698 :赤と緑と黒の話 第一話 ◆BaopYMYofQ :2010/04/03(土) 23:18:18 ID:TxU08vCn
「赤ちゃんができたの」 
午後6時、誰もいない教室。教卓越しに俺の目の前に立っている、小柄な女子生徒はそう言った。 
静寂。正午から降り始め、今はもう土砂降りとなった雨の水音と、俺自身の息を飲む音だけが聞こえる。 
「………冗談、だよな?」 
俺は静寂を裂き、喉の奥から搾り出すように小さく喋る。 
だが背中には冷たい、嫌な汗の感触。心拍数がしだいに上がっていくのがよくわかる。 
「本当よ。今、三ヶ月だって」 
彼女-朝霧 湊はしかし俺の目を、光を宿していないような瞳でじっと見つめてそう答える。 
愛おしそうに自らの腹部をさすり、頬を赤らめながら湊は微笑んだ。 
「私、産むよ。先生との子供」 
「な、なにを…」 
「名前、何がいいかなぁ? 先生も一緒に考えてね?」 
その言葉を聞いて俺は、今すぐにこの空間から逃げ出したい気持ちに襲われた。 
だが膝が笑って、動けない。湊は教卓に手をつき、つま先立ちになって顔を近づける。 
今時珍しい、日本人形のような美しい黒髪。パーツの一つ一つが無駄なく洗練され、思わず背筋がぞくりとしてしまいそうなくらい美しい顔立ち。 
体の無駄な部分には脂肪はまったく無い。しかし女性特有の膨らみはしっかりと有しているその身体を、俺はよく知っている。 
なぜなら俺は、朝霧 湊の担任であり…同時に、生徒…湊と身体の関係を持ったからに他ならない。 
「先生の名前は十六夜 刹那。私は朝霧 湊。…うーん、二人の名前からとるのは、難しいね」 
呆然と立ち尽くすだけの俺を残したまま、湊は語る。 
「うふ、先生も一緒に考えてね? この子の名前」 
冷や汗は掌の中にもかき、体感気温が5度は下がったような感覚だ。 
仮にもしあの時、あの瞬間に戻れるなら、俺は全力で俺自身を止めただろう。 
だが実際にそれは不可能なわけで、取り返しのつかない事態であることを嫌でも実感させられる。 
湊の双眼は限界まで開かれ、食い入るように俺の顔を見つめる。まるで「逃がさない」と言わんばかりに。 
なぜだ。どうしてこうなった。…決まっている。出会ってしまったから。 
俺と湊との距離が近すぎたから。そして、互いに惹かれあってしまったから。 
699 :赤と緑と黒の話 第一話 ◆BaopYMYofQ :2010/04/03(土) 23:19:34 ID:TxU08vCn
###### 
2009年、9月1日。夏休みも明け、さっそく授業が始まる。学生にとっては憂鬱な日(少なくとも、俺にとっては)だが、教員という職に就いて四年も経ってしまえば、自由気ままに過ごす学生たちを見て懐かしくもあり、うらやましいと思えてしまうものだ。 
俺は今年度は1年5組の担任に割り当てられている。相も変わらずガキくさい生徒の集まりであるが、今年度はさらに、本校歴代でもトップクラスの成績を誇る女子生徒が一人。…ただし、授業態度は最悪。 
毎時間決まって耳にイヤホンを差して机に突っ伏して眠るそいつは、曜日によって髪型を変えることでも有名だった。 
だが提出物、定期テストはすべてパーフェクト。ゆえにケチのつけようがない。 
昔とは変わってしまった成績付けのシステムのせいで、関心意欲態度が悪くても他が完璧なら5、最悪4が取れてしまうのだ。これもゆとり教育の賜物か。 
それだけでなく、変装して登校している現役アイドル、なんてのもいる。こいつは授業態度も成績も中の上くらいで、才女サマに比べればまだ可愛いげがあるってものだ。 
そして9月からは、外部からの編入生が我がクラスにやってくる。そいつこそが朝霧 湊である。 
湊は朝早くから職員室に訪れている。今日一日の流れを簡単に説明してやり、ホームルームの時間になったら一緒の教室まで向かう手筈だ。 
一応湊には、どの部活動に入りたいか、などと世間話レベルで尋ねてはみた。もし入部するなら、いろいろと根回しをしてやらなければならないからだ。 
だが湊はよりにもよって、「茶道部に入りたい」と答えた。 
残念ながら茶道部は俺が赴任する直前に廃部になった。しかし、茶道部室はそのままで残っており、十分な清掃、茶葉などがあれば一応は再開できる。 
湊は以前までいた高校でも茶道部に属しており、どうしても続けたい、と懇願してきた。さらに面倒なことに、その話を副校長が聞いていたのだ。 
副校長はわりと情にもろく、お涙頂戴さえすればイエスマンと化すのは周知の事実、暗黙の了解である。そうなればたとえ部員が湊だけだとしても、茶道部の復活は確定。顧問は…おそらく俺になるのだろう。 
頭をぽりぼりと、痒いわけでもないのに掻き、ため息をつく。俺は英語教師だ。なのになぜ日本の和の文化をレクチャーせねばならんのだ。 
いや、別にレクチャーをするとは限らないが……まあ担任だし、諦めることにした。 
そうしているうちにホームルーム開始のチャイムが鳴る。だがチャイムから5分は遅れて開始されるのはこの学校ではごく当たり前である。 
「んじゃ…行くとしますか、朝霧」 
「は、はいっ」 
5組の1時間目は英語。俺は教材と出席簿を抱え、職員室を後にした。 
ホームルーム。 
朝霧には廊下で少しだけ待ってもらい、俺はかしましい生徒共に、席につくよう促した。 
「こら水城、さっさと座れー。桐島がいいかげん迷惑そうにしてるぞ」 
「ちぇっ……真司、また後でねぇ」 
我がクラス随一の問題児が渋々と座席に戻ったのを皮切りに、クラスの騒がしさは終息を迎える。これがいつもの風景だ。 
「今日はみんなにいい報せだ。今日から転校生が、うちのクラスに仲間入りする」 
「せっちゃーん! それ女子か?」 
いかにも女好きそうな、軽薄そうな見た目の男子生徒がそう尋ねる。 
「まあ見ればわかるだろ。…朝霧、いいぞ」 
俺は廊下にいる朝霧にドア越しに声をかける。朝霧はゆっくりとドアをスライドさせ、一歩一歩に緊張の色を見せながら教室内に入ってきた。 
同時に男子生徒たちの、息を飲むような声、ため息が聞こえる。さっきの軽薄そうな男子生徒も、言葉を失ったようだ。 
それもそうだろう。28年間生きてきて、色んな女を見てきた俺でさえ、思わず眼鏡がずり落ちそうになってしまったのだから。 
700 :赤と緑と黒の話 第一話 ◆BaopYMYofQ :2010/04/03(土) 23:20:29 ID:TxU08vCn
朝霧 湊は今時にしては珍しい、どこまでも"和"が似合いそうな美少女だった。 
その漆黒のビロードのような髪はひとつひとつ、毛先まで美しく、肌は陶磁器のような白さと赤ん坊のようなみずみずしさ。 
くっきりとした顔のパーツは一瞬、西洋人形を連想させる。だが柔らかく微笑む姿と、凜とした背筋、姿勢と合わせて全体を見ると、やはりドレスよりも着物が似合いそうだ。 
俺でさえついちらちらと目が向かいがちなのに、たかだか10代の男子高校生がカッコつけて口説き文句やジョークを飛ばしたりもできるはずがない。 
「私の名前は、朝霧 湊です。みなさん、よろしくお願いします」 
ごく普通の挨拶を済ませた湊。ちょうど秋津の後ろの席が空いていたので、ひとまずそこに座るように促した。 
うちのクラスには二人、いや三人といない一般女子同士の組み合わせ。ばか共の集まりのクラスで、うまくやってくれればいいが(まあどうせすぐ席替えなわけだが)。 
同日、放課後。どうやら朝霧は今日一日の授業をつつがなく終えたようだ。 
朝霧はホームルームが終わると生徒たちの好奇の目をなんとか振り切り、俺の元へやってきた。 
そのまま俺達は職員室まで戻り、茶道部室の鍵をとって部室へ下見に向かう。 
開錠してドアを開けると埃臭い空気が溢れてくる…と思ったのだが、中は意外と綺麗にしてあった。 
どうやら本校の事務員は、四角い角を四角く掃くことができるほどの人材のようだ。 
上履きを脱ぎ、狭い畳部屋に上がり込む。部屋の隅に置かれている壷のようなものは、湯を入れておくものなのだろう、と素人の俺でもわかる。 
その壷でさえぴかぴかと光沢があり、抜目なく磨かれたのだと察した。これなら、簡単な下準備で明日からでも開始できそうだ。 
準備の仕方なぞわかるはずもないが、そこは朝霧に教えてもらえばいい。どうせ顧問など、名前だけのポジションなのだから。 
「わぁ…すごく落ち着きます」 
「そんなに気に入ったのか、この部屋が」 
「はいっ。これなら明日にでも、先生に美味しいお茶をお出しできますよ」 
朝霧は、邪念など微塵も感じられない、無垢な笑顔で俺にそう言った。 
「そうか。それなら、明日が楽しみだな」 
701 :赤と緑と黒の話 第一話 ◆BaopYMYofQ :2010/04/03(土) 23:21:32 ID:TxU08vCn
そうして翌日へと話が飛ぶわけだが。 
やはり朝霧はホームルームが終わるとまっすぐ俺のもとへやって来て、茶道部室へと手招きする。 
鍵は朝霧に預けたし、朝霧は唯一の部員にして部長。勝手に始めればいいものを、と言ってみたが、 
「一人でお茶なんか飲んでも楽しくないですよ」 
キッパリと、反論されてしまった。 
結局朝霧は俺が職員室に教材と出席簿を置きに行く時でさえついて来て、職員室から出るやいきなり俺の手をとって茶道部室へと小走りで向かった。 
そんなに楽しみなのか、茶を飲むのが。と言ったら朝霧は 
「先生にも茶道の楽しさを知ってもらいたいんです」 
と言い返した。 
別に俺はそんなもの…と言いかけたが、あまりにも無邪気に微笑むものだから、口をつむるしかなくなってしまった。 
朝霧は茶道部室に入るとすぐ、俺に楽な恰好で座るように促してきた。 
正座でなくてもいいのかと尋ねたが、楽な恰好の方が美味しく飲めると言われ、なんとなく納得した。 
朝霧は早速、慣れた手つきで準備をする。茶道具と、おそらくお抹茶の入っているであろう筒と、茶菓子らしきものが鞄の中から出した風呂敷から現れる。 
例の壷の中を一度、水道の水でさっと洗い、それから2Lペットボトルのミネラルウォーターを鞄から出し、壷の中へどぽどぽと入れる。 
壷はどうやら電子ポットのようなものらしかった。数分待ち、朝霧は抹茶を椀に少しだけ入れ、杓で湯を入れて、泡立て器のようなアレでしゃかしゃかと泡立てる。 
それが終わると朝霧は椀を畳に置き、すっ、と俺に差し出した。 
これは、もう飲めるのか。なにぶん素人なもので、それすらわからない。だが朝霧はただにこにこ笑いながら俺を見つめるだけだ。 
沈黙は肯定、と俺は勝手に解釈し、椀を持って口元へ運んでみた。 
抹茶の濃い色と、意外と少ない湯の量が、口に含んでもないのに苦味を連想させる。だから俺は、最初のひとくちはがっつかず、少しだけにすることにした。 
口の中にはたちまち抹茶のほろ苦さと、良い香りが広がる。なるほど、これは安物のブラックコーヒーなどとは比べものにならないほど、格段に美味い。やはり最初のひとくちの量を抑えたのは正解だった。 
ほど好い苦味が口の中に広がると今度は、甘味が欲しくなった。なるほど、この練り菓子はそのためのものか。 
多分そのまま食うよりも、抹茶を一口飲んでから食べた方が甘味がより深く広がるだろう。スイカに塩、トマトに砂糖を盛るような感じか。逆の味がするものを少し食べてから、あるいはそれを一緒に食すと味が際立つのと同じだ。 
「どうですか、先生?」 
朝霧はなおも笑顔を絶やさずに俺に尋ねた。俺は用意された練り菓子のひとつを手に取り、ひとかじりしてこう答えた。 
「結構なお手前で、ってやつか?」 
それからしばらくは、午後の陽気とほどよく暖かい空間で色々なことを話した。 
以前の学校での朝霧のこと。俺のちょっとした昔話。うちの高校について。気がつけばあっという間に5時になっていた。 
そろそろ切り上げるか、と俺が持ち掛け、朝霧はそれに同意。部活の日割などの話は結局忘れていたが、明日以降でも構わないだろう。 
今日のところは朝霧をさっさと帰すことにした。 
702 :赤と緑と黒の話 第一話 ◆BaopYMYofQ :2010/04/03(土) 23:23:03 ID:TxU08vCn
###### 
茶道部の活動日は毎週水曜に決まった。以前あった茶道部の活動日は月水金だったのだが、なにぶん部員がたった一人。 
顧問の俺を入れても二人。それに俺も仕事があり、そんなに暇なわけではないので、週一回にしたのだ。まあこの辺は、部員が増えてから調整してもいいだろう。 
と思ったものの、早くも2ヶ月が経とうとしていた現在、部員は相変わらず一人だけだ。 
ハロウィンを三日後に控えた水曜日。俺はいつものように湊が立てる抹茶を飲み、和菓子をつまむ。 
抹茶を回し飲みする、という事を知った時は少し驚いた。それまで俺は、一人分ずつ煎れるものだと思っていたから。だが、それももう慣れた。 
湊はいつも俺に先に飲ませ、それから自分で飲む。それはもはや当たり前の風景となっていた、と思ったのだが、 
「そういえばこれって、先生と間接キスしてるんだよね」 
などとぬかすものだから、つい眼鏡がずり落ちそうになってしまった。 
「こ、高校生にもなって、そんなもんいちいち気にするなよな。俺がガキの頃なんか、ペットボトルの回し飲みなんて当たり前だったぞ」 
「嫌、ってわけじゃないんだよ? ただ、前の高校の茶道部は女子生徒しかいなかったから…ちょっと、どきどきしたというか…」 
「今"も"女子生徒しかいないだろ?」 
「もー、それは言っちゃだめだよ」 
湊の話し方は、俺に対してはずいぶんと砕けたものになった。 
俺がもともと、敬語を使われるのが苦手だったので、気軽に話せばいい、と湊に言ったのがきっかけだ。 
それからは湊の表情はさらに柔らかくなったと思う。堅苦しさも失せ、今みたいにけらけらと笑う姿は、快活でとても好印象だ。 
その笑顔につい俺も、目が惹かれてしまう。湊が俺の視線に気づく前に目を反らし、俺は練り菓子を手にとる。 
甘味を口に含むと、今度は眠気が襲ってきた。なにしろ、茶道部室の中はほど好い湿気と温度、畳の香りが合わさる癒し空間。眠くなるのも無理はない。 
実際、今までに何度か昼寝をしたこともあった。その時は湊が適当な時間で起こしてくれるのだが。 
「わり、ちょっと寝るわ」 
「うん。あ、膝枕してあげよっか?」 
「ありがたい誘いだが、遠慮しとくよ。…おやすみ」 
こういう時、畳というものは便利だ。フローリングの床と違って、身体が痛くならないからな。 
心地好い温度の中俺は畳に横たわる。そのまま意識が夢の世界に落ちるのには、さほど時間はかからなかった。 
703 :赤と緑と黒の話 第一話 ◆BaopYMYofQ :2010/04/03(土) 23:24:06 ID:TxU08vCn
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石鹸だろうか。良い香りが鼻につく。身体も妙に暖かく、ずしりとなにかの重さがかかっていて、心地好い。 
眠りから覚めると部室内はなぜか薄暗かった。窓の外を見ると、太陽は沈んでしまったようだ。 
…っておいおい、今何時だよ? 俺はポケットから携帯を取り出し、サブディスプレイで時刻を確認してみる。…7時、だと? 
慌てて俺は、身体を起こそうとする。その時ようやく、身体に、特に左腕にかかる重さの正体がわかった。 
「…湊?」 
なるほど…湊も眠ってしまったのか。まあ仕方ない。俺だけ寝といて、湊に「寝るな」とは言えないからな。 
とは言え、湊に起こされるのを期待していたのは確かだ。そこは自業自得か。とりあえず、帰らないとな…。 
「あ…先生、おはよ…」 
湊が目を覚ましたようだ。むにゃむにゃと眠そうに喋る湊もまた、なかなか可愛らしい。…一応言っておくが、単純に褒めただけだぞ? 
「今何時ですかぁ…?」 
「7時だ」 
「しち、じ…えっ! 先生、大丈夫なの!?」 
「あー、気にするな。どうせ運動部の奴らもまだ残ってるだろ」 
「そうかぁ…ごめんなさい」 
「謝るなって…いてて」 
どうやら湊は俺の左腕を枕にして眠っていたようだ。肩から先の感覚が麻痺していて、動かそうとするとじーん、と痺れる。 
おいおい、こんなもん枕にしたって、安眠は保証しないぞ? 
というか、部室内は電気が点いておらず、真っ暗だ。うっすらと湊のシルエットは見えるが、その美しい黒髪は今はステルス機能を発揮している。 
「湊こそ大丈夫か? 首、寝違えたりとかしてないか?」 
「平気だよ。むしろ、よく眠れた」 
「はは…そうかい」 
とりあえず俺は部室内の電灯を点けるために立ち上がった。しかし寝起きで眼がぼやけ、暗闇なのもあって、スイッチがなかなか見つからない。 
壁にそって手探りすれば見つかるだろう、と俺は考え、壁に近づこうとする。だが… 
「っ!?」 
何かに蹴っ躓いて、バランスを崩してしまった。 
どさっ、と倒れ込む。ぎりぎりで床に手をつき、畳との正面衝突の回避には成功した。 
704 :赤と緑と黒の話 第一話 ◆BaopYMYofQ :2010/04/03(土) 23:24:46 ID:TxU08vCn
いったい何に蹴っ躓いたんだ? 俺は足元をちら、と見てみる。 
徐々に暗闇に目が慣れてきた今なら、判別が可能だ。どうやら湊の鞄に蹴っ躓いたようだった。 
ふぅ、とため息をつき、右手に力を入れて立ち上がろうとする。左手は未だ麻痺しているため、なるべく右手に意識を集中した。 
すると、右手の先につるつるとした感触を覚えた。上質の絹を触ったときのような感覚だ。だがこの部屋にはそんな布はなかったはず。ただひとつだけ、心当たりがあった。 
「…先生?」 
俺の真下から、俺を呼ぶ声がする。その時俺は、初めて今の状況を把握した。 
倒れ込んだとき、ちょうど湊を押し倒したような格好になってしまったのだ。 
俺は慌てて、湊の上から離れようとする。だが、ぱっちりと見開かれた湊と、目があってしまう。その瞳の奥に潜む何かに吸い込まれそうな気がした。 
ふっ、と湊が優しく微笑んだのがわかった。俺は、無意識のうちにその口元にゆっくりと顔を近づけ…口づけてしまっていた。 
「………………………悪い」 
謝るくらいなら最初からするなよ、と自分に言いたい気分になった。たぶん、湊もそう思っているのだろう。 
そんなことより…俺はいったい何をやってんだ。相手は生徒で俺は教師。しかも半ば強引?にキスするなんて。 
「いいよ」 
だが湊は笑顔を崩さずに、そう言った。 
「嫌じゃなかった。先生だから、いいよ」 
「何言ってんだ。そんなのいいわけ---」 
「いいの。ねぇ、もう一度…」 
…なんだと。誘っているのか、俺を? 
…いかん、乗ってはいけない。俺は教師だ。そんなこと、してはいけない。 
たとえどんなに湊の唇の感触が気持ち良かったとしても、してはいけないんだ。俺は必死にそう自分に言い聞かせ、自制を試みる。 
そうしなければ、もう一度口づけてしまいそうだったから。 
「…もう帰るぞ」 
そう吐き捨てるのが、俺の精一杯だった。 
だが今ならはっきりとわかる。俺の、そして湊の人生が変わってしまったのは、紛れもなくこの瞬間なのだと。 
最終更新:2010年04月04日 02:35