十分理解できてる ずっとそれと一緒
そうじゃないと 何も見えないから
◇◆
新宿の中心にも伸びていた年の動脈が、車と人の群れで行き詰まりを起こしている。先のあの大災害から流入してきた人と元からいた人とが混ざりあい、休日の娯楽施設もかくやと言わんばかりの混雑度を見せていた。
その一部に紛れながら、アシュレイとにちかの二人はそそくさと歩を進めていた。
避難民から、安否を心配する人々。ともあれ無事だった自宅に早く帰って身体を休めようとする人まで、一様に疲労感と焦燥が支配しているような往来は、一応はTVに出る程には有名なアイドルだったにちかの存在を覆い隠してくれている。
……さっきから「なんか空気暗くないですか?」だの「人多すぎません?」だの「うっわ、今靴踏まれましたよ!信じられなくないですか!?」だのと不機嫌そうなセリフをポンポンと念話でアシュレイへ投げ込んできているのだが、そこはそれ。
『そろそろ裏道に入るぞ、マスター。こっちから住宅街の方に入ればあと十分かそこらだ』
『あー、やっとですか……ほんと、こんなごった返してちゃ歩けるものも歩けないですよ』
元よりそこまで大通りを多用しなかったのもあって、時間的なロスで言えばそこまで大したレベルではないのだが、それはそうと百万都市の人口を押し込めたようなストレスフルな空間は時間の長短を問わず鬱陶しい。
アシュレイにしたって、古都プラーガは元よりセントラルにおいてもこれ程の人混みに混ざったのは祭りやら何やらで都市の人々が一箇所に集まった時くらいだろう。それ程の人混みが新宿近辺のそこかしこで起きているというのだから、改めて東京という都市の大きさを実感しているところであった。
ともあれ、そんな空間を抜ければ、ようやくWから提示された合流ポイントの程近くまで到着していた。
如何にも格式の高そうな学校やマンションが並んでいるような一角だが、提示された住所を地図アプリで検索したところによれば、むしろ古ぼけた建物のようにも見える。
都市開発の事情というのもままならないな、なんてアシュレイの感想に、「うっわ誰ですかこんなところに住んでるのって」と身も蓋もない感想を零したにちかであったが――ひとまず、そこに待っている人間と会うのが、Wの提示した条件。
そんな訳で、二人はそこに辿り着こうとしていたのだが――あともう少しで辿り着く、というところで、地図アプリを起動していたにちかのスマートフォンが徐に振動した。
非通知、と書かれた番号に警戒をしながらも、ひとまずはにちか本人が電話を手に取り――
『もしもし……にちかちゃん……?』
通話先から聞こえてきたのは、にちかの思いもよらない声だった。
「え……っと、幽谷……霧子さん、ですか?」
辛うじて、事務所で同席した時やTVで見た時の記憶からアタリをつけてそう聞けば、電話口の向こうから肯定の声が聞こえてきた。
どうして、しかもこのタイミングで、急に――そんな思考の奔流で表情を白黒させるにちかの横で、アシュレイも僅かに思案する。
幽谷霧子。名前だけは、先程の
田中摩美々を調べた時に一緒に見ていた。彼女、そして白瀬咲耶と同じユニットのメンバーである、という程度の情報しか手に入れることはできなかったが。
ともあれ、そんな霧子という少女が、にちかに何の用かと耳を傾けてみれば――
『えっと、今……梨花ちゃんに会って、にちかちゃんたちに話を聞いておいた方が良い、って言われて……』
いきなりそんな情報を流し込まれたことで、二人の困惑はより一層強まった。
へ?という生返事を聞けたか聞かずか、電話口の先の霧子は彼女に電話することになった経緯を丁寧に紡いできた。
例の新宿の大災害に巻き込まれたとか、そのちょっと前に梨花に会っていたとか、皮下病院にサーヴァントがいるとか、もしかしたら
NPCも魔力があったら一緒に生きて帰れるのではないか――エトセトラエトセトラ。
ひとつひとつは丁寧であったのだが、明後日の方向からそこそこの情報量を押し付けられたにちかの頭脳はパンクを起こしかける。
『それで、その…梨花ちゃんは、皮下先生のところに向かった、って……』
「あー、す、すみません!ちょっと待ってください……!」
と、途中だった通話を無理矢理一旦打ち切って保留モードにした後、一旦脳内を整理する。
気がかりな様子のアッシュに、ひとつひとつ念話で聞いた話を伝えていくと、彼の顔もどんどん怪訝そうなものに変わっていった。
『どう思います、ライダーさん?正直、なんかいきなりすぎてめっちゃめちゃ怪しいんですけど…』
不安そうに、というよりは、むしろ相当に疑いを強めた顔でにちかが問う。
アシュレイとしても、正直に言えば話の展開が早すぎると思いはしたが、ひとまずは一つ一つ精査を行っていく。
『とりあえず、無条件に信頼することはできないな。電話口なら、声の偽装もしやすいから、本人だとも限らない――電話口の声とか、それこそTVを介した声だって、自分の声とは違うと思うだろ?』
『まあ、それはそうですね。話し方だって、テレビ見てれば真似できるし。じゃあやっぱり……』
まず疑うのは、電話口の相手が本当に
幽谷霧子なのかどうか。
彼女の喋り方は特徴的だが、真似ができないかと言われればそうではない。資料だけなら、その辺りの動画サイトを漁るだけでもいくらでも発見できる。
肝心の声にしても、少しボイスチェンジャーを噛ませるか、それっぽい声を出すだけでも騙せることはある。霧子の身柄を向こうが抑えているとすれば、脅して本人に言わせたって問題ない。
ましてにちかは霧子の声をそこまで深く聞いたわけでもない。その判別で言えば、彼女が
幽谷霧子である保証はまずできないと言っていいだろう。
だが、偽装ができるかどうかと、その内容の真偽に関してはまた別の問題だ。
『……いや。少なくとも、こっちに連絡する理由を聞いた限りでは、問題はないような気はする。これだけの情報を一方的に渡すメリットが、俺の考えつく限りではない』
そして。
その真偽について――少なくとも、にちかから聞いた限りの情報について、アッシュはそう結論づけた。
梨花の位置関係や諸々の込み合いで連絡がつかなかったことを考えても、霧子が言う巻き込まれた状況については一定の納得自体は得ることができた。
その上で、こちらの存在を知っているぞ、という脅しが目的なら、現在283から脱退しているにちかに対して、特に仕事などで明確な接点があった訳でもない
幽谷霧子を選択するというのはかなり迂遠だ。
その場合の選択肢としては、恐らく
櫻木真乃が最良だろう。梨花たちの方からアシュレイたちに伝えてきた以上、梨花とにちか達の間でマスターであるという情報を共有できている存在だ。情報の信頼度は跳ね上がったことだろう。
そんな安牌を選ばずに
幽谷霧子を選ぶ必然性が、中々向こうには見当たらない。
『罠の可能性があるとしたら、梨花を尋問してこちらの情報を聞き出した上で、彼女の無事を伝えつつこちらを遠ざけておく、という可能性はあるが…そこまで考えられるなら、むしろ放置しておくだろう』
『なんでですか?』
『こっちには能動的に彼女を探す能力がない、ということは、彼女とセイバー自身が知っている。もし尋問されて自白を強要され、こっちの情報がそこまで筒抜けになったなら、むしろ行方不明のままの状態の方がこっちに無駄な努力をさせられる』
あのセイバーが当初探し人を尋ね歩いていたように、こちらも協力者を探し、かつ会敵するまで互いに存在に気付くことがなかったという事実がある以上、こちらも向こうも特別な探知能力を持っていないということは割れている。
そんな状態で東京の全部をひっくり返して、攫った彼女たちを取り戻してみろ、というには、皮下という男のアジトについても情報が足りなさすぎる。
せめてもう少し情報を漏らせば攪乱の糸もあったようなものだが、そうした指向性を与える情報があるわけでもない以上、罠を引かせたところで、そこからどうこちらを動かすかについて全く考えていない。
『……なんか、そう言われると逆に怪しくないですかねー?裏の裏の裏まで読んでる、ってことは……』
『有り得なくはないだろうが、その結果として向こうが得られるアドバンテージも目減りしているんだ。怪しまれない為に効率性を削っていけば、ローリスクな代わりにリターンも限りなく少なくなる』
少なくとも、こちらから情報を聞き出す訳でもなく、向こうが一方的に情報を喋った形になる。これで罠だとして、得られるのは梨花の身柄が怪しいことだけだ。
本人の警戒とは別の軸で「脱出計画のことがある程度広まる可能性がある」ということを意識して動かなければいけなくなった、という問題ももちろんあるが、それはどちらにせよ今後考えて動かなければならないことだろう。彼女達の話が本当であっても、皮下という男の陣営の手で広まる可能性は考えなければならないのだし――本当に界聖杯からの脱出に彼の部下を連れていく場合であっても、幾らかは考えないといけないことだ。
『ひとまず、これまでの経緯は聞いたんだったな?それなら、今後の行く先も多分自発的に話してくれるだろ。それを聞いた上で、上手くいけそうならこれから会う面々とも含めて合流を持ち掛けたいところだな』
というのが、ひとまずアッシュが導き出した結論だった。
にちかとしても、ひとまずは異論はなかった。これから283プロの人々と合流する以上、こうしてその中に人脈が増え、頼れる仲間が増えていく、というのは心強さを感じさせるものだ。いや、283プロ、とりわけアンティーカのマスター率いよいよおかしくないですか?という思いには溢れているのだが。
ともあれ、アシュレイにも同時に聞こえるようにイヤホンで繋ぎ――勿論ワイヤレスだった。こうした機会に必要になると言われ、「浮かれたカップルみたいになるの嫌なんでー!」とアイドル時代の稼ぎで買いに行った――直すと、長い事保留になっていた通話をようやく再開する。
「あー、えっと。しばらくお待たせしてすいません。ひとまずこっちの人からもOKが出たのと……それと、一応今後どうするかについても聞いておけって」
『良かった……えっと、この次には、さっき言った光月さんって人を……探しに行かなきゃって……』
おでん、というのは、梨花が会った対聖杯の心強い味方であるらしい。
今後皮下陣営と対立した場合との保険で連携を図りたいということであったが、戦力としては彼女も太鼓判を押していた、というのはにちかとしても助かる気持ちだった。新宿の災害の様子を見た今となっては、頼りになる戦力というのはいくらあってもいいのだろう。
……と。
にちかにとって、突然ではあったものの、いずれの情報も彼女の不安を軽減させるものであった。
これから合流する、283プロダクションという勢力の中で仲間を増やせることは、単純に聖杯戦争を戦っていく上で心強いものであったから。
『えっと……摩美々ちゃんも、まだ近くにいる……?』
「……え?」
だからこそ。
それまでとはまた違った、一切合切の心当たりのない霧子の発言が、彼女の頭に深い混乱を呼んだ。
「……まだ、って、どういうことです?というか、なんで会うって知ってるんですか?」
『え……?』
そもそも
田中摩美々という存在がマスターであるという当たりをつけたのが、ついさっきなのだ。接点などあろう筈もなく、こちらがこれから相手をするものとして事務所にいた頃の記憶をなんとか縋って思い出していたところ。
その程度の間柄で、なんで繋がりを見出してくるのかと思ったにちかの脳に。
『お昼ごろ、にちかちゃんと摩美々ちゃん、一緒にいたから……』
霧子の言葉は、更なる混乱をもたらした。
「…………は?」
これまでの話は、にちかにとっての処理能力の範囲内ではあった。霧子についてはともかく、彼女から齎された情報自体はあくまで自分たちと梨花の同盟の内容から推測し得る内容のものではあったから。
だが――これは、どういうことだ。
今度の理解は、明らかににちかにとっては知らない情報だ。
『……いや、まさか』
イヤホンから流れ込んでくる情報を、今度は同時に聞いていたアシュレイは、同時に思案を巡らせ――真っ先に思い浮かんだのは、ついさっき自分が霧子を疑ったのと同じ理屈。
『……「七草にちか」の偽物がいる?』
霧子の声を偽物のそれと疑ったように、自分のマスターの偽物、あるいは替え玉か何かを用意しているのではないか。
まず思い当たったのは、その可能性だった。
『そんな……』
『いや、でも少なくとも、向こうはこっちのマスターが君であることを根本的に見抜いていた。だとするなら、向こうには七草にちかがいない、ということは分かっていた筈なんだ』
『……でも、私、そもそももう283プロのアイドルじゃないんですよ?確かに引退してから少しくらい会って話すのもあるかもですけど、だからといって……』
『それでも、向こうが俺達を認知していたなら利用はできる。後から引きこむつもりだったなら、可能性はあるだろう』
その上で七草にちかの見た目だけを利用した、というのであれば、筋は通る。向こうとしてもこちらを抱き込むことを第一目標としていた以上、後に本物を出してしまえば変装能力があったとしてもその存在を隠匿することはできる。
現段階のアシュレイからすれば、ある程度は信憑性があるようには思えた。
最も近しい選択肢で言えば、彼女の姉であるはづきなのだろうが、彼女がにちかに変装したところで付き合いの長い霧子も誤魔化せるのだろうか、という疑問は残る。
『――いや』
と、そこで念話を切り上げる。
他にも色々と考えなければならないことはあるのかもしれないが――少なくとも、考えるよりも実際に見聞きした方が早い局面というのもある訳で。
つまるところ、二人の歩みは、当初の目的地へと到達していた。
「本人に聞くのが、一番いいだろうな」
角を曲がった先。
新築の住宅や集合住宅に囲まれた中で、時代においておかれたかのような古ぼけたアパートを照らす街灯。
その下で、静謐な空間には似合わぬ鮮烈な紫色の髪が揺れるのが、アシュレイの目に留まっていた。
「お、来たー」
気だるげな、それでいてどこか楽しそうな声が、アシュレイとにちかの耳朶を打つ。
向こうもこっちも事務所でそこまで長い付き合いがあった訳ではないが、見かけたぶらりと手を上げるその様は、何度か見た彼女のようににちかには見えた。
「田中、さん」
「ふふー、久しぶりー」
とは言っても、状況が状況な訳で、にちかからの挨拶は随分と堅苦しいものになってしまい。
それに対しての摩美々の反応はといえば、こちらはやたらと緩いというか、久しぶりに会ったにしてはどこか角の取れた挨拶を送ってきた。
……というか。どちらかと言えば珍しいものを見るようにじろじろとこちらを見られているのは気のせいだろうか?
「……いや、なんでそんな見てるんですか」
「…………いやー、まー、ちょっとねー」
何がそんなに珍しいのか、まるで品定めする蛇のようなその目に、思わず身を隠してしまう。
そうして数歩後ずさった彼女の前に乗り出すように、今度はアシュレイが前に出た。
人当たりのいい、よく通る声。静謐とした空間を揺らして溶けながら、夏の湿気を飛ばすような済んだ声。
アイドルのそれとは質が違うが、それでも言葉の力で渡り合うものの明朗とした声に何か感じるものがあったのか、それともまた別の理由か。摩美々の口角が、ほんの少しだけ上がるのがにちかにも見えた。
「はいー。それじゃ、あなたが…」
「ああ。サーヴァント、ライダー。今回彼女に呼ばれたサーヴァントだ」
そう言いながら、
本来なら、自分たちをこうして呼びつけた上での本来の案件に取り掛かりたいところだが――あいにくと、今はそれよりも先に聞かなければいけないことがあった。
「……早速だけど。君は、俺のマスターである少女以外の『七草にちか』と会っているか?」
単刀直入に。目の前に降ってきた問題が、彼女、ひいては彼女の裏にいるのであろうWの策略なのか否か。
それを見極めないことには、本題に入るもなにもなくなってしまう。
「……なんでですかー?」
果たして、怪訝そうながらも、しかしどこか面白そうに、彼女はその言葉に食いついた。
当たっているかどうかはともかく、何かを知っている。そう言わんばかりの態度に、心の中で小さく息を吐く。
少なくとも、Wが仕込んでいた計略に食い込むことに関しては成功していたらしい――全く、相も変わらずカマをかけられ続けていたということか。
だが、彼女の要素も見るにそこまで意図して仕込んでいたという訳でもなさそうだ。これに関してはこちらが察する可能性が無かったものを、偶然こちらが拾っただけか。
「俺の推理じゃない。あくまでそういうことがあった、というのを……彼女に、聞いただけだ」
ともあれ、そう言いながら、原因であるところのにちかのスマートフォンを彼女へと渡す。
ワイヤレスイヤホンの接続を切りつつも通話中になったままのその画面を、怪訝そうに覗く彼女だったが――もしもし、と耳に当てて。
『――!摩美々ちゃん………!』
「…………!霧子じゃーん…………」
電話口から、思いもよらぬ声が聞こえてきた瞬間に、摩美々の表情が崩れる。
一見すれば表情は動いていないものの、弾みを隠しきれない声からは隠しようのない喜色と安心が混じっている。
(……少なくとも、偽物、には見えない…?)
アンティーカは仲がいい――営業とかではなく、本当に。
別に、自分の目で確認したということはそこまで多くないけれど、姉に話をせびった時にはそんなことも決して少なくない回数聞いたことだ。
だから、なんていうか。
目の前で、いつもは悪ぶってるような彼女がこうして柔和な雰囲気を出していると――正確には、誤魔化そうとはしていてもそれでも心配が隠せなかった、というのをありありと出していると、少なくとも彼女は偽物でもなんでもないんじゃないか、と信じたくなってしまう。
。
「………どうして、霧子と繋がってるんですかー?」
かと思えば、こちらに露骨に怪しげな目を向けて来る。
……こちらが待望していた相手であるとはいえ、心配していたことを隠そうとしていたという体も投げ出してはいないだろうか?という無粋な懸念が、にちかの思考の端を過った。
「どうして、も何も、向こうから電話が来たからだ。とはいっても、事情についてはかなり立て込んでいるんだが。
……俺達でもちょっと驚いたくらいには色々と複雑なことになっているから、経緯はともかく、詳しい内容についてはまた後で、君のサーヴァントとも交えて話をしたい」
それに対するアシュレイの返答も、当たり障りのないものだった。
この一件については、彼等にとっては不意を突かれた形だ。梨花と結んだ同盟の話も含めてWと深く話さなければならないとは思っていたが、それが想像以上に早まったという形になる。
ともあれ、今この場で展開してしまうとややこしさが膨れ上がっていくだけだ。正式に落ち着いたテーブルを用意した上で話したい、というのが、正直なところだった。
「……さて、話を戻すけど。ああ、もちろん電話の邪魔をしたい訳じゃないからそのままでいい」
話を戻す、と聞いて、一旦携帯電話を下ろそうとした彼女を手で制しながら、ひとまずは向こうが用意している本来の要件を聞く。返す返すも、霧子の話はあくまでおまけなのだ。
同時に、ユニット仲間の安否確認という意味では、彼女はむしろこうして本来の要件を済ませている間に情報交換を済ませてくれていた方がありがたい。そういう意味で、電話に関してはこのまま彼女に任せるつもりでいた。
「あの男が言っていた、マスターに会わせたい人というのは誰だ?状況から察すると、ここにいるってことなんだろうけど」
「……え、分かってるんじゃなかったんですかー?」
そう聞いたアシュレイたちに対して、摩美々は少し意外そうな顔を浮かべたものの――そう間をおくこともなく、徐に右手でアパートの一室を指差した。
灯りが漏れているその一室は、外見からは何の変哲もない、ただの古い一室にしか見えない。
「お話については、私も――」
「大丈夫だ。なにかあれば、俺がちゃんと見ておくよ。……気になるようなら、電話をしていてくれても構わない」
彼女も本来、ストッパーとして設定されているような立ち位置で丸く収めてくれるのかもしれない。Wのマスターだと言うのであれば、尚更期待もしたくなる。
だが、それにしたってこの電話を遮ってしまうほど無粋なこともないし、
それに、あくまでHが彼女を会話上の抑止力としていたなら、少なくとも「彼女に収められる程度」のトラブルしか起きないということだ。手荒なことにはならないだろうし、外交官という立場にかけて自分がどうにか収めてみせよう。
「……はいー。ありがとうございますー」
「こちらこそ、ありがとう。……行くか、マスター」
そうして、二人してドアの前に立ったはいいが――はてさて。こちらはこちらで、何から手を付けたものか。
ドアの標識を見れば分かるかとも思ったが、聖杯戦争の隠れ家として利用しているためか、それとも名前を見るだけで察してしまうのを恐れたのか、こちらの標識は抜き取られていた。
従って、今に至って尚、情報は皆無だというわけだ。
『一応もう一度聞くけど……心あたりはなさそうか?』
『ないですよ、こんなふっるいアパートに住んでる人で知り合いなんて……』
ことここに至っても、にちかに心当たりはないという。
実際に建物に立ってみれば、何か思い当たる節が浮かぶかとも思ったが、結局そう都合よくは行かなかったようで。
ともあれ、分からないなら分からないなりに、対面してから向き合ってみるしかない。
ここまできたら出たとこ勝負ですねー、と念話で告げながらドアベルへと手を伸ばすにちかを見ながら――不意に、アシュレイはこれまでのやりとりを思い出す。
――"七草にちか"が聖杯戦争を生きるに当たって、避けて通ることの出来ない命題です
――お昼ごろ、にちかちゃんと摩美々ちゃん、一緒にいたから……
――分かってなかったんですかー?
摩美々の反応に、霧子の反応。
マスターにとって必ず相対しなければならない運命である、という言葉。
ふと。馬鹿げた考えが、アシュレイの頭に飛来する。
本来ならば有り得ない、界聖杯のバグか何かと思ってしまうようなその考えを精査するために、アシュレイの思考が回転しようとして。
「あー、やっと来た」
その思考が結実する前に響いてきた声を聞いて、アッシュはまず、聞き慣れているその声を発した筈の彼女を見た。
なぜ前から声がしたのか、という謎に対して、まず念話になんらかの介入をされたのかを疑い、その次に敵の襲撃や精神操作があったのかともあたりをつけたから。
けれど、その当の本人はといえば、未だに怪訝そうにきょろきょろと辺りを見渡して、ただ声の聞こえてきた方向とアシュレイのほうを見つめている。
そこから、あけ放たれたリビングの扉から、やはり聞き慣れた、聞き間違いではない声が再び聞こえてくる。
「鍵は開いてるんで、早く入ってきてもらえますかー?……言っとくけど、罠とかないですよ?住んでる家に仕掛けるのは危ないからやめてってアーチャーさんに何回言ったと思ってるんですか」
口調に言い回し、そして声音。ああまさか、という予測が、しかし一番現実に近いのだと無情に理性は告げている。
そんな荒唐無稽があるかと思いつつも、しかし真実は僅か数歩先、ドアの向こうで待っている。
固まった表情のマスターの手を軽く引いて、ドアを開く。
そこは外見から見合った狭い部屋で、玄関からでも居間がすぐに見えて。だから、そこにいる灯りに照らされた人影の顔も、すぐに理解できてしまえて。
「………………え?」
唖然と黙り込むにちかの横で、アシュレイはふと、先程の会話を思い出していた。
――電話口の声とか、それこそTVを介した声だって、自分の声とは違うと思うだろ?
自分はすぐに気付けて、自分の隣の彼女が気付けない、というのが、正解をこれ以上なく示していたのかと思いながら。
果たして、テーブルの向こうにいたのは、アシュレイが予想していた通りの顔。
「……まあ、気持ちは分かりますけど。とりあえず靴脱いでこっちに座ったらどうですかね。一応こっちも話したいことは一杯あるのでー」
その顔面には、赫く染まった令呪が煌めいていて。
それはまるで、『その』七草にちかという人間そのものを象徴する、傷痕のようだった。
◆◇
『ふたりも……にちかちゃんが……いるなんて……』
流石の霧子といえども、こればっかりは驚いているようだった。
まあ、驚くな、という方が無理のある話だろう。自分だって、状況をただ言葉で聞かされただけでは絶対に信じなかったと思う。
「まあ、実際に会ってみないと信じられないかもだケドー。実際、話した感じも多分ちょっと違うしー」
今のところ、とりあえずは大丈夫なのだと思いたい。
「それに、霧子の方が大変じゃないー?」
『ううん……わたしは、大丈夫……その、アサシンさんって人も、探してみるから……』
「そっちの目的があるなら、そっち優先でもいいケドー。気を付けてねー」
幽谷霧子が巻き込まれた状況は、摩美々からしても頭が痛くなるような代物だった。
アサシンからの情報で、かなりの切れ者なのだろうとは認識していたが――脱出方法を具体的に所持しているとか、そのレベルで凄い人間だとは認識していなかった。
これはアサシンさんが帰ってきたら、またとんでもなく頭の良い話をすることになるのだろう。甘いものくらいは、まあ、あったかどうか確認しておいてもいいかもしれない。
ともあれ。
摩美々にとって大きな懸念であった霧子の安否が確認できたことは、この状況の中で心底安心できた事柄の一つだった。
聞けば、未だに新宿の近くにいるらしい。幾らか距離はあるようだが、なんとなれば御苑に向かったアサシンと合流もできる距離だ。
少なくとも大災害の余波で行方不明だった頃に比べれば、安全を確保するのは遥かに楽になった。それだけで、摩美々にとっては安心する要素だらけだった――のだが。
『にちかちゃん……W.I.N.G.の後も大変そうだったけど……また、お話できたらいいな……』
彼女が、ユニットメンバーであったから、霧子の口がつい和らいだのか。
はたまた、七草にちかという名前が、そうさせたのか。
幽谷霧子だけが知り得る情報が、それだけではないことを。
田中摩美々は、こと此処に至って、誰よりも先に知ることとなった。
「―――――え」
ちょっと待って。
今、彼女は何と言った?
――W.I.N.G.の後と、そう言ったのか?
「……W.I.N.G.の後って、霧子、その時のにちかの居場所知ってたのー……?」
『……?』
此方の焦った声に、霧子の方もただ疑問符だけで答える。
一体どうしてそんなことを聞くんだろうと言わんばかりに、当然のような声で、霧子は平然と返してきた。
『摩美々ちゃんや智代子ちゃんと一緒にやった、お花屋さんの、職業体験のとき……真乃ちゃんと一緒に、乗っていたって……だから、今度は私もお話したいな、って……』
知らない。
霧子や智代子と一緒にやったという花屋の職業体験のことも。その時、にちかがいた、とか。
そんな出来事を、
田中摩美々は知らない。
七草にちかがW.I.N.G.の後も事務所に滞在し続けているということもおかしいのに、そんな私が知らないことが起きている、と、いうことは。
「―――――あっ」
図らずも、二人のにちかの存在について、強く意識していたお陰か。
もしかすると。
彼女――
幽谷霧子、その人が。
自分の知る
幽谷霧子とは違う、別の世界にいたかもしれないのではないか、と、すぐ思い当たることができた。
自分たちが、辿り着くことのできなかった――にちかがW.I.N.G.に優勝し、283プロダクションが何ら問題を起こすことなく進行したという、理想的な世界にいたかもしれない、ということに。
そして、その世界について想いを馳せるよりも早く。
不味い問題がひとつあることに、摩美々はすぐに思い当たる。
だとすれば。霧子は、「この世界にいる
プロデューサー」のことを、本当に、いつもの
プロデューサーの延長として見ている。
彼女は、最早前提となりつつある283プロダクションの事情――敵対相手となる
プロデューサーについて、何一つ事前情報を持っていない。
だと、すれば。
(……あー)
幽谷霧子は、彼の――
プロデューサーのことが好きだ。無論、恋愛的な意味ではない。
正確には事務所のアイドルで、彼を人間的に好いていない人間はほとんどいないだろう。
仕事人としてはちょっと理想主義で、引っ張ってくれていた存在である、頼りになる大人。
好感度についてはそれこそ幾らでも個人のブレはあるだろうけれど、少なくともアンティーカのメンバーは全員、彼に対して深い信頼を向けていたことは確かだ。
だから。
そうした彼の姿を知っている、霧子が。
もし、全く何も知らない状態で、変わってしまった可能性が高いあの
プロデューサーと、直面してしまえば。
(…………………………あー)
そんな光景を、想像したくなかった。
「……ねえ、霧子」
本当は、教えたくなど無かった。
こんな状況を教えてしまったら
だけど、きっと知らないと――本当に何も知らない状態で聞いてしまったら、もっと傷付く。
それは、何も知らないうちから不意打ちで傷付けられるということだけでなく。
霧子の優しさから考えると、むしろ「摩美々がそれを言わなかった」ことで、「霧子を傷付ける要因である
プロデューサーから遠ざけようとした」ことにこそ、後ろめたさで心を痛めるだろうから。
「霧子が分からないって言ってる、
プロデューサーとかにちかの事情について。ちょーっと長くなるんだけど、一旦全部ぜーんぶ話そうと思いまーす」
だから、それは自分の役目だ。
痛い目に合わせてしまうのかもしれないなら、せめて悪い子はそのクッションくらいにはなりたい。
アサシンたるに、辛い役目を自分から背負おうとするなと言ったばかりの、二律背反であることを責められても仕方ないことだけど。
それでも、ユニットの仲間がみすみす傷付いてしまう可能性を摘み取るくらいは、許してほしい。
「……だからぁ」
そして――それと同時に、願わくば。
「その前に、霧子がここに来る前の283プロのこととか、にちかのこととか、聞いてもいいー?」
その世界のことを。
何もなかった、ただ、世界がありのままに続いてくれた283プロのことを、知りたかった。
幸せな世界のことを――今はただ、知りたかった。
◇◆
「……改めて」
呆然としているこちらのマスターを、なんとか案内された通りに席に座らせて。
なんとも言えない、少なくともアイドルがいるにはあまりにも場違いと言うべきであろう安アパートの一室で、彼女たちは向かい合っていた。
どこから聞いたものか、誰から話したものか、という沈黙が維持される中を、からん、と氷の音だけが通り過ぎていく。
「……ライダーのサーヴァント。マスター……こっちの、にちかに召喚されたサーヴァントだ。ひとまずはライダーか、君たちの仲間とクラスが被っているようならHとでも呼んでくれ」
そんな静寂で、真っ先に口火を切ったのは、やはりアシュレイだった。
状況や心情はどうあれ、敵意もない相手でありこれが対話のテーブルであるのなら、仕切るという程ではなくとも互いの意思疎通を円滑にさせるのがアシュレイの役目なのは変わらない。
ついでに言えば、にちか両人はともかく、向こうのサーヴァントもそういう――弁が立つタイプには見えなかったから、いっそう、というのもあった。
「彼女に召喚された、アーチャーのサーヴァント。馬鹿げた強みがある訳じゃないが、よろしく頼む。それで――」
未だに黙るにちかよりも先に、その男――アーチャーが簡潔な自己紹介を済ませてきた。
口下手、というよりはシンプルに必要なことだけを口にしたのだろう。彼が漂わせる雰囲気に、どこか昔を思い出す。
自分が軍属の頃と比較するには刺々しいが、しかし荒れていた傭兵時代と比較すると、どこか険が取れているような。
ちょうど、その中間。自分の身一つに頼っているが、決して他者を排斥するようなものではないような。そんな雰囲気を纏っている男だった。
そんな彼が、促すように彼自身のマスターの方を向けば、顔に傷のような令呪を刻んだ彼女はため息をついてそれに応える。
麦茶をおもむろに手に取って一息に飲み干したかと思えば、意を決したようにこちらを向いた。
「七草にちか。なんというかー……まあ、『アイドルじゃない』方のにちかなんで、そうですねー。そっちが紛らわしいなら七草ってだけでいいです」
こちらが来ることを把握していたとはいえ、流石にこんな荒唐無稽のシチュエーションに僅かながらの緊張はしているのか。不安そうに揺れつつも、それでも芯のある目でこちら二人を見据え、そう説明してきた。
その姿と説明に幾つかのひっかかりを抱えつつも、それを指摘するよりも先に、アシュレイは最後に残った主へと意識を向ける。
座り込んでからずっと俯き、固く握り締めた拳を膝に置いて黙りこくっているマスター。
確かに状況が突飛ではあるが、しかしここから
さてどうしたものか、と念話を送ろうとした、その時。
「……いや、おかしいじゃないですか!私が二人いる訳ないじゃないですか、偽物なんじゃないですかねー!?」
――あろうことか。おもむろに立ち上がったと思えば、そんなことを言い出した。
急に出た言葉と、その内容に一瞬呆気に取られていた三人であったが――真っ先に瞠目から立ち直った向こうのにちかが、負けじと立ち上がって抗弁を始める。
「はぁ!?今更そんなこと言うとかありえないでしょ!?こっちはテレビで見た時から散々考えてきたのに――」
「知る訳ないでしょそんなこと!私以外に私がいるとかぜっっったいありえないし!あなたなんて知りませんー!」
「そっ……そうやって知らない知らないって言って誤魔化す方がありえなくない!?自分がこんなに物分かり悪いとか思わなかったんですけど!」
「はいはいそうですかそうですかー!ライダーさん!電車の中でやってたアレでこいつの正体分からないんですか!?」
「こ、こいつって……自分にこいつって言い出すとかやめてよ!私までバカみたいに思われるじゃん!」
「私までってどういうことなんですかねー!?ほんとに同じ人なら頭の良さも一緒でしょー!?」
わいわいがやがや、けんけんがくがく。
お互いサーヴァントのことなど忘れたかのように、一切遠慮なしの言葉の応酬をガンガンと交わしていく。
その積極性には驚くこともあるものの、なにせ相手が自分自身だ。彼女が包み隠さず言いたいことを言えるということに関しては、間違いなく最適な相手と言えるだろう。
……それはそうと、全く顔も声も同じ完全な同一人物が、段々語彙のレベルを下げながらさんざっぱら罵り合うのを聞くのは、傍観者の立場から見ると滑稽とか混沌とかそういう類の混乱を招いてくる。天は全てを照覧す(るんたたるんたたるんたたるん)――なんて嘯く双子の姿が頭をよぎったような気がした。
「……マスター、落ち着いてくれ」
とにもかくにも、こうして散々口論してるだけではまとまる物もまとまらない。話を振られたのを良いことに、アッシュは立ち上がって同じ目線に立ちながら二人の口撃の隙間へと滑り込んだ。
「まず、マスター。俺のアレは正体看破に使えるようなものじゃないし、それを差し引いても彼女に魔力やそれ以外で彼女を変装させるような魔術的な余地はない。少なくとも、今の彼女が君と同じ姿形をしていることは間違いなく事実だ」
アレ、とぼかしたのは、リンボに用いたペルセウスのことだ。ここまできて敵対する要素もないだろうとはいえ、ひとまず落ち着くまでは宝具の情報は取っておくに越したことはない。
それをすんでのところで覚えていたのか、マスターであるにちかも口論の中で宝具名までは口に出さなかった、という冷静さを看破した上でそんな声をかけた訳で――案の定、自分の中に残っていた冷静さを突かれた彼女は水をかけられたように大人しくなる。
「それは…まあ、そうですけど……」
実際、幾らか思う所はあるようだが、不満げに口を尖らせるだけで特に反論らしい反論をする訳ではなさそうで。
彼女自身、受け入れてはいるのだろう。どうあれ、彼女が自分自身であるという事実からは恐らく逃げられない、ということを。
そうであるなら、先程の
幽谷霧子からの電話にも矛盾はなくなる。アシュレイたちの存在を早期に向こうが認知したことについても、今のにちかのロール――はづきとの関係性などから齟齬が生まれていたためと考えれば理解が及ぶ。
「それに」
……それに。
彼女が間違いなく彼女自身であろう理由がもう一つ、既に語られている。
「……君にとって、避けられない邂逅だというなら。これ以上に避けられないものなんて、ないだろう?」
その言葉を聞いて、それまで良くも悪くも弾けるように回っていた彼女の表情が、沈み込むように歪む。
一瞬だけちらりともう一人の自分を見たかと思えば、やはり立ち上がる前のように顔を俯かせ、それきり、やはり黙り込む。
再びの静寂は、一度目のそれよりも重く――そしてこればかりは、
アシュレイ・ホライゾンといえども軽率に口を出せるものではなかった。
――自分との対話。
誰しもが一度は己の心に自分の道を問うだろうが、今目の前にいるのは本当の本当に自分自身だ。
アシュレイ自身、そんなことができたとして必ず上手く行くと保証はできなかった。いや、上手くいかせてみせるとは言うのだろうが、それでも100%の保証ができるものでもない。自分が行っている、片翼との対話ともまた趣が違う。
何せ、対話の土俵で己を守るものがない。己の武器も鎧も、その使い方さえもが鏡映しの相手と戦うようなものだ。
傷の負い方も負わせ方も、同じものとして知り尽くしている。真に致命の一言ならば、防御も回避も意味をなさない。
そんな状況に放り出されれば、怯えるのも当然だろう。
「えー、そんな格好つけて話してたんですかあの人……?」
そんな対話であることを分かっていながら、しかし、相手側のにちかはどこか居心地が悪そうな態度で肩をすくめる。
向こうも必要以上に気負っている様子ではないことは幸いであり、同時に、アシュレイは彼女に覚えていたひっかかりの正体が少しずつ理解できてきた。
(……なんというか、そう。言うなれば、彼のような)
どことなく。
彼女の様子が、とある人に似ていると思ったのだ。
そんなアシュレイの思いを知ってか知らずか、彼女はうんうんとうなり始めていた。
「……まあ、ほんと。何から話したものか、って感じなんですけど」
ああでもない、こうでもない、と。言葉をひとつひとつ選ぶように、その目が空をなぞる。
語りたいこと。喫緊の事から、彼女たち自身のことまで。語るべき内容はそれこそ山とあるだろうし、それら全てを悠長に議論している時間がある訳でもない。
数拍の逡巡の後、一瞬だけ目を閉じたかと思えば――腹を括るような表情で、その最初のひとつを定めたようだった。
「とりあえず、私たちはそっちの事情を聞いたので、こっちの身の上から全部話すとして……その後は、まあ重要になるんじゃないかーってことから話しましょうか」
そうして、彼女が問いかけたのは――七草にちかにとって、最早逃げられようもなくなっている、ひとりの人間のこと。
「そっちの私と
プロデューサーさんのこと、教えてもらってもいいですかね?」
最終更新:2022年02月13日 22:26