【三角形の理由について】 文責:榛名 颯
昔の夢をみた。
記憶の中で握りしめていた楓の服の裾が、まだ中学の学ランではなかったから、つまり颯の方は小学校に上がるより前のことだ。
兄弟3人で両親の職場へと健康診断に行くことは、昔のほうが頻繁にあった。
実の親ではなく第三者が診たほうがいいというのがそこの方針らしく、検診の時に両親が立ち会うことは少なかった。
いかにも病院の匂いに病院の設備ですという部屋で注射をされるのも、運動場で『じんそくつう』の限界値を色々と図るのも、その歳でとっくに慣らされていたから何を思うでもなかったけれど、一つだけはっきり他と区別して覚えていた遣り取りがある。
身体を診る検査が一通り終わると、一人ずつジュースを飲ませてもらえる。
正確に言うと、飲み物やお菓子をごちそうになりながら生活の報告をすることになっていて、その部屋には同伴者の立ち合いができないことになっている。
(そういえば、その頃はまだ『カラスには毒だから』という理由でチョコレートが食べさせてもらえなかった)
心配顔の兄たちに行ってきまーすと疲れていないところをアピールして、まだ読めない漢字で書かれたネームプレートの女医さんに案内されて、落ち着く香りのする個室で色々な質問を受けた。
『じんそくつう』を使いすぎた日に、疲れることはないか。
背中のあたりがむずむずしたりすることはないか。
好き嫌いではなく『予感』で食べたくないと感じる食べ物はないかどうか。
颯自身のことをしばらく聞いた後、女医さんはやがて、『悪く思って聞いているわけじゃないからね』というような前置きを何度もして、違う質問をした。
『■■■■ことができるお兄ちゃんや、■■が分かっちゃうお兄ちゃんと一緒にいて、嫌だなぁって思ったことはない?』
まだ、自分たちが『人間でも妖怪でもない』ことさえ分かりきっていなかった。
だが、こういう質問が出てくる場合もあるから、兄たちと違う場所に呼ばれたことは理解できた。
この建物にいる大人たちの中に、よく見れば兄たちを見て身構えたり、怯えたように目をそらしたりする人がいる理由もそこにあるのかと、察知することはできた。
この返答しだいでは、兄たちと引き離されることもあるのだろうかと、悪い想像をするだけのこざかしさもあった。
たとえお医者さんに悪意が無かろうとも、子どもが気を悪くするにはそれで十分だった。
大きな声で、防音の壁など知った事かとばかりに答えた。
「にいたちに、ぼくといるときは、いやな思いしなくていいって伝わるから、うれしい!!」
その日は、それ以上の質問はなかった。
その部屋から出たら、大きい方の兄にいきなりだっこされて、小さい方の兄からいっぱい頭をなでられた。
2人のためなら、何だってできる。
何をすることになるのかも知らなかったくせに、そう思っていた。
「髪、短くしたせいかなぁ……」
昨日までは後ろ髪があった場所で手をすかすかと空振りさせながら、スマホを前にして笑顔を作った。
長兄に散髪を報告するための撮影だから、『かっこいいだろー』という顔をしていたい。
次兄によってきれいに揃えてもらった長さは、顔を洗って髪をとかした頃にはもう寝癖も残らず、すっとうなじのあたりで制服のワイシャツにも届いていない。
ここまで短くしていたのはいつだったっけと思い返したせいで、ゆうべは昔のことを思い出す夢になったに違いない。
――2人が泣いたところを、あの日、初めて見た。
『包帯巻いてあるけどもうそんなに痛くないから、心配しないで』
散髪の報告だから、伏せるべきSNSの鍵垢ではなく、LINEでメッセージを伝える。
『嵐兄も、仕事がんばってね』
そこで送信を押そうとして、指がとまった。
『楓兄も言ってたけど、なんで雛代先輩なの?』
それは表のLINEに書くべきことではないけど、躊躇った理由はそれではない。
もしもそう聴いたら、心配させるだろうか。
それとも、さらりとはぐらかされるだろうか。
――新聞部の面々とは仲良くしておけよ。特におもしろいと噂の人体模型の少女とはな
確かに雛代千依の能力はとんでもない。
だが、彼女ひとりを特別に指名する理由を教えてはくれなかった。
帰り道の時点ではまだ光圓寺満衣の正体について報告していなかったとはいえ、強大さと悪用の可能性についてなら、野波流根子も似たようなものであるはず。
おかしいところはもう一つある。
雛代千依について関心を持つなら、明らかに指示すべき言葉が抜けていた。
『仲良くしておけ』だけでなく『身元を聞き出せるなら聞き出しておけ』という言葉がなかった。
おかしい。ことは、明日から話せなくなっても去るもの追わずというSNSの付き合いではない。
いや、自主性の高い部活動ならそれでいいのだけど、颯は部活動を楽しむためだけにそこにいるわけではない。
長期入院するだけの疾患を抱えているらしい人と仲良くなるのに、どうしてその病院がどこにあるという話が未だに出てこない。
だから、あくまで想像になるけれど。
雛代千依には、身元を調べる必要などない。
つまり、『入院しているほうの雛代千依』の居所は正しく把握されており、その上で何か問題があり、2人はそれを知っている。
2人のことは疑いたくないけれど、2人が颯に甘いということも、2人がプロ(嘘つき)だということも、よく知っていた。
なのにどうして次兄の聖杯をささげた相手がアレなのかは本当に謎だ。
自分はともかく相手は嘘をついてこないから良いのか。それとも犬属性で愛情が重たい子に性癖でもあるのか。『好き!(挨拶)』が好きなのか。
ともかく。
何か危ない話があったとして、それを包み隠さず教えてもらえるかというと正直なところ、怪しい。
「まだ、遠いよなぁ……」
『情報で負けていては何をやっても勝てない』というのが二人から教わったことの一つだ。
そして颯は、その情報を貰える場所にいない。
たとえ出し抜きあいをしたとしても、あの二人が相手なら100対0で負けるだろう。
これはもう、諦める諦めないを通り越して、最初から負ける勝負をするつもりはあるかどうかというレベル差だと14年の人生で結論を出している。
そうなると、秘密を知るには雛代千依本人に『どこに入院しているんだ』と聞いてみるしかないが……どうにも彼女自身には、微妙に探られたくないところがある風でもあって。『秘密を守り合う』のが新聞部の了解である以上、踏み込むのもハードルが高い。
そもそも、さっきの想像が当たっていたとして、その上で兄たちから『仲良くした方がいい』と言われたからには『仲良く距離を縮めたところでたどり着かれることはないだろうけど』という予断を持たれていることになる。
かといって『新聞部員と接近する』という一番手っ取り早そうな『自分にできること』を無視することはできない。
つまり、兄たちの考えに裏があったとしても、無かったとしても、今の颯には『新聞部の皆ともっと仲良くなる』以外の選択肢はない。
そして、それも2人には織り込み済みであり……。
「考えすぎだと、いいんだけどなー」
椅子に掛けられっぱなしだった焦げつきの学ランを羽織るかどうかでしばらく悩み、臭いはごまかせないしもうすぐ夏だし着ていかなくていいやと収納扉を開ける。
ところが。
クローゼットの中には、新品の制服が一式吊られていた。
昨晩、救急箱の在庫などを確認する為に開けたときにこれは無かった。
つまり、昨日の日中にどこからか調達され、颯が就寝した後にこっそり吊るされたことになる。
「嵐、兄……」
自分でもどういう感情なのかよく分からない、力の抜けた声が出た。
うん、知ってた。
予想すべきだった。
というか、手に持っている古い制服よりやや大きいようにも見えるのだが、身長が伸びたことまで考慮されているのか。
これは『制服ありがとう』と追伸を出さなければならなくなった。
そうだった。
2人は颯に甘い。
これは大前提だった。
だから、これから大きな良いことや悪いことが起こるなら『備えておけ』なり『気を引き締めておけ』なりの一言がある。
それがないということは、少なくとも颯の目に見える範囲ではしばらく安全であるはずで。
だとしたら『仲良くしておけ』には『しばらくは楽しんでおけ』という意味もあるのか。
「見えないところで何か起こってる、とかじゃないといいなー」
6月の蒸し暑さを思えばどうせ上着など日中に脱いでしまうことは分かり切っていたけど、買ってもらったモノに袖を通さないのは『違う』と感じることだった。
新しい制服のボタンをとめ、追伸を送って、代り映えのない自室をぐるっと見回す。
内装の家具や音楽機器にそれなりに金がかかるものが置いてあったり、本棚の漫画が兄たちのおさがりのおかげで充実していたりする以外は、普通の子ども部屋だと思う。というか、普通なら子ども部屋に無いようなモノは目につくところには置いていない。
山神と言っていいだけの格を持った烏天狗の遺伝子が子どもたちに継がれることを、ありがたいことだと考える感覚の親でも、さすがに『不便と不自由を強いている』という負い目はあるらしく、幼い頃から買ってもらうものに出費を惜しまれたことはない。
いつもどおりの、登校時間の光景だった。
よし、と切り替えの声を出す。
学校にいる間は『最近始まった部活動の集まりが楽しみで仕方がない中学生』という顔でいる。
それが、嘘ではないようにする。
「入部してしばらくたつし縮めて『るね先輩』とか『ちより先輩』って呼んでみようかな……」
いいことを閃いた、という気分になる。
でも、その裏側には『誰かにこの関係を利用されるかもしれないと分かっていながら付き合っている』という打算があり、つまり言い訳しようもなく加害者の側にいるという自覚もある。
それは忘れてはいけないことだったけれど、表に出してもいけないことだった。
漫画に出てくる正義のヒーローに憧れていた子ども時代も、なかったわけじゃない。
でも、正義よりも味方したい人達がいて、その為ならなんだってできるという誓いは今も心にある。
「つよーくー、なれーるー……」
鼻歌にかすかに発音を乗せたぐらいの声でアニソンをくちずさみ、送りたてのLINEがすぐに既読になったことを確認。
返信が来るだろうけど学校で見ようと、学園指定のカバンにスマホをしまう。
カバンの内ポケットには、食後の免疫抑制剤がちゃんと入っていることも確認。
棚元部長という『学校じゅうを見渡せる目』がいることが発覚したおかげで、こっそり薬を飲む時は男子トイレの個室にでも行かなければならないのが最近の不便ごとだ。
これまでは、他の生徒がいない場所ならどこでも良かったのに。
『消せない夢もー止まれない今もー』と、歌のサビを楽しみながら階段を降りて、いつもの登校時間に、リビングに顔を出していつもの挨拶のために歌を中断。
両親も嵐も朝は早いことが多いのだが、大学生の楓だけは見送れる時間帯にそこにいてくれた。
「それじゃ、楓兄、いってきまーす!!」
2人にも事情があると理解し始めたあの日から、声を張り上げるようになった。
心だの未来だのが読めるかどうかなんて関係なく、こんな声が出せるぐらい元気だから、心配しなくていいと伝わるように。
最終更新:2019年09月10日 20:06