 第二次支那事変の停戦条約が確定。これにより支那連邦は満洲国との陸路での連絡を断たれ、北部から西部に掛けて国境線を大きく後退。上海連邦も国境線が東に減退し、華南連邦も仏領印度支那との間に中華人民共和国が横たわる形で国境線が東進した現戦線で国境が固定化。また朝鮮半島に於いて北部を制圧し、停戦宣言が出された後も不正規戦を続ける勢力については、双方がその存在を黙殺し扱いを自由とすることが確認される。
 この第二次支那事変による戦闘で4700万人以上が死亡した一方で、中華大陸近在の利点からこの間の日本は物資生産拠点として機能し、年率平均7%の第二次高度経済成長を達成する(53年には驚愕の14%にもなっている)。しかし最後の最後で本土核攻撃を受けたことで、感情的にも経済的にも冷水を浴びせ掛けられる形となり、特に安芸・防門の二国の名目上の領主たる毛利家の居城にして山陽方面の首都でもある廣島を焼かれた山陽道の臣民の強い敵愾心は、自衛隊の強化や帝國議会への所謂国防族への集票活動として結実することになる。また、常態化した大軍の布陣からの奇襲侵攻という防御側にとっての悪夢を再び見せられる懸念から、日満間の海上輸送量が極端に低下。黄海から日満船籍の艦船が一掃される。
 また欧州からはるばる派兵した欧州列強に関しては、軍需産業は復興して欲しくないが民生的には復興して欲しい思惑もあり、フランス以外の全欧州がドイツに民生生産を委ねて自らは軍需生産に傾倒したため、ドイツが堅実な経済成長で以て復興の兆しを見せる。

皇紀2614(昭和29/西暦1954)年
 大日本帝國が受けた初の核攻撃を受けて制作された特撮怪獣映画「ゴジラ」が公開される。
  • 1月
 アメリカは初の水爆実験を敢行。
  • 4月
 大日本帝國と国連軍から支援を受けた大韓王国軍が朝鮮半島北部に進駐。一時的に支配を取り戻すものの、各地でテロが相次ぐ。
  • 8月
 布哇王国、国連に常設の国連軍の設立を提案。第二次支那事変に於ける海外派兵の兵站維持労力を重く見た各国も、国連軍という錦の御旗を代理人とした代理戦力による代理戦争が出来ると見て賛成に回り、設立が決定される。常設国連軍準備委員会が立ち上げられ、10年後の結成を目標とした長期計画が策定される。
  • 9月26日
 軍需産業企業法厳罰化案が国会に提出される。一部修正の後、全会一致で可決。
  • 12月14日
 大日本帝國、世界初の人工衛星「かなた」の打ち上げに成功。

皇紀2617(昭和32/西暦1957)年
  • 1月7日
 アメリカ、人工衛星ディスカバリー号の打ち上げに成功。
  • 3月10日
 大日本帝國、荒海寒地震発生。相次ぐ超巨大地震を受け、歴史学的・地質学的な調査から大地震の記録を探る試みが始まる。
  • 5月
 ソ連、水爆実験に成功。
  • 9月25日
 ソ連、人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功。
  • 10月27日
 ソ連、世界初の有人人工衛星打ち上げに成功。
  • 12月14日
 大日本帝國、有人人工衛星「はるか」打ち上げ成功。

皇紀2618(昭和33/西暦1958)年
  • 9月6日
 朝鮮北部に於いて、進駐した大韓王国軍の大半が指揮系統を離脱。朝鮮労働党を名乗る嘗ての朝鮮人民軍に煽動された軍部隊が李朝打倒を掲げ蜂起。民衆の支持もあり瞬く間に38度線以北を制圧し、朝鮮戦争が勃発した。騒乱は朝鮮全土に広がり、士気の低下もあり大韓王国軍は全土・全戦線で降伏・寝返りが相次ぎ敗走に敗走を重ね、僅か4日後の9月10日には王室・政府諸共に一挙に釜山まで後退せざるを得なくなる(王室が戦争勃発を知り真っ先に首都京城を逃げ出したためでもある)。
 背景には支那事変停戦条約締結後のゲリラ掃討に於ける大韓王国の失政(弾圧)があったため。大韓王国は残存部隊による武力鎮圧を試みるが圧倒的戦力差から失敗に終わる。
 之に対し大日本帝國は、第二次支那事変に拠る事実上の半国家総動員体制を解除後、事実上最低限レベルまで警戒態勢を解いており、常備軍は第三の支那事変勃発を警戒して支那地域に張り付いており、事実朝鮮戦争に乗じ支那地域の軍事活動が活発化する素振りを見せたため、動くに動けなかった。これは日ソ国境に於いても同様であった。また第二次高度経済成長の末期にあって好況期に復員で就職を果たした兵士らによる消費増を背景とした好景気にあったため、動員解除後の再動員は遅れに遅れた。その上大韓王国軍の進駐を以て治安状況は悪いものの一応の安定状況下にあったため、沿海州の戦力は国境警備に必要な最低限しか置かれておらず、北部からの制圧が出来る状況にも無かった(同様の事情が満中・満ソ国境に戦力を張り付けていた満洲国にも言える)。
 この結果、連合帝國軍は釜山橋頭堡維持に必要な最低量の逐次投入となってしまい、徒に即戦力を消耗せざるを得ない状況に陥った。更に国連安保理では支那事変に絡んで国力を増大させ、欧州との連携も深め実質的に掌握した大日本帝國の力を削ぐべく、米ソが連携して徹底的に国連軍出動を妨害する。
  • 9月10日
 米ソの出兵妨害に業を煮やした大日本帝國は、同日発生した朝鮮人民軍による竹島襲撃を以て、強引な政治工作で連合帝國軍を国連軍と成す承認を取り付け、出兵を開始。最前線となった釜山周辺の朝鮮人民軍に激しい空爆を加える。
  • 9月25日
 近隣に敵対国を抱えたくない大日本帝國は制圧を急ぎ、国内の精鋭師団を仁川周辺に一挙に投入する仁川上陸作戦を敢行。そこから一挙南進を図り、9月29日には王室・政府が京城に帰還する。
  • 10月1日
 大日本帝國は当初38度線以北へは進攻せず、先ず朝鮮半島南部を制圧し徹底的に不穏分子を叩き潰してから北部制圧に取り掛かろうという方針だったが、大韓王国の強い要請に拠り38度線の突破を開始。しかし開戦前から朝鮮人民軍の実質的な基盤であった北部に入った途端、激しいゲリラ戦法に遭い、更に米ソが民族自決権を逆手に取った『対立的な信条を持つ二者の共存のための国家分立』を唱えロビー活動を展開。更に大韓王国でも開戦前の失政を糾弾する声が高まり、民衆より先に逃げ出した王室への批難も相俟って政権は空中分解の様相を呈し始め、米ソの影響を強く受け南北両立を掲げた世論が台頭し筆頭政治勢力と化す。
  • 10月20日
 国連軍は平壌に進軍するも、激しい市街戦に拠り前線部隊指揮官を激しく損耗。列強軍との戦闘を前提とした兵器を大兵力に拠って運用する従来の兵法では太刀打ち出来ず、指揮官喪失によりそこかしこで部隊が瓦解し敗走する例が積み重なり、小規模な負けを大量に積み重ねていくことになる。
  • 10月25日
 ソ連船籍の船舶により朝鮮半島北部に上陸していた実質的な中華人民解放軍であるところの義勇軍、中国人民志願軍が参戦。ソ連製重火器による奇襲を受けた連合帝國軍は平壌で大損害を受け、38度線以南に退く。更にソ連軍の国境接近により日満国境線に戦力を拘束される破目になった上、事を構えたくない国々の船舶が朝鮮半島北部と中華人民共和国支配下にある天津を行き来し、国際法に基づいた臨検に拠って阻止しようにも、米ソと大国意識が抜けず独自路線意識の強いフランスの政治的妨害工作が行われ思うように行かず、また一旦制圧した朝鮮半島南部に於いてもテロが頻発し、指揮官を狙い撃ちにされた国連軍を成す連合帝國軍は、徐々に戦闘力を失っていく。

皇紀2619(昭和34/西暦1959)年
  • 1月
 キューバ革命。親米政権が斃され、カストロ政権が成立。
  • 3月2日
 大韓王国は戦前の方針を転換し、一転して北部分立を容認してしまう。米ソ仏によって国連安保理が国連軍の作戦行動中止派で大勢を占められてしまい、遂には米ソの仲介に拠る停戦協議の開始を以て大韓王国による国連軍の停止が要請され、国連軍の進撃を止められてしまう。
 この間に前線に於ける指揮官損耗率の異常な高さから連合帝國国内には厭戦気分が蔓延し、世論の継戦意欲は大幅に低下する。
  • 4月3日
 大日本帝國は国家安全保障の観点から朝鮮戦争を継続したかったが、同日、米ソが時期を揃えて水爆実験を行い、またアメリカが有人人工衛星の打ち上げに成功したことで俄に米ソ同盟締結の危険が浮上。更に度重なる説得にも拘わらず大韓王国は蜂起した朝鮮北部を国家として承認してしまい、国連では正式な停戦議決が為されてしまう。
  • 4月6日
 大韓王国は米ソの仲介に拠り、大日本帝國を無視して北朝鮮暫定政権との講話協議をニューヨークに於いて開始。
  • 6月1日
 大日本帝國、立川飛行機、愛知飛行機、九州飛行機の三社が生き残りを賭け合併し日本航空機製造と社名を変更。国内近距離航空路線網を主眼にYS-11型機を発表する。
  • 8月15日
 4ヶ月に及ぶ交渉の末、北緯38度線以北の地域には、大韓王国に反旗を翻した朝鮮労働党・朝鮮人民軍を指導した金日成を国王として戴く「朝鮮民主主義人民国」を樹立し、南北は相互に国家承認を行い、また賠償請求を行わないこととするニューヨーク講和条約が交わされる。また交渉中会社である米ソは朝鮮民主主義人民国の国家承認により御墨付きを与え、また両国と相互に国交を開き最恵国待遇とする友好条約を締結。朝鮮半島を日本の勢力圏から切り離すことに成功する。
 この講和成立を以て国連は国連軍の正式な朝鮮半島からの撤退を議決し、これを以ての朝鮮戦争の集結を肯定。大日本帝國は朝鮮戦争を事実上の敗戦で終える。
  • 8月26日
「連合艦隊事件」発生。深夜、釜山沖に展開し朝鮮半島からの撤兵任務に当たっていた日本軍第二機動艦隊の一部が朝鮮戦争終戦を不服として即時対ソ開戦を求めて叛乱。全周波帯で連合帝國臣民に決起を呼びかけ、旗艦の意に従わなかった僚艦を撃沈。
  • 8月27日
 日本海海上に展開していた連合帝國軍第一機動艦隊、一部を切り離して転進し、釜山沖で叛乱艦隊と接触、睨み合いに。一方東京では艦隊の叛乱に乗じた、連合帝國を嵌めた米ソが今の所主導権を握っている安保理を糾弾する「安保闘争」を題目とし、連合帝國の国家安全保障を害する米ソに対する報復開戦を求める学生らの大規模抗議行動が勃発。関東各地で大規模騒乱に発展する。
  • 8月28日
 昭和天皇は午前、異例の記者会見を開き、国民に対し自重を求める声明(俗に言う「天皇の要請」)を発表し、これ以上血を流すことの愚かさと敢えて報復の戦争を始めず大戦を回避することの理を説く。
 同日午後、帝都日報の夕刊が、第二艦隊の叛乱と安保闘争を煽動したのは、開戦により懐を潤そうと安易に目論んだ大手軍需系財閥であると報じ、金の亡者に踊らされず来たる大戦を回避する一手を取った政府と天皇の選択を賞賛すべきだと主張。
 さらに同夜、関東各地で開戦集会を煽動したことは軍需産業企業法(軍需企業ニヨル政治干渉防止法)違反に該当し、さらに叛乱に協力したことは国家転覆罪である、と16日に帝都日報及び煽動の協力要請を拒否した停戦派の衆議院議員などからタレ込まれていた東京警視庁(当時)が木椎財閥に対し家宅捜索を実施し、煽動を指示する手紙などの証拠を押収し手紙を焼却しようとしていた当主を逮捕する(後、「木椎疑獄」と呼称)。
  • 8月29日
 叛乱艦隊、叛乱首謀者を幕僚が昏倒させ指揮権を掌握し投降。後、主導者は軍法会議の上で軍籍剥奪の上毒殺刑。賛同者は軍籍剥奪の上監視付き除隊。
 臨時国会にて、逮捕された木椎財閥当主が証人喚問に於いて煽動を認めたことで全国に広がりつつあった集会騒動(後、「安保闘争事件」)は急速に沈静化するが、木椎疑獄、連合艦隊事件関連でしばらく国内が揺れる。
 また朝鮮戦争の実質的敗戦に加え、勢力圏内に潜在的敵対国家を新たに2つも抱え込んでしまった外交的失点と、安保闘争と木椎疑獄、連合艦隊事件という敗戦処理の不手際により、大日本帝國は国家の威信を大きく低下させてしまう。

最終更新:2014年05月25日 14:53