「恋が狂気でないとしたら、そもそもそれは恋ではない」――ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ

 ◆ ◆ ◆

 晴れた日の昼下がり、オズウェルは草萌える広場の真ん中に寝転がって、空を見上げていた。
「オズ君」
 呼ばれて上体を起こすと、向こうからのんびりと歩き寄ってくるマティルダの姿が見えた。白い光を全身に浴びて、微笑んでいる。
「なにしてるの」
「陽の光を浴びてるんです。ほら、今日は、とてもいい天気ですから」
「あたしも一緒に浴びていいかな」
「ええ、もちろん」
 言われて、マティルダはオズウェルのすぐ隣に寝転がった。
 こんな涙が出るくらいに平穏な日々が、ずっと続けばいいと心から願った。けれど、その願いが叶わないことを、彼は知っていた。だからこそ、このひとときを、大切にしようと思った。
「草の匂いがする」
「そりゃあ、草の上に寝転がっていますからね」
「違うよ。オズ君から」
 微笑んで目を閉じたマティルダに向かって、オズウェルはわずかに首をかしげた。
「僕から?」
「うん」
 それに、太陽と風の匂いもする。
「なんですかそれ」
 思わず笑ってしまった。草はともかく、太陽や風に匂いなんてものはそもそもないのだ。
「わかんない。けど、すごくいい匂い」
 オズ君の匂い、好きだよ。
 会話は、そこで途切れた。僕もあなたの匂いが好きですとは、どうしても言えなかった。花を思わせる涼しげで甘いいつもの匂いも、稽古を終えたばかりの汗くさい匂いも、マティルダのものならばなんだって好きだった。
「マチさん」
 自分でもそうと自覚しないうちに言葉が洩れていた。
「なに?」
「――いえ。なんでもありません」
 いま、自分はなにを言おうとしたのだろうかとオズウェルは思った。
 本当は、分かっていた。伝えたい気持ちがあった。言いたい言葉があった。けれど、それはすべて、意味のないことたちだ。想いの伝わらない言葉ほど、虚しいことはない。
 泣きたい気分を初夏の陽気のせいにして、オズウェルは目を閉じた。

 ◆ ◆ ◆

 彼女との出会いは、記憶を手繰れば、すぐに思い出すことができた。少女と過ごしたのは、とても、とても短い時間だった。
 記憶は霞むものだ。
 それでもオズウェルは、そのときのことを、克明に思い出すことができる。
 恋の始まりは、あまりにも突然だったけれど、穏やかでもあった。

 ◆ ◆ ◆

 幼い子供だった頃。
 少年は、孤児院の寝床に臥せていた。他の子どもたちが庭で遊んでいるのを、窓越しに眺めることしか出来ない。それは、いつものことだった。彼は、体が弱かったのだ。
 別に、憐れむようなことはしない。憐れんだところで、体が強くなるわけではないことを、少年は知っていた。少年は、ただ、ありのままをありのままに受け取っていただけなのだ。
「――」
 けれどその日は、いつもと、少し違っていた。遊んでいる子どもたちの中に、見知らぬ少女がいたのだ。金髪の女の子だった。孤児院の人数は少ないから、皆の顔を覚えるのは簡単だった。けれど、少年は、少女の顔に見覚えがなかった。となると、少女は外から来た人間ということになる。
 誰だろう、どこから来たんだろう、と。物思いにふけったのも一時的なもので、少年は、自分でも気付かないうちに、少女に見惚れていた。少女の、元気に走り回る姿に、憧憬していたのかもしれない。
 じっと彼女を見ていると、ふと、少女と目が合った。少年は思わず顔を伏せた。目だけを動かすと、少女がこちらに駆け寄って来るのが見えた。
「こんにちは」
 窓を開けて、少女が話しかけてきた。そのとき少年は、自分の目を疑った。少女の瞳が、あまりにも美しかったから、ではない。確かに、美しいと言われれば美しい、澄んだ碧色をしていたが、そうではない。傷。衣服から覗く体のあちこちに、生々しい傷痕があったのだ。
「きみは」
 なぜ、こんなにも多くの傷を負っているのか。なぜ、少女は傷痕を隠そうとしないのか。なぜ、笑っていられるのか。少年は、分からなかった。分からなかったが、だからこそ、少女は、普通の人間には及びもつかないような世界で生きているのだろうと、少年は理解した。
「マティルダ。みんなはマチって呼んでる」
 マチ、と少年は言った。ぼくのなまえは。
「オズウェル。オズでいいよ」
 オズ、と少女は言った。

 それが、オズウェルとマティルダの出会いだった。

 ◆ ◆ ◆

「オズくんは、どうして寝てるの」
「体が弱いから」
「弱いの」
「うん。病気になりやすいんだ」
「ふうん」
「マチは、病気になったことある?」
「ないよ」
「そっか。いいな」
 少女はきっと、少年には無いものを持っている。そしてそれは、少年が求めてやまないものだった。少年は、少女を羨ましいと思った。
「どうしたら」
 きみみたいになれるかな。
「簡単だよ」
 強くなればいいんだよ。
「強くなれば、病気にも負けないよ」
 簡単そうに少女は言った。
「強く、なる」
「うん」
 言葉にすれば簡単だった。けれど、それがとても、とても難しいことを、少年は知っている。なんとなれば、少年は弱かった。ぼくには。
「むずかしいな」
「そうかもね。でも、きっと」
「なに」
「オズくんは、強くなるよ」
「どうして」
「そんな気がする」
「なにそれ」
 少年は笑った。
「そんな気がするの。だから」
 大丈夫だよ。
「そうだと、いいな」
 少年は、少女の言葉を、信じてみようと思った。
 だから、強くなって、元気になったら。
 元気いっぱいに笑って、マティルダは言ったのだ。 
「一緒に遊ぼうね」
 と。そのとき、オズウェルの心の中に、何かが生まれた。
 そのときの少年は、それが何なのか分からなかった。恐らくそれは魂のように、けして目で見ることは出来ず、耳で聞くことはできず、匂いも色もない何かだった。現世のものとして掴むことのできないものだった。しかし、それは、そういう性質のものだった。だからこそ、かけがえのないものだった。
 それは、恋だった。

 少女を呼ぶ声が聞こえた。見れば、遠くに男が立っている。
「もう行かなきゃ」
 オズウェルは、彼女ともっと話していたかった。けれど、それを口に出すことはしなかった。分かっているのだ。人と人が出逢えば、そこには必ず、別れがあるということを。
「元気でね」
「うん。オズくんも」
 そう言ってマティルダは男のもとへ駆け寄った。男は彼女の手を取り、共に歩き出した。少女は一度だけ後ろを振り返り、手を振った。オズウェルも、手を振った。彼女の姿が見えなくなるまで、いつまでも。

 マチ、とオズウェルは呟いた。思えば、春は近かったのだ。

 ◆ ◆ ◆

 それから、数年後。
 十三歳になったオズウェルは、必要悪の教会の魔術師になっていた。あの孤児院で魔術を知った彼は、魔術について研鑽を積み、姉と妹と共に魔術師になったのだ。
「ねぇオズ兄。今日の夕飯はなんだろうね」
「僕はスター・ゲイジ・パイが食べたいな」
「えぇ、アレ見るからにゲテモノじゃないか。アタシはランカシャー・ホットポットが食べたいね」
 こんな風に姉と妹と他愛のない話をするのは、いつものことだった。
 そのとき、二人の少女とすれ違った。
「でね、そのおじさん、とても強かったんだ」
「そうなの」
「でも、おじさん、本気じゃなかったんだ。もし本気で戦ってたら、あたしはきっと負けてた」
「へえ。じゃあ、もっと強くならないとね」
「うん」
「あー、あたしもアイツを見返せるくらい、強くなりたいな」
 オズウェルは、思わず立ち止まった。後ろを振り向く。
 色とりどりの服を重ね着した少女の隣で、義手をつけた金髪の少女が歩いている。

 不思議な気配を感じる。声が聞こえたのだ。楽しげな、嬉しげな。
「大丈夫だよ」
 霊感が走った。

 怪訝な顔をしている姉と妹を置き去りにして、オズウェルは少女に駆け寄った。
 間違いない。忘れるはずがない。あの子だ。あの日、あのとき、あの場所で出逢った。
 運命のひと。

「マチさん」
 オズウェルは言った。確信していた。

「きみは」
「オズです。オズウェル」
 ほら、昔、孤児院で会った、体の弱かった子供です。
「あ、もしかして、あのときの?」
「思い出してくれましたか」
 最初はきょとんとしていた彼女の顔が、少しずつ笑顔に変わって行くのを見て、オズウェルも嬉しくなった。それはきっと、彼女が自分を憶えていてくれていたから、ってことだけじゃない。もっと何か、ふかいふかい、自分ではどうしようもないどこかで、彼の気持ちは高まっている。
「体はもう平気なの?」
「はい。すっかり良くなりました」
「良かった。じゃあ、手合せお願いしてもいい?」
「え」
 手合せ。それは、戦うということだと理解するのに、少し時間がかかった。
「え、ええ、もちろん」
「ありがと。じゃあ、また明日ね」
 それだけ言い残して、マティルダは走り去った。
 茫然としているオズウェルに、もう一人の少女が話しかけてきた。
「きみ、新人?」
「オズウェル=ホーストンと言います。あなたは」
弥生=アップヒルよ。あなた、マチちゃんのことが好きなのね」
 オズウェルの表情が固まる。
「なんで分かったんですか」
「見れば分かるもの。でも、難しいと思うわよ」
 喉のあたりが、りり、と収縮したのを、まるで他人の体のことのように遠く感じた。
「どういうことですか」
「あの子はね」
 戦いにしか興味ないの。
「え」
 残念だけどぉおお。
 語尾が伸びて聞こえたのは、幻聴だったのだろうか。
 オズウェルは、立ち尽くすことしかできない。

 ◆ ◆ ◆

 弥生の言葉が本当なのかどうか、確かめなければならない。
 次の日、オズウェルは約束通り、マティルダと戦った。そして、答えを得た。
 マティルダは、戦士だった。けれど、ただの戦士ではなかった。戦いを至上の喜びとする者。戦いに生き、戦いに死ぬ者。それが宿命である者。狂戦士と、そう呼ぶに相応しい。
 届かない。
 狂っていると思った。恐ろしいと思った。けれど、それは、自分が普通の人間だからだ、戦士でないからだ、強くないからだ、と思った。そのせいだと言いたい、思いたい、信じたいのだ。
 彼女に届くためなら、何だってした。いくらでも鍛えた。剣を捨てた。狂戦士の術式に手を出した。強くなれば、あるいは、狂気に染まれば、もしかしたら。けれど、何をやっても、どうしても届かない。
 マティルダは、普通の人間とは遠いところにいる。それは、孤児院で初めて会ったときに、何となく気が付いていた。そして、今なら分かる。感じる。とてつもなく、遠いのだ。どのくらい走れば近付けるのかも分からないほど、離れている。早晩、彼女を見失ってしまうような。無窮の距離が二人の間に、と言うよりも、人間と戦士の間に生まれてしまっている。
 強くなるということは、そういうことと折り合いをつけていくことなのだと、知ったふりをしていた。自分が病気を乗り越えられたように、と。他の人とは少しだけ違う、あるいはちょっと早熟な、わかったような人間のつもりでいた。それなのに、この始末だ。実際のところは、想い人が戦いにしか興味がないと聞いて、立ち尽くすような、弱い人間のままだった。
 オズウェルは、少女を想って、泣いた。静かに泣き続けた。こんなにも悲しいことなど、もう二度とないと思った。泣いても泣いても、涙は枯れることがなかった。泣きつかれて眠って、目が覚めても泣いた。ずっと、この虚ろなものを抱えて生きなければならないのかと思うと、穴に堕ちていくような感覚さえ覚えた。少年の魂にきざまれた疵は、ひどく深かったのだ。
 だが、しばらく経てば、オズウェルは笑顔を浮かべることができるようになった。なんとなれば、人は何度でも立ち上がることができるのだ。疵は疵として残るが、それとは別に、人は生きていく。それは、大人子供関係なく、人間といういきものの真実なのだ。

 ◆ ◆ ◆

 それでも、少年は、少女への想いを捨てきれなかった。
 なんとなれば、オズウェルは。
「あなたのことが、好きなんです」
 こんなにも、愛おしいのに。こんなにも、辛いのに。
 声は、届かない。

 ◆ ◆ ◆

「オズ君?」
 目を開けると、マティルダが立ってこちらを不思議そうに見下ろしている。
 どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。寝惚け眼をこすりながら、上体を起こした。そこで、気付いた。
「どうして、泣いてるの」
 涙が、流れていた。
「なんでもありませんよ」
「そう」
 オズウェルは、手で涙を拭った。
「マチさん」
「なに」
「良ければ、今から戦いませんか」
「珍しいね」
 オズ君から誘うなんて。
「そんな気分なんです」
「いいよ。あたしも、戦いたいと思ってたの」
「では、先に行ってて下さい。僕は、準備がありますので」
「うん」
 そう言って、彼女は駆けて行った。

 去り際の、マティルダの笑顔を心に刻んだ。
 彼女の笑顔があれば、どこまでも頑張れるような気がした。大袈裟かもしれない。けれど、人を好きになるということは、そういうことなのだ。恋とは、そういうものなのだ。たとえ、それが叶わない恋だと知っていても、好きな人のためなら、人は、どこまでも強くなっていく。大人になっていく。
「ああ」
 見上げる。頭上には相変わらず、刷毛ではいたような蒼い空が広がっていた。

 (了)

 参考:一途な恋は狂気の様に

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最終更新:2014年03月02日 15:13