第八章後編
二人の大能力者が戦闘を繰り広げている頃、
春咲桜こと安田は満身創痍の身体を引きずりながらも廊下を走っていた。
最早とうに肉体の限界は超え、あちらこちらから悲鳴の上がる彼女の身体。その身体をそれでも懸命に支え前へ歩く力を与えているものは、一刻も早くあの場から離れたいという思いと、先程の時間に間に合わねばならないという焦りの気持ちであった。
彼女が先程いたホールで戦闘しているのは、恐らくどちらも大能力者。悔しいが自分の実力ではあそこで何かを起こす事など到底無理だという事は一瞬で理解できた。
それ程までに、彼女は能力の優劣が生む絶対的な戦闘力の差というものを誰よりも理解していた。
無能力者、低能力者は基本的に異能力者と比べれば戦力は劣るし、異能力者は強能力者に劣る、同様に強能力者も大能力者に遠く及ばない。
そしてそんな強大な力を持つ大能力者でも、その上の超能力者との間には絶対的な差があり、手も足も出ないのだという。
まさに食物連鎖。
よりにもよってどこの国よりも発展しているこの学園都市で、肉食の獣が一方的に獲物を喰らうように、劣っている者はそれより上の者には本来勝ち目など無く、虐げられてもどうしようもないという最も原始的で最も単純な構造が出来上がってしまっているのだ。
無論、その現実は現代の倫理的価値観によって普段は表層化しない。しかしそれが完全に無くなった訳では勿論ない。倫理観と言う隠れ蓑によって姿をくらまし、日常のほんの小さな部分で、あるいは日常の裏側の部分で、それは突如姿を現し弱者を襲う。
事実彼女はそれの被害者の一人でもあった、それも家庭と学校という最も身近な環境の中で。
安田、もとい春咲は先ほど自分が見ていた光景に思いをはせる。
人ならざる力を自らの赴くままに振り回す彼らは、疑いようもなく能力者だ。しかも自分と少なくとも同等ではない、異能力(レベル2)よりも遥か高みの域にいる者達なのだろう、春咲はそう結論付けた。
(何もできやしない)
自虐的に、それでいて確信めいたようにそう呟く。
神の定めた食物連鎖の構造は絶対で、自身はあの環境を少しでも変え得る力も機転も無い。
同様に現実での自分の環境も、自力で変えることなど十中八九不可能。
ただ虐げられる運命を受け入れるしかない。耐え忍ぶしかない。
本当は悔しいのに。
本当は勝ちたいのに。
本当は叫びたいのに。
本当は刃向かいたいのに。
本当は――――――変わりたいのに。
「何も、出来やしないんだ…」
少し先程よりも声を強めて、思わずうつむく。歩幅も少しだけ小さくなっている。
自分では何もできやしない、だから自分はここに居る。
より強い連中と徒党を組み、より弱い連中を虐げ、出来る限りの苦痛を上げさせて殺す。
食物連鎖の構造に従い、決して強者に逆らわず、弱い者虐めをする。
すると不思議とあの無力感から生まれる土留色の感情が和らいだ気がするのだ。救われた気がするのだ。
自分より劣った者が存在するという事を確認でき優越感に浸れるためか、はたまた辛くて冷たい現実から逃げられたという錯覚から来る安堵感によるものか。今となっては分からない、いや最初から分からなかったかも知れない。
しかし確かに言える事は、気持ちが良い、それが全て。
周りの世界から悉く嫌われた少女、春咲桜。
その社会の被害者たる自分が行っている事は正に自分が忌み嫌う加害者、彼女の姉妹が行っている事と何ら変わりがない。その事実に気付かないまま、否、努めて意識しないようにしたまま、それでも自分はただの被害者だと暗に主張し続ける。
その矛盾を他人に指摘されれば直ぐにでも崩壊してしまいそうな、首の皮一枚で何とか繋がっている主張に正面から向き合わないまま、彼女は今日も問題を“保留”にする。
考えなければ悔しまずに済む。
考えなければ勝たなくて済む。
考えなければ叫ばなくて済む。
考えなければ刃向かわなくて済む。
考えなければ――――――変わらなくて済む。
気が付けばもう完全に彼女の歩は止まってしまっていた。どのくらいの間立ちすくんでいたのだろうか、数分だったかもしれないし、数秒だったかもしれない。
しかし彼女にはそんな悠長に雑念に耽る暇などどこにも無かった。
彼女は集合場所まで時間以内に向かわなくてはならないのだ。
幾ら奇跡的にあの状況から脱出できたとしても、待ち合わせ場所に遅れてしまった為に死亡扱いされ見捨てられることになったら元も子もない。大能力者同士(推定)が壁を削り障害物を吹き飛ばし、地形を塗り替えながら戦闘を続ける、もはや安全な場所などどこにもない異常地帯。ゴジラVSキングギドラが繰り広げられているが如き激戦区域の中、矮小な一般人代表たる自分一人ではこの状況から無事に生還できる可能性などどう考えても有り得ない。
どちらにせよ急がねば。
そう春咲、もとい安田は思うように動かない身体を奮い立たせる。
―――――雑念は人の判断能力を鈍らせ、過ちを起こさせる。
なるほど確かにその通りだと、そりゃあ御最もだと。
安田はいつだったか読んだ本の一文をしみじみと実感しながら、またもや自分が雑念の遥か彼方に逃避行している事にその少し後に気づき、それを懸命に振り払いながら走るのであった。
勝負は一方的の様に見えた。
破輩妃里嶺が自らの能力で膨大な量の風を使役し、幾度となく向かってくる野獣の如き青年にそれを放つ。
男は空気中の塵やゴミを能力で破壊し、それによって生じた衝撃波をもって迎え撃つ。しかし完全には打ち消しきれず、烈風は雪崩のような勢いを保ったまま男を飲み込み吹き飛ばす。
典型的な消耗戦。破輩が集中を切らし隙を与えるのが先か、東海林が力尽きるのが先か。恐らく誰の目から見ても破輩が優勢のように見えるであろう、そんな局面。
しかし戦いの行使者である破輩自身は、自身が優勢であるとはとても思えなかった。寧ろ押されているのは自分、そんな気すらしていた。
(何かがおかしい)
理由までは分からない。だがこの変わらない戦局と、それでも手を変え品を変え接近を図る東海林の様子に、彼女の直感が警鐘を鳴らしたのだ。
数発程、男に風の塊をクリーンヒットさせた辺りで、彼女は漸くこの不安の正体を掴む。
東海林の身体があまりにも強靭過ぎる。
彼女の能力は分類上は風力使いの大能力者。能力名は彼女の希望によりここでは伏せておくが、その威力は強力無比、竜巻並みの大規模かつ高威力の風を一度に使役し、人を軽々と吹き飛ばす。使い方次第では何十人もの相手を一度に無力化する事など容易い。
そして彼女は、今現在その“人を無力化させる”能力の使い方をしている。
にも拘らず、目の前の男は自分の能力を数発受けてもなお立ち上がるのだ。それだけに留まらず、まるで自分の攻撃が毛ほども効いていなかったかのようにその俊敏性を落とす事がなかった。
明らかにおかしい。
恐らくは能力によって何かしらの衝撃の軽減でも行っているのだろう。破輩はそう結論付けた。
あえてその原理を説明するならば、空気中の塵を細かに破裂させ、また身体に触れる壁や地面の強度を脆弱にする事で最大限に衝撃を分散し軽減させていると言ったところか。
(なら、別にそれはそれでも構わねぇ)
破輩は荒ぶる心でそう決した。抱いていた小さな綻びを無視する。
先にも言ったが、現在は消耗戦の状態が続いているのだ。遠距離から音速にも及ぶ速度で風をぶつけ続け、あの獣に指一本たりとも触れさせない様にすればいいだけの話である。
いくら衝撃を緩衝すると言えども、何十発もその身に攻撃を受けて無事でいられるはずなどない。
今の所東海林からの攻撃は一度も受けてもいないし、破輩にはそれを最後まで成し遂げる自信があった。
理由の一つとして、彼女は東海林と戦闘を開始してから一度として“動いていない”からだ。
その場に直立したまま、手を振りかざすだけ。たったそれだけで、あの有名な長月四天王の一人と互角以上に渡り歩いているのだ。
近距離でその真価を発揮する能力と、遠距離からでも実力を発揮できる能力と言った、能力上の相性の関係もあるが、ともかくこれで自信がつかない訳がない―――――
「よぉ」
しかし、突如。
「テメェひょっとすると」
彼女の思考の途中に、その淡い希望を払拭するかのように。
「俺に勝てるんじゃねぇか、とでも思ってんじゃねぇだろうなぁ?」
男の言葉が滑り込む。
東海林が行動に出たのは、そのすぐ後であった。
自分の脚元を少し蹴り上げる、その程度の軽い動作に見えた。
しかし蹴られた地面は物理法則に従っていないのではないかと錯覚するほどの、軽く蹴る程度の衝撃では有り得ないほどの大爆発を引き起こす。地面のコンクリートはクレーターのように捲れあがり、粒子レベルで崩壊を起こし、もはや部屋として機能しなくなった空間を埃と塵で充満させていく。濃密な塵と埃は見る見るうちに二人の視界を遮る。埃の匂いがやけに鼻に突き、嗅覚も遮られてしまったが今は気にしていられなかった。
自らの手すら視認する事もままならない状況下、破輩はそれでも憮然とした態度を崩さぬまま落ち着き払っていた。
彼女は東海林が今の状況を変える為に行うであろう行動は戦闘中に一通り予測を立てていたし、それが起きた時の対処方法も既に決まっていた。勿論今の行動も想定内、冷静さを欠くほどの事ではない。寧ろあまりにも想定通りの行動に出ている事に、掌の上で彼を支配しているような気持ちすらして、妙に滑稽さを思えた。
それに加えて、彼女の自信は視界と嗅覚を奪われた“程度”では揺らぐ事など無かった。
そもそも彼女は戦闘において五感に頼らずとも戦闘を続行する事が出来る。
AIM拡散力場という、学園都市の能力開発関連における専門用語が存在する。これは能力者が無自覚に発してしまう微弱な力のフィールドの事をさし、電撃使いは自身の周辺に微弱な電波を発し、発火能力は微弱な熱を常に発しているという。風力使いの彼女も同様で、自らでも掴み取れない程度の微弱な風を常時周囲に発生している。
彼女はこの特性を利用し、微弱な気流の揺らぎを感知する事で、視界に頼らずともレーダーのように周囲の障害物、人物等の距離、大きさを大まかに察知することが出来る。
勿論察知できる範囲は視界に比べれば大きく劣りはするものの、不意打ちや死角からの攻撃に対処できる程度は難なくこなせる。
普通の人間ならば視界の確保の為にこの煙幕からの脱出を図るはずであるが、彼女はその必要すらないのである。
故にこの自信。
故にこの余裕。
恐らく東海林は、煙幕からの脱出を試みている隙をついて距離を縮め、一気に近距離戦に持ち込もうと考えている、そう破輩は推測した。
ならばわざわざ相手の策略に乗る必要もない、場を支配しているのは自分だ。この局面での最良の選択はその場に留まり相手の出方を見る事、それは間違いないはずだ。
しかし、その判断は“最良”であったが、“正解”ではなかった。
破輩はこの時、未だ長月四天王である彼を見誤っていたのだ。
「そんくれぇ読めてんだよ、バァーカ」
濛々と立ちこめる煙の中、忌々しい程鮮明に。
東海林の声がした方向から、同時に彼女のAIMによって構成された擬似的な視界に揺らぎが生じる。擬似的な視界が示す事実は、彼は煙の中で何度も能力を行使し、破壊活動を行う事で辺りの気流を歪めているという事。擬似的な視界がほとんど使い物にならなくなっているという非情な現実であった。
とても突発的な閃きによる行動とは思えなかった、東海林は擬似的な視界の存在を始めから考慮していた。そうとしか考えられないほど意図的で、迷いのない破壊行動。
彼女の思考の一歩前に彼の思考が存在していた、手中にあるのは彼でなく、自分の方。
考え難い事実に直面して思わず、破輩は狼狽する、思考により大きな綻びが生じる。
もはやどこから東海林が攻めてくるか分からない、気流の視界は既に正確な情報を示さない。
しかし破輩はそれでも、煙幕の外に移動するという判断には至らなかった。一歩たりともその場を動く事は無かった。
(煙幕の外に出ればそれこそあいつの思う壺、あくまでも待ち構える形であいつを潰す!!)
自身の判断に誤りなど無い。
そう信じて、集中力を高める。ほとんど使い物にならない気流の視界を頼りに、みだれた気流の流れの中にそれでも残る異質の流れ、つまり東海林の存在を見つけ出す為に身体の芯から髪の毛の先まで神経を張り巡らせる。
誤った気流の情報を自らの勘で取捨択一し、細心の注意を払いながら、獣が襲い掛かる時を万全な精神状態で待ち構える。
東海林が気流を乱す為に起こす破壊行動、それによって生じる部屋の内部崩壊。煙のせいでその全容は知る由もなかったが、見るも無残な形に変容している事は明らかだった。
屋根が崩れ落ちてこないのが奇跡であるかのように部屋は絶妙なバランスを保ってはいるものの、とうに限界に達しているのは明白で、屋根が一気に崩落すればいくら大能力者と言えどひとたまりもない。
しかし、お互い部屋を離れる事はしない。下手な行動をすればすぐにでもバランスが崩れ勝敗が決してしまう、それ程までに互いに切迫し、戦闘は均衡していたのだ。
ここからは痺れを切らしたものが負ける、下手な動きを見せた方が潰される、一撃が命運を分ける我慢比べのチキンレース。
先に動いたのは、やはり東海林の方。彼は基本的に獰猛で、狡猾ではあったが冷静ではない。こういった我慢比べは何よりも不得手であった。
先んじて相手を攻め、誰よりも熱く血を滾らせ、誰よりも速く敵を潰す。それが彼の信条であり、手段であった。
そして今の状況はその真逆、誰よりも冷静に、先に攻める相手に最大の攻撃でもって勝負
を制す、そんな状況。
以上の点から、彼が痺れを切らすのは必然とも言えた。そして破輩もこの展開が来ることを予期していた。
相手がいくら不規則に破壊衝動を繰り返していると思っていても、それを自覚し、努めて意識しない限りは“規則的な不規則”でしかない。
どうしても長時間不規則的な事をしていても、それに極々微妙な規則性が生じてしまう、という事だ。
東海林が痺れを切らし、突進する。その時には必ず規則的な不規則の気流に明らかな“異物”が生じるはず。そう彼女は推測したのだ。
実際、彼女の読みは当たる事となった。
部屋のいたる所を無尽蔵に走り回り、ダミーの衝撃波を幾つも生み出しながら接近する東海林が、攻めに向かった時に生じる空気の流れの急激な変化。破輩はその気流の視覚を持って漸く捕捉する。
位置は――――――丁度彼女の真後ろ、距離にして5m弱であった。
「ッ!?」
破輩はすぐさま身体を捻らせ、攻撃の為に左腕につむじ風を纏わせ、煙の向こうに確かに存在する東海林に叩きつける。
機関銃が発砲されているのではないかと錯覚するような、内臓に響き渡る空気の振動が部屋中に響き渡る。
脊髄反射に近い咄嗟の攻撃である以上、広範囲にわたる攻撃を出す時間がなかった。その為彼女は威力より手数を優先させた。
しかしその一発一発の速度は銃弾に匹敵する亜音速、その数は彼女の認識では百数十発。
まともに受ければひとたまりもない。
しかし、それが何の能力も持たない一般人であればの話であるが。
手応えは確かに感じられた。
聞こえてくる攻撃の反射音から察するに何十発かは当たっている筈であった、しかし東海林の猛進は止まらない。彼は避けようとすらしなかった。破輩の攻撃に対する東海林の対応は、自身の顔の前で腕を交差しガードをする、それだけであった。彼と破輩の身体を埋め尽くす空気中の砂と埃と塵は、彼にすれば相手の攻撃を弱めるための豊富な緩衝材でしかない。
空気上の塵を分子レベルで分解し破裂させ、身に降りかかる高密度の空気の塊を打ち消し、弱めながら、猛然と突進する。
しかし、衝撃を受けていないはずがない。弱めたと言えど元々は一発が銃弾の威力、全ての衝撃を殺しきれるはずがない。ましてや勢いを殺さずに突進などと言う芸当は人間離れ以外の何ものでもなかった。
亜音速で向かってくる衝撃を上手くいなす事のできる反射神経や身体能力。
その衝撃を受けても骨や内臓を完璧に守り切れるだけの強靭な肉体。
そのどちらも持ち合わせ、いかんなく発揮して初めて成せる業、いくら極限まで鍛え上げたところで誰もがこの域に達するわけではないだろう。
稀有な能力だけでなく、類稀なる肉体の才能も持った獣は、より速度を上げて、ついに手を振れば当たる距離にまで到達する。
「この野郎、どんな化物じみた身体してやがんだよッ!!」
そう吠えつつも、破輩は冷静に東海林の挙動を注視する。それと同時に空いていた右手を身体で隠しながら、その右手に宿らせた大きな気流を放つ準備を整える。
「生まれも育ちも鍛え方も、テメェら凡人とはちっげぇんだよォオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
煙の中から姿を現す東海林。顔に浮かべた表情は、底抜けに楽しそうであった。
東海林も同様に、渾身の力を右手に込めると最も効率の良い重心移動で身体を捻り、最も破壊力の出る弧を描き、その中で最も威力の出る地点で破輩の顔面に拳が触れる様に身体を精密にコントロールする。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!!」
両者の右手が交差する、そして。
刹那、何か果実を潰したような音が、煙の立ち込めた部屋の中で轟いた。
戦闘は遂に佳境へと向かう事となる。
春咲は言われていた目的の場所、東側の倉庫に着くと、一通り辺りを見回す。
この辺りはスキルアウトの連中との戦闘がなかったのか他の部屋と比べると損壊の度合いが小さく見える。
倉庫と言うだけあり、部屋の中は物で溢れかえっている。過去に起こった襲撃事件の後に実験に使われていた高価な研究資材や門外不出の薬品の数々は粗方回収されていた為、ここに残っているのは煮ても焼いても使えない様なガラクタばかりのようだ。
そしてここも地下室と同様、普段から誰も使っていなかったのか空気は埃っぽく、嫌に冷えきっていた。
埃っぽい部屋の中には男が二人、いずれも彼女の味方であった。どうやら時間内には間に合った、と言う事実に一先ず安堵する。
冷たい空気に身を晒しながら、一先ず興奮の熱を覚めるのを待ってから彼らに近寄る。
適当な突起に腰をかけ、何とも気怠そうに頭を垂れていた一人の男、毒島は安田の存在に気が付くと、座った姿勢を崩さないまま、特に彼女の体を心配するでもなく
「東海林はまいたのか?」
と聞いてくる。当初の計画通りに事が運んでいない事から来る心労のせいか、その声に抑揚はない。
『何とか。イレギュラーの発生が無かったら殺される所だった』
「…イレギュラー?東海林に何かトラブルでも起きたのか」
毒島の口から大きなため息が漏れる。ただでさえ計画は最悪の形で進行していっているというのに、これ以上掻き乱さないでくれ。そう言いたげであった。
しかしいくら都合の悪い事が積み重なっていると言えど、そのイレギュラーの内容、その深刻度は一応聞いて確かめておかねばならない。一時の気持ちで重要な内容を聞きそびれ、結果逃走も上手くいかなくなるのは御免被る。
せめて、俺達にとって嬉しい報せであってくれ、内心そう願ってやまない毒島であった。
その一方で安田の内心では、そのイレギュラーについての報告を躊躇う気持ちと言わねばなるまいという義務感がせめぎ合っていた。
はたして、あのイレギュラーの存在を明かしてしまって良いものなのか。しかし言わない理由が見つからない。
どうしても後一歩の所で口に出すのを躊躇してしまう。
何の迷いもなく自分が目撃したすべての情報を報告し共有、その情報を元に新しい作戦を練るのが戦場においては当然の対応、基本中の基本だ。
時として情報を味方に敢えて知らせない事もあるが、この場合は信頼に足らない人物が自らの仲間である場合に限るし、今回はいつもの討伐メンバーしかこの場にいない為、報告する方がより有益であるという事は明白である。
少しでも多くの味方が、そして自分が最後まで生き残る為には情報の出し惜しみは禁物であるという事は彼女も理解していた。
それなのに今回に限って、半ば動物的な第六感がそれを拒絶する。
安田は冷静にその原因を突き詰めていく。
風力使いの大能力者。
豪快で大雑把な能力の使い方。
何故か東海林を攻撃し、自分を攻めなかったという疑問。
それらを考慮した上でこの一縷の不安は、先程のイレギュラーの存在が自分の見知った人物と重なって見えたからという結論にたどり着く。
(何よそれ…馬っ鹿だなぁ私…)
彼女は自分のあまりの気弱さに思わず失笑せずにはいられなかった。呆れを通り越して笑えてくる。
いくら自分が彼らに多少なりとも後ろめたさを感じているからと言ってそのイレギュラーの正体が自分の知り合いであると判断するのは些か早計であるし、被害妄想的な考えであるといえた。
何を躊躇う事があるだろうか、彼らが自分の隠し事に気付くはずなど無いではないか。
そう自分自身を一笑に付し、胸の内から膨らんでくる疑念を無理矢理心の深部に押し込める。
「おーい、何をダンマリ決め込んどんねん」
不意に横から場の雰囲気に合わない関西弁が割り込んでくる、この声は家政夫のものだ。
相も変わらず心情の読みとれないその声に、安田の意識が思考から現実へと引き戻される。
『いや、何でもない。少しボーっとしていた』
長考の末、彼女は漸くイレギュラーについて知らせるべきと判断した。
『討伐の部外者が乱入したんだ。それが誰かは視界が悪くて分からなかったが、かなりの能力強度、恐らく大能力者だと思う』
その報告を聞くや否や、二人はほぼ同時に全く別の反応を示した。
一方は僥倖と言わんばかりに思わず「おぉ!」という声を漏らし、
もう一方は一瞬だけ目検に皺を寄せて瞠目すると、額に手を置き、重たげに首を垂れる。
前者は家政夫。後者は毒島であった。
大能力者同士で鎬を削り合っている分、自分たちの逃走の機会が増え結果生き延びやすくなる。更に自分達が逃げ損ねた場合でも、疲弊した状態ならば勝てる可能性もある。
運が良ければ相手に戦える余力が残っていないかもしれない。そうなった場合は弱り切った敵に止めを刺して安全に脱出も可能だ。
いずれにせよ霞の盗賊というグループ基準で考えるならば、この知らせはまたと無い吉報であり、家政夫の反応は至って正常なものであると言える。
「ホンマか!よっしゃほんなら早速逃げる準備や。
安田ちゃんはここから一番近いホールから来たんやったな」
『うん、そしてホールでは東海林達が戦闘をしている』
「ほんなら―――――」
それとは対照的に、毒島はグループ基準でなく、個人の信条を基準に先程の発言を受け止めていたのだ。
一連の会話を半分聞き流す形で聞いている間、毒島の脳裏には二人の人物が過ぎっていた。
その二人はかつて終わりの見えない復讐劇を繰り広げていた毒島に手を貸し、終止符を討ってくれた恩人達。
彼らはスキルアウトだった。本来毒島とは相対する者達。
自分の縄張りの中を荒らされているという理由はあったものの、事前に連絡もなく単身で根城に乗り込むだけに飽き足らず、スキルアウトのリーダーにいきなり掴みかかるような彼を助ける義理も、道理もなかったはずだった。
しかし彼らはそんな無礼な毒島を快く受け入れ、共同戦線に引き入れてくれた。他人事である筈なのに全力で親身になり、手を貸してくれた、そして自分と姉を不幸と復讐渦巻く連鎖から救ってくれた。
返しても返しきれない恩の数々。毒島は彼らに出会って多くの事を学び、彼なりのささやかな幸福を得た。
しかし同時に、損失もあった。
彼らは今第十学区にある犯罪者収容所に収監されている。捕まった原因はその事件の尻拭いであった。あれ程までの事件を起こしておいて刑期は異例の数か月に収まったものの、それでも後ろめたさは拭えない。
自分が彼らと共同戦線を組むことが無かったら、彼らは捕まる事は無かったのでないか?
言うまでもなく、自分一人の力ではどうにもならないような事柄であった。
その事を理解出来ないほど彼は愚かではない、しかし毒島が彼らに感謝すればする程、ささやかな幸福を噛み締める度に、その事実が毒島の首を絞めつける。
“お前が気に病む事は無い。悪いのは黒幕の奴だ”
“ここは涙を零して『ありがとうございます』っていう場面だぞ”
今は収監されている恩人達のいつかの言葉がこだまする。
感謝しているからこそ、もう誰も犠牲にしたくないと誓った。
(軍隊蟻≪アーミーアンツ≫も、姉さんも、自分と関係の無い無実の誰かも。これ以上犠牲にしてたまるか)
狩りの連中や狩りの対象がどのような目にあい、悲惨な死を迎えようと知ったことではない。彼らは自発的に屑になろうとする連中、屑になるべくしてなった屑、進んで殺し合いの連鎖に肩入れしたがる狂人共だ。
その自覚の有無に関わらず、理由の有無に関わらず、正規の手段で狩りに参加した時点で救えない屑。今まで一切の情けを掛けることなくそういった連中を見捨ててきた、駒として扱ってきた、そしてこれからもその考え方は揺らぐ事は無いだろう。
しかし、不本意ながらも連鎖に巻き込まれてしまった人間、本来討伐とは関係のない人間。
彼等を捨て置く事は決してしない、絶対に見捨てはしない。
傷つき、汚れるのは屑だけでいい。そうでない人間は、出来れば自分たちに関わる事無く平和に日常を過ごして欲しい。巻き込まれた者は何も失うことなく日常に戻ってほしい。
そう願ってやまない彼は、今まさに選択を迫られている。
自身の信条を歪めて、霞の盗賊として私情を捨てイレギュラーを見捨てるか。
己の信条を貫き、
毒島拳としてイレギュラーを救出、東海林と戦闘を行い、イレギュラーを日常へと戻してやるか。
命をとるか、仁義をとるか。
どちらともと言う選択はない、進める道は二つに一つ―――――
「――――そんでワイ等は最初に入った裏の方から…って、ちょっ!おい毒島ちゃん!?」
毒島がとった行動は簡潔にして、決定的であった。
身を翻し、ホールへと全速力で駆け抜ける。それだけで他の二名に彼が何をしようとしているのかを理解させるには十分な行動だった。
後ろの方で自分を呼び止める声が聞こえた気がしたが、毒島は全く気にならなかった。
もう誰一人傷つけてたまるか。
姉を守る、イレギュラーも守る、傷つくべきでない被害者を守る。そこにどのような障害があろうと、災難があろうと、何としてでも守ると決めたのだ、仁義を貫くと決めたのだ。
そのためには屑な自分の身体が犠牲になろうとかまわない。
毒島は自身の緊張から来る高揚感をよそに、おもむろにパーカーのポケットの中身を取り出し、改めて確認する。
銃弾は13発、小型の擲弾が3個、閃光弾が2個。
そして、
シャーペンの芯入れのような小型ケースに保管された、白い粉末状の物体が少量――――
正直に言って、この程度の武装では心許ない。なにせ相手は大能力者すら物ともしない正真正銘の化け物。せめてこの倍は欲しい所であった。
しかしそんな武器の調達を待つ時間など何処にもない、今こうしているときにもイレギュラーは東海林との交戦で傷ついているのだ。
「関係ねぇ。出来るか、じゃなくてヤるんだよ!!」
そう自らを鼓舞しながら、決戦の場へと歩を進める。
第九章へ続く
最終更新:2012年08月10日 16:59