新しい国が生まれた…!(前編)  ◆j1I31zelYA


何度も、思い出したように、ふっと怖くなる。
誰にも言わなかったけれど、実はこの殺し合いに呼ばれてからずっと。



あたしは、いつまで正気でいられるんだろう。



なぜなら、あたしは忘れられないからだ。
生まれてから見たもの、聞いたもの、すべての記憶を自由に取り出して、思い出せる。
IQ200の恩恵かは分からないけど、そういう記憶力を持っている。

たいていの人間は、死にたくなるような目にあっても、時間がたてばその辛さを忘れていくようにできている。
だから雪がいつかは溶けて春が来るように、辛いことから立ち直ることができる。
けれど、あたしの心に降りつもった雪は、溶けることなく、冷たくつもったまま。
寂しくてたまらなかった時の気持ちをずっと覚えているから、事あるごとに『一人』を感じてしまう。
心に傷を負った出来事だって、まるでついさっき起こったことみたいに鮮明に感じるから、恨みつらみをふっ切ることができない。

それがしんどくて、死んで楽になりたいと思ったこともあった。
だから、辛いことに負けないだけの楽しいことをたくさん見つけて、実践できる人には憧れていた。
先生に惹かれたのも、そういうところだった。
先生と出会えたおかげで、あたしは楽しさを学校に見つけ出すことができたし、『愛されていた記憶』を思い出すこともできた。
だから、死にたいなんて考えはなくなった。
よっぽどの辛いこと――例えば先生が死んじゃうとか――がない限り、生きていけるはずだった。

でも、ここは殺し合いがなされている場所らしい。

楽しいことなんか全部塗りつぶされるぐらいの、酷いものを見るかもしれない。
記憶を風化させなければ気が狂ってしまうような、血みどろの光景を見るかもしれない。
仲間を眼の前で殺されたりすることだって、あるかもしれない。
そういう光景を、私はきっと忘れられないだろう。
ショックや絶望感を、その時の感情までそのままに、思い出し続けるだろう。
心が折れそうになるような嫌な思い出が、これからの人生を、ずっとさいなみ続けるだろう。

殺し合いが始まって、もうすぐ六時間。
今のところ、あたしこと神崎麗美は、そういうものを見ていない。
殺されそうにはなったけれど、どこか怪我をしたり血を見たわけじゃない。
例えば、眼の前で蜂の巣にされる仲間だとか、原型をとどめないほど虐殺されたクラスメイトの死体だとか、
そういう『殺し合いでありえそうなもの』にはまだ遭遇していない。
いずれ『そういうもの』を見てしまったらどうなるのだろう。

そういうものを見ても、私は狂わずに強くいられるのだろうか。




「……なぁ、本当にたった3分でいいのか?」

こたつテーブルの前で、跡部景吾は固い声を出した。
日本ではどこでも見かける背が低いテーブルだが、彼がその食卓について正座に座り、
カップラーメンの蓋の上に割り箸を乗せている姿は、はっきり言って違和感がすさまじい。

「跡部さん……カップラーメン食べたことなかったんだ」
「おぼっちゃまだからってインスタントの味を知らない学生なんて、漫画の中にしかいないと思ってたわ」

ひきつった笑みを浮かべる滝口優一郎。
口に手をあててくすくすと笑い、『失笑』を見せる神崎麗美。
それらが、遊園地でのカリスマを地に落とした王様に対する、ほほえましい嘲笑であることは本人にも理解できたようで。

「うるせーよ! 俺様も庶民の味に触れようとしたことぐらいはある!
説明文に『火薬をいれる』とか物騒なことを書いてやがったから、手が出せなかっただけだ」

いつもは無駄にイケメン臭あふれる顔つきも、だいぶ真っ赤になっていた。

「跡部さん……その『かやく』は薬味のことだよ」
「うわー。あたし、いわゆる『成績のいい馬鹿』には初めて出会ったわ」

カーテンを閉め切った薄暗い民家が、けらけらとした笑い声で明るくなる。
やや憮然とした跡部様。

とはいえ、その場で交わされているのは、漫才めいた学生の雑談だけではない。
テーブルの上には3人分のカップラーメンだけではなく、電話機の横から拝借したメモ帳とペン何本かが転がっている。
そこから何枚かちぎり取られた紙片には(主に携帯電話に不慣れな滝口が書いた)情報交換の成果がびっしりと記されていた。

遊園地から迅速に脱出した三人は、ひとつ斜めにエリアを移動したG-2の民家で小休止を取っていた。
理由として、放送の時間が差し迫っており、腰を落ち着けようとしたことがある。
もし遊園地方面からマリリンが移動してきても逃亡日記があれば、襲撃を数分前に察知して逃げ出せる。
それに、殺し合いが始まって6時間近くが経過している。
いい加減に、食事のひとつでも摂りたいタイミングだった。
だったらせっかくだからと、滝口優一郎が支給品を取りだす。
その支給品は、元は跡部景吾に支給されたものだったが、滝口の『ある支給品』と交換することで、彼に譲渡されたのだ。
それは、巷で広く販売されている銘柄のカップラーメン、20個であった。
たっぷり重量のある、太麺の『KING』サイズ。

お湯を入れてからの3分の待ち時間を使って、跡部は滝口から拝借したメモ用紙に、図面を書く作業の続きを行う。

「まぁ、ざっとこんなところか」

それは『跡部王国』によって透視した首輪の内部を、スケッチしたもの。
記憶頼みであるがゆえに簡易だが、内部の機械ごとの位置関係など、見取り図としては充分に分かりやすく特徴をとらえている。

『へえ、こんな風になってたんだぁ。透視もすごいけど、やっぱり跡部さんって器用なんだなぁ』

滝口は、わざわざ文章で感想を書いた。
麗美は感心したような顔をしながらも、欠かさず5分おきに逃亡日記をチェックする。
『三日間生き延びる』という方針を取る以上は、殺人者から逃げられる『逃亡日記』が生死を握るアイテムとなるだろう。
それらに対し、同じくわざわざ、筆談で自慢をする跡部様。

『ハ。もう少し根をつめれば、全体像をスケスケにすることもできるぜ?
もっとも、疲れるからある程度の時間をおきたいところだがな』
「だったらさ、まずはラーメン食べようよ。とっくに3分たったし、のびるよ?」
「……インスタントの麺も、のびるものなのか?」
「当たり前でしょーが。……いただきますっ」

三人同時に手をあわせ、割り箸を割る。
ずるずる、と咀嚼音。
跡部は少しだけ麺をすすると、『おい、意外とイケるな』というふぜいの顔。
麗美と滝口は、はふはふと豪快にほおばった。

食事に夢中になった時に独特の無言が、灯りもつけないリビングをほんわかと包み。

こうして、午前六時は訪れる。
テーブルに置かれた三人の携帯電話が三つ、同時に着信音を鳴らした。




放送が終わり、滝口優一郎は安堵の息を吐いた。
滝口の知り合いはいずれも呼ばれなかった。
親しかったクラスメイトは、プログラムで行動を共にしていた相馬光子ぐらいのものだが、それでも生きていると分かれば嬉しい。
しかし、9人が死んでいた事実を知らされて、表情に暗い影が宿る。

神崎麗美は、動揺した。
高坂王子の名前が呼ばれなかったのは喜ばしいことだ。
しかし、あのマリリン・キャリーが呼ばれた。
危険人物が減って良かったと、喜べるはずもない。
麗美たちでは逃げに徹するしかできなかったマリリンを、殺せるほどの実力者がいることになる。
それだけ、一般人では相手にならない強者がごろごろいることになる。

跡部景吾は――

――携帯電話を強く握りしめるあまり、バキリとヒビを入れた。

麗美と滝口はその破壊音にまず驚き、続いてその破壊を生みだした怒りの持ち主を見る。
両の眼を見開いて鋭い眼光を宿し、眉をつりあげたその顔は、氷の彫像のような冷たさを発していた。
その激昂の理由は、彼の口から語られる。

「手塚国光。宿敵(とも)の名が、呼ばれた」

それだけの言葉に、無念さ、悔しさ、言葉にできない悲しみが凝縮されていた。
慰めの言葉をかけることさえ、その激昂の前では余計な茶々を入れるに等しかった。
凍りついた空気を動かせるのは、怒りを発散した本人に他ならず。
跡部景吾は、続く言葉で放送への見解を述べた。

「甘かったな。現実を見すえて、その上でなお覚悟したつもりだったが甘かった。
それを思い知らされた気分だぜ」

その言葉が指す意味を、二人とも理解する。
跡部ほどではないにせよ、麗美と滝口も、その悔しさをかみしめていたからだ。
数十人単位での参加者の結束。
彼らの最終目標が、それだった。
しかし、動き出した直後の放送で、十人近くの名前が呼ばれてしまった。
その中に、跡部景吾の合流したいと考えていた好敵手がいた。

『三日間何としても生き残る』という逃げの姿勢を持っていた跡部からすれば、
己の責任でなくとも、『己が逃げのびようとしている間に友人は死んでいた』と悔やむのは是非もないこと。

しかし、責に浸る王に、それでも言葉をかける国民がいる。滝口優一郎だった。

「ううん。楽観的になってたのは俺も同じだよ。っていうか、跡部さん以上だよ。
だってオレ、前のプログラムでも、放送で何人も呼ばれたのを知ってたんだから」

滝口優一郎は、既に大東亜のプログラムで『クラスメイトの死亡を放送で知らされる』という悪夢を経験している。
その為に、他の2人よりも放送に対する衝撃が少なくて済んだのだ。
この場を元気づけるのは自分の役割だと滝口は自覚し、さらに口を開こうとして、



――ザザッ



ノイズのような雑音だった。
神崎麗美の携帯電話から聞こえてきたその音に、跡部たちの視線が集める。
それが未来予知の書き変わる音だと、全員が既に聞いている。

逃亡日記を確認して、麗美の顔つきがこわばる。
携帯を閉じると、素早く短い言葉で叫んだ。

「しょげてる場合じゃないわ。追手が来る。逃げるわよ」

流動する状況は、中学生たちの都合を待ってくれない。
新しく予知されていたのは、契約して二度目の『DEAD END』だった。

『[エリアG-2・えんじ色の屋根の民家]
玄関から機関銃を持った女が素早く突撃してきた。
どうしてピンポイントで居場所がばれたの!?


神崎麗美は、同行者二名と共に、機関銃の掃射を受けて死亡する。
DEAD END』




未来が変わらなければ、我妻由乃はその三人を『透視』によって発見し、銃撃を仕掛けるはずだった。
マリリンとの戦いで霊透眼鏡を手に入れた由乃には、隠れる場所の多い住宅街の捜索も、苦にならなかったのだ。
しかし、『その三人』は未来日記の予知を知ったことで逃走を選択し、未来は変わる。




放送を聞いても、大した感慨はわかなかった。
天野雪輝がまだ死んでいないことは、雪輝日記の予知で既に分かっていることだ。
だから我妻由乃は放送も話半分に、『追跡』の方を続行していた。



足を止めたのは、嗅覚がわずかな『匂い』を感知したからだ。

美味しそうな、食欲をそそる類の匂いだった。
……おそらく、インスタント食品。
常人なら、そこまで鋭敏に嗅ぎつけることはできないだろう。
しかし、驚異的な集中力を持っている由乃は、『遊園地から逃げた3人』を見つけようと感覚をさらに研いでいた。
その嗅覚が、麗美らが逃走に使って開け放しにした窓から漏れた僅かな匂いを感知した。

当該の建物を、まず霊透眼鏡で透視する。
中には誰もいない。それを確認して、堂々と玄関から侵入。

一階のリビングに、ついさっきまで人のいた痕跡を発見する。
捨てる間もなくそのまま放置されているカップ麺が三つと、筆談に使われたらしきメモ帳にペン。
由乃はペンの中から鉛筆を一本取ると、それでメモ帳の白紙を薄く塗りつぶす。
刑事ドラマでもよく使われている、ボールペンの強い筆圧を利用して、上の紙に書かれていた文字を読み取る手法である。
ぼんやりと読みとれる筆談を判読。
そこから、ここにいた三人が対主催集団であり、仲間集めを方針にしていることを読み取った。
さらに言えば、その筆談を書いた人物がかなりのお人好しらしく、他の参加者をあまり警戒していないことも。
由乃が次に考えたのは、この三人が由乃の襲撃を察知して、いち早く逃げ出した様子であるということ。
まだ作られて間もないカップ麺を、捨てることも食べきることもせず逃げている。
レーダーなどで由乃の接近を察知したにしては、焦りすぎた行動だ。
仲間集めを方針とする対主催が、三対一で接近をあらかじめ察知したのに、交渉も考えずに即逃亡の選択肢を選んだことが腑に落ちない。
そうなると、この三人はレーダーどころでない、それこそ未来日記のような、具体的に危機を察知する手段を持ち合わせていることになる。
だとすれば、今から三人を追いかけて、追いつくのはだいぶ骨がかかりそうだ。
いくら由乃が壁や建物を透視して探せるとはいえ、三人はこちらがどう追ってくるかまで分かるかもしれないのだから。

そこまで推理して、由乃は手順を変えることにした。

改めて玄関から家を出て、住宅街の路上へと戻る。
抱えていたミニミ機関銃の銃口を、適度に距離のある民家の塀に向けた。

標的は三名。
グループ内の結束はそこそこだが、各々に我の強そうな節、あり。
その内の一人は相当の善人で、しかも頭は良くなさそう。
多少は『賭け』になるが、以上を考慮すれば、成功する可能性は高い。
それに失敗に転んだとしても、近辺にいる他の参加者を呼び寄せられる。そういう賭けだった。

そう、追いつくのが厄介なら、向こうが引き返したくなるようにすればいい。




「このまま行けば、逃走ルートは確保できるみたいね」

道路沿いに商店が混じるようになってきた混成住宅地の壁にもたれながら、麗美は逃亡日記を改めてチェックした。
同様にして滝口優一郎も呼吸を整えているが、跡部景吾だけは息ひとつ乱さずに平然と立っている。
麗美の息が荒いのは、男子二人とともに数分ばかり走って逃げたからだけではない。
跡部景吾から『念の為に着てろ』と、支給品の防弾コートを着せかけられたからだ。
防弾コート程度で機関銃が防げるかは怪しいものだが、気休めにはなるだろう。
日記の予知で逃走ルートを指示する麗美が、この三人の生命線ということもある。
しかしこれが分厚い素材のコートであるため、かなり暑そうにしている。
ちなみに、セットで大きな三角帽と顔全体を覆うゴーグルまでついてきたのだが、三角帽の方はさすがに遠慮した。

「便利なもんだな。その『未来日記』ってのは」
「『予知された道と違う道を行く』って前提で考えるだけで、別ルートを選んだ場合に予知が書き変わるもの。
自然と、最適の逃走ルートも分かろうってものよ。
まっ、そもそも基本的に思考のスパンが早くなきゃ、できない活用法なんですけどー」
「アーン? 何かにつけて自己アピールの激しいやつだな」
「……ねぇ、『他山の石』って言葉知ってる?」

麗美と跡部の会話が挑発の応酬に発展するのは、もはや恒例のパターンと化しつつある。
そして、睨みあいを続けるうちに滝口が困ったような笑顔で取りなすのも、おなじみのパターンだったのだが。
いつまでも仲裁が来ないぞと、不思議に思った二人が視線を向けると、滝口は浮かない表情をしていた。
その理由が、分からないこともなかった。
よって、跡部は直截的に聞いた。

「殺し合いに乗った奴が来ると分かってて、逃げて来たのが悔しいか?」
「そんなことは……悔しいっていうか、情けないのかな。
殺し合いに乗った人を止められたら、放送で呼ばれる人を減らせるんじゃないかなって。
ごめん。行動に移せるだけの作戦を出せないのに、こんなこと言ってもしょうがないよね」
「いや、理解できるさ。俺だって参加者を減らしていく連中がうろうろしてると思うと、やりきれないものがあるからな」

実際に仲間を失っている分だけ、跡部の言葉には重みが加わる。

「まぁ、乗ってるやつを止められたら、それが三日間持たせるには一番いいかもね。
でも、今回ばかりは説得の余地はなさそうよ。出会いがしらに撃ってくるようなやつらしいもの」

麗美はチームのブレーンとして、あくまで現実的な意見を述べた。
二人とも反論はあれど好意的な答えをしたのに、滝口は自信を得たらしい。やや顔を明るくして、さらに意見を捕捉した。

「でもさ、少なくとも、出会いがしらに撃ってきたってことは、マリリンって人みたいに、戦うことを楽しんでたわけじゃないんだろ?
ってことは、殺人を楽しむような人か、生き残りたくて殺し合いに乗ってるか、優勝して願いを叶えたい人か、そのどれかだよね。
その中だと殺人を楽しむ人以外は、交渉の余地があると思うんだ。
こっちは首輪のこととか脱出の当てもいくつかあるし、
『神の力』だって殺し合いの後に主催者を捕まえられたら、そこから手に入れればいいし」

その言い分が、とても流暢だったので、麗美たちは少し虚をつかれた。いい意味で。
それまでは跡部と麗美の会話を感心しながら聞くばかりだったから、こんな風に思考をめぐらせる滝口をあまり見なかったのだ。
滝口の主張は、人間の悪意を考慮しない甘さは見られるものの、かなり論理的でもあった。
そう言えばプログラムの時には、いきり立って少女を殺そうとした友人を冷静にいさめて、落ちつかせたことがあると語っていた。
あまり人や物事を疑わなからこそ考察することは苦手だけれど、決して頭が回らないわけではないのだ。
滝口を見直す意識を持ちながら、麗美は丁寧な説明で返答する。

「そうね、あんたの言ってることはもっともだと思うわ。
ちょっとお人好し過ぎるところがあるけど、けっこう鋭いところついてるしね。ただ、今回の場合は、相手が悪すぎよ。
あたしたちには機関銃に対抗できるだけの力がない。説得するに撃たれたらそれで終わり。
ここにいる全員の安全を優先した結果なのよ」

その言葉で、完全に忸怩たる思いも払しょくされたらしい。滝口は強く頷いて、

「うん。そうだね。まずは僕らが無事でいないと何にもなら――」



――バラララララララララララララッ



今年一番の豪雨が傘を激しく打つような、そんな音が長々と響いた。
銃弾。それも、機関銃のような大型重機の、弾丸の雨だ。


その銃声は、『機関銃を持った女』という未来日記の予知を連想するのに、充分すぎる。
何が起こっているのか。
警戒心と共にいぶかる三人の耳は、次なる音を捕らえた。

それは、絹を裂くような悲鳴。
銃声が聞こえてきたのと、同じ方角から。
それも、恐慌状態にあるらしき少女のものだった。


「いやあああああっ!! 助けてっ、助けてよぉぉぉっ!! いや、わたし、死にたくないっ……!!」



等しく、その必死の叫び声を三人は聞き届ける。

神崎麗美は、まず疑ってかかった。
このタイミングで、麗美たちが逃げてきた方向からの助けを呼ぶ声。何やらわざとらしい。
加えて、麗美たちを殺すと予知されていたのが『女』ならば、悲鳴の主も女のものだ。
何らかの『罠』である確率は、当然に存在する。

跡部景吾も、迷いはあれど、少しは疑った。
悲鳴の主が襲われているのだとしたら、王者たるもの見捨てるような真似はできない。
しかし、あの悲鳴には不自然さを感じる。
人間が発声する声としては無駄によく響いているのだ。
プレイスタイルの都合上、人間の観察力に長けている跡部だからこそ、その点に着目した。
まるで、『広い範囲に聞かせるように』と意識して発声されているかのようだと感じた。

しかし、
滝口優一郎は――

「大変だっ!」

すぐさま、反応した。
他の2人がいぶかっている時点で、もう駆け出していた。
だからこそ、他の二人が止める隙もなく、来た道を引き返していた。

その即断に、二人はつかの間、驚きで頭を空白にする。
しかし、我に帰るや「あのバカっ…!!」と同時に舌打ちした。
悲鳴の真偽を置いておくにしても、単独で機関銃の元へと駈けつけるのは無謀に過ぎる。
続いて、走り出そうとしたのは跡部。

「おい、待ちやがれ、滝口!」

しかし、麗美が跡部の手を引いて止めた。

「神崎、何を……」
「あたしの足じゃあんたに付いていけないわ。荷物になって悪いけど、手を引いて」

その言葉に、気付かされる。
滝口を捕まえてそれで終わり、ではないのだ。
その後、機関銃の殺人者から逃げる逃走ルートをきっちり確保しなければいけないし、その為に麗美を置き去りにしては意味がない。

「ちっ……余裕がねーから引きずって行くぞ、転ぶなよ!」
「それでいいわ。全速力で行って!」

跡部は、せめてもの備えにと滝口から譲り受けた『武器』を取り出し、逆の手で麗美の手をしっかりとつかんだ。




駆け戻りながら、『ああ、チームに亀裂をいれるようなことをやってるな』と思う。
引き返す前に、他の二人に是非を問うべきだった。
しかし、仲間の判断の正しさを信頼していたからこそ、『仲間に是非を問う』ことができなかった。
直前の会話で、『三人の安全を優先しよう』と再確認したこともある。
麗美たちはきっと危険だと反対してくれるし、その反論だってきっと適切なものだ。
けれど、相談して時間を費やす間に、助けに行くのが間に合わなくなってしまうかもしれない。
その可能性が、何よりも怖かった。
もちろん、それらを全て一瞬で考えたわけではなく、『何となく』の直感ではあったけれど。

ただ、ひとつ確信していることがある。
それは、たとえ反対されても『悲鳴をあげた女の子を助けに戻る』ことだけは変えなかっただろうということだ。

柄にもなく、命知らずで格好つけたことをしている。
三年B組オタク代表の、人を目を合わせて話すことさえ苦手だった滝口優一郎が、見ず知らずの女の子の為に命を張るのだから。
いったい、俺はどうしちゃったんだろう。
そう首をかしげて、答えはすぐに分かった。

それはきっと……『悲鳴をあげる少女』という状況が、守りたい女の子を連想させたからだ。
この殺し合いの舞台にも呼ばれている、本当はか弱くて優しいクラスメイト。
あの悲鳴の主が善意だと信じられなければ、彼女に信頼された自分が自分でなくなってしまう。
ここで命を張らなければ、『彼女を守ろう』と誓った自分が、嘘になる。

来た道の角を曲がりながら、ポケットに閉まっていた『武器』をその手に握りしめる。
その武器は手榴弾そっくりだけれど、殺傷力はない。
ティアー・ガス・グレネード……催涙弾である。
機関銃相手に、煙幕を張るぐらいはできるはず。殺傷を忌避する滝口にとっても、使いやすい武器だった。
もし襲われている現場に出くわせば、催涙弾を投げつけて場を混乱させ、悲鳴の主を連れて離脱する。
それが、滝口なりの作戦だった。
どうか手遅れじゃありませんようにと、それだけを祈りながら走る。
さっきまでいた民家が面する、元いた通りに戻って来た。

「うわ……」

通りを歩きながら、凄惨な破壊の跡に顔をしかめる。
少女の死体が見あたらなかったのは幸いだったが、機関銃の爪痕はありありと残されていた。
コンクリートの塀には銃痕が残され、三角ミラーのガラスは割れている。
弾丸のひとつが街灯にあたったらしく、色つきのガラス片が散乱していた。
まるで、四方八方に乱射したみたいだ。どういう風に人を襲ったら、こんなことになるのだろう。
警戒しつつも、そんなことを思案していた時。



ひょっこりと。



進行方向に見える左手の生け垣から、ツナギを着た桃髪の少女が飛びだした。
少女は、笑顔だった。

あれどっちの子だろう、あっさり不用心に出て来たってことはもしかして襲った方の子かな、いやでも、機関銃は持ってないし、襲われた方の子か、良かった――
その一瞬で、滝口はそんなことを一気に考えて、



パン、と軽い音がはじけた。




運動会で鳴らされるピストルみたいな、どこか聞きなれた音だった。
同時に、左胸の下あたりがカッと熱くなった。
あれ、と自分を見下ろせば、その熱くなったあたりが、どんどん赤く染まっていくところだった。
がくんと膝から力が抜けて、倒れこむ拍子に少女の立ち姿が視界におさまった。

少女は、機関銃を持っていなかった。
少女は、その手に拳銃を持っていた。
ツナギのポケットとかから、抜きとって撃てるような小型拳銃だった。

つまり、どういうことなのか。
アスファルトに体を打ち付けられて横ざまに倒れ、それより遅れて理解が追いつく。

そうか。
撃たれたのか。

失敗したな、とアスファルトに広がっていく血を見つめながら唇をかむ。
そりゃ、悲鳴が罠だというのも、考えないことはなかったけど。
けれど、出会いがしらに撃たれるというのは、あまりにもあっけなく、無力すぎる。
死ぬのも怖かったけれど、情けないという思いが勝った。


(相馬さん、ごめん……そばにいられ……なくて)


「滝口っ……!」

布を一枚隔てたようなかすむ聴覚に、仲間の声が届く。
その声に驚き、地面をみつめていた顔をかすかに起こそうとして、


再び、銃声が鼓膜を貫いた。


――同時にブラックアウトする、何もかも。




「滝口……うそ……」

全力疾走で荒い息の下から、麗美が震える声を出す。
駈けつけた時点で二人の目に飛び込んで来たのは、アスファルトに横たわって血の染みを広げる、滝口優一郎の小柄な姿だった。

「滝口っ……!」

駆け寄ろうとした跡部の呼びかけに、アスファルトに伏していた少年の顔が小さく動く。
焦点のぼやけた目で、仲間の姿を見定めようとして。

しかし、二発目の発砲音。
同時に、滝口の頭が跳ねた。
それきり。こめかみのあたりからも赤い液体が流れ出して、ぴくりとも動かなくなった。
血の広がる速さが、だいぶゆっくりになる。

撃ったのは、青いツナギ服を着た桃色の髪の少女。

罠だった。
悲鳴は、滝口のようなお人好しを呼び寄せる為のものだった。
表情を崩さずに撃ったということは、最初から撃つ予定だったということだろう。
つまり、この少女と『機関銃の女』は同一犯で、滝口のようなお人好しを呼び寄せる為に助けを求める悲鳴を上げて。

ほぼ正確にそう理解したことで、跡部の全身を激情が支配した。

「テメェ……今、誰を撃ったか分かってるのか!?
そいつはっ……マシンガンを持った殺人鬼がいるって分かってて助けに戻るような、そんな甘ちゃんだったんだぞ!」

少女は、とても穏やかな声で答える。

「ええ、そうなんでしょうね。だからとてもやりやすかったわ」
「……ッ!」

激昂のままに再度吠えようとした跡部。
しかし、左手を握る仲間の汗ばんだ手に、ふと冷静さを取り戻す。
握りしめた麗美の手からは、動揺による常ならざる拍動が伝わって来た。
怒りに身を任せてはいけない。今や二人も危険のただ中にいる。
少女のディパックの中には、十中八九マシンガンが秘蔵されている。
滝口を殺すのに使わなかったのは、滝口が手榴弾を持っていたからだろうか。
見た目だけではそれが催涙弾なのか爆弾なのか、誘爆するのかも判別できない。
時間を稼ぐ為にも、今度は落ちついて問いかけた。

「その様子だと、生き残りたくて殺してるクチじゃねーな。優勝の褒美目当てか?」
「答える必要はないわ」

銃口が麗美の頭部へと向けられた。
期待はしていなかったが、会話をする余地さえないらしい。
だからこそ跡部は、そんな少女をわざとらしく嘲笑した。

「ハッ……下種な真似までして『神の力』ってやつが欲しいのか。
眼力(インサイト)で見るまでもなく分かるぜ。狂人だってことがな。テメーは頭が狂ってる!」
「ちょ……跡部! 今どう駆け引きするか考えてたのに――」

注意を己に向ける為に、威厳をこめて豪然と罵倒する。

「何よ……」

どこかの言葉が、逆鱗に触れたらしい。
中途まで涼しい顔で聞き流していた少女が、あるタイミングでぎょろりと目を見開いた。

「私が狂ってる……?」

殺人機械めいていた人形のような顔に、激しい感情が宿る。
叫び、痛み、怒り、悪意。
その激変があまりにも俊烈で、めったにひるまない跡部でさえ気圧されそうになった。
こいつは、『何か』を心の底から憎悪している。それが伝わる。
そうでなければ、こんな目から血の涙を流しそうな顔はしない。

「狂ってるのは……私とユッキーが結ばれない、この世界の方だっ!」


――パン!


発砲音が、みたび轟いた。


――キン


しかし、甲高い金属音と共に、その射撃は失敗する。
跡部景吾は、その右手に持っていた『武器』を己の頭部にかかげ、致死の弾丸を弾いていた。
滝口と交換で手に入れたその『武器』は、一本のテニスラケット。
ただし、普通のラケットではない。素材が違っていた。
フレームがプラスチックではなく――鉛で作られていた。

人間技とは思えない一瞬の妙技に、少女は苛立ちをはっきりと顔に出す。

「お前、何をした?」
「俺様の眼力(インサイト)でテメーの動きを見極めた。それだけだ」


かつて跡部景吾と対戦した選手に、『マッハ』というサーブを操る越知月光がいた。
驚異的な長身を生かした『絶対に反応できないサーブ』として定評があり、打たれてから動いてもまず返せない超高速のサーブ。
しかし、跡部はその『対処できないサーブ』を、『跡部王国(キングダム)によって越知の動きを透視する』ことによって見事に返球したのである。
そして、正確な頭部狙いの銃撃に対処できたのも、同じ手を使ったまでのこと。
銃弾それ自体は回避不能な弾速でも、それを撃つ我妻由乃の動きを見切ることはできる。
指の筋肉の動き、顔の表情の動き、目線の動きから、引き金に指をかけるタイミングまで。
それらを透視することで、着弾点を読み切ったのだ。


「それより、『世界の方が狂ってる』って言うのはどういうことだ。
テメーにどんな辛いことがあったかはしらねーが、少なくとも滝口は見ず知らずのお前を助けに来たんだぞ。
そんな奴を殺しておきながら、テメーは悪くないと抜かすのか?」
「私を助けたいなんで知ったこっちゃない。
今さら助けなんて要らない。
誰も、必要な時に助けてくれなかったもの。
皆が、私から大切な人を取りあげた。
世界は私に優しくないのに、どうして私が世界に優しくしなくちゃいけないの?」

一人ごとのように語りながら、拳銃の代わりに日本刀を持ち出し、鞘から抜きはなつ。
狙撃を警戒するようなったのか、接近して二人ともを仕留める心づもりであるようだ。

跡部もまた、麗美から手を放して催涙弾を持ちかえていた。
滝口優一郎から譲り受けた一個であり、逃げる隙をつくるには充分な一打となる。

滝口の遺体を間にはさんで、二人は互いにそれぞれの牙を晒し合った。


最終更新:2012年06月22日 20:37