OUTside (vol.2)
下校の門限も近いというのに、音楽室には煌々と灯りが灯っている。
軽音部の使用する部室の名称が第二音楽室である事から、
この音楽室も正式名称は第一音楽室になるのだろうが、
普段生徒も教師も単に音楽室としか呼称していない。
この音楽室を部活動の場として使用しているのは、吹奏楽部であった。
その音楽室の前で律は一人、
演奏に混じって響く待ち人が叱咤する声を聴きながら佇んでいた。
とうに軽音部としての活動は終わり、梓達も帰宅しているはずだ。
普段は澪と一緒に帰っていたが、今日は用事があるという事で澪は先に帰らせた。
その用事が何であるか知っている紬は付き添いを申し出たが、律は断った。
「イベント近いだけあって、気合入ってるな」
他人事のように、呟いた。
その呟きとほぼ同時に、演奏が止んだ。
続いて、叱咤と労いを巧みに織り交ぜる待ち人の声が聞こえて来る。
先ほどは演奏に混じっていた為明瞭に聞き取れなかったが、
演奏が止んだ今は一字一句聞き取れた。
(話の流れからすっと、締めのお説教と労いってトコかな。
やっと終わりか。それにしても、あの人意外と厳しいトコあんのな)
その声が止むと同時に、部員が異口同音に口にした。
「有難うございました」と。
軽音部とは対照的に、規律の取られた部であるらしい。
顧問が同じであるにも関わらず、生じている差異は大きなものがあった。
堅苦しい雰囲気が苦手な律は、軽音部の雰囲気の方が好みだと感じた。
扉が開かれ、部員達が吐き出されてくる。
軽音部よりも大所帯だが、律は特段気後れする事は無かった。
音楽室から出てくる面子の中に知った顔を見つけては、手を振るくらいの余裕もあった。
一番最後に、待ち人が音楽室から出てきた。
左右には、生徒が付き添って何やら話している。
(げっ、他の人間にはあんま聞かれたくない話なんだよなぁ。
まぁでも……)
耳を澄まして聴いてみれば、そう重要な話でも無いらしい。
笑いあってさえいる所を見れば、他愛も無い話なのだろう。
(なら、ちょっと借りるか)
「さわちゃーんっ」
待ち人の名を愛称で呼びながら、手を挙げて近づく。
「田井中さん?こんな時間にどうしたの?」
「ちょっと部活の事で話があってさ」
左右の生徒は訝しげな視線を送っていたが、
律の発言で軽音部の部長であると気付いたらしい。
「じゃあね、先生」
「明日も厳しくお願いします、先生」
それだけ言うと、二人連れ立って廊下の奥へと姿を消した。
気を利かせてくれたわけでは無いだろうが、律は内心感謝していた。
部外者を交える話では無いのだから。
「部活の話ってなぁに?一人でこんな時間に訊ねてきたって事は、何か喫緊の問題でもあったのかしら」
不安の篭った眼差しが律に注がれる。
「あーいや。部活の話、ってワケでも無いんだよね。
部活に無関係ってワケでも無いから、さっきは部活の事で話があるって言ったけど」
山中の表情に険が走った。
「唯ちゃんの事?」
深刻そうな声音で、山中は言葉を吐き出す。
想定していた以上に険しい反応に、律は少し面喰った。
「ああ、つってもそう深刻な話でも無いって。
日曜に平沢家訪問するんだけど、さわちゃんもどう?ってお誘い。唯も会いたがってるしさ」
「それは……軽音部の部活としての行事かしら?
お誘いだけじゃなく、その申請も含めた話かしら?」
「いや、面子は全員軽音部で構成されてるけど、部としての行事じゃない。
プライベートなノリで遊びに行く、って感じ」
「なら、教師の私が参加したら変じゃない」
今度は、律の表情に険が走る番だった。
だが怒りを抑え、努めて鷹揚に言葉を紡いだ。
「……他人行儀だぞー、さわちゃん。
付き合いは短かったとはいえ、唯とは仲良かったじゃん」
「あの時は、教師と生徒だった。仲良くして、理解してあげたいと思った。でも今はもう」
「おっと、そこまで」
山中の発言を途中で遮った。聴きたくなかった。
「ま、駄目なら無理強いしないよ。ほら、吹奏楽部だって忙しいんじゃん?
なら仕方ないかなーって」
頭の後ろで手を組むと、山中に背を向けた。
(思ってた以上に、冷たい人なんだな。あれだけ優しくしといて、転校したらはいそれまで、ですか。
まぁそりゃ教師と生徒の関係なんて元来そんなもんだろーけどさ。
さわちゃんまでそのテの人間だなんて、幻滅だし。
唯はこんなのに会いたいとか言ってるのか。
優しいお面被ったその他大勢に会いたいってか)
歩きだす律の背に、山中の声が届く。
「待って、りっちゃん」
律は足を止めて振り返る。
「ん?」
もしかして、心変わりしたのだろうか。
『私も行くわ』
その言葉を期待して、山中の言葉を待った。
気の早い事に律の脳裏では、喜ぶ唯の顔が浮かんでいる。
「軽音部は全員参加するの?」
山中の口から出た言葉は、律の想像の埒外にあるものだった。
「うん。ムギも澪も梓も」
「そう……」
山中は考え込むように眉間に皺を寄せて腕を組んだ。
「どうしたんだよ?何か全員参加だと不都合でもあるー?」
顔は笑顔だが、若干の棘が語勢に篭った。
深刻を湛えた山中の表情が律には気に入らなかった。
「一点だけ確認させて。プライベートなノリで遊びに行くというのなら、
強制とかは一切してないのよね?」
「当たり前だろっ」
反射的に放たれた言葉は、思考を経ていないので遠慮のない強い口調となった。
「そう……。ならいいんだけれど」
律の勢いに怯む事は無かったが、山中の発言は何処か歯切れが悪かった。
「そ。ま、ムギはともかく、澪と梓は最初は渋ってたけどね。
それも休日は練習したいから、っていう理由からだったし。
だから土曜日の練習を提案して日曜フリーにしたら、
澪も着いてくるって事になった。梓も澪が来るなら行くってさ。
でさ、用事ってのは唯ん家にさわちゃん誘う事の他に、そっちでもあってさ。
要するに土曜日の第二音楽室使用許可の申請ってワケ。
これは別に明日でも良かったんだけどね」
先ほど怒鳴るような口調で返した事を気まずく思う律は、
懇切に澪達が参加を表明した流れを説明した。
「……そう。あ、土曜日の件だけど、了解よ。
部室使っていいわ」
山中は少し考える仕草を見せてから、許可を出した。
「あんがと。じゃ、今日はこんだけだから」
「ええ、りっちゃんも遅くまで大変ね。
部長のお仕事、大変でしょう?
部員の事にまで手が回らなくなる事もある。
そういう時はね、物事に優先順位を付けていく事も大切だと思うの。
りっちゃんは一人で、時間も有限。
何もかもをやろうとしても、結局は空回って満足な結果は引き出せないわよ。
挙句、周囲を傷つけてしまう事になるかもしれない。
あ、いや、私もタイムマネジメント下手だし、
タスクに優先順位付けて効率化図れてるワケじゃ無いんだけどね。
だからあまり偉そうな事は言えないんだけれど」
「いや、いきなり何スケールの大きい話始めてんだよ。
私は大丈夫だよ、部活も澪や紬がサポートしてくれてるし、
それほど部長の責が重圧に感じた事は無いな」
実際に、軽音部はそれほど熱心な音楽活動をしているわけではなく、ティータイムがかなりの比重を占めている。
律はアドバイスしてくれる山中に好感を抱きつつも、そのアドバイスは的が外れているとも思った。
(唯も交えたHTTバンドの実現ってのは確かに高い目標だけど、部活動とはちょっと違うしな。
純粋な部活動で難儀してるのっつったら、梓が反抗的な事くらいか)
律の脳裏に悩みとして浮かぶのは、後輩中野梓への対応だった。
「そう……」
山中はまだ何か言いたそうにしていたが、
「……なら、いいわ」
結局その話はそこで打ち切られた。
律にしても山中が何かを言いあぐねている事は察していたが、敢えて突っ込んで引き出そうとはしなかった。
気にならないと言えば嘘になるが、激しい剣幕で言葉を放った事を思い返して踏みとどまった。
言いたくない事を言わせようとすれば、それは多少なりとも言動が敵対的にならざるを得ない。
短い間に特定の人間にこれ以上敵意を重ねたくは無かった。
「んじゃ、また明日ね、さわちゃん」
だから律は、この話をここで切り上げて踵を返した。
「ええ、また明日、りっちゃん」
山中の声を背中に受けて、律は廊下を一人歩いた。
日曜日、示し合わせた時間より10分以上前に、律と澪は集合場所に到着した。 そこには既に紬が待っていた。
「あれ?早めに着くように家出たんだけど。
意外だなー、もうムギが来てたなんて。 もしかして待った?」
律の問いに対し、紬は笑みを交えて首を振る。
「私もちょっと前に来たところよ。りっちゃんは澪ちゃんと一緒に来たのね」
「まー、家も近いし。
後は梓だな。梓が来たら出発しよう」
ポケットの携帯電話を意識しながら律は答える。
まだ10分強の時間はあるが、もしかしたら梓が来ないかもしれないという思考が頭に擡げている。
昨日の練習が終わった時に待ち合わせ場所や時間の最終確認を行ったが、その時には梓は参加する前提で話に加わっていた。
それでも梓の反抗的な態度が脳裏を過ぎり、欠席の可能性を排除しきれないでいた。
だがその思考も、集合時間5分前に梓が姿を見せた事で四散した。代わりに、梓の装いに対して律の頭に疑念が浮かんだ。
それは澪や紬にしても同じらしく、怪訝を表情に走らせて梓を眺めている。
「どうかしましたか?」
視線を向けられた梓は、飄々とした態度で問いかけてきた。
「何で上下ジャージ……」
律が三人を代表してそう言うと、梓は溜息混じりに言葉を返してきた。
「動きやすい格好でいないと、何かあった時に危険ですから。
それに、折角お洒落しても唯先輩に汚されたんじゃ堪ったものじゃありませんから」
「へー、梓は賢いな。皆ジャージにすれば良かったかもな。
私も、せめてパーカーのフードだけでも被った方がいいかな」
澪は感嘆の声で梓を褒めたが、律は内心快くはなかった。
(汚されたくない、ってのはまだ分かる。実際に唯は涎掛けとか汚れてる。
でも、何かあったときって、まるで唯が危険人物みたいな言い方じゃん)
胸中に不満が燻るが、それを口に出して梓と対立する気は無かった。
まだ始まったばかりだというのに、今から険悪な雰囲気を形成するわけにはいかない。
「皆揃った事だし、行こっか」
律は率先して歩き出した。
「そうだな、さっさと済ませよう」
「そうですね、手早くやっちゃいましょう」
消極的な言葉を放ちながら、隣を澪が歩き、
梓が後ろに続いた。
「そうね、憂ちゃんや唯ちゃんも待ってるだろうし、急がないとね」
二人の発言を無理矢理肯定的な意に変えて、紬が殿を務めた。
平沢家に着くと、律は手馴れた動作でチャイムを押した。
律一人でなら、何度も訪れた事がある家だ。
暫くして、インターホン越しに憂の声が響いた。
「はい」
「憂ちゃん?私田井中律含めてけいおん部四名の到着だよん」
「すぐに開けますね」
その言葉が終わってから数秒も経たずにドアが開き、
憂が明るい顔を覗かせた。
「待ってましたよ、皆さん。お姉ちゃんも喜びます。
さ、上がって下さい」
律がドアを潜ると、玄関を上がった所で既に唯が待ち構えていた。
律の顔を認識するや否や、その表情には満面の笑みが漲った。
「おっす、唯」
「りった、りった、きゃきゃきゃっ」
嬉しそうに両手を叩いてはしゃいでいる姿を見て、
来て良かったと律は心底から思った。
「おーう、りっただぞー。いい子にしてたかー?」
頭を撫でてやると、擽ったそうに目を細めた。
「ゆい、いー子してたよー。りった、きゃきゃ」
「あ、りっちゃんばっかりずるーい。
唯ちゃん、お久しぶりね」
紬も次に顔を覗かせ、柔和な笑みで以って唯に話しかけた。
「むぎちゃ、むぎちゃ、きききっ」
紬にもまた、唯は嬉しそうな反応を見せた。
憂も唯の笑顔を見て、満足そうに微笑んだ。
次に梓が入ってきた。
「お邪魔します」
と静かな声で口にされた言葉は、唯ではなく憂に向けられている。
だが、唯は目敏く梓を見つけて、一際嬉しそうな声を張り上げる。
「あーっ、あずなんだーっ」
叫ぶと同時に、土足にも関わらず玄関に下りて梓に抱きつく。
「きゃっ。や、止めて下さいっ」
悲鳴を上げて引き下がる梓に配慮してか、憂が唯に離れるよう促す。
「お姉ちゃん、梓ちゃん苦しそうだよ?離れてあげて?ね?」
だが唯は構う事無く、梓を抱きしめる。
「あずなん、こーはいっ。かわいーこーはいっ。いい子いい子するのー」
抱きついた姿勢のまま、梓の頭頂部を手で撫でた。
梓は屈辱に顔を歪めて、救いを求めるように憂に視線を投げる。
「お、お姉ちゃん。駄目だよー」
「ほら、唯。梓ばっかりずるいぞー。りったと遊ぼうぜ、な?」
憂と律が力を合わせて引き剥がして、不満気に唸る唯を慰めた。
「うー、うー。ゆい、あずなんをいい子いい子するのーっ」
「ほらほら、寂しい事言わないでりったも構ってくれよ」
「お姉ちゃん、私達と遊ぼ?ね?」
「むぅー、むふぅー」
その不満を込めた唸りも唐突に止み、代わりに警戒するような表情が唯の顔に浮かんだ。
「久しぶりだな、唯」
フードを被っていても、声の主が誰であるか分かったらしい。唯は怯えの篭った瞳で、澪を見上げた。
「みおた……」
「そう、澪だよ。憶えてたんだな。驚いたよ。
その記憶容量を九九覚える事に費やせば良かったのに。
いや、お前の場合は足し算か?」
嘲弄的な声と、冷たい眼差し。
それは律達には決して向けられる事の無い、剥き出された敵意。
唯の唸り声を制するには充分だった。
「秋山さん、お姉ちゃんを怯えさせるのは止めてくれませんか?」
「ん?脅かした憶えなんて無いけど。
変な因縁付けないでくれないか?」
「ああ、素が怖いんでしたね。失礼しました。
失礼ついでに言いますが、家の中に入ったのならフードを外したら如何ですか?」
「外す必要は無いな。
家の中で被り物を外すのは礼儀の問題だ。
逆に着けている必要はある。
ほら、フードじゃヘルメット代わりにもならないけど、
何も頭を庇う物が無いよりはマシだ。これは安全面や衛生面の問題だな」
言外に告げていた。
唯や憂が礼儀を払うに値しない相手であると。
そして、唯が危険で不潔な存在であると。
早くも火花を散らす二人に、律が慌てて割って入った。
「まーまー、クールダウン、クールダウン。
澪もさ、ほら、フード外そうぜ?」
「分かったよ」
澪はあっさりと退き、フードを外した。
「ごめんなさい、少し熱くなり過ぎちゃいましたね」
澪が退いたのを見て、憂も一言詫びた。
尤も、視線は澪では無く律に向けられていた。
「あ、どうぞ皆さん。靴を脱いで上がって下さい」
律と言葉を交わす事ですっかり平常心を取り戻したのか、
憂は表情も雰囲気も一転させて皆を促した。
「あ、じゃあ、お邪魔するわね」
紬が靴を揃えて上がった。 律達も紬に倣って後に続く。
「お姉ちゃんの部屋も私の部屋もこの人数は手狭だから、
取り敢えずリビングへと場所を移しましょう。
こちらです」
「きゃきゃきゃっ、いっぱい、いっぱい」
「そうだね、お友達が沢山来てくれて良かったね、お姉ちゃん」
「あーう」
嬉しそうに語らう平沢姉妹に先導されて、リビングへと律達は入っていった。
リビングに着くと、憂から適当に座って下さいとの指示を受けた。
律や紬は特に気にせずソファに腰掛けたが、梓はソファを丁寧に検分してから腰掛けた。
唯の涎や排泄物の跡が付いていないか確認していたのだろう。
澪に至っては更に露骨で、バッグから座布団サイズのビニールシートを取り出して、
ソファの上に置いてその上から腰掛けていた。
梓と澪の仕草に一瞬眉根を寄せた憂だったが、特別咎めるような事は言わなかった。
実際に、全員の着席を確認した後で憂の口から放たれた言葉は、
「ちょっと待ってて下さいね。
今、飲み物用意しますから」
という接客の際の定型句でしかなかった。
「あ、憂。私手伝うよ」
梓が立ち上がりかけたが、憂は制するように手を振った。
「え、大丈夫だよ。
梓ちゃんはお客さんなんだから、寛いでて」
「いや、手伝うって」
梓は半ば無理矢理立ち上がり、憂に同行しようとする。
(まさか座る時の梓の態度に憂ちゃんがキレて、変な物入れるかもとか疑ってるのかなー?
ははっ、ありえねー。憂ちゃんはお前と違って優しい子だから、そんな事しないよ)
律は内心で梓を嘲ったが、梓の懸念は別の所にあるという事を間もなく思い知る。
「あう?あずなん、ういといっしょ?
ゆいもあずなんとういに着いてくー」
嬉しそうに立ち上がった唯を、梓が激しい剣幕で制した。
「ダメですっ。唯先輩は座ってて下さい。
飲み物入れる時に来たら危ないです。
ムギ先輩、唯先輩の子守よろしくお願いしますね」
どうやら、唯となるべく離れていたいが為に憂の手伝いをするらしかった。
頻繁に唯から抱きつかれる梓にしてみれば、唯との接触は必要最小限に留めておきたいのだろう。
憂への不審故では無く、唯への嫌悪故の付き添いだったのだ。
寧ろ、憂に対して不審を露わにした者は澪であった。
「ああ、そうだ梓。
私の飲み物は、皆と一緒のを入れてくれ」
澪の発言には、憂に任せては変な物を飲まされかねない、
その危惧がありありと表れていた。
だからこそ梓を指定し、皆と一緒という指示を出したのだ。律にもそれは分かったし、憂も分かったのか不機嫌な顔になった。
「だって、梓ちゃん。じゃあ、秋山さんの分は梓ちゃんにお願いするね。
秋山さんの分なんて、私すぐに忘れちゃいそうだし」
憂は澪に向けて毒を含めた発言を放つと、
視線を律に転じて言葉を続けた。
「あ、いや、秋山さんの事はキッチンに居る間も意識から逸らせそうも無いけどね」
律はその言葉の意味を瞬時に理解し、肯く事で了解の意を伝える。
要は、自分が居ない隙に唯を虐めないように澪を監視して欲しい、そう言っているのだ。
律の首肯を見て安心したのか、憂は梓を伴ってリビングから出て行った。
(各人の好悪感情が入り乱れてやがるな……)
複雑な人間関係が齎した寸劇が眼前で展開され、
全員仲の良い軽音部という理想の高さを律は改めて思い知った。
(うっへぇ、心とか色々折れそう。
てか今のやり取りには関係無かったけど、私自身も梓から嫌われてるっぽいしなー)
律自身、梓を苦手に感じているのだ。
梓と憂が盆にグラスを載せて運んできた。
中身はオレンジジュースで統一されていた。
グラスを全員の手に渡らせると、梓が律に問いかけた。
「取り敢えず、これからどうします?」
「いや、特にコレをやろうっ、ってのは考えて無いけど。
適当にお喋りでもしてればいいんじゃん?」
梓はわざとらしく大きな溜息を吐いた。
「企画したのは律先輩でしょ?
なのに何も考えてなかったんですか?」
「企画ってほど大袈裟なものじゃないよ。
単純に、部員の唯や、友達の憂ちゃんと遊ぼうって程度のものだからさ」
「元部員、な。律」
すかさず訂正の矢が澪から放たれる。
「まぁ名簿上はそうだけど、さ。気持ちの上では現役の部員だからさ」
律が澪に返答した直後、梓が憂に頭を下げた。
「ごめんね、憂。私のトコの部長がいい加減な態度で押し掛けちゃって。
気持ちの上で部員だから遊びに来ました、ってノリだもん。
困っちゃうよね。憂だって介護で大変だろうに」
「え、そんな事無いよ?
私にとってもお姉ちゃんにとってもいい気晴らしになるし、
それにお姉ちゃんのお手伝いがそこまで大変とは思ってないよ。
少なくとも介護って意識は無いかな」
「そう?ならいいんだけど。
もし迷惑な事があったら遠慮せずに……きゃっ」
「あずなん、ゆいと遊ぶー」
梓の言葉は、突如として抱きついてきた唯によって遮られた。
「ちょっ、唯先輩、離れて下さい」
「やー、ゆい、あずなんといっしょっ」
「や、止めて下さいっ」
梓は体を捻って逃れようとするが、唯は興味を示したものに対する執着が強い為、
容易には逃げられない。
「お、お姉ちゃん。駄目だよ、無闇に人に抱きついたりしたら。
ほら、おいで?」
唯を宥めて梓から引き離そうとする憂に、律も加勢する。
「ほーら、唯。こっちおいで。りったと遊ぼうぜ」
(さっきまで私に対する当て擦りしてた梓を助けるなんて面倒だけど。
でもなぁ、それで私まで梓嫌い出したら、
もう仲直りも何もできないじゃん)
それは、全員仲の良いHTTという理想の瓦解を意味する。
「ほら、唯ちゃん。私も構って欲しいな」
紬もまた、助け舟を出した。
しかし唯は頑なだった。
「りったやむぎちゃの番はさっきあったっ。
今度はあずなんの番っ。じゅんばんこじゅんばんこ、
あずなんの次にまたりったとむぎちゃっ」
唯としては、律や紬の遊び相手はしているのに梓の相手をしないのは
不公平だという思いがあるのだろう。
尤も不公平という概念を理解していないであろう唯にとっては、
精々梓が律や紬ばかり唯と遊んでてずるいと思っている、
程度の感覚でしかないのだろうが。
「ほら、お姉ちゃん。梓ちゃんは疲れてるんだって。
ちょっと休ませてあげて?ね?」
「唯ー、りった寂しいぞー」
「唯ちゃん、私も寂しいな」
「マジで離れて下さい。うわっ、汚っ。涎掛けくっつけないで下さいっ。 顔、顔近づけないで下さいっ」
四人がかりでも唯の対応には苦慮する。
その時、律達と唯の悶着を眺めていた澪が立ち上がって唯に近づいた。
澪は唯の髪の毛を鷲掴みにすると、
怒鳴るような強い語勢で告げた。
「おい唯っ。梓が嫌がってるだろ。
いい加減にしろっ」
「あうっ」
唯は堪らず梓を放すと、怯えの篭った瞳で澪を見上げた。
澪は髪を掴んだままソファーに唯を押し付けた。
「うー、うー」
乱暴な動作に対して唯の口から抗議の唸り声が漏れるが、
「うるさい、静かにしろ」
澪は低い声で唸りを制した。
「唯、梓が嫌がっていたのが分からないのか?
お前には他人の痛みが分からないのか?
梓は私の可愛い後輩だ。二度と梓に触れるな。
律やムギにも迷惑を掛けるな。
分かったか?」
唯からの返答は無く、不気味な呼吸音を口から漏らすだけだった。
痺れを切らした澪は髪を掴んだ手を激しく振って、
ソファーに唯の頭を何度も打ちつけながら強い口調で糾す。
「分かったのかと訊いてるんだよっ」
「止めて下さいっ」
澪の剣幕に呆気にとられていた律だったが、
憂はすぐに平常心を取り戻したらしい。
澪を突き飛ばして唯を庇った。
「なんて事するんですかっ?お姉ちゃんが可哀想じゃないですか。
乱暴は止めて下さいっ」
「あうー、うい、みおたがゆい虐めたっ。びぇっ」
「怖かったよね、お姉ちゃん。もう怖くないよ。
私が守ってあげるからね。よしよし」
「びえぇーっ、うい、ゆいこわかったよー、びえぇーっ」
憂に守られて安心したのか、唯は泣き喚き始めた。
その叫喚はリビング内をけたたましく反響し、
聴く者の鼓膜を不快に嬲った。
それでも律にしてみれば相手が唯ならば仕方ないと我慢できる。
それは紬にしても同様らしく、特に不快を訴える仕草を取らなかった。
だが、澪は違う。
「煩い、黙れ唯っ」
鋭い眼光を放ちつつ強い語勢で一喝して、唯を黙らせた。その迫力のある態度は、人を畏怖させるに充分なものだ。
だが憂は、気圧される事なく毅然と澪に立ち向かった。
「お姉ちゃんを怯えさせるのは止めて下さい。どうしてそんな乱暴な態度ばかり取るんですか?」
「煩いからだろう。大体、今の泣き方はわざとらしく大袈裟だ。その証拠に、涙は殆ど流れていない。
過剰に嘘泣きして同情を引こうとしただけの唯に優しくする必要が何処にある?」
「それでも、お姉ちゃんにとって貴女の態度が怖い事に変わりは無いんです。
そもそもお姉ちゃんは知的障害故に語彙が不足しています。言葉で巧く自分の意思や感情を伝えられないから、ボディランゲージに頼らざるを得ないんです。
秋山さんには嘘泣きにしか見えないかもしれませんが、
お姉ちゃんにとっては自分の意思を伝える為の手段なんです」
「だからと言って、あんな大きな声で喚かれても迷惑だ。大体、元はといえば唯が悪い。嫌がる梓に無理矢理抱きついたのが原因だ」
「いえ、お姉ちゃんが喚かざるを得なかったのは秋山さんのせいです。
私達はお姉ちゃんを宥めて穏健に梓ちゃんから離そうとした。
でも秋山さんの頼った手段は何ですか?暴力じゃないですか。
野蛮な事をするから、お姉ちゃんが怯えて泣いちゃったんです」
「言葉で言って効かないなら、実力行使しかない。
あのまま言葉だけで唯を引き離そうとした所で悪戯に時間を浪費して、
その間に梓の苦痛が高まってしまうだけだ」
二人の間の論戦に、律は割って入る隙を見出せないでいた。
「それで暴力が正当化されるとでも?
大体、梓ちゃんの解放が目的なら引き離した段階で達したはずです。
なのにその後、何度もお姉ちゃんの頭を打ち付けたのは何ですか?
あれは明らかにやり過ぎで、虐め以外の何物でもありません」
「虐めじゃないな、あれは調教と言うんだ」
「調教っ?お姉ちゃんを何だと」
「ああ、失礼。調教じゃなくて躾だよ。つい間違えちゃったな」
澪は嘲りを頬に浮かべて笑った。
「表現が躾に改まっても不快です。何様なんですか、貴女は。
お姉ちゃんの教育は私の家庭の問題です。
秋山さんに躾と換言しただけの虐めを正当化される謂れはありません」
「その家庭の役割がきちんと果たされていないから、梓が被害を蒙る。
梓だけじゃ無いな、どれだけ迷惑を周囲に撒き散らしてるか。
大体、きちんと教育するはずの親は何処だ?
知的障害を持った娘と情緒障害を持った娘の
ダブルパンチに嫌気が差して見捨てたのか?」
「私は情緒障害を患ってなんていませんし、
私達は見捨てられても居ません。
両親ともちゃんと海外に居て、送金はしてくれてます」
「ははっ、無責任な親だな?
自分の娘が二匹の害獣と化して周囲に迷惑かけまくってるのに、
海外旅行で遊び呆けているのか?」
「お父さんとお母さんとお姉ちゃんの悪口は言わないでっ」
憂は一際甲高い声を発すると、表情を暗くして言葉を続けた。
「仕事なんです、二人とも。お姉ちゃんの事で、色々とお金が掛かるから……。
それは今に限らず、将来に渡っても。
だから、稼ぐ為に外資で頑張るしかないんです。
海外への転勤命令を下されても、従わざるを得ないんです」
律も平沢家の事情については、憂から聴いた事があった。
唯の事で、色々とお金がかかっているという事を。
何より親が先立った後は、就職も生活も困難な唯は施設に預けざるを得ず、
その金額は膨大な額に上る。
その為にも、唯の両親は娘と離れ離れになろうとも
給料の良い場所で働かざるを得ないのだった。
それでも平沢家はかなり恵まれた部類に入るらしい。
唯の両親は幸いにして有能であり、職場も大手外資で給料は良かった。
自分達が先立った後も憂になるべく負担をかけずに、
唯の将来のプランを立てる事ができる環境ではあるのだ。
だが、障害児は親の経済状況を選んで生まれてくるわけではない。
一般家庭やそれを下回る所得層の家庭に障害児が生まれた場合、それは悲惨な事になる。低所得層では行政の援助から漏れてしまえば日々の暮らしにさえ忽ち行き詰まる。
中間層なら現在の糊口は凌げる事も多いが、子供の将来のプランまで図る余裕は無い。
即ち『この子より先に死ねない』という地獄のような現状に直面しているのだ。
その心配が無いだけ平沢家はまだ恵まれてはおり、その心配をかけまいと頑張っている両親を貶されたくは無いのだろう。
「何だ、つまり唯の存在が悪いって事か。
唯さえ居なければ、ご両親もそんなに苦労せずに良かっただろうし、
今頃もっと裕福だっただろうになぁ?
唯さえ居なければ、周囲も迷惑被らずに済んだしなぁ?
ふふ、唯は生まれてきちゃいけない子だったんだな」
澪は嘲弄的に笑いながら、唯の存在を否定していた。
「秋山さん……」
憂は酷く低い声でそれだけ言うと、一歩踏み出した。
その表情は憎悪に歪み、澪を睥睨する瞳は冷たく光る。
もうこれ以上は我慢ができない、その意思がありありと表れている。
だが、我慢できなかったのは律も同様だった。
「澪。今のは幾らヒートしてる最中だからって言いすぎだぞ。
謝っとけよ」
窘める律の声が響くと、澪は気まずそうに視線を漂わせた。
憂も律の声で我に返ったのか、歩みを止めた。
「澪」
律が言葉短く促すと、漸く澪は謝った。
「うん、今のは言い過ぎだった。ごめん」
だが、その視線は律に向けられていた。
「私に謝ってどうする。
憂ちゃんと唯に対してごめんなさい、だろ?」
澪は一瞬躊躇う素振りを見せたが、結局従った。
「悪かったよ、憂ちゃんと唯」
屈辱故であろうか、謝った直後には唇を噛み締めて目を逸らした。
「そんな不貞腐れた態度で謝って済むとでも」
澪の謝った後の動作が気に入らないのか、
憂が尚も追撃の言葉を放とうとしたが、それも律が遮って仲裁に努める。
「まーまー、澪は結構固いトコあるしさ。
キツイ事言っちゃった後で気まずいってのもあるだろうし。
ほら、熱くなった直後って、中々クールダウンできないもんじゃん?
見逃したってよ、ね?」
「律さんが言うなら……分かりました。
聴かなかった事にします」
渋々といった風ではあるが、憂も退いた。
憂は元の席に戻る途中で、律にそっと耳打ちして謝辞を口にした。
「さっきは、有難うございます」
「ん?ああ、いいっていって」
「本当に、有難うございます。
私があの女の言葉にキレて一歩踏み出した時に、
もし律さんがあの女を窘めていなかったら……。
きっと私は、あの女の首を絞めていたと思います。
お蔭で踏みとどまれました。有難うございます」
「え?あ、いやいや。気にしなくていいって」
律は憂の言葉に一瞬寒気を感じたが、すぐに思い直す。
(いや、今のは実際に澪が悪いよなぁ。
やり過ぎだし、言い過ぎだ。
唯に暴力まで振るったもんなぁ)
それぞれの座席に戻った澪と憂を見やってから、
律は唯に話しかけた。
「じゃ、りったやむぎちゃと遊ぼうか」
「あう?あーうー」
優しく語り掛けてやると、唯は不安に満ちた表情から一転、明るく笑った。
すっかり気まずくなった空気を振り払うように、紬が口を開いた。
「あ、そうだ。お菓子食べない?私持って来てるんだ」
「あう?おかし?やたー」
唯から先刻までの怯えがすっかり去った。
お菓子という言葉に反応して、両手を挙げて喜びを露わにする。
「ふふ、唯ちゃんに喜んで貰えると嬉しいわ」
紬は微笑むと、バッグの中から包みを幾つか取り出した。
「二種類とも甘いもので恐縮なんだけど……」
「とんでもありません。わざわざ有難うございます。お姉ちゃんは甘いものが大好きなので、喜びます。
ね、お姉ちゃんっ」
「あーう、ゆい、あまいもの好きっ。むぎちゃも好きー」
「うふふ、唯ちゃんたら」
二つとも、律も知っている有名な菓子だ。
(ROYCE'の生チョコに空也のもなかかよ。ムギも頑張るよなぁ)
果たして唯に味の機微が分かるか微妙ではあるが、
紬は相手が知的障害者だからといって軽んじたくは無いのだろう。
「わぁ、有名なお菓子じゃないですか。
いいんですか?手に入れるの大変だったでしょうに」
憂も包装紙を見て察したのか、頻りに恐縮しだした。
「んーん、偶々お家にあったの持ってきただけよ。
私の家、甘い物好きな人が少ないから皆に手伝って貰おうと思って」
そう紬は謙遜したが、実際にはそう簡単に入手できるものではない。
ROYCE'は北海道にあり、通販で入手するしかない。
空也は所在地こそ銀座だが、配送を行っていない為店舗で直接購入となる。加えて、予約していないと入手できない事で有名な老舗だった。
「流石はムギだな」
澪も先刻とは打って変わって、上機嫌で紬を讃えた。
尤も澪は、以前から平沢姉妹以外に対しては穏健な性質だ。
別に態度が豹変したというわけでは無い。
「でも、折角銘菓持ってきたところで、その味の有り難味って分かるものですかねぇ」
梓は思案顔で呟く。
「こらこら、梓。そんな事言ったら、唯が可哀想だろ?」
律が窘めたが、梓は蔑みを顔に称えて言葉を返してきた。
「いや、唯先輩の事ではなく、律先輩の事を言ったんですけど?
普段からガツガツ無遠慮にお菓子に喰らいつくあの姿、
それを思い起こしただけです」
「中野ぉっ」
堪らず律の口から非難の声が迸るが、
梓の対応は挑発的なものだった。
「ああ、失礼しました。確かに今のは、失礼が過ぎましたね。謝ります、ごめんね、律先輩。
あ、でも律先輩。貴女はさっき、これと同じ事を唯先輩にやりましたよね?
味の有り難味を理解できない、そう言った時貴女は唯先輩を連想しましたよね?
それ、唯先輩が可哀想だと思います。唯先輩に謝って下さい。私がさっき手本を見せましたから、幾ら律先輩でもできると思います。真似ればいいだけなんですから」
「いや、私は別にそんな心算は……」
「ご自身の非を認める事すらできないんですね?
まぁ視野狭窄な律先輩らしいですが。周囲の状況すら読めないような」
「梓ちゃん、今のは別に律さん悪く無いよ。
悪気なんて皆無だろうし。それに、先輩に対してその口の利き方は無いと思うな。
律さんはちゃんと味の機微の分かる、繊細な舌の持ち主だと思うよ」
言い淀む律に変わって、憂が梓の発言を遮って割り込んできた。
「憂……」
「まぁ、今回は憂ちゃんの言うとおりだろうな。
梓、お前の態度は先輩に対する礼をちょっと欠いていたぞ。それに律は料理が巧いから、味覚についてもきっと優れたものだろうさ」
驚いた事に、憂に加勢して梓を窘めたのは澪であった。但し、毒を放つ事も忘れない。
間髪いれずに
「尤も、憂ちゃんに先輩に対する礼儀云々を指摘されたくは無いだろうけどな。
私に対する口の利き方を改めてからなら、説得力もあったんだけど」
と言葉を続けていた。
憂も負けじとやり返した。
「先輩という敬称が似合う相手なら、幾らでも尊敬を口調に込めますけどね」
梓はそんな二人を横目に眺めていたが、律に向き直って
「失礼しました。私が言い過ぎたみたいです。謝ります。ごめんなさい」
と素直に謝った。
律も手を振って答える。
「あ、いや。いいって。私の発言も不用意だったし」
(澪や憂ちゃんの言う事なら、割と素直に聴くんだなー、梓は)
自分にももっと柔らかな対応をして貰いたいとは思ったが、口には出さない。折角梓が折れたのに、ここで更に悶着の種を蒔く心算は無い。
その時、唯が痺れを切らしたように唸り声を発した。
「うー、うー。ゆい、ぽんぽん空いたー。
はやくおかし食べるー、むふぅー」
「あ、ごめんね、唯ちゃん。すぐに包装開けるからね」
紬が包装を開けて手渡すと、唯は美味しそうにチョコやもなかを頬張った。
律達も、唯に倣って菓子に手を伸ばした。
食べる事で、張り詰めた諍いの琴線から目を逸らすように。
紬の持ってきた菓子をあらかた食べ終わった頃、唯が自慢げに呟いた。
「ゆいもおかしできるよー、ゆいもおかしじょーず」
「ん?唯もお菓子作れるのか?」
律が問いかけると、唯は胸を張って答えた。
「あーう。ゆい、じょーずじょーず」
「実は、律さん達が来る前に作ってあるんです」
「あ、それは御免なさい。ちょっと余計な事しちゃったわね。
でも私、友達が作ったお菓子食べるの夢だったの。
貰ってもいいのかしら?」
実際には律が作った菓子を紬は食べた事がある。
だが、敢えてその事を指摘しなかった。
紬なりに巧く唯や憂の機嫌を取ろうとしているのだろうから。
「あ、はい。是非食べてあげて下さい。
姉も喜びます」
「って、本当に唯先輩が作ったの?」
「あーうー」
梓の問いに、唯は誇らしげに胸を反らす。
だが問いかけた梓の声には不安の色が篭っており、視線も憂に向いていた。その意味を感じ取ってか、憂が付け足す。
「私も手伝ったけどね」
律にもまた、梓が不安になる気持ちは理解できたし、
だからこそ憂が手伝っていると知って胸を撫で下ろした。
実際に唯が一人で食べられる物を作る事は困難だろう。
それでも梓の顔は晴れない。 梓にしてみれば、唯が調理に携わったというだけでも嫌悪の対象なのだろう。
「うーい、りょーりじょーず。ゆいもじょーず、きゃきゃきゃっ」
そんな一同の胸中など慮る事無く、唯は手拍子を叩きながら自分と妹を無邪気に称賛する。
「お姉ちゃんったら。今持ってきますね」
憂は唯に褒められた事もあってか、頬を朱に染めて席を立った。
程無くして、憂は皿に盛られたプリンをお盆に載せて戻ってきた。その数は6つ。丁度、リビングに居る人間の数に一致する。
だが、澪と梓からすぐに拒否の言葉が放たれた。
「私は要らないよ」
「御免ね憂、憂が折角作ってくれたのに。私もパス」
「いや、私は別にいいんだけど……。お姉ちゃんが折角作ってくれたのに……」
憂は残念そうに言った。その気持ちは律にも理解できた。
幾ら憂の手伝いがあったとはいえ、唯が調理するなど並大抵の労力では無い。それを無下にされては、唯があまりにも不憫だ。
何より紬が持ってきた菓子は食べるのに、唯が折角作った菓子を食べないという態度が律には気に入らない。
梓とはなるべく角を立てたくないと思っている律ではあるが、
湧き上がる不快感を抑えられずに二人を咎めた。
「いや、さっきムギが持ってきたお菓子は普通に食ってたじゃん?
それで唯が折角作ってくれたのは食べないとかどうよ?」
梓が咄嗟に色を為して律を睨みつけた。
だが、梓が何か言うより先に、澪が言葉を発する方が早かった。
「別にそういうワケじゃないよ。カロリーコントロールとかの問題でさ。
さっき甘い物を食べてしまったからこそ、今度は控えたいんだ。
幾らなんでも、この短時間に連続で食べるのはちょっと差し障りがあるからな」
尤もな言い分だ。
「まぁ、ならしょうがないけど」
律もそれ以上の追及を諦めざるを得ない。
「ああ、なるほど。ダイエットというわけですか。
大変ですね、そういうの一々気にする人は」
憂が当て擦りめいた言葉を口にすると、唯が反応を示した。
「あう?うーい、だいえっとってなーに?」
「知らなくていい事だよ、お姉ちゃん。
私もお姉ちゃんも食べても太らない体質だから、気にしなくていいの。
秋山さんみたいな見た目ばかり気に掛ける人だけ気にしてればいいお話。
内面磨けばいいのにね」
強烈な皮肉を受けて、澪の頬は紅潮して瞳は鋭く憂を見据えた。再び一触即発の風を呈する二人であったが、そこに梓が割り込んできた。
「ねぇ、憂。その言い方はどうかと思うな。
健康上の理由でダイエットする人だって居るわけだし。
何より、他人の体型に関わる事をアイロニカルに表現するのは酷いと思うよ。
プロポーションっていうのは、各々の拘りだってあるんだし、
その事を指摘されて深く傷つく人だって居るんだよ?
ていうか私だって体重が気に掛かるから、これ以上の間食を控えてるんだよ?」
梓が自身の体重に関して神経質になっている場面を律は見た事が無かった。恐らく唯の作った菓子を避ける為、澪に便乗したのであろう。
だが、それを明かす手段も無ければ益も無い。だから律は敢えて何も言わなかった。
「うーん、確かに梓ちゃんの言うとおりだね。
すみません、澪先輩。気に障る事言っちゃったみたいで」
棘を含めてはいるものの、憂は一応の謝意を見せた。
「あ、憂ちゃん、私早く食べたいな」
紬がそのタイミングを見計らって、言葉を割り込ませた。
「あ、すいません。すぐに配りますね」
憂は軽く頭を下げると、プリンを配り始めた。
(ナイス、ムギ)
紬の機転の利いた催促に、律は内心喝采を送った。
憎みあう二人の応酬を放っておけば、収拾不可能なまでに過熱していってしまうだろう。
それを止めてくれたのは有り難かった。
(2011.01.11-2011.01.12)
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最終更新:2016年07月03日 17:00