黎明の子、明けの明星よ。あなたは天から落ちてしまった。
もろもろの国を倒した者よ。あなたは切られて地に倒れてしまった。
───「イザヤ書」十四章十二節
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曰く、サーヴァントとは人間ではなく、厳密には生物ですらないらしい。
死後に信仰から精霊となった魂が、魔力の殻を得て現界した存在。それがサーヴァント。
七草にちかはそのことを知識として知ってはいたけど、しかしまるで実感が湧かないでいた。
今まで出会ったサーヴァントは、みんな人間らしい人たちばかりであった。
アシュレイ・ホライゾン、梨花ちゃんのセイバー、予選期間に私を襲ってきた鎧の人……
みんな凄くて強い人ではあったけど、でも人だ。感情があり、表情があり、好き嫌いがあり、確かに今を生きる人間としか見えなかった。
けれど。
「お初に、お目にかかりまする」
あれは違う。
あれは駄目だ。
あれが人間? そんなバカな。あんなものが人であるはずがない。
奇抜な髪型や服装を指して言っているのではない。肌に突き刺さる存在感が、放たれる瘴気が、死臭が、まさか生きた人間のものであるはずが。
その白貌を見るがいい。青ざめて血の通わぬ死人の肌よ、その下には流れる血潮も熱い魂も何もかもが感じられない。
誰をも映さぬ漆黒の瞳は、瞳孔が開き水分と虹彩を失ったがための死骸の眼球であるからに他ならない。今なお浮かべられる笑みの様相は、死後硬直で固まった顔面を粘土のようにこねくり回した結果のそれとしか思えないほどだ。
気味が悪い、気味が悪い、気味が悪い。言い知れぬ本能的な嫌悪感が、それすら凌駕して湧き上がる恐怖が、にちかの心胆を縛り付けて視線を外すことさえ許さない。
たった一言を喋っただけで、既ににちかの精神は限界に近かった。その甘い、まとわりつくような声が、どろりと粘性を帯びて耳の中を流れたのだ。その異様な感覚に、生理的な悪寒と共に冷たい汗がどっと背中を伝う。
あれが、サーヴァントなのか。
ライダーやセイバーと同じ、サーヴァントなのか。
何も信じられず、何も分からなかった。その姿に魅入られ、意識が吸い込まれるようだった。現に今もなお、思考は段々と薄まっていって……
「大丈夫」
すっ、と割り込んだ背中が、にちかと怪人の間を遮って視線を断ち切った。
それを機に、にちかの意識もまた我に返った。「かはっ……」と息を吐く音が喉から漏れる。知らず、いつの間にか呼吸さえ止まっていたらしい。
「息を整えて、それから深く呼吸するんだ。視線は俺の背中に合わせて……そう、落ち着いたら指を動かして、グーパーと曲げ伸ばしする感じかな。あいつのことは心配しなくていい、俺が対処する」
その声は、異常だけが充ち満ちるこの空間において、唯一の日常であり、慣れ親しんだものだった。
にちかは迷わずその言葉に従った。荒い息を正し、深呼吸をして、固まった指の関節をなんとか解きほぐそうとして……
そうすると、いつの間にか落ち着きを取り戻していることを、にちかは自覚した。時間にして十秒と経っていないだろう、混乱していた頭は冷静さを取り戻し、まともな思考と、現状を客観視できるだけの余裕が舞い戻った。
誘導療法───錯乱した人間には、まず驚かせるなりして思考を断ち切り、その上で別の何かに意識を集中させればよい。
話ができるだけの精神的余裕がない人間に対し語りかけるための初歩的な技術。知らず庇われたにちかを後目に、しかし状況はリアルタイムで進行していく。
「こちらに戦いの意志はない。俺たちの前に現れた理由と目的を教えてくれ。内容次第によっては協力できるかもしれない」
「ンン───」
ほう、と喜悦するかのような笑み。毅然と向き合うアッシュに対し、怪人の値踏みするような視線が突き刺さる。
一触即発の状況には至らず、しかしこれに堪らないのはにちかであった。
『ちょ、ライダーさん!? 協力っていきなり何言ってるんですか!?』
声のトーンが上がり、やや責めるような口調になってしまうがそれを省みるだけの余裕は今のにちかにはなかった。
だって、"これ"だぞ? ライダーのスタンスが専守防衛、手を取り合える相手ならできるだけ応えたいというものなのは承知しているし、自分だって賛同した。でも、それにしたって限度があるだろう。
端的に言って、目の前の相手は妥協とか利用とか、そんなものを挟めるような手合いではない。人間とは徹底的に相容れない、人の常識なんて一切通用しない、そういう正道から外れた存在なのだと理屈ではない感覚としてにちかは確信していた。
互いを遠ざけての不可侵条約だって、これを抑えるには不足過ぎる。こんなものが人の姿と言葉を操ってこちらに語りかけてくること自体が、理性と正気に対する冒涜に等しかった。
不動のアッシュ、怯えるにちか、愉快と嗤う怪僧。三者三様の沈黙を破ったのは、語りかけられた怪僧であった。
「これは愉快、よもや拙僧に対しそのように申し立ててくる者がいたとは……
おっと、申し遅れましたな。拙僧は此度の聖杯戦争におきましてはアルターエゴのクラスにて現界せしめしサーヴァント。名を呼ぶ際には、どうぞ"リンボ"と呼んでくださいませ」
「リンボ……?」
というか、アルターエゴって?
この短い問答の中で、しかし理解できない事柄は反比例して多すぎた。
湧き出る疑問符と、正気を蝕まれそうな重圧で、まともに口を利けそうにない。
「そうか。ならリンボ、先の質問に答えてくれ」
「性急に過ぎる男は嫌われるもの───と、語らいに華を咲かすのも一興ではありまするが。
ぶしつけに参ったのは拙僧の不徳、ならば身の上を話すのも吝かではありますまい」
言葉と同時、リンボは大仰な手振りと共に瞼を閉じ、やがて白々しいまでの口調で語り出す。
「此度の来訪、実のところ何も難しいところはありませぬ。
ええ、ええ。何も、どれひとつを取ってみても単純至極。ただ拙僧めは、欲しいものが一つある、というだけの話に過ぎませぬ」
「欲しい、もの……」
うわごとのように呟かれるのはにちかの言だ。リンボの言葉に応答したというよりは、耳に届いた言語の意味を無意識に復唱していると言ったほうが正しいか。
「聖杯のことか? それなら、俺達には話し合いの余地がある。
欲しいのは"俺とマスターの命"なんていう、言葉遊びの腹積もりなら全力で抵抗させてもらうが」
「聖杯───聖杯! ンフフフフフフ、確かに甘美な響きではありますなァ。
されどこのリンボ、求めしものは遥か別の一点にこそ存在致しまする。
聖杯に非ざる我が悲願の名は───このように」
微笑と共に、やがてリンボは嬉々と語り始める。その声音と目に、まるで懸想する乙女であるかのような、粘ついた情念を滲ませて。
「其れは実在せぬと言う者もいるが、遍く目の前に広がっていると言う者もいる。
巷に雨の降る如くに墜ちていくものであるが、大河の如くに多くを循環し穢れを流す洗い場でもある。
現世と大きさを比ぶれば勝るとも劣ることなく、されど矮小な人の身でさえそうと成り果てることもある。
時の始まりには飢えと共に朱き産着に包まれ、青年期には欲望と共に黄衣を纏い、老いては修羅となりて青の外套を身に纏う。
そして三界を巡った果てに、死して黒の死衣で横たわる。おお、我が名は?」
「よく分かったよ。交渉決裂ということでいいんだな?」
え? と呟かれる暇もなく、にちかの眼前に立つアッシュは刀を構え直す。
「聖杯を求める願いがあっても、それは俺達の最終目的とは競合しない。上手く妥協点を模索できたなら、十分に協力できると考えていた。けどな」
刃を水平に掲げ、右手上段へ構えた柄によって切っ先を相手顔面に向ける、一般的に霞の構えと呼ばれる防御重視の型である。
突きつけられた切っ先はまさに戦意の現れであり、それを以て拒絶の意とする決裂の合図でもあった。
「よりにもよって"地獄"などと、考えなしの破壊を企図するような奴は、悪いがサーヴァントとしてマスターと共に在る俺は到底受け入れられないんだよ」
「フフ、ンフフフフフフ───いや実に実にその通り! 紛うことなき正論なれば!」
瞬間、リンボがぶちまけたのは、たまらぬと言わんばかりの呵々大笑。
可笑しくてたまらぬと、世にも滑稽な見世物でも鑑賞するかのように、それは悪意と侮蔑織り交ぜた嘲笑であった。
美しき肉食獣、リディクールキャット。その嘲りは万象悉くに降り注ぐ呪詛の礫なれば。
「我が悲願、受容するには衆生はあまりにも未熟に過ぎるのでなァ。その返答は予想通り、ええ残念至極ですとも。なにせ拙僧が最初に出会ったのがあの娘ではなく貴方方であれば、あるいはその甘言に乗るのも一興でありましたのに!
しかし貴方も悪いお人だ。交渉決裂などと、最初から成功するなどと思ってはいなかったのでしょう? 会話で稼いだ時間で、その刃を通じての解析は終わったのですかな?」
「──────」
アッシュが構えるアダマンタイトの銀刀、それを包むように淡く発光する白色を指して嘲笑うリンボに、アッシュは重ねて無言。
星辰光───「白翼よ縛鎖断ち切れ・騎乗之型(マークライド・ペルセウス)」。それはアッシュが持つ原初の異能にして、刃を通じて触れた異能の解析と吸奪を可能とする力である。
本来は敵の攻撃に対する迎撃にこそ真価を発揮するこの星光は、しかし現在のような状況においては術式看破の解析能力としても機能する。
だらりと剣先を下げ、切っ先を地面に触れさせていたのは剣術体系における極意の脱力を実践していたわけではない。
刃を通じて触れる車両、ひいてはリンボが仕掛けたであろう空間途絶の結界術式の情報を取り込み、今の今まで解析を続けていたのだ。会話は説得のためというのもあるが、本命は時間稼ぎ。この窮地を抜け出す方策を割り出すための引き伸ばしである。
悟られないよう意識誘導も兼ねたつもりではあったのだが、それを容易に看破するこの力量。やはりリンボは、本来的にはキャスターに近しい術士であることは明白である。
「その答えは」
きん、と小さく鳴り響く硬質な音。
それは、にちかの目では視認不可能な速度で放たれた二連斬撃により、傍らにあった手すり棒を切断した際に響いた金属音である。
「お前自身の体で確かめろ」
50㎝ほどで断ち切られた金属棒が重力による自由落下を始める瞬間、剣技の構えから無拍子で放たれたアッシュの爪先がその先端を捉え、まるで中空でのトゥキックであるかのように蹴り飛ばしたのだ。
「笑止」
一瞬で亜音速に達した金属棒を前に、しかしリンボは涼しい顔のままであり───しかし次瞬、その様相は崩れ去る。
眼前にまで迫った銀色のそれが、突如として発火したのだ。
何の兆候もなかったし、魔力の反応もなかった。にも関わらず、無機物であるはずのそれは、突如として直径にして1mにも達するかという火炎を噴出し、リンボの視界を真っ赤に染め上げたのだ。
火を出す、などという技術は魔道においてさして珍しいことではなく、むしろ初心者向けの極めて単純な術式ではある。だからこそリンボにとってこんなものは本来牽制にもならず、精々が目くらましの役にしか立たない代物ではあったのだが。
「オオオォォ───ッ!!」
その一瞬さえあれば、アッシュにとっては事足りた。
「ヌ、ぐぅ……!?」
吹き上がった火炎を切り裂くように、飛来する一陣の剣閃。それが水平突きの要領で突撃したアッシュの一撃であることを理解したその瞬間には、既にリンボの右肩先に突き立った刃が骨肉を抉り、彼の右腕を肩口から斬り飛ばしていたのだった。
煌赫墜翔(ニュークリアスラスター)。それはロケットブースターの原理を利用した、対外発熱による炎翼加速の技法である。
それが証に、見よ。刃を突きだしたアッシュの背には、まるで赫翼が如く赤き焔の翼が今もなお無尽の熱量となって流れている。颶風となりて駆け抜けるは超絶の技であり、アッシュの身体は既に音速すら超過した砲弾が如き有り様ではあったのだが、しかし致命打にも等しき一撃を叩き込んだはずの彼の表情は決して優れたものではなかった。
肩口から切断された右腕。普通に考えるならば、それは明らかな致命傷である。
余人ならば即死に近い有り様であるし、そうでなくとも致命の傷は行動を著しく阻害する。この一撃が成った時点で、常ならば勝負ありと判断されるのが妥当ではあるのだが、しかし。
「既に拙僧は言ったはず。笑止、と」
嗤うリンボの嘲笑に、一切の翳りなり。明らかな致命傷を受けたにも関わらず何の痛痒もないとばかりに、その嘲りは更に深みを増して。
そして次瞬、巻き起こったのは地の底から湧きあがる怨嗟の声であるかの如き、漆黒なる瘴気の波濤であった。
「くっ……!」
アッシュは纏う星光を瞬時にハイぺリオンからペルセウスに変更。炎熱を白光と切り替えて下段を真横一文字に一閃し、白銀に煌めく斬閃によって闇の帳を切り裂く。
その原理は無論、ペルセウスによる術式吸奪である。瞬間の解析により判明した呪詛・疫病・災厄・腐敗といった諸々の性質をそのままに、アッシュの振り抜いた刀身は既に漆黒に染まり、簒奪した穢れを乗せて返す刃でリンボの首を狙う。
しかしそれより一呼吸早く、リンボは既に地を蹴り後退していた。軽く跳んだ、というにはあまりにも不可解な軽業であった。尋常な体術の成せる業ではない飛翔によって一両分もの距離を後退したリンボは着地と同時に左腕を一振り、やはり漆黒の瘴気纏う十五もの式符を燕のように放ったのである。
それは明らかな超常の業であったが、見るものによっては複数のホーミングミサイルを想起させたであろう。一つ一つが意思を持って幾何学的な軌道を描き襲い来る式神は、その数と同じだけ振るわれたアッシュの斬閃と共に両断され、地に墜ちることなく中空にて消滅を果たす。
「成程───弱い」
式神の悉くを斬り伏せるアッシュを睥睨し、リンボは誰ともなく、静かにそれだけを呟き吐き捨てる。
今の僅かな合戟だけで理解する。この相手は、悪神喰らえしアルターエゴ・リンボに遠く及ばぬ木っ端であると。
「異端の魔女もまた斯様に脆く拙い有り様ではあったが、器としての完成度ならば果て無き可能性を秘めてはおりました。
が、哀しいかな貴方はまるで見るべきところがない! 是には、ンンンンンンン拙僧も失笑を禁じ得ませぬなァ」
言葉と共に、リンボの眼前にて紡がれる術式、詠唱、光芒。描かれしは光条にて編まれた奇怪なる方陣であり、それが悪辣たる魔術式であると見る者に如実に伝えていた。
同時、アッシュの総身を正体不明の重圧が襲う。まるで重力そのものが倍加して圧しかかるような、あるいは疫病疾病の悉くに罹患してしまったような悪寒が全身を伝う。
「そうれ、そうれ輝き喰らえ我が五芒星。所詮は宿業なき汎人類史の英霊、一切鏖殺とは参りませんがンンンそうですねぇ、適当な怨念なりを埋め込んで差し上げる!」
それすなわち、霊基改造の外法なれば。
サーヴァント、英霊として現界せしめし存在の根底を丸ごと書き換える、人道に外れたまさに外道の所業である。
遥か彼方の事象世界、亜種平行世界なる日本の下総において行われし空想樹発現の前準備。
繰り広げられたのは悪鬼の跋扈に他ならず、すなわち悪逆たる宿業埋め込まれし七騎の羅刹の顕現であった。
その名、英霊剣豪。
その骸、すなわちキャスター・リンボによって塗り潰された英霊たちの末路なれば。
既に異星の神より接続を断たれ、本体ですらない式神であるものの。やはり本質はアルターエゴ・
蘆屋道満、その身は今や辺獄(リンボ)をこそ体現せしめる黒き放射能であればこそ。
何ら特殊な霊基持たぬ一介の英霊如き、作り変えることに支障などあるはずが───
「───ぬるいぞ、アルターエゴ・リンボ!」
そのあり得ざる事態に、リンボは瞠目した。
宿業なりし五芒星がアッシュに触れて数瞬もしない間に、硝子が破砕するような硬質音と共に五芒星それ自体が粉砕されたのである。改造どころか、足止めすら碌に叶わなかったその現実を前に、リンボは驚愕に目を見開き───
「ああ、素晴らしき哉!」
喜悦の喝破と同時、兎歩と踏みしめられた床を基点として黒き影が津波の如くして広がった。地面を、壁面を、天井を、汚泥めいた黒が塗り潰していく。
乗席のシートが腐った。荷物棚が溶け崩れ、つり革が腐れ落ちた。リンボが地を踏みしめたというそれだけで、床と壁面に亀裂が走り、そこから汚らわしい膿汁めいた粘性の血液がじくじくと滲み出す。
異変にいち早く気付いたアッシュが、一転して後退しにちかの下まで戻り、ハイぺリオンに切り替えての紅焔一閃により周囲を焼き払わねば、彼らの運命は諸共に腐敗し醜い死骸を晒す末路であったことだろう。
「我が術式が手緩かったと───フフ、ンフフフフ!
意味、斯様な戯れに意味などあろうはずも! が、しかァし!
我が宿業と怨念の術式、容易に破るとは如何な絡繰りか、俄然興味が湧いてきましたぞ」
大手を振りそぞろ歩くはまさに無人の荒野を往くがごとし。喜悦と歓喜を振りまいて、美しき肉食獣が牙を剥く。
「影こそ我が触れ得ざる布陣、死こそ我が無間の領域なれば。此処より逃れる術などあるはずもなし。
仮に、そうとも仮に、死が地獄への道行というならば!
───ここが、辺獄(リンボ)であるのだから」
「地獄にはひとりで落ちろ」
同時、振り抜かれる剣閃は紅蓮の光刃となって地を抉った。空気の焼ける特有の臭いと共に腐海を割る灼熱の一撃は、しかしリンボに到達する寸前にて不可視の障壁に阻まれたかのように霧散する。キャスターめいて防御術式を張ったのか、しかし真に驚くべきは諸動作としてのその手段であった。
右腕が生えていた。抉り取られた凄惨な傷口から覗くは、血と肉と骨のみにあらず、なんと黒き影が腐汁のように滲み出て右腕の輪郭を取ったのだ。
その影を、鞭のようにしならせて振り払い、結果として紅焔の一撃は霧散霧消した。奇怪なるかなアルターエゴ・リンボの呪よ。しかし異変はそれだけに留まらない。
刹那、脈絡もなく頭上より溶け崩れた人体の破片が無数に降り注いだのだ。高所に置いた水槽の底を割ったように、夥しい量の血液がアッシュとにちかを襲い、その中には血液の元であっただろう人体が、細切れになった肉片となって混ざっていたのだ。
指が、骨が、眼球が、内臓が、脳が、筋線維の張り付いた血濡れの髑髏が、どれほどの人数分あるかも定かではない大塊となって襲い来る。咄嗟に頭上目掛け振るった炎熱の一閃が血肉を焼き払うものの、その全てを防ぐには到底及ばない。少なからぬ量の血と内臓を浴びたにちかが、最早言葉にならない息を詰まらせ恐怖に硬直する。
「あまりにか細く、無力で、弱い。全霊を賭しても我が身に及ばぬその無念、分かりますぞ。誰であろうと耐えられない。
何よりそれが、己が不明であるならともかく、足手纏いを連れているがためなら尚更に」
足元より伸びる影に加え、新たに広がった不浄───文字通りの血の海から、骨肉で編まれた歪な腕が這い出す。それはまばらに血肉が付着した、動く腐乱死体であった。本来なら動かざるもの、物として土に還るべき残骸は、動作に不慣れな人間のカリカチュアめいた不気味な動きで這い出し、立ち上がり、歩き出す。
さながら恐怖映画のフィクションモンスターめいてにちかたちへ群がるそれらを、アッシュの斬閃が次々と切り倒すものの……その物量に圧されて前進は叶わず、従ってリンボの回る口を止める者もまたいない。
「その炎、確かに熱くはありますが───只人を傍に置いては碌に出せますまい?」
瞬間、微笑は大笑へ変化する。
「ははははははははは見える、見えますぞ貴方の魂! 汚泥に穢れ死を前にもがくその姿、多少の気骨を見せようが我が前には丸裸も同じ!
苦しいでしょう、遣る瀬無いでしょう、思うままに力も揮えず無能な主を抱いての強行軍。その結果が貴方の浮かべる苦悶の表情か。
それでも尚足掻く様は何とも可愛らしいことではありますが、しかし無意味無意味どうしようもないのです!
貴方方の奮戦は実に無意味だった。実に、無惨なまでに滑稽だった!」
低劣な揶揄であり、見え見えの挑発だ。子供の口喧嘩にも劣る稚拙で下卑た雑言は、しかしそれだけに聞く者の心を掻き毟る。殺し合いの最中に飛ばすにはそれなりに有効であり、有史以来戦術の一環として取り入れられてきた事実は伊達ではない。
尤も、リンボには心理戦を仕掛けている自覚などないのだろう。
ただ、好きなのだ。趣味なのだ。人間ならば誰もが持っている触れられたくない聖域に、土足で踏み込んで糞を塗りたくるその行いが。
相互理解など端から欠片も頭にない、人が持つ悪性情報のみを抽出した生粋の『悪』こそが
蘆屋道満、アルターエゴ・リンボなればこそ。
「ああ、ようやくはっきりと分かったよ。お前は、とても可哀想な人間なんだな」
「ンン?」
しかし、相対するアッシュから出た言葉は、まるで想像もしていなかったもので。
ふむ、ああいや、人道を解さないお前は可哀想な奴だと、安っぽいヒューマニズムでも持ち出すのか?
「皮肉かあるいは情に絆すつもりですかな? しかし残念、拙僧はそれなりに人の心にも精通して───」
「お前さ、実はコンプレックスの塊なんじゃないか?」
今度こそリンボの声が止んだ。笑みの様相を張り付けたまま、能面のように固まった顔でアッシュを見遣る。
アッシュは、平素のままだった。侮蔑を侮蔑で返そうとか、丸め込んでやろうとか、そういった負の感情はまるで見えなくて。
本当に、ただ本心から、リンボを可哀想な奴だと思っているようだった。
「俺のところにも似たような連中がいたんだよ。人間だった頃の特定の感情と衝動だけを過剰に誇張して蘇らされたアンデッドみたいな連中がさ。
端から見てて滑稽なほどにカリカチュア化された人格の持ち主ばかりで胸が痛くなったものだけど、お前も似たようなものなんじゃないか?」
第一世代型人造惑星(プラネテス)。それは
アシュレイ・ホライゾンの生きた新西暦において開発された、人の死体を素体とした人造星辰運用兵器のことである。
それらは一つの例外もなく、生前に抱いていた強い衝動をそのまま肥大化・戯画化・記号化された人格を持ち、端的に言って「壊れた」性格の者ばかりであった。
死に際の未練に引きずられ、肉体は蘇ろうとも精神は死霊のそれと変わらない。見たくれだけが立派なゾンビ。それがプラネテスだ。
翻って、エクストラクラス・アルターエゴとはどのようなものか。
それは切り取られた一側面としての人格。人ならば誰もが無数に持つ精神のペルソナを、その内の一つだけを切り取られて一個の人格として確立させた存在だ。
「そんな風に成り果てなきゃ、手に入らないものでもあったのか? 越えられないものでもあったのか?
あるいは、そう成り果てたことすらお前の原型の意思じゃなかったのか?
いずれにせよ、本当に可哀想な奴だよ。もうそれ以上、歪められた言葉を吐かないでくれ。聞いてるこちらが悲しくなってくる」
アルターエゴ・リンボは
蘆屋道満の悪性情報「のみ」を抽出した存在。ならばこその悪辣人格。
であれば、これ以上哀れなことはないだろう。人なら誰しも何かに怒り、憎悪し、蔑むことはあるだろうに。そしてそうした感情を持ったとて、それだけが当人の全てであるはずがないというのに。
彼はそんな一部分だけを切り取られて、お前は「それだけ」の人間だと勝手に烙印を押されたのだ。これを悲劇と呼ばずして何と言う?
アッシュは今、本心から、リンボを哀れんでいた。より正確に言うならば、リンボの原型となった生前の
蘆屋道満を、である。今アッシュはリンボに語りかけていながら、しかし全くと言っていいほどリンボを見ていない。
「ンン───ンンンンンンンンンンンンンンン成程成程!
貴方がそう感じるのならば! 貴方も同じにしてあげしょうぞ!」
「いや断る。ああ、それともう一つ」
どこにそれだけの質量を仕舞う余地があったのか、大量の式符をばら撒いて臨戦体勢に映るリンボに対し、アッシュは傍らのにちかの肩を抱き、引き寄せた。
ぅえ? と当惑の声を敢えて無視して、片手で再び霞の構えを取り。
「マスターを足手纏いだと言っていたが、それはお前だけが思ってることだよ」
その声は間合いを離した今までとは違い、すぐ近くの真正面から聞こえていた。
何、と言いよどむ間もなく、ニュークリアスラスターによる高速移動を果たしたアッシュは、ハイぺリオンの出力を一時的に臨界不測域にまで押し上げる。
瞬時、全身から光と熱を放出させるアッシュ。そこに込められた魔力と威力はこれまでの比ではなく、必然傍に在るマスターさえ巻き込む他にない暴威であるはずなのに。
「願わくば、もう一度人間からやり直すといい」
誰しもの視界を、爆発的な紅光が埋め尽くした。
その際の焦熱音を、にちかは必死に耐えていた。両手で耳を塞ぎ、瞼を閉じてぐわんぐわんと鳴り響く頭蓋を死にもの狂いで抑え込んでいた。念話であらかじめ警告はされていたけど、これはちょっと想定外だった。
そう、アッシュはにちかを傍らに置いたまま、自爆めいて過去最大級の炎熱を爆発させたのだ。当然巻き込まれるにちかであるが、副作用として発生した気圧差による気流と爆音以外は、その破壊と熱でさえにちかの体も衣服も一切傷つけることがなかったのだ。
それは至極当然の話。
アシュレイ・ホライゾンの星辰光は、付属性にこそ特化しているためである。
生み出した星光による物理現象を、他の物体に性質付与するこの才覚は、望めば破壊をもたらす対象を自由に選択できるということの裏返しでもある。
刀身に炎を宿らせるのと同じように、にちかにも炎を宿らせることができる。無論、彼女自身に熱さも何も伝えないまま。
ならばこそ、放たれる熱量がにちかを傷つけないのも当然であった。
無防備なリンボを炎熱が呑みこむのを確認すると同時、ペルセウスへと切り替えた刀の切っ先が真っ直ぐにリンボの喉元を刺し穿つ。そのままの勢いで背面の壁へ刃を突き立て、同時に壁面を構築する結界術式へ干渉、その制御権の一部を奪い取る。
結果、発生する人間大の大穴。結界を解かれて通常空間への回帰を果たしたその大穴は、リンボ自身に与えられた大ダメージとその間隙を突いたペルセウスによる吸奪によって引き起こされた現象であった。
アッシュの狙いは最初からこれである。リンボの撃破は二の次として結界外への脱出、これこそが肝要であった。会話に拠る時間稼ぎの合間に解析した結果を理解してから、ずっとこれだけを狙っていた。
そして今、全ては功を奏し脱出は叶った。故にこそ、これはアッシュたちの勝利であると。
「───油断、めされましたな?」
そのようなハッピーエンドを許すリンボではない。
全身に重度の火傷を負い首を貫かれてなお死なぬ不条理で以て、影の右手をアッシュの胸に添える。
瞬間、世界そのものが鳴動したかのような感覚がアッシュとにちかを襲って……
「では変革を始めましょう。さようなら少年、はじめまして新たなる我が傀儡。
英霊剣豪にあらざる欠陥品に、生きながら成り果てるが御身には相応かと……」
そしてリンボの視界は物質世界から精神世界へと切り替わる。
それは敢えて形容するならば、吸い込まれるような、と言えばいいのだろうか。
観測する世界を物質側と精神側とで切り替えるのは、言ってみれば意識的に夢見と目覚めを切り替えるようなものであるからだ。
リンボは今、まさに夢へと吸い込まれたと表現して正しい。
ただし、その夢とはアッシュの精神にこそ他ならず、リンボの目的は微睡みなどという優しいものではないのだが。
「は、は、は、は、は、は───成程然り、斯くも容易く侵入を果たせたわけだが。
彼奴め、よもや魔術的防壁を一切持っておらぬとは」
心の強さと肉体的な強さは違う。如何に屈強な益荒男とて、素養がなければ精神世界における守りなど薄紙も同然だ。
そこをカバーするのが魔術なりの修行となるわけだが、この餓鬼はそういった薫陶は一切受けておらぬらしい。
ならば一度侵入に成功したなら、あとはこちらの思うがままである。
「ならば良し也。貴様の意志も魂も皆全て───この儂が焼きつくし、新たに造り変えてくれようぞ!」
言うが早いかリンボの思念体は潜航を開始する。
今リンボがいるのは表層部分であり、何もかもが不確かな靄や闇があるだけの、あやふやな領域でしかない。その奥深くには無意識の領域があり、精神の核とも言うべきものが存在する。
無意識の領域はその人間の本質とも言うべきもの。聖者なら清らかな世界が、外道なら悪辣な世界が広がっているという認識で構わない。
ともあれ、である。
「喝采せよ、新たなる地獄の誕生を!
愚昧なる人間共、我が地獄曼荼羅の人柱たる娘の糧となり、矮小なる身を弁え永遠の何たるかを知るがいい!」
斯様な弱者の精神なぞ、取るに足りぬ有り触れたものに相違あるまい。
その確信だけを以て、永遠とも一瞬ともつかぬ特有の時間経過の感覚と共に、遂にはアッシュの無意識領域へと足を踏み入れ───
「──────────────────」
焔だけが、そこにはあった。
赤い、朱い、此処は何と紅いのだ。
見渡す限りの全てが、赤に染まっていた。最早一瞬以下の時間で眼球は蒸発していたが、それでも確かに見た。
地平線の端から端までが、焔に埋め尽くされていた。
空も大地も赤一色で、しかしそれだけでは終わらぬのだろう。
地平線の向こうも、空の彼方も、きっと同じような光景が続いているのだと確信できる。
何故なら此処は、紛うことなき一つの宇宙なのだ。比喩でも何でもない、数百億光年にも渡る膨大な質量と体積が、此処には確かに存在していた。違うのは、これが一人の人間の内的世界に留めさせられているということ。そしてこの宇宙は、空間の代わりに炎が、時間の代わりに死が発達した世界であるということだった。
リンボは既に言葉を失っていた。発声する器官そのものが最早焼かれて消失していたが、きっとそんなことは些末事なのだ。
だからリンボは、
蘆屋道満は笑った。嘲笑ではなく、侮蔑でもなく、まるで母に抱かれる幼子であるかのように。ただ純粋に、心の底からの安堵と共に笑みを浮かべて。
「嗚呼……」
今も眼球が存在していたらきっと滂沱の涙を流していただろう、その感情のままに。
「此処が地獄か」
そうしてリンボは消滅した。
この世の真理を悟った賢者であるかのように、苦界を脱した生の解答者であるかのように。
ただ、安らぎのままに。天から降りた雷霆によって存在ごとを消し飛ばされ、永遠の闇の中へ墜落したのだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
たおやかな笑みを浮かべたリンボが、音もなく黒灰となって崩れていく。
その様子をやけにゆっくり流れる景色の中、にちかは勢いよく外へと転がり出ていた。
「わ、あ───うわっ」
ぼとり、と線路脇の茂みに落下し、尻もちをつく。ぼうぼうの草木がクッションになってくれたおかげか思ったよりも衝撃は少なく、痛みもなかった。転がったおかげで全身草だらけにはなってしまったけど。
「助かった……の?」
助かった───そう思った瞬間、全身から力が抜けるようだった。
へなへなと背中から倒れ込み、大の字になって空を見上げる。
「よ……か、ったぁ〜」
恐怖はあった。心身への疲労も、正直このままぐっすり寝てしまいたい程度にはあった。
けどそれ以上に、開放感が勝った。あの地獄を抜け出せたのかと思うと、生きてるって素晴らしい!と素直に思えた。
正直途中でスプラッタな体験をした時はマジで死ぬかと思ったけど、うん、諦めないってステキだね。
「あ、ライダーさん! ライダーさんも大丈夫……」
でしたか? と聞く声が、止まった。
彼は、いた。無事だった。少なくとも死んでないし、手足がなくなってるとかそんなこともないし、ちゃんと動いていた。
火達磨ではあったけど。
「……え、ちょっと、ライダーさん?」
「近、づくな……悪い、今は……」
ライダーの、アッシュの星辰光は自分と味方は傷つけないものだと聞いた。
いくら激しく燃え盛っても自分を焼くことはない。付属性に特化した自分の数少ない長所だと。そして事実、先の一戦ではにちかを焼くこともなかった。
今は違った。
燃え盛るライダーの体は、明らかに焔によるダメージがある。黒く焼け焦げ、纏う衣服も炭化していくのが分かる。
「大丈夫……少し、時間をくれ……すぐ収まる……」
おろおろと、どうしていいのか分からず戸惑うにちかに、アッシュは絶え絶えの声で窘める。
大丈夫。その言葉を信じたいけれど、貴方は今まで嘘なんかついたことないけれど。
でも、それって本当に、大丈夫なの?
強がりとか、そういうものじゃ、ないの?
にちかは思う。けど言葉にはできなかった。
そうしている内に本当に炎は勢いを失くしていき、時間にして数十秒で完全に鎮火したのだった。
「えっと、ライダーさん……今のは……」
「ああ、ちょっと怒られた。流石に不甲斐ないぞ、って感じでな。さっきも言ったけど大丈夫、もう話はつけたから」
まあ返答次第では此処で精神的に殺されてた可能性もあるんだけど。
なんてことは流石に言えなかった。スフィアセイヴァーが爆弾であることは伝えてあるが、その詳細はにちかには言っていないのだ。今もその気になればアッシュを内側から容易に殺害できる、文字通り生殺与奪の権を握った存在を心に飼っているなどと。
「それより、このままだと少し目立つ。ちょっと背負っていくけど構わないか?」
「いや、それは別にいいですけど……」
何か釈然としないものがある、とは言わない。
世界を明るく照らす夕焼けが眩しくて、真っ直ぐ彼の顔を見つめることはできなかった。
『品川区・
プロデューサー自宅から一駅くらい離れた路線脇/1日目・夕方』
【
七草にちか(騎)@アイドルマスターシャイニーカラーズ】
[状態]:健康、精神的負担(大)
[令呪]:残り三画
[装備]:
[道具]:
[所持金]:高校生程度
[思考・状況]
基本方針:283プロに帰ってアイドルの夢の続きを追う。
0:
プロデューサーと話をする。何してんのあの人?
1:殺したり戦ったりは、したくないなぁ……
2:ライダーの案は良いと思う。
3:梨花ちゃん達と組めたのはいいけど、やることはまだまだいっぱいだ……。
4:私に会いたい人って誰だろ……?
5:次の延長の電話はライダーさんがしてくださいね!!!!恥ずかしいので!!!!!
6:こ、怖かった……
[備考]
聖杯戦争におけるロールは七草はづきの妹であり、彼女とは同居している設定となります。
【ライダー(
アシュレイ・ホライゾン)@シルヴァリオトリニティ】
[状態]:全身に中度の火傷(回復中)
[装備]:アダマンタイト製の刀@シルヴァリオトリニティ
[道具]:
[所持金]:
[思考・状況]
基本方針:にちかを元の居場所に戻す。
1:界奏による界聖杯改変に必要な情報(場所及びそれを可能とする能力の情報)を得る。
2:情報収集のため他主従とは積極的に接触したい。が、危険と隣り合わせのため慎重に行動する。
3:セイバー(
宮本武蔵)達とは一旦別行動。夜間の内を目処に合流したい。
4:アサシン(
ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ)と接触。定期的に情報交換をしつつ協力したい。
[備考]
宝具『天地宇宙の航海記、描かれるは灰と光の境界線(Calling Sphere Bringer)』は、にちかがマスターの場合令呪三画を使用することでようやく短時間の行使が可能と推測しています。
アルターエゴ(
蘆屋道満)の式神と接触、その存在を知りました。
※アルターエゴ(
蘆屋道満)は消滅しました。本体へのリンク等も一緒に消し飛ばされていますが、本体がどの程度情報を拾えているかは後続の書き手にお任せします。
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最終更新:2021年11月22日 12:51