第八章前編 迎撃 lie in wait
最初に動きを見せたのは破輩の方であった。
それは、ただ細く艶めかしい右腕をゆっくりと前に突き出す、それだけの行為。
その動作に呼応するかのように、破輩の右腕を中心に風が轟轟と渦巻き、今にも僅か十数メートル先に居る男を襲い掛からんばかりの奔流を顕現させる。
女は何も言わず、その大気の塊を解き放つ
奔流は周りの細かく尖った木片や瓦礫を飲み込み、それを自身の力としながら、只一直線に東海林に向かって猛進する。
「くッ!!」
苦虫を噛み潰したかのような顔を一瞬浮かべると、男は自身の右手に渾身の力を込める。
彼が行ったのはただ力を込めた自身の拳を思い切り振るうという単純な動作、しかしそれは単純であるが故に強力であった。
彼の能力は物体に弱点を植え付ける能力、その弱点に衝撃を加える事で物体は内部から破裂するというもの。彼はその破裂の際に生じる衝撃波によって風の濁流に応じようとしたのだ。
風が運んできた適当な木片に拳が触れる、その刹那莫大な衝撃が響き渡る。
衝撃波と大気の渦は真正面から衝突し、軌道を変え、相殺しながら、辺りに風を撒き散らす。
辺りの大気がびりびりと震え、頬を細かに揺らす。しかし互いにそれを気にしていられない程切迫していた。
両者は互いに睨みあう、一方は明確な敵意を示し、そしてもう一方は明確な享楽を示しながら。
やがて東海林の方から口を開く。
「お前、畜生道の連中から送られてきたリストには載ってなかったな。所謂イレギュラーって奴か?」
「まぁそんな所だ」
話す事すら億劫だと言わんばかりの最小限の返答とともに、第二波が襲い掛かってくる。今度は直線で無く、波状。
津波の如く押し寄せる奔流に、彼は今度ばかりは足を掬われそうになりながら、それでも彼女に問を投げかける。
「つまり一般人か。何しにここに来たんだ、非日常のスリルを味わいたかったってかぁ?」
目を見開きながら長い舌を見せ挑発する。
しかし破輩は応じる事は無かった。怒りがもはや臨界点を突破しているのか、その程度の挑発など意味をなさなかった。挑発の有無に関わらず、目の前の敵を再起不能にしてやろう、彼が泣いて命乞いをするまで容赦はしない、そう決めていたからだ。
彼女は怒っているという表現すら生ぬるいと思える程に、激怒していた。
死屍累々とした環境が目の前に広がっている事に、そんな環境に自分の仲間が身を置いているという事にも気づかずのうのうと生活を享受していた愚かな自分に。
彼女は心の奥底で、自分の仲間は自分と同じ方向を向き、ともに進んでいると思っていた。
日々風紀を正し、悪しきを挫く事で手一杯。そんな彼女に、仲間の感情の機微に気付く事など到底出来るべくもなかった。
しかし彼女の心に春咲に怒る感情は芽生える事はなかった。
逆に彼女は己を責め、自重した。
他人の悩みを受け入れ、背負う事が出来ないで何が風紀委員か、何が仲間かと。
自分が気づいてやれなかったから彼女はこのような手段で自身の重荷を軽くする事しか出来なかった、そう考えたのだ。
そのような彼女の心からの善意が、仲間である
春咲桜に“劣ってる者に対しての憐み”と捉えられ、劣等感という名の溝を更に深めた事にも気づかないまま。
誰よりも仲間思いでありながら、相手の本心を読み取れない。どこか独善的とも捉えられる風紀委員第159支部会長破輩は、眉間に皺を刻み込ませ、静かに感情を燃焼させ、振るう手に自然と力が込もる。
「アイツが何処まで堕ちようと、何に悩んでいようとも、それに手を差し伸べてやれるのは、仲間である私達しか居ないんだ」
「だから私は“仲間”であるアイツを守る。その為にはどんな敵であろうと引く気はねぇ」
そう、自分に語りかける様に、破輩は呟いた。あくまでも目の前の男に返答した訳ではないらしい。
最早いくら語りかけても意味はない。そう判断した東海林は何とも興ざめと言った面持ちを浮かべる。
彼としてはこういった最小限の言葉しか交わさないような戦闘より、互いの感情をぶつけ合い、罵倒し合い気持ちが高揚する様な、熱い能力戦を好んでいた。彼女が彼を強襲した際もその攻撃の豪快本邦たる様に心を躍らせてはいた。
しかし、今の彼女は確かに攻撃は大胆かつ大雑把なものではあったが、彼女自身は沸々と戦闘意欲を高ぶらせているばかりで、その感情を爆発させようとはしない。
その為か彼はイマイチ気持ちが乗り切れていなかった。気分が高揚する事に関していえば、完全に一方的ではあったものの先程の無能力者狩り数名との戦闘の方が幾分か楽しめた。
さっさと切り上げよう。彼はあくまでも狩る側の思考回路で考えを巡らす。
そう考えると同時に、彼は勝負を一気に畳み掛けるために地面を踏みつけると、それによって生じた衝撃を利用し眼にも止まらぬ速さで突進する。
男は野獣如き勢いでアスファルトの舗装を蹴散らし、低く地を這う様な気迫と共に一気に距離を縮める。
その距離およそ1メートル弱、手を伸ばせば彼女の身体に触れる距離―――――それはすなわち彼の勝利を意味する。
何とも一方的な勝利を確信し彼は何とも残酷な笑みをこぼす。
「ヒャッハハハハハアハハハハハッハハハハハ!!!!!部屋の塵にしてやるよおおおおおおお!!」
しかし、彼の手は彼女の身体に触れる事は無かった。
己の手が空を切る感覚。
それと同時に顎に伝わる鈍痛。
彼の視界は盛大に回転し、平衡感覚が一瞬奪われる感覚に襲われた。
「ガか、…カハッ!?」
顎が吹き飛ばされたかと思い、思わず顔を埋めて反射的に顎に手を伸ばす、そこにはそのままの形でそれは残っている。
顎を風で打ち抜かれた、そこで漸く東海林は痛みの原因を理解した。
そして間髪入れず彼は更なる痛みをこめかみに感じた。男は激痛を懸命に堪えながら、それでも痛みの余り思わず距離を取る。
血走った目を爛々と輝かせ、憎々しげに女を見据える。
女は長くしなやかな脚を上げていた。こめかみに走る鈍い痛み、自らの顔面の高さにまで上げられた女の脚から鑑みるに、どうやら彼は側頭部を思い切り蹴り飛ばされていたのだと推測される。
勿論彼の油断がなかったと言えば嘘になるが、それでも普段の彼の場合はあの時点で雌雄が決せられている筈であった。相手の顔面を掴みあげ、思い切り地面に叩きつける。これが彼の必勝法であった。並大抵の人間では反応も出来ぬまま絶命する事になる。
それが成功しなかった。
それどころか更に反撃にあった。
たったそれだけであるが、それだけで彼の慢心を吹き飛ばすには十分であった。
彼は目を座らせ、頭を冷やす。そしてここで漸く彼の心が“臨戦態勢”に移行する。
「大体の野郎は今のコンボで卒倒するんだけどな、流石に鍛えてるな」
東海林を見据えて、破輩は呟く。それは賞賛というよりもしぶとさに微かな苛立ちを露わにしている様であった。
そして苛立ちを隠せていないのは、東海林も同じであった。
「…そう簡単には終わらせてくれなさそうだなぁオイ」
勝負はまだまだ序章に過ぎない、そう告げる様な不気味な静寂が彼らを通り抜ける。
最終更新:2012年07月31日 22:47