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氏名 |
所属 |
職種 |
社会人経験年数 |
錦織圭 |
日清食品 |
男子プロテニス選手 |
10年 |
経歴
初めてラケットを手にしたのは5歳の時。父と9歳になる姉と一緒に雲南市の公園でボールを打っていた。2ヶ月後に同じく雲南市になる加茂町中央公園のテニスコートに通いだす。テニスを始めてから約1年後、松江市内の「グリーンテニススクール」に入会する。小学4年生の時、中国地方代表として全国小学生テニス選手権大会に出場する。翌年も出場し2回戦で第8シードの選手を破る番狂わせを起こしベスト8の成績を残す。2001年小学6年生の5月、千葉県柏市の吉田記念テニス研修センターで行われた全国24名のトップ選手が揃う全国選抜ジュニアテニス選手権大会(選抜ジュニア)12歳以下の部で優勝を果たす。この大会の準決勝では
松岡修造が錦織の試合を観戦していた。松岡はリターンゲームでの圧倒的な才能に目を奪われると同時にサービスに悪い癖が付いてる短所も懸念していた。選抜ジュニアから1週間後、河口湖湖畔で開催される「修造チャレンジトップジュニアキャンプ」への招待状が届く。6月のこの日は修学旅行と被っていたが錦織は喜々として参加した。修造は錦織の苦手とする"表現力のメンタルトレーニング"を敢えて強いた。また、コーチとして竹内映二と小浦猛志が技術指導を行った2002年10月スカウティングスタッフの推薦を得て盛田正明が運営する「盛田正明テニス・ファンド(MMTF)」の選考会に参加する。この時参加していたIMGアカデミーヘッドコーチのゲイブ・ハラミロの推薦により、翌年1月MMTFの候補生のひとりとしてIMGアカデミーに二週間の短期留学をする。ここでの適応力・集中力・練習や試合に取り組む姿勢をコーチ陣に高く評価され、最終選考会を経て盛田正明テニス・ファンドの第4期特待生に選抜される。2003年8月末に同じ選抜生2人とともに渡米。
渡米した翌月にはテキサス州のジュニア大会ベスト8、ダブルスは準優勝する。12月のオレンジボウル選手権14歳以下の部で準優勝。2004年6月にモロッコのG3ジュニア大会決勝でアレクサンドル・ドルゴポロフに勝利し優勝。14歳での優勝は快挙と言ってよかった。9月にはIMGの日本人メンバーとともに男子ジュニア国別対抗戦のジュニア・デビス・カップで三橋淳・喜多文明らと共に日本代表として出場。スペイン戦でペレ・リバに勝利し前年大会では11位だった日本を過去最高の5位入賞に押し上げた。ATP(男子プロテニス協会)が発表する世界ランキング自己最高位はシングルス4位(アジア男子歴代最高位)、ダブルス160位。 シングルスとしては日本男子史上初の世界ランキングトップ10入りを果たした。 2014年全米オープン男子シングルスの準優勝者であり、男女通じて日本人史上初、アジア男子史上初のグランドスラム4大大会シングルスファイナリスト。また、シングルスとしてはアジア男子史上初のATPワールドツアー・ファイナル出場者。グランドスラムに次ぐ格付けのATPワールドツアー・マスターズ1000では3度の準優勝。
2008年に18歳の若さで、デルレイビーチ国際テニス選手権で優勝し、松岡修造に次いで日本男子史上2人目のATPツアーシングルス優勝者となった。これまでにATPツアーにおいてシングルスで日本人史上最多の11度の優勝、ダブルスでは準優勝を1度記録。
2016年にはリオデジャネイロ五輪男子シングルス銅メダリストとなり、テニス競技では日本選手として96年ぶりのメダルを獲得した。
業務内容
やりがい
仕事への姿勢/考え方
転機
今後の目標
私生活
感想①
私自身テニスをしているので前から錦織選手には興味があった。
やはり偉大な人は子供のころから違うと思った。
最終更新:2018年02月18日 09:29