1
学術の街、学園都市。
科学と科学と科学で構成されたこの街ではあらゆるものが機械化され、機械的な整頓によって街全体がデザインされています。
そこには、確かに人の手だからこそ起こり得る『雑さ』や『汚さ』は存在しませんが、人の心によって生み出された『暖かさ』もまた、計算された『科学』によって塗り潰されているような気がします。
喫茶店――『恵みの大地《デーメーテール》』は、そんな学園都市に齎された救いのオアシス。
心に悩みを抱えた人達は自ずとこの喫茶店を訪れ、可愛らしく人情深い 女将さん《マスター》が悩みを打ち明け、そしてどこかすっきりした心で帰路に就きます。そんな暖かなこの店は、学園都市が――いえ、現代社会がいつの間にか忘れてしまった『暖かな気持ち』を取り戻すことの出来る、数少ない場所なのではないでしょうか。
『恵みの大地《デーメーテール》』は、どんな人も拒みません。先生も生徒も研究者も、優等生も不良も、この店の中では関係ないのです。
……でも店内での喧嘩は禁止です。
2
「じゃあねー!! また来るからー!!」
「ごちそうさまでした~」
「今日も美味しかったです!」
「元気でな~」
お昼前。四人の少女達が、元気に店を出て行きます。
しかし、そんな元気な少女達を見送っていたのは、いつもこのお店を切り盛りしているマスターの芽功美さんではありませんでした。
「…………ありがとう、ございました…………」
彼女達を見送っていたのは、顔の半分以上を包帯で覆った、身長一六〇センチ足らずの女性でした。艶のある黒い髪を短く切りそろえ、その頭にはホワイトブリム――メイドさんのつける白いフリル付のカチューシャ――をつけ、踝くらいまである丈のメイド服を見事に着こなしています。
余談ですが、メイド服には丈が長く装飾が地味なヴィクトリアンメイドと丈が短く装飾が派手なフレンチメイドの二種類があり、彼女が身に着けているメイド服は前者のヴィクトリアンメイドです。要するに、どこからどう見てもメイドさんでした。
「あれ、もう行っちまったかい」
しばし四人が出て行った方を見つめていたメイドの女性でしたが、背後からかけられたあっけらかんとした声に振り向きます。そこには、この店の 女将さん《マスター》、芽功美さんがカウンターに肘を突いて立っていました。
「…………はい……。たった今……」
ボソボソと呟くメイドの女性は、そう言ってテーブルに残っていた高そうな意匠のカップを手に持ったボードの上に置いていきます。
「……それにしても、そのメイド姿も随分と板についてきたねぇ」
芽功美さんはファミレスのウェイトレスでも不可能だろうというスピードでカップを回収し、震え一つなく歩くメイドの女性を見て呟きました。
しかし、褒められたはずのメイドの女性は謙遜するように首を振ります。
彼女の名前は
鋼加忍。
恵みの大地《デーメーテール》に住み込みで働いているメイドさんです。
「……まだまだ……。……私は……学ばなければならないことがあります……」
ボソボソと、顔中に巻いた包帯の所為でどこかくぐもった様な声で話す忍さんは、そこで一旦言葉を切って、小さな声で呟きます。
「………………まだ偶に、私が淹れたお茶で金束さんが咽ることがありますし………………」
「ぷっ、そりゃあ忍、あんたが悪いんじゃなくて、晴天が飲み急ぎすぎなんだよ」
芽功美さんのツッコミに、忍さんは『それもそうですね』と言い返すと、クスクスと静かに笑います。
芽功美さんは、忍さんのこの笑い方がたまらなく好きでした。
おそらくは大学生くらいだろう年齢しかない忍さんですが、普段はそれより一回り年を取っているような冷静さを見せます。そんな忍さんも、笑うときだけは年相応の、可愛らしい笑みを浮かべるのです。その笑顔を見ると、忍さんの凍った心が少しずつ溶かされているような気がして、芽功美さんはとても嬉しくなるのでした。
芽功美さんは、それこそ母親のように優しい微笑みを浮かべています。そんな微笑を見た忍さんは、安心しながらもこう思ってしまいます。
(…………もう、終わりにしなければ、いけない)
3
実は、忍さんは元々結構危ない仕事に就いていました。
危ないと言っても、マグロ漁に行ったりといった類だったり、地下労働施設勤めといった類だったりの『危なさ』ではなく、たとえば要人警護とかそんな感じの『危ない』仕事です。結構黒い部分もありますが、基本的に善人がする仕事です。基本的に。
そういうわけで、忍さんは学園都市内の要人警護を専門に請け負う傭兵会社に勤めていました(学園都市はその関係上、傭兵などといった勢力を多く内部に入れることはできないので、外部に本部を置く傭兵会社を『支社』として学園都市の内部に設置することが多いのです。勿論、公のものではありませんが)。
そんな忍さんは一年ほど前、とある依頼を受けました。
学園都市に向かう要人の警護をしろ、という依頼でした。
その依頼自体は別に問題ありません。ただ、彼女にとって不幸だったのは、ちょうどその時期に学園都市の『裏』に存在する組織、『暗部』においてちょっと派手な抗争があった、というところでしょう。
その『暗部』の中の一つの組織は学園都市に被害を与える為、その要人を殺害しよう、という計画を企てていたのでした。当然、そんなことになれば要人警護の任務についている忍さんとしては何としても阻止しなくてはなりません。
幸い、要人襲撃の阻止は出来ましたが、それでも忍さんには大きなダメージが残りました。
顔面の上半分を覆う大火傷。それが忍さんの負った大怪我でした。
それだけではありません。顔面に大火傷を負った忍さんは、その時――まあ、言葉に表すのは酷なのでぼかしておきますが、相当な醜態を晒してしまったのでした。
そして、その醜態と、火傷のときに出来たトラウマの為――彼女は、ほどなく会社をクビになりました。
退職金はもらうことが出来ましたが、醜態を晒したことによる会社の広告的損失などの賠償金や自身の火傷治療などの差し引きを考えると、彼女に残っていたお金などないに等しく、病院を退院した後、彼女が路頭に迷うのにそれほどの時間はかかりませんでした。
そんなときに彼女に救いの手を差し伸べたのが、他でもない芽功美さんです。
「……何も言わなくて良い。ウチに来な」
路地裏で、毛布とも呼べないボロ切れを被って丸まっていた忍さんを見つけた芽功美さんは、ただそれだけ言いました。忍さんの酷い火傷の跡を見ても、眉一つ動かしません。火傷の跡を見て同情するのではなく、芽功美さんはそのときの忍さんのあり方そのものに心を痛めていたのだろう、と今にして忍さんは思います。
当時の忍さんは、何故芽功美さんが見ず知らずの自分にそんなことを言えるのか理解できずぽかんとしていましたが、やがて痺れを切らした芽功美さんが忍さんを抱えると、それに逆らわずにそのまま運ばれました。
その後、とりあえずお風呂に入って身奇麗になった忍さんに対して、芽功美さんが余計な詮索を入れることはありませんでした。芽功美さんはただ新しい下着と制服――メイド服――を渡し、
「実は、最近お客さんが多くなっててね。住み込みで働いてくれるような従業員が欲しかったんだ」
とだけ言い、包帯で彼女の顔の火傷跡を全部覆い隠してしまいました。
何か裏があるのか、と忍さんは最初こそ疑いました。
ですが、芽功美さんは一向に忍さんの過去を詮索するようなことをしませんでした。
互いに本音で話せるようになった頃から、顔の火傷痕の治療をしきりに勧める程度。芽功美さんが忍さんの『裏』にまつわる領分に踏み込むのは、その時くらいです。
まるで忍さんが芽功美さんに全てを話してくれるのを待っているかのように――いえ、実際に芽功美さんは忍さんが話を切り出すのを待っているのでしょう。芽功美さんは、いつもそうです。軽い悩みを聞くときにはずかずかと踏み込んでくる彼女ですが、その人が抱えている本当に大きな悩みを聞きたいとき、芽功美さんは必要以上に踏み込みません。
だから、忍さんは今まで自分の身の上を芽功美さんに話せないままでいました。
それは、昔のことを忘れている方が自分にとって『楽』だからです。
要人警護をしていたときの彼女は、お世辞にも充実した人生を送っているとはいえませんでした。辛い思いもいっぱいしました。特に、醜態を晒した時のことなど……今でも、思い出しただけで顔が青ざめてしまうほどです。
芽功美さんは、忍さんが過去のことを忘れたままでも良いと、そう思っているのでしょう。過去から目を逸らす、というと何だか悪いことのように聞こえますが、言い方を変えれば辛い過去から再起したとも言えるのです。
心の傷とは絶対に向き合わなければならないなんていうのは、少年漫画の世界だけの話です。それによって精神的成長が得られるということは、あるかもしれません。でも、絶対ではありません。まして、忍さんは女の子です。そんな根性根性な熱血ストーリーの主人公にはなれませんし、そんな性格でもありません。
でも、それでも忍さんは思うのです。
――家族に、隠し事なんていけない。もう、終わりにしなければいけない。……と。
4
その後の忍さんと芽功美さんのやり取りの模様は、皆さんのご想像にお任せします。
ただ一つだけ言っておくと、それからというもの、忍さんの表情には少しだけ笑顔が増えた、とか。
5
学術の街、学園都市。
喫茶店――『恵みの大地《デーメーテール》』は、そんな学園都市に齎された救いのオアシス。
心に悩みを抱えた人達は自ずとこの喫茶店を訪れ、可愛らしく人情深い 女将さん《マスター》が悩みを打ち明け、そしてどこかすっきりした心で帰路に就きます。
『恵みの大地《デーメーテール》』は、どんな人も拒みません。先生も生徒も研究者も、優等生も不良も、この店の中では関係ないのです。
今日も、色んなお客さんが芽功美さんの料理を、芽功美さんの悩み相談を、あるいは芽功美さん本人を目当てに『恵みの大地《デーメーテール》』を訪れます。
……でもやっぱり、店内での喧嘩は禁止です。
最終更新:2012年10月30日 01:03