昭和五十五年、冬木――
学生運動の熱気がある程度過ぎ去り、都市には平和の香りが漂う。
売り子の配布している新商品の缶コーヒーを受け取り、喉奥へ甘苦い液体を流し込んだ。
『先月、清水谷公園にて行われました学生共同闘争主宰の学生集会に対して、政府は七十年代の悲劇を繰り返すまいと警戒を強め――』
電気屋の店先でテレビが吐き出すそんなニュースに、思わず足が止まる。
辿った歴史の細部は違えども、それで大筋が大きく逸れるということはどうやらないらしい。
「……細部、か」
神化ならぬ、昭和の時代。
この世界を生きているのは、人間だけだ。
摩訶不思議な力は持たない、そんなもの信じもしない。
この世界は、大人だった。超人も怪獣も、その存在を知っている人間すらいない。
彼らの存在が許されるのは、大衆好みに脚色されたフィクションの世界のみ。
それが此処での普遍の常識であり、変わることのない
ルール。
顎を引き、季節外れの赤いマフラーに鼻先までを埋める。
息苦しい世界だった。
この平和は、男には耐えられない孤独だった。
此処には、守るべき彼らがいない。
袂を分かった彼女達など、居る筈もない。
「……お前は、獲るつもりなんだな」
「そう決めた。そう言うお前は、やはり抗うつもりなのか」
特撮の世界から抜け出してきたような、赤いマフラーの青年。
その隣に並んで歩いていた金髪の男も、彼も、人間ではなかった。
彼らは子供の世界から来た存在。まだ大人になれない、正義の迷い子だ。
……金髪の彼が、白服の袖を捲る。露わになった右の腕には、生々しい赤色の刻印があった。
「……俺は、聖杯を破壊する。それが、今の俺の『正義』だ」
「なら、お前とはこれまでだ。そのいけ好かない面をこれ以上見なくて済むと思うとせいせいする」
聖杯伝説。
それ自体は、神化の世界でも広く知られたものだった。
キリスト教の高位聖遺物として、或いは騎士道文学の王道として。
宗教的意味の如何はさておき、聖杯というワードに共通しているのは、それが途方もない奇跡の力を秘めているということ。
彼らは今、そんな杯のことを『願望器』と呼称していた。
手にした者の願いを叶える、神秘の消えた世界に残った最後の奇跡。
そして、遠からぬ未来。
その奇跡を巡り、この冬木市は大きな戦争の舞台となることが確定している。
「目を覚ませ! 聖杯戦争が始まれば、大勢が敗北者として死ぬことになる!
お前がそうならないという保証もない! それに、あの聖杯は――」
「くどいッ! 俺が勝ち、聖杯を手に入れ正義を成す! 命を懸ける気概もないのなら、大人しくあの世界に帰れ!!」
肩を震わせ、金髪――『鋼鉄探偵』は、元来た道を逆方向に歩き出す。
それを、マフラーの青年――『逃亡者』は、止めはしなかった。
今の自分では止められないだろうと、分かっていたがための行動だった。
しかし、彼は最後に口を開く。今生の別れとなるかもしれない相手に、最後の忠告をする。
「……俺は聖杯とやらが、高尚な代物だとはとても思えない。
聖杯戦争なんて物騒な儀式を挟まなきゃ奇跡を起こせないような願望器に、お前の言う正義を成せるとは思えないんだ」
「何が言いたい」
「根拠はない。だが、悪意を感じるんだ――この街には」
言って彼は顔を上げ、どこまでも広がっているように見える蒼い空を睨む。
この世界が、この冬木という街が平和だということに異論はない。
だがその平和はもうじき、崩れ去ろうとしている。
聖杯戦争という、正義とは無縁の悪意に満ちた戦いによって。
「俺達の知らない何かが……病巣のような悪が、あの願望器の裏に居る。
俺の妄想と切り捨てられればそれまでだ。でも俺は、そう思わずにいられない」
鋼鉄探偵は、もう振り返らない。
かつて
柴来人という名前だった正義のサイボーグは、既に死んだ。
今の彼は、街を業火で焼き尽くす怪獣すら超えた、英霊同士の大戦争に加担する欲望の徒でしかなかった。
……その足が、最後に一度だけ止まった。
「貴様の言う通り、聖杯が悪だとしようか。それでも、その奇跡は本物だ」
「………」
「ならばそれでいいだろう、
人吉璽朗。
奇跡を渡さないとほざく悪が居るのなら――捻じ伏せてやるまでのこと」
会話は、それまでだった。
びゅうと吹き抜けるビル風が、一人になった男の鼓膜を打つ。
青い正義を、嘲笑っているようであった。
■
聖杯戦争という形式の発祥は、とある世界の極東であったというのが一般的な定説である。
世界を二分する大戦が起こる百年以上も前にそれらしきものが行われたのが記録上の最初。
それから第二、第三と聖杯戦争は積み重ねられていき、世界線によっては全く別な地での戦争も確認された。
万能の魔術礼装を謳う聖杯が、まさか路傍の屑籠に打ち捨てられているというような事態はありえない。
聖杯戦争が起こるためには数々の要素と環境、そして人の手による厳密な監督が必要不可欠だ。
しかしながら、聖杯戦争という趣向自体は決して物珍しいものではなくなりつつある、というのも確かな話。
百匹目の猿という現象がかつて提唱された。
提唱されたとはいってもこの現象については既に非実在が確認されており、疑似科学とされているのだが、例としては最も分かりやすい為、この場ではこれを用いる。
一頭の猿が芋を洗って食べるようになった。すると同行動を取る猿の数が徐々に増えていった。
やがて芋を洗う猿の数が百匹の閾値を超えた頃に、全く接触のない遠地の猿にも同じ習性が見られ始めたという。
聖杯戦争というよく出来た趣向の拡大は、まさにこの現象に近いものがあった。
最初は無数に別れた世界線のたった一つで確認されただけの筈の儀式が、他複数の世界でも点々と確認されるようになっていった。そしてその数は、現在も時間の経過と共に異常なペースで増大しつつある。
さも聖杯戦争という発想、知識が、世界の垣根をも飛び越す電波に乗って他の天地に〝感染〟していくかのように。
これは実に、興味深い現象であるといえるだろう。
問題はそれを観測する術を持つ者が、全ての世界を総括しても両手の指の数に届くかさえ定かではないことか。
生を終えてなお黄泉路へ着くことなく、世界の外側に弾き出された一人が、ある日その興味深い事実に気付いた。
肉体を持たない観測者には感情を表現する顔というものが欠けていた。
だがもしも彼の者に表情筋が与えられていたなら、満面の笑みでもってこの発見を祝福したに違いない。
観測者という存在は、世界に選ばれた人間が死後に辿り着く境地である。
我欲を持たない意識だけの存在になって、永久に世と人の行く末を見守り続ける、意義不明の概念生命体。
原罪に塗れた人の器より解き放たれた彼らは、言ってしまえば搾り滓だ。
人間界で滲ませた脂を全て拭き取られた上で無菌の宇宙に放逐されるのだから、自我などロクに残るわけがない。
しかし彼の者には、観測者に共通した空虚性が一切見られなかった。
それどころかいつだって新鮮な感情を発露させ、上等な物語を読む読者のように世界に没頭していた。
問題は、その感情の性質だ。
彼の者は、凝り固まった悪意の化身であった。
人の嘆き、挫折、苦悩、疑心、苦しみ抜いた末に辿り着く〝絶望〟の境地を溺愛する。
そんな生命にとって、聖杯戦争というシステムはまさに打って付けの新しい玩具だ。
それから彼の者が具体的に何をしたのかの記録は、残されていない。
確かに一つ言えることは、彼の者は観測者であり、観測者ではなくなったのだということ。
生きているのとも死んでいるのとも違う、宙ぶらりんの状態に入って一つの世界に再誕したのだ、彼の者は。
彼の者は願えば、剣士になれる。
彼の者は望めば、弓兵になれる。
彼の者は妬めば、槍兵になれる。
彼の者は呼べば、騎兵になれる。
彼の者は叫べば、魔女になれる。
彼の者は呟けば、兇手になれる。
彼の者は演ぜば、狂霊になれる。
彼の者が声を張り上げれば、それだけで裁定者だ。
彼の者が青筋を浮かべれば、復讐者にだってなり得る。
彼の者が嘯いたなら、その時点で彼の者は救済者なのだ。
彼の者が怒ったなら、それは獣と呼ぶべきだろう。
異形の魂は何にでもなる。
聖杯戦争をするためだけに急造された世界に足を踏み入れた者達にとっても、同じことだ。
満たされない願いを抱えるならば、主催者たる彼の者は救世主。
平穏を聖杯戦争によって脅かされたならば、黒幕たる彼の者は悪意の獣に等しい。
万人にとっての都合よい干渉者として、触覚を遣わし嘲笑うそれを。
――かつて人は【 】と、呼んだ。
「これが、聖杯か」
廃墟と化したその地。
かつて人体だったものが流した血と、それが散らした肉片で汚れた床面に、その引き金を引いた男が一歩を踏み入れる。
清潔な無菌室の内部には、噎せ返るような死臭が充満していた。
そのことに毛ほども頓着せず、男は清々しそうに空気を吸い、部屋の中央で眠る『それ』へと歩を進めた。
不思議な魅力を持つ男だった。
無造作に伸びた黒髪と顎一面を覆うような黒髭が、どういうわけか一切の不潔感というものを感じさせない。
世界の最高機密と云っても過言ではない施設には似つかわしくない軽装で、首には髑髏の連なった見るからに不吉な首飾りを提げている。
その瞳は深淵を思わせるように昏く、底のない淀みが蜷局を巻いているように錯覚させる。
残忍な死刑囚が小便を漏らして逃げ出すような、桁の違う禍々しさを背負った男。
悪意というものについて知識が深ければ深いほど、彼の異質さは際立って見えたことだろう。
何よりの皮肉は、そんな男の風貌が、世界中で信仰されている伝説の救世主のそれにどことなく似ていることであった。
そしてその周りでは、救世主の付き人には似つかない表情をした、白と黒のコミカルなマスコットが赤く染まった爪を剥き出している。
いや、或いは……平凡たる世の営みからあぶれたはぐれ者にとって、彼はまさしく、救世主と呼ぶに相応しい存在であったのかもしれない。
彼は人類が築いてきた文明そのものに感染する、人の形をした業病(Sick)だ。
生まれながらにして地上全ての悪に匹敵する悪意を抱えていた、魔人じみた人間。
超人、怪獣、そんな区分すら無意味に思えるような一個の完成形。
彼はその手を、寝息を立てる願望器にそっと添える。
点滴を抜き、それが目覚めないように注意しながら、小さな身体を腕に抱く。
「共に行こう、魔女のお嬢さん。
目覚めの時はまだ遠い。だが君の瞼が次に開く時は、君の願いが叶う時だ」
無垢な少女を抱いて、冒涜の言葉を囁く。
眠れる魔女は、こうして病に堕ちる。
幼く脆く、故に残酷だった魔女はもういない。
彼女の目覚めは、起きてはならぬ奇跡。
黄金の杯のような輝きを伴わずして願いを叶える、最新型の願望器。
魔法の域を飛び越した、至高の宝具に彼女は生まれ変わるのだ。
「君は、ただの人間ではない。
まして、封じられるべき王冠などでもない。
君はサーヴァントであり、既存の聖遺物全てを凌駕する――『聖杯』さ」
この世界に生きる限り、少女はあくまで人間だ。
因果律を崩壊させ、世界の再創造すらも可能とする、制御不能のブラックボックス。
それでも心臓一つの人間一人。それが覆ることはない。
ただしそれは、あくまでもこの世界の中の話。
「往こう、絶望の海に。
私は君に、世界を教えよう。
世界に満ち満ちた悪意の尊さをもって、君に奇跡を教えよう。
ホーリーグレイル。君のクラスは、ホーリーグレイルとしておこう。
君の存在は、私と彼女の最大の【希望】だ」
安らぎに満ちた顔で、男は笑う。
嗤う。
嘲笑う。
――微笑う。
少女が目覚めることはない。
来る時、二十三の魂が集うまで。
悪意の渦を踏破した、最後の魂がその前に立つまでは。
小さき魔女はまだ、眠り続ける。
世界の命運を左右する脳髄で、楽しげな夢を見ながら。
聖杯英霊は時を待つ。
無垢なる奇跡は未だドリームランド。
彼女の目覚める時、全ては終わりを迎えるだろう。
そう、全てだ。一つとして、例外はない。
母なる絶望と父なる悪意に培養された黒き聖杯――【希望】が、その目で世界を見た時。
奇跡は起きる。魔法が始まる。地球最大にして最後の、大いなる奇跡が。
そして――――【悪意】という腫瘍を抱えた昭和時代が、いびつに歪んだ自転を開始する――――
.
最終更新:2016年06月23日 19:12