大正時代
皇紀2572(大正元/西暦1912)年
支那大陸に於けるドイツ帝国の兵器売買が朝鮮半島にも及び、反日勢力への武器売却が察知されたことを以て、日露戦争以来冷却化の一途を辿っていた日独関係は更なる悪化を見る。一方、日露戦争に於いて今後日本と対立したくても対立不可能な状態にまで損耗したロシア帝国は、講和後の繁利亜鉄道による大陸東西の物流革命により一息吐いており、良い関係を保っていきたいという意向から独露関係を見直す動きを漂わせていた。また、独露協約に於けるドイツが購入したロシア帝国の戦費調達用の外債が、戦後暴落したこともそれに拍車を掛けていた。
皇紀2574(大正3/西暦1914)年
オーストリア=ハンガリー帝国次期皇帝、フランツ・フェルディナント大公がボスニアの首都サラエボで、セルビア人民族主義者によって暗殺される、所謂サラエボ事件が発生する。オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに対する報復的戦争を望み激昂する。
オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦を布告。
1909年に於けるオーストリア=ハンガリー帝国のボスニア併合と引き換えにしたセルビア独立の誓約の履行違反を以て、ロシア帝国は(と言うより日露戦争に於いて面目を失ったロシア軍部が、名誉挽回を求めて)戦争準備を開始。日露戦争に於ける痛手を鑑み、部分動員では戦力が不足すると考えたため、総動員令が発動される。
ドイツはロシアの総動員下令を以てシュリーフェン・プランを発動。総動員を下令しベルギー(白耳義)に対し無害通行権を要求。
ドイツはロシアに対して宣戦布告。
ドイツはフランスに対して宣戦布告。
グレートブリテンはドイツ軍のベルギー侵入を以て宣戦布告。
日本はドイツのベルギー中立侵犯を以て、ドイツに対し最後通牒を行う。
日本はドイツに対し宣戦布告。既に展開していた艦隊を以て亞細亞や太平洋上のドイツ帝国の植民地に対し侵攻を開始。
ロシア軍はタンネンベルクの戦いで史実よりも早く敗北。之に伴い、ドイツ軍の西部戦線に於ける戦力不足が史実よりも早く緩和される。
マルヌ会戦に於いて、史実よりもやや多い戦力を用意出来たドイツ軍はフランス軍と拮抗。マルヌ川よりやや東(史実の塹壕地帯よりやや西)で戦線が膠着する。
日本軍は山東半島を占領。
日本軍はドイツ領南洋諸島を全て占領。亞細亞・太平洋の平定を以て、ベルギーとロシアの救援を名目に欧州へ金剛級を含んだ遣欧艦隊の派遣を決定するも、対日警戒心の根強いグレートブリテンから冷淡な態度を取られ、ドイツ艦隊との睨み合いに張り付くグレートブリテンの本国艦隊に代わって、海上護衛を押し付けられる(が、その為に最も豊富な海上護衛戦の経験を得ることになる)。
皇紀2575(大正4/西暦1915)年
ルシタニア号撃沈未遂事件。ルシタニア号は危ういところでドイツUボートの攻撃を回避し、アメリカ参戦フラグを叩き折る(アメリカが参戦しなかった結果、「民主主義と封建主義の戦い」なる史実で連合国が掲げたスローガンが消滅する)。また、参戦機運を高めたアメリカ国内の世論に対し、間隙を衝いて領土奪回に動く気配をメキシコ帝国が見せたため、結局日和った国内世論により戦力を国内に釘付けにされてしまう。
ロシア軍はワルシャワから敗走。ポーランド全土を放棄し撤退する。
皇紀2576(大正5/西暦1916)年
ユトランド沖海戦。海上護衛戦で大西洋を駆けずり回っていた日本海軍遣欧艦隊に所属する筑波級4隻及び金剛級4隻も参加し、独自判断で半ばグレートブリテンの本国艦隊を餌にドイツ艦隊を砲撃し敗退に追い込むが、大落下角で飛来したドイツ艦隊の砲弾一発が「榛名」に命中し機関損傷により大破。当時最新鋭の戦艦がたった一発の命中弾で戦闘力を喪失したことに日本海軍は衝撃を受ける。
ドイツ帝国の飛行船による戦略爆撃もあり、「現状の防御構造では真上から戦艦の砲弾が投射されれば例え一発の命中でも戦艦は沈没し得る」という可能性を戦訓として認識した日本海軍は、建造中の改扶桑級である「伊勢」「日向」の装甲強化(扶桑級に関しては後の改装で対応するものとされた)や、全国の港湾施設の拡充や海軍工廠・鎮守府の新設をも含めた総合的な公共事業であった八八艦隊計画の見直しを迫られる。また一方で、通商護衛に於いても痛い目を見たため海上護衛部隊も重視されるようになり、主力艦隊と護衛艦隊で別個の組織を立ち上げ、任務を分離することが検討されるようになる。
ロシア軍は東ガリツィアに於いてブルシーロフ攻勢を実施するも、日露戦争以来の戦力不足からオーストリア=ハンガリー軍に十分な損害を与えることが出来ず。
ブルシーロフ攻勢の事実上の失敗を以て中央同盟国有利と見たルーマニアは、同盟国側に立って参戦。有力な資源地帯(油田)を持つルーマニアの同盟国側での参戦は、連合国側を大きく落胆させる。
ドイツとオーストリア=ハンガリーの両皇帝、占領中のロシア領ポーランド地域(ロシア領プリヴィスリンスキー地方)にポーランド摂政会議の設置を認め、制限付き行政権及び国王を選出する権限を与え、国王としてオーストリア=ハンガリーの大公、カール・シュテファン・フォン・エスターライヒをポーランド国王カロル・ステファン・ハプスブルク=ロタルィンスキとして擁立。ドイツ帝国の傀儡国家を樹立する11月5日勅令を発する。
ロシア帝国の怪僧ラスプーチン、暗殺される。
皇紀2577(大正6/西暦1917)年
ロシア革命勃発。戦争による重税に耐えかね、ロシア帝国首都サンクト・ペテルブルクで勃発した収拾不可能なデモに対し、ロシア皇帝ニコライ二世が退位を宣言。東部戦線へ派遣されていた日本陸軍の1個師団、及びサンクト・ペテルブルクから東部戦線へと移動目前だった同1個師団が、事実上の無政府状態による混乱で窮地に陥るのを防ぐため、大日本帝國は直ちにサンクト・ペテルブルクの在露日本人資産(「ついでに」ロシア皇帝一家)の警備保護を命じ(それには暗に他の列強の資産保護も意味していた)、サンクト・ペテルブルクから革命側勢力を押し出し、サンクト・ペテルブルク周辺を革命側が手出し不可能な地域とすることに成功する。
この時間的猶予を以って、既に中道派臨時政府が成立していながらも収まりの付かないロシア帝国の混乱を鑑み、ロシア帝国そのものの復活は不可能と判断した大日本帝國及び列強各国は、ドイツと血縁関係のあるロシア皇后救出と言う名目で、同盟国側への攻撃を行わない限りに於いて、東部戦線に展開する日本陸海軍部隊及びロマノフ皇帝一家救出部隊に対するドイツ軍不干渉(実質的にはロシア本土に対する不可侵条約を締結したに等しい)の話を取り付ける(この代償は、ドイツとボルシェヴィキ政権の妥協による東部戦線早期消滅と西部戦線の変化で支払うことになった)。
結果、日本軍はサンクト・ペテルブルクに存在した在露日本(及び列強)資産及び海外脱出を希望する住民らごと持ち出すことにも成功する。
皇紀2578(大正7/西暦1918)年
ウクライナは単独で同盟国側と和議を締結。同盟国軍が全ウクライナを占領下に置く。
ブレスト・リトフスク条約が結ばれ、ロシアが第一次世界大戦から離脱。ロシア西部の国境線は大きく東遷し、独露間の領域にフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ベラルーシ、ポーランド、ウクライナ等の各王国が次々と独立。東部戦線は消滅する。
ドイツ軍は消滅した東部戦線から転用した兵力を以て、西部戦線で大攻勢を仕掛ける。史実と違いアメリカ合衆国の参戦による豊富な兵力も存在しなかったため、連合国は反撃に失敗。各地の塹壕を放棄し遅滞戦術に切り替える。
ドイツ軍がパリ郊外32キロに迫り、パリ市内にドイツ軍の長距離砲が着弾する様になった時点でドイツ側から停戦勧告を名目とした一方的休戦宣言が出され、戦略的優位を勝ち取っていながら西部戦線での反撃の見込みが立たない連合国はこれを受諾。双方とも兵士と国民と富を失い国土を荒廃させただけという超泥沼状態で第一次大戦は事実上の終戦を迎える。
日本陸軍、ロシア領シベリア(西繁利亜)内に囚われているチェコ軍捕虜の救出を大義名分として、革命波及阻止のため日露国境線である礼奈川を越境出兵。入久筑(イルクーツク)、舞羅筑(ブラーツク)を保障占領し西進。
戦争を主導したヴィルヘルム2世への不満が高まった結果、ドイツ帝国でワイマール立憲憲法が成立。ヴィルヘルム2世は退位しヴィルヘルム3世即位。帝政を維持したまま、ドイツは議会政治へ。
制度的疲弊(民族間対立)の限界から、オーストリア=ハンガリー帝国は帝国そのものを一端解体し、構成する諸地域に新たな政府を置いて独立させ、史実ユーゴスラビア地域を除いた諸地域を緩やかに束ねる帝室を置いて国家連合体と成す方向へと発展解消する。その盟主たる帝室の存するオーストリアには史実に於けるスロヴェニア(と言うよりはトリエステとプーラを擁するイストラ(史実イストリア)半島)が残存し、残る諸地域は以下の様に事実上の独立を果たした。
・史実チェコ地域
ボヘミア王国
モラヴィア王国
シレジア公国
・史実スロヴァキア地域
ガリツィア=ロドメリア王国
スロヴァキア王国
・史実ハンガリー地域
ハンガリー王国
そして国防・外交と諸地域間の利害調整及び資本整備機関として、此等を束ねる中央政府としてのオーストリア帝室を置き、特にこの地域に於いて、聖冠それ自体が法的効果を有すると見做されている聖イシュトヴァーンの王冠(帝冠)を国家連帯の象徴とし、「神聖イシュトヴァーン王冠帝国」を名乗った。
また、史実ユーゴスラビア地域は以下の三国に分離した。
クロアチア=スラヴォニア王国
セルビア王国
ボスニア=ヘルツェゴヴィナ王国
皇紀2579(大正8/西暦1919)年
パリ講和会議がヴェルサイユ宮殿で開始。戦略的優位を得ながらも一歩及ばなかった連合国と、戦略的に不利ながらも辛うじて戦術的に一歩先を行った為王手を掛けたドイツとで妥協点が探された結果、主に以下の様に決められた。
・ブレスト・リトフスク条約に従って旧ロシア帝国領に対し独立を宣言した国々を相互承認する。
・ドイツ帝国からエルザス=ロートリンゲンはエルゼス=ロートリンゲ王国として独立し、連合国との間にこの国の成立を相互承認する。
・ドイツ帝国のアジア・太平洋上の植民地は、全て現在占領に当たっている国家にその処遇を委ねる。
・ドイツ帝国の有する上記以外の植民地は、全てドイツ帝国に帰属し、またドイツ帝国と連合国とは相互に現在有する植民地を相互承認する。
・相互無賠償とする。
・内戦中のロシアについての扱いはその都度会議を開いて決める。
結果として、ある種の幸運でロシアを事実上下しフランスを追い詰めておきながら、ドイツ帝国は獲得した領土を友好国として独立させざるを得ず、オーストリア=ハンガリー帝国に至っては一部諸邦を蜥蜴の尻尾切りを行い独立を許す結果となり、荒れ果てた国土と莫大な戦費という名の借金のみが残った。この為、存続したにも拘らず事実上の敗戦国となった欧州各国はどこの国も戦後大不況が到来した。
列強で「戦わずに」儲けられたのは、商売に勤しむだけに終始したアメリカ合衆国と、アメリカ合衆国を新大陸に釘付けにしつつ同様に産業の拡充に成功したメキシコ帝国、アメリカ合衆国よりも更に強力な新大陸への引き篭もり政策を執り、完全な自己完結型国家の確立に邁進しドイツとグレートブリテンに比肩する国力を得たブラジル帝国や、アルゼンチン共和国等の新大陸の新列強だけだった。
そして欧州での国境線と賠償金の遣り取りが行われなかった以上、その不満は別の場所での解消が目論まれ、汎スラヴ主義への対抗(と、苦しい資金繰りから寄付を募って建造した超弩級戦艦を土壇場でいきなりグレートブリテンに接収されたことによる悪感情)からドイツへ接近し参戦したオスマン帝国がその対象となった。
オスマン帝国では敗戦に伴い、メフメト六世の専制政治を廃しトルコ民族主義に傾倒した統一派政権が崩壊しており、メフメト六世は自らの専制政治復活を狙って連合国による帝国各地の占拠を許容し、オスマン帝国は欧州列強によって分割されつつあった。
これに対し日本は欧州列強の植民地増加を阻止し、欧州列強の目を亞細亞から欧州近傍に釘付けにしておきたい意向から、欧州列強のオスマン帝国分割に反発。特に豪州で進行しつつある白豪主義を警戒していることから、欧州列強の中でも最も戦略的に優位に立ち、事実上連合国の首魁として欧州経済を掌握したグレートブリテンとの対立を深めた。しかし目下の所一番の問題となっているのはロシアの赤化であり、水面下で対立を深めながらも、当面両者はロシアの大地を巡って共闘していくことになる。
ポーランド王国、ロシア帝国により分割されたかつての版図の回復を求め、撤退する白軍を追う赤軍の後背から攻め掛かる。ポーランド・ソビエト戦争勃発。ポーランド王国の事実上の宗主国であるドイツの余剰した軍備の在庫処分の一面を持っており、またソビエトとの間に強力な緩衝国を醸成することで、共産主義を弱体化させる意図を持っていた。
日本陸軍、野星蒜宿(ノヴォシビルスク)に到達。臣宿(オムスク)に立て篭もり赤軍と戦うロシア白軍によって逃がされシベリア奥地を流浪していた貴族・僧侶・婦女子などから成る亡命者75万人あまりと接触しこれを保護(日本人的お人好しさを考えると寧ろ懇切丁寧で断り難い、半ば捕獲に近いものがある)。
臣宿陥落に伴いロシア白軍50万人が臣宿を脱出。シベリア出兵中の日本陸軍はこれを保護し、大戦の停戦に伴い余剰した砲弾薬から成る在庫処分とばかりに、シベリア出兵を侵略者と見做した(事実そうであるのだが)赤軍と一戦交え、圧倒的火力で撃退した後、従来の国境線まで撤退する。
大日本帝國、選挙法改正。
皇紀2580(大正9/西暦1920)年
各国がヴェルサイユ条約を批准。アメリカ合衆国の提唱により国家間利益衝突の調停機関として
国際連盟創設。常任理事国は大日本帝國、グレートブリテン、アメリカ、フランス、イタリア、ドイツ、イスパニア、メキシコ、ブラジルの九カ国。第一次大戦不参戦による好景気が労働運動や反戦運動を高まらせ、労働者階級からの突き上げを受けた上院議会が僅差で可決したことにより、アメリカも国際連盟に参加する。
大日本帝國は一時第一次世界大戦による好景気が終わり戦後不況に突入しかけるが、生産力をそのまま繁利亜・荒棲家開発に投じたため回避。
サン・レノ会議に於いて、連合国とオスマン帝国との間に結ばれるべき講和条約の骨子が決定されるも、地中海に於いてオスマン帝国と交戦した日本を差し置いての秘密会議によって決定されたことで、何も関わる余地もなく、また利益も無く話を進められたことで、事実上の日欧訣別が確定する。
ポーランド・ソビエト戦争、シベリアから転進して来た赤軍の反撃により戦力不足から潰走。
ポーランド・ソビエト戦争、ポーランド軍を赤軍が突破。
ポーランド王国軍、首都を赤軍に包囲されるワルシャワ危機に際し、ユゼフ・ピウスツキ率いるポーランド軍の機動包囲によって赤軍を包囲しトゥハチェフスキーの捕殺に成功。戦線を押し戻し、独立早々に滅亡の危機に晒されるバルト三国をも解放する。
セーヴルに於いて、連合国とオスマン帝国との間にセーヴル条約が締結。オスマン帝国を完全に分割解体し植民地にする内容であり、オスマン帝国臣民だけでなく、戦勝国であり実際にもオスマン帝国と交戦していながら、何ら条約の交渉に参加させられなかった日本は猛反発。オスマン帝国とはエルトゥールル号事件以来の友好国であり、参戦経緯も汎スラヴ主義への対抗と、臣民からの寄付も以て建造された戦艦を土壇場でいきなり徴用されたことへの反発からであり、後述するオーストリア=ハンガリー帝国同様に甚く同情的だった。
その為、故あって戦場では敵対したものの、戦場での勝ち負け以上のことをどうこうするつもりは少なくとも日本には無く、反動的に苛烈を極めたと言っても過言ではないオスマン帝国への処遇は、戦争当事国でありながら交渉に携わること無く勝手に決定された事も含めて、大いに不興を買っていた。
日本は即日セーヴル条約に対する異議を唱えると共に、交渉に未参加の講和条約では日本との講和は為されたことにならないものとして停戦の破棄を示唆。更に日本はそもそもの戦争の発端であるサラエボ事件で暗殺された、オーストリア=ハンガリー帝国(当時)フランツ・フェルディナント大公夫妻に対する弔意を今更ながら表し、互いの信義に拠って交戦したことは真に遺憾ながら、講和に伴う和解と両国の発展の礎と成すべく、神聖イシュトヴァーン王冠帝国に対する大規模な無利子借款を実施。
更には新嘉坡に艦隊を派遣し、東南亞細亞の植民地を人質に取って明確な対決姿勢を示す。大戦でも大した被害を受けていない上に、圧倒的高速力と火力偏重の日本海軍をまともに相手に出来る国は一部を除いて存在せず、その一部たるアメリカは戦時特需の勢いのままに金持ち喧嘩せずとばかりに日欧の潰し合いを観賞し、グレートブリテンはまともにぶつかれば戦後世界の覇権は先ず握れないことが読めており、日本は日本でオスマン帝国への無体さえ停止されれば矛を収めるつもりだったため、それ以上の緊張状態には発展せず。
この時点でセーヴル条約の発効が停止され、オスマン帝国分割によって得られる植民地からの収入を当てに復興を図ろうとしていた欧州列強は、それに代わるものさえあれば日本の意見を受け容れるのも吝かではないという姿勢を取りつつ、事態は会議の場へと移行していくことになる。
他方、欧州が経済的に連合国(というよりグレートブリテン)の軍門に下った後での連合国から同盟国への鞍替えに、欧州では「日本情勢は複雑怪奇」の声が聞かれた(尚、日本では元々後継者を失ったオーストリア=ハンガリー帝国に対する判官贔屓的な同情の声がある意味オーストリア=ハンガリー帝国臣民よりも強く、それ故に朝鮮半島に武器を売却したり日露戦争でロシアに肩入れしたり中立を侵犯して戦争を本格化させたりしてきたドイツは兎も角、オーストリア=ハンガリーに対しては感情的にはあまり悪い思いを抱いていなかった)。
オスマン帝国は領土賠償として、スエズ運河(シナイ半島)に対する領土的緩衝地帯を欲したグレートブリテンに対しパレスチナを、フランスに対しヨルダンとシリアを割譲し、アラブ反乱によるアラビア半島の諸邦の独立も承認するも、メソポタミア(イラク)の独立・割譲は免れた。
トゥハチェフスキーの戦死により赤軍が潰走し、ポーランド軍がミンスク近郊まで進撃したことを以て、ソビエト政府は和平を提案。リガに於いてソビエト政府はバルト三国、ウクライナ王国、ポーランド王国とリガ条約を締結して講和し、広大な領土を失う。
また革命で混乱しているにも拘わらず、強大な軍事力を有するソビエトを警戒し、フィンランドからウクライナに至る新独立国・反共産主義国家群は富国強兵の必要性を痛感。これに連合国のオスマン帝国に対する所業から自存自衛を掲げるスウェーデン王国とノルウェー王国が加わり、北極海から黒海にまで至る同盟が成立。財政の破綻から国家のスリム化とソビエトに対する防壁を欲したドイツ帝国の思惑とも、ソビエトの相対的弱体化を目論む連合国の利害とも一致したため、大きな緩衝を受けることもなく認められる。
大日本帝國は「北極海を挟んだ隣国」である北欧諸国を通じた欧州への復興政策として東・北欧を中心に資本・産業への支援を行うことを表明。事実上のヨーロッパ分断政策。当然ながら連合国(≒西欧諸国)の列強からは反感を買うも、日本の勢力圏とされては敵わないとばかりに西欧諸国からの資本投下も加速する。
皇紀2581(大正10/西暦1921)年
アメリカはワシントン会議を開催し大戦後も続く日米府による建艦競争(特に伸長著しい日本を標的とした)に歯止めを掛けることを画策するも、オスマン帝国や欧州復興を巡る一連の争いで互いに反目を強めていたため、開催前から不成立があちらこちらで囁かれる。
皇紀2582(大正11/西暦1922)年
保有比率と既に実戦配備に就いている艦船の即時廃艦を迫られたこと、そして欧州市場を欲するアメリカがソ連に対する莫大な援助案を持ち掛けつつあることが日本によって暴露されたことで、君主国が大半を占める欧州列強の一斉反発が発生したことを直接の理由として、ワシントン会議は不成立に終わる。世は正に大艦巨砲主義時代へ。
皇紀2583(大正12/西暦1923)年
大日本帝國の主催により、東京で日府米独仏伊による東京軍縮会議が開催される。「超弩級戦艦以前の戦艦全ての廃棄または記念艦乃至練習艦化、主砲撤去を義務とする改装による補助艦への変更」「既に起工されている全艦の建造を相互承認」「未起工の艦の計画を中止または他の艦種に変更」「一隻あたりの最大排水量を4万8500トン」「搭載砲は口径を16インチまでに制限すること」を叩き台として交渉が進められることになった。
この結果、日本海軍は「金剛」以前の戦艦の殆どを廃艦または補助艦へと改装し、残余も工作艦か警備艦、練習艦に改装。「三笠」のみ記念艦として不活性化(モスボール)の後、横須賀に展示。八八艦隊計画を従来の「16インチ(以上)の主砲を持った戦艦8隻、巡洋戦艦8隻の獲得」から「既存戦艦4隻・巡洋戦艦4隻+新戦艦4隻・巡洋戦艦4隻の整備」に変更した新八八艦隊体制に改めた。
既存戦艦4隻
扶桑級戦艦(36cm砲3連装2基+同連装2基10門、26ノット)「扶桑」「山城」
伊勢級戦艦(36cm砲3連装4基12門、25ノット)「伊勢」「日向」
既存巡洋戦艦4隻
金剛級巡洋戦艦(36cm砲連装4基8門、27.7ノット)「金剛」「比叡」「榛名」「霧島」
新戦艦4隻
長門級戦艦(41cm砲連装4基8門、公称23ノット/最大26.5ノット)「長門」「陸奥」
加賀級戦艦(41cm砲連装5基10門、公称23ノット/最大26ノット)「加賀」「土佐」
新巡洋戦艦
天城級巡洋戦艦(41cm砲3連装砲4基12門、32ノット)「天城」「赤城」「高雄」「愛宕」
東京軍縮会議の最中、関東大震災が発生。幸い明治三陸地震を機に毎年行われてきた防災訓練や、大規模な震災の度に道幅や防火帯を設ける街造りが行われてきたことが功を奏し被害を極限出来たが、関東一帯はかなりの地域で建物が倒壊し焼け出され、横須賀海軍工廠では「天城」が船台上で大破、解体せざるを得ない状況に追い込まれる。軍縮会議は事態把握のため無期限延期に。
東京軍縮会議再開。新八八艦隊の建設も困難となったため、日本海軍は新八八艦隊から天城級を除いた、14インチ戦艦8隻と16インチ戦艦4隻による四四四艦隊計画を策定。赤城、高雄を空母に転用するものとして交渉が進められる。
結果、日府米の保有可能な戦艦は以下の様に決められた。
・アメリカ海軍
ニューヨーク級以前に建造された戦艦を全て廃艦し、残存艦に加えて以下の新型戦艦を保有可能とする。
・戦艦
コロラド級「コロラド」「メリーランド」「ウェストヴァージニア」
サウスダコタ級「サウスダコタ」「インディアナ」「マサチューセッツ」
・巡洋戦艦
・コンステレーション(レキシントン)級「コンステレーション」「コンスティチューション」「ユナイテッド・ステイツ」
・空母に転用
「レキシントン」「サラトガ」
・グレートブリテン海軍
13.5インチ以下の砲を搭載する戦艦を全て廃艦し、残存艦に加えて以下の新型戦艦を保有可能とする。
・戦艦
ネルソン級「ネルソン」「ロドネイ」
ヴィクトリア級「ヴィクトリア」
・巡洋戦艦
ブリタニア級「ブリタニア」「スコットランド」「ウェールズ」「イングランド」
・日本海軍
金剛級以前に建造された戦艦を全て廃艦し、残存艦に加えて以下の新型戦艦を保有可能とする。
・戦艦
長門級「長門」「陸奥」
[[加賀級]]「加賀」「土佐」
・空母に転用
赤城級「赤城」「高雄」
[[富士級]]「富士(芙蓉)」「苅萱(鳳仙)」
同会議には独仏伊墺も呼ばれていたが、何れも自らの財政状況と海軍戦略、条約締結による戦力均衡、条約が失効すれば条約型艦は陳腐化するであろうという見通しの下に自ら16インチ砲搭載艦の保持を放棄。概ねこのような内容で東京軍縮条約が締結された。尚、同条約には砲の口径や砲門数、砲塔の換装、既存艦の廃棄方法に関する条項は設けられていなかった為、直後に筑波級を急速に先鋭化するソヴィエトの脅威に備えるオスマン帝国に売却することで廃艦を達成した日本海軍や、名目上独立国であるカナダやオーストラリア、ニュージーランドに対して警備艦の扱いで旧式艦を売却した府海軍に対し、アメリカは強い反発を見せることになる。
皇紀2584(大正13/西暦1924)年
大日本帝國、関東大震災によって到来した不況に対し大規模国内開発を始めとして内需転換を図る積極財政策を展開。
日本海軍、建造を中止した「愛宕」の船体を用い標的艦として使用。水中弾効果を発見する。
皇紀2585(大正14/西暦1925)年
日本海軍、室蘭鎮守府・海軍工廠、開府。関東復興による高度経済成長到来。
ペルシャ(後のイラン)に於いてレザー・ハーンがペルシャ皇帝に即位しペルシャ帝国成立。
皇紀2586(大正15/西暦1926)年
大正天皇崩御。
新元号「昭和」に改元。
最終更新:2014年06月11日 22:24