白昼の嵐が去った。
そして、その家は荒らされていた。
事務室ではなく、家という言葉選びがふさわしかった。
騒動によって荒らされ、吹き飛んで、散乱した『283プロダクション事務所』という名を冠したフロアは。
少なくとも、そこを初めて訪れた者がいて、ありのままの印象で語るとすれば。
はっきりと『まるで事務所じゃなくて家みたいだ』と呼べるだけの内装と面影を持っていた。
ともすれば先刻に、家なき子ども達にとっての王様が散々に破壊していった事に対して、含みや思うところを感じてしまいそうなほどに。
オフィスとして事務机を並べるには、あっけらかんと壁や仕切りが無さすぎる。
窓は大きすぎて採光があまりにぜいたくに確保されていて、それに伴って部屋の中は燦燦と明るすぎる。
可愛らしい布の端切れで飾られた家具、誰かの私物だったぬいぐるみ、メモ書きの貼り付けられた冷蔵庫と、調度品があたたかすぎる。
中央にでんと設えられ今やボロボロに横転したテレビと、それを皆で囲む為にあるようなソファーは打ち合わせの為に置かれたにしては家庭的すぎる。
従来のオフィスであれば集中を削がぬように壁で仕切られているはずの台所も、事務仕事の傍らに休憩する為に作られたにしては広すぎるもので。
備え付けのダイニングテーブルは、給湯室としてコーヒー、紅茶を注ぐためにあるというよりも、皆で食卓を囲んでしまえるだけの大きさがあった。
形ばかりのオフィスから視線を逸らしたその先にあるもの。
二人組の悪童を自称する子ども達が退席して行ったフローリングの廊下もそうだった。
仕事上の付き合いをする事務員が常識的な節度のある距離感で行き会う為の広さは無かった。
パーソナルスペースへの侵入を許し合った家族同士がばたばたと『いってきます』『いってらっしゃい』と言い交わしながらすれ違う為の狭さだった。
そんな『283さんち』の大作戦の痕に、犠牲者がもう『ふたり』いた。
犠牲者たちは紳士と極道の一団が対峙する中で、ずっと室内にいた。
窓ベリで、燦燦と眩しい夏の日光を背負いながら、黙し動かずにいた。
犯罪卿が論説を展開する中でも、女皇帝が武威を轟かせた中でも。
その対立による憤慨が事務所を物理的に揺らし、天井と床とが際限なく軋んだ中でも、揺れながら耐えていた。
それまでずっとそうしていたように、これからも続けようとするように、事務所を見守る立ち位置にいた。
狂童が鬱憤と興醒めを解放すべく室内を転がりまわったことで、あっさりと撥ねとばされた。
台座にしていた鉢ごと中空をわずかに舞って、それまで根を張っていた土の塊とともに床に墜落して潰れた。
これまでゼラニウムさん、ユキノシタさんと呼ばれてきた物語(いのち)が二つ。
割れた鉢と土の下敷きになって、色艶をなくした葉っぱと花を、乱雑なぺしゃんこにされていた。
割れたお皿を接着剤によってリサイクルされた水受け皿も、再び真っ二つになっていた。
そんな植物の遺骸を、紳士の両手が拾い上げた。
白磁のように白く、彫刻のように形のしっかりした滑らかな手には、その時だけ物置きから拝借した手袋があり。
それまでに行われていた室内の清掃活動と同じようによどみない手付きで、物語を終えた植物は片付けられる。
さすがに他の飛散物と同じ袋に投棄して『ごみ』と扱うことが躊躇われるかのように、他とはちがう袋の中に落とされる。
他の破片も掃き清められ、袋の口が縛られる前に、その紳士の視界に入ったのは。
化学肥料の混じった茶色い土の下からのぞく、ハサミですっぱりと切り落とされた茎の断端だった。
命を奪うためではなく、長く生かすために、剪定としての刃物が奮われた痕だった。
ゼラニウムたちを世話していた少女の手によって。
少しでも長く、共にいるために。
そして。
その世話をしていた少女は、今や『可能性ある者』やもしれないと露呈した。
それは、大騒ぎとともに進行していた遭遇と別離、もう一つの交渉劇で露わになった重大事のひとつ。
そこから導かれるのは。
その少女――
幽谷霧子が、遠からず立ち去る世界で、作り物の世界だと分かっていた身の上でも。
それでも仕事の機会も少なくなった事務所にさえ立ち寄って、剪定と水やりを欠かさないような少女だったという心の有り様であり。
そんな少女のことを、
田中摩美々という少女がとても大切に可愛がっているという彼の者にとっての戒めであり。
かつて白い手を毒々しい返り血で染めていた彼の者が、『血染めの生還』という選択肢をさらに極力は遠ざけようとする縛りであり。
――霧子は……『咲耶が残してくれたものを見つけたい』って、言ってましたよ。
今は旅に出ることを選んだ少女が、白瀬咲耶という大切な人の『行方不明』を、既に『可能性ある者』としての理解で、『喪失』だと知っているということでもあった。
ひいては、その死を防げなかった過ちに対して、課されるべき責がそこにもあったということ。
殺したのは殺し屋の子ども達だったとか、他の関係者も動けなかったという要素は何らの言い訳にもなりはしない。
まして失われた少女は、元の世界に還るべき生者のことを恨まず、『家族』には感謝していると書き残していたのだから、なおのこと。
判明しているだけで3人の少女と1人の
プロデューサーが死別を味わったのだとすれば、その咎は全て己にある。
作業を中断し、サーヴァントとして仮初の呼吸には似つかわしくない、嘆息を吐きだす。
他者には決して見せない仕草だったが、その溜め息は長かった。
それで、来客が触れたら危なそうなものは最低限に片付けた。
ぐるりと一瞥することでそれを確かめ、嵐の後の清掃活動を中断する。
手袋を脱ぎ去り、卓上にあった携帯端末を拾い上げた。
「全ては私が企み、私が逸したことだった」
だからこそ、と言いさして。
次の刹那には、身に纏う気配を一変させた。
二つの花を看取って、一人の少女に纏わる悲しみを思った美貌の青年から。
異なる役割(ロール)の仮面を被った、美しき『狡知を弄する者』へと。
彼は、もはや喪失を悼む≪神に祈る者(プライヤー)≫ではなく、≪神に背いて世界を廻す者(プレイヤー)≫だった。
極めて端正な立ち姿は変わらず。
金糸のごとき髪色にも、輪郭の造形美にもいささかの移ろいはなく。
ただ、その眼光に悪魔の智慧を同居させていることだけが違った。
合理に叶った、取るべき行動へと頭を切り替えていることが、はっきり眼の色を変化させていた。
赤々とした灯火のように柔和な双眸から、煌々とした燃え上がるような眼球に。
そして、恨みを残した死者の血を被って呪われた紅玉のように爛々とした虹彩に。
炎。薔薇。鮮血。
その色を表す比喩は様々に存在したところで。
全ての形容はその瞳の色を表現するために生まれたのかと見まがうほどの。
純粋な原色の、ただし悪の退廃と偽悪の無垢が陰影として混じり合った、『緋色の瞳』が輝いていた。
思索の海の中で現実にいる『誰か』を捕らえることを思い描き、今まさに視界内に収めたと言わんばかりに。
そして、策謀の矛先を向けられた『誰か』の為の時間が動き出した。
ステッキを本当に万が一においての最後の護身用として携え、多数の傷跡が刻まれたフロアを退出する。
コツリ、コツリ、とぶれないことを幼少から身に刻んだ研鑽の成果である、定められた歩調(リズム)。
犯罪紳士はそれでも紳士であり、悪意の的にされるため作られた偶像であればこそ、姿勢も足取りも常に一定。
事務室を出るや、二階(ファーストフロア)から三階(セカンドフロア)へと繋ぐ階段を上り、社長室へと。
もし階段の上階にて待ち受ける者がいれば、己は何かしでかしてしまったのだろうかという自己疑念を抱かされただろう。
完璧な造形美の麗しい容姿によって緩和したところで、見据えられる鋭利さと怜悧さは隠しきれるものではなかった。
眼にはたしかに炎熱が宿せるのだと知らしめる激情と、その上で何を企まれているのや知れぬという蠱惑と。
燃焼する冷徹という矛盾は成立することを、ただならぬ容貌は証明していた。
その容貌を初めて見せられて、『犯罪卿』と契約した少女は思ったという。
うだるように暑苦しい赤ではなく、冷めて、醒めて、沈んだ、殺意ある緋色だと。
そして少女は、その上でなお見惚れたことを自覚した。
社長室の扉を開く。
荒らされてこそいないものの、無傷ではない一室だった。
下階の天井を震わせるほどの海賊女帝の激昂は、そのまま上階の床も蠕動させた結果となり。
棚に収まっていた保存書類は散乱し、トロフィーは転がり、社長席と応接席を仕切る衝立は転倒している。
壁に飾られていた額縁もべたりと落下して、『切磋琢磨』という太った力強い書体が床から見上げていた。
「本当に、貴方たちから教わったことは多いものです」
その社是を掲げた男に向かって独り言ちる。
『天と地の間にはお前の哲学などには思いもよらぬ出来事があるのだ』というハムレットの台詞は、もはや世界に通用する定型句になったものだが。
現実の社会には知悉していても魔術の世界、想像力の限界は有する犯罪卿にとって、『聖杯戦争』と『未来の世界』の複合は難物だった。
現代(みらい)を生きる偶像から教わったことは多く、偶像達によってもたらされた不可解な命題もまた多い。
まさに今から向かい合うのもそういう問題だと携帯端末に視線を落とす。
フロアを移動した理由は二つ。
一つは社長室にあった機器を用いて、七草はづき宛てに事後処理の連絡を送らねばならないから。
いま一つは、近い将来に
櫻木真乃という『家』の構成員の一人が慌てて帰宅するからだ。
その時刻は、予測することはできても、ぴったりと確定されたものではない。
事務所入り口をくぐり、荒らされた室内のただ中で、見知らぬ外国人が電話をかけて謎の会談をしている光景。
それだけでも不審者扱いは確定、下手すれば荒らした張本人かと誤解されかねないものがある。
故に、彼女がやって来た時にまず目の当たりにする二階の共有部屋で通話を行うことを避けた。
二階に訪れた者を見落とすことだけは無いように、人感センサーを眼につかぬ所に設置するのも忘れず。
一人掛け用の肘掛け椅子(アームチェア)に腰を降ろすことはなく、来客用のソファーに腰を落とす。
たとえ、彼の者の天性の属性が支配者であり、現在の事務所を動かす立場を替わっていたとしても。
『社長席に腰掛ける』ことを良からざる簒奪だと恥じ入る程度には、その『家』の者に負い目と引け目はあった。
犯罪卿の前段階である『犯罪相談役』、悪の導き手としての仮面。
改めて駆け引きとして相対するのは、同盟者から求められた『相談』の遂行である。
それは依頼人にとっての私事でありながら、この『家』に関わる者全員の運命を左右しかねない、数奇な相談だった。
予備として使い捨てが効く方の携帯端末に、あらかじめ覚えていた連絡先を入力して呼び出しをかける。
それは海賊女帝と狂童が出入りする前の下準備において、記録から検めておいた連絡先だった。
現在は283プロダクションを退所していたけれど、過去のある時点で所属していたとして残された記録から。
「お待たせしました。それでは、自己紹介から始めましょう」
『待っていた、というほどじゃないさ。今来たところだよ――という言い方はおかしいけど、ついさっきコンタクトに気づいたばかりでね』
応答するのは、年若くも堂々とした青年の声。
気兼ねしなくていい、これでも人と話すのは好きなんだと、穏やかそうに語りかけられる。
話し慣れている、話術に類するスキル持ちだろうか、という第一印象を持った上で。
もう一人の七草にちかに会いたい。
極めて私的でありながら、極めて深刻な少女たちの魂を左右する接近遭遇が段取りを組まれようとしていた。
◆
その邂逅に至るまでに、費やされたもの。
ひとつのSNS炎上。
一本のニュース記事。
幾つかの過去の動画。
そして、時間をしばらく巻き戻す必要がある。
通話相手となる男は、マスターから借り受けた携帯端末をなぞっていた。
大きなベッドに腰掛けたまま、動画の『再生』にあたる表示をタップする。
流れ出したのはそう遠くない過去の映像だった。
蠱惑的ながらも可愛らしく飾り付けられた背景とともに。
5人のアイドルが、詩を吟じるように軽やかに髪の香料を宣伝するコマーシャルだった。
『夢見る髪に』
いたずら好きの妖精。あるいは小悪魔。
そのいずれかを模したのだろうと分かるきらびやかで軽やかな装いで、視聴者に向かって幸せそうな笑顔を向ける。
『魔法のような、恋の香りを』
ひと繋がりで映るように編集されているのか、映像は一人一人の少女たちのソロ映像も続けて見せていく。
『マジーア・アンティーカ』
魔法をかけるようにウインクする青磁色の妖精。
春の風をつれているように明るい桃色の妖精。
恋について天邪鬼そうな笑みで語る紫の妖精。
かわいい風を愛でるように謡う水縹色の妖精。
そして、凜とした立ち姿の中にも乙女心を感じさせる碧色の妖精。
『乙女たちがずっと、夢みられるように』
少女がそう唱えると同時に、かつての夢だった映像は途切れた。
動画に添付されたコメント欄には、このCM映像がアンティーカの出世作だった、とか。
これ以降ぐっと露出が増えてバラエティーに出たりソロの仕事も増えていっただとかの有志による蘊蓄が並んでいる。
そんな蘊蓄を、男は真に受けない程度に、軽くさわりのところだけ目を通して。
今度はその『碧色の妖精』がソロで紹介されている関連動画へと画面をとばした。
その動画配信サイトの検索コードには、『白瀬咲耶』という人名でサーチが実行されていた。
◆
年頃の少女たるもの、髪をいたわることはとても大事である。
まして休職中とはいえ、アイドルならばなおのことだ。
万全にケアしようとするほど髪に塗布するものは増えるし、一工程あたりにかける時間もじっくりになる。
だが、状況によっては時間をかけるわけにいかないこともある。
とても夢見る髪に、魔法のような香りだとは言えないコンディションだった。
朝から徒歩で酷暑の新宿区近辺を彷徨っていれば、アイドルだろうと汗だらけになる。
ラブホテルの大きなふかふかと弾むベッドで横になって、しばらくはエアコンの冷気に感動して、水分補給も行った上で。
にちかは次のアクションとして、シャワールームに直行した。
『すぐに終わらせて戻りますからね』と、警戒も兼ねて室内に残ったアッシュにきっぱり言った。急ぐつもりだったから。
何せ、マスターの少女を連れてくると場を離れたセイバーは、『そう遠からずに戻れると思う』と言ったのだ。
これから、私達の生還計画にどうか協力してくださいと頼むことになる主従の前で、いかにもお風呂上りですと乾ききっていない髪で挨拶できるだろうか。
だいぶできない寄りだ。
なので、リンスを使ったりコンディショナーを使ったり、まして高級ホテルの広い浴場をじっくり楽しんだりなんて事はやらない。
さっさと汗と匂いだけを落して、すぐに髪を乾かす。
七草にちかには、きちんと計画性があった。
計画通りにできるかは別の話だった。
それは齢16の少女にとって『ラブホテル』という初めて訪れる未知であり。
そして、普段のにちかならば絶対に待ち合わせをするためだけにここまでの金は使わないだろうという高級施設でもあった。
……もっとけばいのを想像してたけど、内装めっちゃキレイじゃない?
……脱衣場でも思ったけど、アメニティーのバリエーション、多っ。
……うわ、このシャンプーとリンス、どっちも高い値段の棚にあるやつじゃん。コンディショナーも!
……つ、使ってみたい……でも高級品の使い心地が忘れられなくなったら怖い……!
……い、いやでもこれから重たい要件で人と会うわけだし。なるべく身ぎれいにしといた方がいいのでは?
……か、髪が、気持ちいい! じっくり、できるだけ髪になじませて恩恵に預からないと!
……っていうかこのお風呂って……あれだよね。ジェットバス、だよね。
……いやいや、ただの泡が出るお風呂でしょ。じっくり浸かってる間にさっきのセイバーさんたちが来たらどうすんだ
……にしても、盛り上がったカップルって本当にこんなのでキャーキャー言うのかな。ラブホに入る目的と、楽しみ方の方向性が違くない?
……まぁ、べつに浸かるわけじゃ、ないから。ちょっと試しにお湯を入れてやってみるだけだから
……ボタンって、これだよね――
……わぁ――すごくボコボコ鳴ってる――なんか点灯してるし
……こんなのに身体を入れて、大丈夫なのかな……学校の修学旅行で大浴場に入った時はどうだったかな……
……わ、マッサージみたい……ツボとかすごい押されそう……ぬくい……
……はぁー…………ずっとこうしてたい……
……やば、早いとこ身体拭いて髪乾かして……うわ、これバスローブじゃん……一度もこういうの着たことないな……
……いやいや。いやいやいや。これを着て出ていくのはダメでしょ。いや、これを着てグラスを傾けて『フッ』とかやるのは気持ちいいのかもしれないけど!
……でも、『バスローブを着て風呂場からライダーさんのいるベッドルームに入って行く』ってだめでしょ! そういうシチュっぽくなるじゃん
……い、いやでも、脱衣場だけで着てみるのは有りだよね。ぱっと着てから普通の服に着替えればいいよね?
結論。かなり時間をかけてじっくりとラブホテルの浴場を堪能した。
「もどり、ました……」
さすがに「思ったより長かったんだな」という視線を向けられては気まずいものがあり。
かといって、待ち合わせ相手がいつ来るかもしれないというのに無言でこそこそと位置についているわけにもいかず。
バスローブからそそくさと普段着に着替えて控えめな小声をかけると、大きなベッドに腰掛けていたアッシュが振り向いた。
「やぁ、おかえりマスター」
屈託のない挨拶。指をすべらせ、それまで視聴していた動画の再生を止めようとする。。
手に持っているスマートフォンはにちかのものだ。
界聖杯の社会情勢を把握しておきたいということで、にちかの同意のもと貸し出し中だった。
これで、梨花ちゃん達はまだ来てなかったんですか、と言おうものならずうずうしい発言みたいだとにちかは逡巡して。
じっくり長風呂をした気まずさなど比較にならない状況に直面した。
あらかじめ但しておくと、今のにちかには彼からラブホテルの屋上に連れ込まれても勘違いしないぐらいの信頼と学習がある。
その彼が、手元で視聴していたスマートフォンの画面が目に入ってきた。
そこでは、『胸元の大きく開いたネグリジェ姿でベッドに横たわる張りのある体つきをした女性のアップ』で動画が止まったところだった。
聞き違いでなければ、直前の音声は、とても艶めかしくも可愛らしい声で『あなたが欲しい……』とか聴こえていた。
そして彼は、真紅の壁紙に包まれ、天蓋付きのベッドが置かれたとてもムーディーな空間で、それを視聴していた。
にちかは『えっ』という顔をした。
えっ、と呟いたまま停止して、アッシュを凝視した。
口を小さく開けたまま、顔は真顔のまま止まっていた。
屈託のない顔だった彼が、数秒かけて不思議そうな顔へと変じていき。
そしてにちかが『人のスマホで、何、視てるんすかバカ―!!』と叫ぶ前に、かろうじて訂正が間に合った。
「いや、違うからなマスター!?」
断じて性的にやましい動画ではなく、吸血鬼という設定の全年齢向けハロウィン宣伝動画である。
ライダーから3回ばかりそのように復唱されて、にちかはやっと我に返った。
◆
「それで、どうして白瀬咲耶さんの動画を視てたんですか?」
アッシュからはスマートフォンを返してもらった。
ベッド横に設えられた一人掛けソファに腰掛けて、にちかは彼と向かい合うよう座る。
「そうだな……マスターとも、親交がある人だったか?」
「いや、同じ事務所にいたぐらいで……何回か、声をかけてもらったことはありますけど」
「そっか、関係については分かった」
誤解だったというのなら、アッシュにとって興味を持った理由があるのだろうと、にちかは改まって思い出す。
283プロダクションに通っていた当時……七草にちかはあまり、他のユニットと交流を持つ方ではなかった。
けれどアイドル達はカメラの回ってないところでも朗らかで親しげな人ばかりだったから、レッスンのことや七草はづきのこと、話題を見つけては話しかけられた。
白瀬咲耶もそういう一人だった。むしろそういう気遣いや声かけを、率先して皆にしている人だったなぁ、と覚えている。
『にちかのような妹がいたら、私はきっと親ばかならぬ姉ばかになってしまうのだろうな』なんて事をあまりにてらいなく言われたこともあった。
そういうのが意図して口説いているのではなくどうにも素の仕草振る舞いであるらしく、事務所でぶつかってしまった時は『構わないよ。けれど怪我をしないように気を付けてね』と自然なエスコートで助けおこしてもらったことがある
……そうだ、あの事務所の廊下は狭いから、すれ違うとぶつかってしまいそうになるんだった。
あの事務所は何だか、『芸能事務所』って感じじゃなかったから――
「その白瀬咲耶さんが、失踪したとニュースに出ていたんだ。マスターがよく見ている情報発信のアプリにも載ってる」
――思い出を手繰っていたところに、欠落が落としこまれた。
「しっ、そう……?」
「おとといの晩から行方が知れない。それ以上のことはどれも噂で、はっきりとしたことは知れないようだった。少なくとも外部の情報からは」
にちかが最初のショックを飲み込めるまで待つように、アッシュはそれ以上を黙った。
ニュースに出ていた。
にちかも見ているSNSアプリ。
それらを遅れて飲み込み、慌ててアッシュに追従するようにスマホを操作する。
それらしいニュースで検索する必要もなく、SNSアプリのトレンド上位欄には『白瀬咲耶』という名前があった。
《アイドルユニット、L'Anticaの白瀬咲耶さんが行方不明》
いちばん拡散を繰り返されているのは、その見出しだった。
どうあがいても目に飛び込ませるがごとく、複数のニュース配信アカウントが扱っていた。
はっきりしていることは、ほとんど見出しの通り。
逆に言えば、はっきりしていない事は幾らでも言われているということだった。
白瀬咲耶の名前でサーチをかけようとしただけで、『白瀬咲耶 失踪』『白瀬咲耶 父親』『白瀬咲耶 アンティーカ 不仲』などの穏やかならぬ検索予測がぞろぞろと並ぶ。
分かりやすく、燃えていた。あることないことの火の粉が飛び交い、火事場泥棒のうわさが幅をきかせる。
にちかにとって、『アイドルの消失』とは、話題にならなくなってぱっと消えてしまうものだった。憧れているアイドルがそうだったからこそ。
しかしだからこそ、『大騒ぎになる失踪』という事件がショック性を帯びる。ただごとではないという直観になる。
思い出したのは、一か月前のことだった。七草にちかにとって、アイドルの終わりになるのかと思われていた夜。
あの夜にライダーが予選で戦ったセイバーを倒せなければ、開幕なり襲って来たサーヴァントの剣は、にちかを貫いていたに違いなく……。
「普通の行方不明じゃ、ない、ですよね……」
寒気がしたのは、決して髪がかわいてないせいでも、エアコンのせいでもない。
「ああ、聖杯戦争がらみの事件に巻き込まれたことは間違いないと思う」
アッシュはにちか以上に確信を持っているかのようにうなずき。
「君の懸念は正しい。そして、正しいからこそ、この記事はおかしいんだ」
「え……どういうことなんですか?」
不穏ではあれど、にちかは身を乗り出さずにいられない。
「率直に言う。この炎上は自然に起こったんじゃなくて、意図的に引き起こされたものだ。
誰かが悪意で彼女の風聞を利用して、『このアイドルは聖杯戦争の関係者だった』って宣伝したんだよ」
「…………」
スキャンダル炎上を意図的に起こすなんて、そんなことができるんですか、と。
そう切り返そうとしたのに、どっと情報の渋滞が起こって言葉が出てこなくなる。
白瀬咲耶が急に行方不明になって、実は彼女がマスターでもう死んでいるという話になって。
違う、まだ行方不明で死んだと決まったわけではないんじゃないか。
――死んでるわ
さっき出会ったセイバーのサーヴァントは、行方不明のマスターなんてそんなものだと言っていた。
だったら白瀬咲耶だって『死んでる』ということになる。
七草にちかは、誰からも話題にされないアイドルが『生きている』とはどうにも思えないところがあるけれど、そんな問題ではなく。
たくさんの話題性を持ったままで、強制的に命を終わらされている。
それだけでなしに、彼女が消失したというニュースそのものが仕組まれたことだと言われてしまっては。
「なんで……そんなことが、分かるんですか」
ショックを与えてしまうようなことを立て続けに口にすることになる、だから一度ゆっくり深呼吸をしてほしいとアッシュは口にして。
事実、にちかの動揺に対して、心底申し訳ないという厳粛さを顔で示した上で、順序立てて紐解き始めた。
「不自然なのは、このニュースが広まる速度と規模なんだ。まず速さについてだけど――」
まず、今朝方に自宅を出発した時点で、にちかもアッシュもこんなニュースは少しも耳にしていなかった。
でなければ、セイバーから『警察とかが捜索するぐらいに行方不明になっている同盟相手を探している』などと言われた時点で『それってもしかして…』と連想していたことは疑いない。
つまり、白瀬咲耶失踪事件が拡散され始めたのは八月一日が早朝と呼べる時間帯を過ぎてから、昼日中に至るまでの数時間にも満たない間だ。
仮に朝のワイドショーの時点でテレビ番組に流れ始めたのだとすれば、『報道されてからSNS炎上を起こすまでの時間』はさらに短いと考えられる。
それも、行方不明になっているのは18歳の少女。
この国では成人の仲間入りを果たす年頃、一昨日の夜から不在になったとしても、泊りがけの家出などの可能性もまだまだ考えられる程度の蒸発時間だ。
果たして、まだまだ短期間と言える程度の失踪が、それだけの短時間で、大衆からここまでの食いつきを見せるものだろうか。
「拡散される速度もおかしいし、そうまでして噂が広がっている認知度もおかしい。
しばらく前だったか――国会議員の一人が一家全員で拉致されて、何日か後に倉庫で遺体が見つかった報道があっただろう。
その時に比べれば、今回はまだ行方不明という一報が出た時点だというのに、だ。あまりに盛り上がりが過熱している。
いくらドラマやバラエティーに出るほどの人気アイドルだったからって、従来の報道とここまで格差がつくとは思えないんだ」
「た、たまたま……じゃないですか? こういう炎上って、何が跳ねるかなんて分からないじゃないですか」
「うん、だから『そうだとしても燃える』ようなスキャンダラス性が彼女にあったのかも軽く調べたけど、それも無しだった」
ここで、先刻の行動に話が戻る。
一連の動画視聴やコメントチェックから見えたものは、白瀬咲耶の容姿や仕事ぶりだけではなかった。
白瀬咲耶に『炎上前の時点で』寄せられていたコメントや、活動ジャンルを確認することも目的の一つだった。
「炎上にでてくるような、父親との不仲やらユニットのセンター問題やらは、この炎上が起こってから初めて掘り返されたものみたいだ。
この国では『重箱の隅をつつく』っていう言葉を使えばいいのかな、まだ事件による失踪なのかも定かでないうちから過去の小さい噂が掘り返されている。
元からニュースバリューのある噂を持っていたアイドルが炎上したんじゃなく、行方不明に合わせたのように過去の火種がかき集められている印象があったよ」
それも、聖杯戦争本戦が間もなく始まり、実際に昨晩その予告がされたというこのタイミングになって、だ。
つまり、作為的な炎上工作ではないかということ。
「とはいっても、これは全部『状況証拠』だ。
有名な『連続女性失踪事件』の煽りを受けたせいだとか、それ以外に俺が見落としている原因から来る偶然の炎上かもしれない。
それでも、怖がらせることを承知の上で話したのは、これから白瀬さんの身近なところで二次災害――いや、本命の災害が起きるリスクがあるからだ」
「本命……?」
仮に、炎上が本当に人為的に作られた祭りだったとして。
この事件の影には、都市ひとつの噂を動かせるような仕掛けを操るほどの仕掛け人がいる。
俺も生前に似たような企みごとが上手かった奴を知っているから、既視感もあるんだけど、と前置きして。
「他の主従をあぶりだしたい好戦的な手合いからすれば、もう『目論見は成就したようなもの』なんだ」
――勝負は既に決したようなもの。
生前に体験した『仮想空間での殺し合い』に、招かれただけでそう評された怪物がいたことをアッシュは思い出す。
――思い出すだけでも顔をしかめたくなる輩ではあったのだが。
十重二十重に張り巡らせた蜘蛛の糸は、町や国家をごっそりと手玉にとるが如し。
『燃料(リソース)と手が届く範囲(レンジ)さえあればいつでも古都プラーガの全てを発破解体できる』と披露したこともある演算力と対応力。
星辰奏者としての性能値(ステータス)ではなく人間としての頭脳(ステータス)で名だたる軍神たちに伍していた帝国随一の策謀家。
蝋翼の周囲に死想冥月、冥狼、強欲竜など、都合のいい対立構図が揃っていたのはどうしてだった?
――全てを配置した黒幕がいたからだ。
第十三星辰小隊がほぼ全滅することになった強欲竜団との衝突はなぜ起こった?
――小隊の上官が、強欲竜団を自ら招き寄せていたからだ。
そんな盤上を見通す者が、本戦の有力主従を見極めようとすればどうする?
――みずから火種を燃やして、他の主従を招いてぶつけ合わせる。
ど、そんな発想を逆算してしまうぐらいには、アッシュには蜘蛛糸の主に踊らされた嫌な思い出が数多くある。
「このニュースを見て、他の人達が集まってくるってことなんですか? それって……まさか……」
「ああ、今朝までどこに行く当てもなかった主従だって、炎上を見たらこう思うんじゃないか。
少なくともこの事務所には確定マスターが一人いて、それを殺害した主従も近くにいる。ならダメもとで探りを入れてみよう。
あるいは白瀬咲耶さんを殺害した者だって、『ニュースになるのが早すぎる』と違和感を持って調べに来るかもしれない。
そして、殺害の当事者以外だったとしても、俺みたいに『報道が早すぎる』と察したら事務所を気にするだろうな。
白瀬咲耶さんはひとり暮らしで、学校は長期休暇の真っ最中。なら社会的な座標は所属の事務所しかない」
それが、現在の283プロダクションを取り巻いている差し迫った危険。
事務所が今にも危ないなんて言われてしまったら、にちかには思い浮かべる顔がある。
「……お姉ちゃんを、助けなきゃ」
青ざめた顔。
何を考えるよりも先にと発された声。
震えていて、焦りのあまり出たような声で、失うことへの恐れが隠し切れない。
プロデューサーさんだって絶対に事務所にいるし、もしかしたら美琴さんも……と、にちかにとって他人ではない名前が次々に挙がっていく。
そのつぶやきを最後まで聞いて、アッシュはうなずきを一つ。
怯えまでを吸い取ろうとするように、一度しっかりとにちかの視線を受け止めてから。
「ひとつ、確認させてほしい。俺の悪い予想が当たっていれば、事務所で待っているのはさっきのセイバーみたいな『試し』じゃない。
いや、あれはあれで殺し合いだったけど――その殺し合いを問答無用で強いてくる手合いが待っているかもしれない。
そして、そうまでして守ろうとするのは……冷たい言い方をすれば、『帰った世界では何事もない人達』だとも言える。
たとえ見捨てたってマスターの咎にはならないし、俺じゃなくたって、誰も責めやしないよ。
意地悪な言い方をすれば、むしろ『そこまでする必要あります?』と言う者もいる問題だ」
仮に『この世界の七草はづき』の身に何事かが起こってしまえば、経済的には七草はづきの被扶養者であり、世間的には『SHHisの七草にちか』という顔を持っているにちかだって、立ち回りや暮らしに困ったり、炎上の余波に飲まれたりするリスクがある。
しかし、それは敢えて口にしない。
「それでも――マスターが彼らを助けたいというなら、俺はマスターの大切な人を守るために、これから全力を尽くすよ」
確かめたいのは、『
NPCを
NPCだと理解した上で、それでもなお助けたいのか』という一点だからだ。
そして稚拙な『助けなきゃ』という言葉こそ、彼女の為になりたいと思っている男の心を動かすには、十分だった。
少女は、控えめだけれど頑なな頷きをひとつ。
よし、とアッシュは膝を軽くたたいて立ち上がった。
「今から霊体化して事務所に行くよ。危険人物が近づいていないかどうかの探りと、事務所にいる人たちの様子見だな。
マスターはその間にお姉さんたちに連絡を頼む。メッセージと通話、両面から事務所を出るように連絡をしてくれ。
もし
プロデューサーさんがいるようなら二人揃って会いに来てほしいって」
「揃って……!? よ、要件はどうするんですか?」
「会ってから話すことにしていいよ。口実を後付けするのは、俺が得意だ。ただし、なるべく深刻な事情あってのことだと伝わるように頼む。
その二人が事務所を出るなら、仕事にならないから事務所を施錠せざるを得ない……それが他のアイドルの避難にもなるだろう?」
「もし……
プロデューサーさんがそんなわがままきけないって断ったら」
「その時は俺が強引に攫って行くよ。俺が誘拐犯にならないように、マスターは迫真のアピールを頼む」
えードラマとか演技の仕事はさすがにやったことないですよと反発が飛んできた。
少しだけいつもの彼女に戻ったようだとほっとしたけれど、続く言葉はネガティブになる。
「もしかして通話越しで説得しろって言うのはそのせいですか? 対面したら、私の演技力でぼろがでるから……」
「そんなことはないよ。シンプルに、サーヴァントだけが霊体化で駆け付けた方が早いから。
そして、さすがに今の事務所に連れて行くのはリスクが大きすぎるから、だな」
いくら自分たちの方針が専守防衛で対話最優先とはいえ、先刻のセイバーのように『対話を試みるというならまずマスターを連れて来ないといけないね』というノリで相対するわけにはいかない。
今の283プロ近辺で、『私はマスターです』と傍目にも露呈するような振る舞いをすればどうなるだろうか。
好戦的主従の威力偵察。非戦派の様子見。あるいは日和見する主従の野次馬。
目的の事務所は、白瀬咲耶を殺害した張本人だけでなく、炎上に引き寄せられた不特定の輩の監視があってもおかしくない社会的知名度を持っている。
アッシュだけではにちかを何があっても万全に守り切れる保証はないと太鼓判を押してやれない上で、ミイラ取りがミイラではないが二度目の炎上のネタにされてもおかしくない何かを掴まれるやもしれぬ現場にマスターを連れて行くメリットは何一つない。
そんな事務所に堂々と姿を見せられるマスターがいれば、よほど損得を抜きにできる事を惜しまない者か、よほど戦力に絶対の自信がある者だろう。
だからといって、こちらもそういう立派な人に倣いましょうというのは『ヴァルゼライド閣下ならできたぞ』という根性論の類になってしまう。
できる者が賞賛されるべき話ではあっても、到達基準として掲げる類のものではない。
なんにせよ、それでもにちかにとって自分にも役割があることは精神衛生上は良いことだった。
早速通話をかけるぞと、にちかは携帯端末のロック解除ボタンを押して、
「あれ……?」
全く予想外のものを見つけたという風に目を丸くして、慌てて指をすべらせた。
しばらく端末の液晶画面をしげしげと凝視するや、ずずい、とアッシュに同じ画面を差し出す。
『七草にちか殿、および七草にちかの関係当事者殿
初めましての連絡が不躾なものになり、申し訳ない。
今日一日、283プロダクションの事務所には近づかれないことを強く警告する。
詳しい事情の説明は後程、必ず。直接の通話にて自己紹介をさせていただきたい。
七草はづき嬢をはじめとして283プロダクションに在籍する皆さんは、現在、事務所不在につき。どうかご心配なく from.W』
関係当事者殿、とはアッシュの新西暦(じだい)で言うところの聖教国における言語、ビジネス文書の定型文(To whom it may concern)に由来するものだろうか。
遠回しに『七草にちかのサーヴァント殿』と書きたかったのだとしたら、それはいい。
相手も聖杯戦争関係者だと察せられるだけのことだ。
問題は警告と『七草はづき達は事務所不在』のくだりだ。
まるで、にちかとアッシュの現況を千里眼ですっかり見通しているかのような。
いかにも怪しいですというメールが、アッシュとにちかが話し合っている合間を見計らったかのように届いていた。
最終更新:2023年02月26日 07:39