第7話「気まぐれな善意はフラグ建築に貢献することがある。」
9年前 中南米
照りつける太陽の元、急速な経済発展によりビル群が乱立する大都会。綺麗に舗装された道路、小奇麗な建築物や広場、そして洗練された服を着る街ゆく人々。だが、その周辺には都市と同等の広さを持つ広大なスラム街が広がっていた。そこにいるのは、経済発展の弊害、物価の上昇と格差の拡大の犠牲者たちだ。一獲千金を夢見て都市に出稼ぎに来たが、その夢破れてこのあり様である。
そんな都市部とスラム街にはくっきりとした仕切りがある。都市の西側には金網のフェンスが敷かれており、そこで都市部とスラムが区切られている。所々、金網が破られて人や車が通るには充分なスペースが開けられているが、そこは別に問題ではない。このフェンスの役割は物理的な遮断ではなく、精神的な遮断だ。
“俺はお前たちとは違う。”
互いにそう思うためにこのフェンスは必要なのだ。一方は貧しき者と見下し、一方は資本主義に魂を売った犬と見下される。
わざわざそんなフェンスが敷かれているにもかかわらず、1人の男が越えようとしていた。
年齢は20歳ぐらいの東洋人の男だ。都市でもよく見かける黒いスラックスに白い半袖のカッターシャツ、サラリーマンっぽい格好だ。だが大道芸人のように棺桶のようなトランクを背負っている。その姿は異様であり、人目を引くのだが、今ここに彼ら以外の人間はいないようだ。
「アマノさん。ここはやめといた方が良いよ!」
彼のガイドを務める地元の少年は流暢な日本語で彼がフェンスに穴を開けようとするのを止める。
「ここから先はギャングの縄張りだし、普通の住民だって十分、危険なんだから!」
すると、男は少年の頭の上に優しく手を乗せた。
「少年。俺はとにかく知りたいんだ。この先に何があるのか、どんな人がいて、どんな暮らしをしているのか、そこにはどんな神がいるのか。とにかく知りたくて知りたくて我慢できない。いや、“この世界の総てを知りたい”と言っても過言じゃない。そのためには、どんな不都合な事実からも目を背けてはならないんだ。」
そう言うと、男は小さなチリ紙をフェンスに張りつけた。
紙を張り付けられてフェンスに何かの脈のような光の筋が浮き上がる。すると、金網の繋ぎ目部分が自壊し、折れ曲がることで人間が1人通れるぐらいのスペースを作り上げる。「ここまでの案内、ご苦労だった。」
男はガイドの少年に札束を渡す。ガイド料だけでは過剰な料金だ。おそらく、今見たものの口止め料も含まれているのだろう。
(目を背けなきゃ、その眼球を抉り取られることになると思うけど・・・。)
そう思いながらもどうにも出来ず、少年は最後まで男の背を見続けた。
そして、男――――いや、
尼乃昂焚はフェンスを通り抜け、スラム街へと入っていった。
スラム街はとにかく殺伐としていた。長いこと整備されていない旧市街がそのまま残され、そこに不法滞在者が屯っている。そこにいる人々の目に活気は無く、代わりに殺気が宿っている。そうでない人間は全てを諦め、虚ろになっている。
昂焚は目的も無く堂々と道を歩いていた。綺麗な格好、棺桶トランク、余所者という注目される三大要素を抱えており、様々な思惑で人々は昂焚を見ていた。
そして、当の昂焚はそれを全く気にしていなかった。
(さて・・・目的も無く、ただ徒然なるままに歩くのも芸が無いな。)
ただ“知りたい”という欲求を満たすためだけに昂焚はフェンスを通ってここに来たのだが、“何を知りたい”のかは具体的に決まってはいない。全てを知りたいと言えばそこまでだが、制限されていない自由というのは時として人を優柔不断にさせる困りものだ。
だが、昂焚はここであることに気がついた。
(そういえば、あの少年が『ここはギャングが仕切っている』とか言っていたな・・・。だとすれば、俺は彼らの領地に無断で入ったことになる。)
「だったら・・・、まず彼らのボスに挨拶に行くのが礼儀なのだろうな。」
そう思いつくと、昂焚は片っ端から視野に入った人を追いかけては捕まえて、ギャングのアジトを聞き出そうとする。老若男女構わないその行動は不審者とか、誘拐犯といった類の人間がとる行動だった。
だが、誰もアジトの場所を言わなかった。皆、ギャングを恐れていたのだ。簡単にアジトの場所なんか言ってしまえば、後で自分がどんな目に遭うか分からない。
そして、昂焚の噂がスラム中に広まったお陰で、誰もが昂焚から逃げ隠れし、彼の視界からは人が消えてしまった。
(ここの人たちはシャイなんだな。)
自分が原因であることを棚に上げて呑気に考える昂焚。誰にも聞けないのなら、自力で探すしか無いのだが、このスラム街は都市部と同等に広いのだ。1人で探すとなるとかなり骨が折れるだろう。
「本当に誰かいないかな~?タイミング良く、『最近、俺らのことを嗅ぎまわっている奴がいるじゃねぇか。ヘッヘッヘ・・・』みたいな感じでギャングの下っ端が俺に襲いかかって来ないものか・・・。」
そんな有り得そうなことを考えつつも昂焚はふと近くにあったゴミ箱の蓋を開ける。
なんとなく、そこに誰かが隠れていそうだと思ったからだ。
「お~い。どなたか隠れていませんか~?」
昂焚はポーカーフェイスで飄々としたセリフを口から発して、中を覗いた。
その中には、ゴミ箱の中にあるべきではないものが詰まっていた。
10歳ぐらいのラテン系の少女だ。健康的な褐色の肌に黒くてボサボサな髪の毛。出るところは出始めている発展途上の体型。顔立ちはそこそこ整っている。
そして、彼女は赤黒い服を身に纏っていた。所々で濃さが違う。いや、否定しておこう。彼女は赤黒い服を着ているのではない。自らの血で、服を真っ赤に染めていたのだ。血が乾燥することで黒く変色し始めていた。それに服だけではない。その肌も血にまみれていた。
「ん~これはまた、興味深い。」
昂焚は子どものように目を輝かせた。そして、ゴミ箱をゆっくりと横に倒すと、そこからズルズルと血まみれの少女を引きずりだした。
彼女の胸元に耳を当てると、まだ心臓は動いている。呼吸もしている。
それを確認すると、昂焚は彼女を持ち上げて肩に抱えた。文字通り、“お持ち帰り”である。
昂焚が少女を肩に抱えて立ち上がると、3人のガラの悪そうな男が昂焚を取り囲んだ。
「よぅ。俺らのことを嗅ぎまわっている奴ってあんたか?」
昂焚のお望み通り、ギャングの下っ端登場である。
「悪ぃが、ボスは忙しい身なんでな。会いたきゃ、有り金全部寄こしな。」
「おいおい。そんな死にかけのガキんちょお持ち帰りしてどうするんだよ?もしかして、ロリータが趣味ですかぁ?本当に救いようのない変態だぜぇ。」
古今東西万国共通、こういった連中というのはどこからでも湧いて出るようである。
だが、昂焚は恐れなかった。むしろ彼らに対する興味はほとんど無くしていた。
「あ、ごめん。君たちにはもう用は無いから。帰っていいよ。」
「「「はぁ?」」」
口をあんぐりと開けたギャング3人を尻目に昂焚は包囲網を抜け、マイペースに歩いて去っていく。
「―――って、ちょっと待てや!ゴルァ!!」
「俺たちのこと舐めてんじゃねぇぞ!」
「てめぇ!ここから出るなら、有り金全部出しやがれー!!」
3人がナイフやら棍棒やら各々の武器を手に持ち、背後から助走を付けて襲いかかる。
ジャララララララ・・・・・・バシィィィィィィィィィン!!
昂焚の背負っている棺桶トランクから鎖を引き抜く様な音を立てながら都牟刈大刀《ツムガリノタチ》の枝の1本が現れ、背後の3人を鞭で叩くように叩きつけた。
「うわぁ!何だ!?あれ!」
「退くぞ!ボスに報告しねぇとヤベェ!」
無駄な抵抗もせず、3人はそそくさとスラム街の奥へと消えていった。
都市部 とあるホテル
中の下くらいのビジネスの一室。
昂焚は自らが泊まる部屋にゴミ箱から引っ張り出した少女を連れ込んだのだ。もう変質者以外の何物でもない。血まみれの少女を肩に抱えたままだと警察を呼ばれてしまうので、一度、部屋に戻って棺桶トランクの中身を空にして、その後、どこかに隠しておいた少女を押し込んでホテルにお持ち帰りしたのだ。
昂焚は自分が使うベッドの上に少女を横たわらせた。
血で染まっていた服は剥ぎ取り、皮膚に付着していた血も洗い流した。無論、その間、少女は気を失ったままだった。むしろ、そっちの方がお互いのためであろう。
見ず知らずの男にホテルに連れ込まれて、服を引き剥がされて、シャワーで全身を洗われたなどという恥辱の限りを尽くされた記憶など持たない方が良い。
ベッドに横たわる少女(全裸)の上にシーツを掛け、昂焚は都牟刈大刀を取り出した。
都牟刈大刀は3本の枝が中心の剣に密集し、もう3本の枝が別のところで螺旋状に巻きついて1匹の蛇を作り上げる。その蛇が再び螺旋状に本体に巻きついた。
そうやって形を変えた都牟刈大刀は、アスクレピオスの杖のようだった。
アスクレピオスの杖――――ギリシャ神話に登場する名医アスクレーピオスの持っていたヘビの巻きついた杖のことだ。医療・医術の象徴として世界的に広く用いられているシンボルマークであり、医療系魔術でもアスクレピオスの杖を記号化させたものが多い。その上、昂焚の都牟刈大刀は八岐大蛇を模したものだ。
「アスクレピオスの杖はこれで完成か。ヒュギエイアの杯の記号も欲しいが、今は贅沢出来ないか。」
アスクレピオスの杖を模した都牟刈大刀を床に突き立てると、今度は少女の周りに小物を置き始めた。そして、その傍らにある小さなテーブル上でこの部屋の家具の配置、自分と少女の位置、少女の周囲に置いた小物の位置をビー玉や小石で完全にコピーしたミニチュアを作る。
「さて・・・治療を始めるか。」
昂焚はそう呟くと、テーブルの上にあるミニチュアに手を置いて、詠唱を開始した。
宗教の異なる蛇の複数の伝承を用いた多宗教魔術―――森羅万象の神を認め、邪神、悪神でさえ世界の一部として受け入れる
日系魔術師の宗教的な懐の広さ故に可能な魔術だ。
蛇の脱皮という行為には再生という意味が込められている。ギルガメッシュ叙事詩では不死の薬を飲んだことで蛇は脱皮を始め、ギリシャ神話でも脱皮という行為から蛇は生命力の象徴とされる。世界各地の原始宗教で蛇は大地母神として奉られることが多い。また、東アジアでは脱皮した蛇の革が漢方として使われることもあり、日本でも岩国の白ヘビが幸運の象徴として奉られている。
そういった蛇と医療を繋ぐ伝承を用いた治療魔術だ。
昂焚がテーブルの上にあるミニチュアに手を置くと、テーブルの上と少女の周囲が光り出した。術者である昂焚はかなり真剣な顔で魔術を行使している。
この手の多宗教魔術は複数の宗教の魔術を混ぜ込んで浮き上がって来た上澄みを掬って出来上がったもので、いわゆる“良いところ取り”なのだが、問題点がある。
魔術の知識は人間にとって毒であり、それを宗教的知識で防護しているのは常識中の常識だ。十字教徒ならば十字教系統の魔術、アステカならアステカ神話系統の魔術、神道なら
神道系魔術と、それぞれに防壁と毒が対応している。一部の天才は防壁に合わない魔術(異なる宗教の魔術)を使う際に毒に当てられない様にする手段を持っているようだが・・・。
日系魔術師というのは、簡単に言えば複数の毒と複数の防壁を同時に扱う魔術師のことであり、それは非常に高度な技術が必要とされるのだ。
それともう一つ、懐の広さゆえに余計なものが入り込んでしまう点である。
十字教においては、聖書の創世記から蛇は悪魔の化身、または悪魔そのものとされている。そういった伝承をこの術式に持ち込んでしまわないように配慮する必要があるのだ。
対象となった少女の全身からは何か白いものは噴き出て、それが彼女を覆う半透明の白い膜へと変異した。身体から白いものが出終わるまで10分、その工程は続いた。
昂焚はテーブルから手を離して術式を終了させた。
(ふぅ・・・。久しぶりだから、かなり緊張したな。)
昂焚は未だに起きない少女の傍に向かうと、彼女の首筋に手を当てた。爪を立てて皮膚を掻き、彼女の全身に浮き出ている半透明の膜に指をかけた。そして、そのまま一気に彼女の全身から膜を引き剥がした。それはまさしく、蛇が脱皮するかのようだ。
昂焚が剥がした皮には彼女の体内にあった悪性のものが詰まっている。例えば、怪我や病気といったものだ。
「随分と酷く痛めつけられたんだな。」
剥がした皮を部屋のライトで透かして眺めた。怪我や病気が皮という形を成したものだ。放置するのも、こうやって空気に当てることすら危険だ。
「さて、こいつはすぐに処分するか。」
そう言って、昂焚は皮を持ってベランダに立つと、ライターでそれに火を点けた。
ボォッ!っと一瞬だけ音を立てると、すぐに灰になって風に飛ばされていった。
「さて・・・俺も疲れたから寝ますかな。」
そう独り言を呟くと、昂焚はソファーで眠った。ベッドはしばらく少女に占領されるだろう。
その日の深夜、少女は目を覚ました。
電気の点いていない暗い部屋だ。月明かりが部屋の中を照らし、それだけが唯一の光源だ。悪い場所ではないようだ。フカフカのベッドの上にいるのは肌の感触で分かる。これほどまでに快適な睡眠は初めてだ。そのせいなのか、複数のギャングにボコボコにされてケガをしたことなんてまるで・・・
(!?)
少女は思い出した。自分は金目当てにギャングから強盗を謀ったが、失敗してとっ捕まり、気を失うまでリンチされたのだ。
(じゃあ、ここはどこ?)
フカフカのベッドと丁度いい温度に設定された空調。エアコン付きの部屋なんてよほど裕福なのだろう。そして、自分は全裸でフカフカのベッドの上にいる。身体も綺麗になっている。そうなると考えられることは2つ。
1つは気絶した後、ギャングの誰か(ここまで良い部屋を手配するのだから、おそらくボス)にお持ち帰りされて、(ここから先は精神衛生的問題があるため、省略する)ということだ。
そう考えると気持ち悪い。全身に悪寒が走り、身震いし、吐きたくなる。
変態でロリコンで気絶した女の子相手にヤっちゃうような男に抱かれたのだ。
だとしたら、どんな奇跡を使ってでも2つ目の可能性に賭けたい。
ギャング達にリンチされて道端に放置された自分を見かねた誰かが拾ってくれて、ここまで世話をしてくれたとポジティヴな考えである。
だが、少女はすぐにこれを否定した。なぜなら、そのような善意を誰かに向けられたことが無いからだ。欲しければ略奪し、邪魔ならば殺す。そんな殺伐とした世界の中で生きて来た彼女に後者はほとんど有り得ない出来事なのだ。
(今、出て行くのがチャンスか・・・)
少女はシーツを自分の身体に巻きつけると忍び足で部屋から出ようとする。
ふとソファーの方を見ると、男が寝ていた。
整った顔立ちの東洋人の男だ。気持ち良さそうにぐっすりと眠っている。
(私の監視役か?)
少女は男のポケットにある財布を抜き取った。他人のものを盗むのに何ら抵抗は無く、その動作はかなり手馴れていた。
「とんだバカ野郎だね。」
少女は身体をシーツで包み、昂焚の財布を持った状態で部屋の出入り口へと向かった。そして、ドアを目の前にして一旦、立ち止まる。
(カギはかかっていない。簡単に出れるじゃん♪)
そう思って、ドアノブに手をかけた瞬間だった。
バチィッ!!
突然、手とドアノブとの間に閃光と衝撃が走る。静電気なんてものではない。一瞬、部屋を昼間のように明るくするぐらい眩い光が走ったのだ。
(魔術トラップ!?ヤバい!?)
少女が背後を振り向くと、少し離れた位置に昂焚が立っていた。
いかにも眠そうな顔をし、大きく口を開けて欠伸をする。
「んぁ?ああ・・・、起きたのか。」
昂焚がゆっくりと少女に近付いて行く。
少女は酷く怯え、モンスターパニック映画の如く必死にドアノブを動かそうとするが、全く動かない。
(ヤバい・・・怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!!!)
涙目になりながらも必死にドアを開けようとする。あまりの恐怖に声が出ない。
刻一刻と昂焚が自分に近付いて来る。
少女はもうドアが開かないことを悟り、諦めてドアを背に跪いた。昂焚と面と向き合う少女。その顔は恐怖に包まれ、目は涙がこぼれ、口は助けを叫びたいのに震えて何も言えない。
少女はせめて恐怖を感じまいと手で頭を覆い、蹲った。
(来ないで―――――――――――――――――――――――――――――――!!!)
「う~ん。ちょっとトイレ。」
「ふぇ?」
昂焚は少女の30センチ手前で左折し、ドアを開けてトイレの中に入った。無論、鍵をかけるのも忘れない。
少女は何が起きたのかまったく理解できない。なにせ、自分を襲おうとした男が突然、それを中断してトイレに行くなんて普通はありえない。
根本的解決にはなってないものの、目の前の恐怖が回避されたことに安心して、気が抜けた途端、少女はまた糸の切れた人形のように力が抜けて倒れた。
昂焚がトイレから出ると、玄関ドアのところで少女が倒れていたのを発見する。
「こんなところで寝かせると風邪をひいてしまうな。」
確かに寝床で無い場所で眠ると風邪をひいてしまう可能性がある。だが、もし仮に彼女が風邪をひいたとしてもそれは身ぐるみ剥がして全裸にした昂焚が元凶だろう。
(まぁ、亜熱帯じゃあその心配もないだろう。)
昂焚は少女を肩に抱えあげると、ベッドのところで起こさないようにゆっくりと降ろした。
翌朝
少女が目を覚ますと、真っ白な天井が見えた。少し汚れているが気にするほどではない。
窓から燦々と太陽の光が入る部屋で、自分はベッドで眠っていた。ソファーで眠っていた男はいない。
あの晩の恐怖は本当のことだったのか、それとも自分が見た夢だったのか分からない。
「Buenos días.(おはよう)」
「!!」
部屋の扉を開けて、紙袋を持った男が入ってきた。
間違いない。あの夜、自分を玄関扉まで追い詰めた男だ。そう思い、少女は警戒した目で昂焚を見つめた。
「まぁ、警戒はするだろうな。」
そう言って、昂焚は少女に優しく紙袋を放り投げた。少女はそれを見事にキャッチする。
「?」
「服だ。いつまでも全裸でいるわけにはいかないだろ?」
少女が紙袋を開けると中には女物の服と下着が入っていた。まさに清純派とも言わんばかりの白い下着に波のような模様が描かれたTシャツ、そして膝丈まである短パンだ。
昂焚のことは信用できないが、服が貰えるのなら拒絶する理由はない。
少女は頭までシーツを被り、ベッドの中でモゾモゾと動きながら服を着た。
「さて、落ち着いたところで朝食でも取らないか?」
昂焚が別の紙袋を少女の方に投げ、再び少女はそれをキャッチする。
中にはサンドウィッチが入っていた。少女はそれを手に取り、思わず口に入れようとしたが直前で躊躇った。薬か何かが入れられていると疑ったからだ。
「どうした?別に変なものは入れていない。」
昂焚は自分のサンドウィッチを口に入れ、変なものは入っていないアピールをする。
それを見た少女は少し匂いを嗅ぐと、安全だと思ったのか、サンドウィッチを食べ始めた。食べ方に行儀も礼儀も関係無く、誰かに奪われることを警戒しながら急いでガツガツと食べる。
(そんなに空腹だったのか。)
とりあえず元気そうにサンドウィッチを貪る少女の姿を見て昂焚は安心した。
「で、あんた誰?」
開口一番、少女は見知らぬ人間に対する当然の質問を投げかけた。
「失礼。自己紹介がまだだったな。俺の名前は尼乃昂焚。ただの観光客だ。」
「目的は何?」
「『血まみれでゴミ箱に詰め込まれた少女をほっとけなかった』という善意では不服か?」
「それは偽善の間違いだ。見返りを求めない善意なんざこの世にあるわけがない。」
「君は随分とこの世界に悲観的なんだね。」
「信じるバカほど痛い目を見て、疑う奴ほど得をする世界だからな。私はそれを嫌と言うほど見て来た。特に“神様”なんてものを信じている奴ほど碌な奴じゃない。あんな殺戮狂を信仰するなんて頭がイカレてやがる。」
少女の次々と展開される持論を昂焚は黙って聞き続けた。
少女が「神様は殺戮狂」なんて考えは今まで聞いたことの無い考えだった。だからこそ珍しく、面白く、ますますこの少女に興味が湧いて来た。
「だから、私はあんたを信用しない。服と飯と助けてもらった恩は受け取る。だけど、お返しはしない。あんたが勝手にやったことだ。見返りを求めるなら、それは善意じゃない。偽善だ。」
そう言うと、少女はベッドから降りて、立ち上がり、部屋の出入り口の扉を開けた。夜中には魔術のトラップが仕掛けてあったが、今は何も無い。簡単に外へと出られそうだった。
昂焚はそれを一切、止めようとしなかった。
「『神は人を殺す』か・・・。君の信仰は実に面白いな。ますます興味深い。」
「あんた、魔術師なんだろ。神を否定されて怒らないのか?」
少女の発言に昂焚は豆鉄砲をくらった鳩の様な顔をしていた。
「あれ?俺が魔術師だなんて、いつ言った?」
「夜中はドアに魔術トラップを仕掛けてたじゃないか。」
「それで魔術だと見抜けるとは・・・俺が思った以上に教養はあるみたいだね。ますます君に興味が湧いたよ。どういった経緯でそのような信仰に至ったのか、是非ともお聞かせ願いたいね。」
「ウザい。死ね。このロリコン変態野郎。」
そう吐き捨てて、少女はホテルから出て行った。
少女はホテルから出ると、周囲を見渡した。
次々と建てられていく高層ビル、ホワイトカラーの服装で仕事場へと向かう人々。そして、なによりも清潔だ。スラム街とは大きく違う。スリや強盗のために何度か都市部には足を運んだが、その時と今では見え方が大きく違った。
今、自分が着ているのは新品の服だ。ファッションセンスについては触れないが、それほどおかしな格好ではない。道行く人々も自分に視線を向けようとはしない。それが嬉しかったのだ。
かつて、スリや強盗目的で都市部に来た時はゴミ箱からリサイクルした服を着ていた。あまりにも汚く、ボロボロで、スラム街では普遍的な格好だが、都市部では別世界の住人の如く視線を向けられる。同情か、哀れみか、物珍しさか、軽蔑か。少女は自分がそれを嫌がっていたことに今気付いた。
(ああ・・・。今、私は“こっちの人間”なんだ。)
そんな優越感に浸り、昂焚のポケットから抜き取った財布の中身を確認する。
「ははっ♪こりゃあ、随分とたくさん入ってるね。」
財布一杯に入っていた札束。生きるために盗み、盗みという行為が生活の一部であった少女に罪悪感は無く、この金は全て自分のものだと思っていた。
その後、少女は豪勢に金を使った。露店や屋台で手当たり次第に食べ物を買い、少し洒落た店で服を買った。その後、ゲームセンターで遊び、何の気兼ねも無く遊びまわった。物怖じして、高級という肩書きを持つ店やレストランには向かわなかったのは、それなりに金の貴重さを理解していたからだ。
そして、夕刻
服や携帯ゲーム機が詰まった手提げ袋を持ち、少女は都会生活を満喫した。
それと同時に、この財布の金が無くなれば、自分は再びスラム生活に戻ってしまう。この1日が儚い夢のようで寂しさを感じた。
(また、財布を盗んでおいた方が良いな。)
そう考え、大通りに出て、仕事帰りに疲れていたサラリーマンを狙う。疲れ果ててゆっくりとした足取りで歩く紺色のスーツの30代半ばから後半の男だ。肌の色や体格は東洋系で、尼乃昂焚とかいう変態を彷彿させる。歩調を合わせ、ゆっくりとズボンのポケットに入った長財布を取ろうとする。あまりにも無防備で盗むのは簡単だった。
(こいつバカだわ。楽勝じゃん。)
そう思って、財布に手を掛けて引き抜こうとした瞬間だった。
「おい。」
背後から男に声をかけられ、少女はその男に腕を掴まれた。そのせいで財布を盗み損ねるどころか、その男のせいでターゲットの中年男性がこちらに振り向いたのだ。
少女が背後を振り向くと、そこには自分をホテルに連れ込んだ(性的な意味ではない)昂焚がいた。
「こんな処にいたのか。探したぞ。」
そう言って、少女の腕を掴んで、自分の方へと抱き寄せる。仲の良い兄妹の行動のようにも見えるが、さり気無く口を塞いで喋れないようにした。
「おや?妹さんか何かかな?」
ターゲットの男性は自分が財布を取られそうなのに気付かず、呑気そうに話かけてきた。
長身で整った顔立ち、裏通りでタバコを吹かしているのがお似合いなダンディズム溢れる男だ。
「ええ。そうなんですよ。すいませんね。うちの妹がご迷惑をかけませんでしたか?」
そう言って、手を拝むように前に出すしぐさを見せる昂焚。笑顔も取り繕う。
「もしかして、君は日本人か!」
そう言って、男は突然疲れが吹き飛び、明るい表情になる。
「あれ?もしかして、分かっちゃいましたか?」
「そりゃあ、手を拝むように前に出すしぐさなんて、日本人しかやらないからなぁ!そっちの妹さんはラテン系かな?」
男は少女の方に顔を向けるが、顔を昂焚の胸元に埋めており、男に応対しようとはしなかった。と言うか、昂焚が少女の頭を掴んで無理矢理自分の胸元に押さえつけていて、離れることが出来ない。
「すいませんねぇ。こいつ人見知りが激しくてシャイなんです。」
「そうか。そうか。ウチにもそろそろ5歳になる娘がいるんだが、とにかくお転婆で元気で大の男が振り回されっぱなしでなぁ。その娘の大人しさを少し分けてもらいたいものだよ。」「5歳だったら、それくらいが丁度いいんじゃないですか。」
地球の裏側で同胞に出会った者同士、意気投合した2人はその後、日本風の居酒屋で飲み明かした。
少女は居酒屋に漂う酒の匂いだけで倒れてしまい、そのまま眠ってしまった。
そして、翌朝。
「ぅ~。世界に~・・・世界に足りないもの~」
昨晩の昂焚と男性の会話で頻繁に登場したフレーズを寝言で呟きながらも少女は目を覚ました。先日の朝に逆戻りしたのか、また昂焚のホテルのベッドの上だった。
「もう・・・あの変態からは逃げられないのかな・・・。」
やや諦め気味で少女は呟いた。
最終更新:2012年05月14日 17:26