───空、太陽が朱く輝いている。

電車の窓ガラスから差し込む朱の光は強く、緩慢に流れ去っていくビルの陰に遮られなければ、思わず手の平で視界を覆い隠してしまいそうなほどだ。地平から不吉に膨れ上がる入道雲は黒く染まり、遠景のビル群に覆いかぶさらんばかりである。地上に伸びる影は人も建物も異様に長く、黒く、まるで世界が赤と黒という二色明暗のコントラストに塗り潰されてしまったかのようだった。
がたん、ごとんと揺れる車内。満員電車とまでは言わずとも、それなりに人が乗っている車両ではあったが、物音を立てる乗客はおらず、ただ線路を走る車体の揺れる音だけが、嫌に存在感を伴って耳に届くのだった。

『もしかしたら、なんですけど』

彼女は、乗席にちょこんと座る七草にちかは誰ともなく。
掴まる者のいないつり革が運行に合わせて僅かに揺れ動くさまを見ながら、声ではなく念話で呟く。

『私に用がある人って、プロデューサーってことはないですかね?』
『いや、その可能性は低いだろうな』

姿なき声───ライダーたる青年に即答されてしまった。

『そう、ですかね……Wさんは283プロにいるって話で、プロデューサーは私に話があるってことで、点と点が繋がったぜ!って思ったんですけど……』

にちか達はプロデューサーの誘いに乗ることに決めた。そのためにちかの姉であるはづきに秘密裏にメールを送り、プロデューサーの住所を聞くというあからさまに怪しい挙動をしつつ(そこら辺なんとかライダーが誤魔化してくれた)、こうして向かってる今ふと疑問が湧いたわけだが。

『まあ、あり得ない話じゃないけどな。そもそもの話、マスターに用がある人物がプロデューサーでその仲介をWに頼んだとして、その後にプロデューサーが別口で接触を図るのはおかしな話じゃないか?』
『あ……なるほど、確かに』

そっか、ならWとプロデューサーは無関係なのか……と考えたところでふと気づく。
あれ? 283の事務所を纏めてくれたのに、プロデューサーとは面識がない?
そういえば梨花ちゃんから聞いた真乃さんも、話を聞いた感じWさんとか事務所のあれこれには関わってなさそうな雰囲気だったし……
事務所の主だったメンバーと連絡を取れてないのに、事務所をまとめたって?
あれ、もしかしてWさん、思ってたよりポンコツ……?

『なんとなく、考えてることは分かるぞマスター。Wとプロデューサーとの間に繋がりがないのはおかしくないか?ってことだよな』
『あ、えっと……まあ、はい。それだけじゃないんですけど、実際のところ今の283プロってどういう状況なのかなって』
『単刀直入に言ってしまえば、火薬庫、だろうな』

え?
と、思わず念話ではなく声に出して漏らしてしまう。
無意識の呟きに気づき、慌てて周囲を伺うも、周りの人間は特に気にはしておらず、ほっと胸をなでおろしたところで、にちかは改めて問いかける。

『いやどういうことですかそれ。確かに咲耶さんの炎上騒ぎとかありましたけど……』
『そうだな、全容を話すと結構長くなってしまうんだが、それでもいいか?』
『いいですよ、バッチシOKです。というか話してくれないと酷いんですから』

分かった、と一言。そうしてライダーはおもむろに語り始める。

『まず前提として、Wが283プロを掌握してるという仮定は半分正解で半分間違いだってところからかな』
『いや意味分かんないですよ』
『経営や事後処理といった、いわゆる"表の仕事"という意味では、283プロは既にWの掌中にある。
けど裏側……"聖杯戦争絡み"の面では、あいつは恐らく283の人員を掌握しきっていない』

言い方は悪くなるけれど、と注釈。

『Wからの連絡の後、283プロのホームページを見せてもらったけど、本当に大した手腕だよ。
事情を知った上で注意深く見れば数週間単位の以前から、少しずつアイドルや事務所の仕事量を減らし、ユニット内でのメンバー同士の繋がりまで薄くしていってることが分かる。
本来の目算なら、聖杯戦争の本戦が始まるまでには283プロを事実上の休業まで移行させたかったんだろうな』
『え、やば。何やってんですかあの人』

ライダーの話が本当だとすれば、つまりWというサーヴァントは本戦どころか予選期間の内からずっと暗躍していたことになる。
「咲耶さんがまずいことになったから場当たり的に何とかしてくれたのかなー」とかぽけっと考えていたが、もっとずっとヤバい人だったのか。

『じゃあ尚更、事務所の人たちがマスターかどうかなんてすぐ分かるんじゃ……』
『社会戦と魔術戦じゃ勝手が違う。俺も異能の系統としては科学畑の人間だから強いことは言えないが……恐らくWは魔道に疎い、少なくとも魔術側でなく通常の社会で偉業を成した人間なんだろう。政治家やコンサルタント、あるいは企業家や探偵が近いところかな。
サーヴァントの反応や魔力経路の感知は同じサーヴァントの身でも肌感覚だけじゃ難しいし、いくら仲良しの事務所でも全員を集めて「マスターの人は挙手して」なんてできるはずもない。
とはいえ全くのノータッチというわけでもない。白瀬咲耶への対応や、マスターにコンタクトを取ってきたことからもそれは明らかだ。事務所関係者のマスターへの対応が些か性急なのは、そもそも「縁者同士がマスターとして選ばれている」可能性に気付いたのが白瀬咲耶の騒動を契機としたものだったから……というのは穿った見方か』

これが一つ目の前提、とライダーの言。

『そして二つ目の前提として、今の東京では人知れず暗闘を繰り広げる二つの陣営が存在するということ』
『あっ……そういえばライダーさん、スマホでそんなこと言ってましたね』
『ああ、よく聞いてたなマスター。厳密には「今分かってるのが二つ」というだけで、実はもっと煩雑化した勢力図が存在するのかもしれないが、そこは一旦置いておく。
Wが掌握しつつある283プロを中心とした陣営と、それに敵対するもう一つの陣営……便宜上「蜘蛛」と呼ぼうか。それが存在してるんだ』

がたん、ごとん。
列車は揺れる。声はない。
ただ静かに、揺れるがまま、にちかを乗せた列車は目的地へ進行していく。

『Wと敵対しているという言葉は、厳密には正しくない。より正確に言えば「周囲全てに等しき悪意を向けている」と言ったほうが正しい。
それに両陣営は恐らく一度も接敵していないだろうし、互いの素性も知らないかもしれない。少なくとも俺がWと会話した段階では、互いが互いを炙り出そうと躍起になっていたんだと思う』
『その心は?』
『白瀬咲耶炎上の一件は、特定陣営を狙い撃ちにする目的で行われた悪行じゃないからだ』

つり革が揺れる。
人の波もつられて揺れる。
その動きをなんとなく目で追う。意味はない。

『蜘蛛が最初からWと283プロを目の仇にしていたなら、もっと直接的な手段に訴えることもできた。社会的な目を気にした、というのもあるんだろうが、自分達から疑いの目を逸らした上で陣営ごと危害を加える手段なんてそれこそいくらでも存在する。
その時点での蜘蛛の目的は聖杯戦争の関わる全ての陣営に対する牽制と、自分達が暗躍するための地盤の整地だと予測できる。白瀬咲耶炎上はそのために撒かれた多くの悪意の一つに過ぎないんだろう。
そして、それがたまたまWにとっての地雷だった』

Wは言った。自分の目的は「マスターを"悪い子"にしないまま元の世界に帰すこと」だと。
彼の言を完全に信用するならば、Wのマスターは聖杯に懸ける願いを持たず、W自身もその行いに賛同するスタンスであるということ。
彼が283プロという、社会的な影響力はほぼ皆無で人材も機材も絶対的に数が足りず、隠れ蓑と利用するにも不適格な中小プロダクションを基点としたのは、やはりそれだけの理由がある。

『Wが多くの時間をかけて283プロの事務所と人員を守るように動き、そして白瀬咲耶に手を出した蜘蛛への迎撃態勢を整えていることから、彼のマスターは283の関係者である可能性が極めて高い。
所属メンバーをネタにした脅迫や人質のリスクを真っ先に潰しマスターへの精神的負担の軽減を最優先していることから、想定されるマスターの人物像は多感な時期の被保護者であることが浮かんでくる。
俺はWを信じると言ったけど、理由の一つはこれなんだ。弱みに付け込んでいるようで気分はあまり良くないけどな』

つまるところ、Wは最初から「マスターの心身を守るというそれだけのために283プロを長期的に運営していた」ということになる。
白瀬咲耶の失踪とそれを利用した悪意の一手は、その発生自体は恐らく偶発的なものだったのだろう。それが283プロに飛び火し、Wは対症療法的な対処に追われた。
それは彼のマスターを守るため必要な処理であったし、実際その手際は見事なものだったが、結果としてWという「社会の裏側で暗躍する影」を浮き彫りにするものとなった。

『蜘蛛にしてみれば僥倖どころの話じゃなかっただろうな。今の東京に蔓延る黒い噂や事件の数を見るに、裏で放たれる悪意は俺達が認識している数倍・数十倍の数になるだろう。
そうして他者を嵌め殺せたらそれでよし、存在を浮き彫りにできればそれもよし、失敗したらその部分だけを足きりにする。そして無作為に放った一手がWの陣営を捉えてしまった。
前にも言ったけど、白瀬咲耶が実際に聖杯戦争のマスターだったかどうかは、この際重要じゃない。重要なのは社会規模で283プロへの注目が集まったこと、そしてWをその後処理に注力せざるを得ない状況に追い込むことだ』

そうして出来上がったのが現在の構図。
今までは散発的に蜘蛛糸を放つだけだったのが、両者共明確に己が獲物を射程圏内に捕えたという事実。

『Wも蜘蛛もどちらとも社会という網を媒介に立ち回る陣営であればこそ、そして蜘蛛がWの逆鱗に触れた以上、両者の衝突は必至だ。
今までは互いが互いの影を捉えられなかったから間接的な、言ってしまえば遠回りな暗闘しか繰り広げられなかったが、ここからはより直接的な攻撃も行われるだろう。
いや、もしかしたら既に襲撃を受けているのかもしれないが』

Wが自分達に直接連絡を寄越したこと、これも改めて考えると拭えない違和感があった。
影ながら利用したいのならば、それこそプロデューサーや社長といった面々を通して話をつければいいだけのこと。にも関わらず現実はこの通りで、ならばそこにある背景とは何なのか。
恐らく余裕がないのだ。時間的にも人員的にも。万全に万全を期した石橋を叩いて渡る方式では既に手が足りず、やむを得ず安全性の一部を犠牲にした。

『えっと、あれ? つまり私達、実は結構まずい状況……?』
『それを覆すためにも、俺達は今プロデューサーの元に向かってるんだ』

先刻届いたメッセージ、Wとの関係を持たず聖杯戦争のマスターとしてにちかへのコンタクトを図った男を思い返す。
「電話をかけてくれたらいい」「でも俺はにちかと直接会って話したい」と……たった一か月離れただけなのに、なんだかとても昔のように感じる彼の声と仕草が、自然と頭の中に溢れてくるようだった。

『あれ、私としては本当にただ会ってみたいって思っただけなんですけど……』
『もちろんそちらの理由もある。ただ、今後のことを考えると、どうしても彼の力が必要になってくるんだ。
さっきも言ったけど今の283プロは火薬庫で、聖杯戦争周りでは未だに十分な連携が取れていない。そしてプロデューサー……マスターの話を聞く限り、あの事務所をまとめ上げるに足る人物は彼を置いて他にいないと断言できるだけの人材が、やはり聖杯戦争のマスターとしてこの東京に在ってくれるなら、俺は是非とも彼の力を借りたいと思っている』

元来、アシュレイ・ホライゾンは大した男ではない。
力は足りない、頭も足りない。覇者を穿つに足る運命も持たず、自分ひとりで為せることなどたかが知れた一介の凡人だ。卑下でも過小評価でもなく、客観的な事実としてアッシュはそれを認識している。
そんな自分が、曲がりなりにも英雄の一角としてサーヴァントと押し上げられたのは何故か。その生涯において成し得た功績は一体何がために達成できたのか。
決まっている。俺に力を貸してくれた、たくさんの人たちがいてくれたからだ。

『Wは傑物だが手が足りない。そして俺も、それを賄えるだけの力はない。だから素直に協力を求めたいと思う。
俺は外交官ではあったけど、あんまり頭は良くないからさ。生きてた頃も、調査や解析を担当してくれた人、様々な予測を立てて状況を整えてくれた人、そうしたみんなを取りまとめて指揮を執ってくれた人……。
そうした人たちとの協力があって、俺はようやく俺の仕事をこなすことができたんだ。それは今この瞬間も変わらないし、そうした実利を度外視しても、やっぱり手を取り合えるならそうしたいんだ。
ああ、もちろんマスターだって例外じゃないぞ? 何でもないと思ってるかもしれないけど、マスターの決断があってこそ、俺は動くことができてるんだから』

と、にちかのネガティブ発言を先回りで阻止するような締めの言葉を投げかける。
なんだか子供扱いされてるようでヤだな、見た感じ同年代なのに……と考えたところで、ふとにちかの頭にひらめきが走る。

『まあつまり、Wさんと蜘蛛がバッチバチに睨み合っててチョー危険、っていうのが283の状況ってことなんですよね』
『ああ、そうだけど……どうしたマスター?』
『ふっふっふー。ライダーさん、私気付いちゃいましたよー! これからは名探偵にちかと呼んでください!』

脳内でピタリと当てはまった符号。コ●ンや金田●少年を読んでいて「あ、これこういうトリックなんじゃない?」と思い当たった時特有の高揚感がにちかの全身を駆け巡る。
まあ、それで当たった試しはないんだけど。

『え、ああ、うん。何を気付いたんだマスター?』
『ライダーさんの話だと蜘蛛は色々手広くやってるみたいじゃないですか。
つまり! 色々できるだけの組織力!を持ってるというわけで、思い当たるところが私にはあるんですよぅ』

そっかー、マスターはすごいなー、というライダーのやや棒読みな声も、今のにちかには賛美に等しかった。
絶対の自信を持って、にちかは告げる。

『ずばり! 蜘蛛の正体は峰津院財閥だと思うんですが、どうでしょうかっ!』
『……』
『どうでしょうかっ!』
『………………………………』
『どう、でしょう?』
『えっとなマスター。気持ちは分かる、気持ちはすっごく分かるんだけど、はっきり言うぞ。
峰津院だけはあり得ない』
『え、なんで?』

割と素の声だった。

『いやでも、あの峰津院ですよ?
なんかよくは知らないですけど、大企業をいくつも囲ってるとか、政府も従えてるとか、日本のお金の何%とか持ってるみたいなこと言われてるあの峰津院ですよ?』

峰津院財閥の名は、この東京においては絶大な知名度を誇るものである。
民間企業、地方自治体、各種省庁や役所、官民問わぬあらゆる機関に対して強いコネクションを持ち、保有する財源と人材もまた圧倒的な一大組織だ。
はっきり言って、サーヴァントとか聖杯よりもぶっちぎりで眉唾な存在だった。なんか昔のラノベや少女漫画に出てきそうだな、というのがにちかの感想であり、当然元の世界でこんなアホみたいな規模の財閥なんて見たことも聞いたこともない。
東京を割と忠実に再現している界聖杯に、彗星の如く現れた異常存在、それが峰津院財閥だ。こんな見るからに怪しいのが、まさか聖杯戦争に全くの無関係とかあり得ないだろうと、そう考えるにちかの考えは至極尤もなものではあるのだが……

『いや、俺も峰津院は聖杯戦争に関わってると思う。流石にこれを無関係と断言はできないしな……』
『じゃあ、なにゆえ?』
『今までの悪事自体が、峰津院が仕掛けるにしてはチャチすぎるからだよ』

改めて口調を正して、アッシュは続ける。

『マスターの言う通り、峰津院の社会的規模は大きい。大きすぎる、ド外れていると言っていい。俺も多少なりとも調べたけど、まあ出るわ出るわ反則じみた権力の数々。はっきり言って強権と特権の塊だなあの組織。政府中枢に食い込んでるって話もあながち嘘じゃないと思うぞ。で、そんな超巨大組織の打つ手が一アイドルの炎上騒動、っていうのは正直考えづらい』

巨大な存在が小さく動くには、むしろ相応に大きく動くよりもよほど大量の労力が必要となる。
峰津院はやろうと思えば、それこそ東京を社会的にも物理的にも地盤からひっくり返すことができるほどの力を有している。ならばこそ、余計な労力をかけて卑小な悪行を繰り返す理由が、少なくともアッシュには思い浮かばない。
仮に、聖杯戦争の流儀に従って社会の裏での暗闘で戦ってやろう、という型に嵌った人物が峰津院の長であったのだとしても、やはりこれはおかしな話であった。蜘蛛の動きは明らかに法や人心を前提とした動き方である、峰津院の規模にはそぐわない。

『これもさっき言った前提の話だが、この聖杯戦争には社会的な混乱を引き起こした際のペナルティが存在しない』

Wや蜘蛛の暗躍、都市伝説にあるガムテープ姿の少年少女の虐殺者集団、頻発する連続失踪事件……例をあげればキリがない。
本戦開始時における通達から見ても分かる通り、与えられたロールを逸脱する行いを制限する文面は一切存在しなかった。
この前提と峰津院の存在、そして蜘蛛たちの動きを鑑みれば、見えてくる事実がひとつ存在する。

『蜘蛛の動きは、闇夜に紛れて姿を隠すものだ。法や社会の目を気にして動く、裏側の人間と言っていい。法や社会の目なんて、この聖杯戦争じゃ意味を成さないにも関わらず、だ』
『それは……居場所がバレたら色々まずいからじゃ』
『特定の守るものがあるWはその通りだが、蜘蛛はそうじゃない。明確な守勢を取るWとは違い、蜘蛛は終始一貫して攻める側、「社会的規範を逸脱した行動をとり続けた」側だ。にも関わらず、蜘蛛はある一定のラインを越えることなく、表舞台に姿を現さないギリギリの境界で活動している。それは何故か』

決まっている。法や社会など歯牙にもかけない、より圧倒的な力を持つ者の目を掻い潜るためだ。

『蜘蛛が気にしているのは法や社会ではなく、峰津院。現代社会の規範すら越えた法を布く巨大組織に他ならない。
Wの側が一か月の時間をかけて目立つことなく283プロの経営方針を変えていったのも、恐らく同じ理由だろうな。そうでなきゃ、もっと他にスマートなやり口はいくらでもある。
例えば……マスター、神戸あさひという少年の炎上騒ぎは知っているよな』
『えっと、はい。というかさっきライダーさんと一緒に見た奴じゃないですか』

白瀬咲耶に代わり、今のネットでのトレンドは「神戸あさひを許すな」というスローガン(?)を掲げた正義の人たちによる糾弾騒ぎだ。
話を見るに金属バット片手に街を練り歩いてる危険人物で、昨今の連続失踪事件も彼の仕業だとかなんとか騒がれているらしい。
「僕は絶対神戸あさひを許しません。見てろよあさひ、絶対捕まえてやるからな! チャンネル登録とオンラインサロンの案内は……」とかまくし立てるカバ似の男の動画を見て辟易した気分になったことを、にちかは覚えている。

『白瀬咲耶炎上の一件は既に終わりを迎えている。騒ぎ自体はまだ続いてるけど、これ以上の進展はないという意味で終わってはいる。
だからこそ、Wと蜘蛛の暗闘は次のステージに移ったわけなんだが……』
『それが神戸あさひ炎上騒動?』
『同様の手段であることは確かだ。目的としてはやはり炙り出し……とはいえこの神戸あさひという少年が聖杯戦争関係者なのは間違いないだろう。白瀬咲耶炎上の一件でマスターたちの目が否応なしに動いた以上、今度ばかりは偽物を使うメリットが存在しない。
それで、彼には殺人や誘拐の疑いがかけられているわけだけど、それはあくまでネットの自称識者が言ってるだけで、警察や公的機関では一切取り扱われていないんだ』

つまり、ライダーが言いたいのはそういうこと。

『これが峰津院の仕業なら、まず間違いなく実際の罪状と逮捕状を取りつけて関係機関に捜査させるだろうな。それだけの力はあるし、やらない理由が存在しない。
なにせこれは、炙り出しと同時に神戸あさひという一マスターへの攻撃なんだから、追い詰めない手はない。後で回収し恩を売りつけて利用するにしても、陥らせる危機は大きいほうが都合がいい。
にも関わらずこの詰めの甘さは、やはり峰津院のやり口にはそぐわないんだ』

峰津院は聖杯戦争に関わってると悟られないため? いいやそうではあるまい。
極端な話、峰津院というだけで既に疑いの目は無くせない。にちかでも一人で辿りつけた疑惑なのだ、聖杯戦争の知識を得た者であるならば、真っ先に疑ってかかるのは峰津院で相違あるまい。

『けどマスターの目の付け所は悪くないと思うぞ。実際、ある程度の組織力が無ければ一連の騒動は起こせない。となれば公的機関ではなく民間企業、それなりに巨大な組織が蜘蛛の隠れ蓑と考えるのが妥当ではある』
『大企業……って言っても、東京にはほんと腐るほどありますよねそれ……』

東京は経済と流通の中心地。本社はそれぞれ別としても、数多くの企業が立ち並ぶ経済都市と言って過言はない。
一般に大企業と言えるだけの社が、果たしてどれほどあるだろうか。正直にちかはそんなもん考えたくはなかった。ぶっちゃけ気が遠くなる。

『それを踏まえて、俺としては神戸あさひとは一度接触してみたいんだが、大丈夫か?』
『え……理由を聞いてもいいですか?』
『俺達の最終目的は聖杯戦争からの脱出、そのための手段としてスフィアブリンガーの発動を提案したわけだが、そのための情報は絶対に必要だ。集められる時に集めておきたいというのが一つ』

神戸あさひの現状は、言ってしまえば孤立無援と言う奴だ。
彼がどこまでネットに依存した生活をしているかは分からないが……自分のそうした現状に気付くだけの余地はあるだろう。
ならばこそ、下手な者ではパニックに陥るか、性急な行動に移って身を晒すか、はたまた自暴自棄になり周囲全てが敵に見えてしまうような精神状態にもなりかねないのだが。
さて、逆に考えて今の彼らをわざわざ討ち取りたいと考える者は、果たしてどれだけいるだろう?

聖杯戦争とは一つしかない椅子を奪い合う戦いだ。途中でどれだけ偉大な戦果を残そうと、最後の一戦だけ敗れ去ってしまえば意味はない。倒した数だけ特典が貰えるルールならともかく、無駄な消耗はどの陣営も抑えたいのが本音だろう。
ならばこそ、全陣営どころか東京中のNPCにまで顔と名前が知れ渡った、孤立無援の神戸あさひを自分の手で殺す意味とは、いったいなんだ?
283プロのように、マスターの嫌疑がかけられ在籍主従の数も全容も知れぬ一件目とは話が違う。神戸あさひは明確な素性を明らかにされ、同時に助けの手を差し伸べられる可能性も極めて低いことは明確である以上、今後の盤面において難敵として立ちはだかる可能性もまた非常に低い主従であると判断ができる。
自分達に害を為す可能性が低い主従は、むしろ放置して他の主従と削り合った末に退場してもらうのが一番の理想である。むしろわざわざ騒乱の渦中に飛び込んで危険に身を晒すなど、よほどの目立ちたがり屋か考えなしくらいしか実行はしないだろう。
そしてそうした陣営は、既に予選期間でその大半が脱落しているはずだ。
ならばこそ、神戸あさひは一種の台風の目として機能していると言っていい。誰もがその存在を知りながら、誰も手を出さない腫物主従。彼ら自身が無差別に殺戮を繰り返す危険人物であるならともかく、そうでないならむしろ接触に際する危険は最小限に抑えられる。

『二つ目としては、彼らとも同盟を組める余地がある。戦力は少しでも必要だし、協力できるならそれを厭う理由はない』
『……なんかこれしか言ってない気がしますけど、訳をどうぞ』
『彼らは嵌められた側だから、嵌めた奴には怨みがあるってこと。蜘蛛に対する共闘を条件に出せば、交渉の余地は十分にある』

何より彼ら自身が有力な情報源になる可能性も高い。
曲がりなりにも蜘蛛の陣営に目をつけられて利用された以上、その行動を逆算していけばどこかに蜘蛛と繋がる接点は存在するのだ。
ならばこそ、現状霞に紛れるが如く影を掴ませない蜘蛛たちの所在を突き止める、最大のカウンターにもなりかねない。

『けどまあ、この一件もWが対処するとは思うから、そういう台風の目状態も長くは続かないと思うんだけどな』
『どうしてそう言い切れるんです? 咲耶さんのは283プロのことだったから、ってのは分かるんですけど、今回無関係じゃないですか』
『むしろそれと地続きの話になるな。先の一件で、Wは明確に蜘蛛に遅れを取っている。Wの働きで被害は最小限にまで食い止めてはいるんだろうけど、それでも受けた被害は決して無視できるものじゃないし、何より社会的な騒動のペナルティが存在しないのと併せて「炎上の一手は有効である」という前提は残したくないはずだ。
言ってしまえば今の283プロは、蜘蛛の模倣犯をいくらでも呼び込んでしまえる状態にある。そうした意味で、蜘蛛以外の陣営にも釘を刺すためにこの炎上騒ぎには関わってくるはずだ』

炎上騒ぎの真実に気付き、283プロに悪意を以て関わろうとする輩にこう告げるのだ。「お前たちもこうなるぞ」と。
下手に関われば逆に首を狩られかねない、そうした脅しを含めた対策を、彼らはきっと取るのだろう。

『何よりあいつは───そういうのを許せない人間だろうからな』
『? ライダーさん?』
『ああいや、こっちの話』

怪訝そうな顔をするにちかを前に、霊体化したままのアッシュは、困ったような笑顔を向ける。

実のところ最初から思っていたことがある。アッシュの推測から導き出されるWの人物像と比較して、一連の情報戦はあまりにも露骨すぎると。
無論そこにも戦略的な理由はあるだろうし、手段を問えないほどに切迫した状況にあったというのも事実ではあるだろう。しかしどうにも、必要以上に背負い込んでいるというか、彼一人で全てを飲み下そうとしているような違和感があったのだ。
何も知らない状態ならば、あるいはギルベルト・ハーヴェスのように他者の一切を利用して使い潰す印象を抱いただろう。あるいはファブニル・ダインスレイフのように、己という一個の存在を以て世界に相対する肥大化したエゴの片鱗を感じただろうか。
今は違う。実際に話をした彼は、決して光狂いのような狂人でも人でなしでもなかった。嫌な奴ではあるけれど。
そうした在りかたには覚えがあった。アッシュの平凡で幸せな生涯において、常に傍にいてくれたひとりの伴侶の存在だった。
レイン・ペルセフォネ───ナギサの名をした彼女は、きっとそのような人間だった。
ひとりで何でも抱え込んで、自分は大丈夫だからと共に背負うことも許してはくれないひどい奴だ。光狂いのように「本当に大丈夫」な人種ではないのに、歯を食いしばって耐えて耐えて、そうしてひとりで墜落していくのだ。
かつての自分は、落ち行く彼女の手を掴むことができたけど。
果たして、Wと名乗った彼の手を掴んでくれた人間はいたのだろうか。

いずれにせよ、生涯を全うしたサーヴァントの身では詮無きことではあるのだが、とアッシュは思考を打ち切る。車内には、次の運行を告げるアナウンスが流れていた。

『あと一駅で到着だな』
『そうですね……うーん、頭痛くなってきた……』
『ちょっと一気に話し過ぎたな、悪かったよ』

なんて笑うライダーの声に、ぷんすかと本気ではない抗議の声を届けてから、ふぅと一息つく。
落ち着いて思考を冷ましてみれば───どうにも、ふわふわした脱力感が全身を覆っていたことに気付く。
きっと、ああしてライダーと話をしていなければ、この浮ついた気分のまま、意識さえ浮遊してまともではいられなかったのだろう。
理由は何故か、自分でも分かる。
白瀬咲耶が死んだという、たった一つの理由だけだ。

薄情な話だが、にちかは咲耶が死んだと聞いた時も、その事実を現実だと受け入れた時も、別に悲しくはならなかった。
涙の一つも流れなかった。本当に酷い話だと思う。
にちかの胸にあったのは、悲しみではなく喪失感だった。
近しい者の死とは、概ねそうしたものだろう。死者を悼む悲しみとは、死という現象ではなく記憶が誘うものだ。
そして悲しみを感じるには、彼女の存在は新しすぎた。これは単に、それだけの話だった。
お母さんやお姉ちゃんが死んだら絶対に泣くのだろう。美琴さんも多分そう。プロデューサーは、どうなのだろう。泣けるだろうか。そうだったら、多分私は私を見限らずに済むと思う。

ふと、手元のスマホを覗き込む。そこには咲耶の失踪を記す文面があって、今まで何度も読んだそれが、どうにも空寒い感覚として目を通じて脳に訴えてくるかのようだった。


『白瀬咲耶失踪事件。
発生年月日:令和3年7月29日
発生場所:東京都江東区

令和3年7月29日午後10時20分以降から
東京都在住の女子高生 白瀬 咲耶(しらせ さくや)失踪時17歳
が所在不明となっています。

また、令和3年7月29日午後10時、江東区のコンビるニエンスストア店内において、防犯カメラに白瀬咲耶さんの姿が見確認されています。
同氏は東京都中野区に在るアイドルプロるダクション「283プロダクション」に所属するいアイドルグループ「アンティーカ」の一員であり、
ワンダー・アイドル・いノヴァ・グランプリでの優勝をるよきっかけに高い人気を持ち、
てい今年注目される新人アイドル特集にも抜擢されるるよなど、今後の活躍がるよ期待さているれる人物でもありま見ていしたるよ。
警察機よ関の発表によ見ていりますと捜査は依いるよ然難航見てしてよおり、見ている関係よ見てい者か見ているらの不安の声も見ているよ。
少見ているよ情報るよ見ているよ見てい事件るよ見ているよ見殺人ているよ君を見ているよずっと見ている見ているよ見ているよ見ているよ』


「─────────っ!」

ぞっ、と怖気が走ったのは一瞬だった。
背筋に氷を入れられたような寒気を感じ、"ばっ"と顔を上げた瞬間、更なる異常がにちかを襲った。


「……は?」

誰もいなかった。
ついさっきまで人ごみで満杯だった車内は誰もおらず、寒々しいまでの伽藍の空間に、白い電灯の明かりが煌々と照らしている。
誰もいない。思わず立ち上がり、左を振り返り、右を振り返り、しかしにちかのいる車両もその先の車両に至るまでも、誰の影も見えはしない。
何時の間にか列車は止まっていて、特有の音も揺れる感覚もなかった。
何よりおかしかったのは、外の景色だ。夜だった。今は確かに夕方であるはずなのに、眩しいまでの赤い夕焼けが差していたはずなのに、今は向こうが何も見えない黒一色の闇だけが、列車の窓から見える景色の全てだった。

「な、に……これ」
「下がってくれ、マスター」

知らぬ間に実体化していたライダーが、既に抜き身の刀を提げて、片手でにちかを制する。
その表情は真剣そのものであり、その視線は何もない虚空の一点を見定めている。
いや違う、そうではない。何もないのではなく、にちかの目には何も見えないというだけなのだ。

しん、と静けさだけがそこにはあった。音は何もなかった。にちかの首を伝う汗も、衣擦れも、自分の内から響く心臓の煩い鼓動も、確かに耳に届くのに、それを音と認識できなかった。
音はないのに、空気は重かった。今まで認識もしていなかったそれが、今は鉛の質量を伴って肩にのしかかってくるような感覚。体はおろか、指の一本さえ動かせない。視線を逸らせない。筋肉が硬直したように固まって、末端がぷるぷると震えるのを止めることができない。

「出てこい、そこにいるのは分かっている」

ライダーの声に答えるように───

『 ンン 』

───闇が、嗤った。

それは、闇が人の形を取ったような存在だった。
ライダーの睨む先、何もないはずの虚空が「ぬるり」と揺れたかと思うと、水面から水死体が引き上げられるかのように、人の形をした何かが、滑るように姿を現したのだ。

それを一体、何と形容したら良いのだろう。
それは男であり、怪異であり、異常であり、何より全てが昏かった。
"何も見えない"のだ。その瞳は黒く、黒く、そして何も映していない。確かにこちらを見ているはずなのに、自分達など目に入らないと言いたげな漆黒の虚無。
だが一つだけ分かることがある。これは、紛うことなき敵であり───


「お初に、お目にかかりまする」


説得などできようはずもない、人道から外れた"外道"そのものであるのだと。


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最終更新:2021年11月06日 22:35