『浮気(後)』 28KB
越冬 同族殺し 番い 群れ 希少種 自然界 人間なし 四作目
ちぇんはなるたけ音を立てずに洞穴の入り口を潜り抜け、帰宅した。
奥からはすぴーすぴーと安らかな三匹分のゆっくりの寝息が聞こえる。
そこには藁草のベッドで眠る、ちぇんの餡子を継いだ二匹の赤ゆっくりと、ありすがいた。
ちぇんはごくりと唾を飲み、わずかに背後を振り返る。
そこにはあの黄金色の尻尾が月明かりを反射して輝いていた。
勇気を分けてもらったような気がして、ちぇんはこくりと頷く。
まずは赤ありすを親ありすから起こさないよう慎重に離す。
だが、大きくなることで触れる面積比率が少なかった親ありすはともかく、まだ小さな赤ありすは全身を撫でられているようなものだった。うっすらと目を開け始める。
ちぇんは自分から大声を上げそうになった。赤ありすはそんなちぇんを見て、小さく呟こうとした。
「おちょーしゃ――」
それ以上の言葉は、洞穴内に響かずにちぇんの口の中に閉じ込められた。
ちぇんはピンポン球とさほど変わらないサイズの赤ありすを、咀嚼せずにごくりと飲み込む。だが喉を通る時、その圧力で潰される赤ありすの「ゆぎゅ!?」という断末魔は皮を通って耳にまで達した。
小麦粉の皮の表面を、だらだらと脂汗が垂れる。目の前の景色がぐらぐらと歪む。だめだ、ここで心が折れてはもう動けなくなる。
自らを奮い立たせたちぇんは勢いに任せて赤ちぇんを親ありすから離した。やはり赤ちぇんは目を覚まし、ちぇんを認めて何か言葉を吐こうとする。
「わきゃりゅよー……おちょーしゃ、やっちょちぇんとあちょんで」
ぶちゅりっ、と赤ちぇんはちぇんの口内でチョコレートの味となって広がった。
ほろ苦く甘いその味に吐きそうになりながら、ちぇんは黙ってなんとか飲み下そうとする。だが、赤ありすのカスタードが粘ついて中々喉を通ろうとしない。
満足に息もできず、ちぇんは口中にたまったチョコレート饅頭の残骸をどうしようかと途方に暮れた。いや、呑み込むしかない。できるかできないかではない。やるのだ。
意を決してチョコを飲み込もうとした時、ありすが寝返りを打った。
「ぶふぅっ!」
ちぇんは驚きのあまり、ありすめがけてチョコを吐いた。
熱く粘つく液体の感触にありすの意識は覚醒したらしい。うっすらと目を開け、そしてぱちくりと一気に最大限まで見開く。
「ちぇん! どうしたの、チョコレートさんはいてるじゃない! ゆっくりして!」
ありすはどうやら、ちぇんが吐いたチョコをちぇん自身のものだと勘違いしたようだ。九死に一生を得た。そう思い、一安心しかけたちぇんだが、ありすは依然パニック状態だった。
「だれか、ちぇんがチョコレートさんをはいたの! ぱちゅりー……そうだ、ぱちゅりーをよばなきゃ。おちびちゃん、ままはでかけるけど……あれ? おちびちゃん?」
ちぇんは自分の体温がさっと冷めるのを自覚した。
ありすはいもしない、いや正確には自分の顔に張りついたおちびちゃんの残骸を探している。ちぇんの口元が歪んだ。これが最後のチャンスだ。ありすを殺すには今を逃してはならない。
まずは何か声をかけ、ありすを油断させよう。ちぇんは口を開いた。
「ありす、だいじょうぶ――」
「きゃああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
ちぇんが口を開いたとたん、ありすの顔が驚愕に歪み、とてつもない大声を出した。
巣の外に聞こえることを恐れたちぇんは、それでもなぜバレたのか理解できずに一瞬固まった。
ありすの視点から見れば、それは一目瞭然だった。
ちぇんの舌の上には、まだ赤ちぇんの皮も耳も尻尾もおぼうしも全て残っていた。
ありすはちぇんが何をしたのか、一瞬にして理解した。させられた。
半狂乱の体になったありすは、逆にちぇんへと飛びかかった。
「なんで!? なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで!! なんでちぇんがありすとちぇんのおちびちゃんたべちゃってるのおおおおおおおおおおおおお!!?!?」
「ゆっ、ゆぎゃ!? ち、ちがうんだよーっ!」
「なにがちがうの!? ねえなにがちがうの!? ああ、ああああああ! あああああああああああああああああああああああ!!」
ゆっくりとしては素早い運動神経を生かし、ちぇんはありすの体当たりをなんとか避けられるようになってきた。一方ありすは完全に混乱状態に陥っておりいつどんな動きをするのかわからず、ちぇんは反撃の機会を失っている。
「いったじゃない! ふゆさんがきたらかぞくみんなでゆっくりするってやくそくしたじゃない! なのに! なのになんでこんなこと!!」
「し、しかたないんだよー」
「なにがしかたないのよおお!!」
ありすの攻撃を避け続けながら、ちぇんはだんだん苛ついてきた。
ちぇんの帰る家はもうここではない。らんのそばがちぇんの居場所だ。勘違いして被害者面をし、中々死なず喚き散らし、群れのゆっくりたちを呼ばんとしている番のありすが憎らしい。
このありすの苦労や心労など、ちぇんのそれに比べたらなんだというのだ。この少しでも栄養源を獲得しようとあらゆる動物がひしめく秋の山で毎日あれだけの食糧を集めるのがどれだけの苦労か。
「わかれよおおおおおおおおおおおおおお!!」
「ゆ!?」
赤ちぇんの死骸を撒き散らしながら、ちぇんは叫んだ。
気圧されたありすはすくみ上がる。しかしちぇんは襲い掛かることなく、たまっていた思いの丈をぶつけた。
「ちぇんはありすなんかすきじゃないんだねー! おちびちゃんなんかもほしくなかったんだねー! いそがしいのにかまえかまえかまえかまえかまえうるさいんだよーーー! ちぇんのくろうもわかれよおおおお!! おまえたちなんかよりちぇんのことをわかってくれるらんしゃまのほうがずうううううううっとゆっくりできるんだよー!」
「はたらなかなくてもいいっていったじゃない! もうむれのみんながちぇんをみとめているのにおびえてかってにはたらいてありすをあいしてくれなかったのはちぇんのほうでしょ! おちびちゃんたちをたいせつにしなかったのはちぇんのほうでしょ!」
「ちぇんはむれのみんなのためにはたらいたんだよー!! それがいちばんゆっくりできることなんだよおおお!! ちぇんのきもちもわからないでらんしゃまとのこいじをじゃまするありすは――ゆっくりしねええええええええええええええええええ!!」
我が子の死骸が残った口中に番も含まんと、ちぇんは牙を立ててありすに襲い掛かった。
だがその牙はありすにまで届かなかった。後ろから何者かに圧し掛かられ、ちぇんの口に入ったのは洞穴の土だけだったからである。
「ゆべにゃ!?」
「ちーんぽ!」
「みょん、よくやったのぜ! あのちぇんみたいなへんなゆっくりのいうとおりだったのぜ! ありす、ぶじなのかだぜ!?」
まりさの声が洞穴の入り口から聞こえてきた。そして大勢のゆっくりが近づいてくる気配もした。
ちぇんは恐怖にかられ、背中に飛び乗ったみょんを振り落とし逃げ出そうとした。だが素早くその意図を読んだみょんは口にくわえた枝でちぇんのあんよを突き刺し、機動力を奪った。
「に゛ゃ゛あ゛あ゛!! いたいよおおおお!! わからないよおおおお!! らんしゃまああああああああああ!!」
愛する者の名をちぇんは必死に叫んだ。まだこの洞穴にいるゆっくりはまりさとみょんとありすだけだ。こんな三匹くらいらんにとってはものの数ではない。きっと蹴散らしてすぐにちぇんを助けに来てくれる。
そう確信を持ってちぇんは叫んだ。
「らんしゃまあああああああああああああああああ!!」
「いんまらほてぷ!」
だが、みょんの枝に口を縫うように刺され、その助けも呼べなくなった。
そして、いつまでたってもらんはその影すらちぇんに見せなかった。
ちぇんは心の中で何度もらんの名を呼んだ。
絶叫し続けた。
「そだててくれたれいむにあやまれ!!」
「あやまってしね!!」
湖のそばに群れのゆっくりが集まり、ちぇんを囲んで罵倒し続けていた。
時には小石が吹かれ、時には体当たりを食らう。一本だけ残った尻尾を乱暴にみょんが噛みつき、ちぇんは変わり果てた姿でずりずりと運ばれていた。
帽子は剥ぎ取られ、目の前でしーしーやうんうんまみれにされた。溶けかかった帽子をむりやり口の中に突っ込まされ、喰うことを強要された。
らんに綺麗だと褒めてもらった目玉はもう一個しか残っていない。もう片方は抉り出されて潰された。
尻尾も片方はこの湖へ行く道中で引き千切れた。そのちぎれた尻尾は空っぽになった眼窩に突っ込まされている。
耳の穴にはみょんが突き刺した大量の枝が突っ込まれ、らんにぴくぴくしていて元気だと言われた面影はどこにも残っていない。
髪もあちこちが皮ごと引き剥がされ、体中のあちこちからチョコが漏れ出していた。ちぇんのさらさらへあーとらんのもふもふしっぽは最高の組み合わせだったのに、番のありすが怒り狂った形相でちぇんの髪を奪い取った。
そして、群れのみんなに越冬の食糧を運んできたすぃーは何度も何度も岩にぶつけられて壊された。砕け散った破片はちぇんの体にいくつか突き刺さられて、地面をひきずられるたび体の中に潜り込み、新鮮な痛みを与える。
「あ゛あ゛……」
怨み言を吐こうにも、口に突き刺さった枝はあいかわらず抜かれていない。あんよの枝はよりいっそう深く掻き回され、一生走ることのできない体にされた。
遂にちぇんは湖のほとりにまで運ばれ、むりやり立たされた。とどめとばかりにみょんが尻尾を食いちぎり、湖へと放り捨てる。
「ちぇんはやっぱりゲスだったよ!」
「ちぇんなんかをいかしておいたれいむたちがばかだったよ!」
「むれのみんなとおなじばしょでえいえんにゆっくりできるとおもうな! おやのちぇんとおなじみずうみさんにおちておぼれじね!」
そんな罵倒が投げつけられる中、二匹のゆっくりがちぇんの前へと現れる。
長ぱちゅりーと番ありすだ。先代長の圧政時代から生き延びてきたぱちゅりーはより一層老け込んだ顔をし、ありすは石のように無表情であった。
ぱちゅりーが何度か咳き込みながら切り出す。
「こほん、こほん……っ。ちぇん、さいごにもういちどきくわね。なんでおちびちゃんとまりさたちをえいえんにゆっくりさせたのかしら?」
「…………」
ちぇんは何も言わず、黙秘を貫いた。
らんの名前を出せば、群れのゆっくりたちはなんとしてでもらんを探し出し、殺そうとするだろう。それはらんを売り渡すに等しい行為だ。
ちぇんは、らんが必ず助けに来てくれると信じていた。だから吐かなかった。
ぱちゅりーは悲しそうにため息をついた。替わるようにありすが身を乗り出し、ちぇんへと話しかける。
「ちぇんとさいしょにあったときのこと、おぼえてる? まだあのときはちぇんもありすもおちびちゃんだったわね。あのときは、おかあさんにもおとうさんにも『ちぇんはゆっくりしていないゆっくりだからぜったいにあそんじゃダメ』っていわれていて、ありすもそうおもっていたわ。
でもつゆさんのとき、みんながうごけなくておなかをすかせているとき、すぃーをもっているちぇんはいのちがけでかりをしてみんなのおなかをしあわせーにしてくれたわよね。
ありすはあのとき、ゆかびをはやしてえいえんにゆっくりしそうだったの。ちぇんがもってきてくれたごはんさんのおかげで、いまいきているの。
あれからありすはちぇんのことをみなおしたわ。いのちのおんゆんのちぇんをしあわせーにしたくて、おかあさんのつらいはなよめしゅぎょうもたえてきたわ。
だから、ちぇんがありすのプロポーズをうけいれてくれたときはとてもうれしかった。
ちぇんをそだてたれいむさんがえいえんにゆっくりしたときは、とってもかなしかった。
おちびちゃんができたときは、ありすくらいしあわせなゆっくりはいないとおもったわ。
なのに……」
ありすは大口を開き、また一度ちぇんの髪を毟った。両目から涙を零し、ありすは叫ぶ。
「なのになんでこんなことをしたのよ! いなかものおおおおおお!!」
泣き崩れるありすを見ても、ちぇんの心は一顧だにしなかった。なぜ泣くのか疑問にすら思った。軽蔑したいならすればいい。ちぇんが持ってきた食糧があるし、不安材料の赤ゆは間引いてやった。ありすはさぞゆっくり越冬できるに違いない。春になればちぇんのことなど忘れているだろう。
「そろそろおわかれのじかんよ、ちぇん。なにかいいのこすことはあるかしら?」
処刑ゆであるまりさとみょんを両脇に抱えた長ぱちゅりーが厳然と問いかけた。ちぇんは痛む口と全身を酷使して、言い放った。
「わからないよー……ちぇんがとってきたごはんさんでむれのみんなはゆっくりえっとうするんだねー……だけどちぇんはころすんだねー……つごうがよすぎるんだよー……わからないよー……」
「むきゅん!」
長ぱちゅりーは額に青筋を立て、もみあげでばしんとちぇんの頬をはたいた。群れのみんなから加えられた拷問に比べれば撫でられているようなものだった。
案の定、ぱちゅりーは無理な運動でげほげほと激しく咳き込んだ。ちぇんはその様子を内心でせせら笑う気持ちで眺める。
「げほ……っ。たしかにちぇんはたくさんはたらいてくれたから、けほっ、むれのみんなはたすかったわ……だけど、そんなことぱちゅりーたちはたのんだかしら?」
「いわなくてもはたらかなきゃちぇんをいじめるんだよねー! わかるよー!」
「ぱちぇはもうだれにもちぇんをいじめさせるきなんかなかったわ。みんなとおなじぶんはたらけば、ちぇんはりっぱでゆっくりしたゆっくりだとおもっていたわ。なのにかってにたくさんはたらいて、おんきせまがしいのよ。ちぇんなんかいなくてもさいしょからこのむれはふゆさんをこせるわ」
「にゃ……?」
ちぇんは愕然とした。身を粉にして働いたこと、自分のゆん生を全否定されたようなものだった。
湧き上がる怒りをちぇんは身の痛みも忘れてわめき散らす。
「さんざんちぇんをいじめてきたくせに、りようしてきたくせに、つごうのいいことばっかりいうんじゃないんだねー! わかれよー!!」
「むれのみんなのきもちをうけいれようとしなかったのはちぇんのほうでしょ! こびをうってばかりでみんなのきもちをかんがえようともしなかったのはちぇんのほうでしょ!!」
「うるさい! みんなきらいだよ! ちぇんのことなんかみんなわかってくれないんだねー! わかるよー! ちぇんのことをわかってくれるのは……ちぇんのことをほんとうにすきでいてくれるのは……」
そこで、ちぇんは口をつぐんだ。ぱちゅりーは怪訝な顔をするが、既にさんざん拷問しても割らなかった口だ。無駄だと判断したのか、もみあげをひゅっと降ろす。
処刑ゆたちがちぇんの両脇を押さえ込んだ。
「やりなさい」
湖へとちぇんは運ばれる。そこは奇しくもらんとよく話し合った場所だった。
最後にらんのことを思い出して逝けるのなら、ちぇんは本望だった。きっとらんも後でちぇんの復讐をしてくれるだろう。その時ちぇんの心の痛みをこの群れのゆっくりたちは思い知ればいい。
ちぇんは湖面を見つめた。
――その湖面に、黄金色の影が映っていた。
「らんしゃま……?」
ちぇんは顔を上げた。瞬間、常緑樹の枝の上に乗っていたらんは飛び降り、みょんの頭を踏んづけた。
一撃で潰されたみょんはうめき声一つ出さずに永遠にゆっくりした。呆気に取られたまりさをらんは尻尾の一薙ぎで湖へと落とし、ちぇんを頭に載せて一目散と逃げ出す。
目を見開いたぱちゅりーが、遅れて叫んだ。
「おいなさい! ちぇんがつれさられたわ! らんにつれさられたわ!」
しかし、らん種の移動速度に通常種が追いつけるはずもない。らんは一度山を下り、それから茂みに隠れて遠回りしてから自分の巣へと戻る帰路についた。
その間、ちぇんはらんの頭の上ではしゃぎ回った。
「らんしゃま! らんしゃま! わかってたよ! ちぇんはらんしゃまがたすけにきてくれるってわかってたんだよー!」
尻尾も耳もぱたぱたとさせて、らんにこの気持ちを伝えたかった。それはできなかったが、きっとらんにちぇんの気持ちは伝わるだろうと考えた。
なのに、どうしたことからんは一言も口を利かない。きっと見つかるとまずいと考えているのだろう。そう察したちぇんも黙ることにした。
「……にゃ、やっとついたね……」
らんが暮らす巣穴の前まで、ちぇんは連れられてきた。
これから、やっと本当にらんと幸せに暮らせる。ちぇんは拷問でゆっくりできない姿にされしまったが、らんはそれでも助けに来てくれた。これが真実の愛だ。赤ゆを一匹二匹潰したくらいでぎゃーぎゃーわめくありすに見せ付けてやりたいくらいだ。
勝ち誇った気持ちでいるちぇんを頭の上に乗せたまま、しかしらんは巣穴をスルーしてさらに進んだ。
「……あれ? らんしゃまー? どこいくのー? わからないよー?」
ちぇんはらんの意図が読めなくなってきた。らんはどれだけ話しかけてもやはり返事をしない。もうここまでくれば追っ手など絶対来るはずもない。
なぜ、らんは喋らないのだろう。
なぜ、らんはよくわからない場所にちぇんを連れてゆくのだろう。
なぜ、らんの頭はこんなに固いのだろう。
不安がどんどんどんどんチョコの中に流れ出した頃、ついにちぇんは一つの洞穴にごみでも投げ込むように放り入れられた。
「わぎゃらにゃ!?」
全身の傷口をしたたかに打ち、ちぇんは身悶えした。わからない。さっぱりわからない。らんはどうしたというのだ。らんに何が起こっているのだ。
そう思ってちぇんは痛む体を酷使し、顔を上げた。
その時初めて、ちぇんは助けに来たらんの顔を見た。
「わからないよおおおおおおおおおおおおおおお!?」
ちぇんは恐怖に絶叫した。全身に悪寒が走る。這いずり回ってでもらんから逃げようと、ちぇんはなんとか体を動かそうとしたが赤つむりよりちぇんは無様に這うことしかできなかった。
らんの顔は、腐っていた。
油揚げの皮膚は緑色に変色し、寒天の目玉はかさかさに乾いて窪み、黄色っぽくなった酢飯があちこちから糸を引いて零れ落ちている。
どこからどう見ても死んでいる。何が起こっているのかわからず、ちぇんはとにかく逃げられる方向へと、洞穴の奥へと逃げ出した。
だが、その奥からはさらに何かゆっくりできない匂いがした。
据えた匂い。すっぱい匂い。目にしみるような腐敗臭。
死臭。ゆっくりが死んだ後のおかざりに発生する匂いなど比べ物にならない、それは人間ですら頷かざるを得ないほどの、生物が死んだ後の匂いであった。
そんな奥の方から、二匹の小さなゆっくりがぴょこぴょこと飛び出してくる。まだ赤ゆと思しきそのゆっくりはちぇんを見て満面の笑みで
「じゃじゃーん!!」
と言った。
ちぇんが見たことも聞いたこともないゆっくりだった。しかしそれはちぇん種とよく似た猫系のゆっくりでもある。
髪は明るい赤色で、二本のおさげにして垂らしている。人間のものに似た耳と猫に似た耳がそれぞれ側頭部と頭頂部に付いており、尻尾も二本。
それはゆっくりおりんと呼ばれる、人間の分類で言えば希少種に分けられるゆっくりだった。
「おねーちゃん、きょれがおかーしゃんがいっちぇちゃまにゅけにゃちぇんかねぇ?」
「そうじゃりょうねぇ。すんぎょいまにゅけじゅらしちぇりゅにぇ!」
けたけたと笑う赤ゆの姉妹。よく見ればその二匹の周りには小さな小さなしゃれこうべが浮かんでおり、そいつらも同調してけらけら笑っているのだった。
ちぇんは不気味な赤ゆ二匹が怖くて、反転して逃げ出そうとした。苦労して振り向くと、いつのまにかそこには新たなゆっくりが現れていた。
「にゃあああ!?」
「あ、おきゃーしゃんおきゃえりなしゃい!」
「じゃじゃーん! おきゃえりなしゃい!」
「じゃじゃーん!! ただいま! いいこにおるすばんしてたかい? いやぁ、やっとしこみがおわってこれでゆっくりできるってもんだよまったく」
にゃははは、と笑いながら、洞穴に入ってきた赤毛の猫型ゆっくりは、どう見ても赤ゆ姉妹の親だった。
近づかれたちぇんは尻尾で鼻を覆いたかった。もちろん尻尾を引っこ抜かれた身でそれはできない。結果、ちぇんはおりんが身に纏う死臭をもろに鼻先で嗅ぐことになった。
ぶるぶるとちぇんは体を震わせる。おかしい。れみりゃやふらんですら、ここまでゆっくりの死臭を帯びていない。奴らですら目に染みるほどの死臭を浴びて、そのままにするはずがないのだ。なぜならそんな有様で狩りなどできるはずがないのだから。
赤ゆ姉妹は嬉しそうに母親へと話しかけた。
「にぇーにぇー、このちぇんはたべてもいいちぇん?」
「だーめ。まだしんでもないしくさってもないでしょ? ふゆのほぞんしょくにするためにままががんばったんだから。ささっ、おちびちゃんたちはこっちのらんをたべーよーねー」
聞き捨てならない一言をおりんは吐いた。間もなくして洞穴に腐臭を纏ったらんがもの言わず入り込み、赤ゆ姉妹の傍らへと座り込む。
赤ゆ姉妹は笑顔でらんに向かって、こう言った。
「いただきまーしゅ!」
そして、腐った油揚げの皮にかぶりついた。
「やめてねええええええ!! わからないよーーー! らんしゃまたべちゃだめええええええ!!」
「うるさいね」
「ゆべぎゃ!?」
おりんは顔色一つ変えずおさげを振り上げ、持っていた枝でちぇんの口を縫い止めた。
そしてちぇんに体当たりして巣の奥へと運んでゆく。そのたびちぇんは傷口の痛みに喚いたが、おりんはむしろそれすら楽しむようにわざと傷口を歯で抉ったりした。
ちぇんが運ばれた先は、冬ごもりするための食糧が積まれていた。
わからない。わからないが、何かとても嫌な予感がする。しかしまずは何より、らんを助けなければいけない。
「らん……じゃま……」
「あらあら、あのゆっくりがそんなにきになるのかい?」
おりんはにたにたと笑いながらちぇんを見下ろすと、どういうわけか一度口に刺した枝を抜く。ちぇんはチョコを撒き散らしながら口を開いた。
「らんしゃまはちぇんのだーりんなんだよー! たべるなよおおお! わかれよおおおおお!!」
「ああ、まだそんなことしんじてたの。はいはいおちびちゃん、おべんきょうタイム、はーじまるよー! たべるのやめてねー」
「「にゃん?」」
腐汁と酢と飯粒にまみれた顔で赤ゆ姉妹が振り返った。おりんは意地の悪そうな笑みをやめずに喋り始める。
「ぜつぼーとくつーをあたえてほぞんしょくをおいしくするコツをおしえるよ! まずね。このちぇんはまだらんがいきてるとおもってます。それくらいしんじこませるくらいのえんぎりょくがひつようなのさ!」
「にゃーん!」
「そんなぴゅあなちぇんにおかあさんはしんせつにおしえてあげます」
らんが、動いた。
どう見ても死んでいるはずのらんが、赤ゆ姉妹に食われ腐乱し原型をとどめない顔になったらんが、ちぇんの元へとずりずり近づいて、くぐもった声で言った。
「チぇぇぇぇェェぇェェぇぇん……」
「ゆぎゃあああああああ! やべでええええ!! こないでえええええ! わぎゃらないよおおおお!!」
「ヒどいなァ……ラんのこと、スきっていっタの、うそだったノか? ツレて逃げテって、言ッたじゃなイか……いっしょニ、地獄におチてくれよォ……」
「やだよおおおおお! おまえなんかちぇんのらんしゃまじゃないよおおおお! ちぇんのらんしゃまはもっとゆっくりしてるんだよおおおお! わかれよおおおおお!!」
「ばかだねぇ。ちぇんのだいすきーならんしゃまは、ちぇんがさいしょにあったときからしたいだったのにねぇ」
ニヤニヤと笑いながらおりんがそう言うと、らんの背中が突然膨らみ、赤ゆほどの大きさのものが飛び出しておりんの傍で浮遊した。
おりんは飯粒がついたそれをぺろりと舐めあげる。その球体は、見まごうことなくしゃれこうべだった。
それを合図にするのかように、らんの体がべしゃりと倒れる。そして二度と動くことは無かった。
「あ……ああ……? わからないよ……なにもかもわからないよ……らんしゃまたすけてええええ……らんしゃまあああああ」
「しんせつなおりんがわかるようにせつめいしてあげるよ♪ あのね、ちぇんのだーりんのらんしゃまはおりんがちぇんのまねをして、さそって、れいぽぅして、えいえんにゆっくりさせたのさ!」
おりんは嬉々とした表情で、ちぇんの枝で埋まった耳穴に全てを囁いた。
このらんがちぇんを嫁にするため旅をしていたことは事実である。そんなことは知らなかったが、おりんは越冬準備のためにらんを利用することにした。
おりんは自分の姿がちぇんと似通ったことがあるのを利用し、らんを欺いて不意をつき、あんよをずたずたに噛み切った。それからゆっくりすっきりーし、赤ゆ姉妹を産ませてから、中枢餡だけを抜き取って殺した。
体にほとんど傷をつけずにゆっくりが中枢餡だけを抜き取るのはとても難しい。だがおりん種にはしゃれこうべ型のおかざりがある。
これはおりんの意思に沿って動く体の一部だ。中枢餡を喰うことで喰った対象のゆっくりの中枢餡に擬態することができ、つまるところゆっくりの死体を操る事が出来る。
ゆっくりゾンビマスター。ゆっくり好きはおりん種を、そんな風な愛称で呼ぶこともある。
おりん種はこのゾンビを使い、さらに多くの生きたゆっくりを欺いて、罠に嵌め、食い殺す。その過程で心身ともに傷つけられたゆっくりは甘味が増し、滋養も増す。また、おりん種はその生態からか腐敗した食べ物に強い耐性を持ち、むしろちょっと腐っているくらいを好む。
食物が腐りにくい冬の時期、越冬するうえでこの能力はこのうえなく有効に機能する。ちぇんはまんまとおりんが仕掛けた罠にドツボと嵌ったのである。
「ちぇんとめろどらまするのはおりんもいやだったねー。あーあ、すっごくきもちわるかった。でもおちびちゃんたち、これはいきてくうえでひつようなんだ。おかーさんみたいにつぎのふゆさんがきたときはするんだよー」
「「にゃーん♪」」
「でも、ちぇんにはおれいをいいたいくらいさ! まさか、ほんとうにむれのゆっくりのおうちをおそうのをてつだってくれるとはおもわなかったよ! おかげでちぇんにもらったごはんさんいじょうに、たっくさんのごはんさんができて、あんしんしてふゆさんをこせるってもんさ!」
「ちぇんをだましたなああああ!! よくもちぇんをだましたなあああ!! ゲスのおりんはゆっくりしねええええええ!!」
力の限りちぇんはおりんを罵倒した。おりんはその顔をとてもゆっくりした笑顔で見下し、ちぇんへと問いかける。
「ゲスはどっちだい? じぶんのむれのゆっくりをえいえんにゆっくりさせて、じぶんのおちびちゃんをたべて、むれのみんなにボロボロにされてでもらんしゃまとゆっくりしたかったゆっくりはどこのだれだい?」
「わかるよー! おりんがそうしたんだろおおおお! わかれよおおおお!」
「わかってるよ? でも、まんまとだまされたのはちぇんのほうさ? ちぇんはそんなにらんしゃまがだーいすきなんだね! きもちわるいくらいだいすきなんだね!」
「きもちわるいっていうなああ! ちぇんとらんしゃまのあいをわらうなああああああ!!」
らんとの思い出ががらがらと音を立ててちぇんの中で崩壊していった。それに抗うために叫んだ。とにかく叫んだ。
おりんはそんなちぇんを見て、けらけらと笑う。しゃれこうべも笑う。ゆっくりの死を冒涜するゆっくりがちぇんを嘲笑った。
ゆっくりおりん。このゆっくりは姿こそちぇんと似ている部分もあるが、その性格は正反対。全く違う存在だ。
ちぇん種は猫っぽい姿をしているものの、性格は甘えん坊で素直。やや流されやすいところはあるが、概ね温厚でゆっくりらしいゆっくりした性質を持つ。
一方おりん種の性格は、一言で現すと残虐非道に尽きる。捕食種は捕らえたゆっくりの旨みを増すために痛めつけることもあるが、それは身体的な部分のみに徹する。おりん種のような、捕らえた個体の尊厳や生き方を否定し、心を粉々に砕くような言葉を次々と吐くようなことまではしない。
その様は正に、瀕死の小動物を死ぬまでいたぶる猫の有様そのものだ。おりん種にとってゆっくりは食べ物であると同時に、最大の娯楽対象だ。怨みと絶望を抱いて死に、腐敗して行くゆっくりを見るのが何よりゆっくりできる、冒涜的ゆっくりなのである。
「ねえじぶんのおちびちゃんのあじはどんなのだった? たべてどんなきもちだった? おりんでもあれはひいたねえ! ねえねえねえどんなきもちだった?」
「やめろ! やめろおおおおお!!」
「あははははは! へんなかお! ちぇんはばかだねぇ。まぬけさんだねぇ。ゆっくりしてないねぇ。せっかくあんなにむれのみんなにしたわれてたのに! らんしゃまにちょっとひいきされたくらいでちょうしにのって! ぜんぶぜんぶぜーんぶ、じぶんからすてちゃって! そうやってちぇんはみじめにしんでみにくくくさっておりんたちのごはんさんになってうんうんになるんだよ♪」
「いやだあああああああああ! いやだよおおおおおおおおお! らんしゃまああああああ! たすけてらんしゃまああああああ!!」
『嫌ダな。ちぇんみタいなゆっくりシてないユっくりナンか、嫌いダ』
丁寧にらんの死体をもう一度操っておりんはちぇんを挑発する。
ちぇんは願った。これは悪い夢だ。きっと目覚めたら湖のそばでらんが優しく微笑みかけてくれるに違いない。
悪い夢だ。
夢だ。
現実じゃない。
こんなことあっていいはずがない。
声が嗄れ果てるまで叫ぶと、おりんは残念そうな顔をしてらんを食べ始めた。
一晩過ぎて、おりんは洞穴の入り口を枝や石で閉じた。完全に冬篭りの体勢に入ったのだ。
ちぇんの口は開かれたまま枝で止められ、洞穴の隅で放置されている。今のちぇんの役目はおりん一家のトイレだ。しーしーやうんうんが今のちぇんの食糧だ。
長い冬篭りの間、不足しがちなあまあま分を一家に提供することもある。もはやちぇんの姿はずたぼろになった原型もわからない禿げ饅頭だ。
ちぇんは現実を受け入れる事を拒否した。だが時折思い出したかのようにおりんが残していたらんのおぼうしを被り、ちぇんに無駄な希望を植えつける。「助けに来たぞ、ちぇん」だの「どうした、うなされていたぞちぇん」といった都合のいい言葉を囁いては生きる力を取り戻しかけたちぇんの姿を滑稽だと笑うのだ。
ある日のこと、ちぇんはおりん親子のやりとりを空ろな片目で眺めていた。
「ちがうちがうおちびちゃん。しゃれこうべさんでしたいをあやつるときは、もっとこうするんだ」
ちぇんを虐める時はあんなに凶悪な面構えをするおりんですら、自らのおちびちゃんの前ではとてもゆっくりした母親の表情で生きる術を教えていた。
ふと、ちぇんの中で血の繋がっていない母れいむとの思い出が蘇った。幼い頃は、いじめられていたちぇんに母れいむは色々と教えてくれた。時に叱り、時に勇気付け、時に褒め、共に笑い泣いて傍にいてくれた。
だが母れいむもまた群れの中で良い目で見られていなかった。ちぇんを引き取って育てるれいむは不安分子を育てていると思われていた。
そんな母れいむに恥をかかせまいと、ちぇんは梅雨の山林に飛び出したのだ。自分は嫌われていてもいい。ただ、母れいむをゆっくりさせたい思いで。
ちぇんの口中に、飲み込んだ赤ありすの潰れた感触と、噛み潰した赤ちぇんのチョコの苦い味が蘇った。
残った片目から涙が零れる。なぜ、自らのおちびちゃんたちにあんな仕打ちをしてしまったのだろう。
最後までちぇんの子供はちぇんを信じていたし、ちぇんが大好きだった。ちぇんはゆっくりしようと思えばいつでもゆっくりできた。
なのに、らんの誘惑に負けて、自らの手で全てを壊した。
――らんしゃま……
餡子の本能に刻まれた、ちぇん種にとって抗い難い信仰的存在。
らんを好きになるのを止めることは、ちぇんにはできない。今でも偽りだとわかっていてもなお、らんの甘い言葉を思い出すとほのかにゆっくりした気持ちになれる。
だがそのために捨てていいものと悪いものがあるのだ。
――らんしゃま……ううん、ありす……
心の中に浮かぶ支えの顔を、ちぇんはありすに置き換えた。
ありすは、今ゆっくりしているだろうか。
春になって新しい番と出会い、ゆっくりした生活を送ってほしい。
……そう試しに願ってみたが、ちぇんの心の底から湧き上がる本当の願いは違った。
「……あ……あぃ……ぅ」
助けて、ありす。
そう呟くことすらちぇんはできなかった。
その頃、ありすはすっかり広くなってしまった巣穴で死んだ魚のような目で壁だけを見つめていた。
誰もいない。
自分だけがここにいる。
おちびちゃんのために藁草で編んだとかいはなベッドは、使うものがいなくなった。
木の葉を折って作ったちぇんのためのとかいはなお皿も、使うものがいなくなった。
ちぇんが取ってきてくれた食糧はきちんと種類別に分け、早めに食べておくべきものと長期保存できるものをしっかりと区分けし、分配計算もゆっくりなりにしていたが、それも全部無駄になった。
ありすはたくさんむーしゃむしゃしても良かった。
どれだけすーやすやしても注意することも、されることもなかった。
たった一匹、暗い洞穴の底でありすはいつまでも春を待ち続けなければいけない。
一年生き延びることすら難しい短命な野生ゆっくりにとって、越冬期間は一生の割合で言えば非常に長い時間と言える。その間に家族と養う絆や思い出というものは、人間の想像を絶するほど濃いものだ。
だが、ありすはその濃い時間をたった一匹で過ごしている。
ありすの心は凍えていた。機械的に食事を取り、機械的に睡眠をし、なんのために生きているのかわからない生活を送っている。
「う……」
ありすは呻いた。
暖かいものが口から流れた。
体の中が空っぽになってゆく。
だが、ありすの心はとっくの昔に空っぽだった。
らんに連れられて逃げるちぇんを見たあの日から、ありすの魂は死んでいた。
anko2009 足りないらんと足りすぎるちぇん(前編)
anko2010 足りないらんと足りすぎるちぇん(後編)
anko2227 保母らん(前)
anko2228 保母らん(後)
anko2295 ブリーダーお兄さんの一日
最終更新:2010年10月09日 21:03