anko2158 学校:夏

『学校:夏』




四、

 夏休み。校内に生徒の姿は一人も見えない。一学期最後の日は小中高問わず学生にとって最高レベルのイベントでもある夏休
みの突入にテンションゲージが振り切れていたのか、男子は水槽の中の子れいむに指一本触れることなく教室を飛び出して行っ
た。男子はもちろんのこと、女子も顔が綻んでいるのを見て子れいむはガラス越しに小首を傾げるような仕草をしてその様子を
眺めていたのだ。風紀委員の東風谷さんが水槽越しににっこりと微笑んで手を振ってくれたのが懐かしい。

「あ゛ぢゅい……あぢゅい゛よ゛ぉ……ゆ゛っ、ゆ゛っ……」

 七月二十八日。その日の双葉市の気温は三十七度を記録していた。鉄筋コンクリートで造られているとはいえ、教室の窓は全
て締め切られている。風は一切通らない。そのうえ、子れいむはガラス製の水槽の中から動くことはできないのだ。太陽が高く
なるにつれて上昇していく気温に子れいむはだらしなく下を伸ばして呼吸を荒くするしかなかった。更に、普段は自分と一緒に
遊んでくれる優しい女子勢があの日を境に殆ど来てくれなくなったことが子れいむのストレスを増加させていった。ゆっくりは
一匹ではゆっくりできないのだ。他者とゆっくりを共有することで初めてゆっくりできる。それがゆっくり同士なら問題はない
のだが、あまりにも感性がかけ離れた人間と行動を共にする、或いは共にしてしまったゆっくりは十中八九不幸な目に遭う。

 一学期最後の“帰りの会”で定めた「子れいむの世話を男子と女子が一日交代で行う」というルールは、女子の思惑が秘めら
れていた。男子の次は女子である。つまり、前日の男子が子れいむの世話を疎かにしていれば、当然その女子によって前日の男
子が非難されるだろう。恐るべしは女子の連帯感。そんなことが知れ渡ったら夏休みが明けた次の日から、その男子は女子によ
って集団シカトの刑に処されるはずだ。この世に男と女しかいないように、学校にも男子と女子しかいないのだ。事実、その作
戦のようなものは成功し、この一週間子れいむが餌と水に困って死にかけるような出来事は起こらなかった。

 しかし。子れいむにとって信じがたい事件がこの日、起きてしまった。

「ゆ゛ぅ……あ゛ちゅい……ゆっくち、のどが……かわいちゃよ……おみずしゃん、ごーくごーく……しちゃいよ……」

 昨日やってきた当番の男子は子れいむの水槽の中にゆっくりフードを投げ込んだだけで即座にいなくなってしまった。男子に
とって貴重な夏休みの時間を子れいむ如きのために使うことが馬鹿馬鹿しいと感じていたのだろう。かくしてこの男子。子れい
むへの“水のやり忘れ”という凄まじい大罪を犯しながらも奇跡的に難を逃れることになる。

「……こんにちわ。 れいむ」

「ゆ……ッ?! おにぇーしゃん!! おにぇーしゃんっ!!! は……はやくおみじゅさんをちょうだいねっ!! れいみゅ、
はやくごーくごーくしないと、ちんじゃうよっ!!!」

「…………」

 教室にやってきた女子は子れいむの必死の訴えに微かに口元を緩めた。それから無言で廊下へと出ていく。子れいむはこの世
の終わりを嘆くような表情で廊下に向かって叫び声を上げた。

「ゆんやぁぁぁぁッ!!! むししにゃいでぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」

 ちなみにこの学校。都合がいいことに宿直の用務員がやってくるのは午後五時以降なのだ。つまり、日中の間子れいむがどれ
だけ泣こうが叫ぼうが誰も助けにやってこない。その日の当番であるクラスの誰かしか子れいむに接することはないのだ。それ
を子れいむもこの一週間で気付いたのか、今、やってきた女子に水を飲ませてもらえなければ死ぬと本能が告げていたので声を
張り上げているのである。

 廊下に設置されている水道から蛇口を捻る音と共に水の流れる音が聞こえてきた。水槽の中の子れいむが涙目になって歓喜の
表情を浮かべる。自分は無視されたわけではなかった……それが理解できて嬉しくてたまらなかった。やがて、キュッという音
と共に教室と廊下を静寂が包む。子れいむは教室の中へと入ってくる女子の姿を今か今かと楽しみに待っていた。そこへ女子が
入ってくる。

「ゆ……ゆっくち~~~♪ ゆっく……ゆぇ…………?」

 それからようやく気が付いた。水の流れる音がしても水槽の中に置いてある水皿は空のまま子れいむの隣に置いてあるという
事実を。にこにこと笑うその女子は緑色の如雨露を持っていた。子れいむが口を半開きにして女子の歩みを見つめている。それ
からその女子は教室の土間側の引き戸を開けて植木鉢に水を与え始めたのである。キラキラと太陽の光に照らされた水が流れて
いく。まるで小さな雨だ。子れいむが金切り声を上げた。

「ゆ……ゆわぁぁぁ?! どぼじでおみずしゃん、ごぼじでる゛の゛ぉぉぉぉぉッ?!! いじわりゅしにゃいでれーみゅにお
みずしゃん、ごーくごーくさせちぇにぇぇぇぇぇぇッ??!!!」

 子れいむの叫び声が届いたのか、女子が窓越しに子れいむを見つめた。子れいむの顔は真剣そのものである。当たり前だ。死
活問題なのだから。そんあ子れいむの表情を見た女子はクスリと笑い、また無言で如雨露から水を流し始めた。

「どぼじでいじわりゅするにょぉぉぉぉぉぉッ??!!!!」

 子れいむの声が聞こえていたのだろうか。教室に入ってきた女子は水槽の前まで静かに歩み寄り低い声で呟いた。

「意地悪? 人聞きの悪いことを言わないでほしいわね……? 私は植物係だから……夏休みでもお花に水をあげに来ただけよ?」

「お……おみずしゃんなら、れーみゅもほしいよっ!!! ゆっくちりかいしちぇにぇ!!!」

「クスクス……。 で?」

「ゆゆっ?!!」

「あなたに水をあげて私は満たされるのかしら……?」

「な……なにをいってりゅの……?」

 目の前にいるのは男子ではない。女子だ。チェック柄のワンピースから覗く白い肌。艶やかな唇。膨らみかけた胸。真っ赤な
リボンの麦わら帽子。

「分からないかしら……?」

「ゆゆゆゆゆ?!!」

 これまで見たこともないような冷徹な視線が子れいむを貫いていた。男子女子など関係ない。散々自分に対して酷いことをし
ていた男子たちでさえこんな目で自分を見たことはなかった。

「お……おねーしゃんは……」

「お姉さんは……? ………………ユックリデキナイ?」

「ゆ……ゆわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

「それよ! その情けない顔!! 苛めたくて苛めたくて堪らなくなるの……っ!! あなたは男子に意地悪されて泣き叫ぶ姿
が一番可愛いのっ! それが分かってしまったら……その可愛い姿を独り占めしたくならない……?」

 女子は両の手を組んで頬の辺りまで持ってきて満面の笑みを浮かべた。それから机の上に置いていた鞄に手をかけその中から
クッキーを取り出し嬉しそうに子れいむの目の前で食べ始める。丸一日近く水を飲めずに脱水症状を起こしつつある子れいむに
忘れかけていた空腹という新たな悪魔が襲ってきた。本当に美味しそうにクッキーを食べる女子の姿を見て子れいむはボロボロ
と涙を流し始めた。その泣き顔を見て女子がうっとりとした表情を浮かべる。

「はぁ……。 紫も東風谷も、諏訪子も……どうしてこの可愛さに気付かないのかしらねぇ……? 本当は河城さんの作ったお
うちもバラバラにしてあげたいけど……さすがにそれは酷いわよね……?」

 言いながら手にしたクッキーを子れいむがギリギリ届くかどうかというところまで持ってくる。“ゆぅぅぅぅ”と声を上げて
舌を伸ばすが届かない。女子は底抜けの笑顔で子れいむに一言告げた。

「ジャンプすれば届くかも知れないじゃない……?」

「ゆゆっ! ぴょんぴょんすりゅよっ!!!」

 叫んでその場で飛び上がる。クッキーに口が触れようとしたそのとき。女子は水槽から手を出しそのクッキーをパクリと自分
の口の中に入れたのだ。子れいむが瞳孔を全開にして涙を流す。子れいむは水槽の中でたむたむと飛び跳ねながら抗議を申し立
てていた。女子は溜め息をつくと自分の歯ブラシの入ったコップを取出し、再び水を注ぎに廊下へと出て行った。泣き叫ぶ子れ
いむの元に帰ってきた女子の手にはゆらゆらと揺れる水が入っていた。

「ゆぅぅぅ~……ん♪ ゆっくち、ありが……」

 その水を子れいむに向かってぶちまける。注いだわけでもなくかけたわけでもない。ぶちまけたのである。人間にとってはな
んということはなくても、まだまだ体の小さな子れいむにとっては鉄砲水のようなものだ。一瞬、何が起こったかわからずにそ
の場で呆けていた。それからしばらくして再び叫び声を上げた。とても脱水症状で死にかけている生物とは思えない。

「ひじょいよっ!!!! れーみゅ、おみずしゃんをごーくごーくしちゃいだけにゃのぃぃぃぃッ!!!」

「そうね。 今日も水を飲まずにいて、明日死にかけていたら次の当番の男子がちゃんと水を飲ませてくれるはずよ?」

「ゆ? ゆゆっ?! ま、まっちぇにぇっ!!! まっちぇ……っ!!!」

「……か、風見さん……?」

 突然の声に一人と一匹が振り向く。そこには一人の男子が茫然と立ち尽くしていた。蝉の声。三者の視線が交錯する教室の中
で風見さんがクスリと笑った。今度は男子と子れいむが風見さんを振り返る。金縛りが解けたように男子が風見さんに向かって
口を開いた。

「何を……やってるの……?」

 風見さんの手には子れいむの水皿が握られている。水槽の中にはびしょ濡れの子れいむ。小学生男子でもこの場で何が起きた
のかは容易に想像できるはずだ。風見さんは男子と水皿をわざとらしく交互に見つめた後、そっと机の上に腰かけた。細い足を
組んで男子を睨み付けるように見つめる。男子は風見さんの生足に顔を真っ赤にして目を逸らす。実はこの男子。風見さんに恋
をしていたのだ。

「あなたこそ何をしにきたの? 今日のゆっくりの当番は私のはずだったと思うのだけれど……?」

「お……俺は……」

 相手は風見さんである。“学校で怒らせてはいけない女子ランキング”の中で紫ちゃんと並んで双璧とされるあの。一年前、
風見さんが育てていた花壇に男子が誤ってサッカーボールを蹴り込んでしまったときは大惨事になった。男子に馬乗りになって、
顔を殴り続けた異変は記憶に新しい。“今からあなたを殴り続けるわ”と宣言して攻撃を開始した紳士的な態度から、双葉小で
は“弾幕開花宣言の風見”の二つ名で通っている。しかし、この男子は見てしまったのだ。放課後、一人で花壇に座り込んでへ
し折れた花を撫でながら泣いている風見さんを。

 しどろもどろになっている男子の様子に半ば呆れたような表情を浮かべ、水槽に向かって小さく口を開いた。

「お水、あげたでしょ? 早く飲みなさいな……?」

「ゆゆっ?!!」

 びしょ濡れの子れいむが目を丸くする。チラリと水皿に目を向けるも、その中は相変わらず空のままだ。ぷるぷる震えて風見
さんを見上げる子れいむ。風見さんはうっとりとした笑みを浮かべていた。そして、笑顔のまま辛辣な言葉を連ねていく。

「髪も顔もリボンも濡れてるし……、床も壁も濡れてるのよ……? 舐めなさいよ。 喉が渇いているんでしょう?」

「れ……れーみゅは、おみずしゃんをごーきゅごー……」

「ん?」

「ゆっぴゃぁああぁぁああぁぁぁぁッ??!!! ごめんにゃしゃいっ!! ごめんなしゃいっ!!! ぺーろぺーろ……ゆぐ
ぅ、ゆぇ……ひっく……ゆぅ……っ!!!」

 厭なのに。それなのに自分の顔や水槽のそこかしこに舌を這わせるしかない自分自身が惨めで仕方ないのだろう。信頼してい
た女子勢の一人に裏切られたという事もショックを大きくさせたかも知れない。子れいむは涙をぼろぼろ零しながら水槽中に舌
を這わせて水を“飲んだ”。

「風見さんも……こいつが嫌いなの?」

「好きよ。 泣いてる顔が、だけど」

 見慣れた光景に冷静さを取り戻したのか男子が風見さんの隣へと歩み寄る。風見さんはそんな男子に気を留めることもせず、
水槽の中に手を入れて人差し指で子れいむを圧迫し始めた。すぐに目を見開き、食いしばった歯の隙間から涎を垂らし始める。
顔面蒼白になりながらも抵抗のつもりなのか、左右の揉み上げを死ぬ間際の蝉の羽根のように激しくばたつかせる。

「れ゛……みゅ、ちゅ……ぶれりゅうぅぅぅぅ……」

「ねぇ?」

「な、何?」

「このゆっくり。 このまま潰したらどんな声を上げるかしら? どんな姿になるのかしら? ……興味、ない?」

「ゆ゛……ゆんやぁ……ッ!!」

 男子の額に汗が滲む。気が付いたら風見さんの腕を取って水槽から引き抜いていた。子れいむはその隙におうちの中へと逃げ
込む。そこで震えているのだろう。段ボールが小刻みに震えていた。風見さんは冷たい目で男子を見ながらその手を振り払おう
とするが、さすがに男子の腕力には勝てない。

「……離しなさいよ。 ……女の子の手を断りもなく握るものじゃないわ」

 男子が顔を真っ赤にして慌てて手を放す。風見さんは溜め息をついて机の上の鞄を引き寄せた。そして、何やらもじもじして
いる男子の顔を下から覗き込み、

「二学期から……もっと酷い虐めをしてくれないかしら? 私もそうしたいのだけれど、紫や東風谷が五月蠅いから。 まぁ、
それも“今のうち”だけだとは思うけど」

「どういう事……? 女子はみんな、こいつの事が好きなんだろ……?」

「今ここで例外を見たばかりの癖によくそんな事が言えるわね。 まぁ多分、私以外の女子は好きだと思うわ。 でも、女子っ
ていう生き物はね……見切りをつけるのも早いわよ……? 連帯感が強い分、中心人物がこの子を嫌いになったら手の平を返し
たように態度が変わるはず。 ……それじゃあね」

 最後に一瞬だけ冷たい笑みを浮かべて教室を出ていく。取り残された男子はしばらく呆けていた。水槽の中から子れいむのす
すり泣く声が聞こえてくる。男子は舌打ちをして水皿を取り出すと廊下に出ていき水を入れて戻ってきた。気付かれないように
それを水槽へと入れる。そこを立ち去ろうとしたとき、子れいむのか細い声が聞こえてきた。

「ゆっくり……しちゃい。 どぉして……? みんな、れーみゅのことが……きらい、にゃの……? れーみゅ……なんにも、
わりゅいこと……してにゃいのに……。 ゆっくりしちゃい、だけにゃのに……」

 男子は子れいむの言葉を聞き終えてから静かに教室を出て行った。それにさえも気づかずおうちの壁に顔を押し付けて泣き続
ける子れいむはうわ言のように“ゆっくりしたい”と繰り返し、しばらくして意識を失うように眠りについた。

 数時間が経過し、窓から西日が差し込む。子れいむはその眩しさで重い瞼を開けた。日中合唱を続けていたアブラゼミに代わ
り、ヒグラシが鳴き始める。子れいむは朦朧とした意識の中であんよをずりずりと動かし、おうちの中から這い出した。

(おみず……しゃん……)

 喉が渇いて死にそうである。子れいむは死の恐怖に怯えながら水皿へ這い寄っていった。そして気が付いたのだ。水皿の中に
注がれた水の存在に。瞬間、両方の揉み上げがブワッと騒ぎ出す。目からは涙が溢れてきた。急速に舌が渇きを訴えてくる。子
れいむは水皿の中に顔を突っ込むような形で、咳き込みながら水を喉の奥へと流し込んだ。

「ごーきゅ、ごーきゅ、ごーきゅ……っ!!! おいちぃよぉっ! おいちぃよぅっ!! おみずしゃん、すっごくゆっくりし
てりゅよぉ!!! ごーきゅごーきゅ……ッ!!! ゆ、ゆゆゆ……っ!! ゆぇぇ……ゆあぁぁぁぁぁぁん!!! おいちく
てたまらにゃいよぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」

 水を飲むことがこんなに幸せなこととは思っていなかったのだろう。子れいむは泣きに泣いていた。命を繋ぎ止めた事の安堵
感。それが堰を切ったように溢れて零れ落ちていく。子れいむは水皿の中の最後の一滴まで舌を這わせて舐め取ると、満足そう
な笑みを浮かべておうちの中に入っていった。極度の疲労と安心感からか、再び睡魔が子れいむを襲う。日も落ち気温も下がっ
てきた。今夜はぐっすり眠ることができそうだ。子れいむはおうちの隅で丸くなり、幸せそうに寝息を立て始めた。



 時計は午後十一時を指している。子れいむは“ゆぅゆぅ”寝息を立てながら熟睡していた。だがしかし。

「……んゆ……?」

 何かの音で目が覚めた。子れいむがもぞもぞと動くと、それに合わせて再び小さな音がする。子れいむが周囲を見渡そうとす
るが暗くて何も見えない。小さな音は蚊の羽音である。一匹や二匹ではなかった。

「ゆ……ゆぅっ! うるしゃくてゆっくりねむれにゃいよっ!! ゆっくりしずかにしちぇね!!!」

 どこから沸いたのか、水槽の中に数匹の蚊がなだれ込んでいたのだ。体温だけは人肌と変わらない子れいむに無数の蚊が集ま
ってくる。額に、頬に、あんよに。纏わりつかれる感覚が不快だ。しかし、手も足もない子れいむがそれを振り払おうとすれば
全身を捩じらせたりその場で飛び跳ねるしかない。蚊は子れいむから離れなかった。明確な攻撃手段を持たず、それを防ぐ方法
もないゆっくりにとって蚊は思った以上に厄介である。

「ゆぴっ!」

 一匹の蚊が子れいむの頬を刺した。左頬と口の間がむずむずする。蚊も体温だけで判断しているため、人間と間違えているの
だろうか。血を吸うことは当然できないし、中の餡子にまで届いてすらいない。そのはずなのに。子れいむは蚊に刺された箇所
のむずむずが気になって仕方がなくなってきていた。飛び交う無数の羽音に唇を噛み締める。メカニズムは不明であるが、子れ
いむの“むずむず”は痒みへと変化してきた。

「ん……んゆぅっ!!!」

 痒い場所をおうちの壁に摺り寄せる。それでも痒みは収まらなかった。しばらくして、この羽音の主が子れいむの顔を痒くさ
せている張本人だと気付く。闇の中。羽音だけが子れいむの周囲を行き交う。

「や……やめちぇねっ!! れーみゅ、こまっちぇるよっ!!!」

 しかし蚊は聞く耳をもたない。数匹の蚊が次々と子れいむの体中を刺し始めた。そのたびにむずむずが広がり痒みへと変わっ
ていく。やがてそれは耐え難い苦痛へと変化していった。

「か……かゆいよぉぉぉぉぉ!!!!!」

 全身をこねくり回すように壁や床にこすりつける。痒みから逃れる方法はそれしかなかった。それでも痒みを止めることには
ならない。今現在、水槽の中には約十匹もの蚊が侵入していた。そしてそのどれもが子れいむの柔肌を狙っていたのである。揉
み上げを振り回し、ごろごろと回転しながら暴れる子れいむ。これほどの動きをしなければ蚊を振り払うことはできなかったの
である。羽音が途切れても顔中の痒みは離れてくれない。それに歯を食いしばって耐えていると、またどこからともなく羽音が
やってくるのだ。子れいむは見えない敵を相手にどんどんその脆弱な精神をすり減らしていった。既に涙を流している。

 結局この日は一晩中何らかの動きを強いられたせいでろくに眠ることなどできやしなかった。朝方になってようやく水槽の周
辺から蚊がいなくなったのだろう。気が付くと羽音は聞こえなくなっていた。

 子れいむはというと、蚊に刺された箇所が何故か赤くなっておりぷっくりと膨らんでいた。十数か所もを蚊に刺された子れい
むは泣きながらぷるぷると震えている。痒くてたまらないのに、それを紛らわすだけの体力が残っていなかったのである。歯を
小刻みに震わせて涙を流す。

「どぉしちぇ……だれも、れーみゅにやさしくしちぇくれにゃいのぉ……?」

 既に一学期で女子と過ごした幸せな時間は忘却の彼方のようである。

 次の日の夜も。その次の夜も。子れいむは蚊に悩まされ続けた。必死に蚊の存在を訴えるも、

「ぷーんぷーんが、ちくって、かゆいんだよっ! たすけちぇよぉ……」

 これではイマイチ理解できないのか男女問わず対策を立ててくれる者はいなかった。結局、水槽の中に蚊取り線香が実装され
たのは盆を過ぎた頃である。この頃になると子れいむ自身も雑巾の中に潜り込むなどして自衛手段を確立していた。しかし、子
れいむの身に降りかかる災難はまだ続いている。

「くさいよぉ……ゆっくり、できないよぉ……」

 少しずつ舌足らずな言葉が抜けつつある子れいむが雑巾の中で顔をしかめていた。確かに蚊取り線香が水槽の中に装備される
ことによって、あの無数の小さな羽音は聞こえなくなったのだが。その代わりにゆっくりできない匂いが水槽を包み始めたので
ある。そういう環境の変化に対して異常なまでに敏感なゆっくりである子れいむに、それは耐え難い苦痛であろう。火の管理は
用務員のおじさんに任せていたため、それが原因でボヤが起きたりするようなこともなかった。

 夏休みが終わろうとしている。窓の外から夏祭りの花火が見えた。子れいむが雑巾から這い出して水槽の壁に顔をくっつける。

「ゆわぁ……。 ゆっくり、きれいだよ……」

 うっとりと花火を見つめる子れいむ。花火の音が教室の中にまで届いていた。だから気が付かなかったのだ。教室の中に侵入
してきた何者かの存在に。花火の光が突然遮られた。

「ゆ? ゆゆっ?!」

「久しぶりだな。 れ・い・む・ちゃん」

「遊びに来てやったぜ? 一匹で退屈してたんだろ?」

「うわ。 つーかコイツえらいでかくなったな……!!」

「ゆ……ゆわぁぁぁッ?!」

 水槽ごと持ち上げられる。その中でバランスを崩した子れいむはごろごろと転がり、全身を壁に打ち付けて悶えていた。子れ
いむは既に気付いている。男子だ。男子がやってきたのだ。いくら記憶力のない子れいむでも散々自分を痛めつけていた憎い相
手の声くらいは覚えている。一学期の悪夢が蘇り、歯をカチカチと鳴らしていた。今日はどんな痛いことをされるんだろう。そ
んな事が頭をよぎっては目から涙が溢れていく。今日の当番は男子だった。その男子の一人が子れいむに餌と水を与えたあと、
この時間まで学校の中に残っていたのだ。

「完璧な作戦だろ!」

 自慢そうに話す男子の一人。その男子を含めて四人が子れいむを校舎の裏庭に拉致していた。四人の両親には夏祭りに行くと
告げてある。男子たちはこの日、子れいむと“遊んで”やることを数日前から計画していたのだ。夏休みのイベントをあらかた
消化し暇になってきたのであろう。暇潰しの相手として、子れいむ以上の役回りは存在しない。

 ほぼ成体ゆっくりに近い大きさの子れいむでも水槽を飛び越えて逃げ出すような跳躍力は持たない。水槽の中から怯えた表情
で男子たちの動きを見つめていた。男子の一人がバケツに水を汲んで戻ってくる。別の男子はコンビニ袋の中からガサガサと花
火セットを取り出し、それを仲間に回していった。

 午後九時。夏祭りの終了を告げる花火が鳴り終えると共に、子れいむを含めた男子たちによる“花火パーティー”が開催され
た。最初は子れいむも男子も思い思いに花火を見て楽しんでいたが、案の定その時はすぐに訪れることとなる。男子の一人がお
もむろに花火のを水槽の中に向けた。

「ゆぎゃあああああッ!!!」

 子れいむが叫び声を上げる。当たり前だ。花火である。直接炎を当てられ身を焼き焦がされるわけではないが、熱いに決まっ
ているのだ。水槽の中で子れいむが跳ね回る。体の大きさも相まってほとんど逃げ場所はない。強烈な光と熱がそんな子れいむ
を蹂躙していた。

「やべでぇぇぇぇ!!! あ゛づい゛よ゛ぉぉぉ!!!!!」

「あーはっはっはっは!!」

 当然、泣きながら花火から逃げ惑う子れいむを見て男子一同は歓喜の声を上げた。子れいむも成長してタフになってきている
ため、この程度で死ぬことはない。火の粉が顔の皮に触れるたび、針で刺されたような鋭い痛みが走った。狂ったように暴れる
子れいむを見て男子たちは満面の笑みを浮かべていた。男子四人が一度に花火を水槽の中に向ける。

「ゆ゛ぎゃ゛あ゛あ゛ッ!!! ごべんな゛ざい゛!!! ごべん゛な゛ざい゛ッ!!!! あづい゛ッ!!! あ゛づい゛い
よ゛ぉ゛ぉ゛!!!! や゛べでぐだざい゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛!!!!!」

 さすがに花火を根本から子れいむに向ける者はいなかった。しかし、四本もの花火から降り注ぐ火の粉は容赦なく子れいむの
髪の毛や顔を火傷させていく。子れいむにしてみれば、文字通り火の雨に晒されていることだろう。あんよ焼きや顔面焼きと比
べればダメージは小さいかも知れないが、その分はっきりと意識を持ったまま激痛が全身を襲うため心への被害はどちらもあま
り変わらないように思えた。

 河城さんのおうちも雑巾も水槽の中から出してある。あまり派手に火を使って水槽にその痕跡を残すわけにもいかない。子れ
いむは既に満身創痍でぐったりしている。男子もあまりやり過ぎると本当に子れいむが死んでしまうかも知れないと思っていた
ため、それ以上攻撃を加えることはなかった。

「……あんたたち」

「??!!!」

「酷いですっ! れいむが可愛そうだとは思わないんですかっ!?」

「やってくれたわねぇ……。 そこまでれいむが嫌いだとは思わなかったよ……」

 紫ちゃん。東風谷さん。八坂ちゃん。三人が男子に対峙していた。流石の男子四人も背筋を震わせる。この夜の出来事は間違
いなく担任である上白沢先生に報告されるだろう。しかし、恐ろしいのはそれだけではない。

 相手は紫ちゃんである。“学校で怒らせてはいけない女子ランキング”の中で風見さんと並んで双璧とされるあの。一年前、
飼っている狐と猫を散々男子に馬鹿にされたときは大惨事になった。空気穴を開けたコンビニ袋をその男子に被せ、殴る蹴るの
暴行を加えた末に服を全部脱がし、掃除用具入れの中に叩き込んだ異変は記憶に新しい。事情を知らない上白沢先生がその男子
の行方を生徒に尋ねるも、恐ろしくて誰も事実を語らなかったという逸話から、双葉小では“神隠しの紫”の二つ名で通ってい
る。

 これに加えて転校してきた八坂ちゃんも前の学校では恐れられていた存在であるし、東風谷さんは正統派美少女として学校の
アイドルの地位を確立させている。この三人を一度に相手にすることは、全方位から死亡フラグが咲き乱れることになりかねな
いのだ。

「に……逃げろぉぉぉぉ!!!」

 四人の男子は一目散にその場を走り去っていった。東風谷さんが水槽の中の子れいむに駆け寄る。

「怖かったでしょう? ごめんね、ごめんね……っ!!」

「ゆっ、ゆっ、ゆっ、ゆっ……」

「どうするの紫ちゃん? 上白沢先生に言う?」

「……まだ、考えてる」

 東風谷さんの腕の中で泣き続ける子れいむ。唇を噛み締めて男子が逃げ去った方向を睨み付ける紫ちゃん。八坂ちゃんは腕組
みをして満天の星空を見上げていた。上白沢先生に全てを明かしてしまえば、確かに男子は大目玉を食らうだろう。しかし、教
室でゆっくりを飼うことができなくなってしまうかも知れない。顔をくしゃくしゃにして泣き続けている子れいむを見てしまう
と、このまま余所にやってしまうのは心が痛む。

「……信じましょう」

「東風谷さん……?」

「いつか、男子もわかってくれるはずです……。 だから、それまで私たちでこの子を守ってあげましょう……」

「……そうだねぇ。 それしかないかもねぇ」

 八坂ちゃんと東風谷さんが同意を求めるように紫ちゃんに目配せする。紫ちゃんは一呼吸置いてから小さく頷いた。それから
三人は子れいむの入った水槽を教室の定位置に戻し、持ってきていたお菓子をたくさんあげてから教室を出て行った。子れいむ
は嬉し泣きをしながら、もそもそとお菓子を食べていたが疲れてしまったのだろう。そのまま深い眠りについてしまった。

 そして、長い夏休みが終わりを告げ……新学期が始まろうとしている。



五、

 夏休みの宿題を提出できなかった三人の男子が上白沢先生からゲンコツをプレゼントされた。教室の中は夏休みの思い出話に
華が咲いている。村沙ちゃんは聖さんや寅丸さんと一緒に船に乗って旅行をしたらしい。その時に寅丸さんが何か大事なものを
海に落としてしまったらしく、その夜は彼女を慰めるのに大変だったそうだが今は笑い話にできるようだ。文ちゃんは新しく買
ってもらったカメラの話を嬉しそうにしていた。

 そんな笑い顔を見ているとれいむも嬉しくなってきてしまう。夏休み序盤に餌をやりにきた生徒はれいむの成長っぷりに目を
丸くしていた。女子の数名に「大きくなったねぇ」などと言われると、

「れいむはそだちざかりなんだよっ!」

 などと自信たっぷりに返事を返した。しかし、成体ゆっくりになったれいむにとって水槽の中は狭いのか少しだけ窮屈そうに
している。河城さんも自作のおうちを水槽から取り除いた。

 始業式の日の帰りの会。上白沢先生は一枚のプリントを回し始めた。それに目を通した生徒たちの一部が飛び上がって歓喜の
声を上げる。女子同士も顔を見合わせて嬉しそうにヒソヒソ話をしていた。

「えー、それでは……十月の最初の週に二泊三日の修学旅行に行きます。 それで、今配ったプリントを家に帰ってお父さんや
お母さんに見せてください。 それから明日の五時間目のクラス活動の時に修学旅行の班分けをします。 一か月間、目的地で
ある福岡・佐賀・長崎の歴史について調べるメンバーになるから、とりあえず男子・女子共に六班ずつ作ってもらうことにしま
すので、覚えておいてください」

 修学旅行。それは夏休みを遥かに凌駕する一大イベントである。両親のもとを離れ友達同士で夜を明かす最高の一時。ご当地
の名物料理も食べられるだろう。れいむは自分のすぐ近くの席に座っている女子に質問をした。

「ゆっ! おねーさんたち、どうしてそんなにうれしそうなの?」

「んーと、ねぇ。 一か月後、私たちみんなで旅行に行くんだよ」

「りょこう……?」

「うん。 皆で遠くに遊びに行くの。 夜も友達と一緒に眠るんだよ」

 厳密に言えば遊びに行くわけではないのだが、実際には遊びに行くようなものであろう。それは他の生徒たちのはしゃぎっぷ
りを見ても理解できる。上白沢先生も「やれやれ」と苦笑いをしているが、生徒たちの嬉しそうな顔を見ているとそんなことは
気にならなくなってくる。

 帰りの挨拶を終えて生徒たちが教室を出ていく。猛暑のピークは過ぎているせいか、皆活気に満ち溢れているように見えた。
もちろん、修学旅行の話がその活気を後押ししているのは間違いないだろう。

 れいむは誰もいなくなった教室を見渡して溜め息をついた。ゆっくりとはいえ、れいむも成体になったのである。面の皮が厚
くなると同時に水槽の中でどっしりと構えるようになってきた。もちろん、男子が奇襲をかけてくればそんな雰囲気は一瞬で破
壊されてしまうのが明白だが。

 この日は修学旅行の話を早く親にしたいのか、一直線に家へと帰ったらしい。れいむは水皿の水に口をつけると、もそもそと
水槽の隅へと移動を始めた。さすがにもう雑巾の中に潜り込むことはできない。河城さんのおうちもなくなってしまった。ゆっ
くりは眠りにつくときは端っこに行く癖がある。何かに寄りかかっていないと落ち着かないのだろう。赤ゆが親ゆの頬に寄り添
うのと同じ理屈なのかも知れない。

「ただいま~」

「ゆゆ?」

「何寝てんだよ馬鹿。 俺たちがお前を一発も殴らずに家に帰るわけねーだろ」

 水槽の目の前に三人の男子がいた。ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべてれいむを水槽から引きずり出してそのまま床に叩きつけ
た。

「ゆ゛べしっ!!!

 顔半分に激痛が走る。面の皮が厚くなったとはいえ相変わらず痛みには弱いのだ。すぐに涙目になってそれが一筋頬を伝う。
男子がその顔を見てにんまりと笑うとれいむを蹴りつけ始めた。すでに丸くなって防御態勢に入っているれいむの後頭部や底部
に鈍い痛みが走る。

「ゆ゛ぐぅぅぅぅっ!!!」

「コイツ、頑丈になったなぁ! 大きくなればなるほど痛めつけやすくなるな!」

「でも痛がりなのは赤ゆの頃から変わらないんだよなぁ!! 殴られるためだけに生まれてきたような生き物だな、ゆっくりっ
て!!」

「い゛……い゛だい゛よ゛ぉ゛ぉ゛!!! どぼじでごんな゛ごどずる゛の゛ぉ゛ぉ゛ッ?! れ゛い゛む゛、なんにも゛わ゛
る゛い゛ごどじでない゛でじょぉぉぉぉッ??!!!」

「へぇ♪ 殴られながらそんな生意気な口が利けるようになったん……、だなッ!!!!」

 男子の一人が思い切り足を振り上げてれいむのあにゃるにシューズのつま先を叩き込んだ。シューズの先端がれいむのあにゃ
るの一部にめり込み、そこから餡子がぷりっと漏れ出した。れいむはあにゃるに激痛が走ったまま飛ばされて机の脚に顔面を叩
きつけられる。目と目の間がへこみ、ごろごろと悶えるれいむを更に蹴り上げて教室の後ろの壁に叩きつける。

「ゆ゛ぎゃあ゛あ゛!!! れ゛い゛む゛のお゛がおがぁぁぁぁぁッ!!!!」

「顔の心配より命の心配しろよ!! なんかコイツ生意気になってきてんな!!」

「夏休みの間は、俺たちの“躾”が上手く行ってなかったからな」

「ゆ゛ぎぃぃぃ!!!!」

 掃除用具入れの中から箒を取り出してその柄でれいむの顔を殴打する。髪の毛を掴んで持ち上げるとれいむがさらに悲鳴を上
げた。それを箒を構えた男子へと放り投げる。

「おそらをとんぶびゅるえ゛ッ??!!!」

 箒をバットに見立てフルスイングした一撃がれいむの顔面を正確に捉えた。先ほど机にぶつけた縦の凹みと交わるように箒で
つくられた横の凹みが十字を描いている。その滑稽な顔に男子は爆笑していた。れいむは成体になってもろくに反撃できずに痛
めつけられるしかない自分の弱さが悔しくて仕方がない。泣くのも我慢したいのに言う事を聞いてはくれなかった。

 そんなれいむの情けない顔は嗜虐心を煽るのか、男子の攻撃を加速させていく。だんだん、手加減がなくなってきたのだ。れ
いむは痛みと衝撃で何度か勢いよく中身の餡子を吐いた。歯を食いしばり痛みに耐えようと力を込めると、あにゃるからうんう
んが漏れ出す。

 男子は笑っていた。この弱くて情けないれいむを痛めつけるのが楽しくて楽しくてたまらない。れいむは抵抗できないのだ。
物理的にはもちろんのこと、れいむを痛めつけることに対して真剣に怒りを露わにする仲間がれいむにはいない。女子がそれに
当たるかも知れないが、親や先生が絡んでくるのとは訳が違う。

「も゛う゛や゛べでぇぇぇッ!!!」

 叫び声を上げるのは自分がまだまだ元気であることを証明しているに他ならない。それをいつしか男子は気付いていた。本当
に死にそうなゆっくりはこんな叫び声は上げない。教室の隅で執拗に蹴ったり踏みつけたりして、さらにれいむを叫ばせて遊ん
だ。

 ズタボロになったれいむはようやく解放されて水槽の中に戻された。

「ゆ゛ぐぅっ……ひっく……ゆ゛ぅ゛ぅ゛」

「じゃあな、れいむ。 すっげーゆっくりできたぜ」

「お前は最高のゆっくりだな。 こんなに俺たちをゆっくりさせてくれるんだからよっ」

「おい、もっと嬉しそうにしろよ! 褒めてやってんだろーが、よっ!」

 そう言ってリコーダーでれいむの頭を殴る。れいむは顔を真っ赤にして泣きながら叫んだ。

「ゆ゛あ゛あ゛あ゛!!! れ゛い゛む゛も゛ゆ゛っぐり゛じだいの゛に゛ぃぃぃぃ!!!!!」

「なんでお前がゆっくりしないといけないんだよ。 俺たちをゆっくりさせればそれでいいんだよ。 お前なんてどうでもいい
の。 分かったか?」

「わ゛がる゛わ゛げな゛い゛でじょぉぉぉ?!! もうやだぁ!!!」

 反論されたのが気に入らなかったのか、もう二、三発リコーダーで殴りつける。これ以上何か言うとまた酷い目に遭うと悟っ
たのかれいむはそれ以上何も言わなくなった。顔を床におしつけてぶるぶる震えている。ようやく大人しくなったれいむを見て、
男子が唾を吐きかけた。

「最初っから素直にそうしとけよ、れいむちゃん。 次なんか生意気な事言ってみろ? もっと酷い目に遭わせてやるからな」

「…………」

「返事しろよ!!! この糞饅頭!!!!」

 髪を掴まれて顔を無理矢理上げさせられる。れいむは怯えきった目から涙を流し、歯をカチカチと鳴らしながら呟いた。

「ゆっくり……りかいしたよ……」

 わざとらしく鼻息を荒くして教室を去っていく男子たち。一人ぼっちになったれいむに残されたものは、痛みと苦しみ、そし
て悲しみだけである。不思議と悔しいという感情は沸いてこなかった。諦めていたのである。れいむはどう足掻いても男子に勝
つことはできない。静かに。本当に静かに泣いていた。声を押し殺してひたすらに。大声で泣き叫んでしまったら、男子が帰っ
て来るかもしれない。それが怖くて怖くてたまらなかったのだ。

 その夜、れいむは夢を見た。

 小さな巣穴の中で親れいむがお歌を聞かせてくれていた。姉妹たちと頬を重ね合い、その歌に合わせてゆらゆら揺れる。狩り
から戻ってきた親まりさは嬉しそうに集めてきたご飯さんを出してくれた。それを皆で仲良く食べる。美味しくてたまらない。
嬉しくて、嬉しくて涙が溢れて止まらなくなった。

 両親と姉妹がれいむの周りに集まってくる。家族全員がれいむに頬をすり寄せた。安堵感がれいむを包む。柔らかくて、温か
くて、れいむはこの幸せが永遠に続けばいいと願っていた。

 ふと、姉妹がれいむから頬を離し巣穴の外へと出て行った。れいむはその後ろ姿を呆けた様子で眺めている。それから親まり
さがぴょんぴょんと巣穴の外へと出ていく。れいむが不安そうな顔で親れいむを見上げた。親れいむはれいむと目を合わせては
くれなかった。そして、ずりずりと巣穴を這って移動し始める。

 お母さん。そう叫んだつもりだったが、声にならなかった。それだけではない。あんよが動かないのだ。親れいむの後ろ姿が
少しずつ小さくなっていく。何度も何度も心の中で叫んだ。親れいむがピタリとあんよを止めた。れいむの表情がにわかに明る
くなる。

「……おまえなんて、どうでもいいよ」

「ゆんやあああああああああ!!!!!!」

 水槽の中でれいむが飛び起きた時は深夜三時を回っていた。ボロボロと涙をこぼしながら、きょろきょろと周囲を見回す。

「おかあさん……どこぉ? どこぉ……? すーりすーりしたいよぉ……」

 暗闇の中。れいむのか細い声だけが教室に響き渡った。



 翌日。

 ズタボロのれいむを見て女子が口々に慰めの言葉をかけていた。紫ちゃんは拳を固く握りしめて唇を震わせている。男子はそ
んな光景を無視して修学旅行の班分けに夢中になっていた。

「どぉして……れいむをゆっくりさせてくれないの……?」

「え……?」

 優しく接してくれる女子に甘えていたのだろう。れいむは恐ろしくて何も言うことができない男子の代わりに女子へ恨み言を
ぶつけようとしていた。

「れいむ……なんにもわるいことしてないのに……」

「ど、どうしたんですか? れいむ……ほ、ほら、これあげるから元気出してください……ね?」

 れいむの相手をしていたのは東風谷さんである。東風谷さんは鞄の中からクッキーを取り出してそれをれいむに与えようとし
した。そのとき、女子はおろか男子も目を丸くする光景が映し出された。

「きゃっ!!」

 れいむが東風谷さんの手に体当たりをしたのだ。持っていたクッキーが水槽の床に落ちる。東風谷さんはびっくりしたのか、
慌てて水槽から手を引っ込めた。教室が静まり返ってそんな両者のやり取りを見つめている。

「ゆぎぃぃッ!! れいむも……れいむも、ゆっくりしたいよぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」

 東風谷さんに向かって怒鳴りつけるれいむ。東風谷さんは怯えた様子でれいむを見つめていた。微かに唇を震わせている。自
分の主張を黙って聞いているだけの東風谷さんを見てれいむは、更に声を張り上げた。

「どぼじでおねーさんたちは、れいむがいじめられているときにたすけてくれないのっ?!!」

「…………っ」

 女子一同が俯く。れいむの言葉に対して女子勢は反論できなかった。女子はれいむを守ると言ってはいるものの、ほとんど後
手に回っているのである。大抵は、痛めつけられたれいむを慰めるだけに終始してまっているのだ。タイミングの問題もあるだ
ろうが、夏祭りの花火のときも散々酷い目に遭った後ようやく助け舟が出されている。

 れいむは怒りの矛先を女子に向け始めていた。

「おねーさんたちのうそつきっ! れいむ、たくさんたくさんいたいことをされたんだよっ!!! なのにどうしていっつも、
たすけてくれないのぉぉぉッ?!!」

 れいむはれいむでストレスの限界をとっくに超えていたのだろう。怒りをぶつける相手は男子以外であれば誰でも良かったの
かも知れない。

 東風谷さんは無言で泣いていた。もちろん、東風谷さん一人が責められているわけではなかったのだが教室内の空気からして、
代表で東風谷さんがれいむに罵倒されているような図式になっている。突然の出来事に他の女子も東風谷さんをフォローする事
ができなくなっていた。

「ご、ごめんね……ひっく……れいむ、ごめんなさい……」

「こ、東風谷さん……あなた一人が悪いわけじゃないわ」

 泣きながられいむに謝る東風谷さんに駆け寄るのは紫ちゃんである。東風谷さんは涙を拭いながら紫ちゃんに抱きついた。肩
を震わせて泣き続ける。

 男子はこの予想外の出来事に呆けていた。まさかれいむ如きに東風谷さんが泣かされるような事になるとは思ってもいなかっ
たのだ。

 れいむはれいむで東風谷さんに泣きながら謝らせた事で明らかに調子に乗り始めていた。

「ないたって、れいむがいたいおもいをしたことはかわらないんだよぉぉぉッ?!! ばかなのっ!? しぬのッ?!!」

 れいむが叫び声を上げるたびに東風谷さんが肩をビクッと震わせる。紫ちゃんは戸惑った表情を浮かべながらなんとかれいむ
をなだめようとしていた。しかし、れいむの暴走は止まらない。女子勢はバツの悪そうな顔でれいむから目を逸らす。

 そこに一人の男子が割って入った。

「ちょっと……」

 紫ちゃんを無視して水槽の中のれいむに手を伸ばす。その頬を思いっきりつまみ上げた。苦悶の表情を浮かべるれいむ。

「ゆ゛ぎゃああああ!!! いだいよぉぉぉ!!!!」

「何てめぇ、ゆっくりのくせに東風谷さん泣かせてんだよ……」

「わ、私の事はいいですから、離してあげてください……ッ!!」

「ダメだね。 コイツが東風谷さんに謝ってからだ」

「あやまるわけないでしょぉぉぉぉ?!! れいむはなにもわるくな……いぃ、い゛だい゛い゛い゛ぃッ!!!!」

「東風谷さんがいいって言ってるでしょ?! いいかられいむを離しなさい!!!」

 紫ちゃんが叫ぶが男子は聞く耳を持たない。さらにれいむの頬を強くつまむ。男子はこのままれいむが東風谷さんに謝らなけ
れば頬の皮を引き千切ってやるつもりでいた。れいむが紫ちゃんに目で助けを訴える。紫ちゃんが男子の手を無理矢理離そうと
するがやはり力では敵わない。

 その時。れいむが叫んだ。

「このくそばばぁぁぁぁッ!!! はやくれいむをたすけろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」

 全ての時間が止まった。男子も思わずれいむの頬から手を離す。八坂ちゃん。東風谷さん。諏訪子ちゃん。村沙ちゃんも聖さ
んも寅丸さんも河城さんも文ちゃんも止まっていた。無論、全ての男子も。

 紫ちゃんが水槽に歩み寄ろうとしたその時。上白沢先生が教室に入ってきた。

「何かあったんですか?」

「なんでもありません」

 紫ちゃんは一言そう答えると全員席に着くように言った。全員が無言でその言葉に従う。男子も女子も紫ちゃんから感じる威
圧感に一年前の異変を思い出していた。

 この日、学級委員の紫ちゃんを中心に驚くほどスムーズに修学旅行の班編成が決まった。と言うよりも誰も紫ちゃんの意見に
逆らわなかったのだ。

 放課後。男子も女子も帰りの挨拶を終えてすぐに教室を飛び出していった。紫ちゃんもゆらりと立ち上がり、教室を出ていく。

 風見さんは教室の一番後ろの席でそんな全員の様子を見てクスリと笑みを浮かべた。



「……ほら。 もう歯車が狂い始めた」






つづく
最終更新:2010年10月06日 20:11
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