OUTside (vol.3)
さて、プリンの味であるが、唯にしては上出来であった。
勿論憂が色々と手伝った結果ではあろうが、律は率直に唯を褒めた。
「へぇ、美味いじゃん、唯」
「あう?おいし?きゃきゃきゃ」
唯は素直に喜んだ。
感情を直に表現する唯が可愛らしくて、律は自然笑顔になった。
「本当に美味しいわ、唯ちゃん」
紬の称賛にも、唯は素直な喜びを見せた。
「あーう。ゆい、じょーず、じょーず、きゃきゃっ」
「ふふ、お姉ちゃん、お上手よ」
喜びを露わにする唯が嬉しいのか、憂も笑顔になった。
平沢姉妹二人の爽やかな笑顔を見ていると、
色々な衝突があったにせよこうして平沢家を訪問した事が成功に思えた。
(この前に訪問提案した時は部室で色々揉めたし、
今日だって憂ちゃんと澪が衝突したり
梓が相変わらず私に噛み付いてきたりしたけど、
姉妹の笑顔見てると来て良かったって思えてくるな)
唯は一頻り手拍子して自身を称えた後、思いついたように口を開いた。
「ゆい、もっと作ったよー」
言葉足らずな唯を、憂が詳細を話す事によってフォローした。
「あ、実はプリンだけじゃなくクッキーも作ったんです。
また後でお出ししますね」
後で出す、と言ったにも関わらず紬が口を挟んだ。
「あ、私、今食べたいな。
後だと帰る時間とかと被るかもしれないし」
律は見逃さなかった。
口を挟む直前に紬が自分に目配せしてきた事を。
そして、言葉を放ちながら澪と梓を一瞥した事を。
(なるほど。
後で出すとなると、また澪や梓は拒絶して言い訳しなきゃならなくなるな。
それは悶着の原因だ。
ならプリンの流れのままクッキーも食べてしまうのがいい)
紬の機転に感心しつつ、律も便乗した。
「そうだなー、ちょっとお腹も空いてるし、今欲しいかな」
「あ、分かりました。ちょっと待ってて下さいね。
温めたりとかの工程が残ってるんで」
敢えて催促してくる二人に、憂も事情を察したのであろう。
機敏な動作で立ち上がると、キッチンへと向かっていった。
「ふふ、唯ちゃん料理上手だから、私楽しみよ」
「そうだな、唯は料理の才能あるって」
紬と律から褒められて、唯は上機嫌だった。
「あーうー、ゆい、りょーりじょーず、きゃきゃきゃっ。
うんたんもじょーず、きゃっきゃっ」
律は唯の言う『うんたん』をカスタネットの事だと解釈している。
聴いた事は幾度かあり、上手だと褒めそやした事があった。
本心からの称賛では無かったものの、唯は嬉しそうだった。
「そうだな、うんたんも上手だよな」
「あーう。ゆい、他もじょーず。
ぶたさん、ご飯じょーず」
「ん?」
とりあえず他にも上手なものがあると唯は主張しているらしいが、
律には意味が掴みかねた。
(豚の餌が上手?でも豚なんて飼ってないよな、平沢家って。
豚肉使った料理が上手て意味か?)
訝しげな表情を浮かべて紬を見やるが、
紬も見当が付かないのか眉根を寄せて首を傾げるだけだった。
唯は立ち上がると、
「じょーず、じょーず、きゃきゃ」
と言いながらリビングを出た。
「なーんか実演してくれるんかな?」
「そうみたいね」
顔を見合わせる律と紬に、梓が呆れ混じりの言葉を放つ。
「あーあ、調子に乗っちゃった」
(邪険に扱えば唯の機嫌が悪くなってぐずるだろうが。
そしたら、煩いとか言ってお前も機嫌悪くなるだろうが)
梓に対する不満の念は、やはりここでも口には出さない。
尤もすぐに唯が戻ってきたので、
梓との悶着を避ける意図が律に無くとも反駁はしなかっただろう。
「あーうー」
上機嫌な唯の手に握られた”それ”を見て、律は口に出して確認した。
「お、豚の模型か」
”それ”は唯が跨って座れる程の大きさだった。
(豚のペットを模した人形か?
あれ使って、餌やる所をジェスチャーするってのかな?)
律が見ていると、唯は”それ”を床に置いた。
「まさ……か?」
紬が頓狂な声を上げた。
「ちょっ、まさか唯先輩?」
梓からも訝しげな声が放たれる。
(ん?)
不審を感じた律は、もう一度”それ”に視線を投げて凝視した。
豚の背に当たる部分には、空洞が出来ている。
(って、まさかあれ、豚を模ったオマル?
おい、まさか唯)
「唯っ」
澪ですらが名を呼んだきり絶句する事が精一杯だった。
律に至っては、声を出す事すらままならない。
唯の動作は素早かった。
硬直する一同に構う事無く、下着を下ろしてポータブルトイレに跨った。
そして──
「ぶぶぶー」
その掛け声と共に、排便した。
悪臭がリビング内に広がり、律達の鼻腔を不快に衝く。
だが当の唯は嬉しそうだった。
「ゆい、ぶたさんのご飯じょーず、ぶたさんうれしい。きゃきゃっ。」
はしゃぎながら排便する唯を、律達は呆けたように見つめていた。
今更止めるなど、もう遅すぎる。
排泄が終わると、唯は満足そうに息を吐いた。
「あふぅー」
そして唯は、期待を込めた瞳で律と紬を見やった。
(褒める……べきなのか?)
律の知っている以前の唯はよく漏らしていた。
それを考えれば進歩であり、
その進歩を見せ付けて褒めてもらいたい気持ちが唯にはあるのだろう。
だが、人前での排泄は決して褒められる事では無い。
(限定条件で褒めつつ窘めるべきか?
自力でトイレが出来たのは凄いけど、人前でやる事じゃないって。
でもそれ、唯に理解させるのはちょっと至難か?)
迷ったまま何も言葉を返さない律に痺れを切らしたのか、
唯は歩いて近付いて来た。
(あー、拭いてない。それ以前に、近くに拭くようなものも無い……。
お尻拭く事まではまだ、習得してないのか)
拭いていないが為、歩くと偶に臀部から汚物の澱が垂れて床に落ちる。
その事を唯は気にも留めず、律へと近づいてきた。
「あうー、ゆい、ぶたさんにご飯あげたよ?」
アピールするその姿を見れば、褒めて欲しい事が分かった。
だが律は未だ迷っていた。
「りった、ゆい褒めるー」
とうとう、褒めるように促してきた。
(って、私の判断でどうこうしていいのか?
こういう指導って、憂ちゃんの許可得てからじゃないと……。
いや、それ以前に、お尻拭いて無いんだよな。
オムツも脱いだままだし。そのまま近づかれると、流石に……。
密着されたら……。
憂ちゃん、早く来てくれ……)
律は祈るように念じたが、憂は未だキッチンに居るらしい。
そうこう迷っている内にも、唯は一歩、また一歩と近づいてきた。
そして遂に手の届く範囲にまで唯が接近した。
そのまま律に抱きつくように手を伸ばし──
「っ。こら、唯っ。ふざけるのもいい加減にしろっ」
「あうっ」
我に返った澪が素早く律に近づき、唯を突き飛ばしていた。
唯は激しく転んで、体を床に打ちつけた。
「びぇっ、みおたがいじめた、むひぃー」
寝転んだ姿勢のまま、唯が抗議の声を発する。
澪は近寄りながら、激しい語調で唯を詰った。
「何やってるんだ、バカ唯。汚いんだよ。
そんな汚い姿のまま、律に近づくなっ」
「あう、ゆい汚くないっ。
りった、ゆい褒めるー」
「あ、ああ」
律が返事をすると同時に、澪が遮った。
「律、もうこんなのに気を使わなくていいよ。
おい唯、いいか、よく聴けよ。
汚物のついたお尻のまま、人に近づくな。
人前で排泄するなっ」
「むふぅー、ふぅー」
唯は威嚇するように、呼気を荒げた。
その反抗的な態度が澪の癇に障ったらしい。
澪は唯の胸倉を掴むと、揺さぶりながら詰った。
「臭い上に汚い、それで無反省ときたか。
お前は律や梓、ムギと言った普通の人に近付いちゃいけないんだよ。
お前のせいで、何もかもが狂っちゃうんだっ。
このっ、クズがっ」
揺さぶられる度に体が床に打ちつけられるが、
唯は恐怖故か抗議の声を発する事もできず、涙ぐむ事が精一杯だった。
「何をしているんですかっ」
憂の甲高い声がリビングに反響した。
クッキーが盛られた皿を手に抱えているところを見るに、
調理が終わるタイミングと騒ぎを聞きつけたタイミングは合致していたらしい。
憂はクッキーをテーブルに置くと、澪を睨み据えた。
「お姉ちゃんに何て事するんですかっ」
「ふん、こいつが汚らしい事やらかしたから、叱ってただけだ」
澪が手を放すと、唯は一目散に憂の後ろに隠れて泣き出した。
「むひぃー、みおたがゆいいじめたー。むひぃ、ひー」
「大丈夫?お姉ちゃん。ごめんね、私が目を離した隙に。
本当にごめんね、お姉ちゃん……」
憂は一瞬涙ぐんで唯を抱きしめたが、
次の瞬間には再び澪を見据えていた。
「何て事してくれたんですか……。絶対に貴女を許す事はできません」
「見て分からないか?」
凄まじい剣幕で睥睨する憂に怯む事無く、
澪は冷静な仕草でポータブルトイレを指差した。
続いて汚物の澱が零れている床を指差す。
最後に唯の剥き出された下半身を指差して、
言葉を続けた。
「唯が私達の前で、排泄したんだよ。
その後、お尻を拭きもせずオムツを履きもせず、律に褒めるように迫った。
汚物の付着するお尻を晒したまま、な」
憂は指差された先を順次目で追って、状況を把握したらしい。
すぐに律に向かって頭を下げた。
「ごめんなさい、お姉ちゃんが迷惑かけちゃったみたいで」
「あ、いや。悪いのは寧ろ私の方だからさ。
ほら、憂ちゃんが居ないんだから、私達が面倒見なきゃいけなかった。
それを怠ったんだから、非は寧ろこちらにあるよ。ごめんな」
頭を下げる憂に対し、律も謝罪を返した。
憂は律や紬の催促を受けて席を外したのであるから、
その間の唯の面倒を見るべきは自分達だったという意識が律にはある。
それだけでは無い。
唯を守るのもまた、自分達の役目であったと律は思っている。
即ち澪が唯を押さえつけた時に、澪を制止するべきだった、と。
制止できず唯に恐怖と苦痛を与えてしまった事について、
律は謝ったのだ。
加えて律自身、澪の行動は些か過剰だと感じてもいた。
澪にしてみれば律を守る心算があったのだろうが、
突き飛ばした段階でそれは終わっており、
胸倉を掴んで床に背面を繰り返し叩き付けた行為は過激だと思っている。
「律っ。何言ってるんだよ、悪いのは唯、だろう。
お前が唯について責任を感じる必要は何処にも無いんだよ」
律の心持を理解していないのか、
澪の口から強めの口調で言葉が放たれた。
「一応、律さんが責任を感じる必要が無いって点はその通りです。
悪いのはお姉ちゃんじゃなく、私ですが。
その点だけは、訂正させて頂きます」
負い目故か、憂も澪の発言を半ば以上支持した。
ただ、唯に暴力を働いた事についてまで許す心算は無いらしい。
すぐに言葉を続けていた。
「秋山さん、確かに非はこちら側にあります。
ですが、お姉ちゃんに働いた暴力まで許すわけにはいきません。
その点については、お姉ちゃんに謝って頂きます」
「誰が謝るか。私は自分の行動が間違っていたとは欠片も思っていない。
第一、唯なんかに謝ったら調子づかせるだけだ。
唯は謝罪の意味なんて分からない。ただ相手が下手に出てるから、
自身の優位を感じて調子に乗り出す、それだけの結果に終わる。
そんなのに謝る価値は無いんだよ」
「何ですってっ?
お姉ちゃんだって、人間なんですよ?私達とは少し違うだけで。
なのに謝る価値が無いだなんて言われる筋合いはありませんっ。
増してや、暴力を振るわれる謂れなんてありませんっ」
憂は甲高い声で糾すが、澪は一向に怯む気配を見せなかった。
澪には憂を黙らせる切り札があるのだから。
「暴力と形容されるのは些か大袈裟だと思うけどね。
ちょっと躾けただけの話さ。
それに、律に危害が及びそうだったしな。
行為が若干過激になるのもしょうがない話だ。
それとも憂ちゃんは、律が危害加えられてもいいと言うのかな?」
憂は顔を歪めて俯いた。
実際に律に危害が及びそうだったのだから、そこについての反論はできない。
「そんな事は……。ただ、秋山さんの行動は過激でしたし……。
勿論律さんを守る為なら、多少手荒になるのも致し方無いとは思いますが……。
胸倉掴んで怒鳴り散らすっていうのは、流石に……」
憂の反駁は明らかに弱々しいものとなった。
律に対する負い目、それが憂に圧し掛かって口を重いものへと変えている。
「排泄して拭きもせずオムツもせずに律に迫ったんだぞ?
そんな不衛生な行動を許すわけにはいかないだろ。
しっかりと躾けないと、また同じ事を繰り返す。
実際に、律に迫る唯は褒めて欲しいとか言っていたぞ。
つまり、人前で排泄した事を悪い事とは思っていないんだよ。
寧ろ善い事とすら思っている。痛みで以って教えないと繰り返すって事なんだよ」
澪の追及は容赦が無かった。
「お姉ちゃん、今までお漏らししてたんですけど、
この前オマルでトイレする事憶えまして……。
まだ漏らしちゃう事はあるんですけど、それでも結構オマル使い慣れてきたから。
それで、褒めて貰いたかったんだと思います」
弱々しく呟く憂に、澪は更に言葉を放つ。
「そんな話で同情を買おうとでも思ってるのか?
大体、トイレを憶えようが憶えまいがどうでもいいんだよ。
人前で排泄するなという事を教え込むべきなんだよ。
拭くという行為すらできてないじゃないか。
ただでさえ不潔な唯が、より一層不潔になっただけだ。
そこを躾けて何が悪い」
抉るような澪の言葉に、憂は必死になって抗する。
「分かってますっ。律さんには本当に申し訳無いと思っています。
ですが、躾は私の方で行います。
澪さんの乱暴なやり方では、お姉ちゃんが怯えてしまって」
「怯えさせるべきなんだよ、そいつは。
大体、憂ちゃん達の躾が甘いから唯が付け上る。
唯を人間扱いするから駄目なんだ、痛みで憶えさせるしかない。
だから私が自分の行動で反省する点があるとするなら一つ。
あんな温い行動じゃなく、殴るべきだったって事さ」
「躾が至らないのは私のせいですっ。
なら私に暴力を振ればいいっ、私を殴ればいいっ。
だから……お願いだからお姉ちゃんを殴ったりしないでっ。
お姉ちゃんに暴力振るわないでっ。
私が……私が悪いんだから、私を気が済むまで殴っていいからっ、
お姉ちゃんを苦しめないでっ」
冷たく言い放つ澪に対して、憂は拳を握り締めて叫んだ。
双眸からは一滴、二滴と、雫がこぼれて床を打つ。
悲痛な叫びはリビングを劈き、空を切り裂いて律の心に突き刺さった。
もうこれ以上見ていられなかった、聴いていられなかった。
澪の行動に律を守る意図があろうとも、
憂が傷つき唯が怯える場面を静観し続ける事は限界だった。
「いや、憂ちゃんは悪く無いよ。
澪なんかの言う事、真に受けちゃ駄目だ」
律が思い切ってそう言うと、澪の表情があからさまに変わった。
驚愕に満ちた瞳が、律に注がれる。
「り、律?」
「お前、色々とやり過ぎだし言い過ぎなんだよ、澪。
いい加減我慢できないんだよ、友達の唯や憂ちゃんがお前の心無い言葉や力で虐げられるのは」
律は率直な思いを叩きつけてやった。
今まで澪が憂を悪し様に罵り唯を蔑む態度を見逃してきた理由は、偏に『全員仲のいいHTT』という目標があったからだった。
だがそれはもう、叩きつけられたガラスのように砕け散った。
梓の自身に対する態度や澪の唯に対する扱いに壁の高さを感じて挫けた、というだけでは無い。
その目標に固執して憂や唯が嬲られる様を、見過ごす事ができなくなったからだ。
「律、何を言ってるんだ。私は」
澪の発言を遮って、律は言葉を吐いた。
「ああ、そうだな。確かにお前は私を助けた心算かもしれないな。でもな、別に危害っていう程でも無かった。
抱きつかれた所で、正面から抱きつかれるんだから私の服が汚れる可能性は低い。
そもそも抱きついてきたかどうかも疑問だ。
手は伸ばしてきたが、精々私を掴む程度だったかもしれない。
何より、突き飛ばした時点でお前の目標は達成したはずなのに、その後に胸倉掴んだってのは明らかに過剰で野蛮な行為だ。
お前の唯に対する嫌悪の発露以外の意味なんて無かったよ」
「いや、そうまでしないと唯は分かんないだろ。だって唯は」
「動物じゃねーんだよっ。暴力振っていい理由にならねー」
律にしては言葉が荒くなったが、それだけ感情も昂ぶっていた。
対する澪は縋るような声で言葉を紡ぐ。
「律……。お前は誑かされてるんだよ、冷静になれよ。
お前は、こちら側の人間のはずだろう?
お前の居場所はそちらに無いよ……。
憂ちゃんや唯に騙されてるんだよ……」
「憂ちゃんや唯を悪く言うな。私の友達だ」
「私だって友達だろっ?」
澪が甲高い声で叫んだが、律は動じなかった。
「ああ、そう思ってたよ。そこまで酷いヤツだとは思ってなかったからな。
でももう、目が覚めたよ」
「律……幼馴染の私より、そいつらを取るのか?」
澪の声は殆ど絶望に満ちていたが、律は同情する気になれなかった。
「ああ、こちらに立たせてもらう」
「唯なんかより私の方が役に立つだろっ?」
「そういう損得勘定で友達選ばないよ。
そういう損得勘定が無い唯は純粋だよ、その純粋さがいいんだよ。
お前には分からないだろうけどな」
「律……律……」
二度幼馴染の名を呼んで、澪は虚空に視線を漂わせた。
暫くその姿勢で居た後、唐突に澪は破顔した。
そして、間延びする声がその口から放たれた。
「りーつ、仲良くするー。
怖い、だめーっ」
固まったのは律だけでは無い。
憂も梓も紬も固まって、驚愕に満ちた視線を澪に向けて放っていた。
「りーつ、みおと仲良くするー」
一瞬、澪が狂ったのかと案じた律だったが、すぐに心配した己を恥じた。
冷静に観察すれば、澪の両頬には羞恥を示す赤色が差している事が分かったから。
澪は狂ったのでは無く、演じているだけなのだ。
「何考えてるんだよ……」
怒りを抑えて、静かに言葉を放つ。
「あう?みお何も考えてないよー、きゃきゃきゃっ」
「唯をバカにしてんのかっ」
怒りを抑えきれず、激しい言葉が放たれた。
「むひー、みお、唯バカにしてない。
こらー、どなる、みお怖い、だめーっ」
律には、澪が知的障害者を演じて唯を揶揄しているようにしか見えない。
その態度は律の逆鱗に触れ、語調を荒々しいものへと変えてゆく。
「ふざけるな……。お前と唯を……一緒にするんじゃねぇ。
唯はそんなんじゃない……唯はお前とは違うんだ……」
唯が揶揄されている事が我慢ならなかった。
何より、それで唯を演じた心算になっている澪が許せなかった。
対する澪は、一瞬凍りついたように固まったが、
すぐに内股気味に姿勢を変えた。
澪の両頬の赤みが更に増し、体が小刻みに震えた。
そして──
澪の足を、液体が滴った。
(えっ?)
律は我が目を疑った。
だが眼前の光景は現実のものだ。
「りーつ、みおのパンツ、汚い汚い」
排尿を終えた澪は、律に向けて笑顔で言葉を放つ。
足元には、水溜りができていた。
「……ざけんなっ」
思わず、平手で澪の頬を打っていた。
その勢いのまま、遠慮の無い言葉を浴びせる。
「そこまでして唯を馬鹿にしたいのかっ?
お前には限度ってものが無いのか?
お前には本当にウンザリだ。お前なんかと友達にならなきゃ良かったよ。
お前なんか……嫌いだ」
澪の双眸が大きく見開き、涙が零れた。
「律……違うんだ……私はただ」
「聴きたくないっ。聴く事なんて何も無いっ。
黙れっ、お前の声なんか聴きたくないんだっ」
「り、律……」
澪は蚊の鳴くような声でそれだけ言うと、茫然自失の体で立ち尽くした。
満身創痍のその姿に、冷静さを取り戻した憂が追い討ちをかける。
「秋山さん、お姉ちゃんが人前で排泄した事をあれだけ罵っておきながら、
自分もやっちゃうんですね。
大きいか小さいかの違いはありますが、それは些事です。
排泄それ自体を恥らうものでしょう?」
憂は物干し台に掛けてあった汚れた雑巾を掴むと、
澪の顔目掛けて投げつけた。
それを狙ったわけではないだろうが、澪の頭に雑巾が見事に載った。
「人の家汚したりして。汚いんで、自分で綺麗に拭いて下さいね。
誰も貴女の排泄物なんて掃除したくないから」
憂の声は、積年の恨みが篭っているかのように冷たい。
「そうだな。澪、それ拭いとけよ」
律も憂に加勢した。
律の加勢を得た憂は、更に言葉を重ねる。
「お姉ちゃん用のオムツ、余ってるんで一つ上げましょうか?
濡れた下着で帰るのも嫌でしょうし、何よりお漏らししちゃう貴女にぴったりです。
今持ってきますから、頭でも汚い場所でも好きな所に被って帰って下さい」
憂はそれだけ言うと、リビングを出て行こうとした。
だが、梓の叫びにその動きは止められる。
「もう止めてよっ、憂っ、律先輩っ」
発言が終わると同時に、梓は澪に歩み寄る。
そして澪の頭に載っている雑巾を手に取り、足元の水溜りを拭き取った。
続いてポケットからティッシュを取り出すと、澪の両脚を丹念に拭き始める。
「梓ぁ……私……律に……」
澪は未だ放心状態であり、放たれる言葉も断続的だった。
「いいですから、もう」
「私、律に……嫌われちゃったよぉ……」
「いいんですよ、あんなのには嫌われても」
言葉と共に、律に鋭い一瞥が放たれた。
「あんなのって、先輩に随分な口利くなぁ?」
凄んでみせるが、梓は鼻で笑っただけだった。
梓は足を拭いたティッシュをゴミ箱に捨てると、憂に問いかけた。
「拭いた雑巾、何処置くの?」
「捨てて。もうそれ、使えないから」
梓は溜息と共に、雑巾もゴミ箱に放った。
再び澪の下に戻った梓は、ハンカチで澪の目元を拭いながら優しく語りかけた。
「帰りましょう、澪先輩。これ以上ここに居る必要なんてありません」
涙まで拭いた梓は、澪の手を取って歩き出した。
リビングを出る際、律に鋭い視線を投げて言葉を放ってきた。
「律先輩……貴女は本当に見損ないました。
もう先輩なんて敬称付けるのも馬鹿馬鹿しいくらいです……」
「梓、駄目だよ、律にそんな事言っちゃ。律は……悪く無いよ?」
澪が庇ったが、梓はそれさえ律を攻撃する材料へと変えて糾弾した。
「澪先輩は……貴女から酷い仕打ちを受けた後でさえ、貴女を庇っています。それなのに貴女って人は……。
さっきだって本当に、律先輩が危険だと感じたから咄嗟に唯先輩を突いたんでしょうに。
なのによくもまぁ、あそこまで澪先輩を甚振れたものですね?
見損ないましたよ。先輩としても、人間としても」
「中野……」
努めて低い声で梓を呼んだが、梓は再び鼻で笑って返してきただけだった。
それ以上論戦する心算も無いらしく、梓はそのまま澪を伴って平沢家を後にした。
澪と梓が去ったリビングに静寂が訪れたのは一瞬だった。
「さーて、すっきりしたな。
んっ、美味しそうなクッキーじゃん。早速だけど、貰っていい?」
律の声は明るかったが、それは繕われた明るさだった。
「りっちゃん、追いかけなくていいの?」
紬が問いかけの形をとって促したが、律は手を振りながら拒んだ。
「いいよ、放っとけば。それにどうせ、今あいつ等と顔合わせても
口論が再発するってだけの話さ」
紬は口元に手を当てて少し考え込む仕草を示した後、
肯きながら言葉を返した。
「そうね、ちょっとお互いクールダウンする時間は必要かもしれないわね。
じゃあ憂ちゃん、改めてこのクッキー頂いてもいいかしら?」
「あ、はい。どうぞ」
クッキーの味も上々だった。
律や紬が褒め、唯と憂が喜ぶ。
それは微笑ましい光景ではあったが、室内には何処か乾いた雰囲気が漂っていた。
澪や梓との口論は、重い雰囲気をリビングに残すという痕を残している。
(すっかり白けちまったなぁ)
律自身、先ほどの出来事を吹っ切れているわけではないのだ。
今は忘れようと努めているのだが、思考が澪や梓から逸れていかない。
その為発言もテンポが悪く、
明るく振舞っている態度に無理がある事も律自身承知していた。
(日を改めた方がいっか。
どうにも気分が乗らないし、
このまま暗い雰囲気を引き摺るのも憂ちゃんや唯に悪いし)
クッキーを食べ終わるタイミングを見計らって、お暇を告げた。
「あう?りったとむぎちゃ、もう帰る?」
唯の声にも顔にも寂しさが漂っていた。
「ごめんな、また来るから」
「唯ちゃん、また今度ね」
「あう。ゆい、ぶぶぶーへた、嫌い?
だから帰る?」
どうやら唯は、排泄が下手だから律達が自分を嫌いになって
帰ると思っているらしい。
律は優しく頭を撫でてやった。
「嫌いじゃないよ。唯は上手だよ、お利口さんだよ。
そろそろ帰らないといけないから帰るってだけの話でさ」
「うー、みおたとあずなん、ゆい嫌い?
ぶぶぶーへた、嫌い?」
梓と澪が怒って帰った事も、自分の排泄が下手だからだと思っているらしい。
巧拙の問題では無いが、原因が自分にある自覚は一応感じているのだろう。
「うーん、嫌ってはいないかもな。
唯も人前でブブブーしちゃ駄目だぞー。
後な、ブブブーした後はちゃんと拭かなきゃ駄目だ」
「あーう?」
首を傾げる唯に代わって、憂が返答した。
「それは私の方で教えておきますね。迂闊でした……。
そのせいで、今日は律さんにもご迷惑が及んでしまって……。
本当に何とお詫びしたらいいか」
「いや、だから私が監視怠ったのが悪いんだしさ」
再び恐縮する憂に、律もフォローの言葉を放つ。
「ういー、ゆい、何かおぼえる?」
「そう、後で教えてあげるね。
おトイレした後は、紙で拭かなきゃいけないんだ。
後ね、私以外の人の前では、おトイレしたら駄目よ?」
「やー、ゆい、じょーずっ。りった、褒めるー」
唯は駄々を捏ね出した。
どうしても褒めて欲しいのだろう。
「お、お姉ちゃん。駄目だよ、困らせたら……」
戸惑う憂に、律は助け舟を出した。
「じゃ、また今度見せてくれ。
但し、唯。
りったと憂ちゃん以外の前じゃ、見せたら駄目だぞー?
約束できるか?」
「りった、ゆい褒める?」
「ああ、褒めるよ。だから、りったと約束できるな?」
「あーう、ゆい、やくそくするー」
小指と小指を重ね合わせて、律と唯は約束を交わした。
「じゃ、またな、唯。
憂ちゃん、早速だけど明後日の放課後空いてる?」
「あ、はい。空いてますけど」
「んじゃ早速、その日にまたお邪魔してもいいかな?」
「え、私は構いませんけど……律さんはいいんですか?」
「いいよ、どうせ部活は休みだ。
今日はちょっと連れのせいで白けちまったからな、その埋め合わせさせてくれ」
澪や梓を連れてきた結果、憂や唯を傷つけてしまった。
しかも内輪揉めめいた見苦しい口論まで展開して、
すっかり場の空気を重くしてしまった。
早い内にそれらの埋め合わせをしたかった。
それだけでは無い。
律の中では、唯を褒めてやれなかった悔いが残っている。
(唯は唯なりに頑張ってオマル習得したんだから、
あの時褒めてやるべきだったんだよ。
そうすれば唯は満足しただろうし、澪の出る幕だって無かったはずだ)
その悔いを贖いたかった。
「そんな、埋め合わせだなんて……。
でも、お姉ちゃんも喜びますっ。
私も、律さんに遊んで頂けるのは嬉しいです。
面白いですし、料理もお上手で。
今日も色々と助けて頂きましたし」
「照れるな、そういう風に言われると。
じゃ、明後日は私一人で行くからさ。
その時に唯、りったに上手な所見せてくれよな」
「あーうっ」
胸を張った唯から自身に満ちた答えが返ってきて、律は安堵した。
「じゃ、また」
憂と唯に向けて手を振って、律は玄関の戸を潜って歩き出す。
後ろでは、紬が挨拶をしていた。
その紬と一緒に帰る為、律の歩調は緩やかだった。
「今日はお邪魔したわ。また遊びましょうね」
「今日は本当にありがとうございました。
レアなお菓子まで頂いてしまって……」
「気にしないで、またね」
玄関の戸が閉まる音が聴こえ、程無くして紬が追いついて来た。
「明後日、私は行かなくていいの?
一人で行くとか言ってたけど」
「ああ、ほら、ムギだって本当は他人の排泄見るのは嫌だろ?」
「りっちゃんはどうなの?」
「唯以外なら嫌だよ。でも唯の場合は特別だよ。
頑張ってオマルの使い方憶えたんだろうしさ。
何より、私に褒めてもらいたいみたいだし。
まー、一回くらいならいいんじゃね?」
「そう……ならいいんだけれど。
それはそうと、部活が無いってどういう事?
私、初耳よ?」
「んー、さっき決めた事だからな。
今週いっぱいは休もうかと思う。
ほら、今日こんな事があって、皆冷却期間が必要だろうしさ」
冷却期間が必要なのは主に律と梓や澪の間であって、紬には関係の無い話だった。
だから律は一言謝った。
「ごめんな、ムギ。お前は誰とも険悪になって無いもんな。なのに巻き込んじまって」
「そんな、気にしないで。
それより……来週からは、また部活できるのよね?」
「多分……な」
不安げに問う紬に対し、半ば以上偽りの言葉を返した。
恐らくこのまま終わるだろうと律は予想していたし、終わってしまっても構わないとさえ思っていた。
「そう……。部活の休みをさっき決めたのなら、
まだ澪ちゃんや梓ちゃんは知らないはずよね?
りっちゃんから伝える?」
「んー、ムギ、頼んでいいか?
澪や梓と今話交わしたところで、またトラブりそうだから」
「分かったわ。私から伝えておくわね」
「悪いな、ムギ」
「んーん、気にしなくていいわ。
私がパイプ役になれるなら、喜んでなるわ。
ここで更にりっちゃんと澪ちゃんや梓ちゃんが揉めちゃって、
それで部活にヒビが入るのは本意では無いから」
「本当にありがとな。世話ばっかりかけて、ごめんな」
「そんな事無いわ。りっちゃんこそ無理しないでね。
唯ちゃんの件に関しても。
唯ちゃんは悪い子じゃ無いっていう事は分かるわ。
でも、部活でも気を使って唯ちゃんや憂ちゃんにも気を使って、
では大変でしょう?
唯ちゃんは部活をやめた人間よ。
それなりの付き合い方に留めておけば、りっちゃんの負担も軽くなると思うわ」
律は紬の物言いから、平沢姉妹に対する冷淡な印象を受けた。
(ん?ムギも唯を含めたHTTを実現したいか、
或いは唯に対する個人的な好意から平沢家に訪問してるんじゃないのか?)
律が今日の平沢家訪問の計画を告げた際、
紬は積極的に協力したはずだった。
唯に対する感情を抜きにするならば、
一体どのような動機が紬を今回の平沢家訪問へ協力させたのか。
(もしかして、私に気を使って?
唯を仲間に入れたがる私が孤立しないように、
私の側で協力したってのか?)
それを確かめてみたくなった。
「いやぁ、やっぱり唯もHTTの仲間だって意識があるからなぁ。
ムギも悪いな、そんな私の我侭に付き合わせちゃって。
いつも私を手伝ってくれてありがとな」
「りっちゃんが大変な綱渡りをしているのは理解してる心算だから。
我侭だとは思ってないし、りっちゃんのお手伝いならしたいと思うわ。
唯ちゃんの事も決して嫌いでは無いから」
「そっか、ムギはいいヤツだな」
落胆が声に出ないよう、努めて明るく振舞った。
(鎌を掛けてみたら、見事に危惧した通りか。
唯が嫌いでは無いみたいだけど、私と唯の繋がりが無くなれば、
ムギと唯の繋がりも切れるんだろうな。
結局、唯の味方は私と憂ちゃんだけって事か)
唯の孤独を思うと、胸が痛んだ。
唯の幼馴染の真鍋和でさえ、彼女とは距離を置いているのだ。
その後は唯の事も部活の事も関係の無い、
差し障りの無い話をして紬とは別れた。
唯に関する話題をこれ以上続けて平常心を保つ自信が無かったのだ。
紬と別れて一人になった律は、明日の学校の事を思った。
(澪と顔合わせるの気まずいな。
顔も見たく無いけど、学校ではそうもいかないだろうしな。
部活は無いから梓と顔合わせなくて済むのが、不幸中の幸いか)
来た時は澪と一緒に歩んだ道を、律は一人で帰った。
月曜日の朝はただでさえ憂鬱なのに、今日の律はいつにも増して気が重かった。
学校を休むという選択肢の誘惑に何度も惹かれたが、昨日の喧嘩を意識していると思われたくなかった。
重い足を引き摺って、一人で登校した。
いつも通り、和や紬に挨拶して席に着く。
まだ澪は来ていない。
始業時間間際になっても来なかった。
昨日の事が影響して澪は休むのかと律は思ったが、澪は始業時間に遅れてやって来た。
(澪が遅刻、ね。珍しー。
やっぱ昨日の事、引き摺ってんのかね?)
律はすぐに頭を振って、その事を意識から追い払った。
(って、あんな奴どうでもいいだろ。
何気にしてんだか)
律はその後の休み時間も、澪を意図的に避けた。
意識して視線を合わせないようにしているが、それでも律は気付いていた。
澪が度々視線を律と合わせようと試みる仕草に。
結局その日は、澪と一言も会話しなかった。
紬とも殆ど会話を交わさなかった。
紬と絡んでいると、必ずといっていい程に澪が近づいて来るからだ。
紬に用があるよう装って、
律にコンタクトを取ろうと企てているように。
下校時、校門で梓とすれ違った。
梓は一瞥と共に舌打ちを放ってきたが、律は努めて見ていないよう装って通り過ぎた。
(マジで可愛くない後輩だよ)
憤懣の念は、胸中にのみ留めて。
家に帰ると、漸く一息吐けた。
(あーあ、かったる。ま、その内慣れるか)
実際に疲れていた。
その日は律にしては珍しく、日付が変わるまでに床に就いてしまった程だ。
喧騒慌しかった日曜日よりも、何事も無く終わった月曜日の方に強い疲労を感じていた。
火曜日の朝も澪は遅刻してきた。
(気まずくて学校行くか休むか葛藤したから、昨日は遅刻したもんだと思ったけど。
昨日クリアした葛藤を今日も続けるか?
二回目って一回目よりもハードル下がるはずだぜ?)
律は訝しんだが、その答えは程無く知れる事になる。
その日も律は澪に対して無関心を装っていたが、
澪の方は律に無関心を貫かせる心算は無いらしい。
昼休みが始まった瞬間に、
「律」
と澪に呼ばれた。
視線や近づいてくる行動なら気付いていないよう装って逃れる事もできるが、
呼びかけられて無視するわけにもいかない。
あまりあからさまに敵対的な態度を取れば、
律がクラスメイトから反感を持たれてしまう。
(澪って人気高いしな。
唯を……知的障害者を虐めた素顔知らないからだろうけど)
「何?」
クラスメイトの手前仕方無く応じたが、声は素っ気無い。
「昨日も今日も勝手に先に行くなよ。
お前待ってたら、遅刻しちゃったよ」
(ああ、そういう事か)
昨日と今日、二日続けて澪が遅刻した訳を理解した。
いつもの待ち合わせ場所で律を待っていて、それで遅刻したらしい。
律は澪と鉢合わせする事を恐れて以前よりも早めに家を出ていた。
澪は逆に、律と一緒に登校したかったのだろう。
(つーか一昨日あんな事があったのに、
よくもまぁ一緒に登校しようなんて考えが出てくるよな)
律は内心呆れていた。
「一人で通学したい気分だったし」
「そうだったのか。それ知らなかったから、私すっかり遅刻しちゃったよ。
あ、いや。ケータイって手段もあったんだけどさ。
直に会って話したい事とかあったから」
「ふーん」
素っ気無く振舞う律に対し、澪は鷹揚な笑みを見せながら話しかけてきた。
「まぁいいや。昼ご飯、一緒に食べないか?
ちょっと律が好きなおかず作ってみたんだよ、試食してくれないか?
律の料理の腕前に到底及ばないからさ、教示すると思って」
「悪いけど、他の人と食べる約束あるから」
実際には無かったが、澪を許す気になれず予定を偽ってまで拒絶した。
律の脳裏には、日曜日の澪の振る舞いが未だ鮮明に焼き付いている。
「そうか。それは残念だな、はは」
澪は笑っていたが、付き合いの長い律には分かっていた。
落胆を隠して繕った笑いである事を。
「なぁ、律。放課後、一緒に帰らないか?
昨日一緒に帰ろうとしたら、律は先にどんどん行っちゃうし。
朝は一人で登校したい気分かもしれないが、せめて帰りなら」
無下に昼食の誘いを断られて落胆した直後にも関わらず、
澪はすぐに言葉を繋げていた。
律はその発言を途中で遮って再び断る。
「悪いけど、放課後に唯ん家行く予定入ってるから」
澪の表情に、寂しそうな笑顔が浮かんだ。
「そっか。それは本当みたいだな」
律は澪の言葉に込められたニュアンスに気付いて、自然と表情が強張った。
(昼食の予定が嘘だって事、気付かれてるっ?)
思い出してみれば、今までも澪は律の嘘を幾度となく見破ってきた。
律自身もまた、先程澪の作り笑いを見抜いたばかりだった。
澪が律の嘘を仕草や癖から見抜いたとしても、不思議は無い。
それだけの期間を、共に過ごして来たのだから。
「昼食、邪魔しちゃいけないから席外すよ」
澪はそれだけ言い残し、教室を出て行った。
その背が見えなくなって漸く、律の表情から緊張が抜け去った。
(2011.01.13-2011.01.14)
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最終更新:2016年07月03日 17:03