第3話
自衛隊のバルカン展開を支援する六本木の作戦部は、おおよそ一般人が想像するようなものとは違った。映画館のように正面に大きなスクリーンがあり、大学の講義室のように階段状に配置された机に端末が置いてありオペレーター達がひっきりなしに連絡を取り合っているといったモダンなものとは皆無だった。
その部屋には北はハンガリー、東はブルガリア、西はスロベニア、南はアドリア海と今回戦場となったクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア・モンテネグロとの国境地帯までが収まった20メートル四方の巨大なジオラマがあり、それを囲むように数台の端末が並べてあるというお粗末なものだった。
「現在、自衛隊バルカン分遣隊が展開しているのはおもに3箇所、主力部隊である第七師団等から編成されたトゥズラ連隊、もう1箇所は分遣隊司令部が置かれるザダルに第二師団と空挺本隊から編成されたザダル連隊、ザダル連隊から編成されサラエボに入ったサラエボ中隊です。
その他には国連平和安定化部隊の司令部が置かれるザグレブに調整役として連絡将校を出向させております」
コート姿の高根ニ尉がジオラマを跨ぐ様に架けられた四間接の梯子の上に立ち、レーザーポインターで示しながら説明した。
「現状での脅威は?」
下の上級幹部達の中から真っ先に声が上がった。皆、外嚢姿でポケットに手を入れて寒さに震えていた。
端末事態は数台しかなかったが、スーパーコンピューターを何台も置いているためクーラーがガンガン効いていた。
「セルビア解放軍の主力兵力は5個師団です。前線を北から説明しましょう。最も北部の戦場はクロアチアのドナウ川に沿って広がっていまが、セルビア解放軍はクロアチア侵攻はあまり熱心ではありません。ボスニアまずドリナ川沿いにボスニア兵はセルビア解放軍が睨み合っています。まだどちらとも有効な攻勢に出ておらず紙一重の膠着状態といっていいでしょう。そこから南へ下がったヴィシェグラードは制圧されましたが、サラエボの前に山があるため、そこから先へは進んでいません。南はドブロヴニクを制圧しスプリットを目指していますが、スプリットにはイギリス軍が強固な防衛ラインを敷いております」
「つまり、もっとも危険なのはトゥズラ連隊ということか。彼らはやってのけるか」
「第七師団は自衛隊最強の部隊です。後々増援部隊を送るとして、現戦力でトゥズラを防衛するのは可能と判断しました」
トゥズラ支援隊の長となった雷倉健陸将が手を叩いて、自分に注目を集めた。
「さて、諸君。法的規制が削除された今我々がしなければならないのは派遣隊への円滑な兵站業務と、言うまでもなくマスコミ対策だ。兵站班は全国津々浦々自衛隊基地中の弾薬庫から武器弾薬を集めてくれ、これは実戦だ。弾を撃つ弾がないのが玉に傷では済まされんぞ。マスコミ対策班は1社に付き5名は出して欲しい。これも全国の地方連絡部から人員を集めてくれ。少々問題のある奴でも構わないが、あまり変なのは止めてくれ。とにかく奴らに付け入る隙を見せず、絶えず情報を与えるんだ。始まってもいないのに厭戦気分を作るわけにはいかん。よし、作業にかかれ」
幹部達が陸将に最敬礼をして、自分達の持ち場へと散っていった。あとは現地の部隊にがんばってもらうしかなかった。ここでの戦争はすでに始まっていた。
まるで学生時代に戻ったような気分だった。入国五日目にして初めてパトロール部隊になったトゥズラ機甲連隊第ニ普通中隊第一小隊の鹿間小隊長は、元々防大ではなく工業大学出で技術官を目指して入隊しながら実戦部隊を志願して普通科に転属した変わり者だった。本人いわく「前線を見ておくことで、信頼のある装備を作りたい」とのことだった。
講義の連続だった。バルカンの沿革から始まり、ボスニアの歴史、トゥズラに居住する民族配置、そして今はパトロールに関する注意点だった。
「パトロールは一個分隊単位で行う。ルートはプリント通りだ」
説明している三佐は、先遣部隊として派遣された空挺中隊の中隊長だった。
本隊より五日ほど早くトゥズラに入り、パトロール任務についているという話しで、即応ロシア語マニュアルなる手引きは彼らが作ったという。手引きを見てもこの街がどれほど危険なのかわかった。
そうでなくても、ここに派遣された自衛官たちはロシア軍の管理する飛行場の入り口で見た、蜂の巣にされた「ようこそトゥズラへ」の看板で、ここが戦場であることを自覚させられた。
「住民は比較的温厚だが二日前の空爆で一部の民族対立が激化している。そのところを各員留意するように、何か質問は」
後ろの席に座る森茂三曹が手を上げた。
「パトロール中はどのような表情をすればよいのでありますか?」
「うん、いい質問だな。がちがちに強張ってもいけないし、へらへら笑っていてもいけない。まぁ、自然な表情でいけ、三日もすればどんな顔すればいいかわかる」
「切った張ったの際はどうすればいいんですか?」
強面でそれなりの荒んだ人生を歩んできたとわかるのニ士が尋ねた。
新入りの前田太尊ニ士は札幌駅にいたところを地連に騙されて入隊したという噂だった。
「自衛隊はあくまで仲介者の姿勢を崩してはならない。だが説得が無理なら喧嘩両成敗でいけ。まぁ、そうなる前に援軍を呼ぶのが賢い判断だがな」
「三佐殿の部隊はそうしたのでありますか」
「2件ほどな、秘密だぞ。
よし、行って来い。百聞は一件にしかずだ。この世の果てを見てくるといい」
萩原三佐は講義が終わるとブリーフィリングルームとなっている天幕を抜け、自衛隊トゥズラ基地の隅に作られた機動化学科中隊専用の2階建てプレハブ小屋群まで自転車を転がした。
自衛隊トゥズラ基地は本隊が到着してから五日が経ちかなり拡大した。
元々南北に長い長方形のかたちをしていたが、今では一辺が500メートル近い正方形のかたちになっていた。空爆で破壊された旧校舎はブルドーザーを入れて綺麗に取り壊し、いまでは指揮所等の天幕が林立していた。
それを囲むようにプレハブの隊舎が立ち並び、基地の縁側には見張り台と塹壕が並べられていた。
基地の地面はそこら中に指揮所用等の塹壕が掘られているため10メートルとまっすぐ歩くことは出来なかった。さらにその塹壕には大概カモフラネットが被せられているため、隊員たちから「落とし穴」や「パンジステーク」と揶揄されていた。
基地内には新たにヘリポートも設置され、AH-1Sコブラ二機とOH-1観測ヘリ、OH-6ヘリが基地に配備されていた。
対空防備には三次元レーダーを積んだ特殊車輌と改良型ホーク対空ミサイルとを中心に、81式地短SAM、93式SAM、そして90式戦車より高価な87式対空砲が空を守っていた。
プレハブ小屋の外で機動化学科中隊隊員を前に一人の技師が新装備の説明を始めていた。
「おや、隊長もいらしたことですし、もう一度始めから説明しますか?」
顔なじみの技師だった。今回は技術研究本部からの出向だった。
「すまないな、氷頭さん」
「わかりました。これが新たに配備される新型両用砲、迫撃砲兼擲弾投射即応砲、通称『MAGIC』です」
氷頭技師が持っているのは60ミリ迫撃砲のように見えた。60ミリ迫撃砲自体ならすでに機動化学科中隊に配備されていた。もちろん、自衛隊の装備年鑑には載っていない装備だった。面制圧火器の連装グレネードランチャーも同様だ。
「名前通りこいつは迫撃砲と擲弾投射機両方の役割を持ちます。口径は60ミリで従来の60ミリ迫撃砲弾と60ミリグレネードを使い分けることが出来、新しく配備するRAP弾も発射可能です。擲弾投射型の射撃スタイルは肩撃ちと腰撃ちです。発射装置は二つあり、上方のレバーが腰撃ち用、下方のトリガーが肩撃ち用です」
氷頭技師はさっそくいつものセールストークを始めた。
「即応とはどういう意味なんだ?」
技師はニヤリと笑い、機動化学科中隊用のヘッドギアを取り出した。ヘッドギアにはバイザーが取りつけられていた。
「新たにアイ・カバーを付けました掛けてみてください」
萩原が試しに掛けてみる。セラミックス製のバイザーはほとんど重さを感じさせなかった。技師が耳元のスイッチを入れる。視界には、とくに変化はなかった。
「どうもないぞ」
「まってください」
迫撃砲のように設置されたMAGICのスイッチを入れると砲口から赤い線が延びた。
「んっ、なんだこりゃ」
「これが即応と呼ばれる新システムです。ビジュアル・ファイヤレール・システム。火線視認装置と名付けました」
「つまりこの線に沿って砲弾が飛ぶのか」
「そうです。気温、湿度、風等の条件がMAGICのCPU内で処理され、99パーセント正確な火線を見ることが出来ます。バイザーの受信範囲は約15メートルですが、オプションの発信機を経由することによって数キロ先、つまり迫撃砲の観測員が直接これを付けて誘導することも出来ます」
技師はMAGICの設置円盤を外し、腰で抱えるように構えた。赤い線は確実にその動きを追っていた。
「砲身だけの重さは約5キロ半で、全体を含めても8キロ弱です。炭素繊維と強化セラミックと多用して軽量化を計りました」
「バイポッドも付けて?」
施設の小坂が尋ねた。迫撃砲などの装備は主に施設小隊の担当だった。
「もちろん。バイポッドは外すとは出来ますが、多分その必要は無いと思います。バイポットは最小にするとミニマムレンジ50メートルの直撃砲に変わります」
「射程は?」
「迫撃砲で最大3.8キロ、投射型では砲弾の種類によって600から1.5キロです。つまりMAGICはロケットランチャーも兼ねる三用砲になります」
「砲弾の種類はなにがあるんだ」
今度は川島が問うた。
「迫撃砲は通常のものとスクリュドライバー・ガス充填弾などです。誘導タイプも作りたかったのですが、いかんせん砲弾が小さすぎて誘導装置をつけると炸薬量が削られるので後回しになりました。擲弾投射機では通常榴弾からRAP弾(ロケット補助推進)、対機甲用の成形炸薬弾、もちろんRAP付きの成形炸薬弾もあります。ここで気を付けなければならないのは、RAPは収納容積を取るということです。ブースターに四枚のフィンが付きます。具体的に言えば対戦車RAP弾は通常榴弾の倍の容積を取ります」
「携帯する弾種の選択がかなりシビアになるな」
「そこは現場の判断に任せます。こればかりは技術屋が口を出すところではありません」
「一つ気になることがある。」
もっとも重要な質問をしたのは第ニ空挺小隊長の古川だった。
「夜戦の場合、そのバイザーに映った火線ラインが光っていると的になるんじゃないか」
夜間戦闘の微かな光りを漏らしただけで集中砲火を浴びる事になる。
夜間戦闘の多い機動化学科中隊がもっとも注意を払っていることだった。
「影すら見せない」が彼らのモットーだった。
技師はよくぞ聞いてくれたといった表情で回答した。
「萩原中隊長、皆さんの方へ振りかえってください」
萩原隊長が振りかえるとバイザーには何も映っていなかった。
「隊長、ラインが見えます?」
「ああ、後ろの藤橋達のプレハブが着弾点になっている」
隊員たちの視線を一身に浴びる萩原隊長はバツの悪そうな顔だった。
「いまトリガーを捻るのは止めてくださいね。ガスで基地が壊滅する」
「バイザーは二重構造で真ん中にフィルターが入っています。火線ラインは内側のセラミックプレートに流し込んだシリコンに電流を流して表示してあり、外側のプレートに映ることはありません」
「結構使えるかもしれませんね」
と川島
「何基持ってきた?」
「5基です。空挺に1基づつ施設に3基という装備を想定しています」
「まぁ、それでいいだろう。川島、古川、小坂は砲手と補助を選抜しておけ」
萩原はヘッドギアを脱ぐと「目が疲れるな」と漏らした。
「まぁ、そのあたりは改善の余地がありますね。OH-1のHMDよりはソフトになっているんですけど」
アナウンスが鳴って、昼食の時間を告げた。
「飯にするか」
機動化学科中隊の隊員たちは、ぞろぞろと食堂棟へ足を向けた。
警視庁公安外事部の清見警部補はホテル・ホリディインのラウンジで黒パンをかじりながら、数日間の調査書をまとめていた。近くには同じようなことをしているジャーナリストが大勢いるので目立つことは無い。
まったく、この数日は人生で最悪の日々だった。自衛隊には爪弾きにされ、ミニバスに乗り継いでようやく本分であるサラエボに来たかと思えば、スナイパーの手荒い歓迎を受けた。
サラエボの街は清見の想像していたより近代的だった。総ガラス張りのツインタワービルが立ち、前紛争後ドイツから送られた路面電車と日本のODAによって送られたバスが行き交いしていた。清見は参っていたが、これでも前紛争に比べればスナイパーは大人しいし数がいないそうで、街の人々はスナイパーのいない通りには溢れていた。しかし、一度ならずセルビアスポンサーから空爆を受け、崩れた建物は多かった。
「ここいいかな?」
訛りの無い英語で話しかけた男は長身でおっとりとした顔立ちの男だった。清見は特に断る理由は無いので顔を上げずに「どうぞ」と答えた。サラエボの状況をまとめた報告書なのでとくに重要なことは書いていないし、漢字だらけの文章を読まれたところで彼にわかるはずが無い。
「日本公安部の清見警部補だね」
清見は思わず顔を上げた。対しているのは頬が少し削げた感じのするドイツ人だった。
「誰ですあなた?」
不思議の思った。自分の正体を知っているのだ。
「シュナイダー・グリマー。売れないジャーナリストさ、穂高に連絡して君をここに呼んだ」
自分の上司の名だった。ますます怪しかった。
「君に仕事を依頼したい」
唐突でいて、ちょっと押しの入った口調だった。清見は背筋を伸ばして答えた。
「私には、あなたから仕事を依頼される理由も義務も責任も無い」
「やれやれ、固い男だねぇ。ドイツ人でもそんなに堅固じゃないよ」
グリマーはそう愚痴ると、大きなバックから携帯電話を取り出した。日本で売っているそれの倍ほどの厚さがあったが、それはヨーロッパが行っているガリレオ計画と呼ばれるGPSシステムの衛星につかう衛星携帯電話だった。
グリマーが何処かへ電話を掛ける。清見に悪寒が走った。
「ほれ」
グリマーが携帯電話を渡した。耳を近づけた瞬間、怒鳴り声が聞こえた。
「清見!、お前の前にいる男はおれ達情報畑の人間に取っちゃ雲の上の人間だぞ。奴がお前の目の前にいるという事は、今お前は目の前にオオカミがいると思え」
「お言葉ですが、穂高警視。かれはジャーナリストですよ。それもフリーランス・ユニオンの」
「わからん奴だな。奴が右を向けといったら右を向き、走れと言ったら走れ。そうすれば、お前は昇進とボーナスにありつける」
「彼の指揮下に入れと言うのですか?」
「そうだ。公安部としての看板を背負って奴の指示に従え。わずか半年で革靴を履き潰す俺達の意地を見せろ」
電話が切られると、清見はしばらく呆然とした表情でグリマーに携帯電話を返そうとした。
「いや、それは持っていていよ。メモリダイヤルに私の電話番号を記録してあるから」
液晶画面のメモリダイヤルをみると、BKA(独連邦警察)やスコットランドヤードと言った名前が登録されていた。
「君だけじゃなく、欧州の警察機構もここにいる、仕事は彼らとの連帯も肝心だ。さて、本題に入ろう」
グリマーは茶封筒を机の上に置いた。
「ここでは開けないでくれ。中には君に探してもらいたい男の写真と情報が入っている。おそらく、この町にいると思う。極力極秘裏に行動してくれ」
しばしの沈黙後、清見は答えた。
「わかりました」
半年で革靴を履き潰す公安の実力を見せてやる、清見はそう心に誓った。
鹿間小隊長の入った分隊は最悪の事態に陥っていた。
ボランティアグループが開くカフェでセルビア人とクロアチア人の喧嘩が始まろうとしていた。
鹿間が間に入っていたが、どうも落ち着きそうに無かった。
「だから、喧嘩の理由を教えてください」
鹿間が手引きを読みながら二人を制していた。二人を部下が押さえていたが、今にも振りほどかれそうだった。
どうせ喧嘩にたいした理由なんて無い。ただ、他民族が気にくわないというのだ。
「ザクロィ スヴォーイ ロート!! (黙ってろ!!)」
鹿間には意味がわからなかったが、野次が入ってきた、いよいよヤバイ。
通信員が必死に援軍を求めていた。
セルビア人の男が自衛官の腕を振り解き、クロアチア人に殴りかかった。パシッと音がして、男の拳が止められた。止めたのは前田ニ士だった。
「前田…」
鹿間が声を掛けようとしたが、あまりの形相に声が続かなかった。男の拳を掴みながら、双方に睨みを効かしていた。
「やれやれ、やっと本気になったか」
クロアチア人を掴んでいた森茂が言った。
「どういう意味だ。森茂」
「あいつ、高校の母校の後輩でしてね。その筋では有名な不良です」
「不良!?」
鹿間がびっくりして声を上げる。前田が睨んだので慌てて声を潜めた。
「なんでそんなこと黙っておくんだ」
「だって、こんなときに言わないと隊長勘違い起こすでしょ」
「どういう意味だ」
「まぁ、見ててください。あいつは昔気質の不良なんです。その筋ではわりと人情家だったんですから」
前田は手を離すと、セルビア人の両肩をがっしり掴んだ。押し殺した声で言った。
「喧嘩にルールもへったくれもねェ、だがそれなりの筋を通すって言うのが侠気ってもんだ。
侠気があるなら俺が見届けてやろう。だが単純な憎しみならあんたの拳を届かせるわけにはいかん」
もとろん前田はロシア語も英語も喋らない、伝わるはずの無い単にドスの効いた日本語だった。だが、前田の覇気が、『相手が悪い』と人間としての本能に直接伝えていた。
セルビア人が拳を解く。前田はくるりと振りかえってクロアチア人の肩をバシバシ叩いた。
「簡単なことだ。お前らの単純な憎しみでは、最後に残った隣人を殴り殺すまで終わらん。だから、いまは止めろ。踏みとどまることは殴りかかるより勇気のいることだ。だが、悪い夢を見ずにすむ」
男の胸ポケットからマルボロの箱を抜き出した。
「今日の事はいつか役に立つだろうな。これ、仲介料だ」
男がうんうん頷いて、タバコを差し出す。二十歳そこそこの若者に三十過ぎの男達が窘められていた。
ようやく高機動車に乗った川島達が現れ、前田に代わった。
「はぁ、悪い汗をかいた…」
鹿間が近くのテーブルに腰を下ろした。
「隊長、そんなことでは、仕事出来ません」
前田が向かいに座った。
「いいよ。お前みたいに肝の座った一人奴がいれば」
「ちょっと肩を揉んでやっただけです」
説得の終わった川島が席についた。
「まぁ、やり方は手荒いが上出来だ。なんだかんだ言っても、結局気迫の勝負だからな。二人とも顔面蒼白してたぞ」
川島は店に分隊分の飲み物を頼むと「一休みしろ」と言って高機動車に乗り込んだ。
明日も同じようなことをしなければならないと思うと、いささか気が滅入ると鹿間は思った。
グリマーがフリーランス・ユニオンの事務所に戻ると、事務所の中は蜂の巣を突ついたような大騒ぎになっていた。
「おいおい、どうしたんだ。セルビア軍がここに攻めてくるのか」
受話器を握る責任者のネリィ・オルソンに話しかける。
「ああ、よかったわ。今電話するところだったの。そう、いよいよ攻めてくるのよ。ここサラエボじゃなくトゥズラにね」
ネリィが受話器を下ろしながら答えた。
「東戦線が突破されたのか?」
「時間の問題よ。ヴォールク戦車師団が動いたわ、先遣隊がもう戦線につく頃よ」
ヴォールク師団は戦車だけで200輌を保有するセルビア解放軍団の主戦力の一つだった。
先遣隊だけで50輌の戦車とその倍の装甲車を持ち、東戦線に入れば圧倒的な火力となった。
「国連軍はそのことを知っているのか」
「私達が知っているんだから、知っているでしょ。頼りになるの自衛隊って」
「さぁ、この前の大空輸作戦でかなりの戦力が入ったって話しだけど」
グリマーが壁に張りつけた地図に歩み寄り、指で進軍予想ルートをなぞった。
「遠いな」
「何が?」
「トゥズラまでだよ。自衛隊と戦っていては補給が持たない、何処かに物資集積所を造らないとトゥズラまで辿り着けないぞ」
グリマーが地図を睨らみ「ここだな」と呟き、ドリナ川少し西の一点を指差した。
「ラードゥガ?」
前紛争後、難民受け入れの為に作られた町だった。
「ああ、山を削って階段状に造られているため、砲撃などには脆弱になる。麓はある程度平地の場所もあるため補給地点にはうってつけだ。先遣隊が進軍するのはまずこの町までだな」
「ちょっとまって」
ネリィが何か大切なことに気づいた様子で口を挟んだ。
「それって正しいの?」
「ああ、軍事ジャーナリストとして保証するよ」
「じゃあ、同じジャーナリストも同じ判断をする?」
「えっ?」
そのころトゥズラでは、ニナ・ユーリィブナも同じ判断をしていた。
「それで、ニナはラードゥガがヴォールク師団先遣隊の初期目標だというんだね」
ユニオン支部の会議室でニナを含む六人のジャーナリストが額を寄せ合っていた。アルが尋ねた。
「ええ、まず間違い無いでしょう。ここを橋頭堡にする」
「今から行ったとして、制圧される前に辿り着けるかな?」
「東戦線はもう1日は持ちこたえます、でも行動は早いほうがいいでしょう。危険度が上がれば本部から移動禁止令がでる可能性もあります」
「危なすぎるんじゃないか。国連軍はまだ動いていないし」
「町は山の斜面に沿うように造られていますよね。
街へ行くには麓の山道が一本だけ、住民は麓の方へ集まっていると思いますよ。取材がしやすいし―」
「そうか! 日本軍はまず先にこの山道を押さえにかかる」
「ええ、我々は何もしなくても追い出せれます。今の日本軍の性格なら我々の安全を考えなければならない」
「ニナ、なんでそんなに頭が回る?」
ドイツ人ジャーナリストが感心した様子で尋ねた。
「さぁ、血のせいじゃないですか」
日独露の血が混じるニナは謎めいた笑みを見せた。
「私にはドイツ人の堅実さに、ロシア人の気丈さ、それに日本人の狡猾さを持っていますから」
「なるほど、そりゃすごいや」
「よし、すぐに行こう。ジャナーリストの誇りに賭けて真実を世界に伝えるんだ」
六人のジャーナリストはユニオン所有のバンに乗り込みトゥズラの町を出発した。その様子は自衛隊の偵察隊によって確認されていた。
自衛隊トゥズラ基地の司令所が置かれる天幕の中では、連隊長の大洞と各科の幕僚スタッフおよび士官がトゥズラ、サラエボ、ベオグラート等のバルカンの主要点が置かれたジオラマを囲んでいた。
自衛隊の結論も同じだった。
ヴォールク戦車師団の第一目標はラードゥガであると、すでにジオラマにはラードゥガの町の上に旗がさされていた。
「分遣隊の本部はなんて言ってる」
萩原が尋ねた。
バルカンに展開した自衛隊分遣隊の指令部は支援艦隊が接岸するザダルに置かれていた。そして、展開した自衛隊の75パーセントはここトゥズラに配備されていた。
「プッシャーを掛けろだ。ハーグ陸戦協定にのっとって行動する」
大洞はドリナ川の周辺を睨んでいた。
「どれだけ出す」
作戦会議は向かわせる部隊の規模でもめていた。
「戦車はすべて出す。普通科はニ個中隊以上は欲しい」
「第一第ニ中隊をだす。第三中隊は基地の警備にあたらせなければならない」
三個中隊からなる普通科部隊を束ねる坂祝ニ佐が答えた。
「輸送手段は?」
大洞が輸送幕僚に尋ねた。
「トラック隊の80パーセントを出せば問題ありません。問題はその後の兵站業務です」
「どれくらいになる?」
その質問に補給幕僚が答えた。
「まず、展開する隊員に必要な物資ですが、1日45キロになります。
二個中隊および戦車兵、その他人員で500人になりますから1日22500キロになります。
戦闘を前提としない場合でも戦車には燃料がいりますし、輸送トラックにもいる。一番厄介なのは哨戒するヘリです。今回は4機すべて使いますから、全体として1日に必要な輸送物資は60トン以上を思ってください」
「たった1日でそんな量の物資を輸送するのか!?」
大洞は度肝を抜かれた。
「兵站は戦闘より厳しいさ…」
自分の部隊に後援専門の部隊まで編入している萩原がちくりと言った。
「萩原、お前の部隊は出るんだろ」
「別ルートで出撃命令が出ている。一応自己完結能力はあるがコンディションを気遣いたいなら、俺達の補給も兼ねてくれよ」
機動化学科中隊の施設科小隊は兵站と後援火力を兼用しているため、ほとんど二者択一の選択だった。
「被補給者をプラスだ」
大洞が告げると、補給幕僚がログシートにメモした。
「恩にきるよ。ヴォールク師団がプレッシャーに屈しなかったらどうする?」
萩原が作戦幕僚に尋ねた。
「戦車だけで50輌は保有しているという話です。こちらの戦車だけで対抗するわけには行きませんから、96式多目標誘導弾と攻撃ヘリによる機動戦が想定されます」
情報幕僚が答えた。
「たった、50輌ちょいだろ。ほんとはうちだけで十分なんだよな…」
戦車部隊長の村上ニ佐が咳払いをした。
「基地内の物資では三日と維持することは出来ません。今日中に施設科部隊をロシア軍の飛行場に入れ、イタリアに展開する空輸部隊による補給の必要がありますが、どうです?」
補給幕僚が施設科部隊長に尋ねた。第203飛行隊を主体とする航空自衛隊がアドリア海に面するイタリア・ペスカラ空軍基地に入っていた。
「ロシア軍の飛行場は75パーセント復旧しています。今日中には完全復旧出来ると思います」
「C―130で1日三機か…、まぁ何とかなるかな」
「具体的な作戦計画は?」
ようやく本題に入れた。
「ミッションプラン自体はすでに出来ています。我々はラードゥガ郊外の高地―、といっても周囲からほんの10メートルほどの起伏があるだけですが、ここに横列展開し、ヴォールク師団先遣隊にプレッシャーを掛けます。交戦規定は遵守してください。先制攻撃は無しです、あくまで専守防衛に徹してください」
作戦参謀が萩原をみた。
「もし、万が一ですが。交戦せざる得ない場合につき機動化学科中隊に前に出てもらう事になります」
「正規軍じゃ不安か?」
「ゲリラ戦で来る可能性があります。車輌の数では少なくても戦力は圧倒的にこちらのほうが上ですから。
「目には目をか、了解した」
「たとえゲリラであっても彼らはトータル・ナショナル・ディフェンス(全民衆防衛)によって正規軍として扱われます。捕虜の扱いはジュネーブ条約、ハーグ陸戦協定に則ってください」
「NATOに地上戦を躊躇わせた名高いトータル・ナショナル・ディフェンスと戦うとは…、まったく兵隊名利に尽きるよな」
やれやれとした感じで大洞が漏らした。
トータル・ナショナル・ディフェンス(全民衆防衛)と呼ばれる旧ユーゴから続く防衛体制は、世界で最も進んだ防衛体制の一つといわれている。そのシステムはスイスの民兵制度を元にしており、高校生以上の国民は全て実弾訓練及びその他兵器の習受訓練を受ける事になっており、特記すべきは有事の際、各企業、各地域が自主管理組織が作れることである。
これによりたとえ上層部からの連絡がなくとも、民衆は独自の組織を作ることができ、それらは全て正規軍として見とめられた部隊なのだ。つまり、民衆在るところ正式に認められた軍事組織ありと判断しなければならず、1999年のNATO軍による攻撃は空爆のみでしか、行われなかった理由の一つであった。
今回の紛争でもその力は大きく発揮され、セルビア解放軍に参加する民衆は全て正規軍として認められていた。彼らの軍事力や戦略を軽視して、イラクなどと同じように見ていては、それは大きな間違いである。
「まもなく偵察に出たRF-4Jが帰還します。出撃はその後ということで」
萩原は指揮所を出ると機動化学科中隊のプレハブ郡へむかった。プレハブの隅で部隊が出撃準備を整えていた。
「隊長、通常装備でいいですか」
川島が尋ねた。機動化学科中隊の通常装備は野戦を前提として、主力の89式空挺小銃のほかに接近戦用にMP5SD5を、面制圧に連装グレネードランチャーといった装備だった。
「いや、市街戦を前提にする。第一空挺はMP5SD5を主力に持っていけ」
「やだなぁ、ラードゥガてまだ住民がいるんでしょ」
「文句を言うな。さっさと準備しろ」
「高機動車に106ミリ無反動砲および、M2重機関銃、重MATの搭載完了しました」
整備も兼ねる施設科小坂小隊長が手の油をふき取りながら現れた。
「空挺小隊は8両の高機動車で、我々は後続のトラックでいいですね」
「ああ、本隊が我々の補給もやってくれるそうだ。お前達も戦線に出てもらう」
「了解しました。MAGICは持っていきます?」
「先遣隊と交戦するかも知れん。持って行け」
三十分後、RF-4Jが帰還し電送してきた偵察写真では、先遣隊は戦車だけで50輌を有し、全体でその倍の車輌が写っていた。完全に機械化された部隊であり主力はT-72戦車、対空兵器はZSU-23-4シルカ対空車輌を主体とし、ハインドヘリが護衛についていた。
ユニオンのバンから遅れる事1時間後、28輌の90式戦車を主体とした陸上自衛隊の機甲部隊が移動を開始した。
兵力差だけなら自衛隊はヴォールク師団先遣隊の三分の一であったが、その装備は最も近代化された装備だった。もっとも、兵器は戦場の形態を変えることはできても、戦争の流れを変えることは出来なかったが…。
フリーランスユニオンのジャーナリスト達がラードゥガの町へつく頃には日はとうに傾いていた。東の地平線が赤く燃えていた。
「怖いよな、50輌の戦車が来るまで1日もしないぜ」
バンを降りると一人が呟いた。
「住民の人、大分残ってますよね」
山の斜面に沿って造られた町は所々明かりが灯っていた。
「やっとの思いで築いた町だ。そう簡単には捨てれないさ」
運転席からアル・ハザットがおりた。外は酷く冷えて、吐く息が白く残る。
「どこも同じか…」
グロズヌイもカブールも住民達は居座り、戦場の中で暮らしていた。
ニナにはその燈りが、儚い蛍の光りに見えた。今日明日にはここは戦場になるのだ。
「さぁ、みんなホテルは無いぞ。今日はここでキャンプだ」
バンのトランクからテントを引っ張り出す。唯一女性であるニナは小さなテントを独占していた。
深夜、機甲部隊に先行したOH-1に乗る茂住三佐は、森の中から少しホップアップして目標の高地を確認した。ブッシュが思ったより高い、本隊が到着したらまずこれを刈らなければと思った。山の斜面に町の明かりも確認していた。東の空も。
「こちらカワセミ1、連隊本部応答せよ」
無線で82式指揮車に乗る大洞連隊長を呼び出した。
「こちら連隊本部、メリット5、よく聞こえる」
「目標地点を確認しました。住民は残っているようです。前進して敵勢車輌を確認しますか?」
「高地まで出てくれ、伏兵が潜伏している可能性があるので注意せよ」
「了解」
OH-1は森をダッシュで抜けると、まばらに潅木の生える高地地帯でNOEと呼ばれる超低空飛行を開始した。高度は10メートルもない、ちょっと気を抜けば突起部に激突しそうだった。
「何かいる!」
ガンナーの高岩ニ尉が叫んだ。HMD(ヘッド・マウント・ディスプレイ)に小さな盛り上がりを見つけたのだ。
「敵か」
「テントです、民間の。さすがにキャンプファイヤはしていないようです。敵で無いようですが」
「確認する」
さらに前進する。テントに描かれた羽ペンと万年筆をクロスさせたマークを見た瞬間「しまった」と呟いた。
「報告にあった記者グループですね。証拠映像とります」
高岩がビデオテープを回し始めた。
「カワセミ1より、連隊本部。ユニオンがいる。人数は六」
「退かせないか?」
「写真とってますよ」
高岩が、慌てて暗視装置のレベルを落とした。そうしないとフラッシュの光りで高感度カメラが焼きつく恐れがあった。
「わかりません。交渉してみますか?」
「やってみてくれ」
ジャーナリスト達は突然現れたヘリコプターにカメラのシャッターを浴びせた。
ヘリは攻撃の意思が無いことを示すため横腹を見せながら接近してきた。
「降りる気か!?」
「私が話します」
ニナが前に出た。
ヘリはダウンウォッシュでテントが吹き飛ばないよう少し離れた位置に着陸した。エンジンをアイドリングにすると前部座席からパイロットが飛び降りて、こちらに近づいてきた。
ニナが頭を押さえながら「こっちへ」と英語で叫ぶ。何とか話しの出来る位置まで離れるとようやく相手が自己紹介した。
「ジャパン・セルフ・ディフェンス・フォース、メイジャー茂住です」
「フリーランス・ユニオンのニナ・ユーリィブナ・ベルーイです。シクヴァル・ニナと言ったほうがいいでしょうね」
ああ、なんてこった。
茂住は心の中で呟いた。
トゥズラ空爆の時、まったく逃げもせずビデオカメラを回していたジャーナリストだ。
しかし、その映像のおかげで自衛隊派遣が世論に肯定されたのだが。
「あの、ニナさん。私のいいたいことはわかりますね」
「ええ、ヴォールク師団が東戦線に入ったようです、明日この町は戦場になります。私達はその取材できました。もちろん危険は承知のうえです」
ニナは燃える東の空を眺めた。
完全に理解した上で、何の護衛も付けずに来てやがる。こいつらはジャーナリストの鑑か、そうでなければカミカゼ取材だと思った。
「不思議ですね。ろくな法整備もされていない交戦規定もない自衛隊がこんなに早く出てくるとは」
「時限立法で国際基準並の交戦規定が与えられました。我々がここに展開するのはヴォールク師団にプレッシャーを与え撤退を促すためです」
「あの赤い空の下でボスニア兵が次々死んでいます」
ニナが急に話題を変え、東の空を指差した。
「平和安定化部隊は不介入が原則です。我々は人道的見地と民間人保護の立場から、展開します」
「よい答えをどうも。自衛隊も国際貢献に熱心になりましたね」
「はあ…、あの」
明かに自分を手玉に取っている。会話のイニシアブチはニナが最初に名乗ったときから決していた。
「交渉の余地はありません。我々は明日ラードゥガへ入り取材を始めます。
ヴォールク師団があなたがたのプレッシャーに屈指無いようなら、さっさと逃げ出しますのでご安心を」
それは暗に自衛隊の実力を見せてもらうと言っていた。
「あなたは早く戻ったほうがいいでしょう。ヘリの燃料を無駄にしますよ」
ニナはそれだけ言うと手を振りキャンプへ戻っていった。
茂住はOH-1のコクピットへ戻ると「なんだあの小娘は!」と憤慨した。
「なんて言ってきたんです?」
高岩が尋ねた。
「交渉決裂だ。いや交渉さえしていなかった」
茂住はOH-1を離陸させると大洞に事のしだいを話した。
ニナは指笛と拍手で迎えられた。
「凄いぞ。軍人を追っ払うなんて」
アルが握手を求めた。
ニナはみんなの予想に反して、心の中で「はぁ」とため息をついた。
「運がよかっただけです。相手が自衛隊だった」
ニナはヘリパイロットに敬意を表してジャパン・アーミーではなくジャパン・セルフ・ディフェンス・フォースを使った。軍人に対してはあらゆる手段を使って優勢に見せるのがニナのやり方だったが、それは酷く神経をすり減らすものだった。
「ああ、そうか。彼らは君に借りがあるんだったな」
「はやく寝ましょう。自衛隊の戦車がきたらここもうるさくなりますよ。寝不足はいい仕事の敵です」
その1時間後、自衛隊の機甲部隊が高地に到着し1晩中キャタピラの音でうるさかった。
結局、ニナは丘の上に上がり戦車隊の双眼鏡で眺めていた。戦車は30輌弱、装甲車や対空車両もいたが、普通のオフロード車に見える4WDが多かった。
ニナにはわからなかったが、それこそ普通科最強の装備品と言われる96式多目的誘導弾を搭載した高機動車であった。
サラエボ早朝、レンガ造りのフリーランス・ユニオン事務所の前に数台のワゴンが止まっていた。
「せめて、ラードゥガの件がかたつくのを待った方がいいんじゃない?」
ユニオンの責任者であるネリィ・オルソンは書類を詰めたダンボール箱をガムテープで梱包しながら机を挟んだ向かいのグリマーに質した。
「タイムスケジュールが狂ってくる。そうでなくても押しているのは君が一番わかっているだろ」
「そりゃ、BBCのスタッフには悪いとは思うけど」
グリマーはネリィが梱包したダンボール箱を抱かえると「これで最後だな」と言った。
「いくよ」
「さびしいわね、ここを離れるのは」
玄関の前でネリィはしんみりと言った。
「大丈夫ですよ。ネリィさん。ここを我々が守ります」
留守を務めるセルビア人のジャーナリストが励ました。
「プロジェクトはここじゃできません」
「それはわかっているけど」
「一刻もはやくストルーイカから、希望を届けてください。それがみんなの励ましになる」
それはジャーナリストとしての言葉ではなく、この地にすむセルビア人としての言葉だった。
「ネリィ、はやく。住民がおきる」
ワゴンの運転席からグリマーが声を掛けた。
大勢のジャーナリストがここから去るのはサラエボ市民の不安を煽るため、出発は早朝となっていた。
ネリィは胸に手を当てて、初心の思いを反芻した。湾岸戦争では閉鎖国家であったクェートが広告代理店を買い取り、イラクの非道を強調させ国際世論を煽り多国籍軍を派兵させた。バルカンの前紛争ではボスニア政府が同じ手段を使いセルビアを一方的に避難しNATO軍が空爆する事態になった。
メディアは常に利用され続けた。
誰にも関与されず、誰にも圧力を受けない。
自分達が新しい情報媒体のあり方を示して見せる。
サラエボへ到着した日、ネリィ・オルソンはサラエボの丘の墓場でそう誓のだ。
「グッバイ、サラエボ! きっと助けてみせる」
ネリィは朝焼けに包まれるスナイパーストリートに手を振るとワゴンに乗り込んだ。
最終更新:2007年10月30日 23:13