銀幕彼女
「ホワイトデーのお返しは、何が良い?」
三月十五日の土曜日。
いつも通り楽しく「遊んだ」俺の部屋で帰り支度をする美少女に尋ねると、不思議そう
な顔をされた。
「……は?」
後始末も終えて同級生の須藤豊の顔で首を傾げる。コートの前を留めてないので、巻い
たマフラーからちらちらと覗くデコルテが悩ましい。グレーのオフタートルセーターの胸
はないけれど。
「ほら、あん時お前バレンタインチョコくれたろ?遅くなったけど、そのお返し」
「あん時」とは先月のバレンタイン前の週末に、女ばっかりの売り場にこいつを放り込
んで遊んだ時のことだ。さながら戦場と化したワゴンで戦々恐々としながら、俺の指定し
た人気商品を探して来させたのである。
殺気立った女どもに押され阻まれ、目的の棚の前を陣取った奴におそるおそる「すみま
せん」と声をかければ、それをやる相手に見せりゃあ百年の恋も醒めるだろう形相で睨ま
れていた。今まで女子からは黄色い声と憧憬のまなざししか受けてこなかったイケメン君
には、さぞかし怖かったことだろう。
離れたとこからその様子をニヤニヤ見ていた俺の元に戻る頃には半泣き状態になってお
り、買ってきてくれたトリュフは数百円とは思えない美味さだった。もちろん往来での「
はい、あーん」までさせている。
そのお礼を何にするか聞きたかったのだが、まさか平日にクラスの「王子様」な須藤君
に俺のような人間が話しかけるわけにはいかない。ていうか、バレたら二人ともおしまい
だし、世間的に。
「そんなこと言われても…」
一月前の恐怖を思い出したのか、整った顔から血の気が引いている。ここで「同じ目に
遭わせてやる!」と言わないのが、お育ちのよろしい優等生の可愛いところだ。
「俺が用意できるのなら何でも良いからさぁ…服でもアクセでも遊園地でも」
最後は冗談だったのだが、ピクリとして俺を見上げた。長い睫毛に縁取られた瞳はエロ
い身体に似合わず、どこまでも清らかである。
「………場所でも、良いのか?」
まさかそこに反応されるとは思わなかったので、ちょっと返事するまでに間が開いてし
まったが、慌ててうなずいた。
「…そりゃ、まあ。本物のルーブル行きたいとか、美ら○水族館とか言われても困るけど」
「そう、なんだ……」
何やら考え込みながら、持ってきたスポーツバッグを掴んだ手に視線を落とす。持ち手
に絡めた細長い指に、ギュッと力がこもるのが分かった。
「…何かあるんなら、言うだけ言ってみ?」
「…………ん…」
「うん?」
「映画館は…大丈夫かな?」
おそるおそる質問された内容に、思わず噴き出してしまう。何かと思えば、ずいぶん可
愛らしいおねだりじゃないか。
「なんだよ、そんなんで良いの?何観たいん?」
俺の声音にホッと息をつき、バッグの横に置いた通学鞄を開ける。きちんと揃った教科
書やノートの間から出したファイルの中身を、黙って待っていた俺に差し出した。
「……その、これを観に行きたい」
五枚ばかし重なった紙の一番上には洋画のチラシが載っている。聞いたことないタイト
ルにわりかしマイナーな上映館リスト。今月までのロードショーみたいだ。
「調べたんだけど、やってる所があんまり近くになくて…その、一日使いそうなんだけど」
プリントアウトした映画館一覧の隅っこには、チケット代やら電車賃やらを見積もった
のか筆算式がコチャコチャ書いてある。言えば良いものを、俺に感づかれないようなんと
か捻出しようとしたんだろう。
いつもいつもこんな感じで、かたくなに割り勘にこだわるので、覚られないようにオモ
チャを用意するのに苦労させられる。
気の確かなうちは決して弱みを見せようとしない奴が自分から何かを頼んでくるとは、
俺の「何でも」という言葉はまさしく僥倖だったんだろう。とりあえず、「今すぐ携帯壊
して縁を切ってくれ!」と言っちゃわない程度には夢中らしい。
俺ん家から一番行きやすいのはどこだろうとしばらくシネマ一覧を眺めていたのだが、
黙ったままの俺に何を思ったか、差し出したばかりの紙束をそろりと掴む須藤。
「…あの、無理だったら、大丈夫だから」
こいつの言う「無理」とは「そんなつまらないことに付き合ってらんねーよ」的な意味
なんだろうが、ここで棄却するのは男としてアウトだろう。
「いんや、大丈夫大丈夫」
グレーのセーターに包まれた腕をやんわりと押しやり、早くも後悔しているような相手
ににっこり笑ってみせる。
「じゃあ、お返しは明日一日のデートで良いのかな?」
「え?…いや、そこまで言ってない!時間もらえればそれで!」
慌てて首を横に振るこいつを、ギフトコーナーの店員に見せてやりたいものだ。なんで
バレンタインとホワイトデーで相場が数千円単位で変わるんだよ。
久しぶりに一人の休日を満喫しようとしていた優等生に負けじと、小首を傾げて無邪気
っぽく聞いてみた。
「…俺と一緒だと、なんか困るわけ?」
「………お願い、します…」
そんなわけでホワイトデーに、生まれて初めて菓子やアクセ以外のプレゼントをするこ
ととなった。
яяя
待ち合わせ五分前にはそこに居た相手は、ニッコリ笑顔こそ見せなかったが、いつもよ
り明るい表情をしていた。そのつもりはないようだが、人待ち顔にそわそわしていたのが
俺を見つけぱっと背筋を伸ばすさまは、まんま初デートにはしゃぐ女子中学生みたいで笑
える。
指示通りの控え目ナチュラルメイクをしてきた顔は十分に垢抜けたもので、構内の照明
もそのサラサラストレートの黒髪に天使の輪を作っていた。くるんとカールした睫毛が縁
取る双眸は涼しげながらも愛らしく演出され、もとからの形や色付きの良さをアピールす
るようパール入りのリップを薄く引いただけの紅唇はふっくり吸い付くような程よい質感。
俺の最寄り駅の改札に佇む場違いな美少女を通行人…主に若い男がちらちらとあからさ
まに見ているようだが、今日は気にならないみたいだ。代わりに羨望と嫉妬混じりの視線
を三割増しに感じて、俺のガラスのようにセンシティブな心が痛い。
「もう来てたんだ。かなり待った?」
「やっ…ちょうど、今来たばかりだから!」
慌てたように首を横に振るのは気遣いではなく、女装と天秤にかけてそちらに傾いたほ
ど楽しみにしていることを知られたくないんだろう。俺に気付くまで両手を胸の前で重ね
て握っていたところをみると、日の当たらない構内でそこそこ冷えるくらいには待ってた
ようだ。メールすりゃ良かったのに。
今日のコーディネートは胸に共布のリボンが付いたえんじ色のワンピに、白く引きしま
った絶対領域を際立てる黒ニーソと同色のショートブーツ。
クリーム色のハイネックシャツを着た華奢な肩に、男物のスポーツバッグはそぐわない
が今は仕方ない。
「荷物はここに置いてくから」
持ってきたベージュのダッフルコートを相手に着せてやりながら、持って行く物を指示
する。俺の上着だから奴の身体には少し大きく、袖からは指先だけを、丈の短いスカート
を覆ったベージュの裾からはすらりとした足を覗かせた。こっちの不釣り合い感はいわゆ
る萌え系なので無問題。
定期入れと、万一はぐれた時のことを考えて普段は持たせてない奴の携帯をコートのポ
ケットに入れさせる。
長くなるので化粧ポーチだけ俺のミニボストンに放り込み、着替えの入ったバッグはコ
インロッカーへ。
「こっからバス出てんだけど、それ一本で三十分くらいのとこにあるシネセゾンなんとか
ってのに着けるみたい。だから今から行って一時半からのを観て、あっちで何か食って帰
ろう」
「えっと……お願いします」
一方的にデートコースを告げる俺にペコリと頭を下げる。お行儀の良いことで。
「そんじゃ、行こっか」
当然のように手を差し出せば戸惑いながらも、いつも通りジャケットの肘の辺りをそろ
りと掴んできた。
яяя
行き先がローカルな上に始発なので、すでに停まっていたバスでも二人分の席を見つけ
られた。
窓側を譲り、素直に俺の前を横切ろうとした奴の肩に手を置くと、案の定ビクリとして
睨み上げてくる。人前では特にスキンシップを嫌がる彼だが、その嫌がり方が余計俺を楽
しませちゃってることにはいまだに気付けてない。
…ご期待に添えなくて申し訳ないが、今日はお触りなしだ。
「しばらく乗ってるから、上脱いどけよ」
いたって紳士な提案に、いつものように下心を探るような視線を向けてくるが今日は気
付かないふり。「どうかした?」と心底不思議そうに尋ねれば、慌てて袖から腕を抜いた。
「あ……ありがとう…」
疑いを抱いた自分を恥じるように頬を染めコートを受け取る。今まで俺がしたことを考
えれば致し方ないと思うのだが、こいつの倫理や道徳には反してるんだろう。
ワンピに覆われた小さな尻を押さえながら座り、短い裾から覗く黒ニーソまでの絶対領
域を隠すようにコートを抱える。俺は何も言わずにその隣り、座席側に腰掛けた。
走り出す市営バスの狭い座席、肩やら腰やらがわずかに触れ合うのが気になるようで、
膝をぴったりと合わせてコートを抱きしめたまま須藤は微動だにしない。
せっかくの遠出、緊張を解いてやろうと伸ばしかけた手を脱いだジャケットに戻し、俺
は口を開いた。
「…お前アレ、原作ファンだったりするわけ?」
昨晩こいつに借りたチラシやプリントした紙と、映画の公式サイトで見た内容を思い出
す。ハードボイルドとかクライムノベルでわりかし有名なレーベルから出た刑事物小説を、
作家のデビュー三十周年を記念して映画化した作品らしい。
「え?……あ、うん。そう………ええと、二十年くらい前に出た小説なんだけど、すごく
面白い」
うなずいた後でそっけないセリフに気付いたのか、慌てて言葉を継ぐ。
「中学の頃図書館で初めて読んだんだけど、どうしても欲しくなって…半年くらい古本屋
探し回った」
俺が別の中学で、あっちゃこっちゃの学校の女子と合コンの真似ごとをしまくっていた時
に、そんなことされていたんですか。
「いつでも借りられんのに、そんな良かったんだ?」
いたって普通の質問なのだが、お互いそんな会話を交わしたことなんてなかったので俺
の底意を探るように見つめてくる。すっとぼけて怪訝な顔をしてみせれば、さっきみたい
にうろたえながら顔を赤らめた。
「う、うん………その、ジュークボックスとか、小道具はすごく時代感じるものなのに、
内容は全然古臭くないんだ。それに心理描写がすごくシンプルなのにリアルに共感できる
感じで、何度読んでも新鮮に楽しめる…の」
他の乗客を気にして、言葉尻を改める須藤。はた目には大好きな作品を一生懸命彼氏に
伝える美少女の様子に、斜め前の座席のスーツ男子が注目している。うらやましいだろ。
「そうなんだ。じゃあ楽しみだね」
顔を寄せニッコリしてやると、思わず身を引いた相手の後頭部が車窓にぶつかる。ゴツ
ン。
「ん…………たのしみ…」
デートが楽しみだと言う「女の子」の頭を撫でるくらいは、お触りに入らないだろう。
яяя
客は大体二つのカテゴリに分けられた。
出演する若手イケメン俳優のファンなのだろうキャアキャア騒いでる若い女たちと、そ
れに眉をひそめる原作ファンなのか年齢層高めの男女。
後者に当たるはずの連れはというと、初めて入る(俺もだけど)映画館のホールにベタベ
タ貼られたポスターをキョロキョロ見ている。ここまで「ウキウキそわそわ」という効果
音の似合う様子もないと思うのだが、俺と目が合うと慌てて下を向いてしまうところを見
ると、奴的には自分は「なんてことない」設定なのだろう。
何も考えずにカウンターで「高校生二人」と言うと、腕を組んだ須藤の方を見たおばさ
…ご婦人が百円安いカップル割にしてくれた。ゆうべ大急ぎでアクセスと料金だけ確認し
ていたので、危ないとこだった。
上映時刻まで間があったので中で飲むジュースをメロンソーダとコーラのどっちにする
か悩んでいたら、外ではめったに自己主張してこない相手が「炭酸はむせるから駄目」と
きっぱり言ってきた。そうですか、そんなに堪能したいんですか。
仕方なくおそろいのオレンジジュースにし、スナック菓子を一カップ買う。空気を読ん
で、静かに食べられるポップコーンにしといた。
気のない風を装い後ろの端に座ろうとする奴を真ん中の方に促せば、嬉しかったのか両
手のふさがった俺の分の座席を下ろしてくれた。いや、単にそっちにはうるさい女性軍が
居たからだったんですがね。
いかにもチャラい年格好の俺と設定上はその彼女である美少女を見て、純粋に楽しみに
来たっぽい近くの席の奴が顔をしかめたが、黙って荷物をやり取りする俺たちの様子は怒
りを買わずに済んだみたいだ。
もっとも、俺から返された映画のチラシと場内の時計ばかり見比べている相手が、早く
も自分の世界に入っちゃってただけなのだが。
大昔から変わってないようなブザー音と共に照明が落ち、緞帳の奥のスクリーンが露わ
になる。
ふと気付いて右隣に座る須藤の左腕に触れれば、それまで何もしなかったためかビクン
と大きく反応されてしまった。
「…っな、何を……?」
声をひそめてはいるが警戒心をむき出しにした相手の袖をつまみ、左耳に口を寄せる。
「肘掛け下ろすから、ジュース入れとけよ」
「は?……あ、あぁ…」
こうして何度も拍子抜けしたような顔をされちゃうと、変なことをしてやらないといけ
ないような気になってしまうじゃないか。
「映画、楽しみたいよね?」
「ぁ……当たり前だろ…っ」
慌ててうなずき左腕を上げた相手にほほ笑みかけて、間の肘掛け兼ドリンクホルダーを
下ろした。
яяя
うんざりするような長いCMの後にようやく始まった本編は、なかなか渋い趣味…とい
うか、通好みっぽい内容だった。つまりは俺のような一見さんには、ちょっととっつきに
くい。
いぶし銀刑事な主人公は実力派の親父俳優で、彼が追跡中の敵役である犯罪組織の若き
カリスマが現在売り出し中らしいイケメン若手俳優だった。ネット情報によると原作では
こいつも四十がらみの親父だったらしいが、監督が「大胆起用」したそうな。
始めのうちはそいつが出る度に黄色い悲鳴が後方から上がったが、じきに静かになって
いった。スクリーンに見入ってるか、寝てんだろ。おかげで右隣の奴はまったく気にして
いなかったが、一個空けた俺の左で、後ろが騒ぐ度に舌打ちしてたおっさんもすっかりご
機嫌で前を向いている。
過去と現在、味方や敵方にしょっちゅう舞台が切り替わるので、あまり頭使う作品を観
ない俺にはわけが分からない。ついでに警察も犯罪組織も濃いキャラ多過ぎて覚えづらい。
しまいにゃいぶし銀刑事の先輩とかいうジジイが出てきて、「四十年前のあの事件か…
」とか、死んだ妻の親族がなんとかとか、ややっこしいことになってきている。
というかそれ以前に、外国人俳優はどれも同じ顔に見えてしまう俺としては誰が誰やら
がさっぱりだ。情けないがぶっちゃけ、これを観る素地ができてないってやつだろう。
話についていけなくなったので、上映後一度も隣人が手を付けてないポップコーンを口
に運ぶ。邪魔をしないよう十分口腔で湿らせてから咀嚼するのを繰り返していたが、意識
して食べるとすぐになくなってしまった。
ちらりと右を見れば、暗闇に浮き上がるような白い面はスクリーンの虜。美少女はただ
ひたすら中年刑事やアウトローたちの愛憎や悲哀、そしてスタントを極力減らしたという
アクションに注目している。薄い胸を飾るえんじ色のリボンが、良いシーンなのか時折う
っとりと溜め息をつく度にかすかに上下した。
視線を落とせば、白い手が膝に乗せたコートをギュッと握り締めているのが見える。俺
が真横に居るというのに、上着に持ってかれたワンピの裾がほっそりした足の付け根あた
りまで上がっちゃってるのに気付けてないとは、かなり夢中なご様子だ。
この、白くてキュッと引きしまった腿をツンツンしたら、どんなに楽しいだろう。
暗い場内、それも客が周りに居る中では声も上げられず、ワンピの裾から滑り込む俺の
手の動きに必死に耐える黒髪美少女を妄想。
リボンの下にある胸板を服の上からこねくりまわし、ショーツの隙間からペニスを掴む。
もうその頃にはこうして銀幕の世界に浸ることなんてできず、「早くイかせて」と目で訴
えてくるのだ…という、妄想。
もはや目を閉じてしまった俺は、スピーカーから銃声を聞いてもスクリーンを見ること
はできない。ええと、一発ヌいたら今度はトイレにしけ込んでもう一ラウンドだよなあ…
そんなわけで、俺はいつの間にか寝てしまっていた。最後の最後、主人公が白い花を誰
かの墓標に向けるシーンで目覚められたのは奇跡。場内が明るくなったら確実にバレちゃ
ってただろう。
上着を着て荷物をまとめる。空っぽの俺の紙コップとスナックのカップに、「せっかく
買ってくれたのに、ごめん」と申し訳なさそうな相手の手から受け取った、すっかり氷の
溶けたコップを重ねた。半分近く残ってるみたい。
「お前、かなりのめり込んでたみたいだったから言うに言えなかったんだよ。メシ食おメ
シ」
からかうように笑いかければホッと息をつき、慌てて無表情を作る。「た、単にタイミ
ング掴めなくて…」などとよく分からないことをごにゃごにゃ呟くが、聞こえないふりだ。
ゴミを始末して出ようとするとうまいこと通り道に、行きにはなかった長机がいくつか
置かれ、さっきの映画のグッズが並べられていた。後方の席に居た女達が、さっき寝た分
を取り返さんばかりに嬌声をあげている。
俳優個人のファンではないのでそこはスルーし、モノより思い出派なのか「別にいいよ」
と首を横に振る須藤を映画自体のグッズのコーナーへと引っ張って行った。お前、親んな
ったら思い出をモノに込めてやれよ。
若手俳優ファン以外の観客は、俺たちがゴミをこちゃこちゃやってる間にさっさと買い
物を済ませて行ったのか、係員のおっさんが暇そうにカウンターに立っていた。隣のコー
ナーと同じ、冷やかしだと思ってんだろ。
「見ろよこれ、サイン本だって」
「ぉ……わたし、のは、初版本だから。それ重版どころか出版社違う」
ピチピチ(死語)な美少女から発されたコアなセリフに、おっさん意外そうな顔。旦那旦
那、こいつのびっくり所はこれだけじゃないんですよ、言えないけど。
そうは言いつつもディスプレイされた銃(劇中の誰が何を持っていたか、俺にはさっぱ
りだ)の模型やら、発表当時の原作者へのインタビュー記事なんかに見入ってくれたので、
ここに連れて来たのは正解だったみたいだ。
邪魔をしないように、しかし暇そうに見えないようパンフのサンプルをパラパラめくっ
てみる。うん、わけ分かんねーと戻せば待っていたかのように手に取ったので財布を取り
出し、袋に入った新品を渡してやると困ったように眉根を寄せてしまった。
「あの、気持ちだけで嬉しいから…」
こいつが殊勝なセリフを吐くのは、確実に何か隠してる証拠だ。
「…もしかして、まだ割り勘とかよく分かんねー計算してんの?」
サンプルごと机に戻そうとしていた白い手が止まる。
「っ…ち、違う、そんな意味じゃ…」
「ユカ」
上手にかわすこともできずうろたえまくりの相手に一声かければ、人前で何を言われる
のかと怯えたように見上げてくる。「若い子って良いねえ」とニヤニヤするおっさんの誤
解を解いてしまわないよう、俺はつとめて柔らかな声を出した。
「…今日一日プレゼントするって言っただろ?だから、欲しいなら素直にもらいなさい」
「………あの、」
「どうなの?」
「彼女」として俺に問いかけられ、「女の子」として知らない男に注目され、その見た
目にはそぐわない趣味の美少女は俯いてしまった。
ややあって、か細い声で呟く。
「…ぁ……ありがとう、ございます…」
支払いを済ました俺の目の前でワンピの薄い胸元に「プレゼント」を抱きかかえてくれ
たが、サンプルは返した方が良いと思うぞ。
яяя
初めての場所でも、ファストフードのメニューは当然ながら地元とまったく同じだった。
照り焼きバーガーとカツサンドに山盛りポテト、物足りないのでナゲットとサラダも頼
んだら、二人掛けの小さなテーブルにはトレイが収まりきらなかった。幸い客も混んでる
というほどには居ないので二つ合体させ、対角に座る。
照り焼きとポテトを交互に食べながら、斜め向かいのソファでもくもくと分厚いカツサ
ンドを平らげる相手を観察。はみ出さんばかりに詰め込まれたキャベツの千切りをこぼさ
ないのは、まさに神業だ。
チュウチュウとアイスティーを啜った赤い唇がストローから離れるのを待って、話しか
けてみる。
「…さっきの、面白かった?」
「うん、すごく面白かった。配役が決まった時、原作ファンからの受けは良くなかったん
だけど、あれは当たりだったと思う。マックが銃を手放すシーンなんか、彼じゃないとあ
の画はきっと撮れなかったんじゃないかな。もちろんケビンの陰のある感じもとてもハマ
り役だったし、まさか二時間なのにあそこの食事シーンを入れてくれるとは思わなかった
…あの場面はすごく好きだったから」
「へえー…そうなんだ」
マックって誰だ?と思いつつも笑顔でうなずく。まあ普段無口なこいつが、よりにもよ
って俺に向かって何行も話すなんてありえないので、かなり楽しめたんだろう。
「まさか今になって、あんな本格的に取り上げられるとは思ってなかったから、ネットで
制作発表を知った時はすごく驚いて……っ!」
饒舌になっていた自分に気付いたのか、はっとしたようにソファに腰かけ直す。食べ終
わったサンドの包み紙を折りながらオロオロする彼の様子に、俺は首を傾げた。
「どしたん?」
「…あ……ええと、その…………興味ないのに、ごめん」
言葉を探しながら返した直後「あぁあ、そうじゃなくて」という顔をする。店の床に黒
いブーツのヒールが当たり、テーブルの下でコツコツンと軽い音をたてた。
「は?なんで?今観たばっかりじゃん」
「え……あ、いや……………その、寝てた…みたいだったから…」
すごく言いづらそうに答える須藤。気付いてたか。ていうか、気付いてたのに黙ってる
つもりだったのか。
ポップなロゴの描かれた紙コップを置き気まずげに俯く様子に、思わず噴き出してしま
う。
「…ごめん。あんま普段あーゆーの観ないから、つい気持ち良くって寝ちゃってた。でも
今日はお前の行きたいとこって言ってたし、来て良かったと思ってるから気にすんなって」
「……『良かった』?」
普段からは考えられないだろう俺のピュアピュアなセリフに探るような目を向けてくれ
たので、俺は満面の笑みで答えてやった。
「うん。可愛いユカちゃんが嬉しそうにしてるの見たら、それで大満足だからー」
「………っ…」
歯の浮くような殺し文句にか、それに対して俺たちの席を向いた周りの客の視線にか、
白い頬がにわかに紅潮する。
「…へ……変なこと…言うな……っ!」
俺から視線を外すと、恥ずかしさを紛らわすように赤い唇がまだ熱いポテトを咥えた。
яяя
舌を火傷した奴にいつかのように水を渡してやったり、さりげなく女子トイレに人が居
ないのを確かめてから呼びかけたりといった俺の献身が実り、店を出る時には俺にも「ご
ちそうさま」と目を見て言ってもらえた。
そんなわけで帰りのバスでは行きほど警戒されず…むしろ、疲れたのかウトウトし始め
ちゃっている。
こくん……こくん。
窓にぶつかりそうになったところで肩を引き寄せてやると、座ったまま俺の腕の中に上
体を収める感じになった。客がまばらなのが残念なのかラッキーなのか。
「おねむですかぁ~…ユカちゃん?」
半開きになった黒い双眸はそのままぼんやりと俺の顔を映す。疲れていることに変わり
はないのか、ノリとしてはイった後俺にされるがままになってる状態に近い。
「大丈夫?」
「んぁ……っ!…な、なんでもない、ごめん」
我に返ったのか慌てて俺から身を離し、しきりにまばたきをする。
「眠くなっちゃった?」
「そ…な、ことない。平気だから」
膝の上から滑り落ちかけたコートを抱え直し、毅然と答える須藤。
「ちゃんと起こしてやるから、寝てれば?俺さっき寝ちゃってたし」
最後の方は冗談めかして言うと、ぷりんとした唇が苦笑めいたものに歪みかけ…はっと
したように引き結ばれた。
「いや……起きてる、から」
生真面目に窓の外を見て、ぶっきらぼうに返す。さっき俺に笑いかけてしまったのが悔
しいんだろう。このツンデレツン(割合にして6:1:3)め。
とはいえ二時間以上銀幕の虜になっていた身体の方は、車内の暖房とあやすような揺れ
に耐えられなかったようで、しばらくすると今度は本格的に船を漕ぎ出す。そして、
かくん。
カーブに差し掛かった時、遠心力に逆らうことなく奴の身体が俺に向かって大きく傾い
だ。黙ってじっとしていると、もう意識がないのかそのまま俺の腕に寄りかかっている。
「……ねんねしててね~…」
ほとんど声に出さずささやきながら、奴を支えながらずるずると体勢を変えていく。背
中と尻を座席に滑らせて、背もたれに両肩をぴったり付けたまま浅く腰かけた。そうすれ
ばいやでも、
こてん。
俺の肩に頭を預ける格好になった。この姿勢、腰は痛いがまあ良いだろう。
この位置からは前髪が斜めにかかる白い額や伏せられた長いまつげ、品良く通った鼻筋
を間近で見ることができる。えんじ色のリボンで飾られた小さな胸は、ゆっくりと規則的
に上下していた。外の喧騒とバスの振動音とで、安らかだろう寝息は残念ながら聞き取れ
なかったが。
隙やら突っ込みどころの多いこいつに対しほぼ半日、素晴らしいほどの理性でもってい
たずらをしかけなかったのだ。憎い相手の真横で油断しきって寝てしまうという、優等生
の人の好さにあきれてはしまうが…こちらとしては好都合。
首筋に当たるセミロングの黒髪から漂う、同級生の野郎とは思えないシャンプーのほの
かな香りを楽しみながら、俺はそろそろと手を動かした。行く先は膝に置いたコートの上
に乗せられた、奴の白い両手。
うたた寝してもしっかりと押さえていたパンフを抜き、足に挟む。腿が吊りそうだが、
ここはじっと我慢の子である。
再び奴の膝に腕を伸ばし、ピクリともうごかない手をどけて、ベージュのコートを引っ
張った。
「…ん…………んんぅ……」
くすぐったいのか寝言なのか、俺の耳元で悩ましい声をもらすが起きる気配はない。
俺は慎重に、実に慎重に本日のミッションに取りかかった。
яяя
車窓に見慣れた景色が映る頃に肩を揺すって起こしてやれば、相手の慌てようといった
らなかった。
夢うつつに「んんー」と俺の肩口に額をすりつけかけ、ガバッと顔を上げる。俺が腹と
腰に負担のかかる格好で苦笑しているのと、自分が膝に乗せていた上着やパンフが俺の腕
の中にあるのを見て状況を理解したようだ。
「ああ、ええと、そのっ……ごめん!そんなつもりじゃ…」
頬を染めあたふたする美少女というのもなかなか良かったが、終点が近いので身支度を
させることにした。
完全に寝入ってしまった「女の子」と、それを起こさないよう枕に徹する彼氏という組
み合わせはなかなか受けたようで、残っていた乗客に降り際笑みを含んだまなざしを向け
られる度に、須藤は袖や丈の余るダッフルコートの中に縮こまっていた。
「……あ、あのっ!」
駅構内に戻り、コインロッカーから荷物を出したところで、ようやく言葉を発してくる。
「うん?」
「ええと、今日は、その………ぁ、ありがとう…」
首を傾げる俺の前で、須藤はコートを脱いだ肩にスポーツバッグをかけてから、パンフ
を大切そうに両手で持ち直した。顔を怒りや屈辱以外で紅潮させて、たどたどしく述べて
くれた今日のお礼に、俺はにっこりとして応える。
「どういたしまして。こちらこそ良いモノもらっちゃって、ありがとね」
「…………は?」
怪訝そうに俺の顔を仰いだ奴の前に、ポケットから出した携帯を開いて見せてやった。
画面に映るのは、白い肌にサラサラな黒髪を持つ、美少女の寝顔のどアップ…むろん、
バスの中で俺の肩に頭を預ける奴自身のものだ。
伏せられた長い睫毛が白く滑らかな頬に影を作り、薄く開いた唇は思わず画面に指を当
てたくなるような瑞々しい赤。
そして、ぎりぎり映った胸元のリボンに引っ掛かってるのは、コートのポケットから出
した奴の定期入れにあった生徒証。携帯カメラとはいえ、大きく印字された学校名や氏名
くらいは読み取れる。
化粧や服装でパッと見では不確かだと思うがこうして並べられれば、眠れる美少女と証
明写真の中にいるイケメン高校生とが同一人物なのが分かることだろう。
「…こ~んな可愛いお顔をいただいちゃいましたから、大満足っ!」
「さっ……さ、最低だっ!消せ!消せよそれっ!」
押し殺した声で責めつつ手を伸ばす奴に届かないように携帯を高く掲げるのだが、はた
目にはじゃれあってるようにしか見えないんだろう。窓口に見える駅員のおっさんがほほ
笑ましげな視線を投げかけてくる。
「ほらほら、欲しいならちゃんと写メってあげるから。明日学校なんだから早く帰んなさ
いよ~」
「うぅ~………っ!」
腹立ち紛れに脱いだコートを俺に叩きつけると、さっきまでのご機嫌が嘘のように「彼
女」は背を向けてしまった。
(おしまい)
銀幕彼女おまけ
「へぇ。良いね、女の子って」
そんなセリフを言ったのは、美のつく少女のぷっくりリップだった。
「………」
「…それが、どうかしたのか?」
自分の部屋、焼肉屋のチラシを手に言葉を失う俺を不思議そうに見つめる須藤。ビーズ
の裾飾りも愛らしいピンクのカットソーにブラックデニムのプリーツスカートを合わせた、
イケメン男子高生の秘密の週末バージョンである。
駅前にできた焼肉のチェーン店で、キャンペーン中なのか食べ放題レディースコースが
余りにも安かった(野郎の約半額ときたもんだ)ので、昼食に誘おうとチラシを見せた返
事がそれだった。
「ええと…これ、使わないかと思って」
「どうして?それ、レディースって書いてあるのに」
わけが分からないと学年首席に首を傾げられるが、そうするとセミロングのサラサラ黒
髪がほっそりした首筋に流れて、すんごくなまめかしい。
「だってお前、そのカッコならどう見ても使えるだろ」
差された俺の指先をきょとんとしばらく見つめてから、ようやく合点がいったのか慌て
だした。
「なっ……何考えてるんだお前!?そんなことできるわけないだろ!」
「どうして?別に身分証要るわけじゃなし」
「そういう問題じゃなくて…とにかくその、そんな騙すような真似は良くないだろっ!ま
ったく…何言いだすんだよお前はっ!」
「そんなんだから本鈴と一緒に教室に着くんだよ」と愛らしい唇を尖らせて説教してく
れるのだが、「まったく」はこっちのセリフだ。
今着ている服を含めたデート代はきっちり割り勘、食事はかっちり自腹切るこいつの財
政を気遣ってやったのに、この空気の読めなさはなんなんだ!
さすがにちょっとムッとしたので、相手のターンが終わってからゆっくり口を開く。
「……じゃあ聞くけど、先週の映画。お前あん時気付いてなかったっぽいけど、あれカッ
プル割で入ったんだよね」
「かっ……!?」
耳を疑うかのように聞き返しかけ、白い頬がにわかに上気した。
「だ、誰がそんなの認めたんだよ誰がっ!」
「受付のおばちゃん。カップルでもないのに腕は組まないでしょ…ついでにこないだプリ
クラ撮りに行ったゲーセン。あそこにも『カップル・女性同士以外はお断り』って書いて
あったんだけど」
その時のこと(携帯に貼っつけられないようなポーズをさせたり、落描きコーナーのカ
ーテンに隠れてやったアレコレだったり)を思い出したのか、あからさまに顔をしかめ反
論してくる。
「そっ……それを言うんならお前が、」
「ああそうだよ。俺の命令ではあるけれど、女子トイレ入る度に、ブラやパンティー買う
度に『わたしは女の子です』って宣言してるのはユカちゃんだよね?」
「…………っ!…」
「しかもユカちゃん、女の子しか入れないトコどころか、いろんなトコでイきまくってる
よね?アレはどうなのかなぁ~……人としてさあ?」
「ぁ……う…っ…」
丸めたチラシに口を当ててボニョボニョ糾弾してやると、かぁっと耳まで赤くなってし
まった。ああ、楽しい。
理性的かつ説得力のある語り口で、もめにもめた文化祭予算会議を取りまとめた図書委
員長の須藤豊君ではなく、羞恥と罪悪感に押しつぶされそうなエロエロ女装っ子の姿がそ
こにはあった。お堅い彼は「うるせー、お前のが人としてどうなんだよ」の一言もひねり
出せやしない。
生まれてこのかた不正のふの字も知らずに生きてきたような模範生を言い負かした痛快
さに、俺は奴の反応が乏しくなったことに気付くまで時間がかかった。
「そんなんで今さら………れ?」
エロい意味以外でいじめる趣味はないので、言い過ぎたかと顔を覗き込む。しょんぼり
俯いてしまった相手の目は前髪に隠れてしまい、そのすっきりとした鼻筋と噛みしめられ
た紅唇しか見えなかった。
「えーと………じゃあ何か食いに行こっか?もちろん焼肉じゃないとこで」
「……いらない…」
しまった、どうしよう。
俺と同じく午前授業から何も食べていないのに、すっかりしょげてしまった相手を連れ
出すのは至難の業だ。
ファミレスのステーキ(ガーリックライス添え)と二段重ねのホットケーキ、俺はどち
らでご機嫌をとるべきだろうか?
(おしまい)
銀幕彼女・後始末
リビングの留守電で、例によって両親が深夜まで帰宅できないことを確認してから洗面
所へ。
ジャケットを脱いで手洗いとうがいを済ませ顔を上げれば、長めの黒髪を耳にかけた…
男子高生の顔。長袖Tシャツにジーパンを穿いたこの格好には、ほんの数時間前の名残で
あるカールした睫毛はそぐわない。
洗面台に背を向け、床に置いていたスポーツバッグを開く。中から出した服を、棚に並
べたハンガーでラックに吊るす。
えんじ色のワンピースには、今日すぐに洗わねばならないような汚れはなかった。毛混
でドレープが付いているから、必要以上に水洗いしすれば型崩れしてしまう。
確認を終えた服をそのままに再びバッグへ手を伸ばし、出したものを今度は栓をした洗
面台の中に迷わず入れた。
赤いギンガムチェックのブラジャーとショーツは、さっき干したワンピースと同じく自
分のものである。
真面目な高校生であるはずの自分は、今日もこれらを身に着けて「女の子」になってい
た。そして今日も…また「やらかして」しまった。
蛇口から湯を出して、洗剤を少し垂らす。白いトーションレースと赤のサテンリボンで
飾られた下着を、布を擦ったりワイヤーを曲げてしまわないよう慎重に押し洗いする。
普段は別にして洗わなければならないショーツを今日は汚さずに済んだので、一気に手
洗いできた。代わりに…いや、それ以上にとんでもない真似をされてしまったが。
ふつふつと沸き上がる感情に気付かないふりをして栓を抜く。湯を勢い良く流し泡をす
すいで、また押さえるようにして水を切る。
まだ干すにはビショビショのそれを洗面台に入れたまま、引き出しを開けて洗濯ネット
を取り出した。普通の袋状のものと…円柱型をしたいわゆるブラジャーネット。三人家族
の我が家では、母親しか使わないはずのモノだ。
それぞれに入れるべき方を納め、空の洗濯機へ。真新しいそれは数年前の買い換えの際、
浴室に乾燥機能が付いているからと親が洗濯乾燥機をスルーして選んだものだ。
その時はたしかに使わないよなぁと思っていたが、今にしてみれば「後始末」の時間を
少しでも短縮してくれる機能が欲しい。
脱水を三分だけ設定しスタートボタン。ぐるぐる回る洗濯槽を半透明の蓋越しに眺め、
無意識のうちにピリピリする舌を上顎に押しつけていたことに気付いた。
食事の時ポテトで火傷したそれが、抑えつけていた怒りを…今日の出来事を一気に思い
出させる。
あの時もセルフサービスの氷水をさっと取ってきて、気遣わしげに自分に差し出してく
れたのだ。「女の子」はこんなに大事にされるものなのかとぼんやり思いながら自分は礼
を述べたのだが、あれも演技だったのだと今さら気付いて、さらにイライラする。
「プレゼント」という言葉に騙され、映画や食事を楽しんでしまった自分のおめでたさ
に腹が立った。すべて…すべて相手の手のひらの上だったのだ。
「……っ………」
行儀悪く舌打ちしたところで洗濯機が止まる。蓋を開けて中身を手に浴室へ入った。
ピンク色の小さな物干しを竿に掛け、まずはショーツを干す。今身に着けているボクサ
ーよりもふにゅふにゅした布地は、丁寧に付け外ししないと破れてしまいそうだ。
二つ折りにしていたブラジャーを広げ、逆さまにする。ワイヤーの両脇、二重になった
所なら洗濯バサミの跡が残らないからだ…母親のを参考にしたが。
余った場所にネットも干し、扉を閉め速乾ボタン。自分が余計な洗濯をすることで電気
代が高くなっていたら申し訳ない。
響く温風の音を聞きながら洗面台に向かい、別の引き出しを開ける。手に取ったものは
高校入学時に父親がくれた洋服ブラシだ。
干していたワンピースの胸元から、ピンで留められたリボンを取り外す。それを片手に、
毎日制服のブレザーやスラックスにそうするようにブラシを丁寧にかけていった。
干した時は気付かなかった糸屑もきれいに除き、元通りリボンを付けて終了。あとは下
着が乾いたら風呂に入って、家族の服やタオルと一緒にハイネックとニーソックスを洗う
だけ。
洗濯は自分の朝晩の役目だから、夜中に親が取りに来ることはないだろうけど寝る前に
回収しておく。それまでには部屋干しできる乾き具合だろう。
「よし………っ!?」
やるべきことに落ち着いてきた心も、不意にバッグから響いた携帯のバイブで再び乱さ
れてしまった。
床に膝を突いて確認すれば、差出人は予想通りさっきまで一緒にいた相手だった。当た
っても全然嬉しくない上に、こいつからのメールだけフォルダ分けする羽目になった自分
の迂闊さがつくづく恨めしくなる。
『お待ちかねのらぶらぶ写メですよ~vv』
読んでいる方が悲しくなるような文面の直後、今日を「最低」にしてくれたモノが画面
いっぱいに表示され慌てて受信メール削除。ついでにデータフォルダからも削除。
「………っくしょう、畜生!」
思わず汚い言葉が出てくるが、その声音はとても情けなく洗面所に響いた。
自分の顔…他ならぬ自分の寝顔に、ここまで怒りを覚えるなんて生まれて初めてだ。
被写体の「女の子」は隣の座席に座る男の肩に頭を…というか、身体全体で寄りかかっ
ていた。無防備に薄く開けた口の下、ワンピースの胸元にはリボンに引っかけた生徒証。
そちらに写っているのも、ネクタイを閉めた「須藤豊」の顔をした自分だ。
普段の自分と「女の子」の自分。絶対にバレるわけにはいかないその二つをつなぎ合わ
せる証拠を、あいつは今日一日をかけて手に入れた。同時に自分はあいつに逆らえなくな
る材料をまた一つ、それも自ら提供してしまったのだ。
「っぅ……」
馬鹿だ。本当に救いようのない馬鹿だ…自分が。
あんな奴に一瞬でも気を許してしまった自分が憎いし、優しい顔をして虎視眈々とあん
なモノを撮る機会を狙っていた相手に騙された悔しさに視界が歪む。
「………くそっ!」
泣いたら負けだ。これ以上相手を喜ばせてなるものかと乱暴閉じた携帯を睨みつけ、そ
の奥、開いたバッグの中身に気付く。
クリーム色のハイネックや黒いニーソックスをよけて取り出したのは、今日観に行った
映画のパンフレット。
こんな仕打ちを受けた相手からの施しなのが癪だが、浴室にあるモノが乾くまでの間、
せめて映画の余韻に浸ろうとページを開いた。
目に飛び込んできたのは、渋いブロンドの中年刑事のアップとアオリ文句。主人公の年
上の相棒であり、かつて国の諜報機関に身を置いていた部署のブレーン的存在だ。
『俺を信用するな…いつまで裏切らないか、保証はできん』
いいや、ちゃんと自己申告してくれるあんたの方が、よっぽど信用できるから!
にこにこと優しい(そう、人が変わったように優しくされた時点で気付くべきだった)
顔を見せて、あいつは自分が油断するのを今か今かと待っていたんだ。それをして人がど
んな気持ちになるかなんて考えてもいないんだろう…いや、奴のことだから分かっててや
ったんだ。余計タチが悪いじゃないか!
ぎりぎりと奥歯を噛みしめながら原作の黒子まで忠実に再現してくれた俳優を睨みつけ、
慌てて首を振る。彼に…映画に罪はない。
怒りをどうにか消化するためと上映中聞き覚えはあったが思い出せなかった挿入曲のタ
イトルを確かめるため、まずは後ろから読むことにした。
(おしまい)
最終更新:2013年05月14日 21:08