Symbolon
Symbolon(ギリシア語):割符。絵や文字を書いた1枚の板等を二つに割ったもの。別々の人間が片方ずつを所持し、それぞれの所有者がそれをつきあわせ、相互に身元を確認しあうのに用いる
『Symbolon』 §1・篠原俊彰 2004/04/17(土)
「そういえば篠原、昨日のあれどうだったんだ?」
「ん? 昨日のあれって?」
大学入学して出来た友人、田中と歩く昼下がり。ふとその田中がこんなことを言い出した。
「ラブレターもらって呼び出されてたやん。結局やっぱり行かなかったの?」
「行った。行かなきゃよかった」
「酷いブスとかデブとかキモオタ女とかだった?」
「うんにゃ。待ってたのが男だった」
「あー。そりゃお気の毒」
実に心の篭ってない慰めだったが、今はそれがありがたい。
「まあ、男に告白されたの、これが初めてって言うわけじゃないんだけどな」
「へえ……」
「引くなよ。僕は女が好きなんだ。男となんかと付き合う気はさらさらない」
「昔彼女と付き合ってたとか言ってたけど、ヨリ戻す気ないんか?」
「あれは女でも最悪だったな……。いい女とか知らない?」
「知ってたら休日にヤローと出かけるかよ。今からナンパでもしてみる?」
大学入って新しい彼女も作りたいし、それもありか……と思って周囲を見回してみる。
今まで自分でやったことはないけど、兄貴と一緒のときにナンパするのは見たことがある。
例えばナンパされて困ってる女の子とか狙い目……という兄の言葉を思い出す。
「まぁあんまり居ないけど」とも言ってたけど、その直後に成功させてたのは見事だった。
「ごめん、待たせちゃった?」
その“ナンパされて困ってる女の子”がいたので、田中に少し離れてもらって、その時のことを思い出しつつチャレンジ。『あんまり居ない』はずなのに、結構いるもんだろうか。
「篠原さん?!」
その女の子が、心底びっくりした表情で僕の名前を呼んだ。
見たこともないような、凄い美少女だった。
テレビや雑誌でしか見られないと思っていたような、いやそれ以上に可愛らしい素敵な少女。
自分の名前を呼んだのだから知り合いのはずなのに、前にどこかで見たことがあるような気がするのに、どうしても思い出せない。それがもどかしい。
いや、もどかしいと思う余裕がないくらい、僕はその少女にすっかり魅了されていた。
くりくりと動く大きな目が印象的な顔が可愛い。
つやつやと輝くピンク色の柔らかそうな唇と、そこから覗く白い歯が可愛い。
ピンクのヘアバンドをつけた、背中にかかるさらさらの黒い髪が可愛い。
その間から覗く、薄い肩から細い首にかけてのラインが可愛い。
全然世間ずれしていないことが分かる、女らしい細かい仕草が可愛い。
緊張しているのか少しかすれた、でも柔らかい感じの声が可愛い。
どこかぼうっとした様子の、はにかむような表情が可愛い。
「もしもしー?」
ふと気づくと、田中が僕の目のまん前で手を振っていた。
「えーと、ここはどこ? ナンパ男はどうなった?」
「そっからかよ」
田中が面白そうに笑う。
どうやらここは喫茶店のようで、さっきの女の子と向かい合う形で僕たちは席に座っていた。女の子の前にはパフェが、僕の前にはお冷が既に並んでいる。
「ナンパ男は相川ちゃんとお前が黙ったきり反応がないので呆れて去った。道の真ん中で突っ立ってるのも悪いから、近くのサ店に入った。オーケー?」
「オーケイ理解した。ごめん、完全に見とれてた」
「まあ、見とれたくなるくらい可愛いことは確かだけど、お前さすがにボケすぎ」
僕たちの言葉に、顔を真っ赤にして照れている様子も可愛い(もうええっちゅうねん)。
「相川ちゃん、ごめん自己紹介もっかいお願いできるかな」
「えっと、“あいかわれお”、高校1年です」
テーブルの上のペーパーナプキンに、端正な字で『相川玲央』、その近くに『田中純也』『シノハラトシアキ』と汚い字で書きなぐられている。
“あいかわれお”ってこんな字を書くのかとか、綺麗な字だとか、僕の名前は紹介済みかとか、漢字分からなかったのかとか思いつつ、『篠原俊彰』と漢字で記入。
「篠原さんのことは前々から知ってて、遠くから見てるだけだったけど、でもずっと大好きで、今こうやってお話できるとか夢のようです」
「お前、彼女のこと知ってた?」
「前どっかで見たことがあるような気がするけど、思い出せないや。……でも、ありがとう。僕もすっごい嬉しい」
「でも意外。彼女いたっていうし、顔いいし、篠原ってもっと女慣れしてると思ってた」
「付き合ってる方、いるんですか?」
「もう半年くらい前に別れたきりかな。今はフリー」
そう言ったあと、勇気を出して付け加える。
「もし相川さんがOKなら、彼女になってくれないかな」
そう言ったあと、ほんの少し間があって。
相川さんは顔を真っ赤にしたあと、突然ぽろぽろと涙を流して泣き始めた。
「ごめん、やっぱ嫌だった?」
「いえ、そうじゃなくって……私、とっても嬉しくて……嬉しくて……」
『彼女を泣かせた悪い男め』という視線を全身に感じつつ、泣き止むのを待つことしばし。
ようやく彼女が泣き止んでくれた。
「ごめんなさい。突然泣いたりしちゃって……あれ? 田中さんは」
「あいつなら、気を利かせて退散してった」
「田中さん、とってもいい方ですね」
「そう思うなら、今度誰か、女友達紹介してやって欲しいな」
伝票ちゃっかり置いていったけどなー、という部分は口にしないでおくことにした。
中学時代につきあっていた1人目、高校2年ごろの2人目、高校3年前半の3人目の彼女に続く、4人目の“彼女”。
田中の言うとおり、僕は自分のことを、もっと『女慣れ』している存在だと思っていた。
童貞というわけでもない。
でも、彼女と一緒にいると、彼女のことを考えると、ドキドキが止まらない。
こんなことは初めてで、なんだか自分でもおかしいくらいだ。
タイプとしては1人目の彼女に似ている。一番ウマがあって仲が良かったけど、中学卒業と同時に親の転勤で遠距離になり、そのまま疎遠になってしまったのが残念だった。
もう連絡先も分からないけど、今元気にしているのだろうか。
2人目は、四つ股かけられた挙句他の男の子どもを妊娠してサヨナラ、3人目は……あまり思い出すこともしたくない。
最初の彼女と別れたあとは総じて女運が悪く、やっぱり最初の子を大事にしておくべきだったのか──とずっと悔やんでいたけど、こういう逆転があるなら悪くない。
相川さんのことは、ずっと大事にしていきたい、そう心に誓う。
もう、悔やむことのないように。
「ハンカチありがとうございます。洗ってお返ししますね」
トイレに顔を洗いに行ってきた彼女が戻ってきた。
ゆったりとした白いワンピースに淡いピンクのカーディガン。
化粧をほとんど落として、多分リップだけを塗りなおしたのだろうけど、キメの細かい白い肌が光り輝くようだ。
もとから形のよい眉は手入れされていない素の状態だったけど、前カノの極端なメイクにうんざりしていただけに、今はそれも好意材料。
「あの……篠原さん、私どこか変でしょうか?」
席にも着かずに不安そうに尋ねる彼女。我に返って着席を促す。
「いや、見とれてた。綺麗で、可愛くて、こんな子と一緒にいれるとか夢みたいだって。すっぴんでも凄い可愛いね」
「あ、ありがとうございます。篠原さんもすごく格好よくて……私も一緒にいれて夢みたいです」
「“篠原さん”ってのやめようか。僕のことは俊彰、って呼んでくれると嬉しい」
「俊彰……俊彰……うーん、3歳も年上ですし、“俊彰さん”だと駄目ですか?」
「じゃあそれで。僕のほうも“玲央ちゃん”って呼ぼう」
「俊彰さん……俊彰さん……俊彰さん……」
『玲央ちゃん』の可愛い声が僕の名前を呼びかける。なんだかそれだけで、心が温かいもので溢れてくるような感じがしてしまう。
「玲央ちゃん、玲央ちゃん、玲央ちゃん」
僕もその言葉を口で転がす。
玲央、レオ、Leo、Lion、獅子。
その言葉は可愛らしい少女に似合わない印象があったけれども、実際に口にしてみると、なんだかその響きはとてもフィットするように思えた。
「ウェイトレスさん、呆れてましたね」
そう言って玲央ちゃんが吹き出す。笑顔も可愛い。
「まあ二人してブツブツ名前を繰り返してるとね」
僕も苦笑しながら、出された紅茶を口にする。
「そういえば玲央ちゃん、これから何か用事あるの?」
「今日の用事は、俊彰さんに会って、できれば告白すること、です」
「……えぇと、つまりもうフリーってことかな?」
「フリーもフリー、大フリーです」
大真面目に頷く様子がおかしくて、少し笑ってしまう。
「じゃあ、今日は色々トークしてみるってとこで。……そうだ。趣味とかある?」
「……うわ、もう6時か」
ふと時計を見て驚く。かれこれ4時間くらい、紅茶3杯で粘りに粘っていたことになる。
『深窓の令嬢』のような、あるいは『お人形さん』のような、女の子女の子した可憐な外見からは意外だったけど、結構少年向けの漫画やゲームに関する知識が豊富で、趣味も近くて、会話して楽しすぎて完全に時間を忘れていた。
気に入っていたマイナーゲームについて、あれだけ熱く語れたのは多分初めてだ。
けど、一番目を輝かせて聞いていたのが、僕の大学での専攻とか講義の内容を喋っていたときというのが最も意外だったかもしれない。
まだガイダンス中で、一般教養ばかりで退屈だと思っていた授業なのに、彼女の入れる上手な相槌を聞きながら説明していると、なんだかワクワクしている自分がいた。
「最後らへん、なんか僕ばっかり喋ってる感じになってごめんね」
「いえ、すっっっっっごく面白かったです」
「良かった。僕は帰らないとまずい時間なんだけど、……明日大丈夫かな? ……もっとずっと、一緒にいたい。話していたい。声を聞きいていたい」
自分の口から思わずだだ漏れした本心に、二人して赤面してしまう。
「明日は……はい。大丈夫です」
待ち合わせ場所と時間を決めて、メアドを交換して(携帯の番号は何故か教えてくれなかった)、田中分ふくめて3人分の会計を支払って店を出る。
大きく伸びをして深呼吸する。
冷えた空気がおいしかった。
椅子に座っていたときはもっと小柄な印象だったけど、横に並んでみるとそうでもない。
178cmの僕と並んで、ちょうど「男と女の身長差」くらいだろうか。
「……じゃあ、今日はお別れですかね」
名残惜しそうに呟く彼女を、「ちょっと待って」とプリクラに誘う。
「2人一緒の写真が欲しいけど、うちの携帯、ちょっと古くてカメラ付いてないからなあ」
「メイクも落ちて恥ずかしいし、今日はなしでまた明日にしませんか?」
「いや、すっぴんでも十分可愛いから大丈夫。それに今日の記念が欲しいんだ。明日は明日でまた撮ろうよ」
「俊彰さん、慣れてるんですね。私初めてだからよく分からなくて」
「僕もしばらくやってなかったから、すっかり浦島。……もう1枚、いいかな?」
コインを再度投入して2枚目の撮影カウントの開始後、肩を引き寄せ、指先で顎を少し上向かせる。一瞬戸惑ったようだけど、僕の意図に気づいたのかそのまままぶたを閉じる。
ふんわりとした衣装で誤魔化されていたけど、思っていたよりずっと身体は華奢だった。
肩は薄く、肩幅も狭くてすっぽりと僕の体に収まりそうだ。
細いおとがいに触れた指先の伝える、繊細なラインと肌触りが気持ちいい。
長い睫が落とす影と、滑らかな頬と、つややかな唇に見とれていたかったけど、機械の発する音声に促されるまま、僕自身も目を閉じて唇同士を重ね合わせる。
彼女の身体から漂う、柑橘系の甘い香りにくらくらする。
腕が伝えてくれる、ほっそりとして、でも柔らかくて温かい感触にドキドキする。
女の子の唇がこんなにも滑らかで、柔らかくて、しっとりとしていて、プルプルとしていて、そして甘いものだとは知らなかった。
目で見た姿も好きだったけど、目を閉じた今はっきりと分かる。
五感のすべてが伝えてくれる、この子の存在すべてが大好きなのだと。大切なのだと。
相川玲央という女の子に巡りあえて、しかもその子を「彼女」と呼べる幸運、あるいは運命に対して僕は大声で「ありがとう!」と叫びたい気分になった。
このままこうやって永遠の時間を過ごしたかったけれども、機械に促されて身体を離す。
とてもとてもとても名残惜しいけれども、でもこれ以上続けていたら理性が完全に吹っ飛んでいたかもしれない。ズボンの前がひどく窮屈だった。
「ファーストキスってレモンの味って言いますけど、もっとずっと甘いものなんですね」
「僕はファーストじゃないけど、こんなに甘いキスは初めて」
帰宅して夕食後、部屋に篭って大学の教科書を引っ張り出してみる。
妖精のような愛らしい姿、鈴を振るような優しい声、魅力的な芳香、唇の味わい、ほっそりした身体の感触を思い出して自慰にでも耽りたかった。
でも、それ以上に彼女の興味のある話題をもっともっと提供したくもあった。
「男なんて、本当に単純」昔の彼女の言葉が耳に蘇るけど、今は心底同意する。
ふと気がつくと、携帯にメールの着信が入っていた。気づかないくらい没頭していたのかと自分でもおかしい。
「a_leo@...」という、アドレスを見るだけで心が踊るのを感じる。彼女から届いたメールの内容を見たあと、電話を入れた。
「お、篠原か? 今日はどうだった?」
「ばっちり。田中、気を利かせてくれてありがとな。で、明日は暇か?」
「用事はあるけど、あけられないことはないな。どんな話?」
『Symbolon』 §2・相川祥子 2004/04/17(土)
待ちわびていたチャイムが鳴り、わたしは2階の自分の部屋から半分転がるように階段を駆け下りた。
ドアを開けた瞬間、その『女の子』がわたしに抱きついてくる。
「祥子さん、ありがとう! ありがとう!」
「……ごめん、まず靴を脱いでわたしの部屋に入ろうね?」
「はい、どうぞ」
持ってきたお茶を、“少女”の前に置く。
「ありがとうございます」
「……で、うまく行ったんだよね?」
何があったのかメイクが完全に落ちてしまっているのが不安材料だけど、玄関口の様子からいっても、まあこれは間違いないところだろう。
「もう、色々ありすぎて何から言えばいいのか……」
「告白はできたんだよね?」
「うん、『ずっと好きでした』って告白したら、『嬉しいよ』って。『彼女になってくれないか』って。“れおちゃん”って何度も私の名前を呼んでくれて……」
そう言っていきなり涙を目からぽろぽろ流し出す。
「私嬉しくて泣いちゃったんだけど、すっとハンカチ差し出してくれて、そのまま呆れもせずに優しく見守ってくれて」
ごめん、わたしは少し呆れています。
いつも感情を表に出さない子だと思っていたけど、本質はこんなに良く泣く子だったのか。
涙声のまま『俊彰さん』のノロケ話を延々と語ったあと、ようやく落ち着いたらしくて、差し出したティッシュで目をぬぐい、鼻をかむ。
「明日もこの格好するのお願いできますか?」
「ん、いいけど。女装して街を歩くのが癖になっちゃったの?」
「もう、祥子さん!」
白いコットンのワンピースに、シェルピンクのニットのカーディガンを合わせた衣装。
身体は驚くくらい華奢で、スカートから覗く細い脚は、女のわたしでも思わず見とれたくなるくらい綺麗。
ほとんど化粧のない、可愛らしい小さな顔はまさしく『恋する乙女』そのもので、
でもそれなのに、この子は実は男だったりするのだ。
“彼”=朝島玲雄は、わたし相川祥子の小学校からの友人、朝島菜々華(菜々ちゃん)の弟にあたる少年だ。
はじめ菜々ちゃんの家で彼のことを見かけたとき、すっかり彼のことを菜々ちゃんの妹だと信じていた。
(可愛いのに、男の子っぽい格好が好きな子なんだな。でも成長したら凄い美人になりそう)
そう思っていた子が、いきなり中学入学して学ランを着ていたときの衝撃は大きかった。
菜々ちゃんと一緒になって、「玲雄君って可愛いねえ。女の子の服着てみない?」と誘いをかけたことが何度あったか数知れない。もっともその都度断られていたが。
「女装する必要があったら、わたしに声をかけてよ。喜んで手伝ってあげる」
その言葉がまさか実現するとは、言った自分でも考えていなかったわけだけれども。
「明日、10時にまた会って、俊彰さんとデートする約束しちゃったので」
「なるほど、それでまた女装か。もちろん手伝うよ。でも、菜々ちゃんも女装させたがってたしそっちにお願いしたほうが早くない?」
「まだそこまでの決心はつかないです。親にばれるのも怖いですし」
「そっか……けどわたしもその“俊彰さん”に興味沸いてきたな。ついて行っていい?」
昨日の晩にわたしに相談の電話を入れてくるまで、玲雄くんは女装するのを極端なくらいに嫌がる少年だった。
今日の朝、初めての女装をしたときも、なんだかとても不安がっているようだった。
男姿でも女の子と間違われる女顔の持ち主とはいえ、メイクする前の状態だとやっぱり『女装した男の子』っぽい感じは否めなかった。
それが今は、まるで生まれたときから女であるかのように、ごくごく自然に“女の子”になってしまっている。
ここまでの変化をもたらした人物に、興味(あるいは嫉妬)がないと言えば嘘になる。
「取らないで下さいよ」
「大丈夫。邪魔もしないし。ちょっと見て、できればちょっと話すだけだから」
「話す……とちょっとまずいかも」
「まずいって何が?」
「いや、実は私、『相川玲央』って名乗っちゃったから」
そう言って、女装少年は事情を説明する。
昨日彼に渡したラブレターには『朝島』とだけ名前を書いておいたこと、今の自分と昨日告白した少年が同一人物と“俊彰さん”が気づいたかどうか不安だったので、つい私の苗字を借りて『相川玲雄』──ではなくて『相川玲央』と名乗ったこと。
「じゃあ、自分が男ってことも言ってないんだ?」
わたしの問いかけにこくんと頷く。
「じゃあ相川祥子と相川玲央は、血の繋がってない姉妹ってことで、最初だけ付き添うね」
「……祥子さん、恋人いませんよね?」
「そこは『お姉ちゃん』って呼んでね。恋人はいないよ。彼氏イナイ歴絶賛18年」
「田中さんて方がいて……」
明日の打ち合わせや、着る服の準備まで済ませて、漸く男姿に戻る。
化粧をきれいに落とし、エクステも外して、男の服に袖を通す。
さっきまでの美少女はどこにもいなくて、そこには女顔であるけど普通の男の子が立っていた。
『本来の自分』に戻ったはずなのに、鏡に映る自分の姿を見る目が、酷く辛そうに見えるのはなぜだろうか。
「今日はありがとうございました」
そう言って頭を深く下げて家を出るときの声も、先程までの女の子らしい声とは違ってすこし低くて、聞き慣れたいつもの『玲雄くん』の声のはずなのに、とても悲しそうに響いた。
『Symbolon』 §3・田中純也 2004/04/18(日)
「田中、やっと来たか」
待ち合わせ時間の10分前に到着すると、そこにはもう既に篠原と、記憶の通りに超可愛い相川ちゃんと、もう一人知らない女性が待っていた。
「申し訳ござらん。かくなる上は、この腹かっさばいて御詫びを!!」
「じゃあ移動するか」
女性2人はクスクス笑ってくれたけど、篠原は安定のスルー力をみせて歩き出す。
「で、どこ行くつもりなんだ?」
「とりあえず喫茶店で会話して昼飯どっかで取って、今日は天気いいし、公園でのんびり過ごそうかなと思ってたけど、人数増えたからどうするかな」
「準備しておいて良かったわ。割引券あるからまずはカラオケ行こや」
「歌、何か指定する?」
「いや、まず自己紹介と色々喋ってからがいいかなと。相川ちゃんは昨日なんかどたばたしてすいません。そちらのお嬢様は初めまして、田中純也と申します。以降お見知りおきを」
日曜朝のガラガラのカラオケ。席に腰掛けて、メニューを眺めながらそんな会話。
「田中さんて本当、玲央の言うとおりの人ね」
まだ名前を知らない女の人が、そう言ってニヤニヤと笑った。
「へぇ。ちょっと怖いな。どんな人と思われてたんだろ」
「猿みたいな可愛い顔で、面白くて、気が効いて、親切で」ここで一旦言葉を切って、
「自分が恋人になろうとは思わないけど、でも知り合いには紹介したくなる人」
「しょ……お姉ちゃん! 私そんなこと言ってない」
俺の悲しそうな顔と、相川さんの抗議を受けて大笑いしてたり。
「あと紹介済ませてないのわたしだけか。相川祥子、玲央の姉です。高卒で働き始めたばっかだから、年は田中さんと一緒かな。玲央と紛らわしいから、祥子って呼んでいいよ」
「社会人かー。なんだかソンケーしちゃうな」
「大学入る頭がなかっただけだけどね」
「いやいやいやいや、親のスネをかじってる俺らに比べると立派です」
並んで座っていると、おかしなくらい対比的な2人だった。
体が細くて色が白くて、天使のような印象の相川ちゃんに比べて、太っているってほどではないけどしっかりして『肝っ玉母ちゃん』のような、生活感たっぷりな印象。
ついでに言えば少年のように胸のない相川ちゃんと違って、EかFカップはありそうだ。
お人形さんのように可愛いらしい容貌の相川ちゃんとこれまた対照的に、美人という感じではない。でも快活な表情の与える印象は意外なほどにチャーミングだった。
「玲央と似てないな、って思ってるでしょう」
「いやあ、そんなことは……すいません正直あります」
「姉妹って言っても血は繋がってないからねー。そこら辺は詮索しないで欲しいけど」
やってきたコーヒーにミルクとシュガーを入れてかき混ぜながら、ヘビィそうな事情を気軽な感じで言う祥子さん。
「そろそろ歌おっか」
と俺が言ったのは、1時間くらい適当にだべったあとだった。皆同意っぽいので、適当に歌い慣れた曲を入力。続いて祥子さんも入力する。
「歌うまいねえ」
篠原が有名なロックを熱唱して歌い終わったところで、皆で感心したように賞賛。
「次、玲央ちゃんいきなよ」
「私、ぜんっぜん歌下手なんでいいです」
「下手でも全然大丈夫だって。さあ選んで選んで」
「私、おトイレ行ってきますね」
逃げ出すように部屋を出た玲央ちゃんの後ろ姿を見送って、一瞬部屋が静まる。
「……ああそうだ、今のうちがいいか」
そう言って祥子さんは財布から2万円取り出し、何か考え込んでいた篠原に差し出した。
「なんですかこの大金」
「玲央って、妙にお金もらって使うの嫌がっててさ。『“家族”なんだから当たり前でしょ』って言っても聞かなくて。今着てるのもわたしのお下がりで正直合ってないし。もしかしたら、『彼からのプレゼント』で新しい服を買って貰うのなら大丈夫かな、って」
「そんな、悪いですよ」
「お願い! 人助けだと思って」
そう言って頭を下げて手を合わせる。篠原は色々考えていたようだけど、「ありがとうございます」と深くお礼をしながら結局受け取った。
「ありがとう。似合う服見つけてあげてね。金が余ったら、デートの軍資金にして」
「給料日前だから、お金カツカツでしょうに……すいません、ありがたく使わせて頂きます」
玲央ちゃんが部屋に戻ってきたのは、俺が歌っている最中だった。
カタログ本を見もせずに手拍子だけしているので歌はやっぱ期待薄なのかなあ、と思っていたけど、篠原が何事か囁くと、玲央ちゃんは顔を真っ赤にしたあと冊子をめくって曲を入力。
やがて玲央ちゃんの順番が回ってきて、最初おずおずと、徐々に伸びやかに歌いはじめる。
女性ボーカルのキーの高い、バラード調の優しい旋律に、玲央ちゃんの声が合わさる。
「お粗末さまでした」
歌い終わって頭をぺこりと下げる彼女に、少し遅れて全員で大きな拍手。
「これで『歌が下手』ってありえないってば」
「十分プロ狙えるレベルだよ。無茶苦茶声きれいだし、音感いいし。確かにちょっと歌い慣れてないところはあったけど、でもすぐ良くなりそう」
「篠原も呆然としてないで、なんか言ってやれよ」
「……なんかね。恥ずかしいけど歌ってる最中、羽根がとても綺麗だった。なんでか知らないけど、頭の中に天使みたいな羽根のイメージが浮かんで、それがどうしても離れなくて」
「凄いこと言うねえ」
「でも、わたしも分かる分かる。『天使の歌声』って、本当にそんな感じだった」
「……歌うのって、気持ちいいんですね。私、初めて知りました」
「もっと歌って歌って。次、篠原とデュエット曲なんていいんじゃない?」
2時間のところを1時間延長して、その間ほとんど『玲央・オン・ステージ』状態だったカラオケを出て、少し柔軟体操をしてみたりする。
「なんか私ばっかり占領しちゃってごめんなさい。お金も出してもらっちゃって」
「いやいやいやいや。あれは金払ってでも聴く価値が十分あったよ」
「貴女だけまだ高校生なんだから、お金のことは気にしないで」
『玲央・オン・ステージ』のあとは、『玲央・ファッション・ショウ』の開催だった。
とにかく今日は玲央ちゃん中心に回る日らしい。
祥子さんお奨めの店(確かに安めで美味しかった)で遅めのランチを取ったあと、駅前の服屋を適当に回って試着しまくる。
俺たち3人で(店によっては店員さんも)寄ってたかって玲央ちゃんに似合う服を探して、なんだか大騒ぎ。
「……あの、本当にこれ着ないと駄目でしょうか?」
と最初は恥ずかしがっていた玲央ちゃんも、
「お客さん、凄くスタイルよろしいですね。こちらとかいかがでしょう」
「玲央ちゃん、脚すっごく綺麗なんだねえ。細くて長くて形いいし。これ隠すの勿体無いよ」
「ウエスト細くていいなあ。位置も高くて見事にくびれてるし、お肉全然つまめない」
と絶賛の嵐を浴びて段々とこなれてきたようで、
「結局これが一番ですね。肌触りも素敵ですし」
最終的には、くるくる回りながら鏡の前で自分の姿を映してみてご満悦の様子。
会計を済ませて、結構時間のかかった服屋巡りを終えて店を出る。
「俊彰さん、これ本当に良かったんですか?」
最終的に選択した、篠原推薦の足元までの長い白いワンピースの裾(購入したものをそのまま着て出てきた)をつまみながら不安げに玲央ちゃんが尋ねる。
一緒に購入した薄緑の上着を合わせたその姿は、男なら誰しも見とれたくなるくらい可憐で愛らしかった。
あの魅惑的な脚とか完全に隠れているのが、俺としては残念なところだったけれども。
「うん、僕からの初プレゼント。気に入ってくれると嬉しいな」
「はいっ、すっごく気にいりました! 家宝にします!」
「……じゃあ、そろそろ俺は退散するか」
「ああ、それじゃわたしもここら辺で退散で。荷物は持って帰ってあげるね」
朝着てきた服を入れた紙袋を、そう言って祥子さんは玲央ちゃんから受け取る。
「もう十分以上にお邪魔しちゃったしね。あとは2人で」
こっちに手を振って何度も振り返りながら立ち去る2人。
腕を組んでとても仲が良さそうで、「邪魔しすぎて悪かったな」と思ってみたり。
「でも本当、凄い絵になる、超美男美女カップルねえ」
彼らの後姿を見てそう呟く祥子さんは、言葉と裏腹にとても辛そうな感じがした。
「……祥子さん、できれば俺の恋人になってもらえませんか?」
「余りモノは余りモノ同士? そうねえ。……やっぱり恋人は無理かな」
かなり本気で告白した俺の言葉を、一蹴されて凹んでみる。
「でも、友だち同士ということでの交際ならいいよ? わりと気に入ったかも」
「では謹んでお友だちから始めさせていただきます」
『Symbolon』 §4・相川玲央 2004/04/18(日)
「桜、さすがに散っちゃってるね」
「私的には、葉桜のほうが好きだからちょうどいい感じかも」
2人と別れたあと、篠原さんの自転車の後ろに乗せられて公園へ。
桜で有名な広場は、でも全部花が散った後のようだった。
芽吹き始めた新緑の輝きに目を細める。
「来年は一緒に桜が咲いてるときに一緒に来たいな。桜色の服も似合いそうだし、咲いた桜の下にいると、きっと桜の精みたいに見えそうな気がする」
「来年かぁ……そのときまで一緒に居られたらいいんだけど」
「居れるよ。きっと。来年も、再来年も。十年後も二十年後でも、五十年後でも」
そのとき、少し強い風が吹く。長いスカートが足に絡まって倒れかける。
裾が長くて歩きにくいとは思っていたけど、こんな伏兵が待っていたのか。
俊彰さんが咄嗟に抱きかかえてくれなかったら、本当に倒れていたかも。
「大丈夫?」
「ありがとう。こんな長いスカート初めてだから、慣れてなくてごめんね」
本当は、慣れてないのは『長いスカート』じゃなくて『スカート』そのものだけど。
「それは悪いことしちゃったかな。もっと短いの選ぶべきだったか」
「ううん、気にしないで。これ凄く気に入ったから。私も色々試して慣れていきたかったし」
「……ここら辺でいいか」
それから少し歩いたあと、そう言って俊彰さんが私の手を引っ張って芝生に入っていってどっかりと芝生の上にそのまま座り込む。
「レジャーシート持ってくるべきだったかな。大事なワンピースが汚れるから私座れない」
「いや、玲央ちゃんはここに座って」
「えぇ?」
「ちょっと、これ恥ずかしいかも」
結局、押し切られて座っている私。
どこにかというと、彼の中だ。
彼の脚の付け根にお尻を乗せて、彼の胸に背中を預けて。
俊彰さんの意外なくらいに引き締まった身体と、温かい体温、そして彼自身も緊張しているのだろう、激しい胸の鼓動が、くっつけた背中に直接伝わってくる。
私の心臓も、それが感染したかのようにバクバクしっぱなしだ。
「重くないですか?」
「いや全然。玲央ちゃん凄い軽くてびっくり。もう少し体重あったほうがいいかも」
そう言って優しく私の身体を両腕で抱きしめてくる。私の肩幅が彼の胸の幅より小さくて、私の耳の辺りに彼の口許が来る感じだから、俊彰さんの身体にすっぽりと包まれた状態。
これは恥ずかしい。
「今日は、兄貴からデジカメ借りて来たんだ」
そう言って嬉しそうに後ろから手を伸ばし、2人の姿を撮影。
デジカメのモニタに映った姿で散々笑いあったあと、俊彰さんがふと呟く。
「男と女って、こんなにも違うもんなんだね」
途端、何か冷や水を浴びせられたような感じがして、体がびくんと硬直してしまう。
一瞬の後ようやく、今背筋を走った恐怖心の正体に思い当たる。買い物の途中あたりから意識の外だったけど、私の身体は男のもので、こう密着していたらばれてしまうのも当然か。
そんな考えが頭の中をグルグルしている私の手を取り、目の高さまで掲げる。
「なんでこんなに綺麗なんだろう。白くて、すべすべで、小さくて、ほっそりしてて。僕の手とは大違いだ」
「ふぇぇぇ?」
(私が男だって、分かってない……? 女の子と思って、それで綺麗だと言ってくれてる?)
びっくりして、なんだか変な声が出てしまって、自分でも驚く。
「いや、でも俊彰さんの手って凄い素敵だと思います。指が長くて、でも力強くて」
変にほっとして、咄嗟になにか返事をしようとして、ついそんなことまで口走ってしまう。
──けれどもそれは本心であって。
男性の手に『異性』を感じてドキドキしている自分が、不思議に思える。
「玲央ちゃんの身体、いい匂いがして凄く柔らかくて。でもブニブニしてなくてきっちり締まってて。こうして抱いててすっごく気持ちいい」
「でも私、胸とかまっ平らですし」
「玲央ちゃん、まだ高校1年だったよね? それじゃあ、これから胸も大きくなっていくよ。仮に大きくならなくても、玲央ちゃんの胸ならどんなのでも大好きだから」
「……なんなのかな、このバカップル会話は」
揺れる心を誤魔化すための私の呟きに、2人して大笑いしてみたり。
「いや、でもいいじゃないバカップル。玲央ちゃん相手なら大歓迎。恋人同士でやること全部やりとげてしまいたいよ」
「俊彰さんって、以前にも恋人いたんですよね」
(前の彼女にも、こんなことを言っていたのだろうか)
場違いな嫉妬心がちくりとうずく。
「恋人はいた。でも、恋をするのは玲央ちゃんが最初だし、そして最後だと思う。他の女の子と付き合ってたとき、こんなにドキドキしたことなかった。相手のことを考えて、夜も眠れない気持ちになったことはなかった。こんな素敵な、世界一の女の子を自分の彼女と呼べるなんて、僕はなんて幸せものなんだと思う」
「私、全然そんなんじゃないですよ。なんで俊彰さんが私のことをそんなに言ってくれるか不思議なくらい」
「玲央ちゃん、何故かは分からないけど、とても不安がってるよね。自分の魅力からあえて目を背けたがってるみたいにすら見える」
「そう……なのかな」
「うん。でも今日のカラオケと買い物で結構変わったと思う。田中と祥子さんにはマジ感謝してる。玲央ちゃんは本当に、本当に素敵な女の子なんだから」
「……」
「玲央ちゃんがナンパ相手に困ってるように見えて、助けたいと思って声をかけた自分に感謝したいわ」
あのナンパの人は顔だけは良かったけどなんだか気持ち悪くて、凄くしつこくて、本気で困っていたのだ。
そのとき、“篠原さん”が現れて、声をかけて、助けてくれた驚きと喜びといったら。
「あれが確か昨日の昼だっけ。もっと昔のことのように感じる。一昨日まで僕、どうやって生きてたんだろうな。それまで玲央ちゃんなしで生活してたとか信じられない」
私の耳のすぐそばにある口で、低く響く声で言葉を続ける俊彰さん。
私の顔は今どんな状態だろう。お互い顔を見られないこの体勢でよかったと思う。
なんだから体がぽかぽかして、ふわふわした感じがするのは春の陽気のせい。
顔と頭がのぼせたように温かく感じるのは、きっと春の陽気のせい。
「あの瞬間、もう完全に一目惚れしていて。外見からして僕の理想どおり、というより理想のはるかに上を行く女の子で、顔とか可愛くて綺麗でもろに僕の好みで。……脚も凄い綺麗で良かったよ。今日の試着のとき、実は僕鼻血吹きそうで大変だった。“他の男に見られたくない”って思って、で一生懸命長いスカート探したけど、似合ってて良かった。脚は2人きりのときに、もっとしっかり見せて欲しいな」
「ふぁぅぅぅぅぅぅぅ」
さっきからなんか変な声が漏れっぱなしだ。脳からもなんか変な汁が出ている気がする。
「声も高くて澄んでて柔らかくて。歌声とかとっても素敵だった。デュエットしてて凄く気持ちよかった。またカラオケ行こうね。今度は録音取っておきたいな。夜寝るときとか朝起きたときに玲央ちゃんの歌声聴けたら最高だろうなあ」
もう、ダメ。もう、ダメ。
恥ずかしさでどうにかなってしまいそう。
手足をばたつかせて彼の体から脱出しようと思っても力が入らず、「もうやめて」って言おうと思ったら、代わりに
「ふぁぅにゅにゃにぇにぇっ」
という意味不明な音が出るばかり。
「ん? 何? 玲央ちゃん」
私のウエストを手で抱えて少し居持ち上げ、体を少し回転させて横座りに近い状態に。彼の鼓動と体温が感じられなくなって、少し寂しく感じてしまう。
「やっぱりウエスト凄く細いなあ。僕と同じ内臓が入ってるって信じられないくらいだ」
煮過ぎて煮崩れしまくった南瓜のように、今、私の体を箸で突いたら崩れてしまうんじゃないだろうか。そんな感じ。
「……勢いに任せて色々言っちゃって訳が分からなくなっててごめん。要するに、玲央ちゃんはもっと自分に自信を持っていいし、自信を持つべきだ、ってこと」
(でも。私は大きな嘘をついていて、今でも俊彰さんを騙し続けているのに)
彼の顔をまともに見ることもできず、地面を眺め続ける私の視界に、急に俊彰さんの顔がアップで迫ってきた。
一瞬何が起きたのか把握できず、反応もできない私の唇に彼の唇が重なる。
嬉しい、嬉しい、嬉しい。
頭が、心が理解するよりも早く、私のからだ全部から喜びの声が上がるのを感じる。
今まで気づかなかった。いや、気づかないふりをしていただけかも知れない。
この体のほてりは、力が抜ける感覚は、恥ずかしさよりもむしろ、大好きな俊彰さんから、『私』という存在を求められる、認められる“喜び”から来るものだということを。
唇が離れて、大きな息をつき、ほんの少しだけ冷静さが戻ってくる。
今の体勢、俊彰さんが背中をかなり曲げてて厳しそうだ。
背筋をそらし、微かに顔を上に向けて、そして彼の頭の後ろに両手を回して目を瞑る。
再度重なる、二人の唇。
「ちゅっ、ちゅ、ぷちゅ、ちゅぴっ、ちゅぱっ」
ファーストキスのときとは違う、時に激しく、時に優しい彼との口付け。
嬉しい! 嬉しい! 嬉しい!
彼の温かい息遣い。夕方に入りかけて少し伸びた髭のちくちくする感覚。ジーンズの下で堅くなり始めている彼のあそこ。密着させた体が伝える激しい鼓動。
歌を奏でる鳥たちの声、頬を優しくなでる風の感覚までが、私に喜びを運んでくれる。
何よりも、『自分自身が、嬉しい』と思っていることを誤魔化さずにすむ、自分が嬉しいと思っていることを認めてしまってもいいんだという、そのことが一番嬉しい。
長いキスが漸く終わり、白い橋が二人の唇の間で光り輝いて、そして落ちたあとも二人でじっと顔を見つめあって。
「うん、いい顔になった。本当、玲央ちゃんってどんどん綺麗になってくんだね」
「ねえ、俊彰さん。昨日の話の続きを聞かせて」
しばらく沈黙が流れたあと、私は満たされた気持ちのまま、彼におねだりする。
場違いかもしれないけど、私の好きな話を。私の好きな、俊彰さんの瞳の輝きを。
「世界が、宇宙がどんなに不思議で溢れてるか。人が分かってないことがどんなに沢山あるのかってことを」
来週の週末と、ゴールデンウィーク遊び倒す約束をして、手を振りながらバスに乗る。
幸せな幸せな、魔法の時間はおしまい。
(来年も、再来年も。十年後も二十年後でも、五十年後でも)
俊彰さんの言葉を、辛さとともに思い出す。
今日だって随分危ない場面は多かった。私が男だとばれてないのが奇跡なくらい。
今はいい。クラスの皆と違って髭も脛毛も生えてないし、声変わりだってまだだ。
でも私が「へま」をしなかったとしても、高校に入ったし、幾らなんでも変化が訪れる。
そうなるとこの幸福な時間は、私の掌から零れ落ちてなくなってしまう。
未来のことは考えるまい。今はこの時間を楽しむだけだ。そう自分に言い聞かせても、どうしようもない怖れが、幸せの余韻で一色だった私の心を侵食してきていた。
『Symbolon』 §5・篠原俊彰 2004/05/15(土)
「お邪魔します」
「男所帯でむさくてごめんね。さあ、上がって」
玲央ちゃん三昧でまさしく『黄金週間』だったゴールデンウィークも終わり、彼女の中間試験が近いとのことで、今日は初めて僕の家に招いて、そして勉強会を。
「親父まだ寝てるはずだから静かにお願いね。お母さんに紹介するからこっち来て」
「紹介? え、まだ心の準備が」とあたふたする玲央ちゃんの手をひいて仏壇の前に。
「お母さん、紹介します。この人が僕の最愛の人、相川玲央さんです。できれば一生をともにしたいと思ってる女の子なので、末永く見守ってください」
少し戸惑ったようだけど、手を合わせ、頭を下げる僕の隣に座り、同じように頭を下げる気配がした。
「俊彰さんのお母さんって、……その、綺麗なかたですね」
自分の部屋に玲央ちゃんを案内する。男の部屋が珍しいのか、きょろきょろしっぱなしだ。
「僕が3歳のときになくなったから、あんまり記憶もないんだけどね。自己満足につき合わせちゃってごめん」
「いや、とても嬉しかったです」
「さ、そこに座って。さっそく勉強、始めよう」
「この公式、この間話したあの話にも関係するんだ。どこだったかな……あ、あった。こんな感じで。そんな重要な式だから、きちんと覚えておこうね」
教科書の最初から適当にめくりつつ軽くおさらいしてみる。
飲み込みが早い。応用力も記憶力も悪くない。時折見せる洞察力と集中力は凄いと思う。要領が少し悪いのが欠点くらいか。
教えていて、スポンジのように色々飲み込んでくれるのは快感ですらあった。
中学の内容も大体完全に理解している様子だったけど、4月の後半分(僕と会った時期?)くらいから、授業でやった内容が少し混乱しているのは気になった。
「これ、僕のノート。参考になるかどうか分からないけど見てみて」
高校時代の教科書・参考書・ノートを詰めたダンボール箱から、1年生の分を取り出す。
「わあ、凄い丁寧なんですね。字も綺麗ですし。こことか凄い分かりやすい。『頭のいい人』のノートって、こんな感じになるんですね」
「そうでもないと思うけどなあ。どうせ使わないから、持ってかえってくれてもいいよ。……本当に頭がいいと、逆にまっさらになるけどね。うちの兄貴とか、最初に1、2回教科書ぱらぱらめくっただけで内容全部憶えてるから、ほぼ新品そのものだし」
膝の形を見たときからわかっていたけど、正座をほとんどしたことはないのだろう。
今も座布団の上にぺたんと女の子座り状態。背筋を綺麗に伸ばして、端正な字でさらさらと問題を解いている。時々唇にペンの頭を当てて考える様子も可愛いらしい。
「あ、ここ分からないんですけど」
「どれどれ……ああ、ここはね……」
近くに寄ると、玲央ちゃんの匂いが鼻腔をくすぐる。平静を保ったふりをするだけで大変。
「なるほどー、こう考えればいいのか。分かりやすいですね」
「教え子がいいからね。……っとこんな時間か。昼飯作ってくるから、この問題集解いてて」
「うわっ、すごく美味しいです」
親父と玲央ちゃんと、僕の3人で昼飯のテーブルを囲む。
蟹チャーハンとスープだけの手早く作れるメニューだったけど、お口にあって一安心。
「俊彰には、小学校から家事まかせっぱなしだったからねえ。料理はまあ、愚息の数少ないとりえの一つかな」
「いえ、俊彰さんはどこを取っても素敵ですよ?」
真顔でそう答える玲央ちゃんに、大笑いする親父。
「こいつ女を見る目がないなあ、って、ずっと思ってたら、最後に凄く良い子をつれてきたじゃないか。式の日取りとか決めたのか?」
「親父、先走りすぎ。玲央ちゃんまだ高校生なんだから」
「式を挙げること自体は否定しないんだな。お前も、愛想尽かされないように努力すんだぞ」
「うん、親父……うん、分かってる」
食後腹ごなしがてら近所を散歩していると、赤ちゃんを連れた見知った女性が歩いてきた。
「俊くん、こんにちは。可愛いお嬢さんね。彼女さん?」
「有紀さん、悠(ゆう)くん、こんにちわ。こちら相川玲央ちゃん、僕の自慢の彼女です」
「始めまして。相川玲央です。こちら悠くんって言うんですか。可愛いですね」
しゃがみこんで、ベビーカーに座る悠くんと笑顔で挨拶し合っている玲央ちゃん。
「大きくなるの早いですね。悠くん、もうすぐ1歳でしたっけ?」
少し話したあと、有紀さんが悠くんを抱え上げて、玲央ちゃんに渡す。
顔の高さで抱っこされた悠くんは、キャッキャと笑って凄いご満悦の様子だ。
「悠、凄い嬉しそう。いつも人見知りなんだけど、この子実はメンクイなのかな?」
そんな会話を上の空で聞きながら、僕はこっそり玲央ちゃんの笑顔と肌に見とれていた。
比較対象があってよく分かる、1歳児と比べてもきめ細かですべすべで柔らかそうな肌。
「赤ちゃんかぁ。いいなあ」
有紀さんと別れたあと、玲央ちゃんが呟く。声をかけようと顔を見て、言葉に詰まる。
彼女が時々見せる、辛そうな表情。実は許婚がいるとか、そんな事情があるんだろうか?
色々な思いが浮かんで纏まらない僕に向かって、「よっ」という声が届いた。
「……兄貴か。今日は一日中彼女と遊んでるんじゃなかったのか?」
少し警戒しながら、声の主を見る。
「その彼女が用事が出来たって、今日の午後はフリー。つか帰って寝る。で、この娘が前言ってた新しい彼女? 始めまして。俊彰の兄で、篠原輝彰(てるあき)と申します」
そう言って、ウィンクしながら手を胸に当てて(何故か)執事の礼をする兄貴。
少し気障な仕草だけど、それがやけに似合っている。
「始めまして。えっと、相川玲央です。俊彰さんには良くしてもらってます」
そういってこちらも深々とお辞儀を。
僕のことを『ハンサム』って言う人もいるけど、兄貴を間近に見る身としてはとてもそうとは思えない。
この二人が並ぶと一種人間離れしたくらいの美貌の、お似合いのカップル同士に見えて、かすかな嫉妬心と、そしてトラウマが疼いた。
「前、写真で見せてもらったけど、それよりずっとずっと可愛いね。まるで真珠のようにキラキラしてるよ。服のセンスも似合っててすごく可愛い」
「ありがとうございます。これ、俊彰さんに選んで買ってもらったんです」
デート2日目、祥子さんの資金で購入した白いワンピース姿の玲央ちゃんが、にっこり微笑んでお礼する。
「……ほら、そこの彼女持ち。僕の玲央ちゃんを口説こうとしない」
「そんな事してないって。けど、お前には勿体無い良い娘だね。大事にしてあげなよ?」
「それは親父にも言われた。言われなくても、とってもとっても大切にするから」
「いい覚悟だな。んじゃ、俺は先に帰ってるから。お二人とも邪魔してごめんなさい」
そう言って片手を挙げてあっさり立ち去る兄貴。そんな姿までサマになっている。
「なんだか、凄く嬉しいです。『僕の玲央ちゃん』って」
立ち去ったあと、正直兄貴の感想があるのかなと思って身構えていたのに、うっとりした表情でそんな風に言うので少し驚く。
「漫画とかでよくそういうシーンがありますけど、大好きな人にそう言われると本当、なんかジーンと来ちゃいますね。……あれ、俊彰さんどうしました?」
「いや、兄貴と会った人ってその感想を喋ることが経験上多いから、なんか新鮮だなって」
僕の発言に玲央ちゃんが反応しかけたけど、それは近所の知り合いが「そちら俊彰くんの彼女さん? 可愛らしいかたねえ」と声をかけてきたので、結局兄貴の感想は聞けずじまい。
良かったような、聞きたかったような。
部屋に戻って、まずは僕が昼飯を作っていたときの解答をチェック。
「どうでした?」
「うん、1箇所ケアレスミスがあったけど他は満点。ご褒美をあげる」
そう言って額に軽くキス。驚いたのか、「ふぁぁ」と声をあげて、口に手を当ててしばらく硬直。大人びようと背伸びしている彼女が、時々ふと垣間見せる幼さが愛おしい。
「ね、もっとご褒美もらえないかな」
「それは、これからの結果次第」
「よーし、がんばるぞー」
そう言ってぎゅっと握りこぶしを作って、一生懸命勉強に取り掛かる。
抱きしめたくなる自分をこらえるのに本気で苦労してみたり。
3時になって、昨日のうちに作っておいたマフィンと紅茶で一休み。
「うーん。やっぱりすごく美味しいです。私、料理できないから尊敬しちゃう」
「玲央ちゃんならすぐに上手くなると思うけどなあ。中間終わったら、今度は料理一緒に作って練習してみようか。エプロン姿の玲央ちゃん無茶苦茶可愛いかったし」
「ちょ、ちょ、俊彰さん何を言ってるんですか……嬉しいケド」
「そうだ、これ」
「アルバム……ですか? 俊彰さんの昔の写真とか? 見たい見たい」
「半分あたりで半分はずれかな。2人でこれまで撮ってきた写真を焼いてもらったの。まだ出会ってから1月経ってないって、作ってる最中気づいてびっくりしちゃった」
「え、これ最初のプリクラか。うわっ、凄く恥ずかしい」
「最初から可愛いけど、こうやって見ると玲央ちゃんどんどん可愛く、女らしくなってるんだなあって。これからもっともっと、2人一緒の写真を増やしていこうね」
『Symbolon』 §6・相川玲央 2004/05/15(土)
「……今日もまた、言いそびれちゃったな」
勇気が出せない自分にため息をつきつつ、もらった合鍵で『相川』の家のドアを開ける。
──『相川玲央という少女』にとっては、ここが本当の家なんだ。
そういう幸せな錯覚に浸りつつ、「ただいま」と言って2階の祥子さんの部屋まで登る。
「ん、お帰りなさい」
ベッドに寝そべって、女性誌を読みながら祥子さんが迎えてくれる。
最初のころは「今日どうだった?」とか聞いてくれていた祥子さんも、私が俊彰さんのノロケばっかりしか言わないもんだから、最近は呆れてそういう質問はしてくれない。
色々負担をかけているのは本当だし、そろそろ別の着替えポイント作りたいなと思ってはいるのだけど、何も思いつかないのが現状だ。
床に座って──スカートを穿いていると、自然と『ぺたんこ座り』になるのが自分でも不思議だ──、もらったアルバムを再び開く。
わずか1ヶ月の記録のはずなのに、放任主義の両親が撮影してきた、それまでの15年分の写真よりもひょっとしたら多いのかもしれない。それだけ多数の『恋人たちの肖像』がここにある。
私の心に占める割合も同じくらい。この1ヶ月、女の子として俊彰さんといた時間のほうが、それ以外の時間よりもずっとずっと大きな割合に育ってしまっている。
最初のころの写真は、まだ“男”の部分が残っている。特に最初のプリクラ(をコピーした写真)は、化粧も落ちていて『これでよく男とばれないもんだ』と不思議なくらい。
もっとも、これより男顔の女の子ならクラスに何人もいるけれども。
それが最後のほうになると、これを見て『男女のカップル』でないと疑う人はいないだろう。実に奇妙なものだと思ってしまう。
「玲雄くんもすっかり女の子が身についちゃったわねえ。前まであんなに嫌ってたのに」
ふと気づくと、アルバムを後ろから覗き込みながら、祥子さんがそんなことを言っている。
「もう、祥子さん」
この件があるまで、ずっと女の服を着ることが嫌だった。怖れていたと言ってもいい。
何か、パンドラの箱を開けてしまうような、恐怖に似た予感があったからだ。
帰宅のため、化粧を落とし、エクステを外し、男の服を身に着ける。
『男の服に戻る』はずなのに、『無理やり男装させられて、男のふりをさせられる』という感覚が、回数を重ねるたびにどんどんと自分の中で膨らんでいく。
逆に募ってくるのが、朝、女の服に着替えるときに感じる『これで本当の自分に戻れる』という思いと安心感。
“女として過ごす”というパンドラの箱を開けたときに出てきたのは、災厄ではなく、目もくらむような喜びに満ち溢れた生活だった。
神話上のパンドラの箱をあけたあと、箱の中に希望が残っていたという。
では、自分が1ヶ月前に開けた箱の中には、一体何が残されているのだろう?
『Symbolon』 §7・城戸ユイナ 2004/5/15-16(土-日)
「ねえ聞いてよーエリカー。アタシ振られちゃったのォ」
『キャハハ、またぁ? アンタも長続きしないねえ。今回は2週間だっけ?』
「んー。えーっと、コクったのがあれだから……10日だ」
『キャハハハハハハハハ、アンタ、早すぎ』
「なんでこう長続きしないのかなあ」
『一番長続きしたのってどんくらいなのさ』
「ん、半年。その次で2ヶ月くらい?」
『じゃあユイナさ、その半年間付き合った人にヨリを戻す努力でもしたら? 一番あってたワケでしょ? もうそんな人二度と現れないかもしれないよ?』
「トシアキのこと? どうかなー」
『まー、ダメモトで当たって砕け散りやがれ』
昨日の晩の電話でのエリカのオコトバを思い出しつつ、トシアキの家に特攻するアタシ。
ケー番もメアドもとっくに消していて、他に連絡の方法がないのががツーコンだった。
都心へ1時間ちょいの私鉄の駅から、徒歩10分の一軒持ち家暮らし。シュウトメなし。
兄貴がいるから家、継げるかどうか怪しいけど、兄貴がどっか行くなら優良物件だろう。
あの兄貴、テルアキとくっついても良かったんだろうけど……
3つ股だったことに気づいて、頭に血が昇った勢いでゼッコーしちゃったのがなぁ。
さて。
そんなことを考えながら歩いていたら、うっかり迷子サンになってしまった。
「南にいけば駅に戻れるんだよね……南ってドッチ?」
そんなこと呟きながらトボトボ歩いていると、懐かしい声が聞こえてきた。トシアキの声。
なんてラッキー↑↑
恋愛の神様が『ヨリを戻せ』って言っているってことだよね、これ。
なんだかフワフワした気持ちのまま振り返り、そしてゼツボー。
なんてアンラッキー↓↓
いや、とっさにその“2人”から隠れられたのは、ラッキーなのかもだ。
2人に見つからないよう、狭い路地に隠れたアタシの耳に、会話が聞こえてくる。
「俊彰さん、本当に知り合い多いんですね」
「生まれる前から、僕がずっと過ごしてきた団地だからね。さっき挨拶した佐々木さんも結構お世話になったな。ボールを干してた洗濯物にぶつけて怒られたことあったっけ」
「ふふ。そんな時代あったんですね。ちょっと想像つかないな」
指を恋人繋ぎで絡ませあって、楽しそうに笑いあう。シットで色々狂いそうだ。
幸せそうなカノジョの横顔が見える。
なんだか見ていて胸がすっげームカムカしてくる。
薄くみえるメイク。染めてない黒い髪。少女趣味のきついゾロゾロした服。
なんだなんだ。変に清純派ぶって。素のままに生きているアタシとは正反対だ。
でも。トシアキはああいうのが良いんだろうか。見るからにすっげーデレデレだ。
結局どの道、トシアキが新しく彼女作ったんなら、ヨリ戻し無理なのかなぁ。
なんだか打ちのめされた気分のまま、よろよろと這い出る。
モヤモヤ気分で立ち去ろうとした瞬間、なんでか知らないけどキュピーンとひらめいた。
何がひらめいたのか自分でもよく分からないけど、その直感に従うことにしてみる。
「『キュピーン』なのよね。『キュピーン』」
自分でも完全に意味不明な独り言を呟きながら、トシアキの家の前で張り込み。
「うぅー。おなかすいたよぅー」
自分でも、なんでこんなことをやっているのかわかんない。もうあきらめちゃおっか。
そう思い初めて3時間過ぎたくらいに、ようやく2人が出てきた。
またまたお手々つないで駅まで歩き、更に歩いて南口でバスを待つ。
バスに乗るまでずっと一緒かなあ。
トシアキといるときに近づいたらアウトだし、するとこれ以上の尾行はムリか。
そう考えていたらトシアキのケータイに電話がかかってきて、名残惜しげに別れよった。
今日のアタシ、どんだけラッキーガールなのさ。
なんだかもう、ご都合すぎて涙が出るくらい。
バスには無事乗り込めた。
席はガラガラなのに、手すりにつかまって立っているあのコ。
後部座席に座って観察してみる。昼も思ったけど、顔だけはすんごい美少女だ。
目が大きくてマツゲが長いし、肌もムッチャ白いし、頭すごく小さいし。
白いマキシワンピに、ミントグリーンのボレロ。フリルいっぱいの服が確かに似合っている。
けどこういうのは経験上、陰でヤりまくっていたり、性格悪かったりするんだよなあ。
変な点がないか、更にジロジロ。
化粧に慣れてないんだろうか。リップとか少しとれているのに直そうともしていない。
髪型が少しおかしな気もする。履いてる黒いパンプスもなんかババァくさい。
服のせいで分かりにくいけど、胸とお尻のぺったんこさは男の子のようだ。
……ん? 男の子?
ハテナマークが頭の中を踊りまくる中、カノジョの後を追って慌ててバスを降りる。
あの顔を見て、あの声を聞いて、あの歩く仕草を見て、女と思わない人はいないだろう。
そのはずなのに、不思議なギワクがアタシの中でどんどん大きくなっていく。
“その家”は幸いにして、バス停からほど近い場所にあった。
鍵を開けて中に入ったことを確認して近寄る。『相川』の表札を確認。
初めて知る『標的』の名前。トシアキは「レオちゃん」って言っていたから「相川レオ」か。
考えてみれば、女でもいないことはないけど、「レオ」って普通は男の名前だ。
「レオ」は愛称で、実際はもっと長いのかもだけど。
「相川レオンハルト」?「相川レオパルド」? なんだか人の名前にはなりそうにない。
まあ、それはどうでもいいけど。
アタシの中ではもう相川レオ=女装男確定なんだけど、でも考えたら根拠がなんにもない。
どうしたものか……と悩んでいるうちに意外に時間がすぎてったみたいだ。
相川の家から物音がしたのでトッサに隠れる。ラッキータイムはまだ終わってなかった。
こんな時間に出てきたのは、ジーパン姿の髪の短い(あの髪、カツラだったのか)男の子。
チャリに乗って相川んちを出て行く横顔が、昼の少女にぴたりと重なる。
どういうことなのかよく分かんないけど、とりあえず明日だ。
明日、トシアキの前でアイツが男かどうか直接問い詰めてみて、もし女なら諦めよう。
でももし本当に男なら。……オカマヤローなんかに負けるもんか。
……だけど、どうやったら、ここからうちに帰れるんだろう?
日曜の朝からトシアキの家の近くに隠れて待つ。
(そもそも今日会う約束してなかったらどうするんだ?)
(もう出てったあとかも……)
待っているだけだと不安がどんどん高まっていく。そんな時間が30分ほど過ぎて。
トシアキの家に近づくアイツの姿を見て、思わず歓声をあげそうになって口を押さえる。
淡いピンクのカーディガン、ベージュのブラウスと長いスカートの取り合わせ。
相変わらず服も顔も髪も清純キャラ作って、変にカワイコぶって、なんかヤだ。
こいつが男だろうが女だろうが、アタシのキライなタイプだ。うん、きっとそうだ。
「ちょっと待ったー、そこー!」
ドアが開いてトシアキの顔が見えた瞬間、アタシはそう言って駆け寄る。
「え? あ? ユイナ?」
驚いた表情で、アタシの名前を呼ぶトシアキの声。懐かしさで涙がでそうになる。
「なんで今更きたんだ? 忘れ物でもあったのか?」
「だから、もっかいやり直そうって。テルアキのことは悪かったって、何度でも謝るから」
「何で今更? 無理だって。もう金輪際付き合う気はないし、僕には玲央ちゃんがいるし」
「……トシアキさ、そいつが男だったとしても、そんなこと言ってられる?」
「どっからそんな変な言いがかりを?……って、玲央ちゃん?!」
ビンゴ! 返事がなくても、その青ざめた顔で答えは丸分かりだ。
「トシアキ、ホモが大嫌いだったよね? 嘘ついて騙した女装男なんて振ってヨリ戻そ?」
思わず強引に飛びついてキスをする。アイツが逃げ出す音が後ろで聞こえる
すべてはアタシの計算どおり、いや計算以上!
これですべてはハッピーエンド! いや、これからがアタシのすべての始まり!
……その、はずだったのに。
「イタっ」
強引に体を引き剥がされ、シリモチをついてしまう。
「レオ、待ってくれ、レオ!」
そう叫んで、アタシに目も向けずに駆け出すトシアキを、止めることすらできずに呆然。
数分後。泣きじゃくるアイツを連れてトシアキが戻ってくる。
「……ねえ! トシアキそれでいいの?! 男だよ? ホモは嫌いって言ってたの嘘なの?」
「レオちゃんは、最高の女の子だよ。少なくとも僕にとっては、それで十分だ」
……アタシの目の前で閉じられるドアを、ただ見守ることしかできなかった。
「ああ、うるさい。人の家の前でワンワン泣いてるなよ」
それからまたしばらくたったあと、今度はテルアキが出てきた。
「テル、テル、テルアキ……! もう3人目だからって文句言いません、だからっ」
「誰かと思えばユイナか。半年振りかな? あーあ。もう何でもいいのかね、これは。……今からなら5人目になるけど、それでもいいのか?」
「うん、5人目でも6人目でもいいっ、だからっ、もうっ、アタシを見捨てないでっ……」
『Symbolon』 §8・相川玲央 2004/5/16(日)
「どう? 落ち着いた? 玲央ちゃん……って、名前は“玲央”でいいのかな?」
洗面所で涙と化粧を洗い落として部屋に戻った私に、優しく篠原さんが声をかけてくれる。
「色々すいません……あ、名前はレオでいいです。漢字はちょっと違いますけど」
「良かった。『本名は雄太郎です』とか言われたらどうしようかと思った。それじゃあ、今までどおり『玲央ちゃん』って呼ぶね」
「あ……はい」
「どこから話すかな。……さっきも言ったけど、僕は玲央ちゃんのことを女の子だと思ってる。でも、僕の思いを押し付けることはしたくない。本当のことを教えて欲しいんだ」
本当のこと……私は悩んだあと、意を決してエクステを頭から外した。
「“ボク”のこと、覚えてますよね?」
「えっと……?」
「女の子の姿で、とし──篠原さんに会う前の日、告白した男の子、それが“ボク”です」
「えっ、あ……思い出した」
「『僕は女の子が好きだから、男の君とは付き合えない』……それなら“ボク”が女の子になれば付き合えるのかなって、女の格好させてもらって」
エクステを頭に戻す。『相川玲央』に戻れた気がして、少しだけ心が軽くなる。
「じゃあ、僕に付き合うために、女装して女の子のふりをして……?」
「それは違います。“私”にとって、この格好は『女装』じゃなくて『自分の本当の姿』で、男の服を着てるときのほうが『無理やり男装させられてる』状態なんです。声だってそう。今の声が地声で、いつもは無理に低い声を作って」
「……」
「でも、そうですよね。どんなに嫌でも私の体が男という事実は変えられなくて、『嘘ついて騙した女装男』って事実も変えられない。篠原さんと付き合う資格なんてないんです」
「ちょっと待って、ちょっと待って」
篠原さんが私の肩を掴んで、真剣な目で私のほうを見ている。
だのに、私はそれから目をそらすことしかできない。
「どう言えば分かってもらえるのかな……言葉じゃ無理か。嫌だったら振りほどいてね」
私の顎を軽く指で触れ、上を向かせる。力を入れれば抵抗できるのに、なされるがままに。
篠原さんの唇が、私の唇に重なる。
駄目だ。駄目だ。私は嘘つきだ。
男であることを隠して、騙して。篠原さんには到底釣りあわない人間なんだ。
頭を埋め尽くす思考に従い、彼の体を振りほどこうと腕を伸ばす。
でも。自分の思考とは逆に、私の腕はしっかりと篠原さんの逞しい身体を抱きしめていた。
首を動かして逃れようとする。
なのに。頭で下した命令と逆に、私の唇は彼の唇にしっかりと吸い付いていく。
──そうだ。私は、こんなにも大嘘つきなのだ。
本当はこんなにも、“俊彰さん”に恋焦がれているのに。俊彰さんを愛しているのに。
自分の心に嘘をついて。目を背けようとして。
私が、自分自身についていたその『嘘』に気付いた瞬間。世界が、ぐるりと変わった。
「……玲央ちゃん、いいんだよね?」
「はい」
もう、迷うことない。私は私の心の命じるまま、俊彰さんの目を見つめて、そして頷いた。
スカートを脱ぎ、かすかに震える手でブラウスの左前のボタンを少し苦労しつつ外す。
さっき逃げるために走ったからだろうか。自分の体臭が漂ってきて少し戸惑う。
「シャワー浴びたほうがいいかな?」
「ん……玲央ちゃんの匂い、いい匂い。もっと嗅がせて」
上半身裸になった俊彰さんが、ボタンだけあけたブラウスの間に頭を入れて鼻を鳴らす。
ずっと困らされてきた、苦手だった自分の体臭。
なんだか柑橘系っぽい匂いで、女の体臭みたいだと中学時代のはじめ、体育のあとにからかわれた匂い。
近い匂いの制汗剤を苦労して探して見つけてつけて、それ以降は何とか誤魔化してきたものだけれど。
けど、その匂いを今、俊彰さんに『いい匂い』褒められる。心地よさそうに嗅がれている。
天にも昇る気分、というのはこんなものなのだろうか。なんだか身体がフワフワした感覚すらしてくる。
俊彰さん、なんだか凄いフェチ臭い……と思う私も、立ち上る俊彰さんの匂いに興奮している。
自分は違う、とても男らしい匂い。
ほかの男子では少し苦手だったのに、俊彰さんの匂いは不思議ととてもとても大好きだ。
私も頭を下げ、首筋の匂いを嗅ぐ。なんだか下腹部のあたりが熱くなってくる気がした。
そっと彼の背中に手を回し、背筋にそって指を沿わせる。
運動部で相当鍛えたのだろう。逞しい、筋肉の弾力に胸がドキドキとしてくる。
このままずっと、こうしていたい気持ちもどこかにあったけれども、身体を離し、意を決してブラウスとスリップ──そして悩んでショーツを床に落とす。
彼は全裸で、私はブラジャーだけの姿で向かい合う。股間のものは手で隠して。
服の上からだと細身に見えるのに、肩幅は広く、胸は厚い、引き締まった筋肉質の体つき。
私とはあまりに違う、彼の身体。息することも忘れて、私は見惚れる。
「……なんて綺麗なんだろう。本当に、本当に、玲央ちゃんは世界で最高の女の子だよ」
そう呟いて、俊彰さんが私の身体を『お姫様抱っこ』の体勢で軽く抱き上げる。
陶酔感が全身を包んだ瞬間のあと、私はベッドに横向きに下ろされた。
そして、再度のキスを。溺れるように深く、強い口付けを。
私の身体の中に、彼の力強い分身が入ってくる。
粘膜同士を重ね合わせ、互いの体液を交換し合う。
それはもう、キスではなく、もはや一つの性行為と言うべき行い。
唇をくぐり、私の口腔に入り込んできた彼の舌が、切ないほどに私を求めてくる。
彼の舌が口腔に優しく触れるたび、唾液の滴りを受け止めるたび、私の全身が蕩けていく。
「はむっ……んっ……ぬちゅ……ちゅぴ……んん……くちゅ……ちゅぴ……」
静かな部屋を、2人の奏でるキスの音が満たしていく。
私を安心させるように、彼の大きな暖かい左手がゆっくりと私の背中を撫でている。
そして右手が、ゆっくりと、かすかに、何度も私の内股を優しく下になぞっていく。
気遣っているのか、怖れているのか、それともそういうテクニックなのか。
決して一線を越えてこないその手に指を添え、私の秘孔に彼の指をいざなう。
少し戸惑ったようだったけれども、優しくその場所を解きほぐすようにタッチしてくる。
彼の指が触れた場所から、じん、と快感の波が全身を駆け抜ける。
唇を離して長い長いキスを終え、俊彰さんが私の瞳を覗き込みながら囁きかける。
「玲央ちゃん、いいかな」
「お願い、俊彰さん。私の……玲央の初めてをもらってください」
耳の奥で、バクバクバクバクと、心臓の音がうるさいほどに鳴り響いているのを感じた。
俊彰さんがベッドの上に膝をつき、脚を曲げて上がり込み、私の両脚を持ち上げる。
これは正常位って言うんだったっけ? 乏しい性知識を動員して思い出す。
「玲央ちゃん、とっても綺麗だよ」
見上げると、私を力付けるように優しく微笑む俊彰さんの顔が見える。
そのまま、彼のあそこの先端が、私のお尻に当たる。
ただただ、快感と喜びだけが私の全身を満たしてくる。
彼がゆっくりとその分身を突き入れてくる。
おかしなくらいにそれは、何の抵抗もなく、するぅりと、最後まで私の体の中に納まった。
「あっ、あぁあっ、あっ、ぁぁぁあっ……」
止めようと思っても止まらない。私の唇から喜びの声が溢れ出る。
私の腸の中の肉が、襞の一枚一枚が、愛しい彼の存在を感じるために殺到するのを覚える。
彼の形がはっきり分かるくらいに、一部の隙もなく彼の分身を優しく、強く抱きしめる。
“異物が入ってくる”という感覚は微塵もない。あるのはむしろ、彼のものが私の身体に“戻ってくる”という、不可思議な実感。
──昔人間は両性具有の存在で、神の怒りを買い2つに分けられた。男女が惹かれあうのは、元々一つだった自分の半身を求めるからである──もうまともに考えることもできないほど乱れた脳裏に、そんな言葉が過ぎる。
私と俊彰さんは、もともと一つの存在で、たまたま分かれていたものが、今、ようやく心も体も、もとの“一”に戻ることができたのか。そんな理解、もしくは錯覚。
「玲央ちゃん、すごいよ、すごく気持ちいいっ」
挿入しただけで、まだ互いの身体を動かしてもいないのに、俊彰さんがそう叫び声をあげて──そして熱いほとばしりが私のお腹の奥に叩きつけられる。
「あっ、あっっ! あぁぁん!」
その液体に触れた箇所から発した、灼熱のような波動が全身の細胞一つ一つに行き渡る。
息が止まる。汗が止まらない。全身が一瞬棒のように硬くなり、そして力が抜ける。
世界のすべてが静止したように感じたその一瞬のあと、俊彰さんが大きく呼吸をして、そのまま腰を振りだした。
私のお腹で感じる俊彰さんの分身は、発射前から少しも小さくなっていない。いやむしろより太さと硬さを増したようにすら感じる。
たった今出た精液も潤滑油にして、俊彰さんのモノが私の穴を滑りだす。
「俊彰さん! 俊彰さん! 俊彰さん!!」
私の体の奥深くまで彼の分身が打ちつけられるたび、抜ける寸前まで滑るたび、自分の存在そのものがバラバラになってしまいそうなほどの快感が全身を貫く。
「玲央ちゃんっ! 玲央ちゃんっ! 玲央ちゃんっっ!!」
穴だけではない。
俊彰さんが触れる場所、俊彰さんの熱い吐息がかかる場所すべてから、燃え上がるような快楽が伝わっていく。
彼の分身の脈動を、全身で感じる。私の鼓動がぴたりと合わさる。
嬉しい!! 嬉しい!! 嬉しい!!
手足のつま先や髪の1本1本に至るまで、全身の細胞という細胞が歓喜の歌声を上げる。
二人の心音をリズムにして、ふたりで奏でる、最高のラヴソング。
私が歌を歌う時に感じる翼が、今力強く羽ばたくのを覚える。
俊彰さんも同じように翼をはためかせ、2人天高く飛翔する。そんな高揚感が全身を包む。
「ああっっ! 気持ちいいぃ! もっと! もっと!」
何度も何度も駆け抜ける、快感の波動。
あまりの気持ちの良さに、どうにかなってしまいそうだ。いや、とっくにどうにかなっているに違いない。むしろ、どうにかなってしまってもいい。
この最高のひと時のためなら、もう何を捨て去っても構わない。
もう何度、彼の精液を身体に受け止めたのだろう。
それでも一瞬も休むことなく、互いの身体で愛と歓喜の歌を奏であう。
自分の背中の翼が大空を駆け抜け、ついには太陽にまで到達したような錯覚のあと、快楽に飲まれる形で、──絶叫とともに、私の意識が途切れた。
「玲央ちゃん、起きた?」
微かな倦怠感に包まれながら、私は意識を取り戻す。
感じる俊彰さんの声、俊彰さんのぬくもり、俊彰さんの匂い、私と違う、異性の身体。
ああ、私は“女”になったんだ。──理屈でなく、理性でなく、全身でそう思う。
「ん。ありがとう、俊彰さん」
再び重ねる二人の唇。温かい感触。満たされる思い。
「……ごめんね。なんだか途中から夢中になって、僕ばっかり気持ちよくなることだけ考えてた。初めてなのに全然気遣ってやれなくて」
「ふぇ?」
突然の謝罪に、本気できょとんとしてしまう。
「そうなんですか? 私すっっっっっごく気持ちよかったですよ? こんなに気持ちよくていいのか、不安になってしまうくらい」
「よっぽど身体の相性が良かったのかな。そんなこともあり得るのか。
なんか僕も、とても不思議な感じだった。どう言えば伝わるのかな……なんだか、2つに割られた、元々1つだった絵が、ぴったりと元通りくっついたような感じで」
「ああ、それ俊彰さんも感じてたんですか」
エッチの最中に思い出した、両性具有の逸話を口にする。
笑われるかも、と思ったのに、俊彰さんは優しい笑顔で頷いて、
「うん、きっとそうだ。僕らはもともと一つの存在で、今ようやく『元に戻れた』んだと思うよ。ただ、2つに分けられるとき僕が不甲斐ないせいで、僕のものが玲央ちゃんのほうに残ってしまったのかな。そう考えると、僕のせいで苦しい思いさせたのかな……ごめんね」
「いや、そこで謝られましても」
2人して笑いあう。この空気のなんて気持ちよいものか。
「そう言えばユイナって、なんで玲央ちゃんのことを男だなんて言い出したんだろ。
玲央ちゃん、実はあいつと知り合いだったりする?」
俊彰さんに腕枕してもらって、ベッドに二人寝そべって。
2人で他愛ない会話をしている最中、ふと俊彰さんがそんなことを呟く。
「ユイナ?」
「城戸ユイナ。さっき玄関のとこで玲央ちゃんを男だって言った子」
「ん……初めて見る顔、だと思います」
ああ、あの人か。ちらっとしか見られなかったけど、不思議な人だった。
普通にしてれば可愛いはずなのに、変にメイクして。
妙にキャラクターを作った印象が、私が『男を演じている』ときの感覚とだぶって見えて、思い出すとなんだか胸がモヤモヤしてくる。
女として俊彰さんと一緒にいるときの『自然な自分』ではなく、自分が演技していることすら気付けずに、『不自然な自分』にもがいている姿を鏡で見せられたようで落ち着かない。
「その、ユイナさんってどんな人なんですか?」
「うーん、正直に全部言っておいたほうがいいか。
あの子が失恋して泣いてたのを慰めた縁から付き合うことになって、昔、半年くらい恋人やってた子。うちに連れてきたときに兄貴に出会って、兄貴のほうが良いって言い出して、僕が振られた形になってお終いだった。でもその後すぐに兄貴とも別れて、完全に縁が切れたと思ってたのになんで今更、って」
昨日輝彰さんと会ったとき、俊彰さんが何か警戒していたのはそんな理由なのか。
「でも……あれ? 変じゃないですか? 俊彰さんが良いからって輝彰さんから乗り換えるならまだ分かるけど、その逆って想像もできないです」
私は真剣に言ったのに、俊彰さんに吹き出されてしまった。
「……ありがと」
そう言って私の体を引き寄せ、額に軽くキスを。
ふと気づくと俊彰さんの股間のものがいつの間にかまた硬くなっていた。指先でそっと、そのラインをなぞる。
「俊彰さん、もう一度したいんですか?」
「今日は中間試験の勉強しにきたんだから、それやろう。続きは良い点が取れたらご褒美で」
正直びっくり、というかがっくりしたのは否めない。
だけど同時に、こうも頼りない自分と違い、しっかりした人なんだと感動すら覚える。
「……うん。それじゃあ私、頑張るね」
「ということは、玲央ちゃんが悪い点取ったらお預けか。……僕も気合入れて教えないと」
「もう。誰の『ご褒美』なんだか」
俊彰さん。拗ねたように返事してしまったけど、その言葉はとても恥ずかしくて、嬉しいです。
今まで自分になかった、新しいエネルギーを体の裡に感じつつ身を起こす。
それは多分、俊彰さんから分けてもらった、『何かを手に入れるために努力する』思い。
何事も諦めがちだった、男の自分にはなかった気分。
……私は一体、いつか、この人に見合うだけの価値ある人間になれるのでしょうか?
『Symbolon』 §9・篠原信彰 2004/7/22(木)
「ただいま」
最近では珍しく7時前に帰宅すると、玄関には女物の小さな靴が置かれていた。
「おじさま、おかえりなさい」
「おかえり、親父早かったね?」
台所から明るい俊彰と相川さんの声が返ってくる。そうか。高校生は夏休みになったのか。
「相川さんいらっしゃい。……今日で仕事が一段落したからね。来週また忙しくなるけど、今日は皆にも早く帰らせた」
「へえ。おつかれさん。丁度良かった。玲央ちゃんと料理の勉強してたから、量が出来てて」
外で食べてくる日が続いていて、連絡も入れずに早く帰宅。正直出前を取るつもりだっただけに嬉しい話だ。
「輝彰は?」
「教授の部屋を覗きに行ってたら、いつの間にか月末の学会の事務取り仕切るような状態になってて多分今週は帰れないって。兄貴には珍しくぼやいてた」
「まだ3回生なのに、頼りにされてていいな。何事も勉強だ」
「うん、兄貴もそう言ってたよ」
荷物を置いて、部屋着に着替え、3人で食卓につく。
妻の形見のピンクのエプロンをつけた相川さんが、俊彰と並んで座る。なんだか初々しい新婚カップルのように見えて少し眩しい。
“あの話”については俊彰から聞いているが、こうして見るととても信じられない。
会社の立地上、芸能人とすれ違うことは多いが、彼女達と比べても遜色ない美少女ぶりだ。
晩飯は肉じゃが、野菜炒め、スープにチキンエッグサラダと、豪華なメニューだった。
俊彰のものと比べて、ジャガイモの切り方が変で味付けが濃い目、ゆで卵が茹で過ぎとかあるものの、概ねまずまずの出来。
「お味、いかがでしょうか?」
女の子としても可憐な細い指に絆創膏を巻いた相川さんが、不安げに質問してくる。
「うん、悪くないよ。肉じゃがは味が正直濃いけど、汗かいたからこれくらいが嬉しいな」
「僕の料理食べたときも、これくらい反応あればいいのにな。いっつも感想ないし」
「そういえば夏休みだし、2人で海とか山とかに行ったりしないのか?」
「海は無理ですね。私、日に弱いので。それに私、水着になれないですし……」
「ああ、そうか。すまない。じゃあ行くとしたら山かな? 県外になるが」
「資金的にも厳しいし、近場でも悪くないし……今度、自然公園とか行ってみよっか?」
「資金なら出すよ。若いころの思い出は、何よりも尊いもんだ。作れるうちに作っておいたほうがいい」
「そんな、悪いですよ」
「……うん、分かった親父ありがとう。玲央ちゃん、やっぱり遠くに行ってみよう。出来る限り低予算で、手持ちの資金だけでいけるよう頑張ってさ」
わたしの言いたいことを汲み取ってくれたのか、遠慮する相川さんを遮って俊彰が頷く。
移動は18切符で、とか、キャンプ場とかどうかな、とか、楽しそうに話しているのを見て、わたしもこの話題を振った甲斐があったなと思う。
食事も終わり、後片付けまで終えた俊彰たちが2階に戻るろうとするのを呼び止める。
前々から話したかったことを持ち出すのに、今日が一番良さそうだ。
「相川さん、君のことについては、俊彰から大体説明を受けてる。
誤解されるかもしれないから先に言っておくよ。君達2人の交際にわたしは反対しないし、むしろ心から祝福している。気が早いかもしれんが、うちの“娘”になって欲しいとも思う」
「本当にすいません。ありがとうございます」
「それで話というのは、君のことをなるだけ正確に知っておきたいということなんだ。まず最初に、これまで君の身体について、お医者さんにきちんと診てもらったことはあるかな」
「いいえ、ありません」
「やっぱりそうか。まあ色々不安な気持ちも分かるが、是非医者には診てもらって確認することをお奨めしておきたい。なんなら、輝彰がお世話になった医者を紹介するよ」
「輝彰さん……俊彰さんのお兄さんですよね。何かあったんですか」
「輝彰はクラインフェルター症候群でね。幸い早く気づいて、本人の希望を基に適切な処置をしてもらえたから、今は普通に……というか普通以上に男性しているが」
「そうだったんですか……って、え? 嘘? おじさま、本当にそれでいいんですか?」
「玲央ちゃん、どうしたの?」
「……クラインフェルターの人って、遺伝子がXXYで、普通、子どもが作れないんです」
「よく調べているね。人工授精で作れる例もあるそうだが、輝彰の場合はそれも無理だった」
多分自分が“それ”に該当するのではないかと考えて、調べたことがあるのだと思うが、それが意味することにすぐに思い当たるとは聡い子だ、と内心舌を巻く。
「じゃあ、私と俊彰さんが一緒になったら、お孫さんが出来ないじゃないですか」
「うん、そうなるね」
わたしの言葉は、あっさりと言ったように聞こえてくれただろうか。
「正直言えば、わたしも孫の顔を見たいさ。それでも、それ以上に、君たち二人が離れ離れになって、不幸になる様子を見たくないんだ。君達には幸せになって欲しい。
もう一度言うよ。相川さん、いや玲央さん。うちの娘になって欲しい……いや、是非娘になってください。君は、わたしの会った中で、世界で二番目に素晴らしい女の子だ」
「親父、世界で一番目の女の子って?」
「決まっている。お前の母親だよ」
「なんだ。再婚とかそういう話が進んでるのかと思って、一瞬あせった」
俊彰の言葉にそれまで涙ぐんでいた玲央さんも笑い、重くなりかけた空気が和む。
「お邪魔しました」
「じゃ、親父、玲央ちゃんをバス停まで送っていくから」
礼儀正しく頭を下げて家を出る玲央さんと、俊彰を玄関で見送りながら誓う。
今日色々と話をして、改めて確認できた事実。
外見だけでなく、心も完全な少女である彼女が、性別だけは男であるという神様の悪戯。
これから大変なことも多いだろうが、せめてわたし達だけでも常に味方であらねば、と。
『Symbolon』 §10・篠原俊彰 2004/08/25-28(水-土)
「あ、俊彰さん起きたんですね」
「ああ、僕、寝ちゃってたのか。ごめんね。今、何時くらい?」
「2時半かな。……俊彰さんの寝顔が堪能できて嬉しかったですよ。いつも私ばかり寝顔見られてたから、なんだか新鮮ですごい役得」
幸福そうに笑って、細い指先で僕の髪を優しく撫でてくれる。
後頭部に感じる柔らかい感触。膝枕してもらっていたのか、と今更気づく。
「まだ寝ててもいいですよ?」
「いや、大丈夫。ありがとう」
そう言って、今まで寝ていた古い東屋のベンチから起き上がって軽く柔軟する。
「玲央ちゃんは大丈夫? 眠かったりしない?」
「いえ、昨日ぐっすり寝ましたから」
昨日キャンプ場に到着してから、子ども達と一緒に遊んだり、ご年配の方と話したり、カレーを他の泊り客と一緒に作ったりと八面六臂の活躍を続けていた玲央ちゃん。
テントに入って横になった瞬間眠りについて、狭いテント内密着する彼女の、心地よい体臭や柔らかさが気になって、結局僕のほうはそんなにきちんと寝られなかった。
まあ、玲央ちゃんの膝枕での午睡とか、僕のほうも十分『役得』だけれども。
そのまま2人で獣道のような道を下り、川原に到着。いい按配に他に人もいない。
「玲央ちゃんもおいでよ。気持ちいいよ」
穿いていたジーパンとシャツを脱いで、Tシャツとトランクスだけの状態で川に入る。
膝丈くらいまでの浅い流れだけど、水が冷たくて心地いい。
それまで迷っていたようだった玲央ちゃんも、僕の言葉に頷いてレディスジーンズとシャツを脱ぎ、キャミソールとブラジャー、ショーツだけの姿で川に入る。
「きゃっ、冷たい」と言っている彼女に、手ですくった水をかける。
「もう、俊彰さん酷い」と言いながら、逆襲する玲央ちゃん。
ふたりで笑いながら、服が完全にびしょびしょになるまで童心に戻って戯れるひと時。
白いキャミソールが体に張り付き、薄いピンクのブラジャーとショーツが透けて見える。
剥き出しになった、長くてすんなりとした白い腕と脚。
お尻は小ぶりでも、高い位置できゅっと括れたウエストとの対比は扇情的ですらあった。
微かに柔らかく膨らむ胸は、パッドを着用しているせいだろう。
(なぜかいつの間にか兄貴の彼女に復縁していた)ユイナから、玲央ちゃんを男だと疑った理由の一つが胸の無さだったと聞いて、僕が通販で購入して渡した薄めのパッド。
透けた衣装は裸以上に何かHで──意識した瞬間に足を滑らせて、川の中で尻餅をつく。
これだけ笑ったのは何年ぶりだろう。
腹の底から湧き出て止まらない笑いの衝動に身を任せて、そのままの姿で2人大笑い。
笑い疲れて、笑いの衝動も収まって、さて立ち上った瞬間……僕の股間が思いっきり膨らんでいるのに気付く
玲央ちゃんも気付いたらしく、顔を赤らめてそこを見ていたけれども、
「いいですよ……俊彰さん」
と、僕に囁きかけた。
着ていた下着類が乾くように並べて、お互い生まれたままの姿で木陰に入る。
卵型に近い小さな頭と、長く細い頸。狭く薄い肩。
あばらがかすかに見えるくらいに痩せた、でも女らしいなだらかな曲線を描く身体。
木漏れ日を浴びて光り輝く、透明感あふれる純白の無垢な肌。
「綺麗だよ……凄く綺麗だ。玲央ちゃん」
心に湧き上がった賞賛の言葉が、思わず口からこぼれてしまう。
恥ずかしがる彼女の身体を抱き寄せて、閉じられた瞼に舌を這わせる。
「ん……む……うふ……」
恥ずかしそうな、満足そうな、優しい声が耳に届く。
「人が来るといけないから、声は抑え目にしないとね」
「ん……がんばる……」
長く濃いまつげを震わせながら、そう応える。
とてもとても柔らかくて滑らかな頬の感触を舌で楽んだあと、耳たぶの下を丁寧になぞる。
夏休みの間、宿題やレポートの合間をぬって探求しまくったお互いの身体。
セックスの最中、僕の触れるところ全部が性感帯になってしまうような彼女の身体の中でも、ここが一番の弱点ポイントだった。
「ぁ……ぁ……ぁぁん……俊彰さん……俊彰さぁん……ぁふ……」
これでも精一杯抑えたのだろう。こぼれた甘い嬌声が蝉時雨に溶け合う。
お尻を右手で揉みながら、お尻の穴を指で柔らかくほぐしながら、首の付け根から耳までのラインを何度も何度も舌で確認する。
彼女の使っている柑橘系の匂いの制汗剤に少し似た、でもそれよりももっとずっと甘い、玲央ちゃんの体臭が僕の鼻腔を擽る。
『僕はホモが大嫌い』──その言葉は今でも少しも変わってないし、嘘じゃない。
それでも、これまでに付き合ってきた何人もの彼女と比べてすら、いや比較にならないくらいに女らしい、“彼女”の声、匂い、肌の手触りにすっかり僕は魅了されていた。
彼女の柔らかく温かい分身が、僕の脚の付け根あたりに当たる。
“その部分”は確かに、“彼女”の身体が男であるという唯一の証。
でもピンクの薔薇の蕾のような器官は、自分にあるものと同一とは到底思えないくらい可憐で美しい。
その可愛らしい“クリトリス”を弄びたい気持ちになるけれど、触れると彼女が本気で嫌がるので、目を覚ましている間にはいじれないのが少し残念。
──彼女以外のものなら見たくもないけど、玲央ちゃんのものなら何でも触れたくなる、そんな自分が不思議でしょうがなかった。
お尻を触っていた右手の指に、ねばねばした液体が絡み付いてくるのを感じる。
それが何なのか、どうして出てくるのか良く分からないけど、最初に玲央ちゃんと身体を重ねたときから禁断の穴から分泌されていた、まるで女の子の愛液のような液体。
「玲央ちゃん、入れるよ……」
「ん。……俊彰さん、お願い……」
木の幹に手をついてもらって、背後に回る。
思いっきり息を吸い込んで絞れば、回した両手の指がぴったり付くほど(実際に実験済み)細いウエストを両手で掴んで、そろりと“その穴”に僕の分身を導き入れる。
相変わらず、不思議なくらいに抵抗もなく、ぴったりと二人の身体が結ばれる。
彼女と僕のセックスは、どうも『普通ではない』ことだらけで、これもその一つだ。
そのくせ、一旦入ってしまえば僕の分身全部が、一部の隙もなく締め付けられてしまう。
快感に抗えず、ものの10秒ほどで最初の射精を迎える。
『どれだけ早漏だ』と自分で呆れてしまうけど、何度やっても1分以上持ったことがない。
その代わり、他の女の子とやるときには一度発射すれば一旦萎えてしまう僕のペニスは、玲央ちゃんの中だと、ずっと硬いままでいられる。
エクスタシーに関してもそうで、普通なら発射するごとに一旦は収まる絶頂感が、萎えることなく積み重なる形で襲ってきて、天に昇るほどの快感に耐えるのがやっとだ。
「あ、あ、……れお、玲央ちゃんっ! 玲央ちゃん、気持ちいいっ……」
今は大声を出せないので、その分内側に快感が溜まって凄い状態になっている。
僕の分身を、玲央ちゃんの熱くて柔らかい粘膜がきつく包み込む。
入り口だけでなく、根元から先端まで、ネチョネチョの粘液まみれになった肉壁に絞られる。腸内の襞がという襞が、吸い付くように僕の分身をなぶる。
亀頭の先の敏感な部分に、イボイボのような感触があたる。その部分もぴったりと張り付いてきて、いつものことながら『気持ちいい』ってレベルじゃないほどの絶頂感が襲う。
「ぅ……ぁぁんっ!! ぁあっぁぁんっ……! ……っ!! ん……っ!!!」
僕だけでなく、玲央ちゃんも何度も何度も絶頂に耐えている様子。
汗まみれの白い肌は、今は全身真っ赤に紅潮して痙攣を繰り返す。
玲央ちゃんとのセックスの際、時々やってくる飛翔感が全身を包む。
白い雲を目の下に見ながら、大空を舞うようなそんな感覚。僕がその感覚を覚えるとき、決まって玲央ちゃんも同じような感覚に襲われているのだという。
これも一種『普通ではない』、不思議な不思議な、魂の共鳴のような現象。
2人どこまででも飛んで行けそうな、そんな高揚感に包まれたまま──玲央ちゃんの意識が果てて、全身の力が失われるのを感じ、こちらも脱力した身体でなんとか抱きとめる。
全身をタオルで拭ってあげて、もう乾いた服を失神したままの玲央ちゃんに着せてあげて、僕自身も服を着て、玲央ちゃんを抱きかかえる形で木陰に座る。
丸い額、すんなりとした鼻梁、すべすべの頬、形の良い小さな耳、さらさらの黒髪。
何度見ても見飽きない、どう見てもとびきりの美少女にしか見えない、とても美しい姿。
でも僕との出会いがなければ、この“少女”は少年のまま、普通の人生を送れたはずだったのだ。
(一生をともにして、ずっと大事にしなくちゃな)
愛情と、贖罪と、そしてピグマリオンの達成感とが入り混じった気分のまま、出会った最初のころとは少し意味が変わってしまった、それでも変わらない誓いを再び胸に刻む。
いつまでも見とれていたかったのに、僕の携帯のバイブが鳴っていることに気づく。
(ここ、圏内だったのか)
玲央ちゃんの体を静かに降ろし、少し驚きつつその場を離れて電話を取る。
「俊彰! やっと繋がったか!」
「ごめん親父、何?」
「俊彰、戻って来い。輝彰が死んだ」
──兄の葬儀には、沢山の人が詰め掛けていた。
わんわんと泣いている女の子が多いのは、流石は兄貴というところか。
大学の関係者、教授・助教授あたりも何人か来ているようだ。
急いで家に戻り、玲央ちゃんには家に帰ってもらって、半通夜になんとかすべりこむ。
死因は交通事故。男女2組で車に乗っていての正面衝突で、最後の一瞬に咄嗟に兄貴がかばったユイナが唯一生き残ったけれども、重体でまだ病院にいるそうだ。
何か体にぽかりと穴が開いた感覚のまま、式が進む。
最近の女癖の悪さには少し呆れていたけれども、それでも間違いなく尊敬していた兄貴。
まだ20になったばかりの若さで、学友たちはおろか教授たちにもこんなに敬愛されていて。
(──それにしても、人って簡単に死ぬものなんだな)
脳裏に玲央ちゃんの顔が浮かぶ。玲央ちゃんが死んだら、僕はどんな思いをするのだろう。
そして、もし僕が死んだら、玲央ちゃんは──
途端に、目の前が真っ暗になる感覚がした。
息が荒くなる。鼓動が激しくなる。
『玲央ちゃん』……僕が生み出した、僕だけの“少女”。僕がついているのならそれでいい。僕がすべてから守っていく。そのくらいの決心ならとっくに固めている。
……でも、その『僕』がこの世からいなくなったら。“彼女”は一体どうなるのだ──?
高校生にとっては夏休み最後の土曜になる28日。
僕は、玲央ちゃんに待ち合わせのメールを送っていた。“彼女”と最初に会った場所で。
『必ず時間通りに』と書いておいたにもかかわらず、時間の20分前に到着したときには既に玲央ちゃんはそこに居て……そして懸念どおりに見事にナンパ男に絡まれていた。
「ごめん、待たせちゃったね」
「俊彰さん!」
最初に会ったときも、こんな会話をしたんだっけ、と懐かしく思い出す。
今日の彼女の服は、プレゼントした足首までの白くて長いワンピース。一緒に買ったボレロをあわせていない純白の姿は、ウェディングドレスを纏った花嫁のようにも見えた。
この服が彼女にとっては『とっておきの衣装』という位置づけになったようで、“気合を入れてお洒落したい日”によく見かける。嬉しい反面、見る機会が少なくて残念にも思う。
でも、どっちにしろ、それも今日で終わりなのだ。
彼女の顔が満面の笑みに輝く。
この笑顔に、これから伝えないといけないことを思うと挫けそうになる。
ナンパ男を追い払って、手を引いて歩く。少女のものとしか思えない細いしなやかな指、小さくて柔らかい掌。そして最初の日の喫茶店に入り、椅子に座る。
僕の表情に何か感じたらしく、いつもは色々話しかけてくる玲央ちゃんも終始無言だった。
「……兄貴が死んだんだ」
「ええ、それは聞きました。私も凄いショックです」
「それで僕は思ったんだ。人は簡単に死んでしまうものなんだな、って」
「……」
「“相川くん”が女の子の格好するようになったのは、僕とあったからだよね。僕と会わなければ、あの時僕が『男の君とは付き合えない』なんて言わなければ、男の君のままでいられた」
「それは……それは……それは、たぶんきっと違います。きっかけはそうだったけど、でも多分それがなくても、きっと私は『本当の私』になってたと思います」
「でも、それまでは君は男のまま過ごしてたんだよね」
「………………はい」
「僕が生きてる限り、玲央ちゃんと結婚して一生、ずっと守っていく。今でもそのつもりだし、その決心は揺らいでない。でも、だけど、僕が死んでしまったら」
「……」
「僕にとって第一なのは玲央ちゃんの幸せなんだ。でも、僕が死んだらそれを実現できない。体と戸籍は男なのに、女のふりをして生きるのはきついし、不幸だよ」
「……」
「もう、やめよう」
その声は自分の声帯から出たにもかかわらず、なんだか遠くて、白々しく聞こえた。
「……え?」
「もう、やめよう。恋人づきあいは、もうやめて別れよう。僕と別れて男としての生活を取り戻して、普通に生きる道を選んで欲しい」
玲央ちゃん──いや相川くんの喉から、嗚咽がこぼれる。目から溢れる涙が止まらない。
僕が差し出したハンカチを断って、自分のハンカチで目をぬぐう。
周囲から突き刺さる『彼女を泣かせた悪い男め』という視線。でもそれは今回はどうしようもない事実で、甘受するしかない。
涙声のままの相川くんと、言葉を重ねたあと、息を大きく吸って、“彼”は言った。
「……決心は変わらないんですよね」
「正直迷ってる。投げ出して玲央ちゃんを抱きたい気持ちはある。でも、決心は変わらない」
「──分かりました。立派な男になれるよう、“ボク”、頑張ってみます」
2人無言で自分の携帯を操作して、メールアドレスと履歴とを消去する。
「篠原さん、これまでどうもありがとうございました」
少年の声でそう言って頭を下げ、去っていく“彼女”の後姿を目で追いながら、僕は深い深い、底の見えない漆黒の穴に落ちていくような感覚を振り払うことが出来なかった。
『Symbolon』 §11・朝島菜々華 2005/03/24(木)・4/20(水)・5~8月
「あれ田中、祥子さんと付き合ってるんじゃないの?」
「難しいなあ。アレも何度もしたのに、まだ『わたし達は恋人じゃない、友人だから』って言われて、今日のことを話したら『いいじゃない。恋人作ってきなよ。応援するよ』だって」
「お前も難儀なことになってるんだな……」
そんな会話をしながら、少し遅れて最後の2人が合コン会場の居酒屋に現れた。
背が高いハンサムな男性と、少し小柄な──背丈は私と同じくらいだろうか? 猿顔の男。
「皆様方、ほんとーにお待たせしてすいません。ほら、篠原お前も謝って」
「……済みませんでした」
それだけ言って、頭を下げて空いている席に座る。
自分としてはどうかなーっていう態度だったけど、私をこの場に誘った佳代は、
「うわっ、クールでいいなあ」って目をハートマークにしそうな勢いだ。どんなんだ。
遅れてきた2人も交えて、自己紹介が始まる。
「えぇと、朝島菜々華、××大学○○学部1年です」
「今年の××大学、準ミスキャンパスでーす」
「もう、佳代。それは言わないでって言ったでしょ」
「謙虚だねー。ちなみに女子高出身の箱入り娘」
ミスならともかく、準ミスなんて……って理由なんだけど、誤解を解くのも面倒。
ただ、それまであまり興味なさそうな顔をしていた例の背の高い人が、私の顔をびっくりした表情でまじまじと見つめたあと、首をぶんぶん振ったのが、少し、印象に残った。
でもその合コンでは結局直接会話を交わすことすらなくて、今にも居眠りしそうな感じで、自分から発言することもほとんどなくて、根暗な人だなあ、と思ったのが『彼』の第一印象。
しばらく経ったあと、「相手にもしてもらえなかった」と佳代が泣きついてきたほうが余程記憶に残っている。
それから1月ほどあと。2回生になり、大学から家に帰る夜の駅の構内。ふと知った顔を見かけた気がして、足を止める。相手も同様に気づいたらしく、少し首を傾げたあと、
「ああ、朝島さん。同じ駅だったんだね」
と私に笑いかけながら言った。
「えーっと……あ、以前合コンで一度会った」
「うん、そう。篠原俊彰。あの日は眠くて、まともに参加できなくてごめんね」
小雨のぱらつく中、なんとなく会話の流れで、駅近くの定食屋に2人で入る。
「そう言えば気になってたんだけど、合コンの日、私見て驚いてたよね? あれなんで?」
「いや、昔の知り合いに似てるなあ、って思っただけ」
「知り合いって、元カノとか?」
「うん、まあ、そんな感じかな」
「今は彼女いないの? 佳代とか付き合いたがってたけど」
「佳代って誰? ああ、思い出した。今はフリーだけど、ごめん、あのタイプは苦手なんだ」
『彼』の第二印象は、悪くはないけど、退屈な男。そんな感じ。
「……ぃやっ……ぁあっ……ああっ……やっ、やめっ……ああっ……」
そんな『彼』とラブホテルに入ったのは、ただの気まぐれのようなものだった。
最初に駅で会って以来、週に1・2度は顔を合わせるようになった『彼』。
挨拶してそのまま別れたり、少し会話したり、たまには一緒に食事したり。
けど、それ以上は進まない知人だと思っていたのに。
先輩から見初められたことから始まった、女子高時代の私のレズ趣味(まあうちの学校でも珍しくて、白い目でみられたりとか色々あったけど)。
大学に入ったあとはもう卒業して、普通に男性と恋をしたいと思っていた。でもしっくり合う男は中々見つからない。
自分の男を見る目の無さ、男縁の悪さに少し失望していたくらいだ。
その日の夕方まで付き合っていた男のような、自己中心さ、押し付けがましさ、デリカシーのなさ、思いやりの無さが、どうしても受け付けられない。
エッチの時だって、男とやるときイッたためしがない。おかげでイク演技はうまくなったけど、嬉しくもなんともない。男自体に嫌悪感を抱きそうだった。
それが今、彼の舌と指によって、他愛なく私の体は絶頂に導かれている。
「ごめんね。今日は突然で、コンドームとか持ってきてないから」
最初この部屋に入り、服を脱いだあと彼は申し訳なさそうな声でそう言って、男のあそこを挿入することなく、私の全身を優しく蹂躙した。
まるでどこに私の快楽のスポットがあるのか、予め知り尽くしているかのような的確さで。
『コンドーム持ってきてないから、中出しでもいいよね?』
他の男から何度も聞いた言葉とはまるで違う、彼の態度。
彼への興味が好意に変わったのは、その時からだったと思う。
まあ、挿入しなかったのはコンドーム云々ではなくて、彼が私相手だと勃起しないからだと後日分かるわけなんだけど、好意から恋に移行したあとの私には障害にもならなかった。
むしろ男性器に嫌悪感を持ちぎみだった私にとって、『なんて、都合の良い相手なんだ』と感心したくらい。
『彼』──篠原さん──俊彰──が、私の恋人になったのが正確にいつからなのかはよく分からない。
でも大学が夏休みになる前には、私たちはもう恋人同士になっていたのは確かだと思う。
まあ、佳代からはヤッカミの言葉を散々頂きましたが。
生活圏が違って接点がなかったけど、分かってしまうと意外なくらいに彼と私の家は近くて、そのせいもあってか、夏休みも結構な頻度で私たちは一緒に遊び倒していた。
『私相手だと勃たない』というのを彼は凄く気にしていて、でも私は全然気にしてなくて。それを教えるために時折ホテルとかに誘ってみるけれども、彼は乗ってこない。
そんな問題はあっても、穏やかな日々と彼の気遣いが、割と気に入っていた。
このまま結婚してもいいかなあ、ってことまで考える、そんな私のガール・ミーツ・ボーイ・ストーリー。
『Symbolon』 §12・朝島玲雄 2005/09/02(金)・10/11(火)・10/15(土)
「朝島、相変わらず下手だなあ」
「るせ。自分で誘ってなんだその言いぐさは」
マイクを次の人に渡し、自分の席に戻る。
高校生活も半分近く過ぎたのに、相変わらず“俺”の声は声変わりする様子がない。
いつも作っている低目の声で無理して音を出しているので、自然、音程が外れる。『音痴』な音しか出すことができない。テンポがずれるのを止めることすらできない。
「なあなあ、次一周して、得点一番低かった奴罰ゲームな」
人付き合いの悪い俺をカラオケに引っ張り出したというのは、そういう理由か。メンツの一人が(女物衣装一式をつめたような)大きなバッグを持ってきた理由も良くわかる。
あれから2回も誕生日が過ぎたのに、俺の外見は少しも男らしくならず、俺を『女装させよう』という話が後を絶たない。
「ん、分かった」
諦めた口調で、了解を返す。
一瞬、自分の『本当の声』で思いっきり歌ってやろうかと考えたりする。『俊彰さん』と何度も通ったカラオケ。あのころ点数で92点以下を出したことがなかったはず。
でも、「二度と女装はしない」と誓った俺にとって、女性そのもののあの声で皆の前で歌うのは、あまりに地雷すぎるのは分かりきっていた。
隣の席にいた片山が前で歌っているタイミングを見計らって、トイレにでも行くようなそぶりでカラオケを脱出。
置いたっきりの鞄の中には夏休み明け早々に出た月曜提出の宿題が入っているけど、まあどうでもいい。メンツから考えても、鞄を返してくれないことはないだろう。
『朝島』の表札のある家に到着。
「ただいま……」ほとんど口の中だけでそう呟き、鍵を開ける。
玄関には靴が並んでいる。姉の靴と、誰のものか分からない、真新しい男物の大きな靴。
この靴は誰のものだろう。そう思った瞬間、懐かしい声が居間のほうから聞こえた。
聞き間違えるはずがない。どんなに聞きたかったことか。
今すぐこの声の主の、彼の胸に飛び込みたい。そんな気持ちを抑えつつ、扉を開ける。
「あら、お帰り玲雄。俊彰、この子が私の弟の玲雄」
「お久しぶりです。篠原先輩」
「あ、うん。お久しぶり……玲雄くん」
「え? 嘘? あなた達、知り合いだったの?」
「篠原先輩には一時期、勉強を教えてもらっていたことがあってね。うちの高校のOBだし。お姉ちゃんの彼氏ってのは、今知って驚いたけど」
「……そっか、玲雄くんって、菜々華の弟だったんだ」
「そんな偶然ってあるものなのね。玲雄もこんないい男知ってるなら、紹介してくれれば良かったのに」
「お姉ちゃんの趣味って知らなくてごめん。じゃあ、俺は宿題があるんでここらで」
返事を待たずに逃げるように居間から退出。それ以上保つかどうか、自分が不安だった。
部屋に篭って鍵をかけて。
当然宿題もするはずもなく、ベッドに寝そべり、ただ呆っと天井を眺める。
気がつくと時計は10時になっていた。
何気なく携帯を確認して、そして息が止まる。
見ただけで涙がこぼれそうになる懐かしいアドレス。篠原さんからのメール。
中身を確認すると、『できれば掛けて下さい』の文字と携帯番号。
何度もためらって、電話を掛ける。
「もしもし、篠原さん。朝島玲雄です。今時間大丈夫でしょうか」
本来の女のような声が一瞬出そうになって、慌てて低くする。
『うん、大丈夫。それにしてもびっくりした。苗字は相川だとばかり思い込んでたし』
「最初に渡した手紙に『朝島』って書いてたし、別に隠してたわけじゃないんですが、騙す形になってごめんなさい」
『全然気にしてないから大丈夫。a_leo@ってメアド、aは相川じゃなくて朝島だったわけか』
「まあ本当にそれは偶然ですけどね。そういえば、メアドは最後消してましたよね?」
『a_leoの部分は忘れようがないし、プロバイダが菜々華と一緒だからね。それより玲雄くんが、ちゃんと男の子してるの見てほっとした』
「それが、約束でしたから」
『玲央ちゃ……玲雄くんは本当立派だよね。どうかな、僕達気が合うのは確かだし、友人としてやっていけないかな』
「お義兄さん、ってだけで十分だと思いますよ。篠原さんが義兄なら俺も嬉しいです」
「……嘘つき」
結局30分ほども会話して、電話を切り、ベッドに再び倒れこんだ俺の耳に、自分の声のはずなのに、そうは聞こえない独り言の声が届いた。
9月後半になってから、それまで毎日のように篠原さんと出かけていたお姉ちゃんが家に一人でいることが多くなった。
聞くと、「お互いレポートが終わんなくて」とのこと。去年は俺と一緒に最初に片付けたものだけど、1回生と2回生で違うものなんだろうか。大学のことは良く分からない。
そんな日が続いた10月の連休明け、篠原さんからメールが届く。
お姉ちゃんとの仲が最近しっくり行ってなくて、どうすればまた元のように戻れるのか相談したい。できれば今度の土曜昼から直接会って話したいとのこと。
その時間ずっとお姉ちゃんと一緒に遊んだほうがいいんじゃないのか、そう思いつつ読み進めているうちに、メールの追伸の「男の格好で来てね」という文字が目に入る。
(そっか。女の格好で行く選択肢もありうるのか)
心が躍るのを止められない。
(うん、土曜日は一日だけ『玲央』になって甘えて、それで完全に吹っ切ろう)
そう自分に言い聞かせつつ、篠原さんには了承のメールを送って、電話を掛ける。
「祥子さん、お久しぶりです。朝島玲雄です。今度の土曜日なんですけど……」
約1年ぶりの女装。
女の服を着ることが、こんなに恥ずかしいこととは思わなかった。
最初に女装した時にも感じたことがない、謎の羞恥心と背徳感が全身を包む。
上半身裸になった俺が手にしているのは、女物の薄いピンクのブラジャー。1年前は普通につけていた俺の持ち物。高校の男子生徒の私物のブラジャーってどんだけって感じだが。
悩んでいても仕方がないので、思い切って胸につける。
背中のホックをつけようとして、ぎりぎりで手が届かないことにショックを受ける。
「玲雄くん、大丈夫?」
「祥子さん、すいませんお願いします」
「相変わらず綺麗な肌ねえ。去年に比べて痩せた? ちゃんと食事とってる?」
前は楽につけられていたはずなのに、と悩む俺の背中に指を走らせつつ、祥子さんが言う。
「一応、とってますよ」
生返事を返しながら、ブラジャーにパッドを突っ込んで位置を調整していると、祥子さんが手を伸ばして位置あわせしてくれる。なんだか異常な状況だ。
懐かしいワンピースを手に取り、肩に羽織る。
改めて見ると、フリル満載でゾロゾロとしていて、自分はこんなもの着ていたのかと呆れる。男物の服にはない、柔らかすぎる手触りになんだか奇妙な気分になる。
その状態でトランクスを脱ぎ、これまたピンクのショーツを穿く。はみ出るどころか、ふくらみがあるかどうかも定かでない自分の貧相さが嫌だ。
靴下は今のままでいいかと思い直し、ブラウスのボタンを留める。
どうもおかしい。そもそも、今の行為を『女装』だと自分で思っていること自体が奇妙だ。
なんで自分はわざわざ女装なんてしているのだろう? 「男の格好で」って言われたのに。
今、「今日はやっぱり男の服で行きます」と言いさえすれば良いのに。
そう思って祥子さんに顔を向けても、言葉が出てこない。
「ん? どうしたの? ああ、化粧してあげよっか」
「……お願いします」
化粧をして、エクステもつけて、ボレロも着て。鏡の中に映る自分の姿を確認する。
記憶にあるとおりの、いやそれ以上の可愛らしい少女がそこにいた。
でも期待と違って、『私がその女の子なのだ』という実感が沸いてこない。
「ありがとうございました」と祥子さんにお礼を言って、待ち合わせ場所へと歩く。
通り過ぎる風がスカートの裾を奪う。自分の顔に塗った化粧の匂いが鼻につく。
男の時には絶対なかった感触と匂いに、戸惑う自分に戸惑う。
周囲の自分を見る目が、男だと見抜いているようで落ち着かない気分にさせる。
それが待ち合わせの時間になって、懐かしい優しい声が届いた瞬間、すべてが霧消した。
「ごめん、また待たせちゃったね」
2人で腕を組んで、道を歩き始める。
──俊彰さん、ごめんなさい。私はやっぱり男になることができませんでした。
──お姉ちゃん、ごめんなさい。私はやっぱり俊彰さんが大好きです。
『Symbolon』 §13・朝島菜々華 2005/10/15(土)
自分の目に飛び込んできた光景に、自分の目が信じられなくなった。
最近俊彰が冷たくなってきたのは感じていたけれども、まさか直接「浮気」の現場を見せ付けられるとは。
昼下がりのカフェテリア。一人寂しくコーヒーを飲んでいる最中、ふと窓の外を見ると俊彰が通りすがるのが見えた。手を振って呼び止めようかと思った瞬間、その手が止まる。
彼は一人ではなく、女連れ。それも腕なんか組んですこぶる仲が良さそうだ。
何の因果か、私には気づかずに店内に入る二人組。
認めるのはシャクだが女のほうは私よりずっと可愛く、何より「好きな人と一緒に居れて幸せ」オーラが半端ない。俊彰の顔も──これまた非常にシャクなことに──満面の笑顔で崩れそうだ。彼が前私にこんな顔を向けてくれたのはいつくらいだろう?
ゆったりとしたオフホワイトのマキシワンピにミントグリーンのボレロを合わせた衣装。正直フリル過積載の少女めいた服だけど、彼女の儚げで守ってあげたくなるような雰囲気にそれは非常にマッチしていた。
髪は脱色をかけたほうが服に合うと思うのだけど、背中にかかるさらさらの髪が黒いままなのは、ひょっとして校則が厳しいお嬢様学校の生徒なのだからなのだろうか。
私に気づく様子もなく2人はそのまま一番奥側の席につきオーダーを。入り口に近い自分の席からは、俊彰の背中と少女の顔が視界に入る。
なんとなく彼女の顔に見覚えがあるような感じがして気分が悪い。あれだけの美少女、私が思い出せないことはないはずなんだけど。アイドルに普通にいそうなレベルの容姿だけに、あるいはテレビか雑誌で見ただけなのかもだが。
ひょっとしてあれは俊彰じゃなくて、誰かの見間違いでは? ふとそんな思いが頭をよぎってみる。あれは浮気なんかじゃなくて、ただの他人の空似、もしくは私の見間違い。
そんな一縷の希望が沸いてきて、少し考えて彼の携帯に電話をかけてみた。
途端に店内に鳴る聞き覚えのある着信音。
……脱力。
実際に机につっぷしたのが拙かったのだろう。
今まで和やかに会話していた少女が何事かとこちらを見ると、それにつられて俊彰(もう疑いようがない)もこっちを見て私を発見。
「お姉ちゃん?!」
「菜々華?!」
……その言葉に遅まきながら、ようやく気がつく。道理で彼女の顔に見覚えがあるわけだ。
一度気づいてしまうと、何で分からなかったのかが自分でもイミフ。
あの『少女』は、私の弟(※妹ではナイ)の玲雄だった。
その後の修羅場については思い出したくもない。
ただまあ、明日俊彰と2人で会うよう約束して別れたところから見るに、我ながら未練たっぷりなのだなあと自分でも思う。
結局弟と2人で家にたどり着いたのは7時くらいになってから。
玲雄は例のワンピース姿のまま。そうしているとどこからどう見ても女の子──それも、悔しいことにとびっきりの美少女──にしか見えないけど、近所の知人に遭って正体がばれないか、ここまでずっとビクビクし通しだった。
「お姉ちゃん……なんというか、色々ごめんなさい」
それだけ告げて自分の部屋に戻ろうとした弟を捕まえて、私の部屋に連行する。
「……あなたねえ。姉の恋人を寝取っておいて、そのくらいで済むとか甘い考え持ってたりしないわよね?」
「ひゃ……ひゃい」
共働きの両親が帰ってくるまで、いつもなら3時間というところ。
女子高の3年間で培った先輩秘伝のテクニックで、弟に『女』を教え込んで支配して、自分に逆らえないようにするのに、まあ十分な時間だろう。
「お、お姉ちゃん? ……な、なんだか顔がとっても怖いんだけど」
身長165cmの私より背が2cmほど低くて肩幅も狭くて、顔も小さくて肌もすべすべ。
大学2年の私より3歳年下、高校2年になる弟は、幼いころからよく女の子に間違われる少年だった。アイドルやらモデルやらのスカウト話が来たことも一度や二度ではない。
私自身、前々から女装したら似合うんじゃないか、女装させてみたいと思っていて、何度も冗談めかして誘いをかけてみたけれども、その都度断られてきた。自分の容姿を気にして女にされることを嫌がる、あの様子はフェイクだったんだろうか?
今日見た彼の女装は、仕草も、表情も、声や言葉遣いも完全に板についていて、最近の女子平均なぞよりむしろずっと女らしかった。
女の子の姿のまま部屋に連れ込んだ玲雄のお尻を、まずはワンピースの上から弄って触り心地を鑑賞する。薄いシフォンの生地は、まるで何もまとっていないかのように直接的に体の感触を私の右手に伝えてきた。
彼の体から(多分制汗剤なのだろう)女の子らしい柑橘系の甘い香りがふわりと漂う。
「標準的な男子」がどうなのかは知らないけれど、私が相手してきた「標準的な女子」に比べると脂肪ではなく筋肉の支配する、やや丸みに欠ける双丘。そこだけは確かに女とは違う男らしい部分だった。
指先の伝える、弟が身に着けている下着も女物。
戸惑う玲雄を無視して、そのままお尻の谷間に指先を軽く這わせる。
突然の接触に、ビクンと身体を反らせて反応する弟。
「イ、イヤ……!」
ピンクの色付リップを塗った唇からそんな言葉が漏れるが、身体はもっと正直だった。
指先に少し力を入れ、ワンピースと下着の上から「少女」の秘孔をまさぐり刺激を与える。
「お姉ちゃん……やめて……やめて……」
そう言って力なく首を横に振るものの、桃のような色白の頬は真っ赤に紅潮し、大きな目には潤みを湛えている。
更なる刺激を求めて腰をくねらせているのはたぶん、自分でも気づいていない動作。
小さなショーツの前を押し上げてむくむくと、完璧美少女な外見に唯一そぐわない器官が自己主張を始めるのが分かる。
「そこは、『お姉ちゃん』じゃなくて、『お姉さま』って言って欲しいなあ」
「お……お姉さま、やめてください……」
「だーめ」
そう言って私は「妹」の唇を自分の唇でふさぐ。柔らかさ、滑らかさ、弾力、どれを取っても一級の極上の唇。これまで味わってきたどの女の子たちよりもずっと女の子らしい、理想の唇がそこにあった。半ば無理やりその割れ目に舌を潜り込ませる。
なんだかそれだけで、穢れなき処女を蹂躙する性行為をしているような気分になる。
同時に左手でワンピースのボタンを外し、はだけた胸元から手を進入させる。ブラジャーとパッドをかいくぐって蕾のような小さな乳首を指でくすぐる。それは「男の胸板」の感触ではなく、「女の膨らみ」とまでは言えないものの、脂肪が薄く載って柔らかい。
胸の大きさがこの程度の女の子なら、何人も知人にいるレベルだ。
もちろん右手はお尻の割れ目を服の上から攻め立てるのを止めてない。
お尻、乳首、唇の3点から同時に来る快楽に涙目で身悶える愛らしい少女。さらさらの黒髪(多分エクステだろう)が肩の上で踊るたびに、女の子めいた芳香が鼻腔をくすぐる。
これが自分の「弟」だという倒錯感と背徳感が、私の背筋を駆け巡りぞくぞくする。
「ぃ……あっ……」
唇を離すと、熱い吐息とともに女の子そのもののつやめいた声がこぼれる。
床に女の子座りで(!)へたりこむ「少女」を少し放置して自分のスカートを脱ぎ、机にしまってあった『道具』を取り出す。
女子高時代の先輩の卒業祝いとして譲り受けた大切な贈り物。私自身の身体にも何度も挿入されたことのある、黒光りのするペニスバンド。
ついでに部屋の全身鏡を移動させて「少女」の前に設置してみる。
「彼女」を抱え上げる形でもう一度立たせ、後ろからワンピースの裾をめくってお尻を露にする。
伸びない素材だけに難しいかと思ったけれども、すべりの良い柔らかなシフォン生地と、それ以上に滑らかな手触りのスネ毛の一筋もない両脚は、ほとんど抵抗もなくするすると腰までスカートを持ち上げさせてくれた。
「やだ……いや……許して……やめて……お姉さま、やめて、やめてください……」
「だーめ」
哀願する「妹」に再度その言葉を言い放ち、下着を太ももまで下ろす。窮屈な女物のショーツに押さえつけられ、はちきれんばかりになっていたペニスが外気に晒され、辺りに(こればかりはどうしようもない)雄の匂いを振りまいた。
もっともその部分は視界の外。代わりに目に入るのは「彼女」の薄く化粧された、少女そのものの愛らしい横顔。肌はどこまでもきめ細かく、こんな至近距離で見ても毛穴の気配もない。もし私の肌がこんなに綺麗なら人生変わったのだろうか?
長い髪の間から垣間見える首は、喉仏も判然とせず細くなだらかだ。
抱えた身体は羽毛のように軽く、ウエストはもう少し絞れば両手でつかめてしまえそう。
筋肉は確かに女子平均よりは多いけど、運動部の娘にくらべればまだしも控えめなほう。むしろ程よい弾力となって抱えた腕に快感を与えてくる。
外見も、喘ぎ声も、肌触りも、見えている範囲ではどこをとっても極上の美少女そのものなのに、少女にはありえないものが股間で刺激を求めている、そんな不思議な状況。
その器官をあえて無視して、アヌスを指で執拗に刺激する。
「ひゃ……ん、あぁ……ん……ん……」
それだけで、こらえようとしても、こらえられない喘ぎが唇から零れる。
「これは罰なんだからね。姉の恋人を寝取ろうとするとか、酷いことしたあなたへの罰」
「ちが……ちがぅ……ちがうの……」
「違う? どこがどう違うの? ちゃんと言ってみなさい」
「……ぃゃ……やっぱりそのとおりです……私は悪い子なんです。ごめんなさい……」
「彼女」の耳に口を近づけ、耳たぶを甘噛みする。それはマシュマロのように柔らかくて、甘さで舌が痺れてきそうな錯覚すら覚える。耳の穴に舌を入れたり口をつけて吸い上げたり。
新しい性感帯の発見に、一々身悶えして反応してくれる様子が面白い。
あまりに感度の良好さに調子に乗りつつ、右手のアヌスへの刺激もヒートアップ。
ただ、これまで私が相手をしてきた女の子たちの場合、大抵この段階になれば挿入を哀願するようになるのだけど、「彼女」の場合快楽と羞恥に真っ赤になって身悶えつつ耐えているだけで、それ以上の段階には中々行かない。
やっぱり、幾ら外見が女そのものでも、身体の反応には男と女で違いがあるのだろうか?
本当なら自ら挿入を懇願させるところまで行きたかったのだけれども、あきらめて指にローションをつけて挿入に繋げる。
今までの刺激で柔らかくなっていた穴は意外なほどたやすく私の指をすっぽりと根元まで指を飲み込む。そのまま出し入れしたり、中をかき回したりして感触を堪能。
そのたびにビクビクと身悶え、あるいは甘く熱い吐息をこぼす偽少女。
「ぁぁ……ぃく、いっちゃうぅ!」
中指を軽くまげて直腸の壁を刺激すると、おそらくスカートの内側一面に白濁液が飛び散のだろう、栗の花のような匂いがあたりに広がる。
指をきゅっと締め上げる括約筋の感触に名残を惜しみつつ、そっと抜き出す。
途端に脱力してへたり込む体を軽く支え、上半身を前に倒して膝付きの形で立たせて四つんばいにする。いわゆる雌豹のポーズとでも言うのだろうか。そんな感じ。
私は背後に回って膝立ちになり、ローションをかけたペニバンを菊門に押し当てる。
「いやぁ……ごめんなさい、お姉さま、それだけは勘弁して、許して」
折れそうなウエストを両手でしっかりと握り締め、始めはかるくゆっくりと、徐々に力をこめて肉棒を突き入れる。
「だーめ」
もう一度その言葉を重ねてペニバンをしっかりと根元まで貫通させる。
「ほら、お○んちんを根元までずっぽりと飲み込んで。いやらしいオマ○コね」
処女のくせに……と続けようとして詰まる。この様子だとこの子、実はもう“処女”じゃなかったりするんじゃなかろうか。
それ以上考えると怖くなりそうなので思考を中断。
先ほど移動させた鏡の中では、可愛らしい衣装に身を包んだいかにも純真そうな美少女が、まるで獣のような格好で交尾させられている。
顔に浮かぶのは、羞恥、快楽、屈辱、愉悦、悔悟、陶酔、そのすべてを含む複雑な表情。口元からは涎が、目から涙がだらだらと垂れ落ちているのに、不思議なことにその顔はまるで聖女のよう清らかさすら湛えている。
「ぃゃ……いやぁ……だ、だめ、ゆるして……いやぁ……」
口から零れるのは拒絶の言葉。それなのに肉体はどうしようもなく貪欲に、肛門の与えてくれる快楽を貪ろうとして肉棒を求めてくる。本人の意思とは関係なく自分から腰を動かして刺激を求め、全身がビクンビクンと痙攣を繰り返す。
その様子に応えて、激しく腰を振って犯し続ける私。
挿入しているのが男であればとっくに射精して終わりなんだろうけど、私の股間についた紛い物は堅さを維持したままで中断を許さない。
股間には一切刺激を与えていないというのに、肛門のもたらす刺激だけで既に何度も発射。とっくに全身がぐったりしているのに続く、終わりなき快楽の輪舞。
精液もとうに枯れ果て、とっくに射精できなくなって、それでも肛門から強制的に与えられる快楽だけで何度も「女」としての絶頂を繰り返す。それが何度続いたのだろう。
漸く「彼女」が気絶して床に完全に倒れんだ時には、私自身精も根も尽き果てたような気分だった。
女子高を卒業して、もう完全に辞めるつもりだった少女との行為。
最後の最後に手に入れた、極上の美少女であり、かつ自分の実の弟でもある不思議な「妹」。
今後の「彼女」の関係をどうするか、俊彰との関係をどうやっていくのか。そんなことをぼんやりと考えつつ、自分自身の肛門を弄りながら自慰に耽るのだった。
『Symbolon』 §14・篠原俊彰 2005/10/15(土)
このところ、どうも菜々華としっくりいっていない。
理由は明らかで、すべては僕の不甲斐なさだ。
“玲央ちゃん”と分かれたあと……なんというか、自慰をしようとしてもうまくいかない。
昔使っていたAVを見ても、ネットで色々検索かけてみても、ぴくりとも反応しない。
一応ホモやニューハーフものも見たけど、吐き気がするばかりで見終えることも無理。
最後まで出来るのは、玲央ちゃんのアルバムを見ているときだけという始末。
“玲央ちゃん”と少し似ている菜々華だったら或いは、と思ったけどやはり駄目だった。
それなのに時折、彼女は僕にエッチをねだってくる。
断るたび、あるいは受け入れてやっぱり無理だと分かるたびに、申し訳なさが募る。きっぱりと、「もう誘わないで」と言えればいいんだけど、それすらできないのだ。
もう一つが、僕が菜々華に対して、玲央ちゃんのことを重ねて見ているという事実。
菜々華は好きだし、大切にしたい。その気持ちに偽りはないのに、いやだからこそ自己嫌悪が積み重なっていく。
仲直りして普通にしていたいのに、後ろめたさでいつもの受け答えするのもきつくなる。
多分、どこかで、ボタンを1つ掛け間違えているだけだとは思う。
でもそれがどこなのか、どうやったら直せるのかが分からない。
誰かに相談したほうが良いのか──と悩んでいる最中に浮かんだのが玲雄くんの顔だった。こうも駄目駄目な僕と違って、普通の男に戻れた彼なら──そう思ってメールを打つ。
追伸に「男の格好で来てね」と書いたのは、ただの念のためのつもりだった。
……それなのに。待ち合わせの時間、待ち合わせの場所。
懐かしさで涙が出そうになる姿。ボレロにワンピースのほっそりした美少女のような少年。
「ごめん、また待たせちゃったね」
例によってナンパ男に絡まれてしまっている“玲央ちゃん”に声をかける。
「ああ、彼氏さんですか。彼女さん、本当にお綺麗ですね。私、こういうもので……」
……訂正。ナンパ男じゃなくてスカウトマンでした。
「すいません、これからデートなんで邪魔しないで下さい」
まあ対応は変わらない。半ば強引に玲央ちゃんと腕を組み、逃げ出すようにその場を去って、今の出来事に笑いあいながら、毎度の喫茶店に足を踏み入れる。
──それが、どんな結果を導くかも知らずに。
夕方、菜々華と玲央ちゃんの2人と別れて、そのままうつ伏せに倒れこんだ自分のベッド。
明日になれば菜々華も落ち着いているだろうから、そこでもう一度きちんと説明して……受け入れてもらえないのなら仕方が無い、諦めよう。
そう、割り切れるくらいに冷めている自分に驚く。
姉弟で酷いことはないはずなのに。何故だろう。不吉な予感が止まらない。
悶々としつつ何もできないでいる中、携帯に玲央ちゃんからのメールが届いた。
『ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい』
自転車にまたがり、夜道を走る。自己最短記録をあっさり更新し、朝島家前に到着。
チャイムを鳴らしたらまずいことに気付き、玲央ちゃんの携帯に電話。要領を得ない問答を繰り返したあと、出てきてもらう。
帰ったときから変わらない、白いワンピース姿に胸騒ぎがする。普通に考えれば、とっくに男の服に着替えさせられているはずなのだ。
目の焦点があってない。やつれた感じがする。抱き寄せた体から、精液の匂いが漂う。
ずれたカツラをきちんと直し、呆然としている玲央ちゃんを連れて、タクシーで家に戻る。
物問いたげな親父に「説明はあとでするから」とだけ言い残し、僕の部屋に連れて上がる。
彼女(そう、僕にとってこの人は“玲央ちゃん”だし“彼女”なのだ)の体を抱き締める。
30分くらいそのままでいて、ぽつりぽつりと玲央ちゃんが話した出来事はとても信じがたいことで、でも今の姿を見て嘘とはとても思えなくて。
(そっか、菜々華ってレズで、僕とのセックスも言わば擬似レズみたいなものだったのか)
なら僕さえそれを受け入れれば、問題の核は霧消するから菜々華と元の鞘に戻れるか……そこまで脳裏に一旦浮かんだ手順を、拭い去る。
「──お姉さまが私のことを生き物ですらなく、ただの肉の穴のように扱って。でもそれを気持ちいいと感じてしまう自分の身体が、とてもとても嫌で嫌でたまらなくて」
それは静かだけど、悲鳴のような声だった。
玲央ちゃんを風呂に入らせて、手早く作った具多めの焼きそばを2人で食べる。
その頃になってようやく、玲央ちゃんも落ち着いてきたようだった。
「明日になれば、篠原さんはお姉ちゃんと仲直りするわけですよね。今更ですけどメールで言ってた、相談したかったことってなんでしょう」
「うん、そのことだけどね。……もう、諦めた」
「……え?」
「『僕に第一なのは玲央ちゃんの幸せ』って前言ったよね。それで、玲央ちゃんが幸せになると思って、別れるよう言ったんだ。……でも、それが最初の、そして一番の間違いだった」
「……」
「今日1日で、色々あった一日だったけど、それを痛いほど思い知らされたよ。僕は玲央ちゃんを不幸にした人を許せそうにない。──つまりそれは、菜々華と、僕自身のことだ」
「いや、今日のは私のせいですよ。私が言いつけ破って、女の服で来なければ」
「それを迷わせたこと自体が、そもそも僕の間違いだったんだ」
裸の上に直接僕の白いシャツだけ羽織った玲央ちゃんの前に、膝をついて座りなおす。
「僕、篠原俊彰は、一人の男性として、玲央ちゃんという女の子を、心から愛しています。この世の他の、誰でもなく」
そう言えば前付き合っていた時期に、きちんとこの言葉を伝えたことがあっただろうか?
無言で見守る僕の瞳をしっかりと見つめて、彼女はゆっくりと宣言を返す。
「……もう、自分の心に嘘をつくのは嫌です。私、朝島玲央は、一人の女の子として、俊彰さんという男の人を愛しています。心の底から、もうどうしようもないくらいに」
2つに分かたれた1枚だった絵が、ようやくまた、ぴたりと元の一枚絵に戻るのを感じた。
裸の上に男物のシャツを着ただけで、化粧もカツラもしていない姿。普通に考えれば男に見えるはずなのに、今はもう、美少女のようにしか見えない。
いや違う。……僕が「心から愛してます」と宣言した瞬間から、まるで蕾が開花にいたるまでを、蛹から蝶が羽化するまでを高速で再生したときのような変化を遂げた玲央ちゃん。
『美少女』という言葉でも、まだ全然足りていない。
まるで、白い翼を広げた天使のような、完成された美の化身として“彼女”はそこにいた。
(天使って両性具有なんだっけ)
最初に玲央ちゃんと結ばれたあと、彼女が言った逸話と同時にそんなことが思い浮かぶ。
「俊彰さん、泣いてるんですね」
彼女の言葉で、ようやく自分が涙を流しているのに気付く。
「あ……うん。そうだね。……たぶん、玲央ちゃんがあまりにも綺麗で、綺麗で、そしてとっても綺麗過ぎるからだと思う。……玲央ちゃんも泣いてるよね」
「うん。なんだか、どう表現したらいいのか分からないけど、私、今、お母さんの産道を過ぎて初めて世界に誕生した赤ん坊のような気分。嬉しくて、怖くて。
世界ってこんなに広いもんなんだなあって。こんなに光り輝いているもんなんだなあって」
頬を伝わるダイヤモンドのような輝きを、舌で舐めとって味わう。
涙だからしょっぱいはずなのに、なぜかすごく甘く感じる。玲央ちゃんの味。
頭が小さいから余計に大きく見える、ぱっちりとした二重の目。その中で黒く輝く瞳。
すべてが大好きな彼女の姿の中でも、僕が真っ先に惹かれた部分。
その黒曜石のような輝きに、至近距離からいつまでも見蕩れていたかったけど、彼女が瞼を閉じたので、意図に応じて唇同士を重ねる。長く濃くけぶる睫毛がとても綺麗だった。
(菜々華、ごめんね。結局、僕は君の愛に応えることができなかった)
約1年ぶりの幸せの感触で埋めつくされる脳裏の中で、ふとそんな思いが、泡のように浮かんで、はじけて、そして消えた。
玲央ちゃんの唇、玲央ちゃんの舌、玲央ちゃんの唾液、玲央ちゃんの匂い。
『玲央ちゃんなしで生活してたとか信じられない』──昔、いつか何処かで僕が言った言葉が蘇る。記憶しているよりは少し瑞々しさと柔らかさを失っている気がするけれど、それでも他の何よりも愛しい愛しい、玲央ちゃんの唇。
キスの世界最長時間って何時間だったっけ? 挑戦してみたい気が少ししたけれど、先に進みたい気持ちが上回って唇を離す。
唇同士を繋ぐ唾液の橋が、自分でも驚くくらい長く2人の間を留まっていた。まるで、二度と離れたくないという僕達の意思を表すように。
「私、何も良いことしてないのに、こんなに幸せになっていいんでしょうか」
「玲央ちゃんはこれまで散々、神様の気まぐれのせいで苦しんできたんだから、これからは幸福になって当然だよ。それはむしろ僕のほう。
僕の間違いで色んな人を苦しめたのに、こんなに幸せで満たされていいんだろうか、って」
ぶかぶかで折り曲げた袖から覗く、折れそうなほど細い腕、合わせ目から覗く鎖骨のライン、白い胸の肌、剥き出しになった長い脚。──玲央ちゃん、君は綺麗だ。
細い体を両腕に抱き締め、首筋に舌を這わせる。
耳に近づくほど、玲央ちゃんが身体をこわばらせるのに気付いて、一旦身体を離す。
「玲央ちゃん、大丈夫?」
「そこはお姉ちゃんが……いえ、大丈夫です。俊彰さんの舌で記憶を上書きしてください」
察するに、菜々華に耳のあたりを重点的に責められたらしい。
『そこ』が性感帯になりうることはたぶん、僕が菜々華の身体に直接、教えたことだ。
とても奇妙な、因果の鎖。
“記憶を上書き”……それが可能か分からないけど、続けたほうがいいのか悩むけど、懇願通りに続ける。
「ふぁう……むふ……ぁぁん……俊彰さん、あり、ありがとうございます……」
こわばりはまだ微妙に溶けていない。でも、さっきよりは随分と良くなった感じだった。
鎖骨のライン、2つの小さなピンク色の乳首、おへそ、脇腹、脚の付け根とまで下ったとき、それまで控えめに喘ぎ声をあげていた玲央ちゃんが「俊彰さん、いいですよ」と言った。
「……え?」
「この一年、男になれるよう頑張ったんです。それまでしなかった、男の普通のオナニーも挑戦しました。俊彰さん、私のそこも触りたがってましたよね? 今なら大丈夫と思います」
ばれていたのか、と顔から火を噴きそうになる。
「ここには女の子にはクリトリスってのがあって、そこをいじると気持ちいいもんなんだ。だから『女の子なのに』って気にする必要はないよ。『女の子だから』気持ちよくなっていいんだ。……もちろん、嫌ならそう言ってね。すぐにやめるから」
「ん。俊彰さん、ありがとう」
「うん、玲央ちゃんのクリトリス、ピンク色してて、花の蕾みたいでとても綺麗だ」
『その場所』に直接口をつけるのは、流石に思い切りが必要だったけど、ためらいを振り切って軽くキスをする。とたんに硬さを増す玲央ちゃんの秘芯。
「ぁん! ぁぁんっ!」
華奢な身体を弓なりにしならせて、まるで音楽のような喘ぎ声を上げる。
皮の間から微かに覗く赤い宝石のような部分を舌で弄ぶ。全身の白い肌が朱く染まり、肢体がガクガクと震えだす。割れ目を舌でなぞると、先端からあふれ出す透明な液体。
ドクンドクン、と舌先に鼓動が伝わってくる。舌と唇とで、その場所を執拗に弄ぶ。
「いぃ! いぃ! ああっ、ぁぁあああっ……!!」
全身を包む快感に、悲鳴のような声をあげて、玲央ちゃんが絶頂に達する。玲央ちゃんの小さな小さな子ども達である白い液体は、ほんの少し零れただけだった。
すべてが甘い、まるで砂糖細工のような玲央ちゃんの身体の中、その液体は少し苦かった。
もう体力的にはとっくに限界を迎えていたんだろう。僕が挿入したところで、彼女の身体が力を失い、そして穏やかに寝息をこぼし始めた。
いつも失神したときと同じように、抜いて身体を拭いて寝せてあげようか、としたところで思い直す。今日は結ばれたまま、このまま玲央ちゃんの中で寝ようと。
明日は大変だと思うけど、今日は久しぶりに、素敵な夢が見れそうだった。
最終更新:2013年10月14日 13:09