シャロン元首相とは、
イスラエルの元首相、軍の英雄でタカ派であり、虐殺の汚名もある。2005年一度脳卒中で倒れ回復したが、2006年1月4日にもう一度脳卒中で倒れそのまま回復することなく2014年死去した。
シャロン・イスラエル元首相死去 華麗な軍歴と虐殺の悪名(産経新聞 2014/01/12)
【カイロ=大内清】イスラエルのシャロン元首相には、華麗な軍歴とともに、国防相在任中だった1982年のレバノン侵攻の際に起きたパレスチナ難民虐殺事件などをめぐる悪名もつきまとった。
英国委任統治下のパレスチナで生まれたシャロン氏は14歳でイスラエル国防軍の前身であるハガナに入隊し、48年の独立戦争(第1次中東戦争)にも参加した。50年代には特殊部隊を率いて、ガザ地区を拠点とするパレスチナ武装勢力に対する報復作戦に従事するなど、最前線で軍歴を積み重ねた。
73年にいったん退役したものの、同年10月に発生した第4次中東戦争で機甲師団司令官として現役に復帰。当時、
イスラエルの占領下にあったシナイ半島を急襲したエジプト軍に対し、スエズ運河を逆渡河して撃破する作戦を指揮し、イスラエルの「英雄」となった。
政界進出後の82年6月、イスラエルが、パレスチナ解放機構(PLO)が拠点としていたレバノンに侵攻した際には国防相として戦争を指導。強いリーダーシップを発揮した半面、当時のベギン首相に対する独断専行も目立ったとされる。
この戦争でイスラエルは、PLOを率いるアラファト議長(当時)に大きな打撃を与え、8月にはPLOをレバノンから退去させている。
だがその直後の9月、同国の首都ベイルートにあるサブラ・シャティーラのパレスチナ難民キャンプで、イスラエル軍が包囲する中、親イスラエルのキリスト教民兵による難民虐殺事件が発生、シャロン氏は間接的な責任を問われ国防相を辞任。パレスチナ人らから「殺戮(さつりく)者」とも呼ばれた。
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最終更新:2014年02月02日 05:56