1
学術の街、学園都市。
科学と科学と科学で構成されたこの街ではあらゆるものが機械化され、機械的な整頓によって街全体がデザインされています。
そこには、確かに人の手だからこそ起こり得る『雑さ』や『汚さ』は存在しませんが、人の心によって生み出された『暖かさ』もまた、計算された『科学』によって塗り潰されているような気がします。
喫茶店――『恵みの大地《デーメーテール》』は、そんな学園都市に齎された救いのオアシス。
心に悩みを抱えた人達は自ずとこの喫茶店を訪れ、可愛らしく人情深い 女将さん《マスター》が悩みを打ち明け、そしてどこかすっきりした心で帰路に就きます。そんな暖かなこの店は、学園都市が――いえ、現代社会がいつの間にか忘れてしまった『暖かな気持ち』を取り戻すことの出来る、数少ない場所なのではないでしょうか。
『恵みの大地《デーメーテール》』は、どんな人も拒みません。先生も生徒も研究者も、優等生も不良も、この店の中では関係ないのです。
……でも店内での喧嘩は禁止です。
2
カランコロン、と。
木製の扉が開いたのを感じて、カウンターで自分用のコーヒーを淹れていた(実はいけないことですが、これは彼女の密かな楽しみの一つです)忍さんは、ふっと入り口のほうを見てみました。
ちなみに、現在この喫茶店の女将さん《マスター》である芽功美さんはちょっと野暮用で外出中です。そんなわけで、この行為を咎める人物は此処にいないが為の行動でしたが、突然の来客に慌てた忍さんは視線をずらしながら無表情のまま素早くコーヒーを飲んで、少し咽つつ空のカップをカウンターの陰に隠します。
そこには、包帯でぐるぐる巻きの少女が立っていました。くたびれたセーラー服を着た、痩せぎすな長髪の少女です。まるで夏とか冬とかを乗り越えた後の薄い本の作者さんみたいにげっそりと痩せていますが、顔の造詣は悪くありません。人によっては需要もあるでしょう(尤もその人は変態で確定ですが)。そんな感じの少女でした。
少女を見た忍さんは、思わず息を呑んでしまいます。
と言っても、別にその肌の面積よりも包帯の面積のほうが広そうな姿に気圧されたわけではありません。大きな声では言えませんが、忍さんもこの仕事に就く前は硝煙の匂いが漂う仕事場で一生懸命(冷や)汗水流して働いていたものです。そもそも彼女自身結構包帯ぐるぐる巻きですから、それでびっくりしたら見事にブーメランです。
だから、彼女が驚いたのは、その姿ではなく少女の持つ『雰囲気』に対してでした。
「…………………………い、らっしゃいませ」
「……ん。私が、『分かる』の?」
何とか声を絞り出した忍さんに、包帯の少女はその隠し切れない『闇』の匂いを隠そうともせず、きょとんとして首を傾げます。その無邪気な残酷さが、忍さんの焦燥を余計に駆り立てます。
忍さんは、先ほども言ったとおりちょっと危ない仕事をしていた過去を持っています。一応、解雇処分を受けたのが足を洗った直接の原因なので元の職場の人間関係などで後ろ暗いことはありませんが、この街の闇というのは結構危ないです。だから、忍さんはふと、『この人は自分のことを殺しに来たのではないか?』と思ったのでした。
そんな忍さんの警戒を察知したのでしょう。包帯の少女(面倒なので以降は『包帯さん』と呼びます)はふっと体の力を抜きました。元々そんなに力は入っていなかったのですが、それをさらに抜いた、というニュアンスが強いです。人間がまだ飼ったばかりの子犬に信頼してもらう為に、わざと猫撫で声を使うような感じを想像してもらえば分かりやすいでしょう。
「持蒲さんが、良い店だ、って、言ってた、から、来たけど……。『卒業生』が、働いてる、とは、思わなかったの。親近感、沸くの」
いかにも適当そうに言いながら、包帯さんはカウンター席に座り込みます。ぱっと見るだけではとても喫茶店に来そうな外見ではないのですが、結構場慣れしているのか、包帯さんの動きはスムーズでした。
そして、もう忍さんもそこまで露骨には警戒していません。
客商売だからいつまでもつっけんどんではいられないというのもありますが、彼女自身持蒲さんという人間に心当たりがあったというのが大きいです。礼服をホストみたいにド派手に着崩しているくせに、自分を研究者だと言い張り、包帯ぐるぐる巻きの忍さんを会う度口説いているのです、覚えていないほうが無理がある、と忍さんは思います。
「コーヒーと、ミルフィーユ、お願いするの」
包帯さんは座り込むなり、カウンターの隅に立てかけてある『おすすめメニュー!』と書かれた紙を見て注文します。
注文し終えた包帯さんは、ふとメニューの紙を見て呟きます。
「おすす、メニュー」
「…………フフッ」
その、駄洒落とも言えないくだらない言葉遊びに反応したのは、何と忍さんでした。
「く、ふふ。……ぷっ。おすす、メニュー、なの。……ぷっ、あは、あはははは、げほっ、げぇほっ」
「……ふ、フフッ、ふふふ」
しばし、静かな笑い声が喫茶店に響き渡ります。ぶっちゃけ、シュールを通り越して最早薄ら寒く感じるほど気味の悪い光景でした。
「……ふう。あなた、なかなか、良いセンス、してるの」
「…………あなたも、ハイセンスです…………」
一通り笑い終えた忍さんと包帯さんの間には、言い表せない友情のような何かが生まれていました。包帯同士、根暗同士、オヤジギャグ好き同士、何か通じるものでもあったのでしょう。
3
「………………あの人も…………『裏』の人員だったんですね………………」
「意外、だったの?」
意外そうな表情(といっても殆ど無表情ですが)で呟く忍さんに、包帯さんは惚けたような表情で首を傾げました。
あれから数分、彼女達はすっかり意気投合していました。ボソボソと話しながら、言葉の端々の駄洒落未満な言葉遊びに気がついてはぷすすーとかふふふーとか笑っている光景は、とてもではないですがお見せできるようなものではありませんでした。今までにお客さんが来店していなかったのが幸いだと思うほどの事態です。誰がこの空間を喫茶店であるなどと思うでしょうか。
「……意外……というよりは…………納得、……ですね……。……ところどころ…………違和感は感じてましたから……」
「……へえ」
過去の持蒲さんの様子を思い返しながら、忍さんは呟きます。
「……いつも……飄々と……している割に……どこか…………リラックスできていない……そんな感じが……しました……」
「そう、なの。私には、よく、分からないの」
哀れむような色さえ滲ませる忍さんとは対照的に、包帯さんはそこはかとなくどうでもよさそうな調子です。このあたりは、二人の感性の違いとでもいいましょうか。芽功美さんの影響を受けてどことなくお節介焼きになりつつある忍さんですが、包帯さんの方はあまり他人のあり方に頓着しないタイプのようです。
「……コーヒーのお替り、……いりますか……?」
話を切り替えるように、忍さんは包帯さんに問いかけます。問いかけられた包帯さんは少しばかり考え込むような様子を見せると、
「お願い、するの。あと、ミルフィーユも」
そう言って、きれいに片付いたお皿を忍さんに手渡します。その表情は相変わらずの無表情でしたが、忍さんにはどこか綻んでいるように見えました。
「……ええ、……勿論、良いですよ」
そう言って、忍さんはカウンターの中に引っ込みます。コーヒーや紅茶などは忍さんや芽功美さんがじきじきに挽いたものを使っているのですが、さすがにオヤツに関しては注文を聞いてから作るのでは時間がかかってしまう為、基本的に作り置きをしている 恵みの大地《デーメーテール》です。
「……そういえば、あなたは、『前』は何をしていたの?」
ミルフィーユが届くまで手持ち無沙汰だったのでしょうか。包帯さんは、カウンターに肘を突きながら問いかけます。
「…………、何てことない、ただの民間傭兵企業《PMC》、ですよ」
その質問に、忍さんはゆっくりと答えました。
以前までの忍さんであれば、答えることはできなかったでしょう。彼女もまた、過去を乗り越え、そしてゆっくりと未来へと歩み始めている証拠なのでした。
しかし、そんな忍さんの成長をしらない包帯さんは、『ふーん』と気のない返事を返します。裏稼業を『卒業』しているという時点でその話題はタブーだと考えてもおかしくないものですが、包帯さんはどうもそのあたりの感情の機微というものがあまり分かっていないようだったので、忍さんもあえてそれを指摘するようなことはしません。
学園都市の生徒さんは、一癖も二癖もある性格《キャラクター》を持つ人たちばかりです。このくらいで驚いていては、 恵みの大地《デーメーテール》の住み込み従業員などやっていられません。
……尤も、もう片方の、最近やってきたアルバイトの従業員はまだそのあたりが徹底し切れていないようですが……。
「……別に、後ろ暗いことを……していたわけでは、ありません……。……主に……要人、護衛……ですね……」
「護衛」
忍さんの言葉に、関心したように包帯さんが呟きます。『闇』にて現役で活動している包帯さんとしては、『何かを守る』ということに何か感じるものがあったのでしょうか。
「護衛は、凄い、大変なの。敵対対象を、撃退すること、だけじゃなくて、護衛対象を、巻き込まない、ようにしないと、いけないし……尊敬、するの」
「……プロ、ですから……」
そんなことを言いつつミルフィーユを冷蔵庫から取り出す忍さんの背中がどこか誇らしいのは、おそらく気のせいではないでしょう。
「……そういえば、今日はどういった経緯でご来店に……?」
カチャリ、と小さく音を立ててコーヒーとミルフィーユを包帯さんの前に置いた忍さんは、そう言って包帯さんに話を振りました。既に持蒲さんからの紹介だというのは聞いていますが、具体的な詳細は知りません。
話の肴に……と思ってあまり深く考えていなかった忍さんでしたが、包帯さんはどこか苦々しそうな色を目に映します。ちなみに、目でしか判別できないのは、包帯さんの表情はやっぱり無表情のまま固定されているからです。
「……けっこう、無理やりだった、の」
包帯さんの口調には、やっぱりどこか不満そうな色が滲んでいます。
はて、無理やり? と首をかしげた忍さんに、包帯さんは続けるように説明を始めました。
「私たちのグループは、基本的に、四人組、なの」
包帯さんは自分の顔に巻かれた包帯にコーヒーが染みないように注意しながらカップに口をつけ、
「…………、その中の、一番年下の子が、言ってたの」
「……何と……?」
「『今のトレンドは、隠れ家的カッフェ』」
「か、隠れ家……」
文章を読み上げるように平坦な包帯さんの声に思わず呟いて、忍さんは店の内装を見渡します。
確かにアットホームかつ南国風ではありますが、別段『隠れ家』というほど煤けたような印象は感じられない……はずです。
「『一見ボロ屋敷っぽいけど料理はオイシイor接客はステキな、自分だけの「キタナイイ」お店を見つけちゃおう』」
「ぼ、ボロ屋敷……」
ニュースキャスターよりも無表情な包帯さんの声に思わず呟いて、忍さんは店の内装を見渡します。
確かに、確かにどことなく老朽化してはいますが、別段『ボロ屋敷』なんて印象は感じられません。断じて感じられないはずです。
「『そのお店に変人だけどイイキャラしてるマスターがいれば完璧かも』」
「も、もうやめてくださいっ!!」
最後の一言で心に大きな傷を負った忍さんは、そのままカウンターに突っ伏してしまいました。
「……どう、したの?」
「……な、なんでも……ありません……」
悪気〇パーセントで無垢な視線を向けられた忍さんは、よろよろとそのまま起き上がります。
「……それで、……それのどこが……無理やりなんです……?」
「その後が、面倒だったの」
包帯さんは、言葉の割りにどうでもよさそうな口調で続けます。
「その子と、その子の仲良しがいなくなった後、持蒲さんが、私に、その子が持ってた雑誌を、持ってきたの」
「……それで、持蒲さんは……何と?」
「『お前も、こういうの興味ないか?』って、言ってたの。私は、『興味ない』って言ったの。そもそも、仕事も残ってたから、休暇はないって、言ったの」
「……ああ、……それで、仕事を奪われてしまった……と……」
「正解、なの。持蒲さん、『そんなんじゃ将来仕事しか楽しみがねえ女になっちまうぞ』とか言ってたの。私は、持蒲さんの役に立てればそれでいいのに……」
はぁ、と無表情のまま、包帯さんは呆れたような溜息をつきました。
その様子に、忍さんは人知れず心を痛めます。
(……この子も……この街の、『闇』に囚われている……被害者……)
しかし、一介のメイドさんである忍さんでは、包帯さんを『闇』から救い上げることに関して何もできませんし、しようと思ってもいけません。それをすることで、何よりも大切な芽功美さんに迷惑がかかることだけは、絶対にあってはならないのですから――。
「……あ」
ふと気がつくと、既に包帯さんはミルフィーユを平らげていました。よほどあれが気に入ったものと見えます。
「……甘いもの、好きなんです……?」
「ん。甘いもの、というか、ミルフィーユが、好きなの」
包帯さんは、昔を思い出すような調子でそんなことを言いました。
「昔、『表』にいた頃に、友達と、よく食べたの」
ふんわりと、そう言った包帯さんの表情に、初めて笑みが浮かんだのを見て、忍さんは頭をガツンと殴られたような衝撃を感じました。
(…………私は、何を……勘違いしていたんでしょう……。……助けようと思っちゃいけないなんて、何もできないなんて、そんなこと……ない)
忍さんは、何も言わずに包帯さんに背を向けると、冷蔵庫からミルフィーユを取り出し、お皿に盛り付けます。
(……確かに、私は……この子を助けることはできない……。自分の身が大事だから……大切な人を巻き込みたくないから……そんな理由をつけて、……この子を助けに行くことさえ……できない……。……でも)
「……? どうした、の。店員さん。私は、ミルフィーユ、頼んでないの」
「私の、奢りですよ」
そう言って、忍さんはミルフィーユを包帯さんの目の前に置きます。
(……でも、何もできないわけじゃない)
そう。
確かに、忍さんは暗闇でおびえているお姫様を救い出せるような、完全無欠のヒーローではありません。
しかし、忍さんは忍さんなりの、完全無欠のヒーローではできないような、お姫様の手助けをすることくらいはできます。
「……この店があなたにとって、癒しの地になりますように」
「……ん。何か、言ったの?」
「…………いいえ、なんでも」
無表情な、言い換えるとどこまでも無垢な表情を向ける包帯さんに、忍さんは柔らかな微笑を向けます。
この少女が、いつか救われて、幸せな光の下で暮らせるようになるまで。
自分が、この少女の心を支える大地になろうと、心に決めながら。
――そんな少女を包む『闇』をヒーローが打ち砕くのは、それから少し後のお話。
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学術の街、学園都市。
喫茶店――『恵みの大地《デーメーテール》』は、そんな学園都市に齎された救いのオアシス。
心に悩みを抱えた人達は自ずとこの喫茶店を訪れ、可愛らしく人情深い 女将さん《マスター》が悩みを打ち明け、そしてどこかすっきりした心で帰路に就きます。
『恵みの大地《デーメーテール》』は、どんな人も拒みません。先生も生徒も研究者も、優等生も不良も、果てはちょっと危ない仕事をしている人も、この店の中では関係ないのです。
今日も、色んなお客さんが芽功美さんの料理を、芽功美さんの悩み相談を、あるいは芽功美さん本人を目当てに『恵みの大地《デーメーテール》』を訪れます。
……でも最近は、包帯姿のメイドさんを目当てにしている珍しい女の子もいるんだとか。
最終更新:2012年10月29日 20:57