薄汚れた地面に立っている。
空は暗い。時刻でいえば黎明に入っているだろう。
部屋の各所に置かれたランプだけが、この場所の光景を照らし映している。

……多くの人が倒れていた。
血に塗れたままの軍服を着た男。
顔や手足に包帯を巻かれた"患者"達。
弾丸を排出した薬莢と同列にうち捨てられた、用済みの不良品。

此処は病院だ。
戦地の付近に建てられた看護の施設。
傷ついた兵士を運び、その傷を癒し、再び戦地へ送り出すための循環器。
同類での殺し合いを辛くも生き残った者を、再び殺されに向かわせる峠道だった。


―――在り方として。
此処は底無しの沼だった。
逃げ道を封じられ、もがいてももがいても手足は大地にかからない。
息をするだけでも苦しい。生きている行為に痛哭したくなる。
助かる見込みなんてちっともないのに、どうして脳(しこう)を回さなければならないのか。

やがて手足も動かなくなる。声すら出ない。
煩わしい。さっさと終わらせてくれ。
もうじゅうぶん苦しんだのに最後の瞬間すらこんなにも遅々とするなんて。

どうして。どうして。どうして。どうして。



どうして、すぐに■なせてくれない?




疑問が掃き溜められる。
叫びが響き渡る。

病院に運び込まれるのは既に死んだ者ではなく傷ついた者だ。
手足が吹き飛ぶような怪我人も多いが、すぐ死に至るような事はない。
正しい処置をすれば助かる見込みはある。
しかし彼らは知らなかった。
戦場で頭蓋を撃ち抜かれて死ぬのが、傷口を放置して死ぬより万倍も慈悲ある死に方だと。


病室はうめき声で満たされていた。
誰かの泣き叫ぶ声が消えrる間が一時間もあれば奇跡だ。
生きてきても苦痛が延びるだけ。
四六時中、彼らは常に同じものを求めている。
自由に動かぬ体を、肉の内側から腐る痛みを忘れさせてくれる鎮痛剤を欲しがった。


化膿による熱で意識が朦朧としている男が、何度もうわ言を呟いた。

「はやく、はやく、はやく」

蛆と蠅がたかっていく身に恐慌した男が口角に泡を飛ばして叫んだ。

「頼む、頼む、頼む」

全身を包帯で覆われ身じろぎひとつできない男が涙ながらに懇願した。

「どうか、どうか、どうか」




「■してくれ」




比較的健常であった兵士が、耐え切れず男達の前まで飛び出す。
震える手で注射器を突き刺して、男達に薬を投与する。

男達の目に涙が浮かぶ。
瞬く間に消えていく痛みに天に昇る恍惚を得る。

「ありがとう」

「ありがとう」

「■してくれて、ありがとう」

繰り返される感謝。
戦場で味方を失い、自身も傷を負った兵士は、最期に誰も恨まず喜びのうちに、生を手放した。




――――――地獄を見た。


此処では死者が溢れているのではない。
生を拒み、死を喜ぶ。
生ある者が、死に至る事を望んでやまない。

常識と価値観が反転した世界。
腐敗しながら叫喚する生ける屍。

そこに在ったのは、地上に具現した生き地獄だった。




◆ ◆ ◆






「ウ――――――シロウ。起きてください、シロウ」


懐かしい呼び方をされている。
自分を起こす声に誘われて眠りから目覚める。
僅かに開いた扉から差し込んでくる外の光に、開けた目を細める。
……遠い夢を、見ていたようだ。


「あと二秒で起きなければ耳元で撃ちますよ」
「―――ッ!?」

とんでもなく物騒な言葉に飛び起きる。
眠気などすっかり吹き飛んだ。寝耳に水とはこのことだ……文字通りの意味で。


眠っていた体を起こして周囲を見回してみる。
冷えた朝の空気。
鎮まった、暗い土蔵の中。
散乱している用途不明のガラクタ多数。
勝手知ったる我が家の土蔵に安心する。
そして目の前に座る、見知らぬ/懐かしい女性を見て、認識を正しく調整した。


その姿を見て、真っ先に印象に浮かぶ言葉を探すならば、鉄だ。
長く結わえた銀灰の髪。背筋を伸ばし傍で佇む姿勢は、どこから見ても楚々とした淑女のそれだ。
着ている赤と黒を基調にした軍服は厳めしいものの、その下の肢体が鍛え上げられているようでもない。
服の上から覗く体は、妖艶とも違う、女らしさに満ちた魅力を保っていた。

そうした清廉な要素の悉くを、緋色の瞳が塗り潰し、一色に染め上げている。
飛び火しそうなほどの、燃え盛る炎。
絶対に挫けることなく、誰であろうと告げるべき言葉を告げる強靱な精神。
収まり切れぬ激情が瞳から漏れ、彼女と相対するだけでその揺るがぬ信念を認識しなければならなくなる。

砕ける想像を許さない、固すぎる不屈性。
おそらく万人が彼女に抱く、第一印象だ。
人の姿をした鋼鉄がそこにいた。

「……ああ、おはよう。今日も早いんだな」
「私にとっては平均的な起床時間です。
 それよりも、です。また私の指示を無視しましたね?」

小鳥さえずる爽やかな朝に似合わぬ、厳しい剣幕。
瞳の奥が燃え上がっているのがひしひしと感じられる。
……ほんの僅かな付き合いでしかないが、こういう時、彼女がどういう感情なのかはすぐに読み取れてしまい――――――。

「えっと、それは、だな」
「こんなガラクタと埃にまみれて閉め切った部屋で寝るとは何事ですか。
 しかも下に何も敷かずにいるなど……自分から病気にかかろうとしてるとしか考えられません」
「いや待った、確かにここで寝る日は多いけど、これでも風邪にかかったとかは一度もなくてだな」
「その認識が甘い!病気とはその日の体調によってすぐにかかるものです。
 根本的な治療法とはすなわち予防です。はじめから病気になりやすい環境に身を置かないしかないのです!」

やはり、とても怒っていた。
出会った最初から理解させられている。
この同居人が、病的なまでの強い潔癖な性根であるということを。
不衛生は許さず。不養生に怒る。
不健康には有無を言わさず押し込めようとする。
とにかくも強烈な個性なのだ。
普段でも家事には気を遣っている方であるが、あちらの基準値には程遠いようだ。

健康を気遣った、厚意からくるものだとわかってはいるのだが。
……流石に、気疲れが溜まる。
家中がエタノール漬けになっていた日には、本当にどうかと思ったし。



「わかった、わかったってば!俺が悪かったです。
 今度はちゃんと部屋で寝るから怒るなって。
 それでいいだろ―――バーサーカー」

当たり前のように自分の口を出た言葉。
……巌の如き大男のイメージ。
あの巨躯と比べれば目の前の女性を同じ名前で呼ぶのには、やはりどうしても違和感が付き纏う。

「どうしました」
「あ、いや。どうもそう呼ぶのに慣れなくてさ」
「私の名に大した意味などありません。あなたが私に対してどう感じようとも勝手です。
 フローレンスでもナイチンゲールでもメルセデスでも、お好きなように」
「……なんでメルセデス?」
「はて、何故でしょう。ふと思いついただけなのですが」

小首をかしげる仕草。
背筋を伸ばした姿勢。
こうして見ても、どこをどうとっても淑女のそれにしか映らない。
狂戦士の位(クラス)の名にはとても似つかわしくない、鉄の意志がこもった眼を持っている。
色々な意味で、憶えていた知識とは違う規格外であるらしい。

フローレンス・ナイチンゲール。
異名をクリミアの天使。小陸軍省。
看護師という職業そのものの社会的地位向上に貢献した、近代看護教育の母。
サーヴァントという、時代の垣根を超えた英霊の現身。

それが俺―――衛宮士郎がこの世界で出会った、新たな星の名前だ。


「起きたのならば、着替えを。すぐ食事にしましょう。
 一日の健康は朝の食事にあります。残さず、しっかりと」

苦い味が、口内の下で蘇ってきた。
主に、薬的な刺激臭とかの。

「あのさ。料理を作ってくれるのはありがたいんだけどさ、その。
 テーブルどころか食器ぜんぶ消毒液まみれってのは、それもう料理として駄目だと思うんだが」
「口につけるものを消毒するのは当然では?」
「…………限度を考えてくれ」

料理自体は家庭的で美味しいんだけどなー……。
英国料理というまだ手の出してない新たな境地だけに、実にもったいない。
もったいないのだから、是非とも活かして欲しい。
せめて、消費する消毒液をバケツ一杯なのは改めて頂かなければ……!

と。
唐突に動きを停止して土蔵を見回した後、一人でぶつぶつと呟き始めた。

「――――いえ、そもそもこの部屋の衛生状況を改善すればいい話でした。
 いずれ、などと悠長に言っている暇はありません。今すぐ念入りに清掃する必要があります。
 シロウは先にシャワーで体の洗浄を。埃を家に持ち込んでは朝に清掃した意味がありません。
 ええ、つまり私に任せておきなさい。大丈夫よ必ず改善してみせるわ」

こちらの声など耳にも課さず。
完全に自己の世界に入ってしまった看護師は、ひとり決意を新たに土蔵を去っていった。


「結局、全然人の話を聞かなかったな」



言葉は理解できているのに、会話が成立していない。
間違いなく他者を認識しているのに、それと意思疎通する意思を放棄している。
獣のように、はじめから理解できない存在と見るよりもよほど苦労する。
確かに、彼女はバーサーカーなのかもしれない。
俺が知る聖杯戦争と随分違うが、中にはそういう形もいたのだろう。

「俺が知っている聖杯戦争――――か」

第五次聖杯戦争。
冬木という霊脈の地で人知れず続いた、願望器を賭けた殺し合い。
マスターである魔術師と英霊であるサーヴァント共に戦う。
かつて自分が巻き込まれ、戦うと決め、生き残った熾烈な過去。
そこまでが、幻や記憶を操作されたものじゃないと確信できる、自身の体験と事実だ。

ここから先は、違う。
脳に無理にねじ込まれていたような、歪な記憶を思い出す。
ここは冬木市であって、冬木市ではない。
別の都市。別の世界。
俺が生まれ、死に、生きてきた土地とは離れた―――けれど冬木と呼ばれる都市。

ここは聖杯戦争の為の世界。
俺が知るそれとまた違った、新たな聖杯を求め殺し合う舞台だ。

衛宮士郎の運命の始まり。
越えたはずの過去が、再び目の前に現れている。


「本当に、ここでまた起きるっていうのか」

どうして、俺がこの世界にいるのか。
なぜ、再び聖杯戦争に巻き込まれたのか。

その理由、経緯は一切分かっちゃいない。
足りないものが多すぎた。
あの頃よりは少しは成長しているといっても、まだまだ半人前の魔術師からは脱せてないのが現状だ。

自分だけで全てを知るなんて到底無理な話だろう。
未熟も半端も承知の上だ。
理想に届かない非力さなんて、これまで散々思い知らされた。
それでもこうして生きていられているのは、見捨てず並び立ってくれたからに他ならない。
気高くも小さな背中の、青い騎士。
騎士の英霊に何度も助けられて、どうにかこの身はここまでこれている。

魔術の師も、かつて伴った英霊もいない。
けれど今も、少なくとも一人ではない。
けど常にこちらの身を案じてくれている、少し奇妙な英霊の看護師が―――

「っとまずい。はやいとこ風呂に入ってないとな」

立ち上がって足早に風呂場へと向かう。
戻ってきた時にまだいたら、たぶん怒られるだけじゃ済まない。
腕根っこを掴まれ、強制的に体を洗われてしまう。
それは流石にまずい。
とても……タイヘンなことになるので。
適当に放っていた工具を整理してから、急いで風呂場へと向かった。









衛宮士郎(こちらがわ)から見る、昭和五十五年の冬木の街は平和だった。
今まさに聖杯戦争が起ころうとしてるのにおかしい感慨かもしれないと思うが、とにかく今までの冬木市は間違いなく平和だった。

直に体験した第五次聖杯戦争。
都市ひとつの内に、一国を落とす英雄が七人も詰められた蟲毒の壺。
その、十年前にあった四度目の聖杯戦争よりも、今はさらに前の時代だ。

過去の大戦の傷も癒え出し、国の復興をバネに発展していく経済。
疲れを知らぬサラリーマン。時間の概念を忘れたように昼も夜も止まらない街。
一喜に熱狂し、一憂に狂騒する。
数年後に泡立つ景気向上に騒乱する。
人の情熱が社会を猛スピードで先に押し進めていく、そんな時代。

どこも、自分の知る冬木とは異なる顔を見せていた。
幸いというべきか、住んでいた家は変わらぬ場所にあった。
一人で住むには広大な武家屋敷。
庭に置かれた土蔵。
もとから時代から取り残されたような邸宅だったから、今も違和感なく過ごせている。
地元の極道の組長から買い取ったという設定も世襲されていた。
しかし。雷画のじーさん。この頃から顔変わってないんだな……。
ただ、年齢的には生まれていていいはずの孫娘の存在だけは、どうしても見つからなかった。

少し古めかしい学園で授業を終えた後。
下校してから、いつもより不便な電車を使って新都に向かう。
といっても、まだ都市と呼べるだけの形には程遠い開発途中の地区だ。
今も工事の音が鳴り響く場所をつたって、そこに着く。

新都住宅街予定地のど真ん中。
外装すら出来上がってない、工事の壁で仕切られた空白の地帯。
ここには近々、市民会館を建てるらしい。新都開発計画の目玉のひとつだとか。


最も大きく差異を感じられたのは、この場所だ。
……十年前に起きた、聖杯戦争による火災は当然起きていない。
冬木の歴史の書や昔の新聞を調べても、町を崩壊させるような聖杯戦争絡みと思わせるような災厄については書かれてはいない。
何事もなければ、この土地の上に立派な会館が立つのだろう。
怨念が染み付いた、戦地跡じみた公園が造られることも、きっとない。

聖杯戦争の起こらなかった街。
ただそれだけの事実。元の世界と関わる事もない彼岸の出来事。
けどそれが、とても尊いものに思えてならない。

あの火災も、あの犠牲者も、ここでは生まれる未来に繋がる事はない。
過去を無かった事にしたんじゃない。
そんな過去が、始めから無かった世界線。

そんな世界が、何処かにはあった。
彼らは、あんな末路を辿るしかなかった命じゃない。
俺達は、あの地獄で死ぬしかなかったわけじゃなかった。


「ああ―――それだけで十分だ」


本当に意味がないことだけど。
自分にとってこの世界は、間違いなく平和だった。


そんな場所で、また聖杯戦争が行われようとしている。
いや、またとは違う。
この冬木市では聖杯戦争は初めての儀式だ。
二度目と感じるのは自分だけ。
そして一度知っているからこそ、予感する事がある。
暗闇の教会で知った、聖杯の正体。
黄金の杯からこぼれる、人殺の念だけで構成された黒い泥。
人を呪い、不幸を齎す過程を通らなければ叶わない狂った願望器。
あの惨劇を、あの地獄を、"悪意"の顕現としか言い表せないモノの誕生が、聖杯の真実だ。

あるいは、ここにあるのは本当に奇跡を起こすのかもしれない。
この世全ての悪(アンリマユ)と呼ばれた灼熱の泥とは違う、正しく人の願いを叶える願望器。
アインツベルンも関わってないとしたら、それがある可能性は捨てきれない。
なら間違いのない完全な聖杯であるとするならば、この戦争は果たして許されるのか?

「そんなわけ、ないよな」

そうだ。
たとえ聖杯が本物でも、行われるのはサーヴァントによる殺し合いだ。
英霊一騎だけでどれだけの被害を街に与えられるのか、その危険は身を以て体験している。
まして、この聖杯戦争はまともな魔術師だけが集められてる保証もないのだ。
求めたわけでもないのに、有無を言わさず強制的に召喚し殺し合いを強要する。
……元の世界でも意図してマスターになったわけではないが、今回はさらにタチが悪い。
かつての自分のような、何も分からぬままマスターにされた人が大勢いるかもしれないのだ。
前よりも何倍も酷い事態になる、最悪の未来が思い浮かぶ。
それは、何としても阻止しないといけない。

二度目の聖杯戦争でもやるべき事は変わらない。
聖杯を認めない。殺し合いを阻止する。
十年前の悲劇も、十年後の災禍も。
ここで起こすわけにはいかない。

別の世界。
自分とは本来関わりのない土地。
……けれど、多くの人が生きている場所。
笑顔を見せて、未来を見据えて日常を戦っている。
それで十分だ。
戦う理由ははじめから持っている。

何故ならこの身は。
衛宮士郎は、正義の味方になると決めたのだから。


「俺はこの道を進むよ。
 おまえも、そうだよな―――セイバー?」

今も鮮明に思い出せる、黄金の別離。
失くしたものの大きさと、残ったものの尊さを憶えている。

黄昏に瞬く星を見上げる。
目指す先は違えていない。
去りゆく背中も、消えゆく笑顔も、最期に残した言葉も―――。
忘れない限り、目指す道を違える事は無いだろう。

「そうなると、まずはむこうの説得か」

踵を返して家路に着く。
急がないと、家で待っている人にまた責められてしまいそうだ。
腕を組んで告げるべき弁明を考え始める。

召喚されるサーヴァントは聖杯に託すだけの願いを持つ。
彼女もまた、それを持っているのだろう。
白衣の天使と呼ばれた、兵士を癒し続けた看護師。
不自由のない恵まれた階級にいながら、卑賤と見なされていた職を望み戦場に向かった。
史実の通りのナイチンゲールであるなら、その願いは決して、邪悪なものではないはずだ。
サーヴァントとの付き合いはそれなりに分かっているつもりだし、上手く納得させられればいいが―――



◆ ◆ ◆





終わった場所を、瓦礫の山から眺めている。



火の荒野。
灰の街。
平凡な町に降り注いだ、悪意という名の災厄。
相次いでいた怪事件で怯え切っていた住民へ、その火事は止めの幕引きとなった。

火の手は、生きている者全てに平等に広げられた。
灼熱にくるまれ、瞬く間に死んだ男。
肺が爛れ、酸素を求めてあえぎながら死んだ女。
崩れた瓦礫に潰され、隣で小さくなった家族の名を叫びながら死んだ老人。
殺戮はわけ隔てなく。
その場で起こりうる限りの死に方を余さず網羅させた。


赤い世界の中で、唯一動く影がある。
十にも満たぬ歳の少年だった。
一様に黒くなった人の残骸の中で、色と原型を留めてるのは彼のみしかいない。
よほど運が良かったのか。
それとも運の良い場所に家が建っていたのか。
どちらかは判らないが、ともかく、彼だけが生きていた。

あてもなく荒野を歩き続ける。
生存の意思も、死の恐怖も、その顔からは窺えない。
体は生きていても、心は既に砕かれていた。

歩いていく途中で、少年は何人もの死を見てきた。
災害はくまなく生者を呑み込んだが、全員が一瞬で死に絶えたわけではない。
一分後には酸素を失い、あるいは家屋の倒壊で死ぬとしても、最期の時が来るまでは彼らは生き続ける。


「助けてくれ」

力を振り絞って叫ぶ。

「どうかこの子だけでも」

母親が抱いた我が子を差し出してくる。

「いっそ死なせてくれ」

一刻も早い終わりを求められた。

「――――――――」

声はとうに出ず、用を為す視線だけで願いを訴えてくる。


その全てを、少年は見捨てた。
自分が生きたいが為に。
あるいは、もっと強い気持ちで、心がくくられていたからが為に。

はじめから少年に助ける力など無い。
そもそも、自分の命すらいつ消えるか分からない状態なのだ。
家族もいない子供に、他者に手を差し伸べる余裕などあるはずもない。
……少年は完全な被害者であり、優先して救われるべき対象だ。
なのに生き永らえる代償に、心がなくなるまですり減らして、彼は加害者に成り替わっていった。




――――――地獄を見た。

命の蹂躙。
死体しかない世界。
泣き叫ぶ悲鳴、あらゆる苦痛で彩られた世界。
悪夢のような紛れもない現実。
地獄としか言いようのない光景。

だが少年にとって、生きている今こそが、永遠に終わらぬ地獄そのものだった。







「却下します」

思考の間があったかさえ疑わしい速攻の返答であった。

「何度言われようとも意見は変わりません。
 私は、あなたが戦闘に参加する事を認める気はありません」
「……なんでさ」

ぴしゃりと、はっきりとした言葉で断られた。

夕食後。
あくまで個人的な所感で―――気が抜けたと見た隙を見ての提案だった。
聖杯戦争についての話……マスターとして過去戦った来歴を明かして、
聖杯を求めないと方針を伝え、
具体的な行動として町の見回といった街の巡回を行う。

なのに結果はあらゆる弁解も受け入れぬ。
正座で座るバーサーカーは、湯呑を固く掴み、旧来の怨敵を見るかのような厳しい目でこちらを睨みつけている。

「そもそも、まだ戦うなんて言ってないぞ。町の見回りとかして異常がないか調べようってだけだろ」
「あなたが本当に一度聖杯戦争を経験しているのだとしたら、その傾向は分かっているはず。
 その結果として戦闘行為になると知ったうえでの発言と理解していますか?」
「うぐ……」

あまりにも理性的に反論され、ぐうの音も出ない。
やっぱり、本当にバーサーカーなのか?
何度目かの疑問を抱きつつ、胸にしまう。

「巡回等の活動まではよしとしましょう。ですがその際に戦闘になれば、あなたは必ず前に出る。
 戦場を無傷で帰還できる兵士などいませんが、あなたの場合、戦場へ向かう事自体が傷を生む行為になる。
 自ら戦場に突出して、傷を負う……それがわかっているからあなたを止めるのです」

難色を示されるかも、とは覚悟していた。
聖杯を要らないマスターに従えはしないと。
けれど彼女はそこには一切触れず、どういうわけか"衛宮士郎が戦う事"に関して激しく食ってかかったのだ。

「私は看護師です。戦闘行為に関しては本領ではありません。
 看護師の役目はただひとつ。病める者、傷つく者を癒すこと。もしくはその発生源たる病気を根絶すること。
 サーヴァントだろうと聖杯戦争だろうと、この方針に揺るぎはありません。
 聖杯に託す願いなど……私にとっては意味を持たない行いです」
「意味を、持たない?」

聖杯に願いを持たない、という事より。
その後の言葉に、耳を引かれた。

「夢と願いは別のもの。願いを夢と口にすれば、現実には起こり得ない遠い出来事と認めるようなもの。
 私の願いは夢ではないのです。諦観を突き付けてくる現実を叩き潰し、踏みにじる―――その後に必ず実現すると信じているものです」

願いを、叶わぬ空想事と捉えない。
嵐の中の荒野を彷徨うような苦悩の行程でも、一歩一歩歩けば辿り着ける場所だと。
奇跡ではなく、現実に起こる結果をこそ彼女は願っている。

それは正しい。
そのあまりに遠い未来を、疑いなく信じて進んでいる事を除けば。

「あなたはこの聖杯戦争を止めると言った。
 ここで起こる、負傷者を生み出す戦争を阻止すると。
 つまりこの現状を生み出した元凶、病原を見つけ出し治療すると。
 その点についてのみなら我々の目的は一致しています。
 私は傷病を撒き散らす聖杯を許さない。あなたは戦争を起こす者を認めない。
 全ての毒あるもの、害あるものを絶ち、悪性の腫瘍を徹底的に粛正する。
 マスターであるあなたを司令官とし、その指示に従う事も吝かではなかったでしょう」
「なら―――」

一緒に戦えるんじゃないのか。
口にしようとした言葉を、次の台詞が遮った。


「ですがそれは、あなたが健常者であった場合です。
 患者を戦わせる看護師が、何処にいるというのです。
 心を病んだ司令官に軍を率いさせるほど、私は無思慮ではありません」

途端。
部屋の空気が重く粘ついて、ひどく息苦しくなった。
不快さを胃の中身ごと吐き戻したくなるのをこらえる。

「私が召喚されたということは、ここに治療を求める者がいるということです。
 サーヴァントとは己が信念を貫き通した者であると私は考えます。
 そして私の信念とは即ち、傷病者を一人でも多く救うこと。
 そして――――召喚された先に、あなたがいた」

彼女が、バーサーカーが真正面からこちらを見る。
どこまでもまっすぐに見る視線に、目を逸らしたくなる。
肺よりも奥を、手で暴かれているような悪寒。
……何故か。
似ても似つかないヤツの顔が目に浮かんだ。

「エミヤシロウ。聖杯戦争の被害者であり勝者。
 あなたの傷を癒すのが、今の私の役目です」
「――――傷?」

鋼の看護師(ナイチンゲール)は変わらず鉄面皮のまま。
末期の患者に余命を宣告するような、厳粛な声で言った。

「あなたは、病気です。
 戦争に魅入られ、死者に憑かれ――――呪いを刻まれている」


ズグ、と。
心臓を掴まれる音を聞いた。


忘れられない、鮮烈な痛みがフラッシュバックする。
膿を吐き出されたのにまだ痛む古傷を、改めて切開されたような。
精神の芯に触れてくる、容赦のない治療(ことば)だった。

ああ。
知っている。
知っているとも。
この痛みは、俺が生涯忘れてはいけないものだ。

自分を省みず他者を助ける。
人助けそのものを報酬とする、その精神と末路。
その歪みとその根源。
俺はあの時、突き付けられたのだ。

「あなたのような人を知っています。
 形の無いなにかに急き立てられ、戦うことしか、誰かを救うことでしか自己の生存を許せない。
 軍に屈せず、家族の涙すら省みる事のなかった愚か者を知っています」

それは、誰の過去を語っているのか。
いま語る彼女は……その人を、どう思っているのだろうか。

「このままでは、いずれあなたは命を落とす。
 誰にでも訪れるような平凡で平和な死とは程遠い―――
 伸ばす手は届かず、何の手立てもなく、救いようが無くなる。
 目の前に居ながらそんな結末を迎えさせる未来を、私は心より恐れます」

無人の荒野。
夢に見た、或る英雄の最期。
死で隆起した、剣の丘がイメージされる。


折れた理想。
砕けた幻想。
報酬を求めず他人を救おうと戦い続けた人間が迎える、終わりの光景。

「あなたは病気です。ならば治療を受けなければなりません。
 自ら死に向かおうとする者を、私は決して容認しない。
 たとえあなたの命を奪ってでも――――あなた自身の命を尊ぶようになれるまで、私は必ずそうします」

狂気そのものの言葉だった。
殺してでも命を救うと、本気で彼女は言っている。

彼女は俺を憎んでいない。
治療するべき患者、救うべき人間だと見做している。
だがそこに妥協はない。身を削るほどの熱意と願い、人間への計り知れない愛。
"自身の手に携わる命を漏らさず救いたい"――――それだけが彼女を突き動かしている。

だからこそ、彼女はバーサーカーなのか。
正気が失われているのではなく、ひとつの思考以外に思考が働かない。
狂戦士のクラスで召喚されたからこうなったのではない。
ここまでの狂気を抱えて戦場を駆けたからこそ、この姿で呼び出された――――。

それは尽きない慈悲であり、理解されぬ傲慢だ。
その功が認められ偉業と讃えられるまで、どれだけの苦難が降り注いだのか。
それすらも意に介さず、彼女は進み続けたんだ。
何故なら求めたものは自分の幸福ではない。そんなものはとうに捨てている。
だって、それは――――



「――――そうか、そうだよな」
「理解していただけましたか」
「ああ、あんたが凄くいいヤツってのはよくわかったよ」

心からの気持ちを伝える。
出会って間もない男の、癒えない傷を見つけ、本気で治そうとしてくれてる人へ。

「俺はどこか間違えてる。ああ、それはその通りだ。
 そのせいで大切なものを、自分の幸せってやつを取りこぼしてしまう。
 病気だと、そう言われても仕方ないかもしれない」

自分を顧みず他人の救命に命を懸ける姿勢への敬意があるからこそ。
結果がどうあれ、本気の言葉で応えなければいけない。

「けど、それでも俺は―――今までの自分を間違ってなかったって、信じてるんだ」

あの日失われた、痛みと重さを抱えて。
今も残る傷を、有り得ない嘘にしないため。


「この道は曲げない。たとえ偽善に満ちた人生だとしても、迷わないと決めた。
 俺は正義の味方になる。これ以上、聖杯で生まれる誰かの犠牲を出させない。
 自分の未熟さはわかってる。俺の力だけでこの戦いを止められるようなものじゃない。
 だから頼む――――力を貸してくれ、バーサーカー」

「――――――――――――」

静謐が部屋を包む。
俺の言葉を、どう受け取ったのか。
バーサーカーは無言のまま、しかし険しい目つきを変えずこちらを見たまま。

「ひとつ、誓約をしなさい」

これまでの苛烈さとうって変わった、静かな口調で答えた。

「必ず生きてください。
 どれほどの苦境、死が安楽に思える絶望の只中にあっても、死ぬ道を選ばないこと。
 同様に、自分から死に飛び込むような真似を犯す愚かさを、決してよしとしないこと。

 それさえ守って頂ければ、私はあなたを必ず生かします。
 生きている限り、あなたの傷を私が癒す。
 折れた膝を支え、砕けた肩を補強し、こぼれ落ちる臓腑を拾い集め、
 何度でも何度でも何度でも、あなたを死の淵から引き上げて見せます」

"どうか、生きて―――"

あまりに単純な、ありきたりな願い。
死など許さない。
苦痛の解放という甘美に縋る己をこそ殺せと、鋼の心は告げる。
……確かに、辛い。
この身には、鎖のように絡みつく重い言葉だ。


「――――ああ、わかってる。死ぬつもりで戦ったりなんかしない。
 それじゃあ、これからもよろしくな」

約束の証の代わりに、右手を差し出す。
伸ばされた掌は、しかし何も触れないまま宙に浮く。
バーサーカーの手はただ沈黙していた。

「……その手は受け取れません。
 治療行為以外で患者と握手をするのは、その人が無事に退院する日だけと決めているのです」

空の右手を見つめ、そう返された。
回復した患者が手を握り、自分の元を去っていくのが証なのだと。

「あなたの心身に残る傷が快癒した時――――改めて、その手を取りましょう。
 ですので、どうか私の目が離れぬ場所で死なぬように」

だから、もし、その時が訪れなければ。
狂気に染まっていない、彼女の本来の素顔も見る事は無いのだと。

それが少しだけ、哀しいといえば哀しかった。









少年は希望に出会った。

この地獄を覆して欲しいという願い。
あの災害に巻き込まれた誰もが抱き、自分だけに伸ばされた腕。
……その顔を覚えている。
眼に涙を溜めて、生きている人間を見つけ出せたと、心の底から喜んでいる男の姿。
死の直前の少年が羨ましいと思うほどに、これ以上ない笑顔で感謝を口にして。
生きていただけで、それ以外が空っぽだった少年は。
その夜に、希望と呪いを同時に受け取った。




女は自ら希望と成った。

何処にも救いなどない。
戦死者はとめどなく、明日に光が見えぬ負傷者は次々に死を望んでいく。
……ならば自分が希望を生もうと誓った。
誤った医療知識。腐敗した軍の横行。
その全てに敢然と立ち向かった。
体は幾度と傷つき、されど心は一度として折れることなく。
人を助ける、それだけの機能と化した女。
希望も呪いも背負い、彼女は今も死と戦い続ける。








世界には無数の地獄が在り、それと同じだけ希望が在る。



【クラス】
バーサーカー

【真名】
ナイチンゲール@Fate/Grand Order

【ステータス】
筋力B+ 耐久A+ 敏捷B+ 魔力D+ 幸運A+ 宝具D

【属性】
秩序・善

【クラススキル】
狂化:EX
 理性と引き換えにパラメーターをアップさせる。
 人格を有し会話も可能だが、患者の治療を何よりも優先し、(恐らくは)生前と違い「人の話を全然聞かない」。
 落ち着いた表情で言葉を話すが、すべて”自分に向けて”言っているため意思疎通は困難。
「私が来たからには、どうか安心なさい。全ての命を救いましょう。
 全ての命を奪ってでも――私は必ずそうします」

【保有スキル】
鋼の看護:A
 地獄の如き戦地でも彼女は決して治療の手を止めなかった。
 不眠不休で働き、手足を切り刻んで出ても患者を生かし、死を意識する事すら許さない。
 治療スキル。魔術の類はあまり絡まず直に手術する。
 「本格治療を開始します。覚悟は、宜しいでしょうか?」

人体理解:A
 死を許さぬ彼女は人体の死を熟知している。
 どこまで傷つけば死に至るか。どこまで切っても死なないかの境を正確に把握する。
 特攻スキル。人体ならば肉体面のみならず精神面での問題すら見抜く。
 「貴方には治療が必要です、おとなしくして。痛みは、生命活動の証です。」

天使の叫び:EX
 彼女の声はあらゆる法も妨害も跳ね退ける。
 全ては治療を進め傷つく人を一人でも救う為。
 強化スキル。不屈の精神を持つ者の言葉は聞く他者にも伝播される。ある意味でそれは天使の御業。
 「命を!救うためなら、私は何でもするわ!ええそうよ、何でも!!」

【宝具】
『我はすべて毒あるもの、害あるものを絶つ(ナイチンゲール・プレッジ)』
ランク:C 種別:対軍宝具 レンジ:0~40 最大捕捉:100人
 戦場を駆け、死と立ち向かったナイチンゲールの精神性が昇華され、更には彼女自身の逸話から近現代にかけて成立した
 「傷病者を助ける白衣の天使」という看護師の概念さえもが結びついたもの。
 効果範囲内のあらゆる毒性と攻撃性は無視される。強制的に作り出される絶対的安全圏。回復効果も兼ねる。
 視覚的には、巨大な白衣の看護師が現れ大剣を振り下ろす工程だが、見た目に反して攻撃効果はない。
 「全ての毒あるもの、害あるものを絶ち!我が力の限り、人々の幸福を導かん!」

【weapon】
徒手で殴る、引っかく、蹴る、銃で撃つ。
これらは全て彼女にとっては、消毒、殺菌、治療行為である。
「清潔!」 「消毒!」 「殺菌!」「緊急治療!」

【人物背景】
「病気を許さない者」。
フローレンス・ナイチンゲール。
信念の女。絶対に挫けることなく、たったひとりの軍隊とでも言うべき不屈性の持ち主。
彼女にとっての天使とは「美しい花を撒く者で無く、苦悩する誰かの為に戦う者」を表している。
退院する患者の手を握るのがささやかな楽しみ。病める人が健康になることこそが彼女の報酬である。
記憶を失うと淑やかで心優しい女性になるとか。

【サーヴァントとしての願い】
戦場にいる負傷者と罹患者を救う。この舞台に巣くう「病原」を完全粛正する。
現在の最優先治療対象は衛宮士郎。

【運用法】
「聖杯戦争に勝つ為の運用」は不可能。諦めよう。
ただステータス自体は高くスキル宝具で継戦能力も高い。
聖杯戦争を止めるという目的ならある程度協調可能だろう。
それでも傷病者を治療する為にとんでもなく活動的なのでついてこられるだけの根気が要る。
彼女を従えられるとしたら彼女を超える信念―――彼女以上の狂気を持つ者だけだろう。



【マスター】
衛宮士郎@Fate/stay night

【マスターとしての願い】
聖杯戦争を止める。

【weapon】
主に投影による武器

【能力・技能】
基本的な魔術はなべて不得手だが、「投影」に関しては並はずれた才能がある。
通常では数分間で形だけのところを、本物に限りなく近い精度で製作し、かついつまでも消滅しないなど常軌を逸している。
宝具の投影も可能とし、性能や魔力、製作者の信念、使い手の技量すら再現する。
本来衛宮士郎に使える魔術はただひとつであり、投影や強化、物質解析といった才はそこから零れた副産物に過ぎない。

【人物背景】
「錬鉄の魔術師」。
正義の味方を目指す魔術使い。
幼少の大事故、亡き養父との誓い、多くの因縁が彼を鋼の道へと向かわせた。
運命の夜―――ある騎士との出会い。
共に駆け抜けた第五次聖杯戦争。
己の傷を知り信念を確かめた少年は黄金の別れを迎え、今も丘を登り続ける。
「Fate」ルート終了後から参戦。



【把握媒体】
バーサーカー(ナイチンゲール):wikiの情報で簡単な把握は可能。活躍は五章「イ・プルーリバス・ウナム」中で主に把握できる。

衛宮士郎:アニメ漫画等把握媒体は多いが、本編を読むのが一番。Fateルートだけならスマホで永久無料解放しているのでお勧め。

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最終更新:2016年08月23日 17:09