黒髪の少年と金髪の少女が、月下、広い円形状の石畳の上で戦っていた。
「――ふっ」
短く息を吐くと同時に、少女は銀色に輝く右拳を前に素早く突き出す。圧縮された風の塊が、無色透明の槍となって、少年に迫る。少年は少女のいる方へ走っていた。攻撃の直線状。このまま行けば、間違いなく直撃する。
だが少年は臆さない。経験則から知っていた。チャージ一つ分の風なら容易に迎撃できると。回避する必要などないと。片腕を横に振るい、風の槍を吹き散らす。その腕は鱗に包まれていた。傷一つない。地面を蹴って前に跳ぶ。少女との距離が一気に縮まり、少年は右拳を繰り出す。
少女は左拳――攻撃の衝撃を九倍に増幅する籠手が装着された――を以て迎え撃つ。
少年の右拳と、少女の左拳が激突する――瞬間、少年は拳を開き、少女の拳を受け止め、掴み取る。直ぐに少女を空高く投げ飛ばすと、空気を大きく吸い込み、そして、燃え盛る息を吐き出す。
少女は宙返りをして体勢を整えると、真下から迫る滅息を見据える。真面に食らえば焼け焦げてしまう程の大火力。だが彼女は臆さず、不敵な笑みを浮かべると、右拳を構え、そして風を撃ち出す。今度は七つ分。強大な風の槍が大火の中心にぶつかり、そのままの勢いで貫通。風槍が生み出す気流に乗って、少女は風と共に真っ逆さまに突進する。
その先には、風槍と一体化した少女を迎撃せんと待ち構えている少年の姿。少年の右拳と少女の左拳が、今度こそ、真正面から激突する。少年の腕を覆っていた鱗の何枚かが弾け飛び、地面に両足が食い込む。風と霊装の補助を受けた少女の攻撃は、予想以上に重く、痛いものだった。少年は苦悶の表情を浮かべるが、雄叫びとともに力を振り絞って少女を押し返す。
大きく押し返された少女は、空中で一回転、すぐに体勢を整えると、右腕を斜め上に構えて最後の一発を撃つ。攻撃でなく、加速の一手。推進力を得た少女は、少年の背後を通過、着地。振り向きざまに左拳を繰り出す。
防御体勢を取る余裕は無いと瞬間的に判断したのか、少年は真横に回避。速い。初速で既に100kmを超えているのではないか。距離を取りながら、再び火炎を吐こうとして、息を吸い込み、そして少女の方へ顔を向ける少年。そこで少年は驚いた。
少女がすでに眼前まで迫っていた。自身の攻撃が回避されること。そして、回避するであろう方向を予測していたのだろう。でなければ、こんなに早く少年に追い付ける筈が無い。
少女はその勢いを保ったまま、後ろに引いていた左腕を素早く突き出す。拳が、少年のみぞおちに突き刺さる。硬い鱗に守られているとは言え、全ての衝撃を殺せる訳ではない。
少年の肺から空気が吐き出される。くの字に折り曲がった少年の体がノーバウンドで吹き飛ばされるが、見えない壁に激突したかのようにいきなり空中で停止し、間も無く降下・着地。
「痛たた」
顔を俯かせて腹部を押さえる少年だが、自分のもとへ少女が走り寄って来ているのに気付くと、すぐに体を起こした。
「流石はマチさんですね。あまりの速さに反応できませんでしたよ」
あはは。マチ――本名を
マティルダ=エアルドレッドと言う――と呼ばれた少女は、しかし、褒められたにも拘わらず、何故か頬を膨らませていた。
やや長めで所々が跳ねている金髪。ぱっちりとした碧眼に、快活で愛嬌のある顔立ち。屋内で優雅にダンスを踊っているよりは、屋外で元気に走り回っている方が相応しい、開放的な雰囲気を放っている、スポーツウェア姿の美少女。ここまでなら、マティルダは単なる可愛い女の子だろう。
しかし、左手には籠手、右腕には生身とも鋼鉄とも判別のつかない奇妙フォルムのな銀色の義手を装着しており、露出した肌には生々しい傷痕がたくさん残っている。それは、彼女が
必要悪の教会の一員として、数多くの魔術師と戦ってきた事の紛れもない証明である。
「ど、どうしたんですかマチさん」少年は困惑する。
「オズ君」
「は、はい」
明らかに不機嫌な彼女の言葉に、少年は思わず背筋をぴんと伸ばす。
爽やかそうな印象の青少年だった。背は十六歳の男にしては低めだが、十八歳のマティルダよりは高い。短い黒髪に、藍色の瞳。服装はスラックスのみ。上半身の一部は硬い鋼鱗に覆われ、背中からは一対の竜翼が生えているが、全体的に紳士的な雰囲気の持ち主だ。
「きみ、本気で戦ってなかったでしょ」
「まさか」オズは慌てて顔の前で手を振る。「本気でしたよ」
「ホントに?」
「本当に」
マティルダはオズ――本名をオズウェル=ホーストンと言う――の目を見詰めていた。しかし、オズウェルの方は、彼女の目を見て話していない。目が泳いでいる。お互いの視線が交差しない。間違いなくオズウェルは嘘をついている。
マティルダはじっと見詰め続けた。無言で、オズウェルの瞳を。嘘をついている彼の瞳を。
オズウェルの鼓動が早くなる。いつもなら、彼女に見詰められるだけで顔が赤くなり、鼓動がはやくなるのだが、今回ばかりは、違う意味で鼓動がはやくなる。いやな汗が背中をつたう。
「……すみません」
耐えきれない。彼は目を伏せて口を噤んだ後、諦めたように、そして、申し訳なさそうに謝罪の言葉を述べた。
「オズ君。いつも言ってるよね。修行だからって手は抜かないでって」
「はい。それは、もう、何度も」
「だよね。なのに、どうして手を抜いちゃうかな」
マティルダは不満を露わにしながら、オズウェルに上目を使う。
「殺す気で戦ってくれなくちゃ修行になんないよ」
彼女にとって修行は修行にあらず。実戦と同じ。常に死と隣り合わせでなければ、修行の意味が無い。業を磨くことができない。
「いや、でもですね、本当に死んでしまったらどうするんですか」
「その時はあたしがその程度の実力だったってことでしょ」
「またそんなことを」
オズウェルは呆れてしまう。彼女の戦闘に対する姿勢は大した物だとは思うが、時々、全く共感できない所がある。実戦なら死んでも「弱いから仕方ないの」一言で片づけられる。彼らが生きている世界はそういうものだ。しかし、修行で死んでしまっては、いったい何の為の修行なのだ。意味が無い。元も子も無い。
「でも大丈夫。あたし、死ぬつもりなんてないから」
むふー。マティルダは笑顔で言い切った。両手を腰に当てて、胸を張って、本当に、自信満々に。
自分の強さに自信を持っているのだ。そう簡単に死なないと。オズウェルには決して後れを取らないと。
確かに、マティルダは強い。何度も彼女と戦ったオズウェルは分かる。自分が本気――獣の皮を全体に対応させて正真正銘の怪物になる――を出しても、彼女はそう簡単に敗れはしないだろう。しかし、それでも、純粋な戦闘力で言えば、彼女よりも怪物状態の自分の方が優れているとオズウェルは思っているし、彼女もそれは同じの筈だ。あのマティルダが実力差を読み間違えているとは考えにくい。
だからこそ、彼女は彼に本気を出して欲しいのだ。格上の相手と殺し合いをしなければ強くなる事は出来ないし、何より、彼女は死闘そのものを望んでいるのだから。
「だからオズ君は安心して本気出して良いんだよ?」
純粋な笑顔。眩しい、とオズウェルは思う。せめて、この笑顔が戦闘行為という物騒なものではなく、年頃の女の子らしいものに向けられれば、まだマシなのだが。
何を。そんな事、マチさんに期待だけ無駄だろう。自分は今まで何を見てきたんだ。
獣なのだ。猛獣なのだ。マティルダ=エアルドレッドは、常に死闘と強者に飢えている一匹の猛獣なのだ。その空腹が満たされることは永遠にない。どれ程の強者でも彼女の欲望を満たすことなど出来ない。仮に満たされる時があるとすれば、それは、彼女が勝負に負けて死ぬ時だけ。そしてそれは、彼女にとって、至高の喜びなのだろう。
狂っている。もしかしたら、怪物状態のオズウェルよりも、マティルダという人間は、狂っているのかも知れなかった。
僕には、彼女の欲望を満たすことは出来そうにないなあ。
恐らく、彼女の願いは、これ以上に無い死闘を繰り広げ、その末に死ぬこと。ともすれば、彼がその願いを叶える事は不可能だろう。仲間だから、という訳ではない。無論、それも理由の一つではあるのだが、もっと深い事情がある。少なくとも、今のオズウェルに彼女を殺す事は出来ない。
「ああ」
分かりました。
「でも、それは次回にしてもらって良いですか」
「どうして」
「疲労した今の状態じゃあ、怪物になっても大した力は出せないと思いますし」
「うーん」
「お願いします。その代わり、今日はマチさんの気が済むまで修行に付き合いますから」
「……しょーがないなぁ。でも、次は絶対、本気で戦ってね」
「はい。必ず」
もちろん、嘘。次回の修行時は、ぎりぎり理性を保てる程度に変身を留めておく。
ばれたら、また、怒られるかも知れないなあ。あはは。オズウェルの表情は、暗い。