二十世紀は、読書家に優しい時代だった。
個人経営の書店が苦もなく成り立ち、長続きさせられる時代。
電子書籍なんてものは世紀末まで実用化されておらず、されてからも普及には至らなかった。
別に電子書籍という文化を悪いとは思わないが、文香個人としては、紙の本が好きだ。
確かに持ち運びやすさや手軽さの面では、電子書籍が勝つだろう。
それでも文香は、紙の頁を捲る感覚や、古い本特有の枯れた匂いが好きだった。
何も、本だけに限った話じゃない。
昭和の時代は、平成よりも
鷺沢文香にとっては住みやすかった。
現代以上に俗な風潮が蔓延している代わりに、現代にあった息苦しさというものがない。
映画や小説の描写から想像するしかなかった『昔』に、今、こうして自分が生きている。
まるで幼い日に憧れた、タイムトラベル小説の主人公。
もうタイトルも忘れてしまった、ずっと昔のSF小説。
主人公の少女はある日、自分が生まれる何十年も前の時代にタイムトラベルしてしまう。
常識や知識の壁に苦労しつつも友人を得て、少女はとうとう自分の成すべきことを理解した。
それから――……どうなったのだったか。
記憶が薄ぼけていて、うまく思い出せない。
思考に没頭しかけた脳を現実に引き戻したのは、午後四時の時報を告げる鳩時計の鳴き声だった。
鷺沢文香は、小説の主人公のように、いきなり過去の世界に放り出されたわけではなかった。
この昭和時代には、あるはずのない鷺沢文香の席がきちんと用意されていたのだ。
冬木市内の某大学、文芸部に通う大学生。
叔父の営む書店の仕事を手伝ったり、本を読んだりして毎日を静かに過ごす文学少女。
友人は多くないし、人と話すのも目を合わせるのも苦手。
……親切なほど、文香にとって住みやすい環境が再現されていた。
住みやすいだけじゃ駄目だと、私はもう知っているのに。
綺麗なほど、元通りだ。
この時間を生きる文香に、ガラスの靴は届かない。
臆病な少女がシンデレラになり、輝くステージで舞い踊ることもない。
童話の成立しない世界。鷺沢文香という偶像(アイドル)の生まれない世界。
人前で歌うことも、踊ることもない。
苦手なことと向き合うこともしないで済む。
毎日学校に行って、本を読んで、店で座っていれば夜が来て、また次の日になる。
すっかり慣れた、楽な生き方だ。
それでも、文香は思う。
帰りたい。
自分の生まれた、あの二十一世紀に帰りたい。
今の私はもう、人と関わることから目を背けていた頃の弱い自分とは違う。
人に笑顔を与え、自分も笑顔になる。
そんな素敵な世界(ステージ)に、あの日自分は踏み入った。
硝子の靴を通行証代わりに、シンデレラ達のスターライト・ステージへ。
魔法はいつか解けてしまうのかもしれない。
それでも、その『いつか』は遠い未来の話だ。
いつかであって、今じゃない。
この過去で解けてなくなってしまうほど、あの日、あの人にかけてもらった魔法は弱くないから。
だから―――最初から、やるべきことは決まっていた。
「……ああ」
文香はまだ、何も言っていない。
本棚に新書を収める仕事を手伝っているその青年に、念話も送っていない。
なのに彼は――鷺沢文香のサーヴァントは、彼女の顔を見るなり、薄く微笑んだ。
苦笑や失笑ではなかったと思う。
どこか嬉しがっているような、懐かしんでいるような。
一言では語り尽くせない感情が綯い交ぜになった顔をしていた。
……そういえば、彼は前にも、『聖杯戦争』に参加したことがあると言っていた。
その時のことを彼は語りたがらなかったが……やはり、前のマスターを思い出しているのだろうか。
「君はそう望むんだね、マスター」
文香の瞳は、隠れていない。
彼女は小さく頷いて、口を開いた。
「私は……帰りたい、です」
聖杯を手に入れれば、全てが思うがままになる。
大それた欲望や野心とは縁のない文香だが、彼女の場合欲との葛藤とはまた別な形で、戦いに背を向けることを恐れていた。
聖杯戦争から脱出したいと口で言うのは簡単だ。
しかし、もしも、万が一。そもそも出口なんてものがなかったら?
この世界に呼ばれてしまった時点で、聖杯を手に入れる以外、抜け出す手段などないのだとしたら?
文香は聖杯など、別にいらない。だから聖杯戦争に参加する理由なんて、言ってしまえば何もない。
だが、そこに自分の命が掛かるとなったら話は別だ。
生き残りの座席は一つで、正攻法以外に離脱手段はない。
この状況を押し付けられて、迷わずそれでも戦わないと即答できるほど、文香は人間離れした心を持ってはいなかった。
自分の為に戦うか、あくまでも戦わない解決法を探すか。
その葛藤にようやく答えが出た。
こと鷺沢文香という偶像少女に限っては、答えなど、どの道最初から一つだった。
「……帰りたいんです。でも……やっぱり、戦いたくは……ないです」
それは信じるということ。
この昭和のどこかに、未来への扉がある。
そんな確証もない話を信じて、追いかけるということ。
聖杯戦争においてその思考は、まともではない。
聖杯を手に入れる以外の手段を模索する行為には、常に絶望の影が付き纏う。
『そんなものは何処にもない』という、昏い絶望が。
彼女のサーヴァント……バーサーカーは聡明な男だ。
己のマスターが無謀な方へ突き進もうとしていることは、はっきり理解できていた。
「僕は何となく、君ならそういう結論を出すだろうなと思っていたよ」
バーサーカーの適性を持つとは思えないほど、その声は柔らかく、優しい。
バーサーカーは文香を否定しなかった。むしろ、肯定的な感情をすら示していた。
「僕は……君の、鷺沢文香のサーヴァントだ。君がそう願うのなら、僕はそれにきっと応えよう。そして―――」
そこで、店の中へと一際強い風が吹き込んだ。
バーサーカーの声がかき消される。
文香は最後まで、彼がこの時何と言ったのかは分からなかった。
彼は、こう言ったのだ。そして―――今度こそ僕は、自分のマスターを日常へ戻す。
その台詞は、彼が以前参加したという聖杯戦争の顛末を物語っていた。
バーサーカーは、失敗した。
心優しい少年と共に青い夢を描き、破れ、散った。
そうして彼は此処に居る。
この異端の聖杯戦争で、心優しい少女の為の英霊として現界する。
今目の前でおずおずと座っている少女は、あの勇敢な少年とは似ても似つかない。
この子は正義の味方なんて柄ではないし、聖杯戦争にどう向き合うかもたっぷり悩んで決めた。
その向き合い方も、全く違う。この子は、聖杯戦争自体をどうにかしようとは思っていない。
ただ、帰りたいだけ。自分の生まれた時代、過ごした世界、開けた未来に帰りたい。
それだけを願っている。小説の主人公としては、少しエンターテイメント性が足りないか。
文香は、自分の座るテーブルの脇に平積みになった本にふと目を向けた。
バーサーカーに気付かれないよう、内の一冊を手に取る。
再び棚の整理に戻った彼がこちらに注意を向けていないことを確認し、頁を捲った。
何しろ有名な小説だ。
文学に造詣の深い文香は、当然その本を読んだことがあった。
有名なだけに衝撃的なストーリーだったから、今でもよく内容は覚えている。
―――かつて、一人の男が居た。男は紳士であり、悪鬼でもあった。
賢明で善良な人々の元で育ち、将来の健勝も保証されていた彼は、しかしある病的な一面の持ち主だった。
人間ならば誰しもが持つ享楽性と浅ましい欲望を、狂的と称されるほどに恥じていたのだ、彼は。
やがて彼は真理を確信する。善と悪。人間とは単一の性質から成るのではなく、二元的であると。
真理に到達した彼は、人の有する善悪の要素を分離させようと躍起になった。
彼が道具として選んだのは科学。科学をメスに、狂気の実験に手を伸ばした。
だが、その結果は大失敗。
男の中には彼が忌み嫌った『悪』そのものとでもいうべきおぞましい人格が生まれ、彼は徐々に、自らの生み出した『悪』に体も心も侵食されていく。
……哀れな男の最期は――そう、確か、錯乱の末の自滅。服毒自殺。
「ヘンリー・ジキル」
誰にも聞こえないよう、文香は彼の真名を唱える。
もしも彼が、小説の中のヘンリー・ジキル博士そのものならば。
彼もまた、その体の中に悪魔を飼っているのだろうか。
……或いはそれこそが、彼がバーサーカーとして召喚された理由なのかもしれない。
ヘンリー・ジキルは理性的で聡明な男だ。
正義感の強い彼は、サーヴァントとしてもほとんど無力に等しい存在である。
彼が本当にヘンリー・ジキルならば、……やはり居ない筈はないだろうと文香は思う。
善と誠実を憎み、悪逆をこそ愛する別人格。
一人の人間を壮絶な自殺にまで追い込んだ、悪の化身ともいうべきあの狂気(ケモノ)が。
文香はそこまで考えて、数頁ほど捲った本をそっと元に戻した。
表紙には、彼女を導くサーヴァントの真名。
『ジキル博士とハイド氏』―――彼らこそが、文香の運命を握るバーサーカー。
【クラス】
バーサーカー
【ステータス】
筋力B+ 耐久B+ 敏捷C 魔力D 幸運D 宝具C
【属性】
秩序・善/混沌・悪
【クラススキル】
狂化:?
ランク不明。
ジキル時には機能していない。
【保有スキル】
変化:B
肉体変化。
自己改造スキルと相俟って、彼の肉体はより強靭に、強大に変化する。
自己改造:A
自身の肉体に、まったく別の肉体を付属・融合させる適性。
このランクが上がればあがる程、正純の英雄から遠ざかっていく。
怪力:A
一時的に筋力を増幅させる。魔物、魔獣のみが持つ攻撃特性。
使用する事で筋力をワンランク向上させる。持続時間は“怪力”のランクによる。
無力の殻:B
精神と肉体がジキルの状態である間は能力値が低下し、サーヴァントとして感知され難くなる。
無力の殻を被ることで、内に眠る怪物は自らの存在を他者に勘付かせない。
【宝具】
『密やかなる罪の遊戯(デンジャラス・ゲーム)』
ランク:C+ 種別:対人宝具
ジキルから反英雄ハイドへと変化する霊薬。
幾つかのスキルを付与し、獣化とも言える変貌を遂げさせる。
特に高い耐久力をもたらす高ランクの「狂化」と、自分の肉体を状況に応じて最適な形態に変化させる「自己改造」によって、驚異的な生命力を発揮することが可能となる。この宝具を使用しないとサーヴァントとしては無力に近い。
服用には何らかの副作用(リスク)が存在する模様。
名前の由来は、ミュージカル版『ジキル博士とハイド氏』で演奏される曲名の一つ。
【weapon】
牙、爪
【人物背景】
整った顔立ちと翠色の瞳を持つ落ち着いた風貌の青年。
外見は小説におけるジキル博士よりは若く、高校生の巽よりはいくらか上といった程度。
「バーサーカー」という呼称が似合わない穏やかな雰囲気を漂わせるが、宝具の霊薬によって文字通りの狂戦士へと変貌する。
「ハイド」に変わると、狼を思わせる外見、背中を丸めた前傾姿勢、殺意に染まった赫い瞳など、魔獣にも見える異形となり、圧倒的な破壊衝動と殺戮衝動に従って動く。
だが完全な獣でもないらしく、セイバーの見立てでは「自ら意図して正気を失っている」との事。
また理性を失ってはいるが、マスターやセイバーの気持ちに応えようとするだけの意志は残っている。
生前の自分が悪心に流され、悲劇を引き起こしたことを悔いており、今度こそは「正義の味方」でありたい、という願いを胸に召喚された。
しかし、悪の想念の一端として召喚されている自分では正義のために戦うことなど出来ないのだという諦念のようなものも抱いている。
【サーヴァントとしての願い】
マスターを脱出させる
【運用法】
無力の殻スキルによって、正体を勘付かせずに潜伏することが可能。
いざとなれば霊薬を服用して強力な力を手に入れられるが、原作のように複数のサーヴァントを一度に相手取るような真似は避けるのが賢明だろう。
【マスター】
鷺沢文香@アイドルマスター シンデレラガールズ
【マスターとしての願い】
平成に帰りたい
【人物背景】
穏やかで人付き合いの苦手な、典型的な文学少女。
しかしプロデューサーとの出会いが発端となり、彼女はきらびやかな世界に足を踏み入れることとなる。
【把握媒体】
バーサーカー(ヘンリー・ジキル&ハイド):
原作小説。
鷺沢文香:
『アイドルマスターシンデレラガールズ』及び『アイドルマスターシンデレラガールズ スターライトステージ』。
台詞の把握は各wikiで可能なため、把握は比較的容易。
最終更新:2016年07月05日 16:23