OUTside-1

OUTside vol.1


咽びそうになる悪臭に耐えながら、憂はゆっくりと唯の下着を下ろした。
溜息と共に、憂は呟く。
「眠っている時ならまだしも、どうして起きている時に漏らすのかなぁ」
溜息の事では無い。唯の排泄物の事だ。
唯は大小を問わずに漏らしてしまう。
知能に障害を持つ唯にその処理をさせてもより悲惨な結果を招く事は明白なので、
憂が下着交換の世話をする事が習慣として成立していた。
「きゃきゃきゃっ」
「褒めてるんじゃないよ、お姉ちゃん」
 嬉しそうにはしゃぐ姉を窘めるが、効果があるかは甚だ疑問である。
実際に、唯の顔に反省は見受けられず、快適そうに目を細めて喜んでいる。
(ああ、汚れたオムツが綺麗になるのが気持ちよくて笑ったのか)
 憂の言葉を受けて笑った訳ではない事に気が付いた。
下着と言っても唯の場合、オムツを着用している。
そのオムツの調達コストも中々に無視できない。
唯は幼児でも老人でも無い為に、
スーパーで売っているような幼児用・老人用ではサイズが合わない。
もし唯が尿のみを漏らすのであれば、
中学生以降を対象にした夜尿症用オムツで代替する事はできた。
その商品なら近所のドラッグストアにも売っている。
だが脱糞も頻繁にするので、その方策も使えない。
やむを得ず障害者用に設計されたオムツを使用しているのだが、
少量生産故に固定コストの按分効果が弱い。結果、値段が高めに設定され、
加えて近所のスーパーでもドラッグストアでも売っていない為に
注文する手間さえ踏まなければならない。
(何とかならないかなぁ。お金も時間も掛かるし)
 愛する姉の為なら労を厭わない憂であっても、
流石に排泄に関わる世話は好きとは言い難かった。
排泄に対する手間もコストも抑えたかった。
(何回もトイレの使い方の指導はしてるんだけどな……)
 唯のオムツを替えながら、再度となる溜息が漏れた。
何度教えても唯はトイレで排泄を行ってはくれない。
知的障害を持つ姉故、寝ている時に漏らしてしまう事は仕方が無いと割り切っている。
しかし起きている時くらいは、せめて自力で排泄して欲しい。
(赤ちゃんを相手にするより難しいかもしれない。
お姉ちゃんの持つ障害は重度過ぎて、他の障害者のようにはいかないんだし……)
 オムツを替え終わった時、ふと憂は気付く。
(赤ちゃん?そうか、赤ちゃんの躾を参考にすれば……)
 憂の頭に閃くものがあった。
(そうだ、アレを使えばいいんだっ)
「あうー、ゆいのパンツ、綺麗綺麗。きゃきゃきゃっ」
 晴れていく憂の心を代弁するように、唯が喜びを露わにしていた。
その唯に視線を投げかけながら、憂は決意を告げる。
「お姉ちゃん、下着が新鮮だと気持ちいいでしょ?
ちゃんと自分でトイレができるようにしてあげるからね。
そうすれば、その快適さをずっと味わう事ができるよ」
「あうー?」
 憂の言う事が理解できなかったのか、唯は訝しげに首を傾げた。
だが意味が伝わらずとも構わない。躾などと云うものは、習慣として身体に覚えこませるものであって、論理として理解させるものでは無いからだ。

「ただいまー」
「あーうー」
 買い物から家に帰った憂を、間の抜けた声が迎える。
その声音には不満の色がありありと表れている。
「あれ?お姉ちゃん起きちゃってたんだ」
 今日は買い物に行く為に唯を敢えて起こさずに、そのまま家を出た。
買い物に唯を連れて行く事は度々あったが、
本日はいつもの買い物コースから外れる為に、大事を取って唯を連れて行かなかった。
(朝起こさずに放置しとけば、大抵昼過ぎまで寝ちゃってるんだけどな)
 今日はその”大抵”から逸れる日に当たったようだ。
「あうーっ。ゆい、お腹減った。
むふぅー」
 酷く不機嫌なのは、朝食を取っていない為であろうか。
(お姉ちゃんの部屋に朝食置いてたんだけどな。
バナナとトースト、それにポテトサラダ。
目立つところだから、すぐに気付くと思うけど)
 憂はその疑問点を唯に確かめる。
「お姉ちゃん、朝ごはん食べなかったの?」
「ゆい、たべた」
「でも、足りなかった?」
「あうっ」
 勢いよく首を縦に振り、肯定の意を態度で以って示す唯。
彼女は語彙が著しく少ない為、このようにジェスチャーで意思表示をする事が度々あった。
「ごめんね。もう少しでお昼の時間だから、もうちょっと我慢してね?」
「やーっ。ゆい、今食べたいのー」
「我侭言っちゃダメ。あ、そうだお姉ちゃん。
お漏らしは大丈夫?」
 朝起きた時、大抵唯の下着は汚れている。
「うー、パンツ汚い汚い」
 珍しく昼前に起きた唯だが、こちらは普段通りらしい。
「取り替えないとね。
漏らしたのはうんち?それともおしっこ?」
 排泄物の俗称を憂が口に出す事は、唯を相手にしている時くらいだ。
答えは聴くまでも無く予想できたが、敢えて訊ねた。
知的障害者に限らず語彙の少ない相手とのコミュニケーションは手間がかかり、
それ故におざなりになってしまう事が多い。
だが愛する姉との会話を大切にしたいと考えている憂にとっては、
その手間にすらメリットを見出せる。
会話時間が長引くという効果があるからだ。
「りょうほう、ぐちゅぐちゅしてきもちわるい」
「そっか。寝転がって?
今綺麗なのに変えるから」
「やだー。ご飯くれないとやだー」
 唯は駄々をこねた。
下着内で澱む排泄物が不快なのにも関わらず、彼女は食欲を優先していた。
普通の人間ならば、排泄物の感触に晒されながら食事をする事に
抵抗を覚えるが、唯はお構い無しだ。
「我侭言っちゃダメ。今は飴あげるから、それで我慢して?ね?」
 ポケットから飴を取り出すと、唯に与える。
「あうー、今はこれでがまんするー」
 我慢、という言葉を使いながらも唯は嬉しそうにはにかみ、横になった。
憂は古いオムツを外し、臀部や性器周辺を綺麗に拭くと、
新しいオムツを装着した。
「ういー、ごはんー」
「もうちょっと待って。まだお昼ご飯には少し早いから」
 唯の欲望を優先させてあげたい、それが憂の本音だ。
だが、唯の心的満足ばかり考えて健康面に対する配慮を欠かしたくはなかった。

「あ、そうだ。お姉ちゃんにお土産があるんだよ?」
「あう?おみやげ?」
 唯は興味を引かれたらしく、爛々と光る瞳を憂に向けてきた。
唯を相手に話題の転換は容易い。
別の魅力あるものを提供してやれば、そちらに注意が向くからだ。
尤も憂のその発言の意図を『話を逸らした』と形容するのは些か正鵠を欠く。
憂の今日の買い物の目当てはその『お土産』であり、
唯にそれを使わせる事が目的であるからだ。
話を逸らした、ではなく、メインとなる話を始めた、という表現が正しいのだろう。
話題が変わったのは単なるタイミングの問題でしかない。
「そ。これよ」
 憂は箱からそれを取り出す。
「豚さんだー、きゃきゃきゃ」
 憂が取り出したのは、可愛らしい豚のキャラを象ったポータブルトイレ、
所謂おまると呼ばれるものだった。
食べ物以外には殆ど興味が無く、お土産と聞けばすぐに食べ物を想像する唯ではあるが、
豚は好きな動物である為に津々と好奇の目をポータブルトイレに向けている。
「お姉ちゃん、次からはおしっことうんちはこれにしてね?
ここに窪みがあるでしょ?ここにするのよ」
「あう?豚さんにうんちかけるの?むー」
 唯は逡巡する仕草を見せた。
一応、排泄物が汚いものであるという認識はあるらしい。
「この豚さんはね、お姉ちゃんのうんちとおしっこがご飯なの。
豚さんに餌をあげないとね、お姉ちゃん」
(よーく考えたら獣姦スカトロプレイ……どんだけマニアックなプレイよ)
 いくら知的障害者に対する説明とは言え、
憂は自身の喩えの品性の無さに我ながら呆れ返った。
 だが、唯には効果覿面だった。
「次からは豚さんにご飯あげるー、ゆい偉い偉い、きゃきゃきゃっ」
憂の説明を真に受けた唯は、満悦そうに目を細めて笑っている。
「じゃ、お姉ちゃん。次に排泄したくなったら……」
それでは通じない事にすぐに気付いた。
慌てて俗なワードへと換言する。
「次にうんちやおしっこしたくなったら、言ってね。
使い方教えるから」
「だー」
「ちなみに……今は大丈夫?」
「あう?なーにが?」
 確かに憂の発言には動詞も目的語も欠けていたが、
直近の話題から排泄の必要性に係る問いである事は明白だった。
だが唯にはそういった推測を行うだけの知能が無い為に、一々説明し直さなくてはならない。
省略した事は迂闊故だが、憂は殊に失策とまでは感じていなかった。結果として、愛する姉との会話が増えたのだから。
「おトイレ、今は特にしたくない?」
「うんっ、いまだいじょーぶ」
 だが新陳代謝が活発であり大量に食物を摂取する唯の生活習慣上、今日中にもう一度排泄欲求を訴えてくるだろう。その時にでも教えればいいと憂は考えた。

(取り合えず、今は洗濯物を干そう。
そしてお昼ご飯作って……でもお昼食べたら、お姉ちゃんお昼寝しちゃうからな。
その時に漏らさなければいいんだけど。
いや……)
 別に排泄の必要がなくとも、フォームを教える事はできる。
憂はそう考え直した。
何も唯の排泄のタイミングに合わせる必要は無いのだ。
(仮にその時にお漏らししても、大丈夫ね)
 憂は幾分気楽な気持ちになって、洗濯物を干しに向かった。


昼食を食べ終わった後、案の定唯は昼寝をしてしまった。それは毎日の習慣の上、今日は唯にしては早起きだった為、憂にとっても織り込み済みの事態ではあった。
「うあ?うい、おやつー」
 家事が終わって部屋で読書をしていた憂の耳に、唯の声が届いた。昼寝から目が覚めたらしい。
自分の部屋を出て、唯の部屋に向かう。
「お目覚め?お姉ちゃん」
「おはおー。おやつー」
「その前にお姉ちゃん。ちょっといいかな?」
「う?」
 憂は唯を立たせると、下着をチェックした。
(漏らしていない、か。珍しい)
 三回にニ回程の割合で、昼寝した時に唯は尿を漏らしていた。
それが無かった事に憂はひとまず安堵する。
「お姉ちゃん、その前に豚さんにご飯あげよっか」
「あう?ゆい、今うんちでない。
ういがご飯あげる」
 憂は面喰った。
幾ら姉の指示とはいえ、それは従い難い。
「お姉ちゃんのが欲しいんだって。
おしっこは?」
「だー、そっちならだせるー、きゃきゃきゃっ」
 唯は嬉しそうにはしゃいだ。
できる事があるから嬉しいのか、
豚が自分の排泄物を欲しがっている事が嬉しいのか、憂にすら判別が付かない。
「じゃ、あげようか」
「あげるー」
 既にポータブルトイレは唯の部屋に移動させてある。
唯に下着を下ろして窪み部分に跨るように指示するが、
その程度の説明ですら理解できないのか唯は首を傾げるだけだった。
(仕方無い、実践するか)
実践といっても、実際に排泄までするわけではない。
跨るまでの動作を行うだけだ。
それだけでも十分に抵抗があるが、これも教育の為と己に強く言い聞かせた。
 下着を下ろす時にも、激しい心理的葛藤があった。
唯をお風呂に入れる際にも、自身の性器を晒した事は無い。
下着を下ろした際、唯の好奇の目が憂の性器に注がれた。
フォームを見せて真似させる関係上、唯に『見ないで』という指示を出す事もできない。
憂は激しい羞恥の念に頬を染めあげた。

 一部分──憂の性器──からのみ視線を逸らして全体を俯瞰して
フォームを理解するよう指示を出す、
という手段も使えない。唯にそのような複雑な命令を理解し実践するだけの
知能など備わっていないからだ。
また、下着を着けたままフォームだけ見せるという事もできない。
『お姉ちゃんがするときはオムツを外してね』と指示を出しても、
それを忠実に実践してもらえるかが怪しい。
恐らく、憂と同じように下着を着けたまま跨って、用を足す事だろう。
それでは結局下着が汚れるので、ポータブルトイレの意味が無くなる。
そもそも、見本を見せたところで唯がそれを模倣できるかどうかすら怪しいのだ。
少なくとも一回や二回では習得できないだろう。
それだけに見本はシンプルかつ同一の動作である必要があった。
 羞恥に顔を赤らめる憂に対し、衝撃的な唯の一言が見舞われた。
「ういのココ、きれーでかわいー、きゃきゃきゃきゃっ」
唯は人差し指で憂の性器を示しながら、楽しそうに告げたのだ。
「お…お、お姉ちゃんっ」
 染まる頬の赤は朱となり、耳にも色混じらせ赤く染め上げる。
(な、何て事をっ。恥ずかしいよぉ、でも……)
 羞恥だけでは無く、歓喜の念も感じていた。
自身を女たらしめる象徴に対して、綺麗で可愛いという形容が為された。
それも愛する愛する唯からのメッセージだ。
もし今一人だけになれたのなら、身体全体で狂喜を表現していただろう。
 勿論、唯が性的な意図を込めて発言したわけではない事も分かってはいる。
唯の下腹部は下着内に放たれる排泄物で汚れる事が多い。
それと比較しての形容である事くらい、憂にも察しはついている。
それを理解していてすら、ねっとりと身体を嬲る異常な反応を制御する事ができなかった。
「そ、それでお姉ちゃん。こ、こう跨るの」
 幾分吃音気味になりながらも、憂は動作を続け解説を繰り出す。
浸っていたいところだが、今は唯の教育の真っ最中だ。
脇道に逸れて唯の集中力を乱す事は、賢い選択とは言い難い。
「あうあう」
「そしてこの状態で、排泄……うんちやおしっこを出すの。
分かったかな?
じゃ、やってみよっか」
「だー、ゆいもやるー」
 唯は他者の真似をしたがる傾向があった。
今回も憂の行為に興味惹かれる所があったのか、憂の指示を快諾した。
 だが唯は下着を下ろさずにいきなり豚に跨ってしまった。
憂は慌てて止める。
「ストップ。お姉ちゃん、そうじゃないでしょ?
まずはズボンとオムツを下ろすの」
 もう失念してしまっているらしい。
それとて本来ならば唯との会話を長引かせる契機となり、
憂にとって喜ばしい事のはずだが、今回は手早く終わらせたかった。
(お姉ちゃんが変な事言うから……)
滾る情欲を発散させ、疼く体を一刻も早く鎮静させたかった。
「あう、ゆいパンツ下ろす下ろす」
 唯は指摘された通りに下着とズボンを下ろすと、
憂と同じように豚型ポータブルトイレに跨った。
「凄いじゃない、お姉ちゃんっ。天才よっ。
偉い偉い、凄いですねー、お上手お上手」
 憂は大袈裟に褒めそやして頭を撫でた。
健常者相手に同じ事を行えば、それは侮蔑の態度となろう。
だが唯が相手の時には、逆に効果的な懐柔方法となる。
現に唯は「きゃきゃきゃ」と喜んでいる。
基本的に知能に問題を持つ者を相手にする時は、真っ向から否定してはならないのだ。
肯定的態度で以って接しなければ、連鎖的なトラブルを招く。

「あうー、ゆいじょーずじょーず、きゃきゃきゃきゃ」
「うん。そのまま、おしっこするの。
うんちしたい時はうんちするの。
確かおしっこは出るんだよね?やってみよっか」
「あーい、ゆいおしっこ、ちゃー」
 憂の指示を受けて上機嫌に擬声語を発しながら、
唯は恥らう素振りを欠片も見せずに放尿した。
勢いよく射出された尿は樹脂を激しく叩き飛沫を散らせるが、
床にまで跳ねる事はなかった。
「きゃきゃきゃっ、豚さん、おいし?」
 憂は豚の顔に耳を近づけた。
「あっ、美味しいぶー、だって。
良かったね、お姉ちゃん」
「だーっ、きゃきゃきゃきゃ、ゆい、おりこー?
豚さん、ゆいのことすき?」
「あ、お利巧さんだって。お姉ちゃんの事好きだって言ってるよ」
「きゃきゃ、ゆいおりこーっ。ゆいおといれじょーず、じょーず。
ゆいのおしっこおいし、ゆいはおしっこじょーずじょーず、きゃっきゃっ」
「うん、良く出来ましたー。
うんちも出来るようになるといいね」
「あうー、ゆい、うんちも豚さんにあげるあげる。
でも今出ない、うーうー」
「あ、今はお姉ちゃんのおしっこ貰ったばっかりだから、豚さんも大丈夫だよ。
したくなったらあげようね」
「うんっ」
 素直な返事が返ってきたが、憂は分かっていた。
今は付きっ切りで指導して、しかも憂が手本を見せた直後だから出来ただけだと。
次から自力で用を足せるだけの学習能力を期待してしまう事は、
唯に対する過信でしかない。
何度も何度も根気よく行わせ、習慣として定着させるしかなかった。
「ういー、ゆいおしっこした。だからおやつ」
(あ、そうだった。おやつの時間ね)
「すぐに出すから、キッチンに来て」
 唯は与えられたケーキを手づかみで美味しそうに、
だがスポンジやクリームを零し零し不器用に食べている。
上機嫌なのか、時折嬌声が咀嚼音に織り交ざっていた。
唯が食す事に夢中になっている隙に、憂はそっとキッチンを出た。
 そのまま自室に入ると、鍵を掛けてベッドにその身を横たえる。
(お姉ちゃんが……ここ、綺麗だって、可愛いって、言ってくれた)
その部分に手を触れると、生暖かい粘液が指に絡む。
未だに発言した時の唯の表情も声も思い出せる。
そして思い出すだけで呼気荒くなり、情欲が身を突き抜けた。
(弄くって発散して鎮めないと……)
 憂は指を激しく動かした。
容赦の無い動作で。遠慮の無い速度で。慈悲の無い力で。
壊すような衝動が静まる頃には、既に夕餉の頃に差し掛かっていた。


それから一ヶ月が過ぎた頃、
漸く唯はポータブルトイレの使用にある程度慣れてきていた。
”ある程度”と修飾されている理由は、未だ覚醒時に下着を汚す事があるからだ。
二回に一回程の割合でしか、唯はポータブルトイレで用を足せていない。
そして睡眠時には、何らの改善も無く毎日々々排泄物で下着を汚していた。
 それでも覚醒時ですら毎度々々排泄物を下着内に放っていた以前を考えれば、
進歩と言えるのだろう。
事実、憂は唯の進歩を喜んでいた。
これから更にポータブルトイレを使用する割合を増やしてくれれば、
唯の成長にもなる上に憂や家計の負担軽減にも繋がる。
憂は上機嫌で唯を褒めそやした。
「お姉ちゃん、おトイレ上手になったよね」
「あう、ゆい、おといれじょーずじょーず」
「豚さんも満足そうだね」
「豚さんもゆい、いーこいーこ」
「そうだね、きっと豚さんもお姉ちゃんの事、いい子だと思ってるよ」
「みんなもゆい、いーこいーこ、じょーずじょーず」
「うん、お姉ちゃんの事、皆凄いって思ってるよ」
「きゃきゃきゃきゃっ」
 満足そうに笑う唯を見て、憂の心にも歓喜の念が押し寄せた。
 その時、ポケットの携帯電話が着信を知らせる電子音を響かせた。
「あう?」
 唯が津々とした興味を憂に向けた。
「ん、ちょっとごめんね、お姉ちゃん。
電話出るから静かにしててね」
 ディスプレイには田井中律の名前が表示されている。
憂は躊躇する事なく電話を取った。
田井中律は憂の通う桜ヶ丘女子高等学校の先輩であるが、
高校入学前から彼女とは知己となっていた。
唯は一時期だが桜ヶ丘女子高等学校の障害者クラスに籍を置いていた事があり、
その時に唯を通じてファーストコンタクトを得た。
「あ、もしもし憂ちゃん?今電話大丈夫だった?」
「はい、大丈夫ですよ。あ、そうだ。
昨日貰ったお菓子、今日のおやつに姉も食べたのですが、喜んでましたよ。
改めて本当に有難うございます」
「あ、いやそれ持ってきたのムギだから、礼ならそっちに。
って、もうムギにも私にも昨日の時点でお礼してんじゃん。
ああだから改めて、って事ね。でも二度もお礼言われるとこっちも恐縮しちゃうな。
だってそれ、賞味期限までマジやばかったヤツだし。
処理手伝ってくれてこっちこそ助かったよ」
「いえ、そんな……」
「いやいや、マジな話。
でさ、電話の要件なんだけど、今週の日曜、どっか行く用事あったりする?
もし家に居るんなら、軽音部連れて遊び行こうと思うんだけど」
 もし澪が居れば、『今週の日曜日は過ぎている』という指摘をしていた事だろう。
(でも私はそんな無粋なツッコミはしない)
憂は一瞬浮かんだ澪の顔をすぐに振り払い、
「え、いいんですか?姉も喜びますっ」
と明るく応じた。
「そっか。唯元気してる?」
「ええ、元気ですよ。あ、軽音部の皆さんで来るという事ですが、全員いらっしゃるんですか?」
「いや……実はムギ以外の他メンはこれから声掛けるんだ。
だからまだ、何人でお邪魔するかは分からない。
けど顧問のさわちゃんは行かないと思うぞ。
澪と梓は……ちょっと説得してみる。
今のトコ確定してんのは私とムギだけだな」
(梓ちゃんはまだしも、秋山さんとか来なくていいよ……)
 胸中に浮かぶ暗い思いを振り払うよう、努めて明るい声を出す。
「さわ子先生はお忙しい人ですから、仕方無いですよ。
吹奏楽と掛け持ちで顧問してるらしいですし。
紬先輩と律先輩だけでも、姉は喜びます」
 敢えて梓と澪を発言内容から外す事で、言外に込めた意を伝えようとした。
その二人は歓迎する対象ではないと。
その時、隣で眺めていた唯が反応を示す。
「あう?りった?りったりった?むぎちゃ?」
 律と紬は唯に対して親切に振舞う為、唯からの好感度は高かった。
「ん?唯が近くに居るのか?」
 唯の声は携帯電話のノイズキャンセル機能を覆す大きさだった為、
律にまで届いたようだ。
「あ、はい。隣に居ます」
「そっか。色々と話したいけど、電話じゃ無理そうだしな」
 その通りだった。憂をしてなお、唯と電話越しの会話は困難が伴う。
唯のような語彙や理解力に劣る者相手のコミュニケーションにおいて、
ボディランゲージの果たす役割は大きいのだ。
「でもま、どうせ今週の日曜に色々話せるからいっか。
憂ちゃん、その時何か手伝える事があれば手伝うよ」
「あ、いえ、そんな。悪いですよ」
 憂は遠慮しつつも、歯痒い思いに囚われた。
唯の乱入により梓と澪を忌避する趣旨が伝わったかどうか怪しい。
いや、伝わったところで連れて来るかもしれない。
律は鈍い人間では無い。
澪や梓が唯に対して距離を置きたい思いを抱いている事など、
見抜いている事だろう。
澪に至ってはあれだけ分かりやすい言動や行動でその思いを主張しているのだ。
仮に鈍い人間であったところで、簡単に見抜ける。
「遠慮すんなって。唯だって私の友達だし、
それに……私達軽音部、放課後ティータイムの元メンバーだしな。
脱退したらそれで関係もはい終わり、ってんじゃ寂しいだろ?
学業時間に囚われずアフタースクールであってもフォローしあう、
それが放課後ティータイムの理念でもあるしさ」
 その発言が示す通り、律は退部した唯を含めて部員全員の仲が良い部活を望んでいる。
それ故に、澪や梓の持つ唯に対する苦手意識を克服させたい、
という願望が生じているのだろう。
日曜日の訪問の目的に、それが含まれている気がした。
(でも会う度に、梓ちゃんや秋山さんとお姉ちゃんの間には亀裂が生じるばかり……。
梓ちゃんとはそこまで表立った亀裂はないけど、
それでもひしひしと感じるよ、会えば会うだけお姉ちゃんの事を嫌いになっていく様を)
 それでも律は、コミュニケーション時間の長さに比例して
仲が良くなっていくと信じているらしい。
確かに心理学上その傾向がある事を、憂も知ってはいる。
卑近な例では憂自身と和、或いは澪と律もその例だろう。
だがそれは、確定的な好悪感情が形成される前段階における話だ。
既に悪感情が形成された後にコミュニケーション時間を充てたところで、
余計その感情を増幅させるだけの結果に終わるだろう。
「そうですか。それは頼もしく思います」
 だが、殊にその事を律に告げる事はしなかった。
自分だって、唯の友達を増やしたいと思っているのだ。
特に梓は憂自身の友人である事もあり、
できれば姉に対する偏見を取り払ってもらいたいと願っていた。

「ははっ、頼りにしていいよ、憂ちゃん。
私もムギも同じ思いだよ」
「ありがとうございます。機会があれば甘えさせて頂きますね。
あ、そうだ。日曜日は何時頃になりますか?」
「うーん、今の予定だと11時頃予定しているけど……。
梓や澪の都合もあるから、ずれるかもしれないけど。
金曜か土曜辺りに、また連絡するよ」
「あ、はい。宜しくお願いします。ではー」
「ほーい、んじゃー」
 別れの文句を告げたのは憂だが、携帯電話を切ったのは律の方だった。
「りった、りった、きゃきゃきゃっ」
 憂は隣で嬉しそうに笑う唯の頭を撫でた。
「もう電話は切っちゃったよ」
「あうー、うーうー」
 途端、不服を表情に浮かべて訴える唯。
彼女は感情がすぐに表情や態度に出る。
「そんな顔しないの。律さんや紬さん、次の日曜に家に来てくれるみたいだよ」
「あうっ、りったやむぎちゃウチにくるー?」
「うんっ。日曜日にね。だからいい子にしてようね。
いい子にしていれば、律さんや紬さんも喜ぶから」
 不服そうな顔は一転、歓喜の色に染まる。
「あいー、ゆいいい子にするー。
さわちゃは?くる?」
 唯は物事をすぐに忘れてしまうが、山中の事は憶えていたらしい。
軽音部の顧問であり、唯も一ヶ月程の間であるがお世話になっていた。
「来ないみたい。一応誘ってはみるみたいだけど」
 すぐに唯は沈んだ顔を見せた。
唯は感情を制御する能力に著しく欠ける為、感情の起伏は相当に激しい。
「あうー。あずなんは?あずなんくるー?」
「梓ちゃんはこれから誘うみたい」
「あずなん来る、ゆいうれしい。あずなん、かわいい」
 梓の事を、唯は気に入っていた。
反面、梓は唯に好感情を有していないようではあるものの、
その事をストレートな態度で唯に見せる事は少なかった。
そのせいか、唯は梓の悪感情には気付いていないようである。
「そうだね、梓ちゃん可愛いよね」
「きゃきゃきゃ、ゆい、せんぱい。
ゆい、あずなんかわいがる。あずなんもゆい、かわいがる」
 実際には、唯は桜ヶ丘女子高等学校に一年次の5月半ば辺りまでしか籍を有していない。
よって、一学年下の梓とは高校における面識が無く、先輩後輩の関係には無かった。
だが律の指導によるものなのか、梓が唯の敬称に『先輩』を用いている為、
唯は自分を先輩だと思っているらしい。
尤も、『先輩』という言葉の意味など、唯には分からない。
「そうだね……」
 憂はふと思案顔になる。
梓は唯の事を快く思っていない。果たして、姉と会わせて大丈夫だろうか、
その懸念が拭えない。
梓もまた、大切な友人であるのだ。
同学年では彼女を除けば憂の友人など、鈴木純しか居ない。
 梓の名前を連呼して悦に入っていた唯の表情に、再び陰が差した。
憂は訝しげに問うた。
「どうしたの?お姉ちゃん」
 唯は憂の顔を見ると、
怯えたように瞳を潤ませて、震えた声で言葉を紡ぐ。
「あう……みおたは?みおたもくる?」
声だけではなく、体も小刻みに震えている。
 婉曲な態度や表現で唯を忌避する梓と違い、
澪は露骨な言動や行動で唯に対する嫌悪を示している。
そのせいか、唯は澪に怯える事が間々あった。
「分からない……。でも大丈夫よ。
仮に秋山さんがお姉ちゃんに何かしても……私が守るから」
 憂は唯を抱きしめた。
抱擁されて安心したのか、唯の身体の震えは止まっていた。
「あう、ういがゆいまもる。ういえらいえらい」
 頭頂部を優しく撫でる唯の手に、憂もまた幾分か気分が安らいだ。

 *

軽音部の部活は、ティータイムと音楽の練習という二つから成り立っている。
今はティータイムの最中だった。秋山澪、琴吹紬、中野梓、そして田井中律の四人が居る。
顧問の山中さわ子も大抵はティータイムを共にしているが、顧問の掛け持ち先である吹奏楽部の対外イベントが近い事もあり、今日はこちらには訪れない事になっていた。
 律は部員の3人に向けて口を開いた。
「あー、ちょっと提案あるんだがいいか?」
 部員の視線が集まる。
「今週の……いや来週の、つまり次の日曜日に皆で唯ん家行こうと思うんだけど」
 唯の妹である平沢憂には昨日電話しており、訪問の許可は得ていた。
 澪と梓が口を開きかけたが、紬が同調の声を返す方が早かった。
「いいわね。最近唯ちゃんと会ってなかったし、軽音部の新しい一面が見えるかもしれないし」
 実際には、紬の承諾など既に得ていた。
「私は反対だな。折角の日曜日、どうせ軽音部で何かするなら、部室で練習でもした方がいいんじゃないか?」
 案の定、澪からの反対意見が放たれる。
「そうですね。憂も介護で大変でしょうし、私達が押しかけても負担が増えてしまいますよ」
 澪に便乗するように、梓も反対意見を重ねた。
「いや、その負担もお手伝いしたりして軽減しようかと……」
 律の反論は逆効果だった。
「知的障害者の介護って、私達みたいな素人ができるものなんですか?
そこまで甘いものだとは思えません。
素人である家族が介護している例は勿論ありますよ。
憂もそのご両親も素人でしょう、少なくとも憂は。
それでもやっているのは、血の繋がりがあるからです。
家族愛があるから、艱難も乗り越えているんです。
私達の中途半端な力では、逆に憂の足手纏いです」
 梓は先輩が相手でも、怯む事無く自論を展開する。
「あ、いや。簡易な事だよ。憂ちゃんの足手纏いにならない程度の、さ」
「それ、意味あるんですか?
それに勘違いして欲しくないんですけど、ここ軽音部ですよ?
介護クラブでも唯ちゃん仲良しクラブでも無いんですよ?
軽音部の活動と何も関係ないじゃないですか」
「関係みたいなもの、なら一応ある。唯は元部員だ。
でもそこまで関係性強いものではないからな。部としての活動じゃないよ。
だから強制はしないよ」
 梓の剣幕にやや気圧されながら、律は柔和な態度で以って言葉を返した。
そこまで拒絶している相手を無理矢理連れて行っても、
望んだ成果は得られないだろう。
「律。日曜日は練習に充てないか?
最近は……というには随分と前からだが、お茶に時間を取られ過ぎている。
その分を取り返すためにも、な」
 強制はしない、その一言で黙り込んだ梓だったが、
代わりに今度は澪が割って入ってきた。

「いや……。少なくとも私は、もう憂ちゃんに行くって約束してるんだ。
だからごめん、日曜は部活できない」
 大仰な溜息を梓が吐いた。
「部活よりも、平沢家のお手伝いの方が大事ですか」
「そういう比較はしてないよ。単純に、先に約束が入ってる方を優先するだけだよ」
 それは正論であるが、澪はすぐに反駁してきた。
「約束と言っても、その約束が履行されない事で憂ちゃんに迷惑掛かるのか?
今日断れば大丈夫じゃないか」
「迷惑云々以前にさ、人としてどうよって話じゃん?」
「別に自分勝手な理由で断ろうっていうんじゃない、
部活という正当な理由があるだろ?」
(正当な理由、ね。どう見ても唯ん家行くのが嫌で、
日曜の部活提案してきたようにしか見えないけど……)
 胸中に浮かんだその考えを押し隠して、努めて明るく律は言葉を返す。
「いや、唯も楽しみにしてるだろうし。やっぱり裏切れねーじゃん?」
「なぁに、唯は知的障害入ってるんだから、すぐに忘れるさ」
 一瞬頭に血が上りかけたが、律は滾る怒りを抑えて返答した。
「そういう考えじゃ、唯が可哀想だって。
それに、練習したければやっていいからさ。
さわちゃんに話通して日曜の部室許可申請出しとくから。
梓と澪だけでも合わせられるだろ?」
 澪は引下らなかった。
「全員でやらないと、効果薄いだろ。
特にお前のドラムが走り気味だから、お前こそ練習する必要があるんだよ」
 澪は律の参加も強要してきた。
唯の家に行きたくないから部活を提案してきただけだ、
そう思っていた律は咄嗟に言葉を返す事ができなかった。
「じゃあこうしない?」
 堪りかねた紬が助け舟を出した。
「土曜日に皆で練習するの。そして日曜日は自由。
どうかしら?」
 土曜日を部活に充ててしまえば、日曜日は空く。
律や紬が唯の家に行くという事ができるのだ。
(さんきゅな、ムギ。それなら行けるはずだ。
まさか土日二日続けて部活、とまでは言わないだろーなー。
さっきまで部活に充てる日を日曜って言ってたもんな。
今更もう一日プラスしちまえば、嫌がらせめいてくるからな。
もし土曜予定入ってるとか言い出したら、
私の日曜の予定の正当性も主張できる)
「……。分かったよ、土曜日に練習しよう、梓も土曜日は大丈夫だな?」
 律の目論見通り、澪は渋々ながらも承諾した。
「あ、はい。土曜日も空いてます」
 澪が崩れたからか、梓もそれ以上反駁する事なく従った。
律は内心安堵した。
だがその安堵も、束の間でしかなかった。
「なぁ、律。という事は律やムギは日曜に唯の家に行くんだよな?
お前達だけじゃ心配だから、私も付いていくよ。
護衛ってワケじゃ無いけど、数が多い方が安全だろうからさ」
「……えっ?」
「澪先輩っ?」
 律は思わず素っ頓狂な声を上げた。
梓もまた澪の言葉が想定外だったのか、訝しげな声を上げる。
「何だ?ダメなのか?最初に唯の家に皆で行こうって提案してきたの、お前だろ?」
「あ、いや。構わないよ、歓迎歓迎」
 確かにこの展開は最上だが、胸中では怪訝の念が燻った。

(いや、そりゃ澪も居た方がいいよ?
軽音部の皆で仲良くしたい、っつーのが私の願いだし。
でも……おかしくね?
澪は唯の家に行くのが嫌だから、部活を日曜にやろうって提案してきたんじゃないのか?)
 それも律の思い込みで、実際には単純に練習をやりたかっただけだろうか。
(でも実際には……澪は唯に対する敵意を剥き出してるもんな。
それに練習したいだけなら、
最初っから澪の側で土曜日を提案してくれば良かっただけだもんな)
 律の疑念を他所に、澪は梓にも問うていた。
「梓は日曜、どうするんだ?」
「澪先輩も行くなら、行きますよ。私一人だけ行かないんじゃ、浮きますし」
「そうか、有難い。人数は多い方が心強いからな」
 まるで魔境にでも赴くかのような言い方だ。
唯を人間扱いしているとは言い難い澪にとっては、
平沢家はまさしく人外魔境なのかもしれない。
 律は澪の言を糾す事はしなかった。
無駄に争う必要は無い。
だが、梓の物言いは気になった。
「なぁ、梓。浮くとか浮かないとか気にしなくていいぞ?
私達はそんな事で梓を仲間外れにしたりしないからさ」
 梓は溜息を交えて言葉を返してきた。
「憂と私はクラスが一緒なんですよ」
「あ、そうだったな。ごめんごめん」
 憂の視線がある手前、唯を忌避するにしても目立つやり方は避けたいという事だろう。
梓の事情を斟酌してやる事ができなかった点に対して、
律は反省の色を顔に浮かべて素直に謝った。
 だが梓は容赦せず論難の手を放ってきた。
「ていうか”私達は仲間外れにしない”ってどういう意味ですか?
私が唯先輩を仲間外れにしている、そういう皮肉を込めた発言ですか?」
「あ、いや。そういう意味で言ったんじゃなくってさ……。
ストレートにそのままの意味でしかないよ」
「なら、省略可能な主語『私達』を敢えて使った意味は?
ずぼらで面倒くさがりな律先輩が、
省略できる言葉を意味も無く使用したりするんですか?」
 梓は重箱の隅を突きつつ、毒を含めた言葉を放つ。
流石の律も頭に血が上り怒りの声が喉下まで込み上げたが、何とか飲み込む。
だが、代わりの言葉は中々出てこない。
釈明しようにも、主語を敢えて挿入した必要性が中々頭に浮かんでこない。
そもそも深い考えから主語を略さなかったわけでは無いのだ。
 答えあぐねている律を、梓は歪んだ笑みを片頬に浮かべて眺める。
勝ち誇るようなその表情には、嘲りすら見て取れた。
「止めとけよ、梓。律だって悪気があったワケじゃないさ。
そもそも律はアイロニカルな表現なんてできない人間だよ。
人が好い奴だからさ。ま、その点を悪意ある人間……誰かさんの妹に付けこまれて、
苦労もしているみたいだが」
 言い淀む律に、澪が助け舟を出した。
その発言の中には、律に対する擁護と同時に憂に対する毒も含まれているが。
「っ。澪先輩がそういうのでしたら、不問にしときます」
 梓は大人しく引き下がった。
澪が律の味方をした事が意外だったのだろうか、表情には怪訝が浮かんでいる。
律も澪が梓を宥める側に回った事が意外ではあったが、
蒸し返す気にはなれず疑問を口にする事はしなかった。
「では、日曜日はこの4人は確定ね。
後はさわ子先生が来るかどうかだけど、律っちゃんが誘ってくれるのよね?」
「ああ、声は掛けてみるよ」
 そうは言ったが、彼女に関しては諦め半分、といったところだ。
(ダメ元で声掛けてみる、って感じだな)
期待していない律とは対照的に、
澪は期待に満ちた声音で反応を返した。
「山中先生も来てくれると心強いな。やはり憂ちゃんに対して一番押しが効くのは、
教師という肩書きを持つ山中先生だ。
幾ら彼女でも、教師の視線の前ではそう無茶な行動や言動はできないだろう」
(憂ちゃんを何だと思ってるんだ。そもそもお前が変な事さえ言ったりしなきゃ、
憂ちゃんは優しくて良い子だよ)
 何処までも憂を怪物扱いする澪に内心辟易する律ではあるが、
その事を声に出して場を乱す事はしない。
「顧問の先生まで呼ぶんですか?いよいよ軽音部のイベントじみて来ましたね。
まぁ、数が多い方が安心である点は澪先輩に同感ですが」
「そういうんじゃ無くってね、唯ちゃんは一ヶ月程だけ桜高に居た時期があるの。
すぐに知的障害者専門の学校に転校しちゃったんだけどね。
その桜高に居た時期に所属していたのが軽音部で、顧問がさわ子先生だったから」
「その話なら律先輩に聞いた事ありますよ」
 梓は紬の話を途中で遮った。
「あ、そう。ごめんね、梓ちゃん。また同じ話しちゃって」
「でもま、梓に話した時は側にムギ居なかったからな。
知らずに説明が重複しちゃうのは仕方が無いって。
それで、唯としてはさわちゃんにも会いたいみたいだ。
数少ない──」
その後を言う事は躊躇われたが、結局言った。
「唯に優しくした人だから……」
(でもその優しさは……。唯が学校辞めるまで、だったんだよな)
 結局、教師だから、という立場故の態度だったのだろうか。
「それで唯先輩が付け上がって、先生も呼んで欲しいとか言ってるワケですか。 社交辞令であっても優しくしちゃうと、勘違いしちゃうタイプなんですね」
 梓の発言の逐一が律の神経を逆撫でするが、真っ向から応戦しては険悪になるだけだ。
軽く応じつつ話を逸らす事が良策だろう。
「ま、人の好意に対して素直って事だな。
さて、そろそろ練習すっか。残り時間少ないけど」

「律先輩が練習しようと言うなんて珍しいですね。
まぁ練習したいのは私も山々なので、嬉しい兆候ですけどね。
それが一過性ではなく、
遅々なりとも少しは成長している結果であれば心底から狂喜なんですけど。
でも残り時間少ないのは律先輩の振った話のせいですからね。
残り時間少ないけど、で終わらせるのではなく何か一言欲しいですね」
(話長引かせたのはお前が重箱の隅突くような絡み方したせいでもあるんだけどな)
 例によって、怒りは表に出さない。
「……ごめんな、中野」
「ごめんなさい、まで言えれば上々だったんですが。
そこまでの進化を期待するのは未だ酷に過ぎましたか」
「梓ちゃん、先輩にそんな事言っちゃダメよ」
「はぁ、先生をちゃん付けで呼びタメ口で話す事に比べれば可愛いものだと思いますが。
けれども確かに、相手のレベルに合わせてやる必要も無いですね。ここは素直に私も謝っときます。えー、ごめんね、律先輩、くすっ」
 笑いを堪えるように口元を手で抑え、目で嘲ってくる。
「ああいや、いいっていいって。私、先輩後輩関係無いフラットな付き合い方の方がやりやすいから」
 口ではそう言いつつも、律は正直梓の扱いには手を焼いていた。入部当初はここまで突っかかってくる後輩では無かった。
もっと優しかったが、次第に律に対して豹変した態度を取るようになっていった。
紬に対しても以前に比べれば余所余所しい態度を取っているが、律に対する辛辣な対応と比せばまだ許容の範疇ではある。
しかし、澪に対しては礼を崩す事は無かった。
(澪と私で、そこまで態度変えるもんかな。
よーく分かんないや、梓の事は。唯の方が素直で可愛らしいな)
 梓の事が頭に引っかかるが、今は練習するべき時だ。
考えるべき時ではない。
そう自分に言い聞かせると、雑念を無理矢理頭から追い払い、音頭を取った。
「いくぞ。ワン・ツー・スリー・フォー」
 四つの楽器が見事に重なる。
部員の関係とは対照的な調和された音が、心地好く激しく室内に響き渡った。


  (vol.2) へ続く

   (2011.01.10)

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最終更新:2016年07月03日 16:57