『缶コーヒー』
僕は飼っていたれいむを殺した。
とても可愛がっていたのだけれど殺した。
れいむは素直なゆっくりだった。
赤ゆの頃からずっと一緒だった。
共に過ごした時間は楽しかった。
まだ赤ゆの小さな体で一生懸命にリビングを跳ね回る姿。
のーびのーびの練習をしては結果を僕に逐一報告しにやって来た。
「ゆっくち!ゆっくち!」
ピンポン玉の赤れいむの姿が見えないときは耳を澄まして声のする方向を探した。
うっかり踏み潰してしまわないよう、慎重に、慎重に。
「むーちゃ、むーちゃ、しあわちぇぇぇ!」
美味しい物を食べさせてあげたときの涙目で叫ぶ大袈裟な感情表現が愛くるしかった。
指で頭をぷにぷにと触ってもらうのが大好きだった赤れいむ。
一番好きな食べ物はなんだっただろう。
いつか適当に与えた缶コーヒーを飲ませてあげた時が一番はしゃいでいたかもしれない。
砂糖がたっぷり入った甘い甘いコーヒー。
れいむは何かいい事をしたと自分が思ったときに、ご褒美として僕に何度も缶コーヒーを要求した。
「ゆゆっ! おにーさん! しんぶんさんをもってきたよ!」
「ゆゆっ! おにーさん! れいむ、うんうんをじぶんでおかたづけできたよっ!」
「ゆゆっ! おにーさん! れいむ、ごはんさんをたべおわったおさらをかたづけてくるねっ!」
「ゆゆっ! おにーさん!」
「ゆゆっ!」
チラチラと僕の顔色を窺いながら。
ソワソワとした様子で得意気に話す。
大きくなったれいむはやっぱり缶コーヒーが大好きだった。
れいむは聞き分けのいいゆっくりだったけれども、掃除機の音が大嫌いだった。
「ゆゆっ! おにーさん! うるさくてゆっくりできないよ! やめてね!」
掃除機とはそういうものだ。
僕が言う事を聞いてくれないと思ったらしく、ふくれっ面になるれいむ。
掃除の邪魔になるからどいてくれと言っても聞いてくれなかった。
何度言ってもその場を動かないから僕はついつい足でれいむをどかしてしまった。
それがショックだったのだろうか。
大声で泣き出したれいむは、泣き終わってからもしばらく僕と口を利いてはくれなかった。
その日の晩御飯をれいむは食べなかった。
次の日の朝御飯も。
「ゆひゃっ!」
だから僕は無言でれいむの頬に冷たい缶コーヒーを押し当てた。
びっくりしたれいむは僕に散々文句を言いながらも気がついたらボロボロと涙をこぼしていた。
僕も悪いことをしたと思っていたから素直にれいむに謝った。
抱き上げたれいむの柔らかさと温かさは今でも忘れない。
僕はれいむが大好きだった。
世界一の飼いゆっくりだと思っていた。
自慢のれいむだった。
ある日、街の野良ゆっくりたちの間で原因不明の病気が蔓延したとの知らせが届いた。
野良ゆっくりの死体がたくさん転がっていたのを覚えている。
それはゆっくりたちの間で起こる感染病の一種だったそうだ。
“だったそうだ”というのは未だに原因が不明だからである。
ある時、飼育小屋でゆっくりを飼っていた学校の生徒数名が原因不明の高熱に悩まされた。
すぐに飼っていたゆっくりが感染病にかかっていなかったかの検査が行われた。
結果は黒だった。
それが人間に感染したのかどうかまでははっきりとはわからない。
わからないが、人間たちはわからないからこそ、原因の元を絶とうとした。
ある場所に集められたゆっくりたちは一瞬で殺されてしまった。
病気のゆっくりも、そうでないゆっくりも。
いいゆっくりも、悪いゆっくりも。
賢いゆっくりも、馬鹿なゆっくりも。
やがて。
野良ゆっくりも、飼いゆっくりも。
人間に感染する可能性がゼロでない限り、人間と共に過ごす時間の長い飼いゆっくりは最も危険な存在だった。
役場の人間が僕の家にやってきた。
彼らは僕に一本の注射器を渡した。
それにはゆっくりを安楽死させるための薬が入っていた。
すぐにでも床に叩きつけて壊してやろうかと思ったができなかった。
原因不明の感染病は既に大きなうねりとなって広がりつつあったからだ。
いつれいむが感染病にかかるとも限らない。
僕は年老いた母と一緒に暮らしている。
僕はともかく、母が感染病にかかってしまったらどうなるかわからない。
近所のゆっくりを飼っていた家からも、ゆっくりの声が少しずつ聞こえなくなっていった。
ある夜、僕はれいむを手招きして呼び寄せた。
ぴょんぴょん飛び跳ねてやってくるれいむ。
僕がれいむに注射器を見せると。
「ちくちくさんはゆっくりできないよっ!」
そう、叫んだ。
僕はれいむに最初で最後の嘘をついた。
感染病の事はれいむも知っている。
この“チクチクさん”を我慢しないとれいむも感染病にかかってゆっくりできなくなってしまうよ、と。
れいむは俯いた。
考え込んでいた。
それからキリッとした表情で叫んだ。
「ゆっくりわかったよ! それじゃあ、れいむがちくちくさんをがまんできたら……」
我慢できたら缶コーヒーを飲ませてほしいと。
僕はれいむと偽りの約束を交わした。
れいむの頬に注射器を刺す。
「ゆ゛ッ」
短く声を上げた。
しばらく唇を噛み締めて小刻みに震えていた。
注射器を引き抜く。
「れいむ、ゆっくりがまんできたよ!」
僕はれいむの頭をリボン越しに何度も何度も何度も撫でてやった。
それかられいむは僕に眠気を訴えてきた。
「ゆぅ……れいむ、すーやすーや……したくなってきたよ」
僕は震える唇を噛み締めて「ゆっくりお休み」とだけ告げた。
れいむは僕の顔を見上げて、涙を流して微笑んだ。
「ゆゆっ! おにーさん! ゆっくり……さよなら」
僕はれいむから目が離せなくなった。
それから二度とれいむは動かなくなってしまった。
れいむは気づいていたのかも知れない。
“チクチクさん”の意味を。
今、僕の手元にはれいむが大好きだった缶コーヒーが置いてある。
あれからもう何年も経つのに僕は時々こうやって、無意識に缶コーヒーを買ってしまう。
自分で飲むわけでもなく。
まして誰かに飲ませてあげるでもなく。
僕はずっと缶コーヒーを握りしめていた。
汗をかいてしまった缶コーヒーの水滴が僕の指を伝う。
冷たかった缶コーヒーは僕の手の体温で少しずつ温められていく。
やがて、僕と同じ体温にまで達する。
同じ体温。
れいむの頬の温かさ。
僕は缶コーヒー越しにれいむの体温を感じていたのかも知れない。
もう、二度と会うことはできない。
れいむの体温を。
最終更新:2010年10月09日 16:53