帰宅彼女

(「偽装彼女」シリーズ・短編)

 時間割を組み間違えたことに気付いても、半期は変えることができない。大学の融通の
きかなさにウンザリしつつも、帰宅ラッシュを読めなかった自分のせいだと言い聞かせな
がら、僕は今日のレジュメと窓の外を交互に眺めていた。
 電車の規則的な揺れが足裏から伝わると同時に、不規則に他人の足だの肩だのが当たる。
 混み具合に読む気もしなくなってレジュメを左肩にかけた鞄にしまった。窮屈な車内で
は、そのわずかな動きも邪魔になる。左側のおっさんが小さく舌打ちした。
 「すみません」と胸の前に上げた右腕を下ろすと、ちょうどカーブに差し掛かったのか
揺れが大きくなった。左手の吊り革に必死ですがりつく。
 と、右の腕に誰かが寄りかかってきた。バランスを崩したのか、一瞬右足の靴を踏まれ
る。気付いたのかすぐにどけられたので痛くはないが、ちらりと相手の方を見る。
「ごめんなさい」
 至近距離で僕に詫びたのは、ふっくりした赤い唇だった。
 すごく可愛い女の子が、僕のすぐそばに立っていた。
「っ……」
 驚いて身を引くとまた左のおっさんが舌打ち。でもそんなことに構っていられなかった。
 白いハイネックを着た肩に、染めてない真っ直ぐな髪がふわりとかかっている。背が高
いのか、男子の中で小柄な方の僕と同じくらいの目線。モデルさんみたいだ。
「その…足、ごめんなさい」
 無反応の僕が怒ってると思ったのか、彼女はもう一度謝った。
 高校生くらいだろうに、ずいぶん大人びた掠れ声だったが、車内のためか音量を押さえ
た細い声色はその風貌にふさわしい、優しく耳をくすぐるものだった。
「いや…い、痛くなかったし、仕方ないから気にしないで」
 対して発された僕の声は、どもった上に上擦ってしまっている。良い人ぶって失敗だ。
 しかしその子ははにかんで、会釈するように軽く頭を下げた。彼女は明らかに年下だろ
うにこの落ち着きよう、余計に自分が恥ずかしい。
 気まずくなって彼女の顔から視線を下に落とす。別にジロジロ見るつもりはなかったの
だが、胸にリボンの付いた赤っぽいワンピースが似合ってて、とても可愛い。


 位置的に、さっき腕に当たったのはそのリボンのあたりかなと考えて、慌てて思考を止
める。こんな大人しそうな子相手に、何を考えてるんだ。
「どしたん?」
 不意にかけられた男の声に、あんまり知られたくないことを思い浮かべていた僕はドキ
リとした。女の子の連れらしく、すこしくだけたような口調で彼女が答える。
「…さっき、ぶつかったから」
「気を付けろよ」
 ちらりと見えたのは、いかにも今時の高校生といった感じの男。ニット帽の下から覗く
耳にはいくつかピアスが見える。呆れたようにかけられた声は、どうやら彼女に向けられ
ているらしく、女の子は困った顔をしてうなずいた。
 なんというか…この女の子の連れには不釣り合いというか、この男には彼女は合わない
んじゃないかというか、とにかくそんな悪印象を抱いてしまった。それくらい対照的な二
人連れ。
「こっちそんな混んでないから、俺が奥行けば良かったな」
「大丈夫だよ…荷物、持たせてるし」
 どうやら僕が思うほど仲が悪いわけではないようだ。嫉妬のせいだろうか、ますます自
分が嫌になる。
 右腕に残る正体不明…というか、考えるとちょっとマズい感触を忘れようと、僕が吊り
革を右手に持ち替えると、彼氏の声がまたした。
「次の駅で場所、交替しよっか」
 できたらしないで欲しいなあ。他人とはいえこんな可愛い子と同じ窓に並んで映るなん
てこと、めったにない。
 横目で右側を見ると、彼氏と間近で対面するのが恥ずかしいのかこちら側を向いている
ので、長い睫毛が桜色の頬に影を作っているのも、ぷるんとした唇が揺れに耐えるように
きゅっと結ばれているのも特等席で見ることができた。
 それしか空いてるのがなかったらしく、身体を支えるには無理のある位置の吊り革につ
かまっている彼女の短いワンピースの裾が、少し持ち上がっているのが横目に見え、わけ
もなくドキドキした。
 スラリとした白い足を、黒のニーソックスが包んでいる。こんな混んでる電車で、何か
の加減で引っ掛かったりしたら太腿どころか下着まで見えるんじゃないだろうか。
 いけない、また何考えてるんだ。


 彼氏と話していたように、思うように位置も変えられない車内では、女の子なら少なか
らず不安だろう。
 停車駅が近いのかぐっと減速した。慣性で進行方向である僕の左側に身体が傾ぐ。右隣
の彼女も例外ではなかった。
「…っ……」
 彼氏やさらに向こうの人に押されてしまっているのか、腕を上げた僕の右脇に女の子の
身体が押し当てられる。さっきぶつかった時に互いに身体の向きをずらしていたので、彼
女の左胸のあたりが僕のあばらに密着した。
 ぎゅうぎゅうと押しつけられたそこは期待したほど柔らかくなかったが、脇という敏感
なところにこんな美少女の胸が押し当てられていると思うと、場違いにもドキドキする。
気にしていないふりをして左側を向いた僕の首筋に、おそらく彼女の髪や吐息が一瞬かか
った。くすぐったさと、シャンプーや化粧品の甘やかな匂い。
 プシューッと音を立ててドアが開くと、ぱっと彼女は身を離した。
「っ…すみません」
 頬を染めて俯いてしまう彼女。羞じらうように胸の前に当てられた両手が、僕の推測が
正しかったことを証明していた。
 あまり下りる人が居なかったみたいで、彼氏が言っていたように位置を交換できる空間
はできなかった。
 足に触れる赤いワンピースの裾の感触にわけもなく緊張していると、不意に女の子が
「ひゃ」と小さな声をあげる。


 ちらりと見ると、可愛い紙袋を二つ下げた彼氏の腕が、たっぷりした布越しにも分かる
彼女の細い腰に回されていた。
 引き寄せられた彼女は困ったように彼氏の顔を見ようとするが、後ろから抱え込まれて
いるので相手の横顔くらいしか確認できない。
「お前危なっかしいから、これ持ってろ」
 言って彼氏は元々彼女のなのだろう紙袋を持たせると、その下に手を通して抱き寄せた。
 先程僕にぶつかった時以上に密着してるのに、彼は余裕な顔して苦笑している。うらや
ましく思わずにはいられない。
「…ひ……一人で大丈夫だから…」
 僕の脇に胸を押し当ててしまった時以上に恥ずかしがって、彼女は小さく訴えた。背中
もお尻も足も背後の彼氏とぴったりくっついてるみたいで、落ち着かなげにモジモジして
いる。
「大丈夫じゃないからこうしてんだろ?掴んどいてやるから、無理して吊り革探すな」
 聞いてられなくて目を転じると、混雑した車内でイチャつく若者に座っている人が呆れ
たような目をしていた。
 いつもの僕なら、同じように眉すらひそめただろう。しかし、あきらめたように吊り革
から手を離して彼氏にその身を預け羞じらうように目を伏せてる彼女は、とんでもなく愛
らしいのだ。
 彼氏に何か言われたのか、赤い唇が拗ねたようにキュッとすぼまる。小ぶりで、キスし
やすそうな形だなと思ったところで我に返った。
 またしても何考えてるんだ、僕は。
 いくら彼女が魅力的でこちらに気付いていないとはいえ、ずっとジロジロ見てて良いわ
けがない。ましてやそんな、変な妄想に使うなんて…
 つまらなくても良いから窓の外でも見てようと、未練がましく彼女に釘付けになってい
た目をそらすが、ふと気付いた違和感にもう一度彼女の方をうかがって、ぎょっとした。


 彼氏から受け取った紙袋を抱えた女の子のスカートが、足の付け根あたりまで捲れ上が
っている。少し残念なことに…というか上手い具合に紙袋がかぶさって下着までは見えな
いので、セーフなのかアウトなのか判別しがたいのだが、ニーソックスの上のほっそりと
してるが吸いつくような白い肌が丸見えになっていた。
 気付いてないのか彼女は目を閉じたまま、電車の揺れと彼氏に身を任せている。腕を回
されるの以上に恥ずかしい格好だと思うのだけど。
 彼氏の袖にでも引っかかってるんだろうか。こいつもこいつで何か彼女に話しかけてク
スクス笑ってるけど、気付けよ!
 もう頭の中には今日の講義内容なんて残っていない。本人も周囲も気付いていないこと
を良いことに、僕の両目はただその…見えそうで見えない、彼女の足元に釘付けになって
いた。
 もうちょっと、何かの加減で彼女か彼氏が動いてしまったら、見えてしまう。それがい
わゆる「見せパン」とかだったとしても、男にしてみれば隠されている「下着」と変わら
ない。
 凝視してた白い肌をワンピースの裾が覆い隠してはじめて、電車が止まったことに気付
いた。
「すんません、下りまーす!」
 再び紙袋を持った彼氏が、彼女の肩を抱くようにして下車する。もう顔は見えないけれ
ど、黒髪の間からちらりと覗いた頬はほんのり上気していた。初々しいなあ。
 あの彼氏には悪いけれど、腕に当たった彼女の身体の感触と、先程目に焼きついてしま
った白い太腿は、しばらく忘れることができなさそうだ。

(誤解したままおしまい)

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最終更新:2013年04月27日 14:44