File10 片目から見える世界は

グチャリ、というまるで腐ったトマトを踏み潰したかの様な音が聞こえた。

片目から見える世界は恐怖と憎悪で占められた息苦しい空間。

そして自分の視界に映る世界の半分が血を連想させるかの様な赤色に徐々に染められていく。
そのわずか数秒後に襲い掛かるこの世のものとは思えない激しい痛み。
言葉にならない悲鳴をあげ、ジタバタと床を転がりながら葛鍵は悟った。


『自分の左目はこいつらによって潰されたのだ』と




朝七時。
風輪学園の寮ではモーニングコールがなり響いていた。

「んんぅ、もう朝か……」

大音量で鳴り響くモーニングコールにも、もう慣れてしまったもので、特に耳を塞ぐこともなくベッドから葛鍵真白《くずかぎましろ》は起き上がる。
今日は風紀強化週間が施工されて二日目。つまりは登校日だ。
学校の支度は昨日の内に済ませてあるので、とりあえず朝食の用意をしよう。
冷蔵庫から取り出したのは『レンジで簡単! 3分でできる本格炒飯』という、どこにでもあるレトルト食品である。
これは別に葛鍵が料理が下手という訳ではなく朝の手間の削減が目的だ。
それをレンジで温めている間、葛鍵は洗面所で身支度をする。

まず最初に顔を洗いその後に歯を磨く。
寝癖を直して髪をセットすれば次は着替え。
ドラム式洗濯機にパジャマを上下放り込むとクローゼットにしまわれた風輪学園の制服を着る。
この時点でわずか十分。
日頃からテキパキと行動してるせいかこの程度はお手のものである。

「さて、そろそろかな?」

葛鍵が呟くと同時に玄関からチャイムの音が聞こえてきた。

「はーい、今出るから少し待っててくださーい」

玄関の扉を開けると、そこには一つの手があった。
チャイムのボタンを押したであろう、一本の手が。

空中に手首から下が存在しない物体が浮いてるというのはどうもホラーな光景を連想させるが、実際はそうでもない。
何故ならそれは本物の手ではなく、水が詰まったビニール手袋だったのだから。

「倉元さん、またそれで驚せようたってそうはいきませんよ」

「にゃはは~~ばれちったか」

すぐ横からでてきたメガネを掛けた少女、倉元芹《くらもとせり》は陽気な声を上げて入ってくる。

「まったく、いい加減それは止めたらどうです? 正直時間の無駄です」

そして、後に続く様にもう一人の少女、小日向黄昏

朝食はいつもこの3人でとっていて、毎日交代で朝食を用意しているという、他者との関係が希薄になってる今の世の中では珍しい関係だ。

「わかってないな、二人ともーこういう遊び心がないと、中学二年生はやってられませんよ」

「はいはい、さっさと中に入って下さい。一応朝食は用意してますから」

葛鍵は部屋の奥に二人を案内する。リビングへと続く廊下には、特殊な材質の彫刻がズラリと並んでいる。
これは葛鍵自身が能力を使って制作した芸術作品らしい。
廊下を抜けリビングに出ると、机には先ほどレンジで解凍された炒飯が三つ並んでいた。

「随分と、質素な朝食ですね」

小日向がポツリと呟く。
それは嫌味というわけではなく、思ったことをそのまま口に出しただけのことだ。

「すいません。なにぶん忙しかったのでこれくらいしか用意できなくて」

「いいよいいよ。こんぐらいの方が食べやすいしねー」

『いただきます』と定型文を述べ、三人はスプーンで炒飯をすくった。
その味は可もなく不可もなく、ただ腹を満たすだけに作られた冷凍食品のようなもの。

「とっころで、お二人さん、どうなんですか調子はーー?」

倉元の発言に二人はまず疑問の表情を浮かべると、

「調子って……風紀委員の手伝いのことですか……・?」

葛鍵は近くにあった牛乳パックを掴みコップへ注ぐ。
トクトクと流れだす白い液体が窓から降り注ぐ朝日を浴びてキラキラと光る。

「もう、それしかないでしょ! なんか面白いことなかった?」

「あるわけがないでしょ、遊びではなく仕事なんですから」

小日向は葛鍵に同意を求めるようにこちらに視線を向けてきた。

「そうですね、特に面白いことというのはなかったですけど、為にはなりました」

波波になった牛乳を口へと運ぶ葛鍵。
そしてそれを一気に飲み干すと、

「私、前までは風紀委員というものを軽んじて見ていました。だけど実際に仕事を手伝ってみて初めてその大変さを実感できたかなって」

「それは同感ですね、私も担任から風紀委員に入れと提案されていましたが、断っていて正解でした。一日にあれだけの仕事をこなすのは学業に支障を来たすかもしれませんからね」

小日向にしては珍しく冗談を言ったのか、いつもは釣り上がってる目を緩め、少しだけ口元を曲げて微笑した。
彼女もまた風紀委員の仕事を通して何か変化があったのだろうか。

「むーー。職業体験の感想じゃないんだから、そんな堅っ苦しいのじゃなくてもっと面白い感想ないのーー? たとえば他のレベル4がどんな人物だったかとか、その中にかっこいい人がいたとかーー!」

「そんな物はありません」

はっきりきっぱり返答する小日向に対して葛鍵は、

「私も……そんなのは」

口では否定するが、急に赤面する表情と、弱くなった喋り方が肯定を物語っていた。

「ほほう~、どれ私に聞かせてみなさい葛鍵ちゃんの恋話を! やっぱガールズトークというのはこうでなくっちゃ!」

「いや、だから、そんなものは」

「目が泳いでますよ。葛鍵さん」

二人に追い詰められた葛鍵は仕方なく口を開く。
まず口に出したのは恋話とは程遠い、過去の話だった。

「私の左目のことは二人共知ってますよね?」

「うん、知ってるよ」

「はい、耳にはしてます」

何年か前、葛鍵がまだレベルが低かった頃の話。
葛鍵は人一倍正義感という物が強かった。ルールを守らない人間や、曲げようとする人間それらは全てこの手で正し、助けを求める人間や、弱い人間を助けたいと思うくらいに。
しかしそれは愚直で、まわりを顧みない無謀とも言い換えれることができた。

人を助ける、というのは一人前の人間がやること。
もしいくら助けたい、力になりたい、という思いがあったとしても半人前の人間がしゃしゃり出たところで状況は何も変わらない。どころか悪化させてしまうことだってある。

昔の葛鍵はまさにそのようなものだった。
学校の帰り、同じ学校の生徒が不良たちに絡まれていた。
普通ならそこで風紀委員なり警備員なり通報すればよかったのだが。

『そこの二人組! 止めなさい!』

葛鍵は誰にも通報することなく、自分で解決しようとしてしまった。
相手は自分よりも遥かに身長は高く、レベルだって上。
しかし『自分なら何とかできる』という根拠のない自身。つまり過信。
それが葛鍵の背中を押してしまったのだ。

結果としては惨敗。
相手にかすり傷ひとつ負わせることなく、葛鍵はボコボコにされた。
そして葛鍵のせいでターゲットを逃し、逆上した男は、

『あーー、久々にキレちまったわ。代償としてテメエの両目くり抜いてやんよ』

主に果物を切るくらいの小型のナイフを取り出した男は、もう一人の男に葛鍵を押さえつけさせ、ナイフを突きつける。

恐怖に顔をひきつらせる葛鍵は涙ながらに制止を懇願する。
ズタズタに砕かれたプライド、そして自信。
今は、さっきまでの自分に後悔しながら泣き続け、この男たちに尻尾を振るしかなかった。

だが

男は何の躊躇いもなく、葛鍵の左目にナイフを突き刺した。

『ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああ!!!』

もはや人間の声とは思えない叫びが上がった。
しかしその叫び声がまわりに聞こえることはない、それは男の能力で、空気の振動が途中で止められてしまっているからだ。
涙と血が交じり合って葛鍵の顔面はどんどん紅に染まっていく。
男は狂ったかのように笑い、眼球をグリグリとかき混ぜる。

『キャッハッハッハ!! いい声だぁ~~! 次は右目だ~~』

血で染まったナイフを引き抜き今度は右目にそれを突き立てた。
ドンドンとナイフは右目に迫っていく。

『やだ! やだ! やめて! 誰か! 助けて!!』

痛みと恐怖で頭はパニック状態。もはや泣きわめくことしかできなかったそんな時に、

『おい! 貴様ら何をしてる!!』

偶然。まさに偶然。
巡回中の警備員が今にも両目くり抜かれそうになっている葛鍵を見つけてくれた。

『ちっ、ずらかるぞ』

男たちは逃げ出し、警備員はすぐに救急車を呼ぶ。
ぼやける視界の中で必死に呼びかける警備員の表情、次第にそれもだんだんと暗くなって見えなくなっていった。



それから気がついた頃には病院のベッドの上。
今まで付きっきりで見守ってくれてただろう医者は、気の毒そうな顔をして鏡を差し出した。

鏡に映った自分の顔はいつもと変わらなかった。
――――左目を、覆うようにして巻かれている包帯を除いて。

あれ、何だろこれ、外さないとよく見えないや。

『やめたまえ! まだ君の傷は完治してないんだ!』

医者の制止を振りきって、葛鍵はベリベリと包帯を剥がす。

傷? なに言ってるの。私怪我なんてしてないよ。

完璧に剥がされた包帯は宙を舞い、葛鍵と鏡の間に落ちていく。

……なんで? なんで包帯取ったのに左目が見えないの?

葛鍵は鏡ので揺れる包帯をどかすと、はっきりと映った。
惨たらしく陥没した左目と その周りの醜い傷跡が。

なにこれ? これ……そんな……こんなの私じゃない!

言葉とは裏腹に、葛鍵は思い出してしまった。
あの時起こったこと、自分の愚かな行為、憎むべきあの二人組の男たちの顔。
全部、思い出してしまったのだ。

『嘘でしょ、こんなの嫌……嫌だよ。嘘だって言ってよ!!』



それから程なくして、葛鍵はいつもの生活に戻った。
だが、心配して駆け寄ってきてくれたクラスメイトにも、両親にも眼帯の奥は見せることはなかった。
気味悪がられたり、笑われたりするのがとてつもなく嫌だったから。

だからただひたすらに力をつけることだけを考えるようにした。

殺意を覚えるほどに憎かったのだ。
自分をこんな目に合わせたあの男たちが、こんな結果を招いた非力な自分自身が。
だから力を付けないといけない。もう二度とあんな思いをしないためにも。

左目の回復は不可能だが目の周りの傷なら今の医学なら消すことだっって可能だった。
葛鍵自身、こんな傷はすぐに消してしまいとこだったが、他人に左目を触れられるのが恐ろしく感じてしまい結局はそのまま。
眼帯をすれば相手に見せることもないのでそのままでもいいと判断したためだ。


そうして現在、葛鍵はいつも朝食を一緒にとってる倉元や小日向にだって左目を見せたことはない。
ところが先日の風紀委員との巡回日に、ちょっとした拍子で眼帯が外れ、一緒に行動していた風紀委員にいまだ傷跡が残る左目を見られてしまった。

きっと気持ち悪がられると思っていた。
いままで誰にも見せて来なかった左目だが、自分だけは毎日見えてるのだ。
自分でさえ嫌悪感を抱く左目を相手が気味悪がらないほうがおかしい。

だがその風紀委員は顔色一つ変えずこう訪ねてきた。

『どうしたんだ、それ』

こういう場合は普通、気まずそうな顔をして、見なかった振りをするのが定石というものではないだろうか。
だがその風紀委員が冷やかしではなく、純粋に気になっているというのがその目でわかった。
自分の愚かな行動に対して『自業自得』と一蹴されるのが怖かったので、出来ればあまり多くの者に知られたくはなかったのだが、葛鍵は渋々口を開く。

ひと通りその話を聞いた少年は、

『そうか……そいつは許せねえな。女の身体に傷をつけるだなんて男の恥だ』

今聞いたばかりだというのに、まるで自分が体験したかのように心を痛めてくれていた。
葛鍵の境遇を『かわいそうかわいそう』と口で言うだけの輩は数多くいる。
だがこれまで自分の痛みに共感してくれる人物は初めてだった。

『いいんですよ。力がないのにでしゃばって、人を助けようとした私が悪いんですから』

『そんなことはないと思うぜ』

『……え?』

葛鍵は風紀委員の男の顔を見つめる。

『力がなきゃ人を助けられないんだったら、俺はとっくに風紀委員を止めている……でもそれは違うんだよ。力がなくたって仲間がいる、一人じゃできないことだって仲間となら乗り越えられる。今の俺とお前みたいにな』

風紀委員の少年は笑って、ポンと葛鍵の頭に手を置いた。
葛鍵は少し顔を赤らめて、

『私は今まで力だけが全てだと思って来ました。友情なんてものが本当に人を助ける力になるんですか?』

『ああ、なるさ。お前のいけなかったことは力がないのに助けようとしたことじゃない、周りに頼らず自分だけでどうにかしようとしたことだ。それを除けば見て見ぬふりをする輩よりずっとマシだぜ?』

そして、と少年は付け加えて。

『もう俺とお前は仲間だ、何かあったら友達を、俺を頼りにしろ。その傷を馬鹿にするような連中がいたら俺がぶっ飛ばしてやるよ』

彼は間違いなく本気でその言葉を放った。ここまで一直線過ぎると疑うのだってバカバカしく思えてくるほどに。
葛鍵はニッコリと笑ってみせて大きく返事を返した。

『はい!』








「へ~~、それでその風紀委員の人が気になっているって訳ね。葛鍵ちゃんも案外あっさりと恋に落ちるタイプ?」

「その件に関して私は特に口出しはしませんが。くれぐれも男女不純異性交遊なんとことにはならないで下さいね」

葛鍵からその話を聞いた倉元と小日向は、食べ終えた炒飯を片づけ、それぞれの感想を述べる。

「だ、だから、ちがいますって! ただ嬉しかっただけです」

へえ、と笑って、倉元は葛鍵の肩に手を置く。

「じゃあ、その風紀委員の人の名前教えてよ。どんな男か私が見極めてあげる」

「それはいい考えですね。私の友人に酷いことをしたら懲らしめる時に便利です」

「なんでそうなるんですかっ! というかもうこんな時間! 早く学校に行きますよ!」

葛鍵は荷物をまとめると、逃げるように寮から飛び出した。
それを追うようにして二人も走りだす。

「生体電気の流れからすると葛鍵さんは次の角を右に曲がります」

「ほいきたッ! いっけえ私の第三、第四の手!」

水の詰まったビニール手袋は正確に葛鍵の元へと向かい、小日向と倉元もその後に続く。
葛鍵はそんな状況に多少困りながらも、口では笑っていた。

「ああもう!! 二人共しつこいです! いい加減諦めてくださーーい!」

三人の少女は今日も風輪学園へと続くムダに長いと評判の坂を駆け上がっていく。

「いいえ諦めません、そこは詳しく話すのが友人というものでしょう」

「小日向ちゃんの言うとおり! 葛鍵ちゃんの恋は私達が応援してあげるからさ!」

確かに片目だけに映る世界は驚くほど狭く感じる。
だがそれを拡張してくれるだけの友人が葛鍵にはいた。
もはや力だけを頼りにしない、仲間を頼ることを学んだ彼女にとって、片目から見える世界は希望に溢れ、眩しいくらいだった

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最終更新:2012年04月29日 18:32