◆◇





選んだ色で塗った 世界に囲まれて
選べない傷の意味はどこだろう





◆◇



――プロデューサーという男は、自分にとってどんな存在だったのだろうか。

それは、先程のアシュレイの話を聞いてから、自分なりに考え始めていたことであり――同時に、それからずっと考えて尚、答えの出ない問いであった。
彼の言葉や態度に、何度もぶつかっておいて。彼の方針や、自分へのプロデュースの方法に、何度も、何度も衝突しておいて。
今になって、彼自身がどんな風に自分を思っていたのかも――自分が彼をどんな風に思っているのかも、上手く説明できないことに気が付いた。
いや、もっと事態が単純であれば、もっと気楽に印象だけを話すことだってできたのかもしれないけれど。
彼が今しているかもしれないことを思えば、自分から見た彼が本当はどんな人間だったのか、定義できようはずもなかった。

だから、ただ朴能と、あったことだけを話した。
最初はCDショップの一室に監禁したことや、それで無理矢理オーディションの権利を勝ち取って研修生として所属を許されたこと。
彼が、アイドルとしての自分からふとしたきっかけで顔を逸らしていたことや、自分のアイドルとしての生き方への反駁のやり取り。姉との約束と、自分のアイドルとしての将来のこと。
レッスン場や舞台袖で繰り返した論争。かけてもらった言葉の中から、印象的だったもの。
そして、最後に――W.I.N.G.のステージで、結局、脱落したことまで。

気付けば、それは。
アイドル・七草にちかそのものの、遍歴を全て語るに等しい、供述だった。

「……そう」

それを聞いた彼女の顔を、見ることが出来なかった。
先程彼女から聞いた話が、耳の中に蘇る。
――彼女は、アイドルではない。そもそも、アイドルにならなかった人間である、と。
自分が、諦めた姿。姉の死の前兆に気付いたことをきっかけとして、アイドルになる為の熱意すら失ってしまったが為に、ただ順当に脱落してしまったイフの自分。
そんな自分は、こうして実際に失墜した自分のことを、どう思うのだろう。

「まあ、なんというか――聞きたいことは聞けた、というか……自分からこういう話聞くの、めちゃめちゃ変な気分ですね」

誤魔化すようなその言葉も、聞きたくなんて無かった。
いっそ罵ってくれた方が、こちらとしても幾らか楽だ。
高望みをした代償に失墜した自分を、やはりおまえは駄目なのだと罵ってくれたら気が楽だったし。
自分がそう思っているのだから、向こうだってそう思っているはずなのだから。
ここから、それでも自分がアイドルを志していると知ったら、彼女はどう思うのだろう。

「……こっちの方が、恥ずかしい思いしてるんですけどー」
「いや、そこはおあいこじゃないですか?私だって話したじゃないですか」

そんな負の思考の循環を打ち消す為に絞り出した言葉も、淡々と返される。
深く、詰るような言葉ではない。
それが、あまりにも自分という人間に即していないように思えて――却って追い詰められているような気がしてならなかった。
自分が

「……アイドルにそもそもなれなかった話されてるのに、同じ気持ちとか言わないでくれますかねー?」

だから、つい。
そんな恐怖に怯えて、自分を逆撫でするような言葉を言ってしまう。
いつも誰かに当たってしまうように、自分自身に当たってしまう。
これまでの話を聞いていれば、それがどれだけの地雷か分かったものではないというのに。
ああ、流石に向こうも、これは怒るだろうか――そんな予感と共に、拳を強く握りしめていた。

「……そうですね」

だから、そこにも素直に同意されたことに、少なからず驚いた。
自分なら、そこでまだまだ納得せずに反論を繰り返すか、そうでなければ嫌味で返すのだろうな、と思っていたから。
そういうところが、自分とは違うらしいと益々突き付けられるようだった。

「プロデューサーさんは、こんなやつの為に戦ってるのか、とは思いましたね」

そして。
その直後にニュートラルな口調で発せられた、余りにも無遠慮な一言が、徐ににちかの胸を貫いていた。

「………………な」

何も言えない。
反論も順応も、何もできない。
縫い付けられたように身体は動かなくて、凍り付いた舌は自虐の一つも飛ばせない。
何か言われたらその通りだと開き直ってやろうとしたのに、それすら出来ずに凍り付く。

「……こんなやつ、という言葉に関しては言いたいこともあるけど。やっぱり、そうなのか?」
「まあ、間違いないだろうなとは思ってます」

代わりにアシュレイがそう聞けば、傷痕の彼女は彼女たちなりに推測したプロデューサーのあらましについて語ってくれた。
摩美々たちから聞いた話、として語られた、元の世界の話。
W.I.N.G.敗退後に失踪した自分。それに乗じて荒んでいき、いつか事務所すらも飛び出して自分を追っていたというプロデューサー。
元から、事務所すらも放り出して、自分を探し出そうとしていた男が、此方の世界で聖杯というものを求めてしまったなら?
その仮定の続きを考えてしまえば、アシュレイ・ホライゾンの推測の通りにことが運んでいる可能性は、遥かに高いといえただろう。

「……それは」

そして、そのあらましを聞かされてたまらないのは、それを今まで知らないままだった方の七草にちかだ。
もちろん、自分たちだけではない世界線の違いについては、聞ける限りのことは聞いている。少なくとも決勝と準決勝という明確な違いがある以上、それはこのにちかの責任であると断じられるものでは到底ない。
このにちか自身、W.I.N.G.終了後に失踪しようと思っていたかどうかで言えば、流石にそれ程までの暴挙には出るつもりはなかった。少なくとも、この話を聞くまでそんな選択肢は頭に浮かんでいなかったのだから、その筈だ。
けれど、それでも。
聖杯戦争なんてものがあろうとなかろうと、ただ自分の愚行一つで、色んなものを台無しにしてしまっていたという事実に、それがただイフの自分がやったことだからと割り切れる程、彼女は単純ではあり続けられなかった。
そんなものを突き詰められて絶句している彼女を、一目見やって――しかしやはり、只人たるにちかは言葉を続ける。

「もちろん、お姉ちゃんとか社長さんとか、色んな人がもう無理になって、立ちいかなくなったっていうのは分かります。だから、そこに関してはしょうがないと思うんですよ」

……あくまで、プロデューサーという男に絞ったなら。
彼は優しい人で、アイドルや七草はづきのことをずっと心掛けられて、その為に己の身を削れるような立派な人間であったことは、把握しているし。
彼が心を壊しても尚アイドルの為に身を粉にして働き続け、283プロを維持しようとしていたことだって聞いた。
その上で、283プロダクションという企業そのものが立ち行かなくなってしまったという事実は消しようもない事実だ。それはプロデューサーだけが責を被るべきことではないし、むしろそこまで働き続けたことを賞賛するべきなのだろう。
そしてそんな状態で、七草にちかを未だに追い続けて――その先に招かれたというのであれば、聖杯を求めるということも、百歩譲って理解はできる。
人を殺すという倫理観の問題はさておくとしても、七草にちかという存在がすべての崩壊の切欠だとしたら、それを埋め直すことで全てが戻るだろうと思ってしまうことは……過去のあの頃を取り戻そうとした自分にも、分かることだったから。

「……でも。その上で、心配してる人もいるって知って、それでも来ないっていうのは、ありえないと思うんですよ」

だが、だからといって免罪符になり得ることはない。
この聖杯戦争において283プロダクションが動いていることを認識して、プロデューサーとしてそこに来るべきだった、とまでは言わないけれど。
それでも、彼がプロデューサーという立場であり続けるためならば、アイドルの味方であることを真っ先に選ぶべきだったとは、思っている。
七草にちかの味方であるのか、プロデューサーという立場を選ぶのか。そのどちらかを選ぶ時に、目の前の彼女への連絡を優先したというのなら。
それは、最終的な天秤を、七草にちかに偏らせたという選択のはずで。
その選択が。ただ他人から想われているからというその程度で許される程、軽いものであっていいはずがない。

もしも彼の中でその踏ん切りをつけることがまだ出来ていないというのなら、それこそを七草にちかは弾劾する。
既に賽は振られ、事態は手遅れなまでに進んでいる。……いや、白瀬咲耶が死んだ時点で分水嶺は既に分岐している。
それを越えてしまった以上、何も分からないままでは、こと此処に及んでも尚彼のことを純粋に慕っている彼女たちがあまりにも報われない。

――実のところ。彼を慕っているアイドルたちや、目の前の少女には、流石に言わないでおこうと思っているが。
正直なところ、283プロダクションの部外者であった七草にちかにとっては――彼は、ぶん殴ることに抵抗がないくらいに、こっちが潔く諦められるくらいに、ひたすらに283プロにとっての悪であってほしい。
彼女たちの人生を左右した者が背負うなら、それくらいはしてもらわないとイーブンにならないと思っている。
それくらいに全てをぶん投げる覚悟もないなら、彼を慕っていたアイドルたちという光と共に歩む幸福を得ていた方が、遥かにマシだっただろうと、七草にちかは思っているから。
この七草にちかは――「等身大の幸せを掴む」ことを選んだ七草にちかは、そういう価値観で生きているから。

その上で。身の丈に合う、其処にある幸福を手放してまで、得難い光を目指すのならば。
せめてそこから引き戻そうとしてくる相手に「君たちとは共に進めない」と断言して、こちらの未練を断ってくれるくらいには、ちゃんと敵であってほしい、と願っている。
それが、全てを投げ出す覚悟を決めた愚か者が、最低限貫き通すべき尊さだと思っているから。

……そう。
そして、それは。

「そんな、そんなの――」
「――そこまでやらせておいて、あんたは何やってるんですか」

目の前の七草にちかにも、思っていることだった。

プロデューサーという男にそこまでやらせている七草にちかは、どのような存在であるのか。
24のアイドルを放っておいてまで、一人の男に選ばれたということを、百歩譲って認めたとしても。
そうしてまで選ばれた七草にちか当人は、どうであるのか。
姉の心配を押し切って、只管必死にアイドルに焦がれ、実際にW.I.N.G.の舞台に立った私は――何を、やっているのか。

「何、って」
「見たんですよ。あなたの、その、負けたステージのこと」

え、と、驚愕で目を見開くにちかのことを、これ見よがしに睨みつけて。
あの番組。W.I.N.G.とやらの準決勝をわざわざ数ヵ月遅れで流す番組で切り取られた、彼女達のステージ。
そのステージの、正直な感想を、踊っていた張本人へと突き付ける。

「正直、あのステージのこと、ひっどいなーって思いながら見てました」

――真っ向から、御託を捨てて。
七草にちかから七草にちかへの、忌憚ない言葉が、それだった。

「目が真っ赤なの隠せてないし。テーピングの痕も残しっぱなしで、本番の為に隠すとかしてないし。ケアはしててダンスも必死だったんだろうけど、そこ見せちゃ駄目でしょ、とか。ほんと、言いたいことは一杯あるんですけど」

口を開けば、出てくるのは罵る言葉ばかり。
なにせ相手が自分だ。言いたいことも何一つ歯に衣着せずに言えてしまう。
――そして、その中でもとびきりの。
七草にちかというアイドルのステージの、最大の汚点。他の欠点の全てが些細に映る程の、どうしようもない瑕疵が、そこにはあった。

「一番、聞きたかったのは――どうして、なみちゃんのステップを踊ったのかです」

――あれさえなければ絶対に勝てていたと断言できる程の、踊り。
八雲なみの真似事で、
そのステップが基点となって、全てが崩れていた。
そのステップの美点も何もかもを壊す、協和の取れていないダンスが、最も見ていられなかった。

「……私なのに、そんなこと言うんですか」

――けれど、流石に言われっぱなしで終われない。
プロデューサーが彼女の為に捨てたものの大きさを受け止めきれずに、それまで黙りこくっていたのだけれど、それでもいい加減、言われっぱなしで頭に来た。
プロデューサーという男のことも、アイドル七草にちかのことも、何も知らない筈の自分に、ただ言われ続けるということが耐えられなかった。

「あなたは私なんだから――私に才能なんてないって、分かるでしょ!?」

分かっている筈なのだ。
一度はアイドルを志したと言った以上、彼女にとってもそれは分かっている筈で。
たとえ支えてくれる人がいたことを見直すことができたとしても、それで自分の才能の無さが覆されることなどない。

「だから、ああやって……アイドルとして戦うために、なみちゃんの真似をするしかないじゃないですか。アイドルやってないから、そんなことも分からないんですか!?」

だから、薪にするしかないのだ。
また羽ばたく為には、そうするしかない。アイドル七草にちかがもう一度輝くには、そこまでやらないと結局変わらない。
そう思っていることは――どうしたって、変えられない。

「……そうやって」

その、筈なのに。
七草にちかは。
もう一人の七草にちかは、それを見据えて、心底苛立ったような顔で、一言を吐き捨てた。

「負けたことまで、なみちゃんのせいにするんですね」

――瞬間。
八月、熱帯夜の東京のアパートの一室の空気が、冷え込んだかのような錯覚に襲われて。

「――知ったようなこと言うのも、いい加減にしてください!」

そしてその空気を瞬時に沸騰させるように、激昂して叫んだ。
どう見ても防音ではなさそうなアパートだったから隣の部屋から怒られるかもしれないとか、そんなことを考える余裕すらない。

「……なみちゃんだって」

八雲なみ。
その存在に憧れて。そのステップを取り入れて。
そうすれば輝ける、彼女のような天性のアイドルになりたいと思って、でもそうなれなかったから、せめて輝く手段だけでもと彼女の後ろ姿を追い続けて。
――その先にあった、八雲なみの白盤。彼女が思ったことが、分からなかったこと。
そのことが頭に過った時には、もう手遅れだった。

「私たちが憧れたなみちゃんなのかも、わからないのに――!」

その言葉。
それまで、感情のまま反駁し続けても否定してきた彼女が、はじめて揺らいだように見えた。
――八雲なみが、少なくとも、自分たちの憧れと違うものであったのかもしれないという可能性は。
それだけで、彼女に伝わったみたいだったから。
別存在であろうと、彼女に憧れたのは同じで――だからこそ、そのことを相手が理解したというのも、手に取るように分かった。

「……プロデューサーさんに選ばれた理由なんて、私の方が知りたいですよ」

吐き捨てるように、そう呟く。
勝手に選ばれて、勝手に見捨てて、皆に失望されて。
そこまでされるような人間じゃないと、ライダーは言ってくれたけれど。
それでも、自分の為に命を賭けていることが、誰かを苦しめているという事実があることに、耐えられなかった。

「こんな駄目なやつの為に、色んな人を見捨てるとか……ほんと、ありえない」

それだけを言い残して、にちかはテーブルに背を向けた。
――少しだけ。一人に、なりたかった。



玄関から飛び出していく彼女を見送りながら、残った方の――アパートの主である方のにちかは、彼女と随伴していた青年へと目を向ける。

「……なんで、止めなかったんですか?」

そう聞けば、青年――アシュレイは、徐に立ち上がりながら肩を小さく竦めた。

「無理に止めるよりは、ああした方が整理が着くだろうからな」

もちろん、アシュレイとしても放置しておくつもりはない。
だが、今ここで彼女を無理矢理この場に留め置いたとしても冷静な議論はできなかっただろう。もう一人の七草にちかの糾弾が、彼女が抱えられるキャパシティを一時的に越えたことは誰の目にも明らかだった。
そういう意味では、彼女が自発的に外に出て行ったのは、クールダウンという意味では悪くない。本人としても、単身で飛び出てどうにかなると思っている訳ではないだろうから、そこまで遠くは行かないだろう。
この短距離ならパスで居場所も分かるし、サーヴァントとして、あるいは星辰奏者としての身体能力があればすぐ追い付ける。

「ひとまず落ち着かせて、話を聞いてくるよ。悪いけど、話の続きはその後だ」
「……ですねー。まあ、まともに話できる感じじゃなかったですし」

とはいえ、だからといつまでも悠長にしていられる程余裕のある状況ではない。アシュレイもまた、彼女をすぐに追いかけるつもりでいる。
……けれど、その前に。
マスターに対して接する前に、もう一人の七草にちかに、確認したいことが残っていたから。

「ああ。……君も、別にあれが言いたいこと全部って訳じゃないんだろう?」

アシュレイは先程の言動を振り返る。
確かに、それは身勝手な指摘ではあった。観客だからこそ偶像に向けて飛ばせる、心ない野次にも等しい言葉。
だが、彼女は決して、七草にちかを詰る為だけにこの場を設けた訳ではないだろう。プロデューサーという男に向き合う為――向き合えるだけの少女に、七草にちかがなる為の行程である筈なのだ。プロデューサーと対立構造になった以上、それは経なければいけない過程なのだから。
そうでなければ、向き合わなければならない命題とまでは言わない筈だと、アシュレイは踏んでいた。
ならば、その答えを持っているのは、目の前の彼女である筈だ。

「……まあ、まだ言えなかったことは残ってます」

……やはり。まだ、その答えの鍵が出揃ったわけではない。
そうであるのなら、まだこの会談は終わらない。マスターのにちかが命題に向き合う前に、彼女もまた言わなければならない言葉を残している。
もちろん、それは劇薬ではあるのだろう。
彼女が彼女であり続ける――アイドルで、プロデューサーに向き合える存在である為に必要なものではあるのだろうが、しかしその過程は、確かに彼女を全否定してしまう可能性をも孕んだものだ。
けれど、アシュレイにはそうならないという確信もあった。

「……君は、俺のマスターとは、違うな」

その存在を確かめる為に、アシュレイはそう問いかける。
もしも考えが正しければ、彼女の深奥が、それで垣間見えると思ったから。
果たして――七草にちかは、ほんの少しだけ笑みを浮かべながら。

「言ったじゃないですか。……私は、アイドルじゃないって」

そう答えた、その目に浮かぶ感情の色と、言葉の意味を、まっすぐに見据える。
それを見届けて――ああ、やはりな、と思う。
それがどういう在り方なのかを、アシュレイ・ホライゾンは知っている。見たことが、ある。

「……ああ、そうだったな」

――彼女が、そういうものなら。
彼女の言葉は、マスターを追い詰めるものであったとしても、彼女を全て否定するものには、きっとならない。
なら。
もう一度彼女の言葉と向き合わせることが、サーヴァントであり、彼女の幸福を願う身として、しなければならないことだ。

その想いを新たに、アシュレイはアパートの一室から飛び出ていった。


◇◆


そうして、アシュレイ・ホライゾンが、己のマスターの元へと飛び出していった後。

「……はぁー」

元通りの二人切りになった部屋に、ため息の音だけが響く。
机に突っ伏して両手を投げ出しながら、残された方のにちかは口を小さく尖らせる。

「逃げるって、どうなんだし……」

そうは呟くものの、にちか自身なんとなく理解はしていた。
ぶっちゃけ自分なら言われたくないだろうな、ってことを選んでズバズバと言ったのもそうだ。自分相手だから隠す必要もなにもなくて、遠慮なしに言えてしまったのもあるのだろうか。
それに、最後に言い淀んでしまったことも。自分自身、あそこで伝えたいと思っていたことが、結局まだ言えないままでいる。
そこまで言わなければ、自分が言いたかったことは、完結しないというのに。
……我が事ながら、冷静に分析できているものだ、とも思うけれど。

「……アーチャーさんも、なんとか言ってくださいよー」
「……俺に言えることはないだろう」

試しにメロウリンクに振ってみると、返ってきた答えは想像以上に無粋なものだった。
……なんか悔しい。いや、彼は何も悪くないのだが、それはそうとあのライダーさんがめちゃくちゃ口が立って向こうのにちかにも甲斐甲斐しく世話をしてくれる大当たりサーヴァントだったように見える以上、気の利いた言葉の一つもくれれば嬉しかったと思っている図々しい自分がいた。

「うえー、気が利かないですよアーチャーさん。向こうのライダーさんあんなに喋り上手だったのに」
「そんなこと言われてもだな…」

困ったように頬を掻くメロウリンクに、にやにやと笑ってみるにちか。
成長した姉に敵う機会というのは中々なかったが、こうして悪戯好きの妹のようにおどけてみると、メロウリンクは意外に耐性がないのか頬を掻いて顔を逸らすのだ。
こうして彼のことを揶揄うのは、ここで暮らし始めてからたまにやっていた――この殺し合いの場でも、なんとなく息抜きになってくれた数少ない要素だ。申し訳ない、とはちょっと思っているけれど。

「……でも、本当に心当たりとかないんですか?」
「俺にそういうことを期待する方が間違っている。なにせ、ただの猟兵だからな」

とはいえ、向こうも向こうでそう真面目に言い切ってしまわれたら、こんな揶揄いも意味がなくなってしまう。
そして、にちか自身、彼がライダーと似たような人間に会ったことがないということについてはなんとなく理解もしていた。
メロウリンクはあくまで軍属としては逸れ物だ。国家間での外交官、なんてレベルの大物には、軍属の頃は相手にする機会がなかったし、反逆者となってからは必然正義もクソもない相手ばかりを見てきたわけで。必然、どうしてもああいう好漢にお目にかかる機会はなかった。
まったく――ただの人間というのは、世知辛いものだ。


「それで、どう思ったんだ」

と。
メロウリンクのこれまでに思いを馳せてしまった一瞬を突いて、今度はこちらが核心を突かれる。
油断していたつもりはないのだが、それでもどうしても痛いところを突かれたという表情が浮かんでしまう。

「あー……それ、聞いちゃうんですかー……」

本来なら、わざわざそんなことを聞いてくるんじゃないとか、いちいちこっちの考え聞こうとするとかデリカシーがないとか、言ってたんだろうけど。
今は、そんな気分にはなれなかった。
どちらにせよ、口にでもしない限り、抱え込んだ思いを吐き捨てることができようもなかった。

「……見ての通りっていうかー……こうかもしれないけど、もしこうなってたらいっちばん嫌だなーって思ってたのにかなり近かったっぽいんで」

隠すこともせず、不機嫌な感情のままに吐き出すのは、そんな弱音の言葉だった。
正直なところで言えば、可能性の一つとしてそうなのかな、とは、思っていた。
――あの時、ライブで見た時からずっと、「自分がああして努力して、誰かの真似をするようなら、どんな自分でいただろうか」というのは、考え続けていたから。
その為の材料は、ライブの映像であったり、プロデューサーとの電話であったり、田中摩美々という先輩アイドルからの伝聞であったわけだけれど。

「……あの私が、自分を見つけられていないって、プロデューサーさんが言ってたのも。私が、あのステージを見て怒ったのも。そういうことだったのかなーって」

――実のところ、姉の死や、恵まれている境遇、アイドルになれたというそれそのもの事態に嫉妬はない。
もちろん、良いなあ、と思う気持ちはある。それが揃っている世界は、きっと今の自分よりは間違いなく恵まれた世界だろうと思うし、手に入るならどんなにいいかと思っている。
けれど――その逆恨みで彼女に怒るとか、聖杯を手に入れてそんな世界を望むかといえば、そうではないのだ。
そんな権利は、自分にはない。
そして、そんなことよりも。

「……結局、あの子が何を蔑ろにしてるのか、あの子自身がまだ分かってなかったんだな、って」

どうして彼女がそうなっているのかに、彼女自身が気付いていないのが嫌だった。
もしかしたらそうなんじゃないかなと思っていたけど、本当に気付いていなかったとは。

「……まあ、でも。そうなっても仕方ないなあって理由も、あったんですけど」

――とはいえ、そこにもまた、理由があった。
彼女なら――もしも、「それ」を否定されていたなら、自分もそうしていたのだろう、と。
そう思うに足る理由も、彼女が言い残していた。

「……八雲なみ、ってやつのことか」

メロウリンクの言葉に、無言で頷く。

「……そのアイドルのこと、好きだったのか?」
「そりゃ、今でも大好きですよ。というか、アーチャーさんにも聞かせたかったのに、どうでもいいっていっつも突き放してたじゃないですか」
「………ぬぅ」

彼女のことが、好きだったこと。彼女と同じものを、一度は目指したこと。
それは、今のにちかにとっても否定できない。
忘れようもない。過去に自分がアイドルを志した時、その原点と言うべき存在だ。
夢が失墜し、胸の中で静かに燻るだけの今となっては、自分に彼女の模倣をすることなど無理だと思い知っているけれど。それでも、ショックなのには変わりない。
『彼女のようになろうとしなかった』ことが、自分の夢の失墜のはじまりだったのだと、今更思い知らされたようで。
そして結局のところ、彼女を追ったとしても、その先では失墜で終わってしまったことも、突き付けられてしまったから。

「……だがな、マスター。」

――だから。

「憧れていたことは、嘘にならないさ」

そのメロウリンクの言葉は、そんなにちかに、新鮮な思いを投げて寄越した。

「マスターの生き方を、俺は否定しない」

機工猟兵メロウリンクにして、復讐者メロウリンク。
逸れ者にして負け犬。世界の舞台から弾き出され。ただの雑兵として死ぬはずだった彼が人類史に名を刻んだのは、復讐を完遂したからであり。

「――その生き方を選んだ俺から、言えることがあるとすればだ」

されど、彼のクラスは復讐者にあらじ。
彼の復讐に存在した瑕疵。シュエップスという上官が、復讐の前提となる捨て鉢の作戦を、勲章欲しさに飲み込んでしまったという事実。
そして、それを知って、それでも尚彼は自分の戦いを、最後の最後まで貫き通した。
利口に引きさがるのではなく、あくまで自分が生きたそれまでの戦いに終止符を討ち。その上で、戦いから別れを告げるところまでが、『機工猟兵メロウリンク』という物語だった。

「軍とか、アイドルとか聖杯戦争とか。そんな大きな流れから逸れて生きていくのが、俺達の生き方だが」

だって、彼がこうして生き残ったのもまた、シュエップスという男が身を挺して庇ってくれたお陰だったから。
彼がただ引きさがるのではなく、戦争から逃げおおせる前に、そうして生き延びた自分へのケジメを着けたのは、そこから始まった己の戦いだけには嘘を吐きたくなかったから。
だから彼は、その復讐から始まった自分の宿命を、完遂せずにはいられなかったし。
その上で、復讐から――軍部という運命からもまた、解き放たれることが叶ったのだから。

「だからといって、戦っていた頃の気持ちや、その憧れまで否定する必要はない。俺はそう思う」

だから、七草にちかもきっと、そうなのではないかと感じた。
そこにあった裏切りを飲み込んだ上で、それでも、己が魅せられた姿を否定せず。
そして、だからこそ――その運命に、決着を付けられるのではないかと。

「……ありがとうございます」

……果たして、それは事実だった。
彼の言葉と、夢で見た経緯。
己の戦いに対して、彼が墓標のように突き立てたスナイパーライフルを思い出せば、少し胸がすくような気持ちがした。
背を押してくれていたものの正体と、それを裏切った自分。
夢を見せてもらって、背中を押してもらっておきながら、結局信じ通すことが全くできずに裏切ったもの。
ずっと遺恨として残っていた、夢の残骸と化していた八雲なみの、その真実が明かされて。
その上で、折り合いがつけられた。
だから、改めてこう言える。
燻っていた夢の残骸は、完全にそれで燃え尽きた。
夢は夢だった。八雲なみも自分も、結局のところ二人揃って地に足を着けて歩いている。ならばそれは、それでいい。
見せてもらった夢だけは忘れずに、それでも生きていくことを是とする理由を、改めてもらうことができたから。

「……じゃあ、そうですね。こんなでっかい戦争に、まだ巻き込まれてる、今のうちに」

……そして、けれど、その前に。
まだ、やらなければならないことが残っている。

「ついでに、もう一個、伝えてきます」

世界からはみ出て、あぶれた自分は観客(モブ)にすぎない。
たとえどれだけ夢を思い返しても、私という存在が光輝くステージに立つことは二度とない。絶対に。
それが自分の答えであり、だからこそ願いなど存在しない。
だけど、どこにでもいるただの七草にちかでしか見えないことが、どうやらあったみたいだから。

「まだアイドルになりたいって思ってるなら、一番言ってやりたかったことが、言えてないので」

ここから始まる、『七草にちか』の為の、物語の為に。



◆◇



……走って、走って、走って。
気付けば、小さな公園に駆け込んでいた。
アパートからそう遠くない距離、通りを一本か二本通り過ぎたくらいの場所だから、どうせすぐに見つかるだろうと思いつつも、今は一息つこうと思った。
なにせ、思考がぐちゃぐちゃのままだ。走ったまま全て忘れられたなら楽だったのだろうけど、それを状況も自分自身の頭も許してくれないのは分かり切っていた。
それに――どうせ数刻もしないで、彼は追ってくるのだろうから。
案の定、自分の後を追うように、ひとつの人影が公園に入ってきた。
人影は何を言うでもなく自分の隣のベンチに腰掛けると、ただじっと自分の隣で。

「………………なんなんですか」

そんな沈黙に耐えられず、ぽつりと言葉を漏らしてしまう。

「なんなんですか、ライダーさんも、あの私も………プロデューサーさんも」

愛されている、とか。
にちかのために、283プロダクションから出奔していた、とか。
そのせいで皆は傷ついて、アイドルすら強制的に辞めさせられたようなものだった、とか。
それら全てが、七草にちかにとっては――重かった。

「……知らないんですよ、そんなの。知らないうちに、プロデューサーさんが、私のために聖杯を求めてるとか。そのせいで、アイドルの皆さんが、めっちゃめちゃ迷惑かけさせられてるとか」

自分が行方不明になったせいで、283プロダクションが事実上の休止状態に追い込まれた?
姉にも倒れるくらいの心配をかけて、それでも家出し続けた?
たとえ別の世界の人間だとしても、七草にちかとかいう愚か者は、自分一人のエゴのせいで、一体どれくらい迷惑をかけてしまえるのだろうか。
それを想像するだけで、消えてしまいたい気分になった。

「……こんな迷惑かけてばっかだったら、普通だったらじゃあいなくなれ、って話なのに、いなくなっても意味ない……ううん、それどころかいなくなったほうが迷惑なんですよね」

しかも、それで消えても問題はむしろ悪化するのだ。
もしここで自分が完全に降りてしまえば、それこそプロデューサーという男のエンジンにガソリンを継ぎ足すに等しいことになってしまう。
自分が死んだと知れば、彼は自分を生き返らせるという真に奇跡でしか叶わない可能性へと挑むかもしれないのだ。そうなってしまえば最早ブレーキなど効かず、アイドル達の言葉は今度こそ全く届くこともなくなるのだろう。
結局のところ、向き合うしかないのだ。向き合わされ続けるしか、ないのだ。

「ほんと、最悪」

……そんなもの、急に向き合えと言われても、無理なのに。

「……それに関して、俺が言えることはないよ」

そして、その通りだと、相席するアシュレイも思う。
彼女は、一日にして背負わされるにはあまりにも多くの因縁が織り積もっている。
事前にプロデューサーの想いを想像して伝えたことに後悔こそないけれど、その一因を担ってしまった身としてせめて彼女に寄り添うくらいはするのが筋というものだろう。

「知らない間に、誰も彼もから重要人物にさせられてるのとか、怖くて当たり前なんだ。弱音があるんだったら、いくらでも言ってくれればいい」

アシュレイ自身も、知らないうちに極光星(スフィア)実験の超重要サンプルとなっていた存在だ。
それを自覚して以降、自分のとんでもなく重要な立ち位置なのだと思い知らされてからは、煌翼とはまた違う形で頼りになった友人が心の中にいてくれたとはいえ様々な苦労を強いられた。
だから、と理解を示すのは、彼女には押し付けになってしまうだろうから口にはしないけれど。
その恐怖を断片的にでも知っているアシュレイだからこそ、せめてその弱音の捌け口程度にはなりたい、と、そう思っていた。

「……プロデューサーさんは」

それが、功を奏したのか。
ぽつり、と、まず彼女が漏らしたのは、やはりプロデューサーという男のことだった。

「どうして、事務所を最悪の結末にまでもっていった私を、探してるんですかね」
「……少なくとも、そこに関しては、彼なりのけじめだったんだろう」

少なくとも、プロデューサーが信頼できる男であったかという状況証拠がどれだけ手に入ろうと、この聖杯戦争の場で火薬庫であることは変わらない。
……彼に提示できる最大の鬼札として機能し得るのが七草にちかだけであるという状態は、きっと変わりはしないのだ。むしろ、これまでの情報を聞けば確信に至ったとまでいえる。
それを分かっているからこそ、七草にちかも逃げられない。

「もちろん、彼が君の為に聖杯を取ろうとしていることは否定しない。君に幸せになってほしいと思っているだろうことも、間違いないと思う。
 ……その上で、たぶん。君が戻ってくれば、あの世界はもう一度前に進むんじゃないかって、思ってるんじゃないかな」

けれど、それが単なる彼女一人を救うための試みかといえば、どうやらそうでもないのではないかとも思えるようになった。
あの世界の283プロダクションの破綻の原因。もう一人のにちかを経由して、田中摩美々から手に入れたそれ。
少なくとも、それを聞いた限りでは――プロデューサーがたった一人、283プロダクションを投げ捨てた訳ではない。
心が壊れかけながら、他の誰から救いを得られることもなくなりながら、それでも彼は事務所を守り続けた。過労で壊れてもおかしくない24人のプロデュース。彼が背負った責任を、大人として遂行し続けるだけの理性が、彼には確かに存在していた。
そして、あの事務所が閉じられることとなった直接的なきっかけは――彼だけではなく、もう二人。
七草はづきと天井努、事務所を回している残る両名ですらも心を病んでしまったことが、あの事務所が閉じられることとなった最大の原因だ。

――そして、その全てが、七草にちかという存在が欠けたことで産まれた歪みなのだとしたら?

そう考えれば、少なくともアイドル達から聞ける限りでの彼という人物像と、辻褄が合うような気がした。
彼女の帰還は、きっと。彼の中で、あの世界の283プロダクションを再起動することにも繋がり得るものなのだ。

「……そんなの、ただの予想じゃないですか」
「ああ。でも、そうであってくれれば俺達も幾らか手が増える。楽観的かもしれないけど、悲観的になりすぎて折角見えたかもしれない光明を見失うよりはマシだろう?」

こちらにとっての危険人物である可能性を、捨てる訳にはいかない。
彼に殺されないと太鼓判を押せるとしたら、283プロダクションの中でも七草にちかだけだ。
だが、理はある。
理が存在するということは対話が成立するということで、対話が成立するというのであればそこには可能性が存在するということだ。
那由多の彼方であろうと、可能性があるならば。たとえ結果的に一万の体感時間を支払おうとも、我慢強い議論でそれを掴むことが、アシュレイ・ホライゾンの在り方だから。
その可能性が見えるだけ見えたということは、アシュレイにとっては朗報だった。
通用しないかもしれなかろうが、それでもプロデューサーの目的にそれが含まれているのであれば。捨て札になるかもしれなかろうが、それを保持する意味は出て来るのだから。

「……でも、まあ。プロデューサーがそうでも、やっぱり私が駄目なまんまだと、同じことの繰り返しになりそうなんですけど」

ただ――プロデューサーについての責任が、それで済むとしても。
にちかが抱える問題が、それだけで解決する訳でもない。
自分が全てを台無しにしていたかもしれないという責任を払拭できるものではなく、また、そうしてしまう自分への嫌悪を拭うものでもない。
普段のそれと違う、証拠の存在する自己嫌悪は、七草にちかの精神をより蝕む方向で作用した。

「いっそのこと、向こうがプロデューサーさんに会いにいけばいいんですよ」

そしてそれは、この場においては。
自分よりも弁が立って、立派そうな彼女を立てるという方向に噴出する。

「摩美々さんたちとも仲いいみたいだし、プロデューサーさんのこと考えっぱなしみたいだし――それで、プロデューサーさんにもう一度アイドルさせてもらうとかすればいいじゃないですか」

つらつらと、そんな言葉ばかりが出て来る。
情報の格差こそあれ、今の時点で冷静に置かれた状況を共有し、その上でこちらを弾劾できるまでに『アイドル:七草にちか』のことやプロデューサーのことを分かっているらしい、もう一人の自分。
そこまで言えるなら、こんな自分は放っておいてそっちで勝手にやってくれればいいのに、という苛立ちと共に、にちかはそんな提案を引っ張り出していた。

「……多分、そうはならない」

そして、その選択肢だけは有り得ないと、アシュレイは思っていた。
マスターと比べて、幾らか成熟している面はあることは否定しない。マスターとの舌戦においても冷静さを残していた方だし、物怖じだってしていない。その姿は、特に今の塞ぎこんでいる彼女からは素晴らしいものとして映ったことだろう。
だが、それは大した違いではない。向こうのにちかだって、感情任せに言いたいことを言い切らないまま相手のことを慮らない暴言を放ってしまうくらいには、等身大の少女なのだし。
何より、彼女にはプロデューサーの説得ができない理由が、別にある。
プロデューサーの目的が『アイドル七草にちか』であるのなら、彼女だけは絶対に、マスターの代役となることは、できない。

「彼女はアイドルを目指してもいないし、多分……本当に、普通になることを選んだんだ。アイドルであることを諦めた代わりに、ただの人間として胸を張ることを選んだ」

……こちらの七草にちかと比べた時の彼女は、厳密に言えば己のマスターと同一人物ではない、とアシュレイは思っていた。
それは、第一印象の時点で既に垣間見えていた。
にちかと比較した時の彼女の様子は、少しばかり不健康そうであったから。
勿論、目に見えて栄養失調であるとか、そこまで困窮しているという風には見えないけれど。
こちらが、「アイドルであり続けられる」程度には健康的なのと比較してしまうと、どうしても彼女は見劣りしてしまう。
雑、という訳ではないが、ただ、そう。日常に埋没するのであれば、それで十分だろうと思う、その程度の日々の過ごし方。
そしてそれは、アイドルを目指している彼女に見劣りすることは事実だが、かといって自暴自棄と呼べるようなそれでもない。
その確認が、彼が最後に投げかけた問答だった。
己と、形はどうあれアイドルになった自分を比べるような質問を受けたあの時。彼女は、静かに笑ってそれに答えた。
その声色に、嫉妬や羨望、そしてそこから来る破壊的欲求はなく。
むしろ、マスターがよくする声にも似た――自己嫌悪の響きさえ、感じられてしまった。
……恐らく。
あれは既に、己の敗北に対して線引きを済ませている。
ただの、凡庸であり幸福な人間なのだ、あの少女は。
身の程に足りる身近なものの幸福だけを願い、それを乱すものやその原因には当然に怒り、大義すらも関係無しにただ己の人生において必要な最小限の幸福だけを追求する。
それこそ多分、凄い人間であるにも関わらずやたらと俗っぽいあの元銀狼の友人が、それでも自分を慕ってくれている人間を見過ごせない程度には、良い人であったように。
あれは、そういう一般的で凡庸な嫉妬と、羨望と、善心の塊だ。
ただの人間――本当に、そう。普通に生きて普通に幸せになることを夢見る普通の人間だ。

「それは、決して悪いことなんかじゃない。夢を諦めて、それでも尚普通に生きることまで否定してしまったら、生きていけない人間だらけだ。
 むしろ、その境遇で妬み嫉み――逆襲の願いを抱かないだけ、彼女は立派と思う」

そう、それ自体は悪い事でもなんでもない。
舞台を降りて尚まっすぐ生きることだって、等身大の人間には中々難しい。大義だとか夢だとか希望だとか、そんな輝かしいものだけを掲げて生きていくことのなんと過酷なことか。
それに、夢を諦めたからといって、逆襲を許容できるような心を抱いている訳でもまたない。
敗北者であり、舞台に上がるべきではない存在であることを認めて、その上で、それはどうしようもなく逆襲からは外れている。
彼女のその在り方は、きっと尊いものなのだ。

「……でも、その普通さも立派さも。多分、プロデューサーを止める条件にはならない」

――だが、その愚かさと平凡さが、どんなに尊いものであったとしても。
今のプロデューサーに、その尊さは届かない。
その理由は、先述の通りだ。彼にとっての勝利条件が「アイドル七草にちかの帰還」であり、その先にある283プロダクションの再始動であるのなら。
彼が取り戻そうとしているのは「失敗」であり、再び物語を始めることができない只人では、その歩みを変えることはできない。

(――彼が別れを告げたのは、たぶん、その証左だ)

それに気付いたのは、七草にちかに対して「さようなら」と告げた、プロデューサーのことを聞いた時。
電話を切る時には到底そぐわない、別れの言葉。そして、マスターの七草にちかと彼女の相違点。
そして、何より、かつてのプロデューサーが、過去の――信じた光の為に命を賭していた頃の自分と似ている、と感じていたからこそ、アシュレイはそれに気付くに至った。

ヒントになったのは、先程田中摩美々のことを調べている時ににちかが漏らした、283プロダクションのプロデュース方針。
大事なのは、彼が現実と向き合う中で、ある種の理想を追い求める者である、ということだった。
アイドルの希望を聞き、それを極力叶え、観客だけでなく本人にとっても理想的な形で輝けるようにする為の努力。
それを怠らなかったことは、マスターからの話でもなんとなく伝わってきた。

そんな理想家の面に加えて、彼が善人であること。
そこに、改めてもう一度、「彼が人を殺したかもしれない」という情報と、向こうのにちかが電話をするまで落ち込んでいたことを情報として付け加えると。

――まず前提として、彼は殺人を躊躇なく起こせるような人間じゃない。むしろ、取れる方向がそれしかなかったということに関してはずっと悔いを残すタイプ、だろうな。
――目的の為に誰かを殺すことに嫌悪感を示し、それでも尚進むと決意したならば……元が善人であればある程、その犠牲を見過ごさずにはいられない。光であろうとなかろうと、人を殺した善人ならば誰もが一度は悩むことだろうよ。

そう答える片翼に、心の中で頷く。
七草にちかの為に生き残ることを良しとしたところで、その罪悪感を誰しもがすぐに忘れられるタイプではない。
そういった問題をあっさり「仕方ない」の一言で片付けられるような人間ではない、というのが、プロデューサーへの印象だ。
アイドルの希望に妥協せず向き合おうとする、その潔白さと理想主義に、殺人という行為は相反すると言って相違ない。

だが、彼が殺人を躊躇したかといえば、そうではない。
彼は既に、予選の段階で数人を殺している可能性がある。少なくとも、聖杯戦争への勝利を狙う上で、マスターを巻き込む可能性は十二分にあり得る。
正しい倫理観を持ちながら、それでも殺人には絶対に躊躇しない――その矛盾する答えが成立する前提を、しかしアシュレイ・ホライゾンこそは知っている。
光の英雄。理想の信奉。犠牲を全て受け入れて、背負って立つという選択。

――進む時に切り捨てたものに、目を向けずにはいられない。命を奪うことは当たり前に悪なのだから、その悪辣に目を瞑ってしまえば抱いた理想にすら傷がつく。
  それは光の背負った勤勉さだ。殺人に葛藤を重ねるが故に、己がその葛藤で足を止めることもまた許せなくなる。
――……ああ、そうだな。よく知ってるよ。

だって、自分がそうだった。
まだ自分が光に吞まれていた頃。レイン・ペルセフォネと再会する直前の、あの墓場の戦場で、自分は同じ思想を抱いたのだ。
理想の為の殺人など、矛盾の塊であり。だからこそ、殺人という業を全て背負い進むことのみが、報いることなのだと。
あのプロデューサーが、光ではないにせよ、七草にちかという彼にとっての理想の為に進んでいて、そして「真面目な理想家」という面を捨てきれていないのであれば。
己が人を殺した罪を背負う為に、その犠牲全部を、必要以上に背負ってしまっている。
戦争だから仕方ないとか、相手にも願いがあった正々堂々の戦いだったとか、そういったお為ごかしの理屈で、背負ったものを正当化することが出来ていない。
その可能性は、十分にあった。

そして、その上で。
自分でも分かるくらいに二人のにちかが別人であることと、そんな彼女に対して「さようなら」と言ったことを繋ぎ合わせると、最悪の想定が出来上がる。

――その為に、「別の世界から来た同一人物すら殺さなければいけない対象とする」、か。
――光(オレ)のようなものであれば、そうだろう。己の不徳、悪徳を許せぬならば、せめて徹底的なまでに信じた理想に殉じるしかないのだから。

最悪の場合。
プロデューサーは、向こうの七草にちかを殺す覚悟を決めているかもしれない、ということ。

本来ならば、有り得ないのだ。
救いたい相手と同一人物である人間に殺意を抱くなど、まともな人間が考える訳がない。
殺してでも救いたいなどという狂気的な考えでなければ、到達しないのだ。
だが、それに到達する可能性が、一つだけある。あの七草にちかにだけは、例外処理が発生する余地がある。
それが、あの七草にちかは、プロデューサーが知っている七草にちかとまるきり別人であるという事実。
ただ平凡でそれ故に幸福を選んだ七草にちかは、背負った運命が根本から異なっている。同一人物と呼ぶには、その精神の在り方がどうしようもなく違ってしまっている。
仮に彼がその覚悟を持っていたとして、自分のマスターである七草にちかにはその殺意は及ばないだろう。プロデューサーの世界の彼女と今のマスターの間でも、誤差はあるとはいえ、少なくともW.I.N.G.に到達するまでの大まかな概要は同じだし、何より彼女は「アイドルになろうとする意思」を持っているから。
だが、そもそも彼女は、その意思どころかそれを持つに至るだけの意欲を完全に捨て去っている。
自分でもあっさりと気づけたくらいなのだ。電話越しとはいえ、半年を越える間接し続けたプロデューサーがそれを察する可能性は十分にある。
そして、別人であるならば――あの七草にちかが、他人であるというのなら。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
――同一存在だからというその程度の理由で、アイドルですらない誰かに情けをかけてしまっては。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
――描いた理想の為にこれまで殺した誰かに申し訳が立たない。全く以て同感だ。犠牲が既に支払われたなら、せめてそれに報いることが唯一の贖罪足り得るのだからな。

七草にちかという光があって、283プロダクションにいたアイドルという守りたいものがあって、その為に既に犠牲を払ってしまった。
そして、ならばこそ、己のエゴ故に犠牲になってしまったものを思えば――「自分が守りたい人間に似ている」という、それだけの理由で、「関係ない他人」を殺すことを躊躇ってしまうことの、なんと愚かなことか。
そして、何より。
その恣意的な選択は、プロデューサーという男にとって、「救けなければいけない七草にちか」と「283プロダクションに無関係な、ただの普通の一般人である七草にちか」を天秤にかけた時に。
 ・・・・・ ・・・・・  ・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・
「彼女を救う」ことよりも、「彼女に似た他人を殺さない」ことを選んでしまうという、最悪の間違いになってしまう。
それは、既に「彼女を救う」為にたくさんの無辜の人間を殺してしまったプロデューサーが、絶対に選んではいけない答えだった。

(つまるところ、真面目で純粋で正しい――光に近しい存在であるからこその、殺意)

……根差した性質こそ違えども、それはまさしく光の宿痾が一つ。
伝え聞く通りの実直さと理想主義は、最悪の結末と奇跡の可能性を目の前としたことで、彼自身をも縛り付ける強迫観念へと成り果てた。

そして、その漆黒の殺意を無自覚で感じ取っているからこそ。
あの七草にちかだけは、本気でプロデューサーのことを敵として定めている。
283プロダクションに関わるマスターたちの中で、恐らくは彼女だけ。彼女だけが、同情と好意の皿よりも、敵愾と嫌悪の皿を天秤の下に敷き、プロデューサーという男に敵対する覚悟を持っている。
彼が事実アイドルにも向けていないかもしれない、「七草にちかのための殺意」を、彼女だけがその身を以て感じているから。

彼女自身には、確かにプロデューサーという男に会うつもりはあるのだろう。
なにせ、彼女の中心にあるのは「殺されるかもしれない」という恐怖心だ。もし傍らのにちかがプロデューサーを救ったとしても、「自分を殺すかもしれない相手」とそれで和解、という訳にはいかない。
だから。この後どんな結論が出たとしても、彼女は彼女自身の身を以て、プロデューサーという男に対面しようとする筈だ。
ただし、和解するためではなく――必要とあらば、戦う為に。
彼女は、「プロデューサーが殺意を持っているかどうかを示すバロメーター」にはなり得ても、「プロデューサーに宿った殺意をなかったことにする」という役目は、絶対にこなすことができないのだから。

(……とはいえ。流石に、誰にも言えないけどな)

……あの七草にちかが、恐らくは意図的に隠している通り。
彼女がそう思っている、という事実を、ここで言ってしまう訳にはいかない。今の時点でこれを詳らかにしてしまえば、恐らくは彼女を283プロダクションの軍勢から孤立させてしまう。
Wが田中摩美々を残そうとしたのも、彼女が抱く「これ」が露見することを恐れたからだろう。
何も遠慮せずに言い合うことができる七草にちか同士だけでは、この言葉が隠されず出てしまう可能性があった。事実、プロデューサーという男への推察が前提にあったとはいえ、アシュレイが顔色で七草にちかの殺意を理解できるくらいなのだ。そのくらいには、彼女はこの無意識の恐怖と嚇怒を隠すことに向いていなかった。
だが、田中摩美々がもしプロデューサーを慕っていて、それをにちかが知っているのであれば。恐らくは、より意図的に、この感情を隠そうとして話していた筈だ。
慕っている相手の前で殺意を口走る程、愚かではない。それだけの分別を、彼女は意図的に身に着けていたようだったから。
彼女自身、知っているならあのアーチャーも。そして、アシュレイとW。ひとまずはこの四人だけで、この事実を押し隠す必要がある。

――ともあれ。

「彼女は、プロデューサーと会う時には、一緒に会ってくれると思う。だけど、アイドルであることを諦めている彼女は、きっと説得することはできない」

アシュレイの口から確約できるのは、その程度に収まっていた。
プロデューサーの真意は、彼女に更なる重みを背負わせてしまうことになる。これ以上、判断基準に重荷を乗せる訳にはいかない。
今この時、にちかが判断しなければいけないことは、もう一人の彼女とプロデューサーの間にある確執についてではなく。

「だからといって、マスターがやらなきゃいけない訳でもない。マスターがやりたくないなら、今からでも俺からWに降りるって言ってもいい。
 ――ただ。もしプロデューサーに会うつもりなら、あの子が怒った理由について、考えるべきだと俺は思う」

彼女自身が、プロデューサーと――ひいてはアイドルと、どう向き合うべきなのか、なのだから。
Wが避けては通れない命題だと示したのも、つまりはそういうことだ。
283プロダクションの戦禍に巻き込まれるというのであれば、彼女はプロデューサーと絶対に向き合うことになる。
そしてその時、プロデューサーと向き合ったなら。その時の彼女は、聖杯戦争のマスター・七草にちかではなく、283プロのアイドル・七草にちかでしかなくなってしまうだろう。
そしてその時、彼女が心の中でアイドルとしての道標を立て直すことができていなければ。
恐らくは彼女にとってもプロデューサーにとっても、最悪の結末を辿る結果に終わってしまう。

「……聞かせてくれないか。さっきの、八雲なみって人の話」

故に、直面しないといけない。
プロデューサーではない、彼女を取り巻いていた人々でもない。もっと根本の、アイドルに憧れた理由。アイドルになると、決めた理由に。
七草にちかにとって、彼等彼女等の因縁とは別に、ただアイドルとして立つ為の、道標として。

「……なみちゃんは。昔のアイドルで、私たちの同世代ではあんまり話題にならないんですけど、本当に凄くて」

か細い声で、ぽつりぽつりと、にちかの口から言葉が漏れる。

「スカウトの話とか、すっごくキラキラしてて。インタビューで、靴に合わせるんだって語ってたのが忘れられなかったから、私もそれを目指して。……そうやって、背中を押してもらって」

注意深く聞かなければ聞き落としてしまいそうな小さな声で、けれど、それを話している彼女の目には、小さく光が灯っていて、見ているアシュレイからしても、好いていることが手に取るように分かる。

「……でも、もしかしたら、なみちゃんはそうじゃなかったんじゃないかって」

けれど。
そう言うと同時に、彼女の目が沈む。
輝きをどこに見出していたのか、忘れてしまったかのように、その瞳の中から輝きが逃げ出して。

「なみちゃんは、私に勇気をくれたけど……本当は、もっと別に歌いたいことがあったんじゃないかって」

絞り出すようなその声は、きっと、ずっと認めたくなかったこと。
口に出してしまえばそれが本当であるように思えてしまうから、言いたくないとずっと感じていて。
それでも――心の中からどうしても追い出せないくらいに、浮かんでしまった可能性。

「……なみちゃんも、本当は、アイドルを楽しめてなんかいなかったんじゃないかって」

……それは、ああ。なるほど。
それは確かに、辛いだろう。苦しいだろう。
その痛みに関しては、共感できるな、と。アシュレイ・ホライゾンは思った。

「……気持ちは分かる、なんて言うつもりはないけど。俺もさ、似たようなことがあったんだ」

だって自分も、そうだった。
クリストファー・ヴァルゼライドへの憧憬。あまりに正しい英雄への畏敬。自分もああなりたいという、間違うこと無き栄光を目指した己の心が、全て偽物だったと分かった時のことを思い出す。
自分の記憶が偽物で、どうしようもなく改竄されて、道標にしてきたものそれ自身が誰かに仕組まれた本来あり得ぬ感情で。

「その上で、俺は――その憧れを、否定しないよ」

……けれど。
そこまでされても、アシュレイ・ホライゾンにとっては。
今でさえ、胸を張って言えることがある。

「自分が憧れてたことも、憧れていたものの素晴らしさも。絶対に嘘になんてならないってことは、俺は胸を張って言える」

自分にとっての憧憬は、半身に相当する煌翼(ひかり)の在り方だ。
たとえ過程に偽りがあっても。仰ぎ見た姿が嘘だったとしても。それに憧れたことは変わらないし、その在り方にはどうしたって惹かれてしまう。
――だって、光は光で素晴らしいから。
それが何より尊くて、自分の背中を押し続けてくれた事実は、変わらないから。

「俺は今でも、誇りに思っているよ。あの日植え付けられた光景の中の、彼の雄姿も」

――もちろん、お前のこともな。
――此方の台詞だ、蝋翼(イカロス)よ。英雄(ヒカリ)の業に運命を掻き乱されながら、それでも未だに俺のことをそう思ってくれるお前こそ、俺の誇りであり無二なのだから。

そう答えてくる彼にしたって、間違いなく正しい心を持っているのだ。その在り方が苛烈であり全てを滅ぼしてしまうとしても、彼がそう生きる理由は、間違いなく曇りない正しさだと思っている。
正しい理屈はどこまでも正しいし、自分もそんな絶対的な正しさに憧れて道を歩んだのだ。そんな極めて単純な理屈を、誰が否定できるだろう?

「マスターは、そうじゃないのか?」
「……………」

そう問うてみれば、にちかはただ黙りこくるだけで。
けれど、それが何よりの肯定だった。
八雲なみに支えてもらった道程を、彼女だって否定できる訳ではない。

「……でも」

けれど、ならば。
ならば、どうすればいいのか。

「だから、なんなんですか。なみちゃんがいなくなったところで、私が才能ないのは、変わらないままなんですよ」

尊敬は嘘ではない。背中を押してくれていたのは、嘘ではない。
けれど、ことここに至って、それが背中を押してくれないのならば、ここから先進む為にはどうすればいい?
才能がないから、背中を押してもらわなければ立てないような弱い人間が。支えを失くしてしまったら、どうすればいいのだ。

「だから、新しいものを――また私が燃やして、飛べるようなものを見つけないと、結局同じことの繰り返しで。
 そうじゃなければ――やっぱり、私は。なみちゃんの靴に、合わせるしか………」

だったらもう、そこに頼るしかないじゃないか、と。
そう一人ごちる彼女の声は、しかし、その答えを最早信じられているようではない。
……分かっているのだ。
ただ合わせるだけじゃ、駄目なのだと。
光をただ素晴らしいものだと妄信し、それに縋ればきっと上手く行くのだと信じ込もうとするだけでは。
それはただ、闇に見ないふりをしているだけだ。その裏にある彼女にとって都合の悪い現実に蓋をしているだけなのだ。

「……そうだよな」

……たとえその都合の悪い現実というものが、彼女の主観に過ぎないものであったとしても。
結局のところ、彼女の問題はそこに行きつくのだろう。
彼女の自己嫌悪。どこまで言っても、自分は駄目なのだというレッテルを自分に貼ってしまう自傷行為。
それを打ち破らない限り、八雲なみという外部の虚飾を被るしかないくらいに自分は足りないのだと、彼女は言い続けてしまうのだろう。
ただ自分の認める形での承認を得たいと願うそれを、我儘だと一蹴されればそれまでなのかもしれない。
だが、理想の自分に近づこうとしても絶対にそうなれない心苦しさには、アシュレイだって覚えがあるから、簡単に否定できるものではない。

「言葉で諭されるだけで、そんな簡単に、前なんて向けない。この程度で心の底から払拭できるなら――」

……君は多分、もうプロデューサーに、周りの人々に救われていただろうから。
その言葉を、アシュレイは飲み込んだのが、にちかにも分かった。
君には才能があるとかないとか、そういうことに、プロデューサーという男は一切口を出してこなかった。
ただずっと、にちかがやりたいことと、にちかがアイドルとして歩むことができる道について、聞き続けてくれていた。
それを真正面から受け止められたら、変わっていたのだろうけれど――言葉ひとつでそれを簡単に受け入れられていたなら、彼女だってここまで苦しむことはなかっただろう。

「だけど、それ以上に。誰よりも君が、君を見つけてる」

……だったら。
プロデューサーでも、アシュレイ・ホライゾンでも、彼女の価値観を覆すことが容易ではないなら。
七草にちかのそれをたった一つの言葉で変える“可能性”を持つ人間は、最早一人しかいない。

「……『君』が、君を見つけてる」

その、言い直した言葉の意味を、分からない程に馬鹿ではなかった。
だって、もうそこには彼女がいたから。
息を切らして駆け込んで、自分の姿を見つけてから、サーヴァントを引っ張ってくるようにこちらへと駆けだしてくる姿が見えたから。

「だから――もう一度、聞いてみてくれ。彼女の言葉を」

それを最後に、アシュレイ・ホライゾンは立ち上がる。
離れる訳でもなく、さりとてそれ以上近づくでもなく。ベンチの裏側に立って、依然としてすぐそばに寄り添いながら、共に歩み寄ってくる主従へと向き直ってくれる。
そして、向き直った先。息を切らして、駆け込んできた彼女は、自分の前に駆けよって来たかと思えば、膝に手を突いてしばらく肩で息をしていて。
どれだけ走ってきたんだ、そんなに遠くない筈で、私が全力で走ってきてもそんなに息を切らすことなんてない距離なのに、と思って、ふとひとつの事実に思い当たる。

(……そうか。この、私は)

走り込みもしていなければ、筋トレやダンスレッスンも全く行っていない。
もちろん歌唱だって本格的に磨いていないだろうし、化粧なんて令呪を隠していないという一点でたかが知れてしまうような。
そんな、本当に――ただの、七草にちかなのだ。
アイドルでもない、体力もそこまでなければ家だって生活保護で辛うじて送っているような、きっとこの後生き延びたとしても一生スポットライトを浴びることのないであろう。
そんな、役すらも与えられない彼女は。

「……さっきも、言いましたけど。もっかい、ちゃんと返事を聞かせてください」

それなのに、今。
観客席に座っている群衆にすぎない、彼女は。
決然と立って、その視線を向けている。
舞台に立っている筈の、七草にちかへと。

「見たんですよ、アイドルのあなたを」


――七草にちかにとっての、開戦の合図を告げる為に。


「なんで、あそこで――なみちゃんのステップを、踊ったんですか」



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最終更新:2022年02月13日 22:28