番外編後編

時刻は11時46分。
学園都市の学生達が就寝に入り始める頃、風紀委員第159支部所属の一厘鈴音は同じく風紀委員159支部支部長破輩の乗りこなすバイクの傍らに取り付けられたサイドカーにて

――――絶叫していた。

「あ、あああああああああああああ!!チョっ、センバ!!スバババヤバ!!」
絶叫というか、悲鳴と言うべきか。懇切丁寧に今の言葉を訳すならば“ちょっと、先輩!!スピード、ヤバい!!”と言ったところか。
とにかく一厘の言葉になっていない懇願は奇しくも破輩が乗りこなすバイクが放つ轟音によって掻き消され、操縦者本人には聞こえる事は無かった。よってバイクのスピードは留まる事を知らず、見る見るうちに彼女たちが体験したことも無い領域に到達し、それを更に凌駕していく。
もはや破輩の後ろでしがみ付いている鉄枷は声を出す余裕すらないのか何も口にする事は無い。破輩の細くも健康的な腹部を抱え込むようにして纏わりつく彼の腕は見るからに硬直し切っており、彼の恐怖心を如実に表している。
バイクは更に喧しく唸りを上げ、乗り手の心情を吐露するように猛々しく爆音を吐き散らす。もう速度を落とす事は無いであろう、そう思った一厘はとうとう意思の伝達を図る事を放棄し、口を真一文字に閉ざす。
しかし果たして、一厘の声が破輩に届いていたとしても、彼女は速度を緩めただろうか。
一厘は頬を突き刺すような風を堪えながら、破輩の様子を恐る恐る伺う。
そこには何時も通りの先輩の顔、しかしいつもとはどこかが違って見えるように思えるのは破輩に余裕が無い事から来る無視なのか、それとも一厘の余裕の無さが生んだ錯覚なのか。
おそらくそれはどちらでもあるが、強いて言うなれば後者なのであろう。

破輩や鉄枷が曲がりなりにも事実を受け入れ、それを解決する為に行動に出ている一方で、一厘は未だ春咲が悪事に手を染めているという半ば確定事項とも言える現実を受け入れられずにいた。
普段あれ程大人しくて、穏やかで、優しくて、真面目で、儚くて、支部の中で最も小柄で運動の苦手そうな彼女が、
このような風紀の乱れた場所に通い、良からぬ事をする筈が無い。ましてや“狩り”などと言う如何わしい単語から連想される悪事になど手を出す筈が無い、と。
そう考えずにはいられなかった。否、そういった思考判断しか出来なかった。
大抵の業務をそつなく熟す彼女が自分にとって不都合な可能性を無意識に拒絶してしまう程、彼女が構築していた春咲桜のイメージと、彼女が急に突きつけられた本当の春咲桜との齟齬が激しすぎたのだ。
しかし彼女の思考の展開は決して異常な事ではない、むしろこの場合即座に事態を受け入れ、行動に移しているほか二名の方が特殊なのである。
普段真面目で誰からも恨まれる事の無い、自分の身近な者が裏では眼も背けたくなるような悪事を繰り返していたと突然告げられた時、人は一体どういった思考回路を展開するだろうか。
恐らくまずはその事実を疑ってかかるだろう、
“自分に近しい人物が、ましてやそんな事柄とは無関係に見えるあの人が、そんなことをする筈が無い。するとすれば、何か避けられない理由があるのではないか?”と言った風に。
大概はそう考えるであろう。そして仮にも自分がその人物と接触できる機会が与えられた場合、人は一体どういった行動に出るだろうか。
その事実が正しくない事を証明する為、あるいは真実を確かめる為に、その人は悪くはないという擁護にも似た感情を抱いたまま人は行動に移すだろう。
――――そして、これもまた仮の話だが。
その人物が、自分に非常に近しいその人がもしその事実通りの悪人で、今まで自分が見知っていた彼が虚構の者であると知った時。
はてさて人は一体どのような行動に出るだろうか。
最悪の結末を迎えるか、絶望するか、それでも希望を見出すか、はたまた理想的な結末を迎えるか。
一厘は知らない、知る由もない。彼女がその“近しい人物”と対峙した時、彼女はその時に初めて認識を改めざるを得なくなるであろうという事を、そして非情な現実を受け入れなければならない事を。

(先輩はきっと誰かにやらされてるに違いない、じゃなきゃあの優しい先輩がこんな事する筈が無いじゃない!!
…私が、解かなきゃ。先輩は悪くないって証明する為に、またいつもみたいな日常に戻る為に、私が先輩の誤解を解かないと!!)
そう自分を叱咤し、気合を入れ直す。相も変わらず顔にぶつかる風の勢いは強く冷たく、思わず顔を歪めずにはいられない程であったが、おかげで頭もいつも以上に清澄かつ明瞭。サイドテールを棚引かせ、額をこれでもかと言わんばかりに外気に晒しながらも、彼女はこれまでにない程に集中していた。
先輩を助ける為に、誤解を解くために、そして今まで通りの日常に戻る為に。

深い集中は眠気や空腹感はおろか、時間すら容易く吹き飛ばしてしまう。
一厘が内なる心に静かに火を灯してから、春咲が停まったとみられる場所に到達するまでの体感時間は実際に経った時間よりもずっと早く感じられた。
タイヤを思い切り地面にこすり付け、耳をつんざく不快な音と鼻を突き刺す独特の匂いを振りまきながら、バイクは急速に速度を落とし停車する。
「着いたぞ鉄枷、生きてるか」
颯爽とバイクから降り立った破輩は風によって散らばった髪を掻き分けると、視線を自分の後ろに居るであろう人物に向ける。
彼女に呼ばれた人物、鉄枷は彼女の後ろで生気の無い青ざめた顔を浮かばせながら、“大丈夫”だとジェスチャーで表現する、正直な所全然大丈夫そうでは無い。
度重なるバイクの旋回運動によって喉の奥からこみ上げて来る酸っぱい異物を吐きだしたい衝動を無理矢理にこらえながら、顔中脂汗いっぱいにして、
「…ッだ、ダイジョブ!!大丈夫でず。ぶっちゃけ、心配、ご無用ッス、よ」
その必死な形相は笑いを通り越して同情の念すら湧き上がってくるものであったが、一厘には今鉄枷に労いの一言を掛けてやる余裕も、機転もなかった。
そして破輩もまた、それ以上彼に言葉を投げかける事は無かった。というより、先程の一言が彼女なりの精一杯の配慮だったのだろう。
鉄枷もそれが分かっているのか、いつもなら日常生活での彼女達に対する恨み辛みを吐き連ねるのだが今は珍しく文句一つ漏らす事は無い。
三人は目の前に在る建造物と、その周辺の様子を見回す。

学区の中心部から離れた事で比較的広大な敷地を確保したそれはさながら城塞の様で、普段は何の感慨も湧かないはずの灰色の建造物がやけに堅牢に見えた。
三階建ての、奥に広い、研究所にしては少し珍しい構造。外堀として申し訳程度に高圧電流の流れるフェンスがあしらってあるが、所々に人が入れるほどの大きな穴が開いており、最早用を成してはいなかった。
辺りには全く人の気配が無く、均一に無人のビルと電灯が仲良く隣り合っている。
耳を澄ませば微かに銃声のような乾いた音が聞こえてくる。どうやら施設には防音設備は為されてはいないようで、ここを誰かが通りかかればすぐにその異常に気付いてしまうだろう。
反響して響く銃声から鑑みるに中で戦闘をしている事は明らかであるが、それを隠蔽する為の工作は一切為されていないようだ。
(第三者が警備員に通報するという可能性は考慮しなかったのか?)
他人事ながら指摘を禁じ得なくなる程の弛緩しきった情報漏洩対策、恐らく隠蔽の知識が全く無い素人であってもここまで気が回らない事は無いであろう。
一厘は今自分が居る場所について自分が知っている情報を頭の中から掘り出してみる。
「確かここって…新興スキルアウトの根城でしたよね?ちょっと名前はド忘れしましたけど」
「“畜生道(ビーストロード)”ってチームだな。先々月辺りに抗争で潰された小規模チームを吸収してデカくなった所だな」
一厘が口にした知識に、破輩がそこから更に詳しい情報を上乗せにする。スキルアウトに関する知識量はどうやら破輩が一枚上手であったようだ。
「その本拠地に堂々と乗り込んでドンパチしてるって事は、春咲先輩が肩入れしてる組織ってのはぶっちゃけスキルアウトか無能力者狩りのどっちか、ッスかねぇ」
「縄張りを広げたいスキルアウトって線も考えられるし、只暴れたいだけの無能力者狩りって可能性もあるけど…まぁ、この際どっちでもいいですよね」
そう言う一厘の目は、何時になく冷え切っていた。彼女の中に掲げられた当面の目的は先輩の捜索、救出、誤解であることの証明、それだけである。故に彼女の所属している組織が何であろうと知った事では無い、邪魔をするならば組織もスキルアウトも蹴散らすまで。
もっとも、彼女のその一言に内包された危険な意味を破輩は汲み取る事は無く、
それを“そんな推論を立てている暇など無い、一刻も早く春咲を自らの手で捕えよう”という好意的な解釈で受け取ってしまったのだが。
「そうだな、迷ってたって仕方ねぇよな。
……あそこに大きな穴がある、あそこから中に入れそうだな」
そう言うと、破輩は一切の逡巡もなくフェンスを潜り抜ける。それに続けて鉄枷、一厘が敷地の中に足を踏み入れる。
だだっ広い敷地にはただの一つとして遮蔽物は無く、そこには何の面白味も無い殺風景が広がるばかりだった。
そこは研究所の正面入り口とちょうど反対に位置する場所であることを彼らは大体把握していた。
彼らの視界に入るのは無駄に大きい建造物の壁と、置物と化した監視カメラ
そして――――――“それ”があった。

「なんだ、こりゃ?」
破輩はその場に似合わない間の抜けた声色でそう口にしながら、壁に張り付いている“それ”に恐る恐る触れる。
壁の材質とは明らかに異なる、一見金属質に見えるそれは路面に張り付いたガムのように壁にしっかりと根を伸ばし、強固にこびり付いている。それでいて硬度は鉄のように堅く、表面は硝子のように滑らかだ。
外の光に照らされてらてらと光沢を露わにするそれは間違いなく金属であった、が、その種類は不明である。
思わぬ障害物の登場に幾らか躊躇いを見せる破輩を余所に、鉄枷がその横から割って入る。
「あー、こりゃ類型記憶合金ってやつですね」
「類型記憶合金(パターンマテリアル)?」
後ろから聞こえる一厘の声に振り向かずに返答しながら、鉄枷は入念にそのガムのような金属を観察する。
「そう、形状記憶合金の発展形って感じの化け物合金。
金属に複数のタイプの形状を記憶させて特殊なシグナルを浴びせる事でそれに対応した形状に姿を変えるっつー便利なシロモノ。…けどまぁ、微弱な電波を長時間浴びせ続ければ簡単に記憶データを破壊できるって致命的な弱点があるせいで結局実用化はされなかった欠陥品だけどな」
「侵入経路から敵が逃げるのを防ぐにはうってつけの金属だな。恐らく侵入者は研究所の裏側から侵入して不意打ちを図ったんだろうよ」
そう破輩は推測する。
目の前にある類型記憶合金をシグナル以外の方法で解除する為に長時間の電波の照射が必要とされるのならば、それは侵入経路を退路として利用される可能性を完全に摘み取ることと同義であると言える。
何故ならば微弱な電波を照射し続ける為に費やされる時間は確実に敵に背を向ける事となり、戦闘において致命的な隙と成るからである。流石にスキルアウトもそのような悪手を選択する程愚かではない、もしそんな事をする輩がいるとすれば、それらは間違いなく襲撃者に真っ先に狙われ死に至るであろう。
先程破輩が述べたように、この金属は新たにできた退路を塞ぐことに関しては概ね理想的な金属であると言えた。
正に完璧な対策、それ故に、疑問が生じる。
先程の粗末な隠蔽対策とは打って変わっての模範解答のような逃走対策、その不自然なまでの差に、破輩は違和感を覚えて止まない。
そして鉄枷も同様、彼女とは別の観点から生じた疑問を抱かずにはいられなかった。
(しっかし、っかしいな…類型記憶合金は学園都市の市場には出回ってないから普通の人間は殆ど存在すら知らないはずだったんだけどな?俺ですらこんなマイナー金属つい先月適当に文献見てて初めて知ったってのに)
そんな疑問を敢えて口にする必要もないだろうと鉄枷は判断し、それ以上は何も言うことなくそっと金属の表面に触れると、
頭を集中させ、演算を開始―――金属を操作する。
この世に存在するあらゆる金属はその硬度、材質、成分、性質に関わらず彼の手によって御され、意のままに操られる。
通常ならば地道な電波の照射を何時間か掛けて突破するものを、直接金属を操る事でものの数十秒で合金の解除を完遂させる。
類型記憶合金はその真ん中に大きな風穴を開ける様にして、まるで生き物のように壁面を這いずる事で。

その研究所内部の悍ましい様子を、鉄枷の網膜にしかと焼き付けさせる。
「――な、あ。」
鉄枷はその凄惨な光景を覗いた後で漸く自身の行動に後悔が生じた。喉の奥から今度こそ異物が急激に込み上がり、その光景に対する拒絶反応を嘔吐と言う形で示す。
鉄枷が思わず身体を折り曲げる事で、今まで彼の背中によって遮られていた光景が一厘と破輩の眼前に広がっていく。
一厘は発する言葉を見出せずそのままその場に座り込み、破輩は何とも憎々しげにその光景をじっと見据える。

鉄枷束縛は風紀委員として、そしてこの研究所跡地に必ずいる筈である春咲桜の仲間の一人として、その心の中では大抵の光景を見ても精神を持ち応えさせ、許容するだけの覚悟と言うものが出来上がってはいた。
木の葉通りの外れにある治安の悪い区域を根城の一つとする連中の成すであろう事など大体は予想はついていたし、不意に眉も顰める様な光景を見せつけられる可能性など重々承知の上で今回の春咲捜索に取り組んでいるつもりではあった。
しかし、それは所詮“つもり”に過ぎなかった、鉄枷が固く決した覚悟すら根本から折りかねない程に、限りなくリアルな殺戮現場は凄惨で、酸鼻で、理解の範疇を超えていた。
部屋に其処ら彼処に積もる肉片は、かつては自分と同じ様に呼吸をしていた者達。
そのどれもがもはや元在った人の形すら真面に保てずに、人間としての最低限の尊厳すら無視され踏みにじられた様な最期を迎えている。
ある者は下顎から上を消し飛ばされ、
ある者は認識出来ぬほどの炭と変り果て、部屋の壁にもたれ掛る。
苦悶の表情を露わにしたまま血を地面に撒き散らしながら死んでいった者もいれば、
もはや元がどうだったか分からない、そもそもソレが人だったのかも怪しい肉塊も転がっていた。
多種多様、種々雑多、ありとあらゆる殺し方を楽しみ抜いた跡、そしてその残りカス。
という表現が最もその光景に近しいだろうか。
なるほど彼らの言っていた“狩り”という言葉も、表現としてはなかなか的を射ている。
それはつまり、彼らの言う狩りとは所詮娯楽、貴族が森に分け入り狐を打ち殺し楽しむような物でしかなかったという事を意味していた。
そこに切迫した命の遣り取りも無ければ、勝ち負けを争う程の均衡も無い。
あるのは高位能力者達による一方的な殺戮、選ばれた者による選ばれなかった者への迫害。
彼らが殺されたことに大した意味も、殺された事によって得られる利益も殆ど無く、
只娯楽に飢えた狂人共の私欲を満たすだけに費やされる命。

無論そのような光景を真面な倫理観を持つ者が見て、その心を平静を保てるはず等無く、
それぞれ思い思いに別の対象に怒りの矛先を向ける。
破輩は自分の前で未だ蹲っている鉄枷を見て嘆息すると、
「―――私が先に行く。一厘、お前は鉄枷と一緒にここで待機していろ」
と、自分でも驚くほどに低く、平静に口火を切る。
「ふ、ざけないで下さい」
そう彼女の足元の方から絞り出すようにして出た声は、鉄枷のものである。
見るだけで発狂するのも何ら不思議ではない、日常とは異なる世界を見た事により折れかかっていた心が、破輩の一言により矜持の欠片が火花を散らしたのである。
「俺も行きます。これ位、どうってことないっ、すよ、ぶっちゃけ。
俺も、行かせて下さい。許せねぇっすよこんなの、人のやる事じゃねぇ」
「ダメだ」
きっぱりと断る。その語気は先ほどと比べると微妙に荒いものであったが、いつもとは違い鉄枷に向けられた怒気ではなかった。
内心を密かに憤怒の感情一色に染め上げながら、彼女はここに来て初めて、自らの内側で燻っていた怒りの向かう場所を定めることが出来た。
それは春咲でも、鉄枷でも、スキルアウトでもなく、自分自身。
春咲桜という悩める仲間が居ながらも、それについぞさっきまで全く気付いてやれなかった愚かな自分が憎らしい、恥ずかしいとすら思えた。
だから誰が悪いのか決めるとするならば、きっとそれは支部を纏め上げる実力の無い至らない自分。
自分のせいにも拘らず、今抑え様の無い怒りの感情を持て余そうとしている自分なのであろう。
ならば責任を一手に背負うのは自分、そして自分は自分を罰せねばならない。
彼女が自分一人で得体の知れぬ戦地へと赴くのは、他の風紀委員に危害を加わる事を避ける為でも勿論あるが、そこには同時に至らない自分に対しての戒めと、
暴発しそうなほどの憤怒によって他の仲間に危害を加える事の無いようにする為の、自身の隔離と言う意味合いも籠っていたのだ。
「10分間、そこで待ってろ。もしそれまでに私が戻って来なかったら、好きに行動していい」
それは自分自身に課した更なる枷。
一刻も早く春咲を見つけ出す、それが出来ずして何がリーダーか、何が支部長か。
そんな何の意味も効果も無い、自分を締め付けるだけの条件を自らに突き付け、自身を責め、傷つけながら、彼女は部屋の奥にある通路へと歩を進める。

リーダーは全てを背負わねばならない。
力、任務、責任、苦労、反感、期待、理想、そして自らの仲間でさえも。
無論それは道を踏み外した仲間に対しても例外でなく、それを罰する大任すらその範疇から外れる事は無い。
それが出来なければ、それは最早リーダーと呼べる存在ではない。それは責任逃れの目立ちたがり屋以外の何者でもない。
そう、彼女は認識する。だからこそ彼女は進む。
自らが本当のリーダーであることを自分に証明する為に、
リーダーとして、春咲を自らが背負うべき対象として捉え、彼女を裁いた上で背負うために。
そして、春咲が背負う重荷を背負う事で、今度こそ彼女を苦しみから救済する為に。

破輩が去った後に黙然と跪く鉄枷の姿には、いつものような明るい雰囲気など見当たらなく、むしろ物思いに耽る様な沈鬱な表情があった。
一厘は思わず鉄枷に対して胸を騒がせずにはいられなかった。
先程の行為は破輩の心情を把握していないものからすれば、邪魔者扱いされたという解釈以外の何ものでもない。一厘は、鉄枷がそれに対して落ち込んでいるのだと思ったのだ。
「ねぇ鉄枷…先輩は、きっと鉄枷を邪魔者扱いしたかった訳じゃないと思う。
多分、私たちに危険が及ばない様に気を遣ってくれたんだと―――」
「それじゃない」
鉄枷は、一呼吸間を置くと、
「俺が落ち込んでんのは、それじゃない」
「……?」
思わず怪訝な表情を浮かべる一厘に対して、鉄枷はほのかに酸味を放つ口を乱雑に拭うと、どっかりと地に腰を据える。お互い現在の異常な環境下に慣れてきているのか周りを見渡す事は憚られるものの、お互いの顔を見て会話する程度の余裕は既に生まれていた。
「―――さっきこの部屋を覗いたときさ、俺スッゲェみっともねぇけど、ぶっちゃけ心折れかけそうだったんだわ。
先輩にあんな事言われて俺の中の最後のプライドが奮い立ったから今こうしてこの部屋にいるけどよ、ぶっちゃけアレなかったら俺逃げ帰ってたかもしれない」
そう言って、鉄枷は軽く苦笑いを浮かべる、それは自嘲の様にも見えたが、一厘にその真意を知る術などなかった。
「そんで、思ったんだ。俺が春咲先輩を助けたいって思う気持ちは、仲間を思う気持ちってのは、こんなモンだったのかなぁ、ってさ」
一厘はかぶりを振って、鉄枷の弱気を否定する。
「それは違う。現に貴方はあの治安が悪い事で有名なケンカ通りを一人で歩いてまで、先輩を探そうって思ってた、そうじゃないの?」
「……」
鉄枷は返答する言葉が見つからず、沈黙してしまう。
確かにあの時の鉄枷には何が起ころうと春咲を見つけ出すという気持ちが前に出ていたこともあってか、自身ですら思いもよらない様な大胆な行動をやってのけた。
思い返せばなんとも命知らずな行動を繰り返していたのだと、今更になってぞっとする。
しかしその覚悟は、所詮自分の見知らぬ世界を垣間見た程度で怖気付く様な脆弱な物。
先程破輩に向けた勇ましい言葉など、実の所、虚勢を張る為に無意識に放った一言でしかなかった。
しかし、一厘は
「そりゃこんな馬鹿げた部屋急に見せられたらビビるのなんて当たり前でしょ。実際私だって声も出なかったんだから。
けど、それでも私たちは残った。曲がりなりにも、ココに。そして今もまだ救おうって気持ちは一応残ってる」
だからね、と言いながら、一厘は鉄枷の目を見据える。彼女の瞳には一点の曇りや迷いなど無く、彼女が発する言葉一言一言に半ば確証めいたものを感じられる程の説得力を持たせる。
「鉄枷の先輩を救いたいって気持ちは、きっと貴方が思ってる以上に頑丈よ。心配なんてしなくていい」
それはなんの根拠も無い勢いだけの励まし、しかし鉄枷にとってそれはどれほどの救いとなった事か、恐らく励ました一厘本人ですら驚く位の効果があったことは確かである。
思わぬ人物に自分の行いを認めてもらったことに鉄枷は一瞬驚き、その数刻後、涙腺が崩れそうになる感覚に襲われた。
「―――ッ!お、おう!!そーだよな、な、何かサンキューな!!」
不意にうるんだ瞳を察されまいと、鉄枷は地面を向いて視線を合わせない様にするが、もはやバレバレであった。
一厘は一先ず安堵する。目の前に居る明るくて時々むかつく同僚は自省の憂い顔など似合わない。常に揺るがない信念を以て、前進し続ける。そんな姿こそ鉄枷らしい、というよりそうじゃないとどこかやり辛くて困る。
こうして、彼らはいつもの様に結束を取り戻す、そして春咲を奪還するという共通の目的の基に強健な力を発揮する。
しかし、二人は知らない。春咲を見つけ出すという目的は同じであっても、その次の目的は大きく異なっているという事実を。
二人は知らない。一方は仲間の一人として彼女に罰を受けてもらう為に、もう一方は仲間の一人として彼女の誤解を解くために動いているのだという事を。
そして、彼らは知る由も無い。
これから物語はどう屈折し、どのような結末を迎える事となろうかを。



第九章に続く

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最終更新:2012年09月05日 01:13