撤退の為に、連合は歩き出していた。

「で、これからどうするんだよ」

 聖杯戦争のマスター達が犯罪王ジェームズ・モリアーティの許に集い結成された組織――敵連合。
 その首領を務める青年は遊び倒されて年季の入った人形のようにボロボロだった。
 片手は明らかに異常な形にひしゃげたまま、今だぽたぽたと痛々しく血を滴らせている。
 身体は頭の先から足の先まで土埃で汚れ、とてもではないがつい先刻"四皇"の一人を撃退し、名実共に次の魔王へ至る資格を得たとは思えない姿。
 しかして彼は気をやるでもなく冷静に、いつも通りどこか気だるげに、ブレインたるモリアーティへと指示を仰いでいた。

「ビッグ・マム女史の襲来は我々にとってとても大きな艱難だったが……しかし最悪の事態ではなかった。
 おっと、何も君が覚醒出来たからセーフだなんて無理くりな理由だけではないから安心したまえ。
 具体的に言うとだね――デトネラットの本社はこの通り潰されてしまったが、四ツ橋君自体は不幸中の幸い、難を逃れている」

 デトネラットのバックアップを完全に受けられない状態になったとあれば、確かに連合の行き先は真っ暗だった。
 死柄木弔が覚醒を果たし、英霊すらなぎ倒す破壊の力を手に入れたことを加味しても、まだまだ連合の総戦力は盤石とは言い難い。
 デトネラットという名の公権力に寄生して過ごす現状から羽化するにはまだまだ時期尚早なのだ。
 だからその点、社長の四ツ橋力也が折良く外勤に出ていてくれたことは本当に僥倖であった。
 本社を失ったことは確かに痛いが、四ツ橋さえ健在ならばまだまだ体勢は立て直せる。
 弔もそこのところに異論を唱える気はないようで、「運がいいな、あのハゲ」と鼻を鳴らして笑った。

「彼への連絡は先程済ませた。もうじきこちらに迎えの手を寄越してくれるそうだからそれに乗って場所を移そう。
 君が派手に"崩壊"をかましてくれたおかげで、本社だけに警察や救急が集中するということもなさそうだからネ」
「それはいいけどよ……この通り、俺の右腕はすっかりお釈迦になっちまってる。どうにか出来ねえか?」
「ふむ。確かに重傷だ、明らかに複雑骨折している。
 単に使えないというだけでなく、放置していれば壊死して命にも関わりかねん」

 モリアーティが視線を星野アイのライダー……殺島飛露鬼へと向ける。

「極道のライダー君。君が先程ビッグ・マムの許までこの死柄木弔を送り届けてくれた時、何やら紙を口に含んでいたように見えたのだが」

 目敏いお人ッスね、と水を向けられた殺島は苦笑で応えた。
 尤も、この人智を外れて聡明な老紳士を前にして本気で隠し通せるとは彼自身思っていない。
 手の内を隠すという意味では、あの場で"地獄への招待券(ヘルズ・クーポン)"を服用するのは避けた方が良かったのかもしれないが――

 しかしそれは結果論というものだ。
 ビッグ・マムは呼んで字の如く、文字通りの怪物だった。
 クーポンの薬効なくして殺島はサーヴァントたり得ない。
 そんな状態であの婆に近付くなど自殺行為も良いところ。故にあの場でクーポンを使った判断は至極真っ当なものだったと断言出来る。
 クーポンの情報などどの道いつかは露見(バレ)ていただろうし、モリアーティが何故この場で自分に話を振ってきたのかの理由も分かっている。
 それに……ビッグ・マムとその相方の青龍が此処に攻め込んでくる前と今とでは、殺島達が連合に対して抱いている認識も大分異なっていた。

「逆に何だと思います? 紙片(コレ)」
「それを服用してからというもの、君の霊基は明らかに見違えている。
 肉体強化という側面から推測するに、麻薬……所謂ペーパードラッグの類なのではないかと思うが、どうかな」
「その通り。麻薬(コイツ)が無きゃオレなんて、ただの凡人(パンピー)に過ぎません」

 地獄への招待券(ヘルズ・クーポン)は――殺島達のような極道者にとってまさに革命だった。
 忍者に一方的に虐殺されるばかりであった極道。
 悪事(わるさ)かませば忍者が来ると子供を躾ける迷信じみた文句を垂れ流し、それを大真面目に恐れて雌伏しなければならなかった屈辱の年月。
 クーポンの発明と流通はその状況に一石を投じた。
 かく言う殺島も、クーポンの恩恵を受けたからこそ忍者相手にあれだけの大立ち回りを演じられた身だ。
 何処かの誰かが原型を作り、殺島がボスと仰いだ男が完成させていなければ、殺島はそもそも英霊の座なんて大それたものに名を連ねられるだけの生き様を遺すことは出来なかっただろう。

「で。欲しいんですかい、オレの麻薬(ヤク)が」
「人間に使用しても構わないようであれば、ぜひ我がマスターに一枚譲って貰いたい。
 凡人(パンピー)を英霊(サーヴァント)にまで押し上げられる程の薬効……お釈迦になった右腕程度なら、忽ち治せてしまうのでは?」
「出来ますよ。腕だけどころか、全身隈なくまっさらな健康体に回復します」
「それはそれは。ジャンルは違えど一人の学徒として興味深いよ。ぜひ構造を解析してみたいところだ」

 敵連合は烏合の衆ではなくなった。
 死柄木弔という確たる象徴を得たことにより、連合は聖杯戦争を終わらせ得る可能性を秘めた大勢力へと成り上がった。
 しかしながら、四皇ビッグ・マムとの直接対決を経た弔はほぼ死に体と言っていいくらいの重傷だ。
 自然回復など当然待てないし、そもそも数週間、完治を狙うなら数ヶ月単位の時間が掛かってもおかしくはない。
 今の連合にとって死柄木弔の回復手段を用立てることは急務。
 そして殺島の持つ"地獄への回数券"は――それを完璧以上の形で補ってくれる。

「で、答えの方は」
「一つだけ。出来ればァ~……保証(レージュ)も欲しいですね」
「検討しよう。言ってみたまえ」
「聖杯戦争が三日目に入るまでは、オレ達を切り捨てることはしないで貰いたい」

 殺島はアイの方をちらりと一瞥だけする。
 彼女はこくんと小さく頷いた。
 それは殺島への、サーヴァントへの信頼の証だ。
 殺島としても、アイのお墨付きが出たとあれば遠慮なく立ち回れる。

「三日目とは随分控えめだネ。意図を聞いても差し障りはないかな」
「その頃になれば、アンタ達と心中するか断絶(き)り捨てるかの算段も付きますからね」
「成程。流石は極道(ジャパニーズ・ヤクザ)、実に理に適った動き方だ」

 殺島の中での連合に対する信頼度は、先の一戦を目の当たりにして跳ね上がった。
 元は利用価値が薄れれば適当に切り捨ててしまえばいい相手程度の認識だったが、それも大きく揺らいだ。
 死柄木弔とジェームズ・モリアーティ。神戸しおが手綱を引く、四皇……ビッグ・マムとすら張り合うチェンソーの怪物。
 三種の剣を擁する悪の寄り合いは、今や殺島にとって私情を抜きにしても捨て難い実に大きな戦力と看做せる集団に成り上がっていた。

 だが、今の状況でビッグ・マムやかの青龍の陣営とぶつかれば、連合の勝率は間違いなく低いだろう。
 それにモリアーティという人物は悪の権化、他人を蜘蛛糸で操り動かす黒幕を地で行く男である。
 組むのはいい。だが最低限の保証がなければ腰を落ち着けることは出来ない。
 連合には期待している。
 その力は必ずや組むに足るものがあると、そう信用している。
 その上で殺島はクーポンという取引材料をちらつかせて、モリアーティに鎖を結ぼうと考えたのだ。

「仕方ない。では死柄木弔、彼らの要求に応えてあげなさい」
「……良いのか? こいつらにそれだけの値打ちがあるとは、正直思えねえんだが」
「ハハハ、手厳(キビシ)~」

 肩を竦めて笑う殺島。
 だが実際、弔の懸念も間違いではない。
 地獄への招待券を提供してくれるという一時的な恩恵を除けば、殺島というサーヴァントの力量は決して高くない。
 英霊をすら蝕める超常の個性をその身に宿す弔だ。
 彼が力を振るえば、殺島など一撃の許に蹴散らせると言っても決して過言ではない。
 だから彼は、殺島及びそのマスター・アイに対し令呪まで使ってやるというのは如何なものかと難色を示したのだったが――

「ではマスターに代わって聞こう。極道のライダー君、その麻薬はある程度定期的に供給して貰うことは可能かな?」
「……ま、そう来ますよねェ――ええ、出来ますよ。
 これはオレのスキルによって生み出してる麻薬(ブツ)ですから。
 アイの魔力を若干食うことには食いますが、この程度の人数に配るんなら十分賄い切れます」
「グッド。その言葉が聞きたかった」

 これを聞けば、弔にもモリアーティの言わんとすることは出来た。
 そして納得もまた然りだ。
 凡人を一度の服用で超人に押し上げ、肉体組織の回復まで果たしてくれる"個性"社会にすら存在しなかった超弩級の麻薬。
 令呪一つでその供給をコンスタントに受けられるようになるというのであれば、確かにそれは破格だろう。

「裏切ったら殺すぜ極道」
「ハハッ、おたくのサーヴァントの顔見てから言ってくれよ。極悪(ワッル)い顔してんぜ?」
「ヤクザ者には良い思い出がねえんだよ。こっちの話だけどな」

 面倒臭そうに頭を折れていない左手でぼりぼり掻きながら、弔はひしゃげた右腕の令呪を瞬かせる。
 元より緊急回避程度にしか使わないだろうと踏んでいた絶対命令権だ。
 一応マスターらしく最初は渋ってみせたが、いざ使うと決めると存外惜しさは感じなかった。

「令呪を以って命ずる。本戦三日目に入るまで、星野アイ及びそのライダーを尊重しろ」
「委細承知した。ではそのように振る舞おう」

 これにて、ジェームズ・モリアーティは向こう約二十四時間の間アイ達との同盟に縛られる。
 令呪は内容が曖昧であると効力に翳りが生まれるものだが、文字通り蜘蛛の巣めいた緻密な計略の許に活動するモリアーティに対してはこれでも十分な効き目として作用することだろう。
 あくまで当分の間ではあるものの、犯罪王と轡を並べて戦う上で最も危惧せねばならない懸念にはこれで手を打てたことになる。

 ふう。そう息を吐いたのは星野アイだった。
 プロの嘘吐き(アイドル)であるアイだが、それでも人を虜にするための嘘と思うまま操るための嘘では価値も土俵も全く違う。
 ジェームズ・モリアーティは間違いなく、星野アイが今まで出会ってきた全ての人間の中で一番油断のならない相手であった。
 不信ありきで関わっていたわけでこそないものの、こうして確かな形である程度の安寧が保証されれば肩も軽くなる。
 そんな彼女の反応に、モリアーティは肩を竦めて苦笑した。

「それにしても心外だねェ。そこまで私が君らを切り捨てる算段を立てているものと危惧されていたとは」

「カーナビから盗聴で人の居場所特定してきた人がそれ言う?」
「部下が勝手にやったことだよ」
「変態アラフィフ」
「妙なレッテルを貼るのはやめてくれないかな!? 小さい子も居るんですよ!!」


 ――などというやり取りを横目に、神戸しおは自分のサーヴァントの顔を撫でていた。
 その姿形は人間のそれではない。
 人の形こそしているものの、それ以外の全要素が人間の二文字に唾を吐き掛けている。
 されど彼もまた、確かに神戸しおのサーヴァントである。
 デンジという器の内側に眠る形で現界していたチェンソーの悪魔。神戸しおのライダーのその真の姿。

 かつてある悪魔は彼を地獄のヒーローと呼び。
 地獄で蠢く悪魔の誰もが彼を恐れ/畏れた。
 チェンソーマン。そう呼ばれるべき存在はしかし、此度はヒーローではなくただ武器たれと求められている。
 そして他でもない求めた張本人が楽しげに背伸びをして、辛うじて手を伸ばせば届くチェンソーマンの顔部分を撫でている。
 その微笑ましく牧歌的な絵面がなんともまたその凄惨たる経歴と似つかわしくなくて、見る者を不安にする奇妙な趣に繋がっていた。

「ありがとねえ、ポチタくん! ポチタくんががんばってくれたおかげで、私もとむらくんたちもみんなたすかったよ~」
「…………」

 チェンソーマンたる彼は此度、神戸しおの呼び声に応じて現界した。
 必ずしも彼の、ライダー・デンジの霊基の主が現界する為には令呪が必要だというわけではない。
 例外はあるだろうし、この先それを目の当たりにする機会も来るかもしれない。
 が、一番手っ取り早く、状況を問わず彼を呼び出す手段として令呪は間違いなく有用だった。
 死柄木弔は神戸しおに"助けてくれ"と言った。
 だから神戸しおはそれに応えて――その"助け"を乞う声を彼へと伝えた。

 助けてチェンソーマン。
 それは呪いの言葉。
 だが、しおは彼をその名前では呼ばなかった。
 しおはあくまで彼をポチタと呼ぶ。
 故に彼女に呪いは降り掛からない。
 彼女はヒーローを望んでいるわけではないから。
 地獄のヒーロー・チェンソーマンなど……神戸しおには無用の長物でしかない。

「よかったわねえ、しおちゃん。しおちゃんのライダーくん、とっても強くてびっくりしちゃった」
「えへへ。らいだーくんもポチタくんもすごいんだよ」

 ねー。そう言って笑いかけるしおにも、やはり彼は反応らしい反応は示さなかった。

「……それにしても。本当に大きくなったのね、しおちゃん」

 松坂さとうの叔母が神戸しおと別れてから、彼女が"今の彼女"になるまで。
 その間で経過した時間は数ヶ月もない。精々が一ヶ月程度で、いくらしおが子供とはいえ人間一人が見違える時間としては短すぎた。
 けれど女はまるで数年単位で会っていなかった幼子の成長を実感するみたいに、しおのことを見つめていた。
 その実感に彼女の姪であり、しおの最愛の人でもあるさとうの言動が関わっていることなどしおは露も知らない。

「? わたし、そんなにおおきくなった?」

 神戸しおの成長は祝福するべきでない方に向かって起こったそれだ。
 上に伸びたというよりはねじ曲がった、歪曲してしまったと言う方が正しいだろう。
 しかし方向がどうであれ、一つを貫けば美点に変わる。
 義ならざる犯罪卿に見初められ、魔王の器と並び立ち、最も多くの畏れを浴びた悪魔を操る"可能性の器"。

 しおは本当に大きくなった。
 もう此処に、守られ愛されて微笑むばかりだった少女の姿はない。
 さとうと紡いだ幸せな甘い日々。その中で培われたいびつな経験値。
 それが愛する人の死と、願いを叶える権利を巡る戦いという環境に放り込まれたことで遂に開花した。
 そして無論。女はしおの狂おしさも増長も窘めないし、叱らない。

 だって、それは――"愛"だから。
 この世の道理、道徳、倫理、全てそれの前においては紙屑同然。
 愛。人がだれかを愛する気持ち。
 それに勝る熱はこの世にないのだと、女は聖職者めいた敬虔さと狂人の如き盲目さで信じている。

「さとうちゃんも喜んでるわ。きっと」
「そうかなあ。だったらうれしいな。はやくあいたいや」

 無垢で善良だった神戸しおはもういない。
 此処に居る神戸しおは他人の死を重んじず、自分の道を歩める堕天使だ。
 それでも、松坂さとうが彼女に失望することはないだろう。
 彼女達はもうそういう次元ではないのだ。
 そんな領域は――相手に失望したり落胆したりするような領域はもう過ぎている。

 界聖杯の獲得さえ叶ったなら、彼女達は望み通りの永遠のハッピーシュガーライフに辿り着くに違いない。
 愛の外堀や前提条件は全て埋められているのだ。彼女達が可能性の器と呼ばれるようになるよりも、遥かに前に。

「あれ。そういえば、おばさんのサーヴァントは?」
「あ。そうだった、忘れてたわ。あの子には無茶させちゃったから、ひょっとすると怒ってるかも」

 謝らなくちゃ、と口許に指を一本当てたさとうの叔母。
 彼女がそう言った、まさにその時だった。
 瓦礫の山と化したデトネラット本社、その脇から一人の男が姿を表したのは。

「あらあら。噂をすれば、ね」

 この女は何も、ただの狂人ではない。
 彼女もまた聖杯戦争のマスター、可能性の器の一つだ。
 従えるサーヴァントは鬼の始祖、千年に渡り悲劇と流血を生み出し続けてきた罪深き怪物。
 誰もが憎み、一人たりとも愛することのなかった男のことも――女は他の皆と平等に愛していた。

 だが、女は勝手である。
 彼女は誰にも測れない存在だ。
 何故なら狂人。正真正銘の異常者。愛という概念のみを行動原理にして生きる、退廃の二文字がよく似合う仄暗い傾国の美女。
 彼女にとって無惨は愛の対象であったが、しかしさとうやしおと言った旧知の仲の相手と並びはしても、決して抜きん出ることはなかった。
 だから無茶な命令も出したし、笑顔で彼の逆鱗を逆撫でする真似もした。
 それでも無惨は逆らえない。何故なら女がどんなに狂っていようとも、彼女は紛れもなく鬼舞辻無惨という呪われた魂をこの現世に繋ぎ止めるために必要不可欠な要石であったから。

 しかし――


「お~い、バーサーカーくんっ。こっちよ――、――――」


 その停滞が今崩れる。
 富裕層の三文字を想起させる上品な服装は激戦の中で一片残らず吹き飛び、今の彼は筋骨の浮き出た肉体をあるがままに晒していた。
 血のような紋様が身体のそこかしこに広がり、しかして見窄らしさを微塵も感じさせない災害の如き存在感。 
 それを保ちながら一歩、一歩と歩んでくる鬼舞辻無惨。
 その身体から何かが、飛んだ。

 それが何であるか、実像を捉えられた者はこの場においてはチェンソーの悪魔のみであった。
 証拠に彼は己のマスターに迫った飛来物を、チェンソーの一振りで見事に斬滅。
 掠めただけでも人事不省に陥る致死の奇襲攻撃を全くの無為に帰させることが出来た。

「え?」

 が、逆に言えばその功績に預かれたのはしおだけだ。
 チェンソーの悪魔にとって、彼女は守るべき対象ではなかった。
 或いはそう命じていたなら、こうはならなかったのかもしれないが。
 全てはもはや後の祭りだ。弾が銃口から放たれてから"あの時ああしていれば"と悔やんでも、前に進むことは何一つとしてない。

「茶番は終わりだ」

 酷く冷め切った声が響くのと、松坂さとうの叔母が地面に崩れ落ちるのは全く同時の出来事だった。
 女の細い首筋、その喉の中心に突き刺さった血色の棘。
 ごぼごぼと夥しい出血を噴き出させたかと思えば、すぐさま棘の内側から肉の塊がぶくぶくと溢れ出し始め、傷口を覆う。
 失血死に至るほどの出血量ではなく、傷を覆う肉を外そうとしたり、意図的に傷を広げようとさえしなければ女は一命を取り留められるだろう。
 それもその筈だ。
 鬼舞辻無惨が如何に向こう見ずで一事が万事に通じる癇癪持ちであったとしても、自らを現世に繋ぎ止めている要石を考えなしに壊してしまうほどの阿呆である筈もない。

 彼は何も自分のマスターを、そして神戸しおを、殺そうとしていたわけではなかった。
 ただ一つ。人間がサーヴァントに背くただ一つの手段である、声帯器官のみを確実に潰すこと。
 無惨の目的はひとえにそれだった。
 如何に女達が狂人であれど、異常者であれど。
 愛などという不確かで曖昧なものに人生を賭せてしまう阿呆であったとしても――

 声さえ出せなければ。
 令呪さえ使えなければ、自分の歩む道を妨げる要因は何もない。
 愛? 恋? 勝手にやっていろ、私には何も関係ない。
 お前達の存在意義は私の存在と願いをこの地に繋ぎ止める要石、それ以上でも以下でもないのだと。
 傲岸不遜に無惨は、己の行動でそれを語る。
 先の令呪で堪忍袋の緒が切れたというのもあるが、それよりも、これ以上狂人の好き勝手にさせていられる状況ではなくなったというのが大きかった。

「どうしたのだね藪から棒に。良ければ理由を聞かせてくれないか、バーサーカー君」

 四皇の襲来という不測の事態は、確かに彼の逆鱗を逆撫でした要因として十分だと言える。
 現に彼には、ある意味では最も負担の大きな仕事を任せることになってしまったのだ――新宿を壊滅させた二凶の片割れ、青龍に化ける鬼神の足止めという超絶難易度の貧乏籤(オーバーワーク)を。
 が、しかし。雨降って地固まるなどとしたり顔で言えた立場ではないが、結果的に彼らの襲撃は連合を利する結果になった。
 死柄木弔の覚醒。それは連合に足りなかった破壊実行力を補って余りあるものであり、無茶苦茶な難易度の試練(クエスト)を乗り越えたのに見合うだけの報酬であろうとモリアーティは思う。

 そして連合がより盤石化すれば、当然組んでいる側にもメリットがある。
 社会性が皆無に等しいマスターを引き当てていながら、現代人としてのロールを一からクラフトした鬼舞辻無惨。
 彼のことをモリアーティは難儀な爆弾だと認識していたが、その程度のことも分からない凡愚だとまでは思っていなかった。
 にも関わらず此処で、この凶行。
 今日は厄日だねェと思わず心中にてそう溢しながら、モリアーティは無惨へ詰問する。
 しかしそれに対して無惨は――心底程度の低い阿呆を見るような目と嘆息を返した。

「愚かな男だな。ただ人より悪知恵が働くというだけで増長した者の末路か、これが」

 そう、無惨に言わせればこの場の全員が酷く愚かで滑稽に見えた。
 徒党を組むだとか策を弄するだとか、最早状況はそういう次元ではなくなっているのだということに未だ気付いていない。
 世界は自分達の都合の良いように回っているのだと本気で信じている、現実の見えていない阿呆共。
 つい先程までは彼らに、少なくともモリアーティことMに対しては一定の利用価値を見出していた無惨だが、今となっては彼も虫螻にしか見えない。

「群れていたければ好きにしろ。
 策謀家を気取るのならば同じく好きにしろ。
 私は貴様ら馬鹿共と心中するつもりはない。それだけのことだ」
「……絶妙に質問の答えになっていないが――まあそれはいいとしよう。
 君の戦力は我々としてもこの先末長く頼っていきたいところだったのだが、そうも強く縁切りを望まれては仕方がない。
 ただ、一つだけ言わせて貰うとすれば」

 眼鏡の奥。
 遥か神代では叡智の結晶とも呼ばれたそれの奥底に、邪智の瞳を光らせる。

「しお君を狙うのであれば見過ごせないよ。
 彼女は去りゆく君と違って、我々に確かな戦力としての価値を示している」
「随分と煽てるのが上手なのだな。孫でも出来た気になったか?」
「ふむ」

 一瞬考えた後。
 モリアーティの口許が、へらりと歪んだ。
 それは不敵に何かを勘繰るでもなく。
 何か高尚な理屈を今から説こうとしている、そういう笑みでもない。
 常に不敵に笑い、他者を利用しては大上段から物を語るこの"教授"らしからぬ顔。
 そこに浮かんだ笑みの正体は――憐憫と嘲笑の間の子、とでも言おうか。

「そう見えるのなら、それでもいいだろう」

 モリアーティは改めて思う。
 この男は紛うことなき悪であるが、しかし自分や弔のような分かりやすい"悪"ではないのだと。
 彼の目的に大義はない。理想もなければ辿り着きたい未来もない。
 バーサーカー・鬼舞辻無惨の脳にあるのは一から十まで、その全てが生存欲求だ。
 だから話など通じるわけもなく、モリアーティの目に映る綺羅びやかな闇色の可能性達など単なる道化としか映らないのだろう。
 彼にとっては死柄木弔も神戸しおも、等しく犯罪王ジェームズ・モリアーティに踊らされた哀れなマリオネットというわけだ。

 その認識は――愚かしいものだとモリアーティはそう思う。
 無惨は間違いなく優秀な男だったが、性根の臆病さの割に超越者故の傲慢さが拭い去れていない。
 あの分では生前、さぞかし見下していた人間達に苦しめられたのではないだろうか。
 と、思いはしたものの。実のところモリアーティとしても、無惨が離脱することで被る損失は無視出来ないほど大きなものではなかった。

 何しろ無惨は、言ってしまえば有効活用の余地がある不発弾だ。
 使えはするし頼りにもなる。だが、そこには常に爆発の危険が伴う。
 まさに今、目の前で彼がしでかしたことがそれだろう。
 ともすればもっと最悪な場面で、もっと最悪な形で爆発が起こっていても不思議ではなかった。
 死柄木弔が成り、チェンソーのライダーが四皇に並ぶ力を示した今、そんな不安要素を後生大事に抱えておく必要性はそこまでない。


 ――出来の悪い教え子に対して向けるような、その視線。
 哀れみと嘲りを両立させた瞳に無惨は眦を微かに動かしたが、今や無惨はモリアーティにすら関心がない。
 目の上の瘤だった令呪は潰せた。これで己のマスターは、自分という存在を現界させ続けるだけの文字通り要石と化した。

「(欲を言えば、神戸しおを確保したいところだったが……)」

 無惨の脳内にある計画は、常人が聞いたなら常軌を逸していると唖然とした顔をすること請け合いのそれだ。
 端的に言って荒唐無稽。臆病も度が過ぎれば狂おしくすらなるのだと万人に理解させる、そんな過剰な警戒心が大真面目に彼の脳裏にはある。
 その為には歳幼く、それでいて松坂さとうに対するある種の交渉札として使える神戸しおを確保することは非常に有用だった。
 しかし。無惨が当初想定していた状況と今の連合の現況は、あまりに大きく乖離していた。

「(……アレを、あの小汚い小僧が引き起こしたというのか……?)」

 神戸しおのサーヴァントが異様な姿に変じていることよりも無惨の注意を引いたのは、デトネラットを起点として遥か彼方まで広がる崩壊の痕跡。
 無惨の視力は見果てぬ崩壊の果てまでもを視認することが可能だったが、端数を略しても五キロ以上の規模が崩れ去っている。
 もしもこれをやったのが連合の王、死柄木弔であったならば……彼と今此処で事を構えるのは無惨にとって都合が悪かった。
 何よりこれから水面下へ潜り、縁壱の退場まで時間を稼ごうという身で、こうまで派手なことをしでかせる輩とやり合うなど矛盾している。

 ――背に腹は代えられない。
 騒ぎを聞きつけたあの男が、万一にでも自分の存在に気付いたなら。
 そう考えただけで怖気が走る。弔を恐れるのではなく、彼と戦うことにより生じた被害や破壊がかの男の目耳に届くことの方をこそ、無惨は恐れた。

「(代えを見繕うのは後でも出来るか……。
  そうでなくても、いざとなれば松坂さとうを交渉の種にすればしおは容易く確保できる。
  今この場はあの異常者めを回収し、体勢を立て直すのが得策だな)」

 故に無惨は妥協した。
 神戸しおを確保する狙いを此処で果たそうとすれば、恐らくはモリアーティが。
 そして彼が煽て利用しているもう一人の"餓鬼"、死柄木弔が黙っては居まい。
 無惨は、自分が今此処で彼らと事を構えたとて負けるとは思っていない。
 思っていないが、相応に派手な戦いになるだろうと予想は出来る。
 そうなれば必然、大方この世界でも心底理解の出来ない下らない動機の許に戦っているだろうあの男が目敏く嗅ぎつけてくる可能性も――捨てきれない。

 令呪の発動を封じ、鬱陶しく忌々しい戯言ばかり吐き散らかす口も封じ。
 今はただ微笑むだけしか能のなくなった要石。
 それさえ回収出来れば、後のことはどうとでもなる。
 そう考え、無惨は喉を封じられた狂人の方へと足を進めた。

「喜べ。ようやく貴様が、真の意味で私の役に立てる時が来たぞ」

 喉を破られ、その上肉塊で無理やりに傷口ごと塞がれている苦痛は尋常ではないだろう。
 だがしかし、それでも女は笑みを崩さずに居た。
 激痛と大量出血に耐えている故の脂汗を流しながら、それでも女は鬼舞辻無惨に向けて微笑み続けている。
 以前はあれほど腹立たしく思えたその顔を見た無惨は、胸が空くような想いをさえ覚えつつ、一歩また一歩と歩みを進めていく。
 どれだけ超越者ぶった笑みと所作を繰り返し、愛だ恋だと戯言を吐いても。

 あなたを愛していると痴れた言霊を吐き出していても――所詮はこの程度。
 物理的に喉を潰してしまえば何も言えない、ほざけない。
 その無様ですらある姿に、無惨は彼女の底を見れた気がした。
 であれば最早用などない。この場で嗜虐の歓びに浸る趣味も余裕もありはしないのだ。
 早くこの女を回収し、これからのことを見据えて動き出さなければ。
 最早一刻の猶予もありはしない。一分一秒、その全てが惜しいというこの感覚は、まさに初めてあの男と相対した日に感じた以来のものだった。

 願いは叶える。
 叶わなかった想いを、他の誰に継がせることもなくこの身一つで成就へと至らせる。
 これはその為の逃亡だ。
 継国縁壱という怪物の死を以って戦況を区切り、満を持して聖杯を目指すために必要な措置なのだ。


「しお君」

 その為に歩んだ、無惨。
 その胴体が細切れの血風に変わった。
 それらが地面に落ちる前に、虚空で像を結ぶ。
 元の無惨の面影が再生されるが、彼の顔は険しかった。
 不快の色を隠そうともせずに――己の行く先を阻んだ"悪魔"へ殺意の瞳で睥睨を送る。

「やめておきなさい。今、此処で彼と揉めることに意味はないよ」

 嗜めるのは連合の王ならざる者。
 連合のブレイン。王を育てることを掲げ、この東京中に蜘蛛糸を張り巡らせ。
 この鬼の始祖をすらその掌で弄ばんとした犯罪紳士だった。
 無惨の歩みをチェンソーのライダーが、彼の霊基の奥底で眠っていた最強の悪魔が阻んだこと。
 それは即ち、マスターである神戸しおがそう望んだからに他ならない。
 犯罪王と呼ばれた男は持ち前の聡明さで、いち早くそのことに気付いていた。

 ――だが。

「ごめんね、えむさん」

 少女は、地面に這い蹲る格好で首元を抑える妙齢の女性に駆け寄る。
 そしてその冷たい眼で。
 夜空ないしは宇宙を想起させる瞳で――無惨を視ていた。

 無惨には彼女の意思と可能性は、きっと死んでも理解など出来ないだろう。
 彼の言う通り、確かに少女の愛と狂気は一過性の病/心的迷彩のようなものであるのかもしれない。
 だが、だが。
 彼女は今一人ではなく。
 だからこそ、少女は利用されるだけの無垢ではなかった。
 たとえジェームズ・モリアーティが彼の想像の通り、都合のいい兵隊として少女を育てていたとしても。
 それが真実だったとしても――少女が一度その気になったならば。

 彼ですら。
 犯罪王と呼ばれ、犯罪卿を名乗れる叡智と深謀の徒ですらも。
 そこに吹き荒れる暴風から逃れることは出来ない。
 そのことは先の一戦で既に示されていたが、悲しきかな。
 鬼舞辻無惨はそれを知らなかった。
 彼は、そこに居なかったから。

「おばさんにはよくしてもらったの。
 さとちゃんも、わたしも、たすけてもらったから……」

 だから。
 "生きているだけ"の命になろうとしている恩人の身体をぎゅっと、精一杯抱いて。

「だから」 

 そう、だから――


「おばさんをころすのは――わたしかさとちゃんじゃなきゃ、だめなの」


 それが出来るのはおまえじゃないと。
 多分生まれてはじめての確たる敵意で以って、少女は鐘(こえ)を鳴らした。
 悪魔を動かす鐘の音。
 地獄を揺らす鐘の音。
 助けてチェンソーマンと、かつて誰かが/あるいは誰もがそう呼んだように。
 されどそれとは明確に異なる意味と意義で、少女は望む。
 そしてその祈りをこそ最大の燃料として。
 首輪で繋がれた狗に堕ちたチェンソーの悪魔は、殺意(ぶぅん)を鳴らして駆動するのだ。

「ポチタくん」

 ぶうん。
 ぶうん――ぶうん。
 羽音にも似た刃音が、未明の宵闇を切り裂き迸る。


 ・・
「それ、たべていいよ」


◆◆


 あくま-【悪魔】
 1:仏道修行をさまたげる魔物。魔羅(まら)。
 2:悪・不義を擬人的に表現したもの。人を悪に誘う魔物。


◆◆



「おばさん、だいじょうぶ?」

 しおが倒れ伏した女の横で膝を折った。
 声帯を貫いた傷口は肉塊で止血されているものの、傷自体を回復させた訳ではないので発話することは不可能だ。
 流した血の量も多く、その影響か顔色は蒼白だった。
 立ち上がろうにもそれが出来ない。
 誰かに殴られたり蹴られたりすることに人並み外れて慣れている彼女が、こうも無力な様子を晒している。
 にも関わらず、女はいつもの通りに笑うのだ。
 まるでそれ以外の表情(かお)を知らないかのように、笑うのだ。

「おばさんのサーヴァント、やっつけちゃうね。
 あんなこわいおじさん、もういらないでしょ?」

 そう言って気遣うように眉尻を下げる、少女。
 愛らしい姿といじらしい表情。そしてその幼気さとまるで結び付かない物騒な言葉を吐く口。
 全てがアンバランスだった。もう此処に、純粋無垢だった神戸しおは存在しない。
 初めて会った時に比べて――本当に大きくなった。見違えた。
 改めて女はそう思った。

 あの時のこの娘は、外の世界にも人間にも慣れていない小動物のような儚さを醸していた。
 それが今はどうだ。
 彼女は姪の庇護もなしに自分の足で歩いて、仲間を作って、自分の頭で考えて命を奪える人間に成長した。
 天使の羽根はもう亡いけれど。
 代わりにその足で、何処までも歩いていけるようになった。
 愛する砂糖少女と同じ、"人間"として。

「あとでえむさんに話してあげるね。
 サーヴァントって取り替えれるんだって。界聖杯さんが教えてくれたんだけど……あ、じゃあおばさんもしってるや」

 界聖杯は平等に知識を授ける。
 聖杯戦争の基礎知識を一から説明されたとして、幼いしおでは理解し切るのは難しいだろう。
 しかし脳の中に直接知識を埋め込む形でなら、そのハードルもあってなきが如しだ。
 そしてしおが話の途中で気付いたように、さとうの叔母も"サーヴァントの取り替え"についての知識は保有していた。
 マスターを失ったはぐれサーヴァントと、サーヴァントを失ったマスター。
 両者の間で再契約を交わすことが出来れば――今契約しているバーサーカー・鬼舞辻無惨が消滅しても、その損失はチャラになる。

 叔母にも聖杯を狙えるチャンスは残るわけだ。
 しおは無論、相手が恩人だろうと聖杯を譲るつもりはなかったが……
 それでもまだ、彼女を殺す時ではないと思ったのであろう。
 銀月の娘は手を差し伸べた。だいじょうぶだよ、と優しく微笑んで。

 その顔を見て、女は今までのとは少しだけ違った表情(かお)をする。
 困ったような、つい心の底から出てしまったような、そんな笑顔だった。
 それが"苦笑"というものだったことに――果たして女は気付いたかどうか。
 定かではないが。女もまた、しおに向けて手を伸ばした。

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最終更新:2022年03月08日 19:48