(36)844 『静かな夜―Presentiment―』

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  コンコン――


「どうぞー」

読んでいた本に栞を挟みながら、高橋愛は自室の扉の向こうに向かって声をかけた。

  カチャ――

一瞬間があってから、先ほどのノックの音と同様にどことなく遠慮がちな田中れいなの顔が、「おじゃまします」という小声と共に扉の隙間から覗く。

「どうしたん?れいな。何か言い忘れたことでもあった?」

手にしていた本を机の上に置き、愛は微かに首を傾げた。

「ん、そういうわけやないっちゃけど……愛ちゃん、明日ゴメンな。急なこと言って」
「ああ、それは気にしなくていいってば。全然休んでもらえんくて逆に申し訳ないくらいなんやから」

気まずそうな顔のれいなに愛は笑顔を返す。

「明日は臨時休業にしてあーしも休ませてもらうわー。それに愛佳がテスト勉強しに来たいとか言ってたから静かでちょうどいいし」

次いで、いまだ扉に挟まれたようになっているれいなを「いつまでそんなとこにおるん」と笑い、部屋の中へ招き入れた。
再度「おじゃまします」と呟きながら、スウェット姿のれいなは愛の部屋におずおずと足を踏み入れる。
扉は閉めたもののそれ以上入ってくるのをためらうような様子のれいなに、愛は立ち上がって歩み寄りながら話を続けた。

「明日は他のみんなもなんかかんかあるみたいだし、きっとびっくりするくらい静かやと思う」

光井愛佳と2人きり、客もみんなもいない静かな店内にサイフォンの音だけが響く様子が脳裏に浮かぶ。
そういえば、天気予報では明日は雨と言っていた。
きっと、外の雨音さえも大音量に聞こえるほどの静かな一日になるだろう。


「なあ……愛ちゃん」
「ん?」

気がつくと、少し強張ったようなれいなの顔がすぐ目の前にあった。

「愛ちゃんはさ、もし……もしもの話やけんね?もしも自分が犠牲になることでみんなが幸せになれるとしたら……その道を選ぶと?」
「………どうしたん?急にそんなこと。何かあった?」
「あ、いや、やけんもしもの話やって。……ただ、前々から考えとったこというか……なんか愛ちゃん見とーとそんな風に見えるときがあるいうか……」
「……そんな風に……そっか……」

何度も視線を逸らすようにしながらそう言うれいなに、愛は瞬時言葉を失った。
だが、すぐに元の笑顔に戻ると、両手を目の前にあるれいなの肩にかけ、ぐっと抱き寄せる。

驚いたような吐息を漏らすれいなを抱きしめたまま、愛はその耳元で小さく…しかし力強い口調で囁いた。

「…もしもそんな場面に出遭ったときに自分がどんな道を選ぶかはあーしにも分からん。やけど…これだけは約束する。れいなを一人にするようなことはせんから。――絶対」
「愛ちゃん……」

れいなの華奢な体に回した手にもう一度力を込めた後、愛は体を離した。

「だかられいなも約束して?自分だけで何もかもを抱え込んだりしないで。れいなはもう一人じゃないんだからさ」
「………うん。わかった。約束するけん」

やや朱の差した真剣な顔でうなずいた後、れいなは「急にヘンなこと言いよってゴメン」とぎこちない笑いとともに謝った。
そして照れ隠しのように「おやすみ」と短く言い、そそくさと部屋をあとにする。


その華奢なスウェットの背中が出口をくぐり、小さな音を立てて扉が閉まった後も、愛は「おやすみ」を返したままの姿勢で静かに立ち尽くしていた。

れいなの言葉を、そして自分の言葉を自分で噛み締めるように――――